「生涯学習 か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−」  1991年4月25日 第1版 <目次> 第1部  「個の深み」への注目、そして、支援   はじめに −「個の深み」とは何か− 1 社会教育における組織と個人  (1) 「組織的教育活動」の従来の解釈  (2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ  (3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育     −個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ− 2 講義型学習と社会教育、高等教育  (1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰  (2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育  (3) 講義からの「逃避」に隠された弱点     −多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ− 3 「個の深み」を支援する講義技術  (1) 「個の深み」を支援する講義技術  (2) 反応・発展の個別化を促進する方法  (3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際  (4) 「個の深み」を考える     −まとめと問題の所在− 視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点      −西武ロフトがとらえた若者たち− 視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業      −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE− 視点3 「個人」がいきいきするしかけ      −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座− 視点4 「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態 第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして 1 現代都市青年と情報  −ヤングアダルト情報サービスの提唱−    はじめに  (1) 青年と情報環境    (1) −1 現代都市青年の情報化不適応   (1) −2 青年をとりまく情報の特質   (1) −3 情報の限界   (1) −4 情報能力と情報必要(ニーズ)をめざして  (2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱−   (2) −1 情報の提供にともなう操作性   (2) −2 青年の要求にこたえるヤングアダルト情報サービス  (3) ヤングアダルトのための情報    (3) −1 提供する情報の基本的性格   (3) −2 青年が要求する情報と、青年に必要な情報   (3) −3 人間の情報   (3) −4 生活の情報   (3) −5 連帯の情報   (3) −6 地域情報と行政情報  (4) 青年とともに育つ情報サービス   (4) −1 「ともに育つ」情報提供   (4) −2 ネットワークとインフォメーションリーダー   (4) −3 パソコン通信の活用   (4) −4 情報ユースワーカーの役割   (4) −5 情報サービスと「教育的役割」   (4) −6 情報と知的生産 2 パソコン・パソコン通信と青年  −成熟したネットワークとは何か−  (1) パソコンの急速な普及と未成熟性   (1) −1 青少年から始まったパソコン   (1) −2 パソコンの機能と新しい文化   (1) −3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化  (2) ネットワークを体現するパソコン通信   (2) −1 新しいコミュニケーション環境   (2) −2 スタンド・アローンがネットワークする  (3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」   (3) −1 ROMの存在   (3) −2 新しい「知」の誕生   (3) −3 新しい「集団」の形成 3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか  (1) 「在来型の生涯学習」を支援する  (2) 「新型の生涯学習」とは何か  (3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ  (4) コミュニケーション型学習  (5) ネットワークによる知的生産 視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク      −AV−PUBのサロンで「私的」交流− 視点2 学習情報提供事業の企画と展開      −人間が学習情報を求めている− 視点3 学習情報提供の実際 第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために 1 子どもたちの団体活動  −そこに秘められている大いなる教育力−  (1) 教育とは子どもがワクワクする営み  (2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動  (3) 少年団体活動には教育力があふれている   (3) −1 体験のもつ教育力   (3) −2 参画のもつ教育力   (3) −3 地域活動のもつ教育力   (3) −4 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力  (4) 子どもにだって「個の深み」がある 2 地方自治体における学習プログラム作成の視点  (1) 知と健康のネットワークを支援するシステム   (1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義   (1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ   (1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起  (2) 年間事業計画の作成   (2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる   (2) −2 学習要求をとらえる   (2) −3 「公的課題」の優先   (2) −4 学習課題を整理する  (3) 個別事業計画   (3) −1 「学習ニーズ」の優先   (3) −2 参加対象をどう設定するか   (3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する  (4) 学習プログラム作成上の今後の課題 視点1 あたたかいディスコダンス 視点2 レクリエーション的な要求への対応 視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方 視点4 グループリーダーの新しい形 視点5 リーダー研修に望まれる内容 視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ      −東京都足立区の生涯学習推進構想− 第1部 「個の深み」への注目、そして、支援 はじめに −「個の深み」とは何か−  「個の深み」という言葉は、青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」1)の中で提起された。私もその委員会のメンバーとして起草に携わった。そして、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するために、委員会は「個の深み」の概念を打ち出したのである。  そこでは、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した。1)このような確かな「個の深み」ともいうべきものが、これからの社会の中で育つ可能性があるとするならば、その獲得を尊重・助長するための社会教育技術(ここでは講義技術)のあり方について考察することは意義深いと考えられる。  山崎正和は、「柔らかい個人主義の誕生」という本で、「個別化」について次のように述べている。  「個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである」。2)  もちろん、これは個別化のある一面であって(上では「趣味の形成」の場合)、現代社会において「個別化」の本質とは、じつは「画一化」であったりする。オーダーメイドと思っていた商品が、全部同じコンピュータのデータから作られていることもあるだろう。あるいは、その「画一化」にまきこまれることを拒否しようとして、威勢はよいけれども、じつはうわべだけの、空しい自己顕示をする者もいる。それらは、現代社会の個の弱さの表れでもある。  山崎自身が同じ本の中で、たとえば現代人の「自己顕示」を「自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現である」ととらえている。このように、今日の「個別化」の状況は、必ずしもすべてが望ましい状況とはいえない。「個の自覚」はむしろ脆弱化する状況も見受けられるのである。  しかし、前述のように「個人が内面的な自発性を発揮」できるような「自己固有の」趣味などを形成し始めていることも、また、一つの事実である。  「個別化」とは、一人一人が自分にしかない「何か」をもちたいと少なくとも心の中では望むことであるといえる。今後の社会においても、この「個別化傾向」はますます強まるだろう。この「願望」を誰も否定することはできない。自分だけにしかない自分を大切にしたり、まわりから大切にされたりしたいという願いは、個の充実・確立のためには不可欠である。したがって、もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は、「派手だが空しい自己顕示」によるものとは本質的に異なる。  このような個人の内面的な自主性・主体性にもとづいた個別性について、私は、その言葉が意味する「神聖さ」と「不可侵性」を意識して「個の深み」と呼ぶことを提唱した。「個の深み」とは、個別化が止揚されたものであり、個別化よりも積極的な価値づけをした言葉と考えてもよい。ただし、反面では、他者が一個人の「個の深み」に深入りしすぎると逆機能を生ずるという危険性もある。言いかえれば、「深みにはまる」という危険性である。ここでは、「深み」という言葉に、そういう二面性を象徴させている。 1 社会教育における組織と個人 (1) 「組織的教育活動」の従来の解釈  社会教育は、そもそも「個別」の個人のためにあるのか、あるいは、人々の集団化や組織化の援助にもっぱら重点をおき、組織的な活動として行われるべきものなのか。昭和二四年に制定された社会教育法では、「この法律で『社会教育』とは、学校教育法(昭和二二年法律第二六号)に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」(第二条、傍点引用者)とある。  この「組織的な」という言葉について、福原匡彦は、「社会教育法で扱う社会教育は組織的なものだけであって、個人的あるいは偶発的なものは扱わないということである」(傍点引用者)とし、「一般的な意味での社会教育はもちろん組織的なものである必要はないのだから、この点で行政で扱う社会教育とは大きく相違する」3)と述べている。一方、「国民の間に継続的・組織的な教育文化活動が行われることをめざし、個々の国民にひとしく門戸をひらいた施設利用事業や施設をとおして講座・集会などの教育文化事業を行うのが行政の任務なのである」4)(島田修一、傍点引用者)という見解もある。  もともと、社会教育法第二条による社会教育の「定義」については、「学校の教育課程として行われる教育活動を除き」という表現に象徴されるように「控除的定義」であるといわれる。条文を読んだだけでは、社会教育の実体というものははっきりとしない。  もちろん、「国及び地方公共団体は(略)すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない」(同法第三条、傍点引用者)とあることから、社会教育の本来の主体が国民自らにあることは明らかであろう。しかし、第二条が「控除的定義」であるがゆえに、その条文が「行政としては、国民の自由な活動の中でも、特に組織的な教育活動を援助する、または、行う」という意味なのか、「社会教育とは、国民が(個人的ではなく)組織的な教育活動を行うこと」という意味なのか、ということについては文面からははっきりしない。  しかし、このように社会教育の定義自体が一部「混沌」としていることを認めた上で、なお、ここで問題にしたいのは「組織的な教育活動」ということに対する従来の共通する理解についてである。たとえば福原の「社会教育法で扱う社会教育は組織的なものだけであって、個人的あるいは偶発的なものは扱わない」という見解からすると、「組織的」とは「個人的」および「偶発的」ではないものということになる。これについては、島田の「国民の間に継続的・組織的な」という表現も同様の意味を表しているととらえられる。さらに島田は、「社会教育施設」や「学校」とともに、「自主的に組織された教育事業体」を社会教育法における「社会教育活動の主要な三つの場」の一つと指摘している。  実際、社会教育を行政が行う時でも、国民が行う時でも、いずれにせよその中心的関心は、人間が集団を組織したり、既存の組織の中で役割を果たすことに関連したことが多かったということができよう。 (2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ  碓井正久は戦前社会教育の特徴の一つとして「非施設・団体中心性」を挙げた。5)日本の戦前の社会教育は、施設を提供することよりも、団体を直接育成して、官民一体となった「社会教育」が進められた。戦後、その非民主性が反省され、各人が自由に社会教育施設を利用することが大切にされるようになった。図書館、博物館も増えている。ところが、あらたまって社会教育そのものの実態や理念を問われた場合の社会教育関係者の回答は、あいかわらず人々の組織や集団に関わるものが多い。これはなぜだろうか。  たしかに、学習が組織・集団の中でのさまざまな指導者からの援助や、他の仲間との相互作用により、効率化、活性化する局面を列挙し始めたら、きりがないほどであろう。しかし、だからといって社会教育を「組織的(集団的)な教育活動」に「限定」する理由にはならないはずである。  もっと直接的な理由として、学習の援助者にとって個人学習の場面にまで目が届きずらい、援助してもその効果まで追跡して援助の成果とすることができない場合が多い、集合学習に比べて学習成果がただちに集団・組織・社会に還元されるとは限らないということがあるのではないか。しかし、よく考えてみると、これらはもともと援助側の都合によるものであり、学習者側のニーズから発したものとは思えない。また、教育技術が向上すればある程度改善できる問題でもある。  さらに、福原の「一般的な意味での社会教育はもちろん組織的なものである必要はないのだから、この点で行政で扱う社会教育とは大きく相違する」という説明の底流には、行政が個人レベルの学習に関与することは危険であるという考え方があるといえる。「組織的(集団的)な教育活動」に限定する理由の一つには、このような「行政としてのモラル」があるのかもしれない。しかし、これについては、国民の「組織的教育活動」に関与する場合であっても「同様に」危険性を秘めているのではないかという反論が成り立つ。行政が個人に関与することにではなく、相手が個人であろうと、組織であろうと、行政が民間の学習を援助することそのものに危険性が宿命的に伴っていると自覚すべきである。  このようなことから、「社会教育の本来の主体は国民自らにある」という社会教育の根本理念の実現をこそ、あらためて一番の目標として、本格的な個人レベルの援助の意義を見直してみたい。  最近二十年ほどは、社会教育の分野でも「個人学習」が重視されつつある。昭和四六年、社会教育審議会答申は、「今後ひとびとの要求する学習内容がいっそう多様化し、また、個性の伸長を図ることが重要になることなどから、個人学習の必要性がますます増大してくる」とし、教育放送、社会通信教育や社会教育施設における個人への相談体制の充実などによる「個人学習の促進」を提言した。6)  その後、生涯学習の潮流が個人学習の重視をさらに助長した。平成二年一月の中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」では、「生涯学習は、生活の向上、職業上の能力の向上や、自己の充実を目指し、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであること」「生涯学習は、必要に応じ、可能なかぎり自己に適した手段及び方法を自ら選びながら生涯を通じて行うものであること」「生涯学習は、学校や社会の中で意図的、組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われるものであること」(傍点引用者)の三つが生涯学習推進上の留意点として挙げられている。7)  「スポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動」が、「意図的、組織的な学習活動」に対置されるべきものかどうかということについては疑問もあるが、ここでは「自己の充実」という学習目的、「自己に適した」学習方法、そして非「意図的、組織的な」学習形態が重視されていることに注意をはらうべきだろう。  今日の社会教育の議論の中には、一般行政や民間の生涯教育機能の高まりに危機感を覚えて、それらとは違うという「社会教育の独自性」の主張に熱心になるがあまり、従来の「組織的(集団的)」な教育活動への限定にむしろ固執しようとする論などもあるようだが、それらは本末転倒の議論と言わざるをえない。企業などの既存の集団や組織が、個人やインフォーマルグループ、小グループを尊重し、個人のために組織があるとさえ割り切って考えない限り、企業などの組織自体が存立しえなくなってきている今日の社会においては、社会教育や社会教育行政も、新しい考え方を取り入れなければならないだろう。 (3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育    −個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ−  昭和四六年の社会教育審議会答申は、教育放送、社会通信教育、相談体制による個人学習の促進を提言した。平成二年の中央教育審議会答申は、意図的、組織的でない個人の学習活動も重要であると指摘し、学習情報の提供のいっそうの促進を提言した。今や、このような個人学習もしくは個人学習援助の意義は、(実践が十分なされているかどうかはともかく)語りつくされようとしている。  しかし、個の尊重とはその程度でとどまるものではなかろう。現在のこの「個人学習」の重視の到達点において、次に求められるのは、「個人学習」であるか「集合学習」であるかに関わらず、「個」(個人)そのものをもっと尊重する理念とその実現のための技術である。  そもそも組織(ここでは学習集団)が形成される基本的理由は「複数の人々の主体性が結合されることによって、各人が分散している時には得られない拡大された主体性が得られることであり、それを通して、より多くの欲求充足の可能性が得られる」8)ことである。  ところが、そのような個人の主体性拡大や欲求充足の手段であったはずの組織の存在が自己目的化してしまうところに、現代社会全体の基本的問題があり、社会教育の問題もある。話の筋からいえば、メンバーの変わりゆくニーズに対応しなくなった団体は、メンバーのニーズをではなく、団体の運営のほうを変えなければならない。あるいは、メンバーが新しい他の団体・グループなどの機会を十分に得ることができるのなら、もとの団体は衰退・消滅してもかまわないのである。  それでは、個人のためなら諸組織の集合体としての社会まで衰退してもよいのかという反論もあろう。しかし、私は「個人か、社会か」という議論については意味がないと考えている。現代社会に求められるものがまさに「個」(個人)の尊重であり、現代(成熟)社会がその発展のために求めているものが「個」(個人)の発揮ととらえるからである。そして、それぞれの所属組織に対しても、たとえその組織の維持・存続には不都合な場合でも、その組織に対してメンバーがなんらかの個性的で独自な役割を発揮することは、結果として現代社会に貢献する可能性が大きい。  個人には、はかりしれない「深み」がある。それは個人が個別に発達するからだと考えてもよいだろう。そういう「個の深み」が、現代社会の停滞しがちな「合理主義的」組織(学習組織も)を活性化するのである。  関連して、社会教育行政の役割について触れておきたい。「行政が個人レベルにとどまる学習まで援助する必要があるのか」という反論がありうるからである。これに対して個人の即目的的な学習をもサービスすることまで含めて学習権の保障と考える論もあるが、私は、社会教育行政は「公的」(恣意的ではいけない)な意図に沿って行われてしかるべきと考えている。  しかし、「公的」という性格は、「個人」で学習するか「組織・集団」で学習するかによって決まるわけではない。学習活動そのものは個人レベルでとどまっているとしても、その人のその学習は今日の社会に重要であるということも十分ありうる。「個の深み」などは個人の内面の諸活動の中で育まれる要素がかなり大きいと思われるが、すでに述べたとおり、既存の組織と社会が今後存続・発展するためにもそういった「個の深み」の獲得はなくてはならないものなのである。  狭義の組織とは「二人以上の人々が共通の目標達成を志向しながら分化した役割を担い、統一的な意志のもとに協働行為の体系を継続しているもの」であるが、広い意味での組織とは「それぞれ分化した機能を持つ複数の要素が、一定の原理や秩序のもとに組みあわさって、一つの有意味な全体となっているもの」である。8)社会教育法の「組織的な」という言葉も、後者の定義により、学習する個人が、その個人がそれなりにもっている「原理や秩序」のもとに、日常の「断片的学習」を組みあわせて行う学習をも含むものとして運用することが妥当ではないか。あるいは、行政は、個人レベルの「断片的学習」も含めた国民の学習に対して、「行政組織として」という意味では「組織的に」援助を行うということを意味しているととらえてもよいであろう。 2 講義型学習と社会教育、高等教育 (1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰  講義とは、「意味や道理の説明・解説。講釈。特に、大学で行う授業」(傍点引用者)である。「講」の旁(つくり)の部分は「前後左右同じ形に積んだ木組み」であり、「講」は「相手が同じ理解に達するよう言葉をかわす意」である。「義」は、「羊」(りっぱなひつじ)と「我」(ぎざぎざの刃をもつほこ)の組み合せで、「かどめがあり美しくととのっている意」である。9)もとの語意からは、徒弟的関係(「講」)と価値的意味(「義」)が強い言葉ともいえよう。また、広辞苑によれば、「講義」とは「書籍または学説の意味を説きあかすこと」または「大学などで、教授者がその学問研究の一端を講ずること。普通、講読や演習に対比していい、また、大学の授業全般を指していう」(傍点引用者)などとある。  しかし、講義は実際には社会教育の場でも多用されている。その場合は「意味や道理の説明・解説」や「書籍または学説の意味を説きあかすこと」などとは、ニュアンスが異なる。意味、道理、書籍、学説などのような話の「内容」に限定する意図はほとんどない。むしろ「(大学においての)講読や演習に対比して」という表現が意味するものに近い。すなわち、おもに「講ずる」(説きあかす)という教育「方法」によるものと理解してよいだろう。さらに、個々の学習者に対して話をするのではなく、マス(ひとかたまりの集団)に一斉に話をすること(教育方法)を想定していると考えられる。  このように仮に定義された「講義」は、高等教育における「講読や演習に対比した」意味での講義(以後、たんに講義という)と、じつはまったく同じ問題を生み出している。私は、その問題の根源は「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とするところにあると考える。  そういう講義を受講することによる学習(以後、たんに講義型学習という)は、社会教育の現場において「一斉承り型学習」として批判されてきたところでもある。社会教育が「自ら実際生活に即する文化的教養を高め」(前出、社会教育法第三条)るものであることから、その批判は当然ではあった。  その最初は、戦後の「町村民が相集って教え合い導き合い互の教養文化を高める為の」10) (傍点引用者)公民館の構想やアメリカ民主主義の影響を受けた視聴覚教育やグループワークへの志向として表れている。  その後、「昭和二八年の青年学級法制化をきっかけとする、青年団の共同学習は、婦人学級にまで波及し、ついに官・民あげての共同学習時代に入った」が、「学習形態では、話しあいがもっとも多かったので、共同学習はまたの名を『話しあい学習』とよばれている。ひとびとが生活上で直面している悩みや困難をフランクに話しあい、それがみんなの共通の問題であることを確認しあったうえで、問題解決の方向をさぐりあう」というものであった。5)そのころから、サークル活動も盛んになってきた。  さらに、昭和三〇年一月には、稲取と柏の「実験社会学級」が文部省のバックアップを受けて開設された。そこでは、「母親学級から社会学級への変遷の中で変ることのなかった低度な『講話』や『講義』による承り学習、カリキュラムの生活現実や受講生の要求・関心からの遊離、学習と実践の乖離、場当り的で貧弱な教育技術など、要するに昭和二〇年代の、方法上の教育技術を欠き、教育目標を欠いた社会教育の現状を批判する方法意識につらぬかれていた」。5)(傍点引用者)  これらの社会教育の「遺産」はたしかに、現在の社会教育を築く基盤となっている。しかし、先に述べたように、今日においてなお「実際には講義は社会教育の場でも多用されている」のである。「共同学習論」への批判として、「系統学習論」というべき議論があった。これは、共同学習には「学習課題を設定せず、その場その場で出たとこ勝負めいた、思いつき的な学習をおこなうものも少なからず」5)あるので、これを克服して計画化された継続的な学習内容を組織しようとするものである。しかし、それは、民間によるのものにせよ行政によるものにせよ、講義中心の「学級・講座型」に傾斜したきらいがある。このように、社会教育の世界では、講義型学習に対する反発と回帰が繰り返されてきたのである。  今日では、学習内容が「系統的(教育)」であるべきか、「非系統的(学習)」であるべきか、すなわち「系統か、非系統か」などという問いに対して、どちらかに決めつけようとすることこそ無意味といえよう。(ただし、両者の比較検討は興味深いが、ここでは触れない。)それよりも、講義型学習方法をおしなべて「一斉承り型学習」として排除してしまう傾向や、共同学習方法だからすなわち「主体的」である、あるいは「非系統的」になると短絡的にむすびつけてしまう傾向を、ここでは問題にしたい。  関係者の認識は、社会教育そのものに関してではなく、社会教育の方法に関して、教条主義や敗北主義に蝕まれていたのではないか。たとえば、「講義ではなく話し合いだから主体的学習である」と勝手に安心したり、「このコマは講義と決まっているのだから、そこは委嘱した講師にすべておまかせするしかない」と自己の責任をほうりだしてしまったりすることなどはその極端な例である。  これに対する社会教育の本来のあり方を単純に言えば、講義以外の他の方法も活用しながら、講義も「学習者主体」的に運用するということになろう。そのためには、「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とするのではない講義を創出しなければならない。 (2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育  「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とする講義(学習する側から言えば「一斉承り学習」)の逆機能は、高等教育においてもまったく同様の問題となって表れている。  大学の目的については「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法第五二条、傍点引用者)とあり、短期大学の目的については「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成すること」(同法第六九条の二、傍点引用者)とある。「深く専門の学芸を教授」することについては共通している。なお、小・中・高等学校については「心身の発達に応じ」た教育を「施すこと」となっており、その他に大学などと違って教育目標が定められているが、「学芸の教授」という言葉はない。  「学芸」とは「学問と技芸」であり、「教授」とはそれらを「教えさずける」ことである。「学問」の「学」は旧字体では「學」であり、「臼」(両方の手)で「子」が知識を授けられる「家」を意味しているが、「爻」という「二者間の相互の動作」も含んでいる。「問」とは、とびらで閉ざされている「門」、すなわち「かくされていて分からない事」を「口でたずね出す意」である。「教授」の「教」は、やはり「子」に対するという意が強いが、旧字体では「子」の上に「爻」が使われる。「授」には、「さずける」という師弟的な響きが強いが、解字では「手」で「受ける」という学習者側の主体性も意識したものと考えられる。9)  このように、「学問」の「教授」という言葉のもともとの意味から言って、師弟関係を前提にしているとはいえ、それが非主体的な「一斉承り学習」によって実現できるものとは想定されていない。これは当然のことといえよう。しかし、実際の教育現場では教授側も学習側もその認識が十分とはいえない。  なお、社会教育関係者の間には、「勉強」という言葉は「つとめしいる」だから強制的な意味あいが強いと決めつけ、それに比して「学習」という言葉は即主体的行為であるから好ましいとする議論がある。これについて触れておきたい。  「学習」の「学」はすでに述べたように「臼」(両方の手)で知識を授けられることであり、「まねぶ」(まねをする)ことでもある。「習」の「羽」と「白」は「ひな鳥がくりかえしはばたいて飛ぶ動作を身につける意」9)であるから、「ならう、なれる」ことである。たしかに、「学習者側からの表現」と言うことはできるが、与えられた「教育目標」に対しては無批判的に受け入れることを前提とした言葉であると言えなくもない。「学習会」などというと、無意識のうちにどうしてもそういうニュアンスで感じとられてしまうのではないか。  これに対して、「勉強」という言葉については、「勉強会ブーム」やパソコン通信のアーティクル(通信記事内容)にしばしば見かける「私も勉強しておきます」などの表現に、新しい意味を見いだすことができる。「勉強」の「勉」は、「力」(りきむこと)と「免」(女がしゃがんで出産するさまの象形)である。「無理をおしてはげむ」ことである。「強」も「無理をおす」という意味である。9)その語感に軽やかな楽しさがないのは否めないが、他者からの強制を必然的にともなうものという意味は含まれていない。ここで、「学習」という言葉をしいて「勉強」に置き換えようと提言しようとするわけではないが、市民の「勉強志向」をあなどらずに援助することの必要については強調しておきたい。  さて、高等教育における講義の位置づけであるが、その現在の到達点を探るためには、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)に書かれている主張の吟味が有効である。11)本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。  そこでは、「学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」であること、すなわち「学習は個人的事象である」ことが基本テーゼになっている。したがって、「多人数で行なう講義」については「教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離」などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、これまで述べてきた学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」としている。本書でこの「講義法」に対置されている教授法は「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」などである。  「学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」という言葉などは、アメリカのM・ノールズがアンドラゴジー(おとなの教育学)の特徴としてまとめた成人の学習の形態、動機、基盤などとぴったり一致する。12) このことから、社会教育がめざしている主体的学習の「援助方法」は、高等教育が今日模索している「教授法」と、技術的にはほとんど同じものになることは予想にかたくない。  もちろん、学習内容については、社会教育の場合は法によれば「実際生活に即する文化的教養」(第三条)であるから、「深く専門の学芸を教授研究」する高等教育とは明らかにレベルが異なる。  しかし、「実際生活に即する文化的教養」にしても、いわゆる「身のまわりの問題」だけの学習、うわべだけの「文化」「教養」としてしかとらえないとすれば、これもまた問題である。  人々の生活・文化・教養ニーズは、高等教育でいう「学芸」に近づこうとしているのではないか。逆に、「学芸」のほうも学際の重視などから人々の「生活」「文化」「教養」にいっそうの関心を示しつつあるのではないか。このようなことから、社会教育でいう「生活」「文化」「教養」についても、新しい時代の人々の学習ニーズに応じて柔軟にとらえなおさなければならない。たとえば、「つとめしいる」勉強に関心を示し「自ら」それを行なおうとする一般成人などは、その潮流の先駆者として重視しなければならない。 (3) 講義からの「逃避」に隠された弱点    −多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ−  このような新しい生活、文化、教養、あるいは学芸にとって、講義型学習は「本質的」に無効なのであろうか。たしかに、「個の深み」の実現のためには、生活、文化、教養、学芸においても各人の独特の深みが求められる。しかし、そのような「深み」が求められるからこそ、「ある専門の学芸を深く研究している」教授者(professor )が自己の研究の最先端を告白(profess )する講義という教授形態は、かえってそのための高度で能率的な方法として再評価されるべきではないか。もちろん、そこでは「教授技術」(社会教育における「講義技術」)などの改善の努力が前提になることは当然であるが。  前出「大学教育の原理と方法」では、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の四〇%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。  しかし、同時に、「伝達されるべき情報がまだ未発表のものであるか、新しい方法で構成される必要がある場合、もしくはそれらの情報が課程の概略・要約となる場合」などは、「解説的な教授法が最もふさわしい技法となる場合もある」としている。だが、その場合でも「学生に大きな刺激をもたらす源泉」となることは「例外的」としている。その上で、本書では、講義法を行なう場合、フロアへの質問の投げかけ、自己評価のための小テストなどの「革新的試行」が教師にも学生にも有意義だとしている。そして、聴講者の前に立つ時の精神的不安に対処する方法、聴き取りやすい話し方、その他講義の準備・構成・提示にわたってさまざまな技術的な「アイデア」も提示している。これらの「技術」の中には、学習者の主体性支援のためのものもかなり含まれており、講義の技術を考えるにあたって大いに参考にすべきである。  ただし、本書の場合、先に述べたとおり「講義法」よりも「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」のほうに、より大きな価値をおいている。しかも、たとえば「小集団討議法」の章では、「小人数でグループを形成して、各自の考え、知識、理論、洞察等を互いに交換し合う機会をもつことは、学生にとって大学教育から得られる最も貴重な学習体験のひとつとなる。伝統的に小集団討議法は、最も中心的で歴史的な大学教育の機能とみなされてはきたが、その役割はこれまでにその価値にふさわしい形で開発されてきたとはいえない」とし、小集団討議によって「帰属感や楽しみの感情が存在し、考えや意見を分かち合う」ようになることを提言している。学習者の主体性の支援の必要を強く意識したものといえる。  このような考え方にもとづく「小集団討議法」は、社会教育の手法と似通っており、私は正直に言えば好感さえもつのだが、同時に、教授者が個人の個別な深まりをどう援助するかということについては、ほとんど深められていないことに多少の不満ももつのである。もちろん、小集団討議における教授者の役割やその技術も緻密には述べられている(わが国では類がないほど)。しかし、それは、本書を見るかぎり、個々人の「深まり」よりも、すべての学習者が主体的に学習できることに最大の関心をもった上でのことのようである。