体験的リカレント論
若者文化研究所 西村美東士

*脚注等の参照が便利な本稿のWEB版を公開中です。(http://mito3.jp)

1. 出会いと学び
2. 青年の家での出会い
3. 指導者育成での出会い
4. 大学教員としての出会い
5. 若者との出会い


出会いと学び
 人と出会った。仕事と出会った。自分自身は、そういう幸運な出会いの中で生きてきた。私は仕事を始めて40年以上になる。その中で、「学び」が必ず影のようについてきた。この40年のあいだの「出会い」と「学び」の歴史が自分をつくってきたのだと思う。
 事件は「現場」で起こっている。理屈が通らない現場だが、事実はそこにある。ときどきの課題はそこに待ち構えていた。その事実の揺さぶりに自分なりに応じながらも、それに負けずに自立できるかが試された。現場は動いている。自分の立ち位置が見えなくなりそうになり、理論もへったくれもない世界に放り込まれる。「良いの悪いの」など、みんな事実の波に飲み込まれてしまう。たえず、若者が、人々が、複数でやってきて、その中に自分の体が埋め込まれていた。学生のときの主観中心の視点からは奇異な感じさえした。学生時代に得た社会教育の土台などはほとんど埋もれ去ってしまった。その上で、あらためて自分の立ち位置を確認したり、土台を固め直したりする作業が必要になった。そこでは、どんな出会いがきっかけになったのか。そして、その出会いに、どんな学びが伴っていたのか。本稿で振り返ることとする。
 
青年の家での出会い
 私は学生時代に玉里村という場所で社会教育実習を受けた。宿泊させていただいた村の社会教育主事は、村じゅうを軽自動車で周る。私は助手席に便乗させてもらった。田畑で仕事をしている若者や大人たちが、至るところで主事さんに声をかけ、夜の会合や飲み会に誘ってくる。主事さんの愛され方、頼もしさ、そして、大人同士の水平異質交流の飲み会。こんなに楽しい仕事があるのかと驚いた。
 このようなことから、私は学生時代に社会教育専門職として働きたいという思いを固めていた。大学では社会教育専攻であったが、1学年15人程度で7年前から私に至るまで、社会教育現場を希望する卒業生はいなかった。周りからは、出世の見通しのない社会教育現場を希望するなんて珍しいと言われたが、私としてはこんなにいい仕事はほかにないと思い込んでいた。
 社教主事になりたい、世の中で一番いい仕事だという夢や思い込みについて、それはそれで良いと今でも思っている。もちろん、今となっては、民間企業など、ほかの職場も、そこで働く人にとっては、それぞれに大きな意味があると思うようになったが。
 しかし、就職は厳しかった。ほとんどの社教主事は教員から採用されていたので、新卒者にとっては、非常に狭き門であった。しかも、私は、若者に向けて直接的支援の仕事をしたかった。なおかつ、都市部の若者に対して、玉里村の農業青年のような楽しい活動を広めたかった。私は、今でも、区市町村の、かつ社会教育施設の専門職としての社教主事が、社会教育の本命と考えている。しかし、その採用は狭き門であった。
 私は、卒業時、唯一行われた特別区の青年館の社会教育主事採用となった。就職浪人となり、1年間を国家公務員の初任給が保障される労働省系の勤労青少年指導者大学講座1期生として過ごした。今はなきこの大学講座が、タイミング良くその年に始まったことは、私にとって幸運だった。
 そこにも素晴らしい出会いがあった。意外にも若者に対する思い入れのある労働省の講師がいて共鳴したりした。研究者の講師が、大学時代に学んだ社会教育とはひと味違ったワークをしてくれて楽しかった。その中でも、今までとひときわ異なる世界を見せてくれたのは、大学が違う15人の受講生仲間であった。横浜市青少年協会に就職し、委託先の青年の家や青少年センターなどに勤めた同期生とは、今でもときどき連絡を取っている。彼は、採用面接の際、「大学講座修了後、(勤労青少年ホームなどの)職員としての採用は厳しいがどうするか」という面接官の問いに対して、「ラーメン屋の屋台を引っ張っても、ユースワークはできる」と答えていた。素晴らしいと思った。
 就職浪人1年を経て、私は東京都青年の家に採用された。そこでは、若干、不本意な思いがあった。なぜなら、私にとって社会教育の最も魅力的な現場は、直接若者たちと接する区市町村の現場だと思い込んでいたからだ。だが、どうにかなるものだ。当時は「サ連」、すなわちサークル連絡協議会の活動が盛んになったころだった。そのリーダーたちとたびたび「直接」接することができて、私が求めていた出会いを味わうことができた。
