支持的風土の仲間づくりに必要な能力(タイトル付きは教師の介入) |
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いじめをしない集団風土 |
現在、いじめ問題が世間で議論されています。この時期、デヴィ夫人が、犯人の少年を敵視して、大衆の支持を巻き込んでいます。君たちは、学問をしているのだから、そのような犯人憎悪ではなく、いじめなど起こらない支持的風土の集団形成について論じてくください。 |
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いじめが格好悪い・ださい・野蛮といった価値観を持った子がいない、またそういった考えの育成がされていないことの方が重要であり深刻だ。これは家庭教育と社会教育が意味をなしていない、もしくは全くされていないことの表れだと感じます。 |
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たしかにいじめをしている人は価値観が変化しているかもしれないが私はいじめはまさに防衛的風土の関係でまわりと何でも同調しなくてはいけないのでだれもなんににも思わず遊び感覚で始めてしまうとのいではないかと思う。 |
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NO3の書き込みにあるように、いじめを遊び感覚でやってしまっているのではないか。小学校など早い段階から青少年教育や道徳的な授業でいじめについて取り上げて、いけないことだと認識させるべきだと思う。 |
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いじめない理由 |
皆さんは、いけないことだと言われたから、いじめないのか?違うでしょう。いじめたくないから、いじめないのでしょう。いじめたくない理由を考えれば、答えが見えてきます。 |
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どんな理由があろうと、イジメない人はイジメないと思う。寧ろそれが普通。頭が悪かったり、空気が読めなかったり等の自分に合わ無い人だからと言う理由でイジメると言う考えが幼稚。人間には他人の気持ちになって考える事が出来る、知性や理性があるのでイジメをしない人はイジメをまずしない。逆にイジメをする人は脳が発達しきれて無い幼い幼稚な小さい野郎だと思う。 |
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いじめというのは確かにNO.6に書いてあるとおり幼稚なことであると思う。では、なぜやってはいけないと思うか。それは、やられる側はいますぐ傷つく、やった側も後に罪に気づいたそのときに後悔して傷つく最終的にお互いに傷つくだけで何も残らないとわかってるからからいじめたくないのではないかと思います。 |
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距離感 |
傷つきたくない。傷つけたくない。そのためには、距離をとる必要がある。もう一方で、相手と親密につきあいたいという要求がある。これをヤマアラシジレンマと呼ぶことができる。これは現代社会の人間関係に関する人々の悩みの原因である。距離と親密は、二律背反なのか、それとも、これを統合して、いじめなどない、傷つけあわない親密な関係をつくることができるのか。青少年に対して、指導者としてどのような支援をすれば、いじめのない親密な仲間関係を作らせることができるのか検討してください。 |
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人の思いを分かる人になりたい |
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ここでは議論をしてください |
たくさんアイデアを書いていただいた方、ありがとうございました。でも、カードシステムと間違えて、書き込んだ人もいるようです。その部分については、せっかく書いてくれたのに、大変恐縮ですが、削除させていただきました。仲間づくり必要能力の構造化については、授業で、すでに1年生がクドバスチャートのまとめに入っています。その成果は、「問題提起」のところで示してあります。ただし、後期の指導者論で、カードを加えることはあるかもしれません。そのときには、今回書いてくれたカードを再提出してください。ここは、掲示板なので、議論の場です。カードではなく、「問題提起」で示したクドバスチャートに対して意見を書き込んでください。わかりにくくて失礼しました。 |
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いじめなどない、傷つけあわない親密な関係をつくることができないのは、異文化体験が足りないのだと考える。ここでいう異文化は異なる国の文化だけでなく、障がいの有無であったり、異年齢であったり、性別の違いであったりと、自分と異なるものすべてをさしている。もちろん人はみな違う人間であるから誰といても異文化ではあるが、その中でもどうしても自分と似たような人とばかり群れてしまう傾向にある。しかし、幼いころから異文化に触れる機会に恵まれ、人は自分と違って当たり前、違うっておもしろいという価値観を持つ事ができていれば、もし自分と合わない人間や苦手意識を持ってしまう人間が現れたとて、それが当たり前なのだと思い特質して「嫌ったり」「仲間はずれにしたり」「からかったり」などする意味などないと思えるのではないか。当然そこにはリスクも伴い、異文化に出会う中でそれがマイナスに働く恐れもある。そのため、親や指導者の役割は、そこに感動を共有させるような仕掛けをつくったり、マイナスな感情を持ってしまったときのアフターフォローや、互いを認め合う空間づくりであると考える。 |