主体性が多数の者にいきわたることのために、ほとんどの精力を費やしてしまっている。講義型学習への「あきらめ」も、そこから生じているのではないか。  わが国の場合は、どうであろうか。ロンドン大学のような教授法に関する教員の訓練がないことはいうに及ばず、高等教育における教授法の研究・開発自体が進んでいない。教授者は自らの教授法を自ら管理しながら、あるいはひどい場合は教授法に無頓着に、教授を行なっている。しかし、皮肉な話だが、もし教授法を真摯に検討するようなことになれば、高等教育が大衆化している今日、すべての学習者が主体的に学習できる方法と技術(講義以外で)があるということに驚き、それを「救世主」のように受けとめ、いっぺんにそこに傾倒してしまうのではないか。  「大学教育の原理と方法」でいう「小集団討議法」の理想像程度ならば、「共同学習」などに始まる社会教育実践の場で、ある程度現実のものとしてきている。この成果を、わが国の高等教育の教授法の改善においても反映させるなどといったことは考えただけでも楽しい。しかし、もう一歩立ち入って考えるならば、高等教育は中等教育までとは違うのだから、「落ちこぼれ」の心配をするよりも、「落ちこぼれ」は(教授側が設定したカリキュラムからの)「落ちこぼれ」なりに(その個人が自覚し自負する)「個の深み」を獲得し、「成績優秀者」は(教授側が設定した評価基準の上での)「成績優秀者」なりに(教授側が予定しえなかった個別な成果としての)「個の深み」を獲得するよう援助すること、つまり、一言でいえば「個人主義的援助」にもっと力を注ぐ必要がある。  あるいは、もし、高等教育の大衆化、中等教育化が、国民のニーズでもあり不可避だとするならば、「個人主義的な」本来の高等教育の役割は、社会教育が肩代りして、今日の高等教育にあきたりない人々にサービスすることを考えるべき時代なのか。 3 「個の深み」を支援する講義技術 (1) 「個の深み」を支援する講義技術  本章では、講義の中でいかに「個の深み」を支援するか、その「技術」について述べたい。「技術」であるから、「だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質」13) をもっていなければならないということになるが、私の力量の限界や「教育」の技術であるという性格上、そこまで汎用的ではない。試論である。だが、梅棹忠夫のいうように「(技術に関する)話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしい」と思う。  そして、梅棹の言葉を借りれば「知的生産の技術(ここでは講義の技術)の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性(ここでは教授者側の主体性と独自性)という原則」は大切にしたい。そもそも、教授者による「自己の研究の最先端の告白」が、内容の深みと真実の迫力をもっているのなら、たとえ聴き取りずらくても、その講義は個別の「個の深み」に訴えるからである。(それでも技術は些末な事項ではない。)  次に、「個人学習」の支援や「多数者の主体性」の獲得の上で、講義には不利な面が多いことは、社会教育や高等教育の現在の到達点から見れば明らかである。それゆえ、「個の深み」支援においても、講義が他の方法より有利だということはありえない。しかし、そういう困難の中で「個の深み」を支援するすじ道を考えることにより、「個人学習」や「多数者の主体性」とは違う「その上の次元」(断絶しているわけではないが)としての「個の深み」とその支援のあり方の独自性がかえって浮かびあがるのではないかと考えた。  ここでは、講義の中で「個の深み」を支援する技術を、三つの構造に分類した。下部は「教授者の不安の解決」、中部は「学習者の主体性の確保」、そして上部は「反応・発展の個別化の促進」である(●図1−1)。  一つには、「講義を行なう場では、教師は教科の専門家として、さらに学生の行動をコントロールする監督者として、『権威者』の役割をになう立場にたたされる」。11) そこから生ずる不安に対処する方法として、前出「大学教育の原理と方法」では、「その不安はよい兆候だとあえて思うこと」「質疑応答」「バズ・グループ討議」「OHP用シートの準備」があげられている。しかし、とくに社会教育においては、教授者は教育技術の観点から「演技者」であることは必要かもしれないが、自身の「個」を曲げてまで「専門家」「監督者」「権威者」のふりをしなくてもよいと割り切ることこそ、その前に必要であろう。その上で、先のようなことも有効だが、基本的に大切なことは、教授者の予想どおりかどうか、良いか悪いかはともかく、各学習者による講義の「受けとめ方」(個別である)を知ることである。これらのことが、下部の「教授者の不安の解決」を構成する。  二つには、「承り学習」にならないよう学習者の問題意識に訴える必要がある。「大学教育の原理と方法」からは、要約すれば「教師の関心を示す」「五官に訴える」「体験や既習の学習に関連づける」「現代性を明示する」「対照的な観点や対立する論争点を紹介する」「質問する」「仮説を提示する」「問題を提起する」などが、それに該当するものとして拾うことができる。その基本は「学習は本来個人的事象」であるから、なるべく多くの学習者の「自らの興味や価値観、能力、レディネス、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会」11)に迫るような工夫をすることである。これらのことが、中部の「学習者の主体性の確保」を構成する。  しかし、これらの下部と中部の階層は「個の深み」支援の下部構造としては必要であるけれども、それだけでは「個の深み」支援そのものまでには到達しない。「個の深み」は、個別化が止揚して、はじめて結果として生まれるのである。  そこで、三つには、教授者が予定しうるはずのない学習者の個別な深まりまで教授者が援助する技術を編み出さなければならないということになる。「大学教育の原理と方法」の講義法の章からは、しいてあげれば「学生に積極的に賛成か反対かの意見を表明させたり、自分の仮説を提示するようつよくうながすこと」が拾える。しかし、これとて、個別な意見や仮説が生じたとしても、しばらくすれば、その専門について自分より見識の高い教授者の行なう講義や既定の教育目標に収斂されてしまう可能性が強い。主体性が深まる点では評価すべき手法だが、ここでめざしている本格的な個別化を深めることには直接にはつながらない。  教授者が何かを発言すると、それは刺激(stimulus)となって、学習者のなんらかの反応(response)を呼び起こす。刺激と反応(S−R)の関係ということができる。まず、この反応が、すでに個別的である。教授者側が設定した教育目標に沿う方向の反応もあれば、思わぬ反応もある。その時、「思わぬ反応」をすなわち教授の失敗ととらえる考え方に個別化を阻害する要因がある。「思わぬ反応」を本人に自覚させ、それがどういうものであろうと基本的に好ましいことを教授者は表明しなければならない。「教育目標に沿う方向の反応」の場合でも、それぞれがさまざまな方向性をもっていよう。厳密にいえば、遺伝子と生育歴の違いの数だけ、反応の違いがある。教授者は、その違いを喜び、大切にしなければならない。S−Rを一面的に規定し、操作しようとすることは、望ましくないというよりも、もともと不可能なことなのである。  次に、その個別な反応をさらに個別的に発展させるためにはどうすればよいか。じつは、この「発展」も当然のことながら本来的に個別である。程度の差はあれ、自らの「反応」を個別に味わい、吟味し、洞察する。しかし、この「発展」をそのまま「放置」することには、「反応」の時よりも大きな問題がある。「反応」は一時的なものであるから講義の流れを阻害しないが、「発展」は各自のプロセスや所要時間が異なるため、多人数を対象とした講義を予定どおり進めるためには不都合なのである。  このようなことから、主体的学習を支援しようとする人の中からも、「講義は無力だ。小人数の討議のほうがよい」、あるいは「講義は『承り』でもしかたない。あとは学習者の『独習』に期待するしかない」というような講義に対する敗北主義が生まれるのである。しかし、小人数討議なら必然的に学習者の個別な発展を保障できるというのだろうか。また、講義の全時間、神経を集中し、さらにその時の自らの反応を発展させるためにあらためて独習の時間をかける学習者がそんなにいるだろうか。  もちろん、独習の意義が大きいことは否定できない。学習内容によっては、独習こそ最良の学習方法という場合もあろう。だが、むしろその場合は、口述メディアの講義を通してより、活字メディアを通して学んだほうがスムーズで有効な内容なのに、無頓着にそれを講義で行ってしまうことにこそ問題がある。  それよりも、「講義であるからには、こうでなければならない」という思い込みを、あらためるべきである。学習者の個別な「発展」(あるいは人によっては、あることに関して「発展」しないこと)のほうを大切にし、全体講義は進めておいて、その全体講義に復帰して集中する時間は、それぞれの学習者の「発展」の事情と個人の判断にまかせることがあってよいのではないか(たとえ全時間、神経を集中してノートをとって聴いたとしても、一週間後の記憶率は二〇%以下なのである11))。あるいは、教授者が「発展」の時間を仮に定めて、講義を中断し、各学習者に「発展」の時間を自己管理してもらってもよいかもしれない。  いずれにせよ、教授者側が予定した講義を、設定した教育目標のとおり話を進めて、一斉にそれに集中させようとすることこそ、「個の深み」の発展を阻害する最大の要因といえる。 (2) 反応・発展の個別化を促進する方法  それでは、上部の階層である「反応・発展の個別化の促進」を構成する講義技術とは何であろうか。その一つは、すでに述べたように、全体講義からの一時的な個別の離脱(集中しないこと)を黙認すること、あるいは全体講義のほうを一定時間、中断することである。これは、教授者側から言えば「消極的行為」に属するが、重要である。  しかし、教授者による「積極的行為」のほうはありうるのだろうか。たとえ教授者といえども個別化の方向性は予定しえない。また「個の深み」が「神聖・不可侵」なものであるだけに、教授者側は干渉やおしつけにならないよう厳しく自己規制(禁欲)すべきである。ふたたび、梅棹忠夫の同じ言葉を借りれば「知的作業(ここでは反応・発展)の聖域性ないしは密室性という原則」13) が「個の深み」にとっても生命線なのである。このような理由から、「反応・発展の個別化の促進」に関わって学習者にその方向を講義で直接的に指導するということは、社会教育にせよ、高等教育にせよ考えにくい。  それに近い指導があるとすれば、講義ではなく、双方向のカウンセリングの形態(受容、支持、共感、明確化など)をとって行われることになろう。また、とくに高等教育機関などにおいては、「教育的判断」により個別化の方向そのものを修正するよう特定の個人に要請することも、慎重かつ意識的に行うという条件のもとにはありえよう。  ただし、後者については本論での「反応・発展の個別化の促進」に分類される行為ではない。「促進」の行為ではなく、かならずしも悪い意味ではないが、やむを得ない「統制」の行為である。  次に、「反応・発展の個別化の促進」を構成する教授者からの「積極的行為」としては、学習者が講義を聴きながら個別化を獲得できるよう、その方法を指導(提起)することが考えられる。  「個の深み」は、それ自体を深めようとして深まるものではない。さまざまな可知、不可知の要因から多様な方向性が生まれ、それが各人の個性というフィルターを通して無意識のうちに深まっていくはずのものである。しかし、実際にはそのような「個の深み」にいたることのできない学習者ないし局面がでてくる。その状態を「没個性」ということができる。これは、現代管理社会の中で、人々が自分らしさ(アイデンティティ)を表現したり主張することが疎外されがちであることに一つの原因があるのだろう。  他者からは、はかり知れない個人の内的世界における知的営みだけではなく、その時々の内なる到達点(アイデンティティ)を自ら外在化する営み(表現)との双方が循環して「個の深み」を創り出す。このようなことから、個人が「話す、書く、表現する」舞台を設定することは有効な手段といえる。それは、教授者側の「積極的行為」と考えられるのである。  「話す」は、ここでは情報交換や合意形成や発想などのための討論を意味するものではない。ここでの「話す」ことの目的は、個別化した「反応・発展」を「外在化」することにある。したがって、むしろスピーチに近いものになろう。しかも、スピーチをすることであり、聴くことではない。スピーチを交換することは、聴かれる者、聴く者の相互の「個の深み」のための刺激にはなるが、自己の個別化した「到達点」を外在化することにはならない。それゆえ、多人数の講義においてそれを行おうとしても、聴く側にまわる者が多く、能率的ではないという問題がある。ただし、多人数でも、隣どうしの者でペアを組み、話す者、聴く者の役割を交替しながら、それぞれの個別な方向について紹介と批評を交わすことなどは、訓練によっては可能になるかもしれない。  「話す、書く」以外の表現方法もあるが、それは心理学や芸術などの観点から、別に詳細に検討する必要がある。ここでは、「話す、書く」に「表現する」も加えておく必要があるという指摘だけにとどめたい。  個別化した「反応・発展」を表現するための方法の中で、講義型学習にもっとも適しているのは「書く」ことではないか。「反応・発展」という内的世界を、それなりの論理構成をもって記述することによって、自己の「反応・発展」に気づき自負することもできるし、欠陥部分を発見することもできる。自己の勝手な無力感や万能感を、自らの目の前にあからさまに突き出すことになるのである。もちろん、「自分はやっぱり何も書けない」という無力感を増大させることもありうるが(自由に書いてよいという場合は、それは意外に少ないようだ)、そういう試練を乗り越えて自己の個別化を自負し、「個の深み」を獲得していくことが必要なのだと思う。 (3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際  学生の場合は、「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。私は、可能な場合は、試験の時に使われる大学所定の「解答用紙」をあえて配布している。学生は、そこに自由に記述する。学生の「書く」ことへの認知構造を変革させたいからである。社会教育や研修などでの講義の場合は、氏名は無記入でもよいことにしているが、大学の授業では出欠のチェックにも使うため、必ず氏名を記入してもらっている。ただし、記述内容は成績評価には影響させないことを宣言している。個別化の方向性には点数をつけられないからである。この紙を「出席ペーパー」とよんでいる。  「出席ペーパー」には、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くことになっている。しかし、「講義どころではない固有の課題」を抱えた者の中には、講義の内容にまったく関係のないことを紙面いっぱいに書く者もいる。これらの記事の中には、しばしばユニーク(個別的)でおもしろいものがある。また、白紙で提出してもかまわない。それも、私の講義への一つの率直な反応であろう。  自らのプライバシーを綿々と綴ることも認めている。何回目かの失恋の話程度のものもあるし、私が初めて聞くような惨憺たる家庭状況などの話もある。その場合は、皆の前ではもちろん、本人にもそれについてのコメントはしないことにしている。とくに後者のような場合、中途半端な励ましは、かえって無責任になるからである。(教授者側に、徹底的にそれを理解し、解決まで面倒を見る覚悟がある場合は別だが。)それよりも、教授者に対して書くこと自体が、ちょうどカウンセリーがカウンセラーに話をしている状態と似ており、自分の本当の問題に自ら気づき整理することになる効用を訴えたい。ちなみに、本当に悩んでいる人に「頑張って」などの安易な励ましの言葉を投げかけてはいけないことは、カウンセリングの常識である。  「出席ペーパー」が百数十人分になる授業もある。それでも次週の授業までに、私は必ずすべてを読んでおく。学生に、そう約束してある。読むことは、やってみるとわかるが、とても楽しい作業である。教授者自身の言動が他者から受容されていることを味わうことができる。次の授業では、他の学生にも興味を引きそうだと思われる箇所を、コメントをつけてプリントや口頭で紹介する。その場合、名前は伏せる。同じ立場の他の学習者(ピア・グループ)が書いた記事の紹介は、学習者からは大変な好評である。その紹介によって学習者の興味を持続したまま、本時の講義内容にスムーズに移行できることもある。  ただし、「出席ペーパー」の本来の目的は「自分が書く」ことであるから、紹介のほうは本時の講義に差し支えない範囲と時間に限っている。本時の講義のために紹介の時間がとれないときは紹介を割愛する。学生はそれを一応は納得しているようだ。もちろん、コメントがつかなかった場合に「書きっ放し」になることのさびしさや、私との「文通」の希望を訴える学生もいるが、「コメント」や「文通」を全員に対して行うことは物理的に不可能に近い。「出席ペーパー」の本来の目的を理解してもらい、納得してもらうしかない。  あとになって、学生から私への意思表示のために三つのマークを定めた。BBS(Bulletin Board System =掲示板システム)、メール(手紙)、チャット(おしゃべり)の三つである。これらはすべて、パソコン通信の用語を借用している。後ろの二つは重要ではない。「私信のつもり」「軽いおしゃべりのつもり」という意思表示をしたい人は、好みでそのマークをつけてもよいというだけのことである。しかも、メールと書いても、「文通」はとうてい請け負えない。一方通行である。それを知った上で、「メール」マークをつけてくる人がかなり多い。手紙という言葉に彼らのフィーリングが合うのであろう。手紙を書く労力は損をしたとは思わないらしい。  私が気負ってこのマークを提案した理由は、BBSにある。ある人が「出席ペーパー」に、何か問題提起をする。その記事にBBSのマークをつければ、もれなく次回にそのままコピーして紹介することになっている。それを読んで関心をもった他の人は、同じくBBSのマークをつけてレスポンスを書く。今度はそれが次の週に紹介される。このようにして学習者の間に知的交流のブームが起こることを期待したのである。「とりあえずは、BBSにしたらもれなく紹介する」と宣言したので、もし全員がBBSにでもしたらどうするかを最初は心配していた。しかし、自分のペーパーをBBSにしてくれる人は、百数十人中、わずか二、三人だったのである。パソコン通信のような市民主義的な知的交流の土壌は、まだ育っていないととらえるべきであろうか。  それにしても、たとえメールであろうと、書く人たちはとにかく自由に楽しんで書いている。私はそれでよいと思っている。書くこと自体が本来的に自己抑圧的な作業であり、その人なりにそれを克服してなんらかのものを書くわけだから、「おしゃべり症候群」などの自己疎外的な状況とはおのずから性格が異なるものである。  ただ、講義への集中を中断して書くこと、あるいは講義を聴きながら書くことに抵抗感をもつ学習者は、学生の中にもいる。そのため、終了予定時間の十分前には本講義は終了し、雑談のような話をすることによって、書く時間をそこで保障している。もちろん、事前に書いてくる熱心な学生も中にはおり、それも歓迎している。  しかし、是非は問われるだろうが、学習者が「自己管理的」に講義に集中・離脱できるよう私自身は求めたい。講義のすべての時間を、すべての学習者のニーズにマッチさせることなどは、多様化の時代にありえないことなのである。そのような「完璧な講義」を教授者の責任として求めることこそ、むしろ学習者側の過度に依存的な態度と考える。講義からの離脱と復帰のタイミングは、それぞれの学習者がつかめると思うし、良いか悪いかはともかく、それは現代社会での生き方につながると思う。  「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつは次のとおりである。最初からはっきりと「反応・発展の個別化の促進」という目的を掲げていたわけではない。初めて演壇に立ち、「学生の注視を一身に受ける立場」11) になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。  しかし、多人数の学生の前で仲間意識(ピア・コンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。社会教育施設でも、自由記述のノートを部屋に置くなどしておくと、いきいきと意見や情報などを交換している。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。  その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下のほうに書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられた。  学生のほうも、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」というよけいな思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためには、「出席ペーパー」はかなり役立ったようである。  このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。  ところで、中高年の社会人の人たちの中には(この場合、一過性の講義であるが)、「出席ペーパー」を書くことそのものに対する拒絶反応を示す人がいた。もちろん、社会人の場合、提出する、しないは本人の自由にしているのだが、何人かはわざわざ「出席ペーパー」の存在に対して抗議をしたためた「出席ペーパー」を提出した。「抵抗を感じる」「意味がない」などの一言ずつなので、詳しい気持ちはわからない。  これは、階層社会で生きているうちに、自己の「個」を表現することを抑制するようになってしまった結果だろうか。あるいは、自分しか読むことのない日記を書くことによって自己洞察するようなことは、青年期をすぎるとあまりしなくなるのと同様に、他者からの賞賛を得ることのない「無益な自己表現」はしたくないという「実効主義」が原因になっているのだろうか。しかし、そうだとすれば、若者がいたずらに幸せの「青い鳥」を探し回っているというが、おとなのほうこそ自己の内なる確立(アイデンティティ)という本当の「青い鳥」はもう見つけられないのではないかという不安を感じる。もっとも、中高年の人たちの抗議は、初めて会ったばかりの若僧(講師としての私)などに、内なる自分の反応・発展などさらけ出せるものかという自我の主張の結果である可能性も強い。そうであれば、何も心配すべき問題ではない。 (4) 「個の深み」を考える    −まとめと問題の所在−  S短期大学(音楽系)とT大学(二部人文系)の実質三カ月程度の授業で、すでに「出席ペーパー」はファイル10冊以上になっている。それらのダイジェストを眺めているだけでもおもしろい。彼らの多様な関心事についての傾向がわかる。試験の模範的な「解答用紙」であったらまず見られない「個別の」感じ方、それまでの体験の蓄積、それと授業とをつなぐ感性、思考の自己発展などに散りばめられている。  ところが、それが「個の深み」かというと、残念ながらそうとは言い切れない。表面的には「個別」であっても、最初に述べたように、本人も気づかないうちに現代社会の一つの側面としての「画一化」「没個性」の影響を受けていることがある。各人の認知構造が無自覚のうちに定められてしまっているのだ。たとえば、自分という人間を不自由にするような「思い込み」に塗り込められてしまっている。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。そんな「認知構造」を自己変革するためには、かなりの主体性が求められよう。それは、至難のわざのようにさえみえる。  しかし、「自ら学ぶ」ことを信条としている社会教育は、個人の「自己解決能力」を信じるのであろうし、さらにはその「自己解決」を外部から支援する可能性をも信ずる。  講義は「義を講ずる」ものというが、真の義はだれにもわからない。「個の深み」のごとく、多様な義があるのだろう。講義はそのような「個の深み」への多様な入口を、さまざまに刺激的に提示することなのではないか。したがって、「講」の旁(つくり)の部分の「相手が同じ理解に達するように」という意味は克服されなければならないと考える。教授者のもたない「深み」を学習者がもつように援助することが教育の営みなのである。それにしても、教育が「独習」にまさることがあると考えるわけだから、これこそ「教育からの学習への挑戦」とよぶべきであろう。  率直に言って、一人ひとりの「個の深み」は現在の組織運営にはむしろ邪魔にさえなりかねない。だが、やっかいだけれどもそれとつきあっていく覚悟を決めなければならない。「個の深み」は、本人の目先の利益には役立つかどうかもわからない。だが、それを支援するのは今後の社会への教育の責任である。これを社会教育(行政)の新しい「公的」存在意義とよんでよいだろう。 [注] 1) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、平成二年三月、とくに一〇〜十七頁 2) 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、一九八四年、とくに五〇〜五一頁 3) 福原匡彦『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会、一九八九年、とくに三四〜三六頁 4) 島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、一九七四年、三四三〜三四六頁 5) 碓井正久編『社会教育』(戦後日本の教育改革)東京大学出版会、一九七一年、一一頁、二三一頁、二八二頁、三五九〜三六〇頁 6) 社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」、昭和四六年四月 7) 中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」、平成二年一月 8) 見田宗介他編『社会学事典』弘文堂、一九八八年 9) 山口明穂他編『岩波漢和辞典』岩波書店、一九八七年 10) 文部次官通達「公民館の設置運営について」、昭和二一年七月 11) ロンドン大学・大学教授法研究部(喜多村和之他訳)『大学教授法入門−大学教育の原理と方法』玉川大学出版部、一九八二年、とくに八六〜一〇五頁 12) 倉内史郎『社会教育の理論』第一法規、一九八三年、一三七〜一四〇頁に紹介されている。 13) 梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波書店、一九六九年、とくに一〜二〇頁 第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして 1 現代都市青年と情報   −ヤングアダルト情報サービスの提唱− はじめに  私は、ここで、現代都市青年に対する公的情報提供の提唱をしようとしている。しかし、情報がむしろ多すぎる今日、それはいったいどんな意味をもつのであろうか。  私自身、過去に六年間、東京都青年の家の職員として、青年と「何かをやる」楽しさを味わい、その意義も痛感してきた。主催事業を企画・運営するための実行委員会の中で、青年はぐんぐんと自己発達する。  それに比べて、情報提供という公的サービスはいかにも消極的に聞こえもする。現代都市社会のさまざまな病理が、青年問題にも表れている時に、情報提供などという「消極的な」手段は強力な行政施策たりうるのだろうか。  行政が青年のために価値のある講座を開こうとするならば、現代都市青年の問題状況を的確に認識していないと、テーマの設定さえおぼつかない。これに比べて、情報提供は原則として求めに応じて行われるものであり、行政の側が「選択」する要素は少ない。そこに、情報提供が安易に行われる危険性さえひそんでいる。  本章では、現代都市青年にとっての「情報」の特質をとらえた上で(第一節)、公的情報提供がどんな基本的意義をもつのか(第二節)、どんな情報を提供するのか(第三節)を考えていきたい。そして、「ともに育つ」をキーコンセプトとして、青年の主体性を保障し発達させ、社会的要請にもこたえる統一的な青年政策としての情報提供論(第四節)を展開してみたいと思う。 (1) 青年と情報環境  (1) −1 現代都市青年の情報不適応  「企業人」にとっては、情報は死活問題である。駅のアナウンスという「情報」に対しても直線的に反応する。「整列乗車」などにおいても、大変秩序正しい。現に何らかのトラブルによる乗車制限などがあった場合、サラリーマンたちは苦虫を噛みつぶしながらもじっと黙って改札を待っている。朝の東京駅の混雑の中でもし誰か一人がつまづいて倒れても、その情報さえすみやかに提供されれば、後ろの人々はピタッと止まるだろうと言われているぐらいである。これは、道徳性の問題だけではなく、「公共的情報」(たとえば乗車制限)という刺激(S)に対する反応(R)すなわち直線的なS−R的行動様式が形成されている表れでもある。  現代青年はそれとまったく対照的である。普通、彼らの多くは、駅や車内などの公共性、公衆性の強いアナウンスにはほとんど応じようとしない。とくに、高校生の傍若無人な振舞や言動はよく目にするところである。現代都市青年はこれらのいわばフォーマルな情報に嫌気がさし、価値を認めなくなりつつあると考えることができる。  しかし、一方では、女性ロックシンガーが「みんな、手拍子してえ」とステージから呼びかけると、日本では聴衆である青年の大部分が律儀にそれに応じている。たとえその時、本人やシンガーのノリが悪くてもつきあう。他人の迷惑も省みず、雑踏の改札口で「友人を待ったり」「友人同士で話をしたり」するのも、じつは同じ志向の表れである。彼らは彼らなりに連帯あるいは同化を求めているのである。問題は、社会にあふれるとくにフォーマルな情報に対する彼らの「無関心」である。  情報とは「或ることがらについてのしらせ」(広辞苑)である。情報の中には、人間の生存と安全、さらには認識の発達や社会性の獲得などの視点から見て意味があると思われるものもある。青年には「情報依存」の側面もあろうが、それは限られた範囲の情報に関してである。フォーマルな情報の中にも大切な情報が多数、含まれているのだが、それに対してはむしろ拒否的になっている。  「価値ある情報」の入手のために情報技術を「便利な道具」として使いこなせるようになることが、情報化への「適応」といえよう。反対に、情報社会における多量の情報の中で、青年が窒息状況に陥り拒否反応を示しているとすれば、それは情報化への不適応現象ととらえるべきである。  窒息しつつある現代都市青年にとって、息を吹きかえすことのできる情報とは何なのであろうか。彼らの情報化不適応に対して、情報過多の中でのあらたな情報提供は、しかもごくフォーマルな、公的機能としての情報提供は、いかにしたら意味あるものになるのだろうか。 (1) −2 青年をとりまく情報の特質  フォーマルな情報に対して現代都市青年は「拒否的」である。それでは逆に、彼らに支持され、彼らを実際にとりまいている情報にはどんなものがあるか。その特質は、次の六点に集約できよう。  第一に、少なくとも町に氾濫する若者向け雑誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。青年が社会や経済の活動から「役割猶予」されていることが、その大きな理由となっているのであろう。  ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生の情報行動に関する調査によれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされている。(●図2−1)「生活情報」そのものとはいえないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。  第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、その一つが、テレビ番組の全国ネットワーク化である。ネットワーク化された番組は視聴者に対して、居住地の地域性をよりいっそう捨象した情報を伝える。それは、青年の歓迎するところでもある。  しかし、逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生にもわれわれは注目すべきである。「ピア」のような情報誌は、平日の夕方からでも急にその気になって映画やライブを見ることができるのが魅力の一つである。フラッと行くことのできない遠くの情報はいらない。だから「ピア」は「東京文化圏」の情報誌として発行されているのである。  現在では、新宿、池袋のような繁華街から、渋谷、原宿、六本木、あるいは山手線の外の下北沢などへと、青年の関心とユースカルチャーの発信地が移っている。そこでは、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な情報誌が発行されて青年の支持を得ている。その他、アマチュアによるラジオ放送としてのミニFM放送局が増えつつある。これなどは、その放送範囲は半径五、六十メートルにすぎない。過密都市だからこそ、情報提供における分散化も成り立つのである。  第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「ファッション」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。  しかし、多様化と同時に画一化も進行している。青年一人一人の個性的なやり方よりも、「最大公約数」としての流行が、発行部数を伸ばすために優先される。  一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。  第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような情報都市においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来あいの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。これらの出来あいの情報なくしては遊ぶこともできない者もいるのである。  その反面、情報化不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切な情報もあまりそしゃくされなくなっている。  第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、意見や評価も排されてくる。たとえば、「ピア」の中では、たくさんの文化・イベント情報が、ほとんど論評を加えられずにびっしりと掲載されている。情報に、「余計な情報」としての他者の意見や評価が混じらなくなっているのだ。読者からの投稿などもあるが、それは別の頁か「はみだし」(欄外)で扱われる。情報誌の「本文」はあくまでも、「純化」された情報の羅列であり、それが読者の「本命的」ニーズでもある。  第六に、「情報離れ」が進行している。他者の意見や「情」の混じらない純化された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(コミカルではない)が盛んになる。それ自体は多様で個性的な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。情報化は進展しているが、青年が自分の主張をもつために必要な情報を収集する意欲と能力は、むしろ衰退しているのである。  ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向にもとづく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」をもっている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は目的ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。  このように、現実に現代都市青年をとりまく情報には、さまざまな特質がある。これらを多面体(●図2−2)として理解したい。青年に対する公的情報提供とは、もちろん、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義をもつ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる情報提供は、それ以外の既存の情報からはあまり望めないからである。 (1) −3 情報の限界  情報が多すぎて、その不消化、あるいは不適応が起きる。そして、自分で新たな情報をつくりだす「創造性」が失われる。このような情報過多の状況において、あらたに情報提供を加えようとする提言は、その意義自体に根本的な疑念をもたれて当然である。しかし、じつは、「情報が充分ありすぎるから、青年は自分で考えなくてすんでしまうのだ。現代都市青年の創造性を豊かにするためには、これ以上、情報提供などしないほうがよい」とは単純にはいえない。  創造といえども、現在まで人類が獲得してきた経験と知識の蓄積が基盤となっている。この蓄積を伝達するものがすなわち「情報」である。その情報を取捨選択し、自己の体験と見識にもとづいて再構成したものが「創造」である。創造のためには、情報は基本的には豊かにあるほうがよい。  情報それ自体の善悪はいずれとも決めつけられない。それよりも、「情報の限界」をはっきり認識しておくことが必要である。「情報の限界」とは、一つには「他者の経験や知識の伝達」といっても、完全には伝達できるはずがないことと、もう一つは情報が「自己の体験」そのものではないということである。  たとえばテレビではどうか。番組作成のための取材の段階では、たくさんの関係する情報が集まる。しかし、実際の放映の段階では、短い放映時間に収まるようにごくわずかの情報だけが選択され、編集される。