 先輩の元教員の社教主事からも多くのことを学んだ。その人たちの高い志に、感銘を受けることもあったが、他方で、学校現場での教師としての過去の自己像と比べて、青年の家は宿屋の番頭ではないかというやるせない気持ちを抱いている先輩たちも多かった。
 その頃、私がサ連の大会に向けて書いたアピールが「片思い論」である。これは、交際しないまま片思いをしていても、いつか相手を忘れ去ってしまうように、職員も若者との相互関与のないままでは、最初の情熱は消えていってしまう、広域行政の職員に対しても、ぜひ関心を持ってつきあってもらいたいと訴えたものだ。若者や区市の若手職員から、共感して読んでもらえたと思う。
 各青年の家の新卒社教主事5人は、「ひよこ会」という勉強会を作り、「私はどんな思いで、今の仕事をしているか」など、一人一人の気持ちを深く語り合った。私は、仕事の上での初めての仲間を得たと感じた。また、先輩たちが作り上げてきた「青年の家研究紀要」の発行等の試みも、良い研鑽の機会になった。だが、研究紀要も、青年の家の存在そのものも、その後の社会教育に対する嵐の中で消えていってしまう運命にあった。社会教育の仕事をしていると、このようなやるせないことがたくさん出てくる。それでも、直接若者と接したいという就職時の気持ちだけは失うことはなかった。
 私は学生時代、ディスコに通っていた。その経験に基づき、日本の社会教育施設では初めて、ディスコを取り上げ、ディスコフェスティバルを行った。そこでの「実行委員会」も、若者と直接接する機会を私に与えてくれた。それは想像だにしなかった価値ある機会であった。当時のヤンキー風の「ディスコボーイ」が、実行委員の若者たちに誘われて入ってきて3年目、みんなが体育館の壁に戻ってしまう難しいABBAの曲で、マイクを持ってステップ指導してくれた。1年目は、自分たちだけで、さっそうと踊っていたのに。このようにヤンキーたちが社会教育の世界で共振してくれたという体験は私を大いに勇気づけた。
 私は4年目に武蔵野青年の家に異動になった。切れ者の女性所長に会ったとき、「西村さん、ここでは何をするの」と聞かれ、「ディスコをやります」と言ったら、所長は「ディスコはもうやめなさい。これからは情報の時代だから、情報をやってみなさい」と言われた。私は、当時、社会教育界ではただ一人、パソコンやパソコン通信にはまっている人間だった。それでも、情報をテーマとした事業の有効性については半信半疑だった。しかし、当時の所長は、青年の家にとってではなく、私自身のリカレントにとっての効果を考えてくれたのではないかと思う。この女性所長の指示は、私のその後の仕事内容に大きな影響を与えた。
 武蔵野青年の家では、情報講座を開いた。都立江東図書館の司書からヤングアダルトサービスの考え方を学び、押し付けではない教育の実際のあり方を感じ取った。その司書はチラシを自転車に積んで、近隣の中学、高校をまわるという活動を重ねていた。ヤングすなわち「まだ若い」けれど、アダルトすなわち「もう大人」の知的権利主体として、中学生・高校生をとらえる姿勢に、強く共感を覚えた。何かを教えようとするのではなく、彼らの求めるオートバイの本やラブロマンスなどの「他愛ない」小説を書架に揃える。そこに没頭して、自己の内的世界を豊かにしていく。このようなサービスの姿勢は、今思うと、最近考えている「第3の支援」にもつながるものだった。
 情報講座で蓄積した思いをまとめ、全国社会教育委員連合会の懸賞論文に投稿し、最優秀賞を獲得した。「社会教育施設に『関係』のあふれた情報提供機能を」という、思えば初心からの一貫したテーマであった。賞金でワープロを買って原稿書きを省力化したかったのだが、同時に、これがのちに、国の社会教育関係者の関心を引くことになった。
 
指導者育成での出会い
 6年間の青年の家勤めののち、3年間、東京都社会教育主事室において研修担当を受け持った。ここでは、特別区の社教主事、社教指導員。青少年委員などと相談しながら、研修事業を展開した。また、区のそうそうたる女性ベテラン社教主事で構成される婦人教育部会の担当となり、大いにかわいがってもらったり、批判を受けたりした。区内の女性の生き方を直接受け止めている彼女たちからは、夫との民主的・非民主的関係から、区民との交流の実態にまで関わって、社会教育現場を深くに接することができた。