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出会い |
こういう見識と出会えるとは、興奮しますね。一年生も可愛がってあげてくださいね。(^-^)/出会いによって、個は深まり、つながります。生涯教育はそれを支援する素敵な学問なんです。 |
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相手の幸せそうな顔を思い浮かべれば、その人のために何かできるんじゃないかな。 |
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いじめはちょっとしたゲームやきっかけからなることが多い。いじめの加害者だけが悪いのではなく、周りも悪い。関係ない人でも、いじめだとわかっていれば、加害者になってしまう。 |
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本当の友達 |
自分がある試験に失敗したとき、友達が成功して喜んでいたら、いっしょになって喜ぶことができますか。家族なら、喜べるかもしれませんね。これを喜んであげられる人間関係って、どんな関係なんでしょうか。考えてみましょう。 |
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私は傷つけたくないし、傷つけられたくもない。そんなんじゃ社会教育主事としては失格と言われたけど、普通の人はそれでいいと思う。傷つけられたくないのならその人は付き合わない。小学生の頃は難しいかもしれませんが。私は今までそのように生きてきました。傷つけられる人といて何が楽しいのかわかりません。 |
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本当に喜び合える友達はお互いのことをお互いが理解している人のことを言うと思う。それは時も関係していて、半年や1年ぐらいの関係では心の底から本当に喜んであげられないんじゃないかな。 |
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でも実際自分の方が頑張ったとか悔しい何で私じゃないのって思ってもいいと思う。本当の友達だったらそんなこと思えていい。人間だからそんなの当たり前で普通のことだから。でもそこで自分の頑張りが足りなかったと自分のことを受け入れると同時に頑張ってたもんねと相手のことを受け入れてあげることが本当の友達だと思う。そうやって受け入れたいって自分が思える人か思えない人かにもよって友達になる。 |
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自分が試験に落ち、友達が合格した場合、私は素直に喜べない。しかし、そのことを友達に伝えたこともないし、不仲になったこともない。悔しい気持ちは一時期な気持ちなので、ある程度の友達であればまた普段通りの人間関係として生活できるのではないか。 |
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自分は落ちたが友達が受かったとき、その友達は本当の信頼関係がなければ自分の前で決して喜べないと思う。自分を認めてくれて、自分も友達を認めているという信頼があるからこそ、この友達は自分の前で喜んで報告できるのではないだろうか。もちろん自分は悔しいだろうが、相手もそれを理解したうえで報告するのである。私はおめでとう、でも悔しい!と素直に言ってもいいと思う。こうやって受け入れて受け入れてもらうプロセスを経てより強い関係ができていくと信じたい。 |
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私も素直には喜べません。必死に笑顔だけは作っても本心は絶対に笑えません。でもそれでいいと思います。必死に笑顔を作っている相手こそ、きっと自分が大切にしていきたい友達だと思し、本当に友達だったら後々笑い話になると思うからです。 |
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私は素直に一緒に喜びます。後々悔しいなとは思ったりはしたりすると思いますが、一緒に喜んでいる瞬間は悔しい思いなどはなく単純に一緒に喜びたいです。 |
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遅れてしまい申し訳ありません。私は一緒に喜びます。ただ、結果が分かってすぐには出来ません。時間が経ってから「合格おめでとう」の言葉をかけたいと思います。どんなに自分は辛くても、相手にその表情は絶対見せません。一生懸命努力して実った結果からの門出をお祝いしたい気持ちはありますから。 |
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自分が試験に落ちて友達が受かったとき、一緒に喜ぶと思う。心の中では悔しいと思うが、それをバネにして自分も頑張ろうという気持ちが出てくる。 |
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私は喜ぶ事ができません。ひがむし、嘆くし、八つ当たりするでしょ。そして後日、盛大に祝うでしょう。ここまで出来る関係はソウルメイトという関係性だと思う。 |