視聴者は「他者」が厳選した情報だけを受け取るのである。  しかも、テレビカメラを通した映像と音声自体が、事実や実物の一つの「断面」にすぎない。事実そのものではない。たとえ「虚構」を前提とする演劇であっても、でかけて行って見るならば、演じられている事実そのものを見ることができる。しかし、テレビではカメラによって二次元に翻訳され、画面のフレームによって切り取られてしまう。端的にいえば、テレビ画面からは、われわれはブラウン管に走査線が走っているという「事実」だけは、確実に見ているのだ。自然のすがすがしいにおい、動物のふさふさした気持の良い毛の感触、逆に動物のくさいにおい、ぬるっとした気味の悪いさわり心地、それらはテレビでは伝わらない。  テレビはもういらないと言っているのではない。テレビの「限界」が認識されてさえいればよい。ところが普通、自分が一度テレビで見たものについては、「(テレビで見たから)知っている」と過大な自己評価をしている。テレビの画面を、事実そのものと錯覚してしまっているのである。このことにこそ、問題がある。切り取られた情報のあふれた現代都市社会において、さらに新たに情報を提供しようとする場合、その情報も、不可避的に「限界」をもっている。情報によって何でもできるという「万能感」に陥ってはならない。青年が情報の限界に気づくこと、情報を提供する側もその限界をわきまえることが必要である。そのことによって、むしろ情報は豊かに使いこなすことができる。 (1) −4 情報能力と情報必要(ニーズ)をめざして  一般に情報は、受け手の個性・世代を顧みず、成長段階の順序性を無視して流通する。しかも、「好ましくない」情報に対する社会的規制も実際にはあまり有効ではなく、また、表現の自由を侵害する危険性もある。情報能力の欠如のままで、このような情報が大量に流通するならば、青年にとって「役立たない」ばかりかマイナス要因にさえなる。  情報能力とは、情報の獲得、処理、利用、加工、生産、提供に関する知識・技術の総体に関する能力であるといえる。この情報能力は、自分で主体的な認識と判断ができるという基礎能力を必要とする。現代都市青年の情報志向は強いとしても、情報能力は豊かとはいえない。  それでは、青年はどのようにしてその能力を獲得することができるか。情報がいくら大量にあっても、それだけでは情報能力は育ちえない。青年自身が本当に情報を必要として、初めて、青年が自らの力で自らの能力を高めることができるのである。それでは、この情報必要(ニーズ)のさらにまた根源は何か。それはひとことで言えば、問題意識の存在である。すなわち、現在、自己や社会が直面している課題を自己の課題として主体的にうけとめていることである。  そこには、生活、生産、趣味、生き方、社会などのあらゆる次元の課題が含まれている。その中でもとりわけ社会的課題に関する情報必要は、「非社会的な」現代青年にとってはかなり脆弱である。その他の課題に関しても、都市化社会におけるモラトリアムの延長、コミュニティの崩壊、パーソナルコミュニケーションの喪失によって、現代都市青年はたくさんの情報必要を失ってしまった。そのあとに求める情報とは、自己完結的、趣味的な情報とあたりさわりのないおしゃべり(「おしゃべり症候群」)のための情報ぐらいなのである。  青年に対して機械的な情報提供だけを繰り返していても、抜本的解決にはならない。情報の多面体を全体としてより良く機能させるためには、青年の情報能力の獲得を意図的に援助する方策を考える必要がある。根本的に青年の意識や価値観の問題に真正面から取り組む必要がある。しかし、また、そういうポリシーを秘めて情報提供が行われるならば、その情報提供は真正面から取り組むための一つの有効な「手段」にもなりうる。  たとえば「情報整理」は、どちらかといえば外在的作業である。たくさんの情報を得た上で、それを目に見える形で選択し、整理する。しかし、その作業は、情報に対処する方法に関する知識・技術を育てるばかりでなく、青年自身の認識を育て、青年の知的主体性を形成する。すなわち、情報整理という「外在的作業」によって「内在的な営み」が豊かになるのである。このように、外からの情報により、内なる問題意識も高まっていく。  外からの公的情報提供は、そのことを期待し、しかも意識的、意図的にそれを援助する態度を明白に表しつつ行われるべきである。そして、その「意図」のもとに、現在の青年に欠けている情報、社会的情報、情報に対処するための情報などにとくに力を入れて情報提供することが必要である。  まとめておこう。青年に対する情報提供を「実のあるもの」とするための一番大きな「支え」は、青年自身の情報能力と情報必要、それ自体であることは否めない。しかし、たとえそれらが今は成熟していないとしても、公的意図にもとづく公的情報提供は、現代都市青年の内面の奥深くで情報能力と情報必要を育てる独自の機能を発揮するのである。 (2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱− (2) −1 情報の提供にともなう操作性  情報は受け手にとってはタダという場合も少なくない。それだけに、他の商品のように必要なものだけが買われるのではなく、消費者が求めていないものまで、本人の属性や個性に関わりなく、流れ込んでくる。これは情報の「大衆化」の側面である。  民主主義社会においては、公的情報だけでなく、これらの大小メディアなどの提供するさまざまな情報が豊かにあることが、市民の主体的な判断の基礎となっている。社会形成のための合意の基盤となるのである。これは情報による「社会的合意の形成」の側面である。  このように情報は大衆性や社会性の側面をもっている。たとえそれが民間の情報であっても、それ自体が「公共性」をもっていると考えられる。  ところが一方では、民間の情報は、それら情報提供者の「私的な目的」にもとづく「操作」の産物である。たしかに、現代社会では、特定の情報提供者が強制などの手段によって露骨な「情報操作」を行うことは少ないが、たとえばコマーシャルは、たとえそれが事実の組み合わせであっても、購入の拡大を意図して提供されていることには変わりない。市販の情報誌でさえ、該当する情報のすべてではなく、本がよく売れるように情報を選択し編集している。露骨な「情報操作」は排除することはできても、「操作性」そのものはあらゆる情報提供において避けることができない。  それゆえ、新聞やテレビには「倫理綱領」などの自主規制が必要になる。これは、公的な色彩をもったゆるやかな「操作性」といえる。しかし、それをさらに行政が規制しようとすることは「自由の侵害」につながりかねない。基本的には情報は、公的情報を除いて、民間のさまざまな情報提供者と受け手との自由な相互作用に任されるべきである。  行政が情報を提供する場合はどうだろうか。その場合も、同じく不可避的に「操作性」を帯びている。しかし、その「操作性」が純粋に「公共的な目的」にもとづくべきであるという意味で、独特の存在である。  その情報が文化的、政治的内容のものも多い。文化情報、政治情報の提供において、行政の「操作性」は許されるか。青年の文化活動の紹介などは、なるべく広く該当する情報を提供すればよい。しかし、時には人間の内面に深く関わる情報も扱う。たとえば、現代都市青年の健全な精神の形成をめざす情報提供などは、ややもすれば青年の価値観への介入になる危険性がある。しかし、それを恐れて文化・政治情報についてパスするというわけにはいかない。都市社会のゆがみ、あるいは、地球規模のゆがみとして、行政も緊急に取り組まざるをえないのである。  現代都市青年に対する行政の情報提供の目的は、「都市政策」と「青年政策」の二面性をもつと考えられる。都市計画づくりなどには、青年を含めた市民の自治能力の向上とそれによる合意の形成のための情報提供が必要である。これは、「都市政策」としての情報提供の一面である。また、青年の社会的病理現象に対処するために、青年の成長を援助するような各種の情報提供が求められている。これは、現代都市社会における「青年政策」としての情報提供の一面である。  青年に対する公的情報提供は、この二つの「公共的目的」のために、その限定的な意味においては「操作的」に行われる。問題は、それらが「操作的か、否か」ということよりも、「公共的目的」をどのような具体的な「目標」として設定するのか、実際の情報提供が本来の目的に沿っているのか、そして青年に支持されない「ひとりよがりな操作」に陥っていないかということなのである。 (2) −2 青年の要求にこたえるヤングアダルト情報サービス  都市化社会において「青少年健全育成」の必要が叫ばれるようになって久しい。しかし、過去の押しつけ的な「対策」では、多くの青年の無益な反発をよぶだけである。そこで、今日の青少年健全育成施策は、その反省のもとに、環境醸成などの側面的援助に重きをおくようになっている。情報提供もその一環としてとらえられる。「対策からサービスへ」の転換である。  しかし、一方ではその前提としての現代都市青年の自主性、主体性そのものが欠けつつあるということも指摘されている。青年の自主性、主体性を尊重した「サービス」は意味をもつことができるのであろうか。  カウンセリングについていえば、それは個人の心理的問題を当人自身の力で解決できるよう援助することを目的としている。そのためにカウンセラーは、「指示」をするのではなく、もっぱら「共感」と「支持」を与える。ノンディレクティブ(非指示的)といわれているカウンセリングの手法である。そのことにより、本人自らが自己の問題に気づき、自らを変革するのである。  このように、カウンセリングは、自己の内面に大きな心理的問題をもっている人に対しても、その人間の「自己解決能力」に絶対の信頼を寄せて行われる。「情報提供」の姿勢も、それと同様の「信頼」が基礎となる。すなわち、「本人の今の課題に関連する情報をいろいろ提供するが、選択と判断は相手に任せる」ということにより、本人自らが認識を深化させるであろうことを信ずるのである。  図書館についていえば、最近、ヤングアダルトコーナーの設置が少しづつ見られるようになっている。その先進的事例が東京都立江東図書館(現在は江東区に移管されている)であり、その担当司書の半田雄二氏は次のように述べている。「ふつう『読んでほしい本』と『読まれる本』は一致しないことが多いものです。しかし、大人から見れば未熟であっても、彼らには彼らなりの選択眼があり、けっして無原則に手を出しているわけではありません。読まれない本には、やはりそれだけの理由があるはずです。・・・読まれている本が、すべて読者の低俗な好奇心におもねるクズばかりと決めつけるのも危険です。大人たちがまだ気づかないだけで、数年後には中堅どころとして脚光を浴びているであろう作家が隠れていたりします。・・・」1)。そして、実際に、オートバイやヘビーロックに関する本なども提供しているのである。  半田氏の問題意識は、児童サービスと成人サービスのはざまにいる青年の「図書館離れ」から発している。この「図書館離れ」は、青年の知的側面での主体性の欠如の表れともいえる。しかし、だからといって青年への働きかけを放棄してはいない。むしろ、青年をヤングアダルト、すなわち「若い大人」、知的権利主体としてとらえている。そしてその青年の要求にあった図書を提供しているのである。  青年の自主性、主体性は現実には欠如しているかもしれない。これは、行政が青年に対して情報提供を行おうとする場合にも、大きな障害となるだろう。それでも、青年を「アダルト」すなわち権利主体ととらえ、まず、その情報要求に的確にこたえていくのである。  私はこれを「ヤングアダルト情報サービス」として提言したい。そこでは、カウンセリングが本人の「自己解決能力」を信頼するのと同じように、青年の情報に関する「自己発達能力」を基本的に信頼する。そして、図書館のヤングアダルトサービスと同じように、「青年に知らせたい情報より、青年が知りたい情報を提供する」のである。 (3) ヤングアダルトのための情報  (3) −1 提供する情報の基本的性格  ヤングアダルト情報サービスが、青年の情報要求に的確にこたえようとするならば、そこで提供される情報は基本的にどのような性格をもつか。  第一に「全面的」性格である。それは一つには、あることがらについての「右から左まで」のあらゆる情報を提供することである。提供側でまずプラスマイナスの価値判断をして選択した後の情報を提供するのではない。  また、一つには、現代都市青年の喜怒哀楽に関するさまざまなことがらについての情報を提供することである。半田氏は図書館司書として次のように言う。「すでに趣味の固定してしまった成人に較べ、自己、そして自己と他者、社会、世界との関わりに日々新たな発見の喜びをもちうる青年の関心の領域は広い、青年の要求に応えうる素材をもった資料は捜せば結構あるはずである」2)。  なんと積極的で生産的な感覚であろうか。われわれも、青年の多様な「文化」に応じた全面的な情報提供の展開をめざすべきである。  第二に「今日的」性格である。過去の文化の蓄積を伝達することは必要であるが、それは学校教育や図書館などが役割を果たしている。これに対してヤングアダルト情報サービスでは、現代都市青年の「今、もっている情報要求」にこたえることが基本的要件である。一義的には過去の文化の「伝達」のためのものではない。  そのためには、新鮮な情報の収集を怠れない。現代都市における動態的な情報を収集するためには、大変な苦労を要する。「今度、どこそこで○○サークルがこんなイベントをやる」などの情報を集めても、時がたてば次から次へと無用のものとなっていく。しかし、取りこぼされがちなそれらの情報や、青年個人のレベルでは把握の困難な情報を、新鮮なうちにリアルタイムに提供するからこそ、ヤングアダルト情報サービスは価値がある。これらは、今日の情報社会からも取り残され、疎外されている情報なのである。  第三に「非文献的」である。青年の知的活動から生ずる「文献」に関する情報要求については、図書館のレファレンスサービスが専門的に対応できる。しかし、現代都市青年の興味・関心は、活字化されたものだけにとどまることはない。「活字信仰」にこだわるなら、すぐ青年に嫌われてしまう。  もちろん、図書館のレファレンスにおいても、活字以外のさまざまなメディアが有する情報まで広く紹介すべきである。また、ヤングアダルト情報サービスのほうも、そこで知りえた独自の「文献情報」も提供する必要がある。しかし、後者のほうは、それよりも、人や組織、生活や遊びそのものまで紹介しようというのである。  アメリカの図書館には、レファレンス(参考調査)サービスだけでなく、リファラル(照会)サービスまで行っているところもある3)。図書や資料だけでなく、図書館以外の機関や人材などの情報を図書館が把握していて、それを紹介してくれる。そのことにより、貧しい人々や高齢者などの生活そのものを援助し、読書に不利な人々が読書できる条件を確保しようとしている。  現代都市青年にもアメリカとは違った意味だが、「知的貧困」「生活の貧困」がある。青年のこの新しい「貧困」の解決のためには、文書にされた情報にはとどまらない情報が必要になる。それは、たとえば青年に対して知的刺激を与えてくれたり、自己の生活を振り返らせてくれるような、機関や人材などのなまの情報である。  第四に私は「おもしろ的」性格をあげたい。現代都市青年はよく「おもしろおかしく生きている」と批判される。「おもしろい」はそこではマイナスイメージである。しかし、「おもしろがる」ということは、言い換えれば知的好奇心などの人間性の発露であり、個人や社会の原動力の一つであるはずではないか。  社会の成熟化の中では、大量の物的生産に恵まれながらも、その反面、人間性や生きがいを追求する努力が、これまで以上に必要となるだろう。そこでは、「まじめさ」「勤勉さ」だけでなく「おもしろく」生きられる資質も大切である。今日の現代都市青年が社会の主力部隊となる頃には、労働・余暇の双方において「おもしろがれる」資質が求められるようになるかもしれない。  ここで言う「おもしろさ」とは、たんに「瞬間芸」を見るようなおもしろさではない。「おもしろそうだから、やってみる」という「参加性」、義務感や管理社会の束縛から逃れて「おもしろいからこそ、やる」という「自発性」が息づいている。  ちなみに、ヤングアダルトへの魅力ある情報サービスも、サービスをする側が青年といっしょになって「おもしろがって」進めていくからこそ生まれてくるのだと思う。 (3) −2 青年が要求する情報と、青年に必要な情報  「学習課題」は操作概念として、「要求課題」と「必要課題」に分けて論じられることがある。  NHKの学習需要調査によれば市民の学習要求は、驚くほど、多様化、分散化している(●表2−1)。一〇%以上の人が「学びたい」としている項目は、全学習項目(三八七)のうち、四二にすぎないのである。顕在的関心(実際の学習行動率)に限ると、最高で華道の三%ということになってしまう。そして、七位以下は一%台、二二位以下は〇%台が続くのである。  こういう状況のもとでは、社会教育で講座などを開こうとしても、大部分の人が実際に参加してくれるような、何か素晴らしい学習テーマがあるというのは幻想でしかない。また、そんなに多岐にわたる学習要求のすべてをテーマとして取り上げることもできない。それよりも、公共性のある学習課題や人間として共通に求められる学習課題を一番の根底に位置づけながら社会教育事業を進めるべきであるというのが「必要課題」重視の考え方である。  ただ、その実際的な方法は未だ定説があるわけではない。たとえ少ししか人が集まらなくても「必要課題」を正面からテーマに取り上げて市民に問いかけることもあってよいかもしれないし、「要求課題」を配列しつつ「必要課題」に導くさまざまな方法も考えられる。あるいは「必要課題」とは、学習者が自己の要求にもとづく学習の過程の中で自ら気づくものであり、他者である行政が先回りして考える必要や権限はないとする者もいる。  いずれにせよ、この「要求課題」「必要課題」の論議は、簡単にいえば社会教育をとりまく次のような環境が発端となっていると考えられる。  今日の学習社会においてはとくに都市部で民間カルチャー産業が発展しており、学習要求が一定程度社会に存在すれば、その学習機会はそこが提供し、また市民も相当なお金を払ってでもそれを受講するようになっている。学習要求があるからといって、そのすべてを公的社会教育が準備し提供しなければならないという状況ではなくなったのである。  さらに行政改革の観点から「持てる者」の「個人の利益」にとどまるような学習については、公税を支出してまでそれを保障する必要は認められないと財政当局なども考えるようになってきている。社会教育行政はきびしくその「公共的意義」を問われているのである。  もちろん、これらの外的要因への対処のためだけに「要求課題」「必要課題」の論議があるわけではない。公的社会教育の内実が文字どおり「公的」であるためにはどうあればよいかという理念的な問題意識、そして社会教育の現場からの「市民の多様な学習要求のすべてに対応することは不可能である。どうすればよいのか」という実践的な問題意識も影響している。  さて、同様な意味での「要求(ウォント)」と「必要(ニーズ)」の概念が、ヤングアダルト情報サービスのあり方を考える上でも役立つと思われる。  もちろん、実際の情報の一つ一つを、この「要求情報」と「必要情報」に明確に区分したり、ましてやこの双方をつねに相反する存在として対置してとらえることはけっしてできない。とくに情報提供事業においては、ほとんどの「要求情報」をカバーしようとするものになるかもしれない。  図書館のレファレンスサービスなどでも、できるだけすべての文献に関する問い合わせに応ずることが基本となる。レファレンスを行う者は「操作性」などほとんど意識していないのが現実であり、それは正当なことである。  しかし、ヤングアダルト情報サービスでは、青年に対してどんな情報を提供しようとするのか。そこに生ずる「情報の範囲の選択」という「操作性」の正当な根拠を見出すためには「必要情報」の概念が有効である。青年に情報を提供することによって、何かをそこから学びとってほしいという、期待の中身を明らかにするのである。逆に情報過多社会において公的機関までが正当な「操作性」をもたずして、やみくもに情報提供することは、情報過多に輪をかけることになってしまう。  私は「必要情報」の概念は情報提供の理論構築の上でのキーになると考える。情報提供できない情報の種類(特定の党派・宗派・営利団体の利害に関するもの、医学的判断を要するものなど)をあれこれ詮索するよりも、現代都市青年への公的情報提供の根拠としての「必要情報」の種類を明らかにすることのほうが本質的である。「必要情報」への発展の見通しをもちながら、青年のさまざまな「要求情報」にはば広くこたえていくことが必要である。 (3) −3 人間の情報  現在、写真情報誌が数多く発行されている。過去の写真雑誌は風景や人物の撮影により、芸術的感性に訴えるものであった。それに対して今日の写真情報誌はむしろ「報道性」がその眼目になっている。これは、一見、人々の情報要求へのまともな対応のように思える。しかし、それだけでは現代都市の「社会的」現象としての写真情報誌の隆盛を解説することはできない。視覚に訴える点ではテレビ、報道の素早さならテレビやラジオ、詳しさなら従来の報道雑誌などのほうがよっぽど優れているではないか。  じつは、極端な「覗き趣味」こそ、写真情報誌の核心ではないだろうか。この写真情報誌にテレビなどでよく知っている有名人が載っているとする。しかし、それはテレビ向けの顔でない。一人のあたりまえの人間としての生きざまを「覗き見」できる。これが隠れた魅力なのではないか。個人の私生活を暴露する「ワイドショー」などが視聴率を稼いでいるのと同様である。  一方、現代人は、自分に関しては「匿名」でいることを望む場面が多い。その場合の「匿名性」とは、離れ小島に一人でいることではなく、自己のあり様を隠しつつも他者を覗こうとすることである。それは、人間が本質的に社会的存在であるがゆえに、他者との関係をあがき求めていることの表れとも考えられる。ただし、人間関係が疎外されている環境の中では、自己を明らかにすることが一方的不利益になるという認識があり、その「あがき」は空疎なものになってしまっている。  もちろん、匿名性は自己保身のマイナス面としてだけ機能しているわけではない。一方では、過去の村落共同体の「監視」から逃れ、自由な存在としての自己を発揮する機能も果たしている。  ヤングアダルト情報サービスが提供すべき人間情報とは、同じ人間としての他者の生き様を伝える情報である。その時、一次的には情報の提供を受ける側としての青年は「匿名」であってよい。その情報、その人間に対して非主体的であってもよい。そもそも「受け手」にとっての情報の魅力は率直に言って、それを「気軽に受け取れる」ところにある。  しかし、言うまでもないことだが、そこでの人間情報は自己の情報を伝えられる本人が承諾しているものでなければならない。むしろ本人の「自負できる」生き様である。その面では「覗き趣味」情報とはまったく反対の性格のものである。かといって、装った表層的な言動でもない。あくまでも同じ人間としての喜怒哀楽を内に含むような「生き様」だから意味がある。そうであって初めて、情報の受け手に「共感」が生まれる。この「共感」が、人間情報を受け手にとっても「関わり」のある情報にし、人間関係を創出する能力をよびさまし、ひいては「匿名性」の逆機能を克服する。  NHK教育テレビの幼児向けの番組の中に「パジャマでおじゃま」というコーナーがある(現在は歯磨きの様子もやっている)。これは、普通の幼児が一人でパンツ姿からパジャマを着終わるまでを放映するものである。バックにはリズミカルな主題歌が流れるだけの単純な構成である。実はこれはNHKが幼児のテレビ番組への関心の示し方の実証的分析を徹底的に重ねた上で開始したものであるという。大人が見てもけっこう面白いが、とくに幼児は同じ年代の普通の仲間のしぐさに関心をもつ。これが「覗き趣味」ではない「共感を伴った関心」である。  現代都市青年に対しても、青年の社会化のために直接的な「対策」をあれこれ講ずる前に、自然にそれを形成するであろう「人間の情報」を提供することに力を尽くすべきである。 (3) −4 生活の情報  今日、「青年がいかに生活しているかに関する情報」は大量に提供されている。青年の消費動向が社会経済に大きな影響を与え、また、将来の社会も青年たちによって担われること、そして、青年の社会問題が多発などの理由から、青年の情報について社会が関心をもたざるをえなくなっているのである。  たとえば、青年の就職状況の情報などもそうである。さまざまな調査報告がだされている。また、青年の消費動向なども企業の市場調査の重要な対象になっている。  ところがひとたび青年が自分の生活に必要な就職、消費に関する情報を探すとなると、今日の情報社会において、かえって難しい。たとえば、ある青年が就職や転職を考えたとする。青年の全国的な就職動向などはすぐ手に入る。しかし、その青年にとって知りたい情報とは、実際に社会でその仕事をしている人がどんな労働条件で、どんな働きがいをもってやっているのかということである。何時ごろ出社するのか。仕事はきついのか。帰りはいつも夜遅くなるのか。このようななまの情報を求めているのである。  そして、青年自身の要求にはなっていなくても本当は必要、という情報もゆきわたっていない。最近、街頭アンケート商法、クレジット商法などで青年の被害が急激に増えている。各地の消費者センターなどが被害防止のための情報提供に努めているが、とくに青年にはまだ十分にはいきわたっていない。青年に売るためのコマーシャルやカタログ誌などによる「商品情報」ばかりが多いのである。消費者情報などの生活関連の情報は都市化社会においての「必要情報」といえるのだが、青年とは遠い所に存在してきた。  これらの「生活の情報」は、ヤングアダルトに関する情報とは対照的な、ヤングアダルトのための情報といえる。 (3) −5 連帯の情報  現代の青年に、尊敬する人や、期待にこたえたいと思っている人を尋ねると、「親」という回答が非常に多い。しかし、「こんな人になりたい」というモデルについては、「なりたいと思う人はいない」という回答のほうが多い。(●図2−3)  過去の家族においては、手伝いをずいぶんさせられたり、きびしく叱られたりして、子どもにとっては心地良いだけの場ではなかった。しかし、少子家庭が増えたことなどから、今日の子どもは「大事に」され、家庭が最も居心地の良い場に変わろうとしている。それは青年期にまで引き続いている。アルバイトはしても、そのお金は全部、自分の小遣いとして使ってしまってよい。多くの現代都市青年にとって、家庭は、少なくとも今は、一方的に恩恵を受けることのできる場なのである。  「友人関係」についても趣味を同じくする者同士の「情報交換」や、気の合う者同士のたわいないおしゃべりはある。しかし、他者の人生に踏み込んだり、それによってぶつかりあったりはしない。だから、人間に対する深い洞察にはつながらない。「情報交換」のレベルの無難なつきあいである。  これらのことは「○○し合う」という本来の意味での人間関係の希薄化を表している。このような状況をそのままにして情報化が進み、人間関係をもたずして必要な情報が手に入るようになるならば、事態はますます悪化するだろう。  そこで、ばらばらに「たこつぼの中にいる」現代都市青年に対して、意識的に「連帯の情報」を提供することが必要になる。そのうち最も直接的効果をもたらすと思われるものは、同世代のグループ活動や世代横断的な集団活動の紹介である。これらの集団のあり方や進め方に関する情報も必要である。  しかし、なにがなんでも集団情報という姿勢では、青年はそっぽをむいてしまう。これらの情報をふんだんに提供するとともに、もっと「個人的」なつながりなども含めた、ありとあらゆる人間関係の機会と方法を豊かに提示することが大切である。ヤングアダルト情報サービスには、個人レベルの連帯までカバーするきめ細かさが求められている。 (3) −6 地域情報と行政情報  一般的にいえば、現代都市青年にとって、「要求情報」から一番遠い所にある「必要情報」が地域と行政の情報であろう。青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。非日常志向は、青年期の独自の発達課題の表れの一つでもある。  しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そのためには、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくことができるよう援助する情報提供を実現したい。  第一に、これらの「必要情報」が現代都市青年に充分には提供されていないという現実を認識すべきである。民間情報はもちろん、行政機関からのこれらの情報提供も少ない。たとえば遊休地のリストなど、都市計画の手の内をもっとさらして市民の議論をまきおこしたほうがよいのではないか。とくに青年に対してのそれらの情報提供は、彼ら自身の沈黙のせいもあるが、おざなりになってしまっている。青年向けの施設の設置なども、青年関係者の意見を聴くことはあっても、広く普通の青年に訴えて議論をよびかけることは少ない。  これらの情報提供は、青年の眼を地域や行政に向ける契機の一つになるはずである。とくに十代の青年たちには、自治への発言の場がほとんどない。自治のトレーニングの場としても、そういう場が必要である。  もちろん、いやがる者に無理にその情報を押しつけることはできない。広報を充実したり、問い合わせがあればそれにこたえる「構え」をもっていればよい。そのため、なかなか反応がないかもしれないが、少なくとも「害」にはならないのだ。  第二に、今あるこれらの情報をもっと開かれたものにしたい。地域情報、行政情報は、それぞれの地域と行政の「独自の課題」を示す情報である。しかし、それは偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」にもとづくものであってはならない。情報の特性は、「風」となって他の地域にまでいきわたるところにある。これを活かして、地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報はつねに他の情報と行き来する「開放性」があって、すなわち「風」が吹いてこそ、根腐れせずに生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」に関心を示さないことは、あながち不当なこととはいえない。  たとえば幹線道路問題などがそうである。自らの地域に該当する部分を考えるだけの住民運動や自治体行政では、本当の解決にはならない。視野が狭くなって、住民エゴや地域エゴに陥ってしまう。他の隣接地域ではどういう問題が起きているか、どのように解決しているか、広域的にはどのような必要性と問題性があるのかを理解し、さらには自らの地域の情報も積極的に外に広げていくことによって、主体的判断にもとづくいきいきとした活動ができるのである。  今はその地域に住んでいるが、いつか転出するであろう青年たちに対しても、地域は開放的であってほしい。十年後、二十年後にどこかの地域のスタッフになれるよう、今の地域が青年たちの「巣立」を援助すると考えてほしい。それは、閉鎖的地域主義に対する開放的地域主義である。  第三に、非日常としての魅力をもった地域情報、行政情報を、地域の中に「風」として吹きわたらせたい。  現代都市青年は、きまりきった情報にあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りたかもしれない。しかし、今日、住民が地域社会に関わる場合、自発的行為であることが多くなっている。何らかの形で情報を得て、魅力を感じた場合に地域に関わる。そういう地域活動の形態は、現代都市コミュニティの新しい理念型といえる。  本来、地域社会はダイナミックで人間的な場である。それは現代都市社会に生きる青年にとっては「新しい非日常」になりうる。今は地域に埋もれてしまっているその魅力を拾い上げ、情報の「風」として地域に吹きわたらせることが求められている。 (4) 青年とともに育つ情報サービス (4) −1 「ともに育つ」情報提供  青年は行政の広報をあまり読まない。彼らは、それを「つまらない」「役に立たない」と思っているのではないか。  いうまでもなく、広報は市民の行政への理解と発言(広聴)を求めるために必要である。しかし、行政自身が市民に「何とか読んでもらいたい」と思っているだろうか。「広く知らせること」が、行政にとっての切実な願いになっているだろうか。読まれようが、読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけでは広報の「中身」も育たないのである(最近は、その面での改善は、各所で見られるようになってきているが)。  つねに競争にさらされる民間誌は「読んでもらう」ことを切実に願っている。読者のニーズを敏感にとらえて中身を構成し、グラビアやイラストなどの外観でも人の目を引こうとしている。たとえば、自分たちの意思で発行しているミニコミ紙でさえ、「いい『情報』を読んでもらうためには、その『いい情報』を少し減らしてでも、手に取って読んでもらう努力が必要です」4)として、その第一面の大部分をイラストで飾ったりして、親しみやすい紙面を工夫しているのである。  民間の情報提供には、このような「市民感覚」がある。それは、フィードバックを活かして情報提供の中身をすみやかに改善することにもつながっている。こうして、情報提供側にも「市民感覚」が育っていく。ヤングアダルト情報サービスは、この精神に習うべきである。「青年感覚」が必要なのである。  「青年感覚」とは、現代都市青年の情報ニーズを理解していることである。そのことによって初めて、彼らに「関係のある」情報を提供することができる。しかも、それは、青年からのフィードバックを高める。情報提供側の「市民感覚」「青年感覚」は、そのことによってますます育つのである。  民間の情報提供は「市民感覚」そのものであるが、それでは公的情報提供はそれよりもつねに劣っているのが宿命なのか。けっしてそうではないだろう。  民放の教育番組に関する自主的な連絡調整団体ともいうべき「民間放送教育協会」は毎年、全国大会を開催している。そこで毎回のように、フロアのお母さん方から、「俗悪番組を少なくして、その分、教育番組を増やしてほしい。それをゴールデンタイムに放映してほしい」との注文が出る。そして、この注文に対していつも壇上のディレクターたちは「これでも頑張っているつもりである。教育番組の低い視聴率を考えると、これでもせいいっぱいの努力である。ゴールデンタイムに放映するなど、とっても無理である。あとは、たくさんの皆さんに見ていただいて視聴率を上げるしかない」という趣旨の受け答えをする。彼らは、放送の「公共性」を実現するために、精いっぱいの努力をしているのである。しかし、民放としての性格上、視聴者の表面的ニーズに対応できたかどうかを数量的に示す視聴率にも縛られざるをえない。  ヤングアダルト情報サービスは、これとは基本的に性格が異なる。青年の表面的ニーズにこたえる情報提供だけをするのではない。「必要情報」を提供することもその本来の責務である。そこに民間とは違った公的な意味がある。  ただし、これらの「必要情報」の判断、収集、選択、提供においても、説得力がなければならない。「押しつけ」になってはいけない。現代都市青年の感覚と遊離した感覚で、青年にとっての「必要」を社会や行政が設定しようとするならば、そこで設定された「必要」と青年自身が考える「必要」とが対立してしまう。  今日まで人類の獲得した発展の多くが、人間のなまなましいニーズから生まれたものである。今の青年のニーズをないがしろにしてはいけない。もちろん、大切にすべきニーズの中には、今までの社会にすでに形成されている行政や大人たちのニーズも含まれる。しかし、現代都市青年の今のニーズの中には、将来の社会のニーズがすでに「遺伝子」のように用意されているのではないか。たとえば、すでに述べたように「おもしろい情報」の要求は、「参加性」や「自発性」の原初形態であり、将来の社会のニーズの本流になる可能性も秘めている。  ヤングアダルト情報サービスがなぜ「必要情報」を提供しようとするのかといえば、それは、青年が自ら気づき、「要求情報」の中でもとりわけ必要な情報を「要求」できるようにするためなのでもある。したがって、「必要情報」の提供においても、一方的に青年に教える立場ではなく、今の青年の「要求情報」を大切にして、そこから行政は学びながらも、青年に問題を提起し、彼らの自己成長を期待するというともに育つ姿勢が大切である。  たんに情報処理システムやそのための行政システムだけを先行させるのならば、ヤングアダルト情報サービスは成功しないだろう。その前に、既存のさまざまな公的情報提供を担当する職員が、もう少し現代青年の感覚をリアルに認識していなければならない。 (4) −2 ネットワークとインフォメーションリーダー  情報の収集から提供にいたる作業には人間の認識を育てる作用が内包されている。したがって、ヤングアダルト情報サービスには青年の参加が望ましい。情報処理の作業の「代行」を行政がすべて請け負ってしまってはいけない。行政の青年政策への青年自身の参加一般も大きな意義をもっているが、それとは別に、情報提供においての青年の参加は独自の教育的意義ももっているのである。  青年参加の具体的なシステムとしては、情報モニター制度を設けてフィードバックを図ったり、企画委員会や運営委員会などへの参加を求める方法がある。しかし、モニターや各種委員は限られた青年である。そのため、参加する者の範囲を広くし、中身を豊かにする「鍵概念」として、「ネットワーク」が注目される。また、ネットワークそのものの「鍵」も「情報」である。  ネットワーキングとは、それぞれの人やグループや機関が、それぞれ自立的な価値をもちながら、連携することであるととらえられよう。そして、その連携は固定的ではなく、ゆるやかで自由、自発的なものである。5)  質の良い新しい情報も、まり、「固定」からは生まれない。ネットワークシステムにおける青年の流動的参加にこそ、創造的成果が期待できる。流動的であるから、参加する青年の顔ぶれや参加の内容、形態がつねに移り変わる。参加の「形式」より、参加する者の個別な「中身」を重視するのだ。  この論には現実論からの反駁が予想される。それは、無関心な青年が多い中、ごくわずかの委員を募集することでさえ容易ではないのに、そんな「不特定多数」の自発的参加が望めるわけがないというものである。  