 当時はまだ社教施設でのとりわけユースワークをしたいという思いは消えていなかったのだが、私に注目してくれていた国立社会教育研修所(国社研)のある専門職員の引きがあった。国の仕事のハードさは知っていたが、「子どもの保育園の迎えのため、定時には帰りたい」と申告したところ、「一人くらいそういう専門職員を泳がしてもいいだろう」ということになったと聞く。最初のうちは、国から市の公民館長に転職するなどの道もあるだろうと考え、とにかく国社研で待機しておこうと気楽に考えていた。
 ところが、国社研は、予想以上に専門性や認識が問われる刺激的な職場であった。専門職員たちは、毎日のように所長室に呼び出され、研修計画や資料作成のため、国の社会教育政策の課題に関わる意見を求められた。呼び出した所長自身はキャリア官僚出身で専門職ではないのにもかかわらず、赴任してすぐに社会教育の本質的構造を理解し、われわれ専門職に最先端の課題を的確に投げかけた。ときには批判されることも多かったが、その批判はそう簡単に反論することができないほど鋭かった。このようにして国社研で、所長や専門職集団から、私の認識が鍛えられた。
 もう一つの成果は、毎日、昼休みに行われた職員同士のバレーボールである。そこでの一番の収穫は、おこがましい言い方になるが、「体育会系の人々の中にも、いい人がいる」ということを知ったことだ。私は小学生時代に体育が苦手で、私のせいでキックベースボールが負けると、体育系の子どもから遊び型の暴行を受けていた。そういうことから、私は、体育が強い人は喧嘩が強い人で非民主的な人という先入観と嫌悪感にこり固まっていた。だが、すでに青年の家では楽しい生涯スポーツを味わっており、そして国社研で勝ちに走るバレーボール競技の面白さを知った。
 ある同僚が、過去に青年の家に勤めていて、青少年にのびのびした自由を与えて成長させたいという思いをもっていた。彼はれっきとした体育会系の人間だった。その彼が私のバレーボールの下手さ加減に呆れながらも、コートで教えてくれた。球がはじかれてとんでもない後ろの方に飛んでいったときに、後衛が走って追いつこうとする。私は最初のうちはそれをぼうっと見ていたのだが、彼は「みとし、走れ」と言う。ボールを受けようと走っている仲間の中継をするのだ。これが、一番印象に残っていることで、私の苦手だったチームワークというものが楽しいことだということを、体育会系の彼のおかげで感じることができた。
 国社研では講師控え室で、専門職員が担当した研修講師と会食する。その機会は貴重なものであった。専門職員の弁当は自腹だが、講師の先生の裏話を聞くことができる。それは親しみを感じるとともに、刺激に溢れた時間であった。「乞食と編集者は一回やったらやめられない」という言葉を聞いたことがある。それに似た効果があったのだと思う。その後、世の中では官官接待などが問題となって、外部講師と職員が会食をすることを各地で自粛するようになってしまった。この自粛は、職員のせっかくの学びの機会を奪う本末転倒な自殺行為だと思う。
 そして、なんといっても全国の社会教育職員や教員の受講者との夜の飲み会や論文指導等の中で、得るものが多かった。しかし、同時に、打ちひしがれることもあった。例えば、教員の人たちが、「社会教育は無力だ。義務教育ではないから、問題を起こす親に対して教育ができない」と言ったり、職員が、「うちのまちの住民は意識が低いから、良い事業はできない」と言ったりする。自主性を重んじる社会教育の本道を追求し、広めていくには、まだまだ内側からも課題が多いと感じられた。それでも、社会教育の可能性を彼らが見出したとき、現場に戻ったらこうしよう、ああしようと、居酒屋で夢を持って語るのを聞いたとき、やはり社会教育の現場はいいなあと思うことができた。
 
大学教員としての出会い
 私の大学教員としての最初の現場は、昭和音楽大学である。その大学に私を引っ張ってくださった人に、私は、最初、「公民館長をやりたいから」と言って断ろうとした。当時は、私は、国社研から、どこかの公民館長になって、フリースペースで毎晩パーティーをやりたいと考えていたのだ。そうしたらその人は、大学教員になれば、公民館長は非常勤でもできると言った。そうかなあと思いながらも、とりあえず大学教員の道に進んだ。
 私は自分自身が過去に受けた大学授業を思い返した。1時間半、知識をしゃべり通しで15回。私は知識をそんなにたくさん持っていない。藁をもつかむ気持ちで出会った図書が『大学教授法入門』(ロンドン大学)である。そこでは、従来の知識一斉集団承り型の授業では効果が薄いと書かれてあり、学習者側の思いや発言をもとに双方向でやりとりして深めていくという社会教育で行われる方法論が良しとされていた。私はこれに力を得て、社会教育を学ぼうとする音楽学生と深い交流ができたのだ。また、ピアノの試験が近づくと、授業中みんな気もそぞろなので、急遽ピアノを弾きあう会を行った。すると、小学校より前にピアノを習っていないと合格しないといわれるピアノ科の学生に対して、高校あたりから初めて音大を目指した声楽科の学生たちのほうが、その気になって演出も交えて弾くので、ピアノが上手に聞こえることに気がついた。このような「自己表現欲求の解放」というテーマは、青少年教育の課題だと思っていたが、音楽教育にも共通した課題であることに気づいた。
 また、双方向教育の手段として、「出席ペーパー」というシステムを考えて実行した。これは授業のテーマに関わっても関わらなくても良いから、授業中感じたことを何でも書いていい、それが授業に出席することだというメッセージを込めて行ったものである。教職課程の学生からは、社会教育や私自身の発言に対する反発も多く含まれていた。これを次の週、ディスクジョッキータイムと称して、読み上げ、評価したり、コメントしたり、反論したり、揺さぶったりというライブ感覚の授業を行った。当時の私の授業に関する取材では、「学生と格闘する大学教師」という評価がなされた。ディスクジョッキーを楽しみにする学生も増えてきた。
 出席ペーパーを読み続けていく中で、私は「個の深み」というキーワードを作り出した。出席ペーパーは、ものの見方、考え方、さらには個人の生き方にまで関わって記述される。そのため、思いの丈を込めて書かれたペーパーは、文章表現技術を超えて、それぞれに深い価値を感じた。この気づきは、後の個人化と社会化の統合的支援という考え方につながっている。そして、出席ペーパーシステムの中で、我が意を得たりという感覚と、自由に泳ぎ回れるという喜びを持つことができた。
 大学教員という仕事の中で私は壮年期を迎えていた。そこでは、社会貢献活動の一環として、あらためて研究者としての行政との関わりが多数あった。昭和音楽大学では、神奈川県内の関連行政との関わり今日まで続く佐野市の生涯学習推進における政策決定過程や市民参画との関わりがあった徳島大学では、徳島の若者たちのまちづくり活動や、社会教育行政主導による市民の学習活動に関わってきた。母親対象の大学公開講座のワークショップでは、地域の古い考え方の中で生きる彼女たちの気持ちや生き方に共鳴した。子どもや夫の服を買いに行くときには何も言われないが、自分の服を買いに行くとなると、周りから冷ややかに見られるので、気軽には行けないという話にびっくりした。その中でも、人々は、学び合いや支え合いを通して、希望を持って、明るく生きようとしている。聖徳大学では、豊島区豊島区や柏市などの市民、行政と深く関わった。
 行政との付き合いの中では、優れた行政職員の意欲や高い意識に感心したりもしたが、逆に行政のいやらしさやふがいなさを感じたりもしてきた。生涯学習推進行政に関わるなかで、どのようにしたら現実の場面に研究者として貢献できるのか。あの手この手で、右往左往しながら、お付き合いしてきた。学生時代の座学では到底想像がつかなかったことだ。良いも悪いもすべて飲み込まれて物事が進んでいく。思えば、その中で得たことこそがリカレントの学びなのではないか。そして、たまたまこれを整理したものが、私にとっての論文だったのではないか。
 現場は動いている。現場にはいろいろな情報がある。これをどうやって吸収し、どうやって拡散し、どうやって収斂させるか。ここに学びの源泉があり、私がもっぱら進めてきた実践研究、授業研究の源泉があったと考える。
 研究者としては、もう一つ、他の研究者との出会いが重要であった。学会に入り、最初は驚きであったが、原稿料が出ない原稿を書き、督促もしてくれない原稿を提出する。ある期間、そこに没頭して論文を書き上げる。このような研究の作業は、ある意味では味わい深いものであった。
 学生の論文指導においても、彼らは最初はつまらないものと思い込んでいる。その学生に対して、彼の内なる仮説をインタビューで引き出し、彼の答えを使って図解にしてやり、文章化にまで到達させた時、本人にしか書けない論文を実現するという研究の喜びを、学生と共に味わうことができた。学生の一人一人に関心事を深掘りしてみると、一人一人に必ず素晴らしい研究仮説が存在するということが確認できた。すなわちこれが「個の深み」なのだと思った。「ここの学生は偏差値が低いから」などというレッテル張りは全く当たらないということを強調しておきたい。
 
5. 若者との出会い
 大学教員をしている間でも、学生以外の若者とも貴重な出会いがあった。狛江市青年教室(狛プー)の年間講師として、社会に乗れない若者たち、社会から距離を置かざるを得ない若者たちと出会ってきた。しかし、キャンプでバンガローに泊まった時、そういう彼らが朝早く起きて、薪に火をつけて朝食の準備をしている。そして、なんと、布団を返す前に陽に干している若者もいる。私はそれを見て感心し、他のメンバーに伝えるだけだったが、講師の役割としてはそれでよかったのだろうと思う。
 大学を定年退職して、昨年1年間、板橋区大原生涯学習センターの指導員として、中高生の居場所のユースワークに関わった。そこには、青年の家時代の素晴らしい若者と同じ魅力を若者に感じることもあった。だが、過去にはなかった大きな問題も感じた。青年の家時代には、ある正解があって、そのエリア内にある程度彼らが収まっていればそれで良しと考えることができた。しかし、現在の多くの若者は、悩み、さまよい、漂流している。それをうまくすり抜けることができない多くの若者と接した。そして、今は、次のように感じている。この時代、ある世界の正解のエリア内に彼らを押し込めようとすること自体がおかしいのではないか。落ちこぼれという言葉は、彼らに対して失礼であろう。学校が彼らに合わせられなかっただけの話ではないか。今後は、もがき苦しみ、主張する若者を、対社会的に受け入れられる形にしていくことが必要だ。それが、私にできる精一杯のことであろう。それ以上の事は困難が多い。
 昔ながらの親子の愛着形成に、問題解決の希望を託そうとする議論も多いようだ。しかし、私の板橋の体験からは、感覚的には親が障害になっており、われわれは青少年を親の手から守ってやることさえ必要なときも多いと考えている。社会が親から子どもを守るということだ。
 私は若者文化研究所を立ち上げた。1年1年の時間がだんだんと貴重なものになってくる。幸いにもエネルギーが残っていることを喜ばしく感じている。新たな時間が私に始まったのだと思う。今までは、人との関わりの中で職場を決めてきた。けれども、研究所では、自分自身のアイディアや持ち味で仕事を作り出すことになる。初めて自律的に仕事を作る決意ができた。高齢期を迎えるに当たって、新たな出会いと学びの機会を与えてもらったのだと感じる。私のこれまでのリカレントは、今の私に好影響を与えていると思う。なぜならこの40年以上のリカレントで得たすべての出会いと学びが、今に役立っているからだ。これまでのどの時代を見ても、どの経験を見ても、今の若者文化研究所につながらないものはないという幸せな気分を味わっている。私はさらに出会いから学んでいくことになるだろう。多くの出会いが待ち受けていることを期待している。
 最後に、地域での暮らしと仕事に根付く社会教育という視点から。どうリカレントで学ぶかということを考えておきたい。自分にとっての現場は、世界で唯一の現場である。ワークショップに走る前に、フィールドワークの意義を確認しておきたい。世界で唯一の暮らしと仕事の現場において、その人は世界で唯一の問題意識を持ち、仮説を持つ。その仮説設定と検証の繰り返しが、リカレントの学びといえるのではないか。学び直しとは、単なる回帰ではなく、より発展した新しい次元での新しい学びというべきであろう。暮らしと仕事のニーズに応える社会教育の新しい内容が求められていると考える。
 エセインテリは、「知っていることを知らないと言い、知らないことを知っていると言う」という言葉を聞いたことがある。その逆に、「知っていることを知っていると言って人に教え、知らないことを知らないと言って人から教わる」ことによって、学びを深めていきたい。このようにして、これからも、仕事と暮らしのなかでたまたま居合わせた人たちと学び合い、支え合って、残りの貴重な時間を過ごしていきたい。