しかし、現代の情報の特性は青年の参加をいざなう新しい可能性をもっている。  一つの可能性は「インフォメーションリーダー」ともいうべき青年たちの存在である。彼らは、情報化社会に新しく登場した情報保有者および発信者である。コミュニティの崩壊の中で、近隣関係などのパーソナルコミュニケーションは弱まってしまった。しかし、それに代わるコミュニケーションの良き仲介者として新しいインフォメーションリーダーが誕生してきたのである。  従来のリーダーには、奉仕的精神や、時には自己犠牲的精神が求められてきた。しかしインフォメーションリーダーは、ものごとに対して好奇心が強い者、おもしろがることのできる者である。だから新しい情報をもっている。彼らはグループリーダーそのものにはなりえないかもしれない。しかし、その開放的で先取的な性格は、インフォーマルなグループのアンテナの役割を果たしているのである。  ヤングアダルト情報サービスが彼らにとって魅力があれば、彼らはこれに参加するだろう。彼らの自発的参加によって「青年感覚」にあふれたダイナミックな情報の収集と提供ができる。そして、彼らは、インフォーマルな影響力をもっているのであるから、この情報サービスの存在と、そこで提供される情報は、彼らを通してインフォーマルなグループの中に広がっていく。それが、今まで行政には「縁がなかった」ような広い層の青年の参加をよびおこすことを期待できるのである。  ヤングアダルト情報サービスは、インフォメーションリーダーのインフォーマルな影響力に期待する。彼らの影響力は、団体のリーダーのような指導的なものではない。対等な立場で他者に対しても「自立的価値」を求め、その個人的なつきあいの中で、価値のある情報や楽しい情報を発信するネットワーカー的なものである。 (4) −3 パソコン通信の活用  青年の参加をいざなう現代の「情報」の特性のもう一つの側面として、情報技術の高度な発達があげられる。中でも私は、パソコン通信に注目したい。パソコンと電話とそれをつなぐモデムがあれば、あとは通常の電話料金の負担だけで、在宅のままリアルタイムな情報の入手と検索、そしてそれ以上の魅力として「情報の発信」ができる。実際、いくつかの商業ネットは、ホストコンピュータにつなぐ電話回線をたびたび増設しているが、それでもいっぱいになるほどの利用率を誇っている。検索主体のキャプテンシステムが、企業にはともかく、青年にはあまり活用されていないのとは対照的である。  他の事業の企画への参加と異なり、情報については、現代の情報技術をうまく利用すれば、それほどの覚悟なしに気軽に参加でき、しかも直接、主体的参加ができる。ネットワークが「情報」を「鍵概念」とする理由の一つも、この情報の「魅力」にあるのだと考えられる。  だが、そうは言っても、パソコン通信で青年が発信する情報の内容に全面的に期待できるかというと、実は残念ながらそうではない。  商業ネットの一つ、アスキーネットワークの中に、ブレティンボード(掲示板)システムというのがある。ここにさまざまなテーマのボードが設定されている。メンバーは、自分のパソコンから、好きなボードに自由に意見を書き込む。  その一つに「グッドアース」というボードがあった。地球的規模から核兵器、環境、人口爆発、エネルギーなどの問題を考えようとしたものである。ところが、半年でたった二七件しか書き込みがなかった。これに対して喫茶店、アニメ、コミック、アイドル、SFなどは千件以上の書き込みがあり、二千件を越えるところすらあったという。青年が情報ネットワークに参加するといっても、たわいないおしゃべりが多いのである。  「グッドアース」については、不活発(すなわちニーズが少ない)という理由からシステムオペレーターのアスキー側から閉鎖を通告された(昭和六一年秋)。これに対して関根章郎氏が、廃止反対のよびかけをボード上で展開した。それを契機に他の青年からの書き込みが増え、「こんな本が良かった」という読書情報が交換されたり、その感想を述べあう「電子読書会」がボード上で開かれたりした。このようにして、「グッドアース」は結局、継続されることになった。  ヤングアダルト情報サービスにおいても、パソコン通信を活用したい。そこでは、「くだらない情報」を排除しようとするものではないが、「好ましい情報」なのに反応が少ないからといってそれを排除するものでも、もちろんない。「必要情報」も提起しながら、情報の中身をともに育てることができるところが、公的情報提供の良いところである。  なお、関根氏によれば、株式会社アスキーは「グッドアースの廃止宣言」によって、青年が発信するふがいない通信の中身にショックを与えようとしたのではないか、とのことである。時には、このような緊張関係の演出も必要なのかもしれない。 (4) −4 情報ユースワーカーの役割  現代都市青年は「情報不適応」を起こしている。それにさらに追い討ちをかけるようなヤングアダルト情報サービスであってはならない。そのためには、もう一つのファクターとして、人間、すなわち情報サービスを青年につなぐ「情報ユースワーカー」の存在が必要になる。  青年のための情報処理とは、情報をコンピュータで「交通整理」すれば済んでしまうという性格のものではない。担当者という人間の意識が介在する。その人自身に、「青年感覚」が求められる。この感覚をもっている職員が情報ユースワーカーである。  ヤングアダルト情報サービスにおけるユースワーカーは、青年の情報不適応に共感と支持を与えることさえあってよい。きわめて人間的な機能を発揮する。たとえば、青年担当の社会教育主事、公民館主事もその一員であろう。一般行政施策などの意図に縛られずに、情報サービスを自律的に、しかも、ともに育てていく。ワーカーの役割は次のとおりである。  一つには、カウンセラーとしての役割である。青年の情報摂取者としての自立を助け、都市化や情報化などによるパーソナルコミュニケーション能力の喪失の自己回復を援助することが求められるのである。そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法を適切な時に有効に活用する能力が必要である。  グループワーカーとしての役割もある。一対一の関係を原則とし、しかも相手が人生の問題をかかえていることを前提とするカウンセリングよりも、むしろグループワークのほうが情報ユースワーカーの日常的役割に近いかもしれない。さらに、グループワークの中でも、神経症者を対象とするグループ・セラピィより、健常者の自己啓発を求めての主体的参加を前提とするエンカウンター・グループのリーダーの役割に近い。  グループ・セラピィにおいては、「セラピストは先ずメンバーの依存の対象である」。これに対してエンカウンター・グループにおいては、「(そこまで)各メンバーとのつながりはつよくない。メンバー個人よりはグループ全体とのつながりが強い。セラピストといわずファシリテーターというのはその意味である。つまりセラピストが舞台監督とすれば、ファシリテーターは舞台装置家という感じである。場面設定者という感じである」。そして「メンバーの役割もこなす」。6)そこには、理念でも、形態でも、実践でも、「ともに育つ」姿勢がある。  そもそも、エンカウンター・グループは、都市化、情報化が進んで人間どうしのなまの触れ合いが少なくなり、その能力さえ失いつつある今日の時代における、危機意識に満ちた取り組みといえよう。そこでは「極端」なまでに本音がぶつかり合う。  その世界を情報ユースワークにそのまま持ち込めば良いとはいえない。ただ、青年の情報不適応にきちんとこたえるためには、エンカウンター・グループでいうようなファシリテーターの役割がどうしても必要なのである。なぜなら、現代都市青年の情報不適応は情報社会の中での人間復活の叫びであり、これに根底的にこたえるためには、人間関係創出の「舞台設定」以外にその本質的解決はないからである。 (4) −5 情報サービスと「教育的役割」  情報ユースワーカーは「教育的役割」ももっている。しかし、すでに述べたように、青年の主体的営みこそが青年の主体性をはぐくむ。だからこの場合の「教育」もけっして「教え諭す」ものではない。原則としては、青年の求めに応じた「援助」であり、青年の主体性を尊重した上での「きっかけ作り」である。そのためには、良い情報提供のできる能力と、ファシリテーターとしての資質を備えていなければならない。  しかし、そういう「援助」だけでは不充分である。実は、青年の主体的な情報取得と判断を援助するためには、青年の求めるままには応じないことも必要な時がある。たとえば、青年の問いに対する答えがわかっていても、情報提供側の判断によっては、それを教えない時があってよい。青年が自分で解答を見出せるように、それを調べる方法だけ教えるのである。ただし、「教えるべきか」「教えざるべきか」の判断はけっして機械的にはできない。だから、その判断ができる情報ワーカーがいない場合は、わかるだけの情報をすべて機械的に提供したほうが無難かもしれない。  ワーカーのいる場合は、時には「回答拒否」もありうる。新聞社の人に聞くと、「ナポレオンは何年に死んだか」などという青少年らしき者からの問い合わせがけっこう多いそうである。「当社ではそこまではお答えしていません」と答えると、心外な様子でガチャンと電話を切ってしまうという。自分で調べればわかる宿題などでも、電話のほうが簡単だからと気軽にかけてくるのである。  ヤングアダルト情報サービスにも、きっとそんな問い合わせがくるだろう。そんな時、それに巧みにつきあうことがあってもよいし、「回答拒否」をしてもよい。ワーカーが有効と判断するほうをとればよい。「拒否」をする場合も謝る必要はない。本人が自力で調べることができるかどうか確認した上で、自分で調べるよう求めればよいのである。そのためには教育的配慮をもち、教育的判断ができ、そして青年との関係(リレーション)をあとでフォローできる能力と資質が必要になる。  このように、ヤングアダルト情報サービスに情報ワーカーの存在があってこそ、「ともに育つ」ことが保障される。「ともに育つ」ということは、青年が行政におそるおそる情報を「もらいに行く」ことでないのはもちろんだが、行政が青年に「へつらう」ことでもない。対等でしかも緊張した関係こそが、ともに育つ内実を豊かにするのだ。  情報ユースワーカーのもう一つの役割として、行政と青年をつなぐ「行政職員としての役割」をつけ加えておきたい。ワーカーの「自立性」を拡大解釈して行政職員としての要素を否定しようとするよりも、行政職員としての責務と可能性をむしろ充分に発揮しようとするほうが、現実的で有効である。  たとえば、ヤングアダルト情報サービスの中には、行政の立場からの「青年への情報提供」もあったほうがよいことはすでに述べた。そのためには、ワーカーは、都市計画などについても知っておかなければならない。逆に、青年の意思を行政に反映させるための「行政への情報提供」も必要となる。行政内のスタッフとして、行政に提言するのである。そのためには、その問題の行政施策全体から見た位置づけを把握し、かつ、具体的に窓口やルートを知っていなければならない。  行政と青年の間にいる職員として、両者の緊張関係を調整したり演出したりして、行政と青年が「ともに育つ」ようにつなぐことも、情報ユースワーカーの役割なのである。 (4) −6 情報と知的生産  現代都市青年の「モノ離れ」は、よかれあしかれ、ソフト化社会、成熟社会において避けられない傾向であろう。モノの実用性よりも、個人の内面的な価値観や他者からの情報によって価値判断がなされる。  たとえば、おしゃれに関する青年の「ブランド志向」は、たしかに特定ブランド商品というモノへの志向として表れている。しかし、その一番の価値基準は着ごこちでないばかりか、外観ですらない。一番の基準は、ブランド名なのである。そして、そのブランドが良いかどうかは、自己の体験ではなく他からの情報により決定される。モノ自体より、それを一側面から「切り取った」結果としての情報(「原宿で、はやっている」など)に判断の基準を見出す。そして、生産者側も、物的過剰の時代において、もっと消費を拡大するために情報重視の戦略にますます傾いていく。  しかし、この「モノ離れ」と「情報重視」の傾向も、「多面体の一面」としてとらえなければならない。たとえば、今日の「食」は一方では大量宣伝にのったファースト・フードなどの食「文化」を生み出している。その反面、今日ほど人々が主体的、意識的に健康食、自然食に取り組んでいる時代は過去にない。有機農法、無農薬の食料を求める底流には、人間が食を媒介にして大地とどう関わりをもてばよいかという根源的な問いがある。自分一人の健康を守るだけの「健康食志向」から、地球の生態系に責任をもち、人間らしい生き方を問おうとする「自然食志向」のムーブメントに発展してきている。そこにも、人間どうしの情報の交流が見出される。そして、他者からの情報を、知的、主体的に受けとめた上での、食の「文化」が形成されようとしている。  このように「モノ離れ」と「情報重視」には積極的側面もある。そのもう一つの表れとして、モノの生産ではなく個人の「知的生産」への志向があげられる。  梅棹忠夫は、「知的生産」という言葉について「人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合」7)とした上で、「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらにはしらされる、ということにもなりかねない」8)として、「個人の知的武装」の意義を強調した。情報は、組織が個人を管理する道具にもなるが、個人の自由な知的生産の手段にもなるのである。  ヤングアダルト情報サービスが関わる知的生産とは、青年自身の手による調査・研究・開発であろう。講座の開催だけでは、その援助はできない。青年の知的生産への、もっと個別的な対応が必要になる。それが、情報提供と研究相談である。そこで生み出され、収集・整理・提供される情報は、そもそも青年のつくりだした知的、かつ主体的な情報であるから、今日のあり余る情報の中でも、とりわけ価値をもっている。  それだけではない。「知的生産」は日記などを除いて、その大部分が他者に自己の知的生産物を提供する目的で行われる。形態としては「個人的行為」であっても、根底に流れる意図からいえば「社会的行為」である。  ヤングアダルト情報サービスによって、この知的生産の「社会性」を強化することができる。それは、一つには、個々の青年の知的生産の相互を結ぶ。もう一つは、それらの知的生産を情報サービス自体に還元する。さらには、知的生産の結果を、行政や社会全体に知らせ、つなげていく。  青年の知的生産という創造的な営みのネットワークによって、ヤングアダルト情報サービスは、創造的で人間の臭いのする魅力ある情報の発信源となることができるであろう。それは、現代社会がなかなか実現できないでいる情報社会の理想の方向を示している。  「情報」の「情」には、「ありさま」という意味がある。青年が必要なさまざまなことがらの本当の「ありさま」を知らせる情報は、情報過多の都市社会においても、思いのほか少ない。そして、この「情」は、「こころ」としての「情」とけっして対立的なものではない。ヤングアダルト情報サービスは、現代都市社会に欠けがちな二つの「情」を豊かにする試みである。 2 パソコン・パソコン通信と青年  −成熟したネットワークとは何か− (1) パソコンの急速な普及と未成熟性 (1) −1 青少年から始まったパソコン  カリフォルニア州のシリコンバレーでは、六〇年代以降、トランジスタからICへ、そしてLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、一九七一年、4ビットのマイクロプロセッサーが出される。マイクロプロセッサーに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピュータ、すなわちマイコンになる。  しかし、当初すぐ日本のコンピュータのメーカーが、このマイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。大手企業が家電製品の中ににマイクロプロセッサーを組み込むということはあったが、コンピュータメーカーが個人用のコンピュータなどというものを本気で考えるようになったのは、ずっと後の八〇年代からである。  早くからマイクロプロセッサーをマイコンとして使おうとしたのは、青少年を中心としたホビイストたちである。そういう人たちに向けて、ごく小さな会社が「キット型マイコン」を売り出したのであった。つまり、初めにマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業の大人ではなく、巷の青少年だった。しかし、そのころのマイコンブームは、秋葉原などの露店を拠点としたごく一部の人々によるものであった。  その後、八〇年代に入って、ようやく日本でもキーボード、ディスプレイ、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、以降、それは大変な勢いで普及している。これが、今日では「パソコン」(パーソナルコンピュータ)とよばれているものである。  この普及のきっかけになったのは、日本で初めてベーシック言語を搭載したパソコン(日本電気のPC8001)である。これは、ゲームセンターで「インベーダー」が大流行した一九七九年に発売された。しかし、ここで搭載されたベーシック言語も、また、大学中退の青年たちが創設したベンチャー企業のアスキー社がアメリカから持ち込み、メーカーになんとか採用してもらったものである。  また、今日のパソコンソフトの主要な一環である「表計算ソフト」も、一九七九年、社員わずか二名のアメリカの会社から「ビジカルク」が発売されたのが最初である。これがマイコンを有能なパソコンに変えるソフトとして、以降のパソコン利用に大きな影響を与える。パソコン文化は、従来の商業文化よりははるかにアマチュアやベンチャーの文化であり、そのユーザー寄りの発想が新しい文化をつくりだし、既成のメーカーはその後を追ってきたということに注目したい。  しかし、当時のパソコン利用の中心は、何といってもゲームであった。一九七二年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出されているが、その後、日本では「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」といったLSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがパソコンに移植され関心を呼ぶことになったのである。  数年来、パソコン通信をやっているSさんは、インタビューで次のように語っている。「(一九七九年にPC8001を買ったが)まったくのゲームマシンでした。というか、そのころはやはりマシンがおもちゃにしかすぎなかったんですね。それでベーシックでプログラムを組んだり、雑誌に出ているマシン語のプログラムを入力して、非常にスピードの速いインベーダーを組んでみたりとか、そういうレベルでまあ面白かったわけです。それでもけっこう時間をくってましたね」。  このように、当時のパソコンによって、Sさん自身の言葉を借りれば「機械と人間との対話が成立」し、「ハイテク志向というか、コックピット症候群というか、少年のころ抱いていた憧れが、ついに手に入ったという感動」を青少年は味わったのである。 (1) −2 パソコンの機能と新しい文化  八〇年代以降、パソコンは急激に普及する。本体だけならステレオを買うような値段で買えるようになったからである。しかも、従来の家電製品と違って、多機能である。  パソコンは汎用的なので、その機能はどのようにも解釈できる。しかし、技術的視点はおくとして、社会的、文化的な視点から、私はパソコンの機能を●表2−2のように整理してみた。  今や、パソコンは青少年の専売特許ではない。表のようなパソコンの多機能化、高機能化が、とくにキャッチアップ志向の人々の関心をひき、大衆化が促進されている。  そして、文化が「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」(クラックホーン)だとすれば、ここには新しい特殊なパソコン文化というべきものが存在しているということができる。ここでパソコン文化とは、「パソコンの発明と量産・普及という技術的条件によって、新しく生まれつつある生活のスタイルや価値観」としておこう。  そもそも、パソコンは、仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をさせることができる機械である。パソコン文化の新しさの最も基本的な要因となっているのは、この「汎用性」である。  第一に、「汎用」であることから、一人一人の個別な要求に沿って、多様な仕事をすることができる。従来の大量生産、大量消費による文化の「画一性」とは、様相を異にする。パソコン利用の「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する。(個別性)  第二に、「汎用」ということから、パソコンという与えられた箱だけあっても、何の役にも立たないということになる。この箱を役立たせるためには、一人一人の何らかの主体的力量を必要とするのである。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことから始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには「簡易言語」などによって自分の求めるプログラムを自分の手で作ってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者のわずらわしさを解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたのとはまったく逆に、パソコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)  第三に、「汎用」ということから、今までにだれも考えつかなかったような仕事をさせることも可能である。お膳立てされたものの利用にだけ役立つのではなく、個人が自由に工夫をこらして仕事をさせる余地がある。しかもその「工夫」の結果が明快に表れることから、大きな達成感を味わえる。(創造性)  このように、パソコン=パーソナル・コンピュータは文字通りパーソナルな汎用的道具として登場している。そして、これまでのテクノロジーの発達の上にありながらも、今までの消費文化とは異なる文化を生み出そうとしている。それはひと言でいえば、文化面における「個人の自立」を保障するものであり、また、機械側の事情からも、それを人間に要請するものなのだ。 (1) −3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化  しかし一方で、パソコンがそのような使い方をされずに、従来の「産業文明」の枠組の中だけで利用されている現実も、われわれは認めざるをえない。パソコンの普及があまりに急速であったため、新しい文化創造のツールとしてのパソコンの可能性がまだ十分には発揮されていないのである。  その表れの一つはパソコン利用の「孤立化」である。  「テクノストレス」下の人々にとって、コンピュータ相手の仕事は苦役ではない。むしろ与えた仕事をものすごい速さで正確にこなしてくれるコンピュータに、慣れ親しんでいる。しかしその分、のろまでイエス・ノーのはっきりしない本物の人間とは、つきあっていられなくなってしまうという。9)  しかもパソコンは、いったんマシンに向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きで、まったく他人に関係のない内容の仕事をさせてもよいし、その成果を一人で味わい、満足することもできる。パソコン利用そのものが即目的化してしまう。パーソナルすぎるのである。  もちろん、たとえば「表計算」であれば、ディスプレイを前にしてみんなでわいわいやりながら数字をあれやこれや変えてシミュレーションしてみることができることなどからわかるように、パソコン自体が人間の交流を拒絶しているのではない。使い方によっては交流を促進する機能さえもっている。ところが、人間の行っている組織運営のほうが、パソコンのもつ交流機能を実現するほど柔軟ではないのだ。  二つは、マシンの「単機能化」と利用形態の「専門化」による人間の「没主体化」である。  たとえば、ワープロやビデオテックスなどは、パソコン機能でカバーできるのだが、別途に専用機として売り出されている。このようにメーカー側がパソコンの「汎用性」を減じて、扱いやすいけれどその分、出来合いの仕事しかしない専用機の生産に傾くならば、パソコンは今までの家電製品と変わりないものになってしまう。実用化、焦点化された分だけつまらなくなってしまうのである。誰にもわかりやすくということは大切なのだが、それはたとえばシステムがシンプルであり、ソフトが親切であることでカバーすべきである。  また、ユーザー側も、市販ソフトでゲームに興ずるなどのパソコン利用の初歩の段階で満足してしまうなら、「汎用性」は活かされない。あるいは、産業活動の面でも、パソコンオペレーターなどの専門家にすべて任せてしまう方向をとるならば、過去の「産業文明」におけるオートメーションによる分業化となんら変わらないものになってしまう。  職場などにおいて人間は何も考えずにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性を、コンピュータ文明はもっている。これは極端に「専門化」した利用形態である。  実際、職場にワープロが導入された初期のころは、多くの上司は、自分で手書きした文書まで、部下にワープロで清書するよう命じた。しかし、本来、ワープロはその豊かな機能から見て、「清書マシン」ではなく「推敲マシン」というべきである。「推敲」は、人間の側の役割であり若干の苦しみを伴う。この「推敲」をワープロの上で完成した時点で、ワープロのほうが「清書」を完成させてくれている。「清書」が完成しているから、これをそのまま発信できる。このように「清書マシン」→「推敲マシン」→「コミュニケーションマシン」として、ワープロをとらえ直さなければならない(今日では、かなりその状態に近づいているようだ)。  もともと、パソコンはアマチュア(またはベンチャー)がパーソナルに(または家内工業的に)つくりだした文明である。パソコンは、アマチュアのパーソナルな、その分、全人的な文化を支援するツールである。  三つは、パソコンの「物神化」である。これは、いまだ根強く残っているキャッチアップ志向の一種であり、「ハイテク強迫症」のなせるわざともいえる。  そこでは、パソコンの有用性が誇張され、それを活用しないと「時代に乗り遅れる」あるいは「損をする」という強迫観念が風靡する。そして、パソコンマシンというメカ=「物」自体が「神」のように崇め奉られ、パソコンを必要に応じてどう役立てているかではなく、新しい機器をどれだけ使っているかが、個人や組織の評価の基準になってしまう。  しかも、これに呼応してパソコンメーカーは次々と「上位」機種を発売する。「四年で半額になる」といわれるまさに「成長市場」(「成熟市場」ではなく)のコンピュータ関連企業にとって、それは今のところの経済社会における役割といえなくもない。  しかし、本質的あるいは将来的にはパソコン文化はこのような「物流」の世界のものではなく、「情報化」を基盤とする文化というべきである。というのは、パソコンはその汎用性と使い勝手の良さの保持のためには、シンプルなほうが良い。個別の用途のためには、個別のソフトなどでまかなえる。だとすれば、その時に重要なものは、もはやメカの良し悪しではない。重要なのはソフトを含めた「情報」であり、もっとつきつめていえば、本来の「神」であるべき「情報」、すなわち人間の発信内容そのものなのである。価値がモノから情報に変わること、これこそ真の「情報化」というべきであろう。  ところが、そのためには今日のパソコン生産では残念ながら不十分である。そのもっとも大きな問題は、ソフトなどの機種間のコンパチビリティー(互換性)の欠如である。この「欠如」も「買い換え」を誘発するためのメーカーの戦術ではあろうが、そのためにせっかく豊かに作り出されつつある「情報」のほうが容易には流通・共有できなくなってしまっている。これは、社会的損失というべきである。  その点、パソコンの万国共通の設計思想(TRONなど)が「有志」(企業ではなく)の手により構築され、財産権としての著作権を放棄までして提唱されていることは、コンパチビリティーの重要性を示すと同時に、私たちにこの問題に関する楽観を与えてくれるものでもある(当時)。さらにいえば、人々のコンピュータリテラシーの修得を公的機関が援助することは、こういうことを理解し、応援することのできる「賢い(情報の)消費者」になるための学習を援助することでもある。  そして、今日のコンピュータの「物神化」傾向にもっとも対比されるべきと私が考えるものが、パソコン通信によるパソコン利用の「成熟化」である。  パソコン通信は、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したニューメディアの一つとして、多量の情報を高速にやりとりすることができる。しかし、パソコン通信をする人たちにとってそのような「モノ」それ自体の素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。それよりも、「双方向性」をもったニューメディアであるという点が重要である。  パソコン通信はたいした「覚悟」なしに手軽に参加できる。しかし、その参加は手軽ではあっても、そこでの情報交流は直接的であり主体的である。これがパソコン通信の魅力なのである。  事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を良しとする。さまざまな機器の助けを借りていることは忘れてしまって、機器が「透明」になる感覚を良しとするのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。  豊かなモノに囲まれた現代青年にとって、パソコン自体はあこがれの対象にはなりえない。情報交信ができるというパソコンの本質を知っている(クオリティ・コンシャス)だけのことなのである。彼らは、成長時代の「ブランド依存」の人たちのようにモノをステータス・シンボルなどとしては扱わず、自分で実際に試して良ければ、その人なりに使いこなしていく。モノを溺愛するようなことはない。  大衆文化の新しいトレンドとしての「パソコン文化」を見極めていこうとするなら、成熟したパソコン利用形態としてのパソコン通信こそ、われわれの関心の対象の一つとすべきである。これを、ネットワークとしてのパソコン通信とよびたい。 (2) ネットワークを体現するパソコン通信 (2) −1 新しいコミュニケーション環境  ひと言でいうなら、パソコン通信は、情報処理なら「何でもできる」。もっとも、パソコン通信でテレビのニュースを見ることはできないのだから、正確にいえば「もっぱら、文章としての情報の処理なら」と限定すべきであるが(現在、メンバーが作ったプログラムや静止画、音楽などのやりとりは行えるようになってきている)。  たとえば、発信された情報を次から次へとためこむ。それをどんなメンバーでも、読んだり、反応(レスポンス)を加えたりすることができる。逆に、特定のメンバーや個人にだけ、読めるようにすることもできる。あるいは、発信内容をためこまないで、その時交信(アクセス)している人だけで、ふだんの会話のようにやりとりすることもできる。また、情報発信者、発信内容、発信日時などが自動的に記録されるので、株式や商品の注文、会合などの参加申し込みに使うことも可能である。  パソコン通信が可能にしたこのような情報処理の条件は、新しいコミュニケーション環境を私たちに提供するものである。パソコン通信は、ニューメディア=「新しい」メディアなのである。その「新しさ」の特性を端的にまとめるならば、次のとおりである。  第一に、双方向的である。しかもそれは、アナライザー(反応分析装置)がもつ「双方向性」のように、一方の側の意図だけにもとづくものではなく、双方の主体的な意思と行為にもとづくものである。  第二に、即時的(リアルタイム)である。情報発信者が発信したい時に発信する。その瞬間、他者によるその情報の受信が可能になる。もちろん、他者はそれ以降の自分の都合の良い時間に、それを受信することも可能である。  第三に、空間超越的である。つまり、交通手段などのような物理的制約がない。在宅時はもちろん、電話がある所ならどこでも同じ条件で通信できる。  第四に、検索が可能である。ホストに蓄積された情報は、メニュー化されて表示される。ここから、自分のパソコンで指令して、欲する情報を引き出すことができる。  第五に、蓄積が可能である。発信された情報をホストコンピュータなどに蓄積することもできるし、受信者が好きな情報だけ自分のパソコン(端末)の記憶装置に保存することもできる。  第六に、端末処理がかなり自由である。通信内容を自分のパソコンに文章(テキストファイル)として記録できる(ダウンロード)ので、自分のパソコンを利用して、あらためてそこから必要な記事や箇所だけを抜き出したり、加工したり、印刷(プリントアウト)したりすることができる。通信内容が、簡単に「印刷媒体化」されるのである。  テレビも出た当時はニューメディアだったのではないかという人もいる。しかし、今日のニューメディアは、情報が電子化されることによって、大量、迅速、かつ応用自在に流通するようになっていることが、今までのメディアになかった特徴である。パソコン通信は、後者の意味でのニューメディアの一つである。  しかも、パソコン通信は、他のニューメディアより「双方向性」がけたはずれに強力である。これが、パソコン通信を楽しく、きびしい、独特のメディアにしている。 (2) −2 スタンド・アローンがネットワークする  私は、ネットワークの特性は「自立」と「依存」の統一であると考える。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。「スタンド・アローンがネットワークする」のである。  このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「依存関係」に対して、「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対して、「依存関係」が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。10)  従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これが、一定の「安定」をもたらした。  しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。「安定」のみを重視する人には耐えられないシステムである。  それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。その意味で、ネットワークは人間以外の動物にはありえないものでもある。  ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれる。しかし同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものでもある。  パソコン通信がこのような意味でのネットワークシステムであるためにもっとも大切な条件は、繰り返しになるが「双方向性」である。  複数、または多数の他者をNとするなら、テレビは1→Nである。電話は双方向ではあるが、基本的には1←→1である。これに対して、パソコン通信では、1←→1(電子メール)、1←→N(電子掲示板)、N←→N(電子会議)などを自由に使い分けることができる。  パソコン通信がネットワークシステムであることを保障する条件として、私は次に「スタンド・アローン」をあげるべきだと考える。  パソコンは本来、スタンド・アローンなマシンである。パソコン通信の通信内容も、個人のパソコンを使って、個人の個別な行為によって、作成・加工・編集される。その個別な行為の中で、個人の自立が育まれ、また、ネットワークが歓迎する個別性と多様性が生まれるのである。  このように、パソコン通信におけるパソコンは、情報の相互依存のためのターミナル(端末)でもあり、スタンド・アローンな情報処理ツールでもある。このことが、ネットワークシステムとしてのパソコン通信を保障し、ひいては、情報技術が進行しても、人間がそれに管理されることなく、主体的に情報に関与できる展望を開いているのである。 (3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」 (3) −1 ROMの存在  コンピュータにはロム=ROM(Read Only Memory=読取専用記憶装置)という技術用語があるが、パソコン通信の世界では、いつまでたっても「読むだけの人」をROM(Read Only Members)とよぶ。ROMは、ネットが提供するデータベースやネットの中の他人の記事を読むことによって、自分だけが「情報を得よう」としている。それが「エゴイズム」だとして、パソコン通信の愛好者=パソコンネットワーカーから軽蔑される。  情報収集は得であるが、情報発信は得にならないというROMのような「思い違い」は、普通の社会にはある。しかし、すでに述べたとおり、パソコン通信は自らも発信する双方向のメディアである。自ら発信しないのなら、別にパソコン通信でなくてもよい。「情報を発信する所に、情報は集まってくる」という原理が有効に機能するところにこそ、パソコン通信の魅力がある。  パソコンネットワーカーたちは、この「READだけでなくWRITEを」ということに、異常に見えるほど固執する。初心者が入ってくると、何とかその人に書いてもらおうと、懇切丁寧に技術的な情報提供をする。逆に、ネットワーカーが吐く「最大の捨てゼリフ」は、「こうなったら、僕はしばらくROMになってやる」である。自分のWRITEを自負しているのだ。  じつは、WRITEは、彼らにとってより有益な情報を収集するための一つの方策などという「低次元のもの」ではない。WRITEすることによってのみ、人からのレスポンス(反応)が得られる。あるいは、READすることによって、WRITEした人にレスポンスを返すことができ、それがまた書いた相手からリ・レスポンスを得るきっかけになる。このようなREAD−WRITEの循環の中で、自己の発言に(個別の)レスポンスが与えられることこそがパソコン・ネットワーカーの至上の幸福なのである。  だから、どんどん書きまくるけれども、だれもレスポンスする気のおこらないような記事ばかり書く人も、ウォム=WOM(Write Only Members)、または「ヒーロー」とよばれて、ROMと同じように軽蔑される運命にある。  パソコン・ネットワーカーのこのような志向は、「レスポンス至上主義」とよぶことができる。これは、レスポンスを発する個人の主体性、他からのレスポンスを獲得できる個としての魅力を要請するものであり、また、自己の他者への、他者の自己への影響、すなわち相互の依存関係を最大限に尊重し、歓迎するものでもある。ネットワーク一般の志向とぴったり符合する。  このようにして、情報技術が発達する中で、パソコン通信は結果として情報化社会の健全な発展に貢献するものになりつつある。なぜなら、得する情報の入手だけを求める受動的情報態度、「情報ものとり主義」ともいうべき志向を克服して、主体的で確かな、情報と認識の交流のネットワークを構築することは、情報化社会の健全な発展に不可欠だからである。  しかし、現実には、自分にとっても他人にとっても理想的にWRITEするためには、困難が多々ある。  第一に、パソコン通信は「書き言葉文化」なので、慣れるまでは少ししんどい読み書きの作業が強いられる。最初は電話のような気軽さがない。とくに自己の思考を文章で表現することは、つらいものである。「読み・書き」の能力が求められる。真の意味での「学力」が不足していることが、ここでは直接的に影響し、その人の情報行動を消極的にしてしまう。  ただ、青少年の場合は、「交換ノート」のようなノリで気軽に読み書きしているので、ここから新しい「書き言葉文化」が形成されることを期待したい。  第二に、「知の防衛機制」が働く。すなわち、恥や照れによる消極化である。実際、「話し言葉」でなく「書き言葉」を公表することは、他の人に、しかも見も知らぬ人に自分のあさはかさをさらけ出すようで、恐ろしいものである。  「恐れを知らない」青少年にはともかく、「分別ある大人」にとってはとくにそうである。一人でできるコンピュータ支援学習=CAL(Computer Assisted Learning)が「相手が機械だから、何をどう答え、質問しても恥ずかしくない」という理由から、そういう大人に意外に好評なのと対照的である。  第三に、WRITEするためには、その前後を含めてかなりの時間がかかることがある。というのは、パソコン通信ではオンライン(電話回線を通じたまま、ホストのコンピュータにパソコンから直接、記事を書き込むこと)で、二言、三言の短信を手軽に書き込むこともできるのだが、一度書き込むと、予想外の量や内容のレスポンスがあったりして、その対応(リ・レスポンス)に追われることがある。これは、多忙な人にはかなりの負担になるのである。  このような意味から、パソコン通信が大衆化するための前途は厳しい。ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないから」という趣旨の発言をしている。  たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって、単純にROMの存在を不可避とし、パソコン通信の可能性を軽視する考え方には、私は異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。  情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、ROMの存在に象徴されるパソコン通信の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない「知的試練」としてとらえるべきである。 (3) −2 新しい「知」の誕生  パソコン通信は、ROMの存在に示されるようなやっかいな問題をかかえつつも、「知」の新しい傾向を生みだしつつある。  その一つは知の「ボランタリズム化」である。  たとえ同じネットワークを組んでいる人でも、自分の財産を奪おうとする者を人は許すことができない。しかし、他方、自分の知の成果に関しては、これを「盗む」者に対して、寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄にさえ思うものである。パソコン通信において、たとえば「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください」という「パプリック・ドメイン・ソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。  人間には他者に対して影響力をもちたいという社会的承認の欲求があると考えられる。情報化が進展することによって、その欲求を平和に充足させることが可能になっている。なぜなら、他の本がたくさん出版されたからといって、一つの本の価値が薄まるわけではないように、そもそも「知」を情報の流通に乗せる場合、権力や所有にからむ争いとは対照的に、シェア争いの要素が少ないからである。  そしてプログラムづくりやWRITEなどの「知的生産」は、その成果を他者にアウトプット(出力)するものという意味で、不可避的に社会的存在であるといえるが、ボランタリズムによって、さらにこれらを現実に社会の「共有物」にすることができる。  ただ、最近、営利事業体が経営するネットにおいては、原稿料を払わずに会員の書き込みを編集して出版するなどの二次使用に対して、会員から異議が出始めている所もある。知の発展とその流通のためには、パソコン通信一般において、書き手の著作権(財産権としての)を尊重すべきか、むしろ「無償」の「情報ボランティア意識」を醸成すべきか。議論のあるところである。  二つめは、知の「アマチュア化」である。  パソコン通信は基本的には、「しろうと集団」(ネットワーカー)からの情報発信である。そこでは、効率より楽しさが重視され、知的喜びなども楽しさの一つとしてとらえられる。産業社会にもてはやされた「手段としての情報」に対して、このような「即目的としての情報」あるいは「遊びとしての学習」は、今日の「脱産業化社会」のトレンドの一つである。  また、ここでいう「手段としての情報」についても、「知的プロ」によってオーソライズされた情報ではなく、なま感覚(未完成)で不定型の情報と思考態度、知恵が伝わっていく。いわば「耳学問」であるが、これは今日の情報化社会において欠如し、人々からじつは渇望されている情報である。パソコン通信では、このような情報と知が、いとも気軽に安易にアーティクル(通信記事)として量産されているのである。  一方、一部の「知的プロ」も、この種のアマチュアリズムによる知の可能性に関心をもちはじめ、パソコン通信に参加し始めている。このようにして、アマチュアとプロの「無境界化」が進行している。  そして、これらの「知のアマチュア化」は知のネットワークを推進するファクターとなる。「どんぐり(アマチュア)の背比べ」と自嘲するパソコンネットワーカーもいるが、「どんぐり」であるだけに無償で知のやりとりをすることにやぶさかではないのである。  このような理由で、知のネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの放電が個人の充電に、スムーズに連動する。この「相互教育」(意識化された「教育」ではないが)の実現は、現在の生涯学習社会が抱える問題としての、個人の内面の「充電と放電の乖離」や、他者との間の知の分業の固定化を克服するための有望な手段である。しかも、学習コーディネーターも省力化できる(仕事の内容が純化されるということであって、不要になるということではない)という意味で、経済的な学習システムでもある。  三つめは、知の「個別化」である。  まず、パソコン通信の会員には、個別にIDナンバーというものが与えられる。これとハンドルネームというものが、すべての書き込みの発信元をつねに明らかにする。ただし、ハンドルネームは実名でなくても良いということが、かえってネットワークを活性化させる要素になっている。  また、パソコン通信が「書き言葉」に純化した仮想空間であることも、ネットワーカーの各「個性」を守ってくれている。椎名誠は、シルクロードを歩いたとき、自分の家のテレビで以前に見たシルクロードの映像と音楽がうかんで困ったということ、そして、テレビではなく本を読むのであれば、イメージは「防衛」されるのに、ということを書いている。11)  つまり、こういうことが言えるだろう。今日氾濫している映像は、それぞれが具象的な「全」情報でありすぎるので、「即イメージ」として個人に浸透しすぎてしまう。それに対して、本やパソコン通信でやりとりされるような「書き言葉」は、各人固有の、あるいは自己の体験にもとづくそれぞれのイメージまで根こそぎにはしないのである。  加えて、「相互教育」もきわめて個別化される。パソコンの世界では、ユーザーへの画面上のアドバイス(オンラインヘルプ機能)が、各実行段階で充実しているものほど良いソフトだといわれている。その意味で、パソコン通信において、各人固有の「問題」に対して、ネット上で他のメンバーから援助の手がさしのべられていることは、「ヘルプの個別化」としても大いに評価されるべきである。  四つめは、知の「雑多化」である。  パソコン通信では、各人各様の関心が錯綜する。その代表的なものを整理すると●図2−4のようになる。とくにプログラム志向の人たちはメカよりロジックに関心があり、彼らの哲学的論議にもその傾向が表われている点が興味深い。  また、パソコン通信は全体的にはいわば「おしゃべりサロン」である。フォーマルな情報(新聞記事データベースなど)もとれるが、それよりインフォーマルな、そして不定型なおしゃべりのほうが好まれる。そこに、思想、情報、データ、そして交流が混在する。それらは「学習」として意識化されたものではないにせよ、実質的に各人の学習素材、学習理念、学習ノウハウ(学習の機会・場所・人材)、そして学習を励まされたり、けなされたりするコミュニケーションなどとして「相互教育」の内実を形成している。  場合によっては、たわいない「イロ、モノ、カネ」の「学習」が新しい時代の価値を創造する人類の営みと連続する。新しい価値は、山奥の純粋な大学キャンパスからではなく、「余計な情報」の氾濫する猥雑な実社会から生まれてくるのである。  五つめは、知の「民主化」である。  私たちの社会には、「ああせよ、こうせよ」というおしつけがましい情報提供と、それに対する反発の無益な繰り返しがかなり多い。これらの情報は、いわば「模範解答の提示」としてとらえてよいだろう。これに対して、パソコン通信などで行き交う情報は「私はこう思う」「私はこう聞いた」というような、あいまいなだけに受信者の判断力を要請する情報である。発信者も自分の考えがまとまらないままでも、気軽にWRITEすることができる。  これが、パソコン通信による知(情報流通)の民主化の側面である。コンピュータ・デモクラシーとも言うことができるだろう。  六つめは、知の「非体系化」である。  パソコン通信においては、「知」に関連して、実用的論議(たとえば知的技術への関心)と根源的な問い(たとえば知的技術への懐疑)が対抗しつつ共存している。しかし、前者の情報は共有されやすいが、後者の情報は共有されにくい。つまり、「技術」に対して「発想」や「体系」というものは、個人の深い内面に関わるものだけに「個別的」なのである。このことは、「異種の交流」をめざすネットワークにとっては好都合であるが、「厚みのある体系」の継承・発展のためには不利である。  そして、パソコン通信の中では、知が「雑多化」するのにともなって、「体系」に関する情報まで断片化していく。そのため、メニューなどのシステムがいくら改善されたところで、それらの情報を個人が「自由にわたり歩く」ためにはかなりの知力を要する。システムとしては、そういう「厚みのある情報」も含めて、情報が自由に選択できるのだが、それを選択する能力としての自己の「知的体系」などが備わっていないのである。  最近、「反情報」ともいうべき知的態度を見受けることがある。理科系のパソコンネットワーカーの中にも、こと哲学的な問題に関しては意外にそういう立場の人が多い。すなわち、情報や知的生産の技術をいったん断ち切り、自己や自然との対話をすることこそ、むしろ「発想」や「体系の構築」の源泉であるというのである。  ネットワーク社会において、既存の「権威」が失墜し大衆化が進むにつれて、せっかくの「古典」や「大作」の遺産も無力化してしまう。それと同時に「重厚長大な知」も崩壊していく。直接体験がもつ自己への「教育力」と比べて、情報のもつ「教育力」があまりにも無力なのか。しかし、後者を少しでも有効なものにしていくことこそ、情報化社会の主要命題なのであろう。そこでは、「体系」や「発想」の伝え合いを含めた厚みのある「情報共有」と、それを実現する基盤としての新たな「集団性」の構築が求められる。 (3) −3 新しい「集団」の形成  パソコン通信のネットワーカーたちは、「電子的仮想空間」を媒体とする新しい「集団」を形成している。  すなわち、従来、集団は「自生的、複合機能的、情緒的」と「人為的、単一機能的、合理的」という二つのパターンで代表されていたのだが、パソコン通信では、「明瞭な人為性」「単一機能同士の交錯」「合理性と情緒性の混在」「個人的行為と集団的行為の混沌化」という新しい「集団」が形成される。そして、「電子的仮想空間」であるから、「集団」も「広域」であり物理的・精神的に閉じていない。このようにして、近代的機能集団の中での新しい「ハイタッチ」が実現される。  それでは、パソコン通信の「集団」は、どういう点で「ネットワーク型」であり、現代人に好まれるのだろうか。  まず、パソコン通信においては、「撤退する自由」がある。「仮想空間」であるから、撤退しても生活に響かない。「撤退する自由」の上で、論争などの他の人との「ゲーム」を行えるのである。「親しくなりたいけれども、自分は傷つけられたくない」と言って、他者が近づくと針を逆立ててしまう「山アラシのジレンマ」12) に冒された現代人にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。  もちろん、ネット上でのけんかもたまにあるが、それを含めてすべての論争は、率直にさわやかに他者を批判できる知的風土を形成するためのシミュレーションと考えることができる。  さらに、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向と考えたい。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがパソコン通信の醍醐味である。  しかし一方で、パソコン通信の新しい「集団性」は、たとえ現代人に好まれるといっても、フェース・ツー・フェースのコミュニケーション能力を減退させ、電子上でしかコミュニケートできない人間をつくりだす危険性をもっているという批判もある。実際、パソコン通信ばかりしている青少年もおり、そのパーソナリティー形成への影響は心配されて当然かもしれない。  共感や感動はなまの人間に対してあるのであり、情報やメディアそのものに対してあるのではない。情報から「人間」を嗅ぎとり、その人間に共感することは、仮想空間でもできるが、そこには限界があることもたしかである。この限界は在宅メディアすべてに通じる基本問題でもある。  しかし、だからといって従来の「空間的集合」による方策(たとえば集合学習など)を単純にむし返すのでは、あまりにも後向きである。過去の集団にはついていけない人、あるいはあきたりない人が現にいるのである。むしろ、フェース・ツー・フェースのコミュニケーションを模擬・増幅・補完するパソコン通信の機能の発揮をめざすべきである。  最近、「パソコン通信燃え尽き症候群」が取り沙汰されている。今まで毎日のようにアクセスしていた人が、電子上では週末ぐらいしかアクセスせずに、むしろ「アイボールミーティング」(フエース・ツー・フエースで会うこと=宴会・集会など)をせっせと開催し始めているという。13) これは、通常、「バーンアウト」(燃え尽き)によるパソコン通信離れと言われている。  しかし、この「燃え尽き症候群」は、パソコン通信の危機などではなく、可能性を表すものとしてとらえられないか。パソコン通信だからこそ、家庭や学校や職場以外の人との出会いのきっかけになったのであって、パソコン通信だけでその交流を完結しなければならないということではない。「アイボールミーティング」などは、現代一般のコミュニケーション阻害を克服する営みの一つとして評価できる。しかも、パソコン通信に埋没した生活ではなく、「一般人」の範囲内のアクセス回数になってきているというのだから、「燃え尽き症候群」は、むしろパソコン利用の成熟化の端緒と言えるのではないか。  パソコン通信で何が「通信」されるか、だれも計画や予想をすることはできない。そのため、押し出す先の決っている「プッシュ型」の教育の観点からは、パソコン通信は関心の対象外になりがちである。  行政ばかりかパソコンメーカーでさえ、「ユーザー教育」の重要性は唱えても、パソコン通信の通信内容に関しては、あまり「敬意」を払ってはいないようである。ただ、ネットワーカーたちは「自立的」であるから、メーカーに「評価」も「ユーザー教育」も求めていない。むしろ、たとえばパソコン通信サービスを行っている企業などに対して、「キャリアー」(運搬者)に徹してくれればよいという。  しかし、これからますます発展するであろう情報化と人々のネットワーク化は、大きな可能性とともに、その実現のためには、今まで述べてきたような克服しなければならない大きな問題を抱えている。その問題の克服のためには、「不易」を「体系的」に提示しながらも、イロ・モノ・カネに関わるなまなましい「学習」需要もみくびることなく、それが量的にも質的にも発展するよう促す「プル型」の援助の姿勢が社会に求められる。  このような姿勢でパソコンネットワークを援助するならば、それは「現在の学習者の自主性を尊重しながら、今後の主体性の獲得を援助する」という、一見、自己撞着的な教育の理想を実現するための「偉大な試み」になるのである。 3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか (1) 「在来型の生涯学習」を支援する  「親展」の通信(電子メール)、不特定多数への通信(電子掲示板=BBS)、会議、データベースの検索、通信販売、予約などの機能をもつパソコン通信が、そのまま今日の生涯学習の道具として活用しうることは、想像に難くない。とくに、学習の援助者にとって必要な情報の処理や判断を行うCMI(Computer Managed Instruction)としては、かなり使えるはずである。たとえば、生涯学習に役立つ資源のデータベースを作り、それを社会教育主事等がどこからでも自由に利用できるようにするなど、活用の可能性は限りない。また、学習者自身による活用についても、学習情報の収集、施設の利用予約など、いくらでも思いつきそうだ。  これらの活用方策も興味深いことではあるが、結論からいえば、これらはいわば「在来型の生涯学習」の延長線上にある。今まで行われてきた生涯学習をかなり有効に支援するものにはなろうが、今日の生涯学習そのものを革新するものではない。それゆえ、パソコン通信の有用性をそこから説いてみても、「まだ普及していないパソコン通信など使わなくても、みんなが慣れ親しんでいる電話やファックスで間に合うのではないか」という消極論の前に意気消沈してしまうのである。  「在来型の生涯学習」を支援するために、パソコン通信もその有効なメディアの一環として、得意な分野を活かした活用を図ることは、それはそれで重要なことである。しかし、ここでは、それについては省略し、パソコン通信が生み出している「新型の生涯学習」について考えてみたい。 (2) 「新型の生涯学習」とは何か  それでは、パソコン通信が生み出しつつある新しい生涯学習の特性と考えられるものは何か。  一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(無定形教育)の機能の発揮である。  これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。  これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にもそういう教育・学習の場がある。社会や企業等も、その重要性を無視することができなくなってきている。  二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。  普通、「学習しよう」という本人の意識(計画性)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。たとえばNHK放送文化調査研究所の「学習関心調査」では、「学習行動」の定義を「ある程度まとまりをもった知識・技能(または態度・能力)の獲得・維持・向上をめざして行う行動」(傍点引用者)とし、また、「総計七時間未満の学習行動」などを除外している。もちろん、この「学習の限定」には、正当な理由がある。第一、ILまで学習の範疇に入れてしまうと、学習行動率は百%になってしまう。  しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことは、あらためて確認しておくべきであろう。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学んだ「偶発的学習」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした本人にとっては重大事なのだ。  三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。  たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追求する立場がある。それはもっぱら「教育」の専門家である教師のためのものであった。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいRを得ることができるかということ、言いかえれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育のしろうとまでが関心を示している。彼らも、多数に対して何かを表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうコミュニケーションだからこそ、パソコン通信はエキサイティングなのである。  以下、これらの「学習」の実際の姿を、おもに電子掲示板(BBS)の事例から見ていきたい。 (3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ  私は、ある商業ネットに次のような記事を載せたことがある。  「『生涯教育事典』という本で『コンピュータ』について書いています。しかし、コンピュータについてはしろうとなので、不安なんです。間違いやおかしい点があったら指摘してください。 mito」(筆者注 mitoは私のハンドルネーム=ネットワーク上の名前)。その文中に、コンピュータの定義として「電流がONかOFFかの組み合せを判断することによって、情報(データ)を大量にすばやく処理するシステム」という部分があった。  この定義について数十分から半日(夜中から翌昼にかけて)までで五、六件のレスポンス(他者が反応して書いてくれた記事)がついた。ここでは、数日後に入ったレスポンスも含めて簡単に紹介する。  「電流が流れているかどうかで0/1を表現するというのは、例外がいろいろ思いつける説明です」「『電圧の高低により』がいいんじゃないかな」「それより現在おもに使用されているソフトウェアの機能ということで説明してほしいですね(あるソフト屋さんから)」「そういえば、この中にはアナログコンピュータが含まれてませんね」「アナログコンピュータって、聞きませんね。どうでしょうか」「電圧のon、offであったとしてもよろしいのではないでしょうか」「アナログコンピュータ(聞きます)に限らず、ファジーコンピュータとか光コンピュータも含んでいないと思います」・・・。  ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も右のごとく、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。(筆者注・「イージー」を加えて頭文字が「MAZE」になる。)  しかし、このような「ミスマッチ、アバウト、ジグザグ」の情報から、各自は最初、気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。BBSは、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)ということができる。  近代になって、さまざまな権威者や専門家が制度化され、彼らが「良いもの」をセレクトしてくれるようになってきた。図書館司書は「選書」をして、良い本を書架に並べてくれる。最先端のデパート(ロフトなど)は、洗練された選択眼のもとに商品をセレクトする。もちろん、それらは特定の価値観を独善的におしつけるものではない。むしろ、結果的には、私たちが情報過多におぼれずに、読書や消費を選択する手助けになっている。  これに対してパソコン通信は、このような権威者や専門家がいない世界である。たとえば、ネットの主催者も、基本的には「たんなるキャリアー(運搬者)」にとどまるべきだとされる。そういう世界では、「ミスマッチ、アバウト、ジグザグ」な情報に耐え、それをセレクトし、つなぎ合わせ、確かめることを自分でしなければならない。しかし、それだけに、情報主体としての「個」を鋭く発揮する余地が大きいのである。 (4) コミュニケーション型学習  学習には、いわば「情報ものとり主義学習」もあるだろう。先行研究やその他の必要なデータを早く的確に収集・整理することを重んずる学習である。これに対してパソコン通信は、いわば「パーティー型学習」といえるのではないか。  パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、それをよく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流にある。しかも、交流する対象も、フェース・ツー・フェースの日常的なつきあいをしている人とよりも、見知らぬ他者との出会いを歓迎する。パソコン通信の「レスポンス至上主義」も、パーティーに見られるこのようなコミュニケーション志向と同様の志向をもっている。  ちなみに、パソコン通信をするために必要な何らかの学習があるとすれば、それも同様に「コミュニケーション型」である。  LLL(AVPUBを利用している生涯学習関係者のグループ)のメンバーの一人である上尾市社会教育主事のフィギュアさんは、パソコンのノウハウに詳しい。彼は、AVPUBにパソコン通信ソフトの「オートパイロットプログラム」を載せてくれている。これを使えば、コンピュータ・リテラシーなどほとんどなくても、ソフトを起動させるだけでパソコン通信の中のめざすメニューまで自動的にたどりつくことができる。技術に詳しいネットワーカーは、このようにして喜んで初心者への技術的援助をしてくれる。私はこれを「情報ボランタリズム」とよびたい。  このような環境の中では、じつはノウハウよりノウフウこそ大切になる。誰が何に詳しく、何を手伝ってくれるかということである(たとえば、フィギュアさんがパソコンのノウハウに詳しいなど)。  そして、他者と交信する際の一番大きな課題は、いかにして表現すれば(Sを発すれば)他者からのR(レスポンス)があるか=コミュニケートできるかということなのである。これは、新しい意味での「教育」技術である。 (5) ネットワークによる知的生産  パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。それゆえ、「まねぶ・ならう」べき権威の存在する学習だけを礼賛する「学習観」にとっては、パソコン通信における相互学習は「どんぐりの背比べ」であって学習たりえないととらえられがちである。たしかに、外部講師や助言者のいない討議は生産的に見えない。しかし、今後の「ネットワーク型の学習」の原点は、メンバー間の「水平性」である。  大分県の「コアラ」は、「(官は)金は出すけど口は出さない」という官民一体のパソコン通信ネットである。そこでは平松知事もメンバーに県の各種構想の支援を訴える電子メールを出すし、高校生も「高校生シリーズ」という電子掲示板で大人と対等の立場で意見交換する。パソコン通信の世界では、それが当り前である。  このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の共同化の可能性が生まれつつある。  LLLのメンバーの一人である花園町社会教育主事のSHOUさんは、メディアの活用における生涯学習関係職員の専門性について、他のメンバーから問題提起されたのを受けて図式化を試み、レスポンスとしてAVPUBにアップロードした。その図式は他者からの指摘も受けて改訂されていった。AVPUBでは画像の通信はできないが、研究の整理のための図式程度のものならば、全機種共通の文字フォントを使って十分、伝えあうことができる。  従来の出版における「共著」は、どうしても各個人の論文の寄せ集めになりがちであった。あるいは、あえて編者を頂上とするヒエラルキーのもとに整合性を計る場合もあった。しかし、パソコン通信を利用すると、個をあくまでも発揮しつつ、適宜、各自の都合のいい時間帯にそれぞれの見解を摺りあわせることができる。しかも、編集ソフトを使えば、訂正と更新の手間もほとんどかからない。パソコン通信によって、本来の意味としての「共著」が可能になるのである。  乳幼児が日々の生活と遊びの中で学習・発達するように、つね日頃、好奇心、探求心などの「発達意欲」さえあれば、成人でも生理的活動以外のすべての活動が「学習」につながりうる。そもそも、「各人の自発的意思にもとづく」生涯学習は、そういう活動なしには成り立たないであろう。パソコン通信は、自発的意思にもとづいて個性を出し合い、コミュニケートし、共同化することにおいては、とても好都合な電子的空間である。 [注] 1) 半田雄二「図書館職員として青年とどうつきあうか」、『むさしのインフォメーションマニュアル』東京都武蔵野青年の家、一九八四年、四八頁 2) 半田雄二「公共図書館の青年問題」、図書館雑誌Vol. 75,No.5 、日本図書館協会、一九八一、二四三頁 3) リファラルサービスについてはホイットニー・ノース・シーモアJr. 、エリザベス・N・レイン『だれのための図書館』京藤松子訳、日本図書館協会、一九八二、一五三〜一五七頁に紹介されている。 4) てい談「夢を語る 青年のための情報サービス・システム」、前掲『むさしのインフォメーションマニュアル』、二一頁、ミニコミ紙「みたかきいたか」編集長の川井信良の発言。 5) 今井賢一『情報ネットワーク社会』岩波書店、一九八四、とくに一八二頁 6) 国分康孝『エンカウンター 心とこころのふれあい』誠信書房、一九八一、五八〜五九頁 7) 梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波書店、一九六九、九頁 8) 同、一八頁 9) クレイグ・ブロード『テクノストレス』 10) 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ『メガトレンド』(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」については、アルビン・トフラー『第三の波』(中央公論社)。 11) 椎名誠『活字のサーカス』、岩波書店、一九八七、二一〇頁 12) L.ベラック『山アラシのジレンマ』、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、一九七四、もとはショーペンハウアー。 13) 松岡資明「転機に立つパソコン通信」、日経パソコン、一九八八・八・二二 第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために 1 子どもたちの団体活動  −そこに秘められている大いなる教育力− (1) 教育とは子どもがワクワクする営み  少年団体指導者の方々が、もし、動物のしっぽの働きを子どもたちに教える場面に出会ったら、まず、どんなことをするだろうか。「しっぽの働きの教え方」という本を探して(そんな本はないが)、その本のとおり教えればよい、と思うような主体性のない人は、指導者の中にはいないと思う。動物のしっぽについて、自分が子どもたちに何を教えたいのか、考えるだろう。現在の自分の中に教えたいことがまだできていなければ、しっぽに関するたくさんの資料を集めて、「教えたいこと」を自分の中にあらたにつくり出すことだろう。  それが教育の第一歩である。ごく薄い科学絵本、一冊を作り出すためには、手に抱えきれないほどの「大人向け」の資料が読み込まれるという。そこで作者が感動したたくさんの事実のエッセンスを、科学絵本という形で表現する。その絵本が、作者が感じたのと同じ感動(共感)を子どもに与える。そこに絵本づくりの面白味がある。  少年団体指導者の活動にも、同じような苦労と喜びがいつもついてまわっている。つまり、指導者自身に伝えたい感動があるからこそ、それを苦労しながら補強した上で、その感動を同じ人間としての子どもたちに伝えようとしているのだ。教育の第一歩は、「伝えたいこと」があるということだ。  しかし、それだけでは教育にならない。子ども自身が新鮮な驚きをもって感動しなければ、指導者だけがワクワクしていただけということにしかならない。感動を伝えるためには、子どもたちとその感動をコミュニケートできるセンスが必要になる。教育的センスといってもよい。  ここに『しっぽのはたらき』1)という絵本がある。中を開くと、たとえば、  ふわふわした しっぽを、ひょい ひょい ふりながら、えだのうえを すばしこく  はしりまわったり、えだからえだへ とびうつったりしています。なんの しっぽで  しょう? とあって、ページの右上に木の枝につかまった小動物のしっぽのあたりが描かれている。よく調べられて正確に描かれているが、思わず微笑んでしまうほど可愛らしくもある。ページをめくると、それは、りすの体、全体につながっており、他の一匹はしっぽを広げて枝から飛び降りているところだ。「ふわふわした しっぽが ぱらしゅーとの やくめをする」というのである。  たとえ、りすのしっぽがパラシュートになることを知って作者がワクワクしたとしても、それを前のページに書いてしまったら、おしつけがましいし、子どもたちに作者の感動が伝わるようなものにはならなかっただろう。子どもが「何のしっぽだろう」「何のためにあるんだろう」と自分で不思議に思ってこそ、真実を知らされた時に驚き、ワクワクすることができるのである。  団体が子どもたちに伝えたいことをもっているということは、少年団体活動が教育的意義をもつための基本的条件にはなるが、それを子どもたちにお説教するだけなら、そんなものは何回繰り返しても本当の教育にはならない。子ども自身が自分でワクワクしてこそ、子どもは確かな成長をするのである。教育的センスさえあれば、少年団体活動は、そういう「ワクワク」を与えるワンダーランド(不思議の国)の局面を本質的にたくさんもっている。 (2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動  ひとがものごとをとらえる時の枠組を「準拠枠」という。『カウンセリングの話』2)という本によれば、次のとおりである。  人間は、言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情などを表現することができるが、それらのことを表現したり、お互いに理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。(中略)例えば、同じ「悲しい」という言葉を使って話をしていても、突きつめていくと自分の「悲しい」と相手の「悲しい」が違うということに気づくことがある。私たちの日常生活は厳密にいうと、実はそのようなことのくり返しだといっても過言ではない。  そういうすれ違いがあっても、平気で大人の準拠枠を押しつけるだけの団体運営を進めるならば、それは表面的には団体活動に見えても、けっして教育的な活動とはいえない。  現代社会では、本当にひどい本が売られている。ある本には「女性の部屋に侵入する方法」などがびっしりと載っている。「相手が一人暮らしかどうかを確認すること」から始まって、「窓ガラスに粘着テープを貼って焼き切って、手を入れて鍵を開けて侵入」する方法やクロロホルムで眠らせる方法などがていねいに書かれている。高校生あたりになるとそれほどでもないらしいが、中学生がよく買っていくとのことで、またたく間に版を重ねている。子どもたちが異性を見る目は、その準拠枠は、この先、どうなっていくのだろうか。あるいは、そこまで極端ではなくても、たとえば従来の競争社会が生んだ受験体制の圧迫は、ほとんどの子どもたちの準拠枠の形成に大変な影響を与えている。「偏差値君さようなら」という生涯学習社会の理想からは、まだほど遠い実態なのだ。  こういう環境に影響を受けてしまっている今の子どもたちの準拠枠のずっと遠くのほうで、きれいごとばかりで埋めつくされたお説教をしていても、子どもたちに情報の一つとして聞かれることはあっても、子どもたちの準拠枠そのものには響かない。  かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、子どもにどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。現在の少年団体指導者の中にも、忙しさのあまり、そういう傾向に流れてしまっている人がいるかもしれない。しかし、本当の教育の姿は、そこにはない。それぞれの子どもなりの「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらない。  しかし、本来の少年団体活動なら、子どもの準拠枠そのものに迫っていくことができるはずだ。なぜなら、活動の中には、感動を呼び起こす参加や体験があって、感動を共有できる子ども集団があって、それらを受けとめる地域があるからである。 (3) 少年団体活動には教育力があふれている (3) −1 体験のもつ教育力  国立日高少年自然の家の紀要では、集団宿泊活動の中での子どもたちの体験活動を、@人への働きかけ、A自然への働きかけ、B地域文化への働きかけ、C公共施設への働きかけ、Dその他に分けて検討している3)。  また、「なかまたち」15号で三浦清一郎氏は、子どもたちがもっている自然に関する知識について次のように述べている4)。  これらの子どもが知っているのはいわゆる「解説」であって、実際の自然の在り様についてはほとんど経験していないし、知識もないことに驚くのである。(中略)このような状態を青少年の自然接触体験の欠損とよんでいい。  そして、三浦氏は、ある体験が子どもに欠如しているということは、子どもの「社会化」(社会のメンバーとしてふさわしい資質や行動の仕方を子どもたちに教えていくプロセスであり、少年期にはその大部分が体験を通して獲得される)が行われないということを意味している、と指摘している。 (3) −2 参画のもつ教育力  全国子ども会連合会の資料には、「おしきせプログラムはまっぴら」と題して、次のように書かれている5)。  どうも、大人が事前にすべてを準備しきって、ただ子どもは、お客さまで参加するという行事が多かったのではないか。プログラム立案の段階から参画することは、参加意識を高め、苦労しても、なんとかやりとげ成功させたい、そのために労をおしまず仲間と協力しあおうとするであろう。その仲間と苦労をともにして、やっと仕事をなしとげたあとの成就感を味わったとき、ヤッタという晴れ晴れした気持ちになるであろうし、その時「またやってみよう」というやる気を育てるわけである。  参画は、ひとをワクワクさせる。参画するためには、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身の準拠枠にも鋭く迫られる。そういうせっかくのチャンスを指導者が独り占めにするならば、指導者だけが「成長」するという結果になりかねない。 (3) −3 地域活動のもつ教育力  創造性開発理論の中に「異質馴化と馴質異化」という考え方がある。異質なものを身近な馴れたもののように眺め、馴れたものを新たな気持ちで見直すという意味であろう。  住みなれた地域には、「空缶拾い」や「花いっぱい」などのいわば「馴」のレベルの素材がいっぱいころがっている。これはこれで、子どもたちに素晴らしい体験のチャンスを与えてくれる。しかし、その教育的効果はもっと奥行きの深いものとして認識され、広がりのある活動がなされるべきである。いつもの地域を地球の一部を他の天体から見るような気持ちで、つまり「異」のレベルで、見直してみると、大きな地球の限りある資源を大切に使わせてもらうために小さなコミュニティが果たすことのできる大きな役割も見えてくるのではないか。  子どもたちにとって、地域は、主人公として参加できる身近な場であると同時に、少年団体の教育的センスによっては、壮大な夢と認識を広げてくれる場にもなるのである。 (3) −4 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力  少年団体活動の中では、同世代の仲間や義理の兄弟姉妹との関係が、自然に数多く発生する。子どもたちは、そういう自然発生的集団の中でこそ、自らを変えていく。  石けりをしていて、大変な難事を要求する所に石が入ってしまっても、同世代の仲間が見ていれば、子どもたちはなんとかその難事をこなそうとしてきた。親や教師がいくら言ってもできないことを、仲間の前では泣きながらでも頑張ろうとする。そういう努力を放棄するなどのルール違反は、仲間から厳しくとがめられた。それとともに、最後はお互いに手心を加えることなども体で学んできた。また、その遊びのレベルまで達していないような小さな子が来れば、遊びを中止しなくてもすむように、その子のために一部ルールを変更するなどの知恵を働かせてきた。自然に発生する集団がもっているこれらの自律的な教育力を、団体は「意識的に」尊重し可能な側面的援助を与えることが必要であるといえよう。  それにしても、少年団体活動には、現在の子どもたちに欠けている体験・参画、仲間や地域とのふれ合いのチャンスが、なんと豊かにあふれていることか。 (4) 子どもにだって「個の深み」がある  「個の深み」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」6)の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられた。提言はいう。  ある施設での活動で、子どもが外からいそいそ帰ってきて、指導者をつかまえて話しかける。「ねえ、あっちにきれいなお花が咲いていたよ」。しかし、その指導者は彼に対して大声で「何やってるんだ。みんな向こうに集まってるぞ」と注意する。子どもが自然の中でとらえた出来事、発見そして喜びなどの感情が、この指導者の対応によって台無しにされてしまうのである。  子どもたちは、自然の中で、遊びや活動の中で、さまざまな発見や体験をする。そして、この発見と体験を指導者に伝えようとする。これをしっかり受け止めることが、指導者の重要な役割であろう。  心理療法の中に交流分析という手法がある。子どもにも大人にも、どんなひとにも、自由な子ども、従順な子ども、理性的だが打算的な大人、看護的な親、厳格な親という要素が混じっているそうである。その度合いはひとによって違う。どの要素が一番望ましいなどと、誰かが決めることのできるものではない。「個の深み」は、そういう個別性から生ずる神聖で不可侵なものだ。  同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得ることが、集団教育の目的ではない。子どもたちの「さまざまな発見や体験」という多様な個別の深まりが、今、大切にされなければならない。塩化ナトリウム99%の工業塩より、不純物の多い天然塩のほうが料理の味に深みを出すという。少年団体活動も、皆を「団体の優等生」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの子どものエネルギーを評価しなければいけない。  むしろ、組織にとって子どもとは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在、子どもにとって組織とは、どうにでもなる、どう変わってもよい存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、少年団体という組織にとっては荷の重くなるような言い方だが、子どもたちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとする教育的観点からは当然の見地だと思う。  『しっぽのはたらき』を作った人は教育の専門家ではない。少年団体にも、教育の専門家が必ずしもいなくてよい。しかし、子どもの教育とは、子どもたちにおしなべて「こうさせよう」とする「対策」ではなく(そうは言っても、時として安全「対策」などが必要になることはもちろんだが)、本来的には、子ども自らが気づき、多様な「個の深み」をもつための、側面からの「援助」であるということは、認識しなければならない。未知数のものを外から援助するというところに教育の難しさがあり、本当の面白さもある。  つけ加えれば、子どもの「個の深み」とつきあえる少年団体の指導者は幸せである。なぜならば、近代合理主義社会の中で凝り固まった自分の「準拠枠」が、子どもたちの「個の深み」に接することによって快く揺さぶられ、子どもたちとともに育つことを体験できるからである。 2 地方自治体における学習プログラム作成の視点 (1) 知と健康のネットワークを支援するシステム (1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義  社会教育法には国および地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行うのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。  そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない」(第九条の三)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。  ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。  これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、虎視眈眈とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心をもってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。  社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。市民の側に、行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。  戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。  この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまう。 (1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ  民間の団体活動の方も、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを自ら志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。  一方、人口一万人当たりだいたい百のグループ・サークルがあるといわれる。そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この一万人につき百団体という数字は、社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が百にも満たなかったりするからである。  つねに発生・消滅を繰り返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていない。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を多忙にさせる結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられる。  従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみのほうもさらに広くなっている。それが、一つには、小さなグループ・サークルとしてネットワークを形成している。成熟社会においては、それは重要な営みである。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。  なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。私は、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張したいのではなく、ネットワークに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。 (1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起  啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。  当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの三つの特徴をもっている。7)  しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人一人の人間がすでに主体性のある主体であることを前提に、その学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。  ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは大いに重要であるとともに、大いに微妙な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに主体性のある主体」であることを、平面的、教条的に前提にしてしまうとすれば、情報の豊かな今日、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際は、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。  たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。  「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「効果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着をはらんだ命題を実現する方策はあるのか。  結論からいえば、その方策はあると考える。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もある程度上がっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められる。それが、ここでいう「ネットワーク型問題提起」である。  だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の基盤としての「ネットワーク型援助」一般のあり方について述べておかなければならないだろう。  「ネットワーク型援助」の重要なファクターの一つは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。  アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が盛んだと聞く。人々が分断された今日の都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」となりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とはいえないのである。  施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。  これらの援助は、市民のネットワークを助長し、結果として市民が自ら社会の諸課題への気づきを深めるために役立つ。  しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性にもとづくものであるか。この「正当性」をもたないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が。  ネットワーク社会において、地方自治体、とくに社会教育行政は、各人が私有している個人的・社会的「展望」を共有するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っているといえるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワークの中で共有するように、各人によびかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきではないか。  糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした展望をもっていたり、ほとんど絶望したりしている。行政が、たとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが生まれるかもしれない。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。  ここまで、地方自治体のとくに社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞってみた。これからは、啓蒙主義との違いがとくに問題となるであろう学習プログラム提供に焦点を当て、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、より具体的に明らかにしていきたい。 (2) 年間事業計画の作成 (2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる  ここでいう「年間事業計画」とは一年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」ということができる。  国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(昭和六三年九月)(以下、たんに『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、このテーマに関するアイテムを拾ってみる。  地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。  これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりはとらえたと言うことができるであろう。  しかし、これはあくまでもひととおりであって、地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応のほうが有効になるのである。  それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを感じ取ることが必要である。  住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、ひとつひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」「記録」などが重要である。逆にいえば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報社会においても地域・現場にしかない貴重なものである。  さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が、上司からも監督されず、個人の孤独な作業として進められがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の水平なネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとって不可欠である。 (2) −2 学習要求をとらえる  ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないか、と言う。渋谷のウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない。選択基準自体が毎日変わる、と言う。彼らのニーズを把握するために、「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでしているが、それでも把握は難しいらしい。  学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているか、はっきりした事実はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。わからない原因の一つは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく生みだされるものだからである。  ただ、その会社の人の話では、第一には、「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れない、第二には、「わけのわからないもの」が意外に売れたりするという。  第一のことは、学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の三つに欠ける場合がある。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などが必要である。  第二のことは、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえばおもしろがられて受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。  次に、「不易流行」の言葉を借りれば、ここまでの議論は「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。  しかし、この「不易」の学習要求のほうも、その本当の中味は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでも、たとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。このように、地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても不完全のものであることを知った上で行わなければならない。  それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていくしか、あるいは新たに「つくりだしていく」しか、ないのである。 (2) −3 「公的課題」の優先  ネットワークも一つの「自治」の形態といえる。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言ってもよい。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよい。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それは当事者である個人が決める。  このような様子であるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。  それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意図」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。  そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議ともいえる。むしろ、「行政らしい関わり」をすることのほうが行政としての個性を出すという意味でも「ネットワーク的」なのではないか。  「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。  もちろん、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的学習課題」のように見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。  つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然といえるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で流動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりする。  だから、学習プログラムも表面上は私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する期待(展望)をもっていなければならない。そして、その期待を住民の前につねに明らかにしていくことのほうが、住民との関係でフェアだと考えるのである。  さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題と考えることができる。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。  このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを「操作概念」として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。  たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例に挙げたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、その課題を優先して問題提起し、援助する。  もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、わからない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。  しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになった時には政策のほうを転換する義務を負うという「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べよう。  次に、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人々の「学習権」はどうなるか。これについては、より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。  その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。  しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は「行政から学習権が保障される立場」から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワークの「役割遂行者としての立場」に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。  なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されているものであり、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もあまり問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢は、同様に必要である。 (2) −4 学習課題を整理する  公的課題を優先するためには、その前に公的課題は何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。  たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』は次のように述べている。  「これからの生涯学習を進めていくうえで、とくに留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる」。8)  このような「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、いずれにせよこの「構想」は簡潔にまとまった提言として評価できる。  そこで、それぞれの自治体での住民の学習の実態の中で、これらの課題に対応する学習がどのように行われているか、あるいは行われようとしているのかをていねいに見つめてみたとする。そこでは、まったく学習されようとしていない課題などというものはないということが明らかになるだろう。  つまり、公的課題の優先とは、学習課題の行政による「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。  このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例を次のように挙げている。  生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。  これらの分類によって学習課題を体系的に整理することができ、そのことが、行政が学習要求や学習行動から公的課題を謙虚に選択するための根拠にもなる。  ただ、すでに述べたように、行政側の考えている公的課題、すなわち行政課題も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、右の領域区分と同じ次元ではなく、もう一つの次元としてとらえて、右の区分とかけあわせたマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての行政の主体的な関わり方が出てくる。  さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。  それらの各種事業を区分する基準については、『社研資料』では「事業形態・方法別」の一例として次のようにあげている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要である。  さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題のひとつひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックスによるとらえ方が求められるのである。 (3) 個別事業計画 (3) −1 「学習ニーズ」の優先  ここでは、ひとつひとつの事業における学習プログラムの作成について述べる。  年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。しかし、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応を最重視する姿勢で論を進めたい。  なぜならば、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないという理由も、もちろんある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。現行の学習プログラム提供は、ニーズ対応の面でも、かなり不十分だという認識を私はもっている。  前節でいう「公的課題」を明確にした上で必要なこと、それは、そこで仮に設定された「公的課題」を、いろいろな機会を利用して住民にはっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。  次に、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が、現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば仮に「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいては、住民の学習ニーズに呼応してそれが再び「融解」して学習機会として提供される。  行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させることしかできない。しかし、それを不変のものとしてそのまま住民に押しつけるとすれば問題がある。ネットワーク型援助は、行政と住民との関係が水平であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の独善になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」することによって、初めて、行政の側が学習課題を選択することのもつ危険性を減らすことができる。  現に、あとで述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえない住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると思う。学習ニーズに絶対確実なものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。 (3) −2 参加対象をどう設定するか  社会教育行政はなぜ対象別、とくに発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。つまり、一義的には、プログラムの作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をするといえる。  だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならないはずである。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたはずだからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるなどの効果もあがるかもしれない。  「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであったにせよ、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民が個々に判断して行動を決定する。企画者は予測のつかない結果をむしろ歓迎すべきである。  しかし、参加対象を「限定」するほうが良い場合も、なかにはある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断をとりあえずせざるをえない。  だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」9)準拠集団の端緒を、行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合は、「異質」な人との水平的なネットワークがまだ期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始めるのである。  たとえば「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事だけに依存して生きているような「暗い青年たち」もいるかもしれない。そういう青年たちが、活発な婦人や一家言をもっているような高齢者と、最初から水平的ネットワークを営むのは無理だろう。そういう時は、「青年講座」への主婦、高齢者の参加を断わる場合も例外的にはありえよう。  しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。このことは、集団を固定化し、ネットワーク化を阻害する要因になっている。  さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側が住民の参加を開拓し、受け入れる、いわばマーケティングの用語といえる。しかし、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」とよぶ。「対象」というより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が自ら問題を解決することを基本におく姿勢が表れている。  もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」とよぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、考え方としては学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、プログラム作成時においても、「対象」の望ましい将来の姿を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。  最後に、逆に、マーケティングの観点から、新たに「開拓」すべき「対象」を考えてみたい。  一つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の動向は、実は経済活動の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されなくなっている。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが本当に身につくのは、自己成長を促すネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるばずだ。  二つは「大学生」である。彼らは今やエリートなどではなく、今後は多数派としての一般住民になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めているので、その参加により、事業にトレンドがフィードバックできる。そして、彼ら自身に、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日大いに生まれている。  三つは「一時滞在者」である。博物館は旅行者の利用を歓迎している。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。さらに、今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの人は、「新しい風」を吹かせてくれる人である。彼らを地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。各自治体が「旅行者向け学習プログラム」などを提供するようになれば、週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が全国規模で可能になるのである。 (3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する  『社研資料』では次のとおりである。  「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。  このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民は中味をよく知った上で参加を検討できる。  さて、最初に「学習目標」であるが、一つには、直接、企画者側から問題を提起すること、つまり「課題性」のあるものが考えられる。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。  二つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。  たとえば、住民の国際性のかん養をはかるという目的で「中国語教室」を開いたとする。そうすると本時の学習目標は「中国語がしゃべれるようになること」ということになりそうだが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」などとしなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。  それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定し、そういうサービスをして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化したほうが良いだろう。  次に、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける必要がある。  最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか提案してみたい。  一つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習という言葉には、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。もちろん、今後の学習社会においても、そういう性質の学習はますます必要になるだろう。しかし、そういう「手段としての」学習ばかりに偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。  現在、生涯学習の進展の中で、「学習」とよばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いという、いわば「快感覚」の追求なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシー(健康的)でハイ(高次)な「快」である。  もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは今後の技術革新の社会において必要不可欠の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどない。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで「遊んで」いる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、そういう「遊び」のほうが結果としては効果的な学習になっているのだ。  ここで、注目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。  自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することよりも、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。  二つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。10)  ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワークをしようとする個人がその「深み」を獲得して発揮するために必要な技術の一つが、情報の収集から発信までを含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。  学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」のほうがそれより優れているということではない。)  このように、行政としての期待をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を行うことは、社会教育行政の「ネットワーク型援助」の中でもとくに代表的な行為である。  三つは、「コミュニケーション技術」である。「知的生産の技術」とも重なるが、聞く・話す・書くなどの技術である。  戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議の進め方などが学ばれた。  しかし、今日ネットワークの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う面をもっている。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者は、干渉したり、心配したりはしない。また、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど行使する場面がない。  それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。ネットワークのコミュニケーションの中では、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った人だけがプレゼンテーターに協力し、再びコミュニケートに向かう。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。  四つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の「下請け」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。  もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは時間的にも困難であるから、実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦するためのオリエンテーションになるような学習内容を設定することになるだろう。 (4) 学習プログラム作成上の今後の課題  ここでは、これまでに言い尽くせなかった学習プログラム作成上の今後の課題を、いくつか簡単に紹介することによって、まとめに代えたい。  一つは、集合学習の「非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)の課題である。  ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、「パーソナル」から「ソーシャル」へと発展する。これは一部、「パブリック」でさえある。このように「マス化」によってではなく、「非マス化」によってパブリックにまで発展することを、ネットワーク型援助はめざしている。  ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできないだろう。しかし、集合学習にあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追求していかなければならない。つまり、「あなたは、集団の中のたんなる一人ではない」というアピールをもった学習内容・方法をプログラムの中にもつ必要がある。  二つは行政の「主体性」の発揮の課題である。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。残された問題は両者のつなぎ方である。  社会教育職員の中には「概念くずし」という言葉を使うものがいる。住民が当り前だと思っていることに切り込んで、住民の認知の枠組の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性を示しているともいえる。  もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する行政側の認識の不十分さを謙虚に認識しながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。  三つはプログラムという「計画」そのものの「非計画化」の課題である。ここで、「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることを意味する。たとえば、何があるかわからないパーティー型のプログラムや、空白の時間を設定して学習者がその中身を決めるプログラムなどが考えられる。  社会教育行政は人間関係の仕事である。つねに揺れ動き、移り変わる存在としての人間とつきあう。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、めざすべき価値がはっきりとは決まっていないオープンシステムのほうが適していることも多いのである。  地方自治体は各セクションごとに専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供すべきである。都市と農村の双方が大きくきしむ中、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を住民に訴える責任をもっている。  さらにその上で、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与することになる。それが「ネットワーク型」で行われるかぎり、行政と住民との相互のフィードバックはつねに保障されよう。  そして、行政から自立しながらも行政と協働する住民自身のネットワークの中で、住民は主体性を獲得する。根本的には、住民のこのような主体としての成長があってこそ、個人を疎外しない「ネットワーク型」の地域合意が形成される。これこそが「公的課題」の現代的、かつ本質的な解決の方向である。 [注] 1) 川田健、薮内正幸『しっぽのはたらき』、福音館書店 2) 平木典子『カウンセリングの話』、朝日新聞社 3) 国立日高少年自然の家紀要『シシリムカ』第五号 4) 三浦清一郎「自然接触体験の欠損と青少年の活動」(『なかまたち』一五号所収) 5) 全国子ども会連合会『中学生 −その青春と地域活動−』 6) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」 7) 「啓蒙主義」については、江上波夫他編『世界史小辞典』、山川出版社、および勝田守一他編『岩波小辞典・教育』、岩波書店、から引いた。 8) 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」、一九八八年三月 9) 見田宗介他編『社会学事典』、弘文堂、一九八八 10) 梅棹忠夫『知的生産の技術』、岩波書店、一九六九 ●p14 (34行、実際30行) mito的授業その一  「なんでもあり」の授業  私はなるべく映像を使うように心がけている。それも「教材映像」として作られたものではなく、一般のテレビ番組が多い。学校教育の正規の授業の中で教師自身がそれを行うのならば著作権による制限がかなり緩和される、ということはとてもありがたいことだ。そういうことのできにくい社会教育の世界に長い間いた私は、つくづくそう思う。  ところが、その日は、視聴覚教育の見地からは恥ずべきことなのだが、プロジェクターの調子が悪く、画面が流れてしまってひどい状態だった。しかし、スクリーンを前にしてあわてふためいている私の姿に、学生はかえって親近感をもってしまったようだった。  その日の出席ペーパーには、「飛行場そばなどの難視聴地域の人々の気持ちがよくわかった」というユーモアとヒューマニズムにあふれた発言などが多かった。とくに、「mito先生(私のこと)の授業は、『何でもあり』の授業なんですね」という発言には、私は思わず気をよくしてしまった。  「何でもあり」の授業は、効率至上主義の観点からいうと欠点しか見えないのだが、学生に知的雰囲気のためのレディネス(準備)をもってもらうためには、じつはなかなか有効だったのだ。授業は、あくまでも教師という「人間」が行っているのである。 ●p59〜60 (51行、実際51行、p60下段は写真) mito的授業その二  中途退出者と私の「嫉妬」  受講中、暑いと気づいた学生は窓を開けに行けばよい。そして、「どうしても抜け出したい」と思う人は、黙って出席ペーパーだけ出口に置いて退出すればよい。私は、学生にそう言ってある。実際、二部学生の中には、そうする人もいる。それを見て、他の学生が、「mito先生は何も感じないのですか」とペーパーに書いてよこす。でも、退出者のペーパーの中には「もっと話を聞いていたいのですが、これから夜勤なので早退します」などと書いてあるものも多い。  主体的な学習のためには、学生自身が「誰かに決められたからではなく、私がこの授業を受けたいから受けている」と自覚して授業に出ているかどうかが大切である。出席することなどを規則で縛っていては、いつまでもそんな態度は生まれない。  事情のあるかもしれない「中途退出」よりも、「前の時限の先生との話が、私にとってはとても大切な内容だったので、mito先生の授業に遅れて参加しました」と書かれた時に、その見知らぬ教師に嫉妬を感じる。 mito的授業その三  学園祭に参加しちゃった  一年生の「社会教育概論」の講義中、何気なく「今度の学園祭は、みんな何かするの」と聞いてみた。サークルなどで何か出店したりする学生は誰もいなかった。私は、「一人で焼きそばを食べて帰るだけではつまらないね。この授業で一部屋もらって何かやってもいいんだよ」といったが、その時はとくに学生からの反応はなかった。  夜、家に帰ると、ある学生から電話がかかってきて驚いた。授業終了後、学生同士で話をしていたら、みんな「やりたい」といっているというのだ。私は、その学生に任せた。  当日、学生たちは、「生涯学習を楽しんじゃう教室」と名づけて部屋をもらい、授業で行ったことのある「人間印象当て」「心理テスト」や「折り紙」「伝承遊び」などのコーナーを開設した。写真は、その時のスタッフである。  思いつきで始めてしまって、「自分たちが楽しいかどうか」を指標にして、しかも他者のニーズの現実にも対応できる力は、ネットワーク的な行動力として重要だと思う。 ●p147 (32行、実際32行) mito的授業その四  交流したくない「個の深み」もある  ある学生が、私のBBS至上主義的な論文を読んで、「交流したくない『個の深み』だってあるのではないか」と出席ペーパーで批判してきた。  たしかに私たち「社会教育関係者」は、学習者同士に向い合って輪になって座ってもらったりということを安易にしがちである。しかし、もっぱら講師の話に没頭して学習したい場合には、他の学習者と向き合って座っていることは、余計なプレッシャーを与えるだけであり、そんなことを私たちから勧められることは、学習者にとって、まさに「余計なお世話」である。  また、私たちは、学習者間の「交流」を進めようとする場合でも、その「交流」が学習者に不可避的に多少の「緊張」を与えるという事実をきちんと認識した上で、あえて「交流」を促すという意識的な態度が必要だろう。  そして、「個の深み」についても、そのすべてを他者の前にさらけだしてもらうことが理想なのではなく、本人が「他者と交流したい」と思う範囲の「個の深み」の交流や、「交流して良かった」と思えるようなやり方での交流をめざしているのだ。もっとも本質的な問題は、「個の深み」が交流されているかどうかではなく、その人が自己の「個の深み」を自律的、主体的に他者と交流したり、あるいは、しなかったりしているのかどうかということであろう。 ●p171〜172 (72行、実際72行) mito的授業その五  シグナルカードの効用  私が大学の授業を受け持つことになって、まず最初に思ったことは、私が一生懸命に話をしていても、学生が「つまらないな」とか「退屈だけど我慢しなくちゃ」などと感じていたのでは、教育の意味がほとんどないということである(忍耐力だけは学生につくかもしれないが)。  そこで、赤・黄・緑の3色の紙を買ってきて、人数分のカードを作り、教室の入口に置いておくことにした。学生は、受講中いつでも、座ったまま、そのカードを演壇の私に向かって見せることができる。レッドカードは「この話題自体に関心がもてない」あるいは「西村の見解に反対である」という「警告」、イエローカードは話題は面白そうであっても、しゃべり方が早すぎたり、不十分だったりして「よくわからない」「ついていけない」という「教育的指導」、グリーンカードは必要不可欠なものではないが、「とても関心のもてる話題なので、この調子でもっと話してほしい」という「共感」をそれぞれ意味する「信号」である。さらに、これらのカードを頭上高く掲げてぐるぐる振り回せば、「私も一言、いいたい」ということになる。一斉講義中に、「一個人」から私に、任意に意思表示ができるのである。  実際には、そんな意思表示を授業中、積極的にしてくれる学生はいないし、また、たとえレッドカードを見せられても、私としてはそんなに急に自分のしゃべる話題をコントロールできるわけではないことは学生に前もって言ってある。正直にいって、実際に活用されるのは、各人の意見の分かれている状態を調べたりする時に、私の方から「指示」して挙げさせる時ぐらいである。  そのような実態から、シグナルカードが双方向授業のための有効なツールというには、ほど遠い状況だが、少なくともシグナルカードを持って席につく学生の「雰囲気」は悪いものではない。そして、私は、「えっ、そんなことが授業中に許されるの?」という驚きによって、彼らが教育を「受ける」時の非主体的な思い込みを少しでも切り崩すことができればと思っている。 mito的授業その六  ジェスチャー大会における教師の困難  ある日の授業で、ジェスチャー大会を行った。ジェスチャーとは、言葉を使わずに身振り手振りで与えられた題材を味方チームに当てさせることで、自由奔放な表現力が求められる。私は、自分ではフリーチャイルド(自由な子ども)の傾向が強いと思っていたので、「構えることなく表現すること」には自信があった。  ところが、私への出題は、「都市計画」だった。二十人ぐらいの学生の前で、完全にあがってしまった。あとから考えると、いくつもの演技のやり方がいくらでも浮かぶのだが、「授業時」における学生を前にした私には、そんな自由な発想をする可能性は皆無であった。そのことをはっきりと自覚した。私も余計な「構え」をもっているのだ。  まあ、私にとっては良い勉強だったということにしておきたい。そして、学生にとっては、「教師も学生の前であがったりするのだな」という新しい認識をもてたのだから、かえって良かったのだと思うことにしよう。 (以下は割愛)  ネクタイ外しの術  学習者側の認知の問題?  結論よりも主体性を問う  教育実習と出席ペーパー  BBS「痴漢問題」  自然体合宿の効果と教員の自然体の困難  漢字をどう習ってきたか 視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点  −西武ロフトがとらえた若者たち−  先日、数人で若者の街渋谷を訪れ、「雑貨屋イメージの百貨店」、西武ロフトの金谷信之館長の話を聞く機会があった。  当日は雨だったが、じつはそれは幸いなことだった。なにしろ、平日の昼間でも、晴れていると相当の混雑が予想され、店内の見学が十分には行えない危惧があったからである。それぐらいロフトは、今の若者を「吸引」している店である。  「生活必需品」に対して、若者が今までと違うものを求め始めている。「非日常」の余暇以上に、日常生活そのものを「余暇」として楽しもうとしているのだ。タテワリの商品分類では、このようなニーズに対応できない。領域の間が抜けてしまう。そこで、ロフトでは、身体、空間、仕事、余暇というようなフロアの設定をしている。  各フロアは、それぞれ、イチ(市)とクラ(蔵)で構成される。「市」は中央にあって、市場のようにエキサイティングである。「蔵」は壁際高くまであって、定番商品がきちっと揃えてある。同じ茶碗が、すべてのサイズ揃っている。商品絞りこみもしない。売場はインデックスであり、選ぶ主役は客、使い方はそれぞれだと言う。  さらに、ロフトはトレンドや風俗をつかまえ、「生活自遊人」という都市生活者のくらし方を提案している。「生活自遊人」とは、個の世界のマインドをもっている人のことである。彼らは、生活領域が広く、頭の中だけでなく実践をする。  「生活自遊人」はシビアで、買物もしろうとではない。モノを知っている。そういう人をターゲットにするために、ロフトは「高度情報装備性」と「高密度・高集積」を売物にしている。  じつはロフト社員三二〇名中、百名ほどが「モノマスター」である。彼らは、社内外公募で選ばれる。あるモノについて、本当に好きで専門的に「きわめている」人たちである。モノを使いこなせるそういう人が、仕入れから始まって、そのモノのすべてに責任をもつのである。  「しろうと」でない学習者が増えてきた今日、それを援助する生涯学習関係職員にも、これぐらいの高度な学習内容への「こだわり」が求められる時代なのかもしれない。 視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業  −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE− 1 BEすなわち個の存在の主張  BEは、その名のとおり、個人の人間としての「存在」に関わって、その創造、確認、さらには地域コミュニティレベルでの活動などを援助することをめざしている。  渋谷駅南口を降りると、すぐ目の前に渋谷東急プラザがある。その七階と八階に東急クリエイティブライフセミナー渋谷BEがある。  七階の受け付けカウンターの向かいは、ゆったりとしたロビーである。そのテーブルといすは、暖かみを感じさせる木製のものである。まわりの壁などの全体の色も、淡いピンクを基調としている。そのため、フロアー全体が親しみやすい感じをもっている。  モダンな雰囲気もあるが、それ以上に暖かでアットホームなムードがだいじにされている。このムードづくりの基本方針は、あとで説明するようにBEが「おとな」の女性を主要なターゲットにしていることにも関係している。  このような「暖かな」雰囲気の中で、会員自らの手作りのさまざまな「作品」が陳列されている。各教室の前の壁や廊下に、絵画やクラフトなどが展示されているのである。  その一つに会員の「ラッピングコーディネーション」の作品を展示している小さなコーナーがある。今の世の中、贈り物といってもその品物はお店にお金をはらって買うだけ。せめて、包装やリボンなどには贈り手の演出をという穏やかではあるが確かな自己主張志向の表れである。  普通のビンを和紙で上手にくるむなどという作業の中に、会員の意思とアイデアが存分に発揮されている。柄杓(ひしゃく)の柄をラッピングしたりなど、とても斬新な発想である。  BEのパンフレットには次のようにある。  「BEとはbe動詞のBE。『ある』『存在する』『〜になる』という意味をもつ言葉であり、個としての存在を証明し、主張する言葉でもあります。I think,therefore I am −『われ思う、ゆえにわれあり。』 人間のすべての行動の原点として文化をとらえ、自分自身の存在確認を行う場所。そして、それぞれの人々が、それぞれの生き方を創造し、確認する空間となることを願って、この新しい空間を『BE』と名付けました」。  「教養」としての知識の向上より、むしろ存在確認としての「文化創造」をアピールしようとする姿勢である。  今回の取材で、BEの副総支配人の櫻井さんに、お忙しい中、インタビューに応じていただいたが、櫻井さんは「今まで絵画などばかりでなく、教養面の講座でも『つくる』ことに力を入れてきた。今後もそうしたい」と言っているのである。  ファッションとしての教養ではなく、人間存在に肉薄する文化創造に民間教育事業がアプローチしようとしている。しかも、そのやり方は「民間教育事業」らしく、スマートかつファッショナブルなのである。 2 若者の街、渋谷の中で  渋谷は新しいタイプの町である。通りが、店が、そして電話ボックスまでもがしゃれている。  渋谷の街づくりのこの明らかな成功のカギとなったのが、西武パルコである。駅からちょっと歩かねばならず、けっして立地条件がいいとはいえない所、「公園通り」を若者のメッカにしてしまった。  他にこの通りには若者の「文化拠点」として「ジァンジァン」がある。これは、教会の地下にある劇場で、最先端の文化活動が行われている。  そして、東急系のデパートとして「ハンズ」がある。これはクリエイティブライフストアーと銘打ち、「手づくり」のブームを生み出した店である。最近は、その近くに、西武系の「雑貨屋」イメージのデパート、ロフトがオープンしている。  たとえば、ハンズはデパート会社の系列ではなく、東急不動産の子会社としてオープンした。そして、それまでの流通業の人たちの常識では考えられないデパート経営をした。店子(たなこ)に場所を貸すのではなく、いいものを探して買い取って来て自らが売るのである。  若者に受けている店は、表面的には従来どおりモノを売っていて、それがよく売れているだけにしか見えないのだが、このように本質的には何かしらの「情報」を売りものにしている。どこも若者に誇れるような情報のアンテナをもっていて、それによって得た新鮮な情報を売場での「品揃え」の形などでアピールするのである。「なぜ渋谷だけが」と他の街が歯噛みをするほどの勢いの差も、その情報の魅力の差から生まれる。  それでは、渋谷BEの存在する「渋谷東急プラザ」もこの「波」の中にあるか。実はそうではない。駅前ではあるのだが、国道などによって分断された立地である。そして、駅から少し離れた公園通りより、かえって波に乗りにくいのである。それゆえ、「プラザ」の店の品揃えは、むしろアダルトのとくに女性重視である。BEも「プラザ」の階上にあるのだから、当然その影響を受けている。  しかし、それでもBEはつねにこの公園通りの「渋谷」を別物ではなくライバルとして意識している。櫻井さんの言葉のはしばしにその意識が表れているのである。若者の意識をひきつけるものは何なのか。逆に若者がそっぽを向かないようにするためのコツはないのか。情報やノウハウは、どのように手に入れたらよいか。若者のニーズへのこのような鋭い感受性がないと、誰を相手にする商売でも成功しない。情報ソフトが肝心なのである。  学習機会も同じであろう。たとえば、若者に魅力があるネーミングは、基本的には中高年にも心地よいのではないか。このように、BEはもっと年上の「おとな」の学習にも、うまく渋谷の「若者センス」にあふれた情報力を活かしながらアプローチしているといえる。 視点3 「個人」がいきいきするしかけ  −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−  JR戸塚駅のホームから、三階建の淡いアズキ色の建物が見える。「横浜女性フォーラム」である。市内の女性の活動と交流の拠点として、昭和六三年九月、横浜市はこれを四十億円をかけて建設した。しかし、その管理・運営は財団法人横浜市女性協会に任されている。  正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、コンピュータシステムによる図書コーナー、自動搬送システムによるビデオコーナー、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできるフォーラメディア、パソコンゲームコーナーなどがある。  ミニコミを収集・展示したり、データベースに「よびかけ」や「らくがき」が自由に書き込める「掲示板」というメニューを提供するなど、交流への「しかけ」もさりげなく用意されている。  また、一階には、フォーラポート(相談室、ポートは港の意)、印刷工房、託児室、そして、三八〇席の立派なホールもある。ホールの「親子席」では、乳幼児といっしょでも、人に迷惑をかけずに安心してなまの芸術に接することができる。  「生活工房」は二階にある。そこの「工作・工芸」「衣」「食」の三つのコーナーでは、くらしを「創造」する活動ができるが、それらは間仕切りのないオープンスペースとなっている。予約なしでも自由に利用できる。パンフレットには、「個人、グループ、男性・女性、大人・子供の枠を越え、初めて出会った人とも一緒に利用しましょう」とある。ガラス張りの「物品庫」からは、「創造」に必要な器材が借りられる。  その他、二階にはガラス越しにグループの活動の様子がわかるセミナールームや音楽室、和室などがある。三階には、助産婦さんのいる健康サロン、スタッフによるアドバイスや体操教室などの受けられるフィットネスルームなどがある。フィットネスルームは、団体貸出しを行わない。個人またはその交流にねらいをしぼっている。  ユニークな講座も盛んに行っている。たとえば、女性には不向きとされがちな自動車整備や電動工具の講座、水まわりの修理の講座、仏発祥の再就職の講座「ルトラヴァイエ」などである。  フォーラムは、このようにして、その情報と空間と人材をしなやかに活用しながら、「個人」にアプローチする。そして、さらに男性や子どもをもまきこんだ交流へと誘(いざな)うのである。 視点4 「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態  青少年団体が「個の深み」を真剣に追求しようとする時、「どういうプロセスを経て、その結果、どこにたどり着こうとするのか」ということが最初に問題になるだろう。しかし、その一つ一つの明確な解答、つまり「行き方」と「行き先」は、じつは、動き出す前は決まっていないのである。  「個の深み」を最大限に尊重しそれに対応しようとすると、どうしてもそのような予測不可能な要素が多くなる。当人以外の人には、あるいは当人でさえ、「個の深み」とは、突発的に出現して意外な方向に進むものである。そのため、あるいは「迷路」に入り込むような気分になるかもしれない。  しかし、「個の深み」を尊重し助長するためには、団体の既存の目的だけに縛られてしまってはいけない。何が起こるかわからない「迷路」に挑戦する姿勢が求められる。あるいは、俗にいう「ケ・セラ・セラ」のような軽い気持ちでなくてはやっていけないとも言えようか。  そして、「個の深み」がこのように奔放に発露される場を創り出すためのもっとも有力なノウハウは、青少年団体がすでにもっているはずである。それが小集団活動である。小集団によって「個の深み」への柔軟な対応が可能になる。青少年団体はこのような小集団的発想から団体運営を見直して、そのコンセプトを再構築することが大切ではないか。  この基本的認識に立った上で、以下のように視点をまとめてみた。 1 目的志向型からMAZE(迷路)型へ  パソコン通信でやりとりされる記事(レスポンス)は、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ=M)、大ざっぱ(アバウト=A)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ=Z)している。しかも、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、気楽(イージー=E)に書かれている。まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。  しかし、このような「迷路」から、各自は、各自なりに、最初気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。  パソコン通信は、ビジネスに直接役立つ情報を手間をかけずに効率良く獲得しようとする人にとっては、本当は魅力のある手段にはなりえない。しかし、人間らしい情報の創造と交流のためにはパソコン通信は有効なツール(道具)なのである。(中略)  青少年団体においても、すでに設定された目的にとっての最適の「手段」ばかり考えるのではなく、各自が「迷路」の中でさまようことを許容してもよいのではないか。もちろん、個人にとっても団体にとっても、「迷路」をさまよう内には、苦しいこともあるだろう。しかし、基本的には「迷路」でさまようことをむしろ楽しんでしまう精神を求めたい。 2 学習→活動型から活動=学習型へ  「学んだこと」を「社会的な問題の解決」に結びつけるために、青少年団体は従来から学習活動を重視してきた。しかし、それらの学習の目的は、おもに「活動」を準備するための学習であったといえよう。今後は、そういう「活動するための」学習に対して、「活動の中に混じっている」学習をもっと重視すべきではないのか。実際、身近な活動と学習が渾然一体となっている所は、「いきいきと面白く元気の出る場」になっているようである。  そのためには、スケジュール化された行事を成功させるためのスケジュール化された学習だけでなく、日常の活動の中で個人個人がいろいろなことを「気づき」「思いつき」さまざまな思いをもつという意味での「学習」を高く評価すべきである。そして、そういう「学習」がまた新しい活動=学習を生み出すような、柔らかなシステムが青少年団体の運営に求められている。 3 研修会方式からたまり場方式へ  団体がそのめざしているものを、迅速に効率良く集団に伝えようとする時、どうしても「研修会」に頼りがちになる。しかし、そのような研修会では、参加者がそれぞれの個性を生かしてアイデアを出し合うということは難しい。  「個の深み」から発したユニークなアイデアを団体運営に反映するためには、研修会だけでなく、いくつかの所で試行されているように、喫茶店や居酒屋などのような気楽にしゃべれる空間の活用が大切である。 4 一括方式から選択方式へ  パッケージツアーはなかなか便利な旅行システムである。プロである旅行会社が設定したコースは、さすがに大切な見所を要領良く組み合せてあり、それらを交通手段などの心配もなくまわることができる。  しかし、一方で、最近では「地球の歩き方」というガイドブックを片手に外国の路地を探し歩く日本の若者が増えている。この本には、一般にはあまり有名でない店などを含めて、その国のこまごました情報が満載されている。  同じ海外旅行をするにしても、従来のようにプロがすべてをお膳立てした「フルコース」のセットでは、ニーズの多様化した若者には満足できなくなってしまっている。それよりも、若者はたくさんの情報を得た上で自分の好みのコースを歩き、時にはちょっと苦労してもいいから「自分だけの」思わぬ発見をしたいのである。  旅行に限らず団体活動のいろいろな局面で、団体だからみんなが同じ行動をするというのではなく、むしろそれぞれの好みの行動ができるよう、団体は情報やメニューの提示などをし、各個人がそこから自らの行動を「選択」し、その上でそれぞれの「発見」を披露し交流してもらうなどの発想転換が必要である。 5 既製服型から注文仕立型へ  個人が団体に所属していることは、さまざまな面でのメリットもある。もちろん「仲間がいると心強い」などの所属感もその一つだが、その他、「一人ではできないけれど集団になったらできる」ということもある。  そこまでは良いのだが、この「集団のメリット」にともなって、「安かろう、悪かろう」という安易な気持ちや「逃げ」の姿勢を、団体側がもってしまうことはないだろうか。たとえば「あなたはこの団体から恩恵を受けているのだから、そのぐらい我慢してくれよ」とリーダーからメンバーに頼むことはなかったか。その時、メンバーの不当なわがままを我慢してもらうのならともかく、いつのまにか「個の深み」の発揮まで我慢させていないか。  A.トフラーは、その著「第三の波」の中で、コンピュータなどの高度技術の活用によって、たとえば服飾業界では「個人の寸法にぴったり合った服」を、一着づつ、しかも早く安く仕上げることができるようになるだろうと予測している。  団体活動においても、今日の科学技術や交通手段の発達などの有利な条件を生かせば、各人のばらばらなニーズに合わせた「注文仕立て」の多様な活動をすることができるはずである。ちなみに、その場合、「注文」したメンバーが「他の誰かがそれをやってくれるのを待つ」という姿勢であってはならない。それを注文した本人が一番熱心にそれに取り組むよう、団体の方からも本人に要請すべきであろう。 6 スローガン型から遊び心型へ  平成二年一月に出された中央教育審議会の答申「生涯学習の基盤整備について」では、生涯学習はボランティア活動などの中でも行われるものとして広くとらえられている。当然、青少年団体活動も含まれるといえる。そして、この生涯学習は、個人の意思で自ら「選びながら」行われるとされている。生涯学習は、こういう学習が必要であるということを外部から決められておしつけられるものではない。自らが好んで、ある意味では「楽しんで」行うのが生涯学習なのである。  また、中国山地の「過疎を逆手にとる会」は「遊び半分」をその「哲学」としている。世田谷羽根木のプレーパークのプレーリーダーは「まず、自分が遊びを楽しむ人」だという。  これに対して、団体の実際の運営においては、通常「スローガン」の羅列、すなわち「○○を学ばなければならない」「地域を救わなければならない」「子どもにこうさせなければならない」などの「ねばならない」のオンパレードになりがちである。しかし、生涯学習がそうであるように、既成のスローガンにあまり拘束されずに、変幻自在が許されて「遊び心」で活動できることが「個の深み」の発揮につながるといえよう。  知覧町連合青年団が「青年団が嫌いだ」という相互理解のもとに「団結できた」ということも、スローガンをおしつける青年団なら嫌いだが、自分たちが自分たちのために変幻自在に活動できる青年団なら面白がれるということを表している。自分たちがやりたいと思う活動を楽しくやっている青年団は、知覧町ばかりでなくどこの地域でも元気がある。 視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク  −AV−PUBのサロンで「私的」交流−  港区虎ノ門の日本視聴覚教育協会が、文部省の支援も得て教育関係者のためのパソコン通信「AV−PUB」を運用している。これは、「視聴覚教材情報全国システム」という正式名称のとおり、AV関係のデータベースであり、電話線を通して全国から利用できるようになっている。  しかし、愛称のほうはPUB(酒場)であり、その中にサロン(談話室)という電子掲示板もある。パブのように気楽に入って必要な情報を入手し、ついでにサロンで全国の仲間とディスプレイを通したおしゃべりもできるわけである。  昨年六月ごろから、このサロンで生涯学習関係者の書き込みが盛んになってきた。LLLという、ゆるやかなつながりの小さなグループである。メンバーは近県の社会教育主事、小学校教師、新聞記者などで、時には、本当に飲み屋で集まって一杯やることもあるが、ほとんどは自分の空いている時間、すなわち深夜、自宅から発信する。  いずれにせよ、フォーマルな立場での気遣いは不要、その意味では「私的」な交流である。そこで、授業、講演、執筆、学会発表、出張、視察、研究発表会参加などの事前・事後報告や他のメンバーとのやりとりが行われる。今まで話題になった主なものを出現順に紹介してみよう。  ニューメディアに関する専門性の内容、社会教育施設のLAN化、情報ボランタリズムの意義、コンピュータ教育に必要な知識体系、根底的な学社連携としての教え方の技術の交流、情報処理能力の内容、リーダーシップトレーニングのノウハウ、DIY(手作り)メディアの評価、子どもにキーボードストレスはあるか、社会教育主事の発問や学習プログラムなどの交換の必要、学習情報提供が抱える問題点、小さな市町村の生涯学習関係職員の高い通信ニーズ・・・。  その他、宇宙は有限か無限か、太古の哺乳動物について、海外旅行のコツ、出張先のうまいもの情報求む、マシンの情報や選定についてなど、実際の流れはミスマッチ(M)でアバウト(A)でジグザグ(Z)でイージー(E)で、まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。  AV−PUBには、教育に関係する人なら誰でも加入できる。電話料金だけ負担すればよい。技術的にわからないことは、LLLのメンバーが助けてくれる。 視点2 学習情報提供事業の企画と展開  −人間が学習情報を求めている− 1 学習情報提供事業の基本的問題  生涯教育の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することは大変難しくなっている。それゆえ、豊富な学習機会の中から、市民が自己の必要とするものを的確かつ速やかに選び出すこともできなくなっている。学習施設や人材など、生涯学習に関わる他の情報についても同じことがいえる。  こんなことでは、せっかくの「外側」の「学習社会」の実現も、一人一人の人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのである。  しかもここで扱う情報は市民一人一人の内面に関わり、影響を与えるものであるから、その情報提供事業は特別に、「市民主体」「公正」「公平」などの公共性に裏打ちされていなければならない。  公的に学習情報を提供する意義は、以上のようにまとめられるだろう。しかし、さらにこの事業の実施に当たっては、次に述べる三つの基本的疑問について考えておく必要があると考える。 (以下、表題のみ列記する) 1) 情報過多に「輪を掛ける」ことにならないか 2) 市民の情報能力の獲得を阻害しないか 3) 情報提供より学習相談を中心的機能とすべきではないか 2 展開の構想にあたっての留意点 1) 側面的援助という原則の遵守とともに積極性の必要 2) 新鮮な情報の収集 3) 実際に市民が求める情報の提供 4) 「学習情報」の範囲を偏狭にとらえない 5) 地域情報・行政情報の重視 6) 科学技術の急速な発達をうまく活用する 7) 学習情報ニーズを育てるための教育的機能の発揮 8) 市民自身の手による調査・研究との結合 9) ともに育つ「しかけ」の配置 10) ネットワークシステムの中での位置づけ 3 展開の構想 生涯学習情報提供事業の機能   (●表1) 情報の種類・内容・収集方法   (●表2) 情報の収集から提供までの流れ  (●図1) 視点3 学習情報提供の実際 1 市民の学習情報要求にこたえる情報提供の実際  学習情報提供を始めるにあたって、そこで提供される情報が、学習者の情報要求にこたえるものになるかどうかが、まっさきに問われる。  要求された情報にこたえるということは、ごくあたりまえのことのようにきこえる。しかし、それを実際に実現しようとすると、情報提供側はさまざまな具体的困難に直面する。学習情報提供には、その困難をのりこえるセンスと努力が求められるのである。  ここでいくつかの事例を紹介するが、その中から、事業主体の積極性と創意工夫の跡を読みとっていただきたい。  なお、図書館においてもそれと通じる評価すべき試みがなされているので、あわせて紹介した。図書館のいくつかの積極的な試みは、学習情報提供のあり方にも直接的な関連をもっており、示唆を与えるところが大きい。 (以下、表題のみ列記する) 1) セクショナリズムをこえて、学習者の求める情報をひろく、わかりやすく提供する    −中野区「中野の社会教育事業等プラン一年」− 2) 民間の活力あふれる学習情報を提供する    −江東区文化センター「タウン情報こうとう」− 3) 提供できない情報についてもつねに問題意識をもつ    −仙台市中央公民館情報コーナー− 4) 「低次元」と思われるような情報要求に対しても、みくびらずに接する    −東京都立江東図書館の「ヤングアダルトコーナー」− 2 学習情報提供における情報要求のほりおこしの実際  情報要求の中には、学習者が自ら意識して実際に情報を求めてくる「顕在的要求」もあれば、まだ本人から求めてくるにはいたっていないが、なんらかの形で触発された場合には情報要求として具現化されるであろう「潜在的要求」もある。  学習情報提供事業においては、顕在化された質問に答えているだけで良しとするのではなく、学習者が自らの「潜在的学習要求」や本当に必要な学習情報とは何かについて気づくよう援助することも一方で考えなければならない。  ひとつには、学習者のそれぞれの実際の情報要求に応じる時に、相手が言葉に表していない「潜在的要求」まで察する努力をした上で、必要な情報の提供を行うべきである。  さらに、次に述べる各種の情報提供においては、「潜在」を「顕在」に転化させるために、その他の積極的な働きかけが行われている。そして、それらは情報提供そのものにも効果的にむすばれている。このような取り組みにより、学習情報提供の価値がいっそう高まるのである。 (以下、表題のみ列記する) 1) 自由にみちた文化度の高いイベントを開催する    −大阪府立文化情報センター− 2) 学習情報がひろく活用されるよう、「動態的」にサービスする    −調布市立図書館の読書会活動−  学習情報を提供するにあたっては、まず、市民の求める学習情報を提供することが大切である。そのためには、実際には次のような点に留意する必要がある。 1) 一般行政の教育的事業などの学習情報も含めて、それを学習者の立場に立ってわかりやすく編集・加工して提供する。 2) 自主的な教育・学習活動や、時にはカルチャービジネスなどの民間の学習情報も含めて、民間の活力にあふれる生涯学習の情報を提供する。 3) 政治・宗教・営利に関する学習情報など公共性の観点から取り扱いの難しい情報の要求に対しても、機械的に切り捨てるのではなく、問題意識をもって柔軟かつ主体的に対応する。 4) 青少年などの「低次元」と思われる情報要求に対しても、みくびることなく、学習の発展の契機として尊重して対応する。 5) コンピュータ利用などによって、大量の情報の整理と迅速な提供をはかる一方、学習情報を求めてきた人との対話を大切にし、表面には現れてこない潜在的な学習情報要求にもこたえられるよう努める。  つぎに、潜在的な学習情報要求をほりおこすことによって、市民の学習情報要求それ自体の発展を援助し、また、学習情報がひろく市民に活用されるようにすることが大切である。実際には次のような働きかけが考えられる。 1) 衝撃力のある文化度の高いイベントを開催する。 2) 「座して待つ」のではなく、地域のさまざまな場所・機会において、学習情報を提供する。 3) 学習情報の「専門家」として、ひろく市民に対して、学習情報の入手や活用の方法についての専門的・技術的援助を行う。  ただし、これらの働きかけは、けっして強制や押しつけであってはならない。市民の自由と主体性を尊重し、市民と対等に接してともに考える姿勢が必要である。 視点1 あたたかいディスコダンス  青年たちと久しぶりに新宿のディスコにでかけた。昔ほどの熱気はなかったが、それでもフロアは若者でいっぱいで、けっこう楽しめだ。しかし、昔よりおとなしい曲が多く、それに合わせてめいめいが各様の踊り方をしていた。  実は私は、青年の家の職員だったころ、主催事業としてディスコダンスの合宿をやっていた。そのころ、まちではディスコが熱っぽくはやっていたが、社会教育の場でそんなことをした前例はどこにもなかった。実行委員の青年が踊り方をどこからか仕入れてきて、みんなに教えた。時にはディスコの店長を招いて教えてもらったこともある。  当時はバスストップなどのステップダンスが多かった。これは、バスの停留所に並ぶような形でみんなでステップを合わせる踊り方である。そこでは生まれて初めてディスコをやるという人も、毎週ディスコに通いつめている人もいっしょになってステップを踏む。 青年たちの感想は「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」とか、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」などであった。「ヒトに教えるなどとんでもない。人の前でカッコ良く踊るのが生きがい」という様子のディスコボーイが次第に実行委員会にのめりこみ、三年目のフェスティバルでは、スッと前に進み出てマイクを握り、一歩一歩そのステップを説明してくれた時は、私も他の実行委員の連中も大喜びした。  ディスコで汗をかくと、とにかく身も心もすっきりする。しかし、今も昔もお店のディスコでは青年は意外にひとりぼっち。相手がかわいい女の子でもない限り、踊れないで隅にいる他人を、じょうずな者が教えるなどといったことはありえない。その点、社会教育や青年団体活動の場では、もっと「あたたかい」ディスコができるのだと思う。  そんなことを思う時、年のせいかもしれないが今のディスコにものたりなさを感じる。みんなで教え合い、初めての人でも簡単にリズムにのれるバスストップのような「古き良きディスコ」に愛着を感じる。今でもそのステップを教える機会が時々あり、そんな時は私自身が心から楽しんでしまっている。 視点2 レクリエーション的な要求への対応 1 レクリエーションの重要性  生涯学習の振興とは、住民の主体的な学習・文化・スポーツ・レクリエーションのすべてがいきいきと行われるために必要な条件整備をすることである。だから、レクリエーション的な要求が多い地域では、まず、レクリエーションのための施設・設備などを含めて、それが活発に行われるための条件が十分であるかどうかを再点検しなければならないのは当然である。  余暇が増大し、高齢化が進展するなどの急激な社会の変化の中で、人間性をとりもどし、それをもっと豊かなものにするためにも、レクリエーションは重要である。  生涯学習要求調査の中での「レクリエーション的な要求」が、住民一人ひとりのどういう根源から生まれでてきているのか、そして、どんなレクリエーションを住民が望んでいるのか、まずはできる限り把握すべきである。 2 地域課題の導入の可能性  このように住民の学習要求を細かに見ていくと、「顕在的」な要求ばかりでなく、直接は調査に表れにくいけれども、調査全体からは見え隠れする「潜在的」な要求も少しづつ明らかになる。その一つが地域における人々の連帯である。  芸術の鑑賞や旅行などのように、一人で行うレクリエーションも大切だが、レクリエーションが人間回復をめざすのなら、それは一人ひとりの孤独な営みだけでは、けっして完成することはできない。人間どうしの連帯感を味わうことができてこそ、レクリエーションの大きな喜びがある。  今日の地域社会は、さまざまな問題をかかえている。とくに、地域の連帯意識や共同性の弱体化は、自立性の衰退、住みにくさ、地域教育力の減退による子どもの非行化などの主要な要因の一つになっている。これらのことも、住民の深刻な学習要求として表れているはずだが、レクリエーション的な要求をもっている人はそういう要求をもっていないと、みくびってはいけない。むしろ、連帯感があふれるレクリエーション、地域の連帯をつくりだすレクリエーションを、「顕在的」あるいは「潜在的」に求めていると考えるべきである。ここに、「レクリエーション的な要求」が、地域課題にむすびつく可能性を指摘することができる。  たとえば、自治体の生涯スポーツの取り組みの中で、三世代交流のゲートボール大会や、地域対抗のソフトボール大会などが行われている。これらは、「顕在的」なスポーツ・レクリエーションの要求にこたえながら、地域の連帯感の涵養によって地域課題にアプローチする試みとして評価することができる。 3 生涯教育の基本方針からみた調整のあり方  右に述べたように、住民の学習要求(文化・スポーツ・レクリエーションを含む)がある場合、それがささいに見えるものであっても、その活動が自主的にいきいきと行われるよう配慮することが行政には求められる。そして、その学習要求をていねいに分析することによって、「潜在的」な学習要求もみえてくる。  しかし、そのことは、「顕在」「潜在」の学習要求のすべてにわたって、行政側がそれに対応する事業を「提供」しなければならないということではない。生涯教育の予算といえども限られているのだから、住民の多様な学習要求から「選択」せざるをえない。その「選択基準」をプライオリティー(優先度)という。プライオリティーには、緊急性、切実性、公共性などが考えられる。いずれにせよ生涯教育行政が責任をもって、住民の支持を得ながら、その基準を明らかにしていかなければならない。  その時、当初は把握できなかった学習課題も、場合によっては事業として設定することがありうる。生涯教育の事業は、調査を平板に受けとめるだけでできるものではなく、「選択行為」とそれへの住民の反応のプロセスから動的に創り出されるものである。もちろん、この「選択」は住民の生涯学習の活動に対して行われるものではない。あくまでも、生涯教育行政が自ら提供する事業を設定する時に必要になるものである。 視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方 1 ジェネレーションとライフステージ  高齢者教育における学習課題をとらえるためには、まず、成人一般の学習課題の把握が必要になる。その上で、高齢期特有の学習課題をとらえるためには、大きく二つの観点が考えられる。  一つは、高齢者として同じ歴史的体験をしてきて、関心や考え方などに共通するものがあるというジェネレーション(世代)の観点、二つは、それぞれの高齢者が年をとること(加齢)によって受ける心身への影響に、共通するものがあるというライフステージ(発達段階)の観点である。  前者のジェネレーションの観点で言えば、戦前に青年期を過ごしてきた人間が現代を生きていく時の、苦悩、喜びなどを理解し、それを援助するとともに、現代社会が反省しなければいけないことを、今を生きる社会の一員として有効に提起してもらうために必要な学習課題にも、目を配ることが大切である。  後者のライフステージの観点については、森幹郎氏の指摘が重要である。それは、老人問題を論ずる場合、暦年齢chronological agesではなく、社会年齢social ages や機能年齢functional ages でとらえることが必要だということである。そして、年をとり、かつ、労働を引退した人を、「社会年齢の上での老人」(ヤングオールド)、身体的、精神的、心理的に老衰し、かつ、日常生活行動の上で他人の介護を必要とするようになった人を、「機能年齢の上での老人」(オールドオールド)として、区別して考える必要があるというのである。(森幹郎「高齢化社会における高齢者教育」、国立教育会館社会教育研修所『高齢者教育の目標と内容』、一九八七) 2 個人的課題と社会的課題  つぎに、高齢者教育における学習課題には、個人的な側面と社会的な側面とが考えられる。  「個人的課題」とは、「退職後の生活設計」「余暇活動」「老いの受容」「死の受容」などに関するものである。とくに、「老い」や「死」を受容するか否定するか、あるいは逃避するかは、まったく個人の精神的内面に関わる問題である。しかし、あえてそれを「学習課題」としてとらえて、その学習を援助する手だてを探り出すことが、高齢者教育を行う者にあらためて求められている。  「社会的課題」については、LESS DEPENDENCY EDUCATION =「できるだけ他人に負担をかけないための教育」(森氏)が、ポイントになる。その中身は、ヤングオールドに対しては、再就職教育、予防的健康教育、オールドオールドに対しては、リハビリテーション訓練などがあげられます。その他、核家族化が進行する今日、高齢者の知恵を活かし、また、他の若い世代と交流してもらうこと自体も、今日の高齢化社会において社会的意義をもつ学習課題といえる。 3 学習課題の実際の領域  稲生勁吾氏は、ハビガースト、エリクソン、ノールズの説や国立社会教育研修所の「成人の学習領域」の研究成果などを参考にしながら、次のように、高齢期の学習課題を整理している。(稲生勁吾「高齢者教育の内容」、同『高齢者教育の目標と内容』)  「高齢期の理解」(老化と円熟の認識など)、「高齢期の過ごし方」(高齢期の生活設計など)、「家族とともに生きること」(家族関係など)、「社会とともに生きること」(地域社会についての理解など)、「高齢者に関する法律・制度」(老人福祉など)。  高齢者教育における学習課題をとらえるためには、先述のような基本的な観点があるが、そのそれぞれがはっきりした境界線をもっているわけではない。現に、稲生氏の整理した学習課題は、それぞれがいくつかの観点からの意義を同時に有している。現実に学習課題を選択する場合は、複眼的視点が求められるわけである。 視点4 グループリーダーの新しい形  今日の多様化、個別化の社会において、グループリーダーのあり方も大きな変貌を遂げつつある。その主要な変貌の一つがリーダーからメンバーへの「権限(リーダーシップ)の移譲」ともいえる現象である。  「○○委員会」「○○部」などの固定的なブロックの上に恒常的な会長がいて、その会長が全体を統括するというのではなく、ある企画や問題について関心のある数人がその時のグループの中心になってプロジェクト・チームに似た機能を発揮する。そして、会長は他にいても、それより強力なリーダーシップを「不定期に」発揮する者がそのチームの中から登場する。この新しいリーダーシップのシステムは流動的で柔軟である。  ここでは、会長などのグループ全体の恒常的な指導者を「ゼネラル・リーダー」、不定期に出現する指導者を「プロジェクト・チーム・リーダー」と便宜上、よんでおく。なお、ここでいう「プロジェクト・チーム」とは、会社組織などでつくられる当該事項に関する適性をもつ者の「横断的」なチームとは、多少、性格を異にする。むしろ、グループ活動の「自主性」「自発性」という特性に規定されて、当該事項に関心をもつ者の「自然発生的なチーム」である場合が多いだろう。必ずしも他者から特命を受けた明確な組織形態をとるわけではない。  もちろん、グループの効率的な運営などのためには、今日でもグループ全体を掌握する「ゼネラル・リーダー」の役割は軽視できない重みをもっている。しかし、それとともに、これらの「プロジェクト・チーム」がグループの中で認められいきいきと活動できることが、新しいネットワーク型のグループ運営を進めるための必須条件といえるのである。  むしろ、「ゼネラル・リーダー」のもつべき今日的なリーダーシップとは、そういうプロジェクト・チームが盛んに形成され、それぞれのリーダーが続々と生まれ育つよう励まし見守ることともいえるのである。  これに対して、公民館で行われるリーダー養成事業が、「ゼネラル・リーダー」ばかりを対象として、しかもその事業にリーダーシップのためのありとあらゆる知識・技術を盛り込もうとするならば、それはグループのネットワーク型運営の方向に逆行し、活性化を阻害する結果にさえなってしまう。  たとえば、グループ運営を一手に引き受け、たくさんの「責任」をしょい込んでいるリーダーには、対外的な仕事もかなり集中してしまう。その上に、リーダー研修への参加までもが、「対外的な仕事」(動員への対応)の一つとしてこのリーダーにおおいかぶさる。このようにして、リーダー一人がますます忙しくなってしまうのである。  そもそもリーダーを「ゼネラル・リーダー」に限定してとらえることは、グループ全体の成員の自発性、主体性を軽視し、グループをリーダー偏重のタテ組織としてとらえていることの表れであろう。さらに言えば、この「ゼネラル・リーダー」偏重の志向は、初級→中級→上級というリーダー研修体系を、より大きな規模の「ゼネラル・リーダー」になるためのたんなる「踏台」として歪曲することにもつながりかねないのである。  今日、リーダーシップとメンバーシップは、機械論的な二元論で扱うべきものではない。グループ活動の中で、この二つは成員の間を自由に行き来すべきものなのである。ネットワークとはそういうことである。 視点5 リーダー研修に望まれる内容  そもそも、ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」とされているのに対して、リーダーシップは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」とみられている(見田宗介他『社会学事典』、弘文堂)。リーダーシップは、本質的にネットワーク型なのである。とくにグループのリーダーシップは、成員各自の主体的な合意のもとに、しかも「プロジェクト・チーム・リーダー」を含む非固定的なリーダー個人の自立的な価値によって、可変的に発揮されるという意味で、ネットワーク的性格をいっそう強く有しているものといえる。  リーダー研修の内容としては、場合によってはごく実務的な事項も含まれて当然であるが、研修全体として見ればこの本来のリーダーシップのあり方を実現するために必要な事項こそが核に据えられるべきなのである。  その一つは、コミュニケーション能力である。ネットワーク型リーダーには、自己の企画を他のメンバーに訴える力(プレゼンテーション)と、それに共感してくれた各人の人間関係をとりむすぶ力(グループワーク)の両方が必要である。コミュニケーション能力はその基本になる。  二つには、「不定型」に挑戦する能力である。ネットワークは、めまぐるしく変化する問題や関心に自由自在に対応できるところに、その魅力がある。その時点での役職やルーティンワーク、あるいは慣習にしがみついて発想したのではネットワークにならない。未知で形の定まっていないことへの挑戦の姿勢が求められる。そのためには、発想法のトレーニングなどが有効である。  三つには、外と交流し学びとる、「外とのネットワークづくり」の能力である。異種の人間との交流が各自の世界を飛躍的に広げる。人材を知ること(ノウ・フウ)にもつながり、グループ運営にも資することができる。そして、それは外とのネットワークであると同時に、グループ内の風土にも新鮮な風を起こしてくれる。このような意味から、団体間コミュニケーションとしての「交流」を援助する意義は重要である。  しかし、もう一方で、公民館はネットワーク型グループ運営のもつ問題や危険性も見過ごさないようにしなければならない。  ネットワーク社会においては、専制的な「リーダーシップ」は否定され(権威失墜)、拡散し、大衆化する。だが、そのことは反面、正当なリーダーシップをも軽視する傾向にも通ずる。厚みのある「大作」としての文化が喜ばれないのと同様に、「不易」の根拠をしっかりともつリーダーシップまで捨て去られてしまう。そして「流行」だけが追い求められる。  そのような時、リーダーに「不易」を提起する公民館独自の役割は大きい。公民館は、この役割を主体的に発揮しなければならない。  もちろん、その場合でも、「主体的」であるべきは公民館だけではない。研修を「受ける」側としてのグループリーダーにも「主体的」参加が求められる。このような両者の主体性を両立させるためには、「問題共有の視点」をもつ研修内容にする必要がある。すなわち、「同時代」に生きる者としての共通の問題に共同で取り組むような研修内容にするのである。そこには主体的な自己成長と相互作用が生まれるだろう。  もともと「養成」には「教育して一人前に成長させる」という語義がある(岩波漢語辞典)。しかし、そういう「養成」の古い語義はもう新たにしたい。お互いに「同時代人」としてすでに「一人前」であるという対等な立場から、「自己養成」「相互養成」を繰り広げることが「リーダー養成」の新しいあり方だといえよう。 視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ  −東京都足立区の生涯学習推進構想− 1 区民の一人一人に受け入れられつつある生涯学習  「足立区生涯学習推進協議会」は、区内の団体の代表を多数含めた五五人の委員から構成され、生涯学習に関するさまざまな願いを取り込みながら、提言などを行ってきた。  しかし、このような生涯学習の活動が、最初から広く区民に理解されていたわけではない。足立区が「生涯学習のすすめ」というビデオの撮影を昭和六二年に開始したころ、「生涯学習という言葉を知っていますか」というインタビューに、ほとんどの区民が「知らない」と答えている。  また、一方で、昭和五八年頃に行った区民へのアンケートでは、「あなたは、どこに住んでいますかと聞かれたら、どう答えますか」という質問に対し、多くの区民が「足立区」ではなく「東京都」と答えるという回答をしており、区の行政担当者にショックを与えていた。  このような状況の中で、庁内の企画、地域振興、福祉、衛生、そして教育委員会などの関係セクションの係長レベルの人たちを中心にプロジェクトチームがつくられ、生涯学習推進のための実質的な協議が続けられた。  最初は、チームメンバーの中には、「生涯学習は教育委員会の仕事」ととらえる人もいたようである。しかし、納得いくまで、メンバーで勉強しあった。合宿もした。事務局を担当した一人の米山義幸さん(生涯教育部学習推進係長)は、「日頃の仕事が違うからこそ、今でも当時のメンバーといっしょにお酒を飲むととても楽しい」という。  このチームによる足立区生涯学習推進構想「学びあうまち足立の創造のために」の報告(昭和六二年六月)の後、「生涯学習の推進」は、行政セクションの違いを乗り越え、「総合行政」の中で重視されるようになってきた。「生涯学習の推進」は文化行政のキイ・コンセプト(中心概念)であり、「A・I(アダチ・アイデンティティ)=足立らしさ」の創出の最高の手段であるという報告の提言は、今日では区政全体に受け入れられつつある。  そして、生涯学習についてのわかりやすいビデオやグラフ誌の発行などもあいまって、区民の間にも「なんだ、私たちのやりたいことが、生涯学習だったんだ」というような声があがり、生涯学習への親しみの気持ちが根づいてきている。今では、住区センターの管理運営委員会の自主企画で、「生涯学習について二時間ぐらい話しに来て」などという嬉しいリクエストが区の担当者に舞い込むという。 2 日常の学習圏とより広い学習圏の施設配置  区内の住区センターの一つ、五反野コミュニティセンターを訪ねた。ロビーでは、子どもが宿題をしたり、主婦が数人で昼食をとったりしている。住区センターは小学校区に一つぐらいの割合で配置されているから、そんな身近な使い方ができるのだろう。  その他、一階は主に老人館で、そのホールでは、「バンパー」というビリヤードのようなゲームを、かなりお年を召した方々がやっていた。その仕草がかなりしゃれているのである。風呂もある。二階は児童館である。広場、図書室、工作室などで子どもが自由に遊べる。  現在三八館ある住区センター(最終五六館を予定)は、すべて地域振興課の管轄だが、その運営は地域の住民の代表による管理運営委員会にいっさい任されている。この管理運営委員会が、講座などの事業も実施している。もちろん、区の生涯学習推進協議会にも、各センターの運営委員長の中から代表を派遣している。このように、住区センターは区民の一番身近な生涯学習サービスを受け持ち、名実ともに「住区学習圏」の核になっている。  つぎに、より広範な学習圏の施設の一つであるLソフィアを訪ねた。Lソフィアは、区内の主要な駅の一つである梅島駅から、徒歩二分の所にある。四階建てで白いタイル貼りの明るい感じの建物である。玄関ホールは二階まで吹抜けで、開放感にあふれている。婦人総合センターを有しているのがここの特徴であるが、その他、梅田センター、消費者センター、区民事務所との複合施設になっている。  梅田センターのようなブロックセンターは、区内に一二館ある(最終一三館を予定)。それぞれ、社会教育館、体育館、地域図書館を併設しており、「住区」と「全区」の間の圏域の施設として生涯学習の中核的な役割が期待されている。  このように、足立区は区民の生涯学習にとって重要な拠点に施設を配置してきた。そのためには財政面や用地取得の上から、先見性と大きな勇気が必要だっただろう。しかし、それが足立の生涯学習の基盤を整備し、ひいては、足立区民が胸を張って「私は足立区に住んでいます」といえるようなアダチ・アイデンティティを形成するきっかけとなっているのである。 3 下町の良さを引き継ぎつつ次代をになうために  緑豊かな東渕江庭園の中に、ひと際目立つ、昔の蔵を思わせる白い建物がある。足立区立郷土博物館である。玄関を入ると、二階まで吹抜けの天井に届くかとさえ思われる山車(だし)が展示されている。このような山車は、下町でももはや貴重なものとなりつつある。  この博物館の展示物の一つに「荒川放水路工事復元ジオラマ」がある。荒川はその名のとおりの「あばれ川」で、大開削工事のすえ、昭和五年に荒川放水路が完成した。これによって、江東デルタ地帯は水害から守られるようになったが、足立は放水路によって二つの地域に分断され、人的、経済的にも大きな試練を受けた。ジオラマの農村風景は一見のどかそうだが、そこには目に見えぬ苦労が秘められていることを感じさせる。  山車に象徴されるような下町の良さや人情を継承しながら、次代に向けて下町ゆえの不利を克服していく・・・。区民一人一人の生涯学習によるアダチ・アイデンティティの創出は、そういう努力の一環なのである。 あとがき  止揚とは何であろうか。それはいうまでもなく、「折衷」とは違うはずである。その「折衷」のほうが堂々とまかりとおっているのは、なにごとか。  ・・・などと肩をいからすほどではないかもしれないが、それにしても、本来はAとBが新しいCになることによって、A・B双方の何らかのデメリットが克服されることを止揚というのであろう。  生涯教育の理念は、社会の教育的諸機能の「統合」である。たんなる「折衷」ではない。それなのに、古い価値観をもって時の流れに抗している社会のさまざまなエスタブリッシュメント(既成の体制)によって、むしろ生涯教育理念が古い教育形態・思想に取り込まれてしまっている現実が目につく。つまり、旧態依然とした優越・劣等の二元的価値観にもとづく教育観(大衆がそれを支えている!)に変質した「生涯教育理念」が、古い教育に「味付け」(折衷)されているだけという状況が見受けられるのである。  そこで私は、不遜なことではあるが、生涯教育理念そのものの究明ではなく、それ自体はあいまいにしたまま、今日の生涯学習の第一線現場に表れる古い価値観克服の葛藤の諸相から、新しい生涯学習のあり方を発想してみた。これが、「か・く・ろ・ん」と名づけたゆえんでもある。 「各論」というと、少年・青年・成人・婦人・高齢者というように、対象別に「輪切り」にした議論を予想された方もいるかもしれない。だが、この本では、重要だと思われる問題をいくつか抽出して論じたという意味で「各論」である。まだ十分には明らかになっているとはいえない生涯学習の本質を見きわめるための「各論」である。たとえば婦人教育であれば、婦人「対象」教育の大切さもさることながら、幼児期から高齢期の男女を対象とした婦人「問題」教育を、よりつきつめて考えてみたいのである(ここではふれていないが)。  この本の中では、新しいキーワードがいっぱい出てくる。個の深み、MAZE、出席ペーパー・・。しかし、この本の趣旨をまとめれば、つぎのようになろう。  人々が「依存」する農業文明と人々が「自立」する産業文明の次にくるものは、人々が依存と自立を統合して知的・情的関係をとりむすぶネットワーク型文明である。依存と自立との対立が止揚されるように、コミュニティと地球との規模の違いから生ずる矛盾も止揚される。あるいは、「止揚」という二元的対立の論理自体が、もう通用しないのかもしれない。  文化や価値観のこのような質的変革のゆくえを決めるのは、人間の新しい形の成長である。新しい形の生涯学習である。新しい形の生涯学習の中では、フォーマル・エデュケーションとしての学校教育は、むしろ生涯学習の基礎づくりの機能としてこそ重要になるのであり、「制度的」には(役所の予算は少なくても)ノンフォーマル・エデュケーションとしての社会教育(行政)や企業内教育が、「本質的」にはインフォーマル・エデュケーションやインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)などのMAZE的生涯学習が、主役になるのであろう。  生まれて初めて「自分の本」を出すことができた。今までいろいろな所で表現させてもらった自分の拙い思考活動を一冊にまとめることができたことは、思った以上に嬉しいものだ(便利だし)。これまでお世話になった方々と、この本を買ってくださったあなたに感謝する。  この本には、とくにご不明の点やご意見などが多いと思うが、それはツー・ウェイのやりとりで発展的にアフターケアさせていただければ(もちろん、学生とも)幸いである。 追伸  本文全体が最初から電子化(MS−DOSの標準テキスト文)されていますので、希望する方にはフロッピー(5インチ2DD)にコピーして提供します(千円、消費税込み、注文は直接、学文社まで)。  文字型データの任意検索による分析や批評のための引用などに、電子化された拙文もあるいはお役に立つかもしれません。 参考文献 注・30字×24行×4ページ 参考文献(気づきにくいが有用で示唆に富む文献を優先した) 第1部 「個の深み」への注目、そして、支援 <個別化、「個の深み」> 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長に どう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、1990  団体活動に対して「個の深み」という言葉を初めて提起。 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、1984  消費社会の自我形成のあり方を「個別化」の視点から論究。 <個人と社会教育・生涯学習> 碓井正久編『社会教育』東京大学出版会(戦後日本の教育改革)、 1971 団体中心性をもつ戦前社会教育の戦後の継承と断絶を分析。 島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、 1974 条文を日常の言葉に書き換えた上で、解説。 福原匡彦『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会、1989  社会教育と社会教育行政の輪郭を描いた上で、逐条的に解説。 倉内史郎『社会教育の理論』第一法規、1983  諸理論を相対化して、社会教育の統制の機能などを比較・検討。 三浦清一郎『比較生涯教育』全日本社会教育連合会、1988  アメリカの刷新的な生涯教育を紹介しながら、日本と比較。 NHK放送文化調査研究所『日本人の学習』第一法規、1990  成人の学習ニーズを3年毎、3回にわたって統計的に調査・分析。 <個人と学校教育> ロンドン大学・大学教授法研究部『大学教授法入門−大学教育の原 理と方法−』喜多村和之他訳、玉川大学出版部、1982  学習は個人的事象、という認識に基づく教員訓練用「テキスト」。 片岡徳雄『学習と指導−教室の社会学−』放送大学テキスト、1987  学ぶ場における個人と集団の関係を意識した指導のあり方を論究。 小口忠彦『学習心理学−学習理論の基礎−』『学習心理学の応用 −学習指導の基礎−』放送大学テキスト、1988  認知構造や自己認知、自己洞察などについても平易に解説。 第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして <個人の表現技術> 梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波新書、1969  カード活用など、個人の「知的武装」の技術を先駆的に提言。 本多勝一『日本語の作文技術』朝日文庫、1982 「読む側にとって わかりやすい文章を書くこと」に徹した実践的・技術的文章論。 篠田義明『コミュニケーション技術−実用的文章の書き方−』中公 新書、1986 テクニカルな文章(実用文)を書くための技術。 D.カーネギー『自信がつく話し方教室』森本毅郎、三笠書房(知 的生きかた文庫)、1985 形を整えるためのテクニックではなく、 心理的緊張に打ち勝ち個性を生かして発表するための要点を解説。 <図書館・博物館の情報発信から学ぶもの> ホイットニー・ノース・シーモアJr、エリザベス・N・レイン『だ れのための図書館』京藤松子訳、日本図書館協会、1982  リファラルサービスなど、アメリカの図書館の仕事を紹介。 竹内紀吉『図書館の街浦安−新任館長奮戦記−』未来社、1985  図書館サービスを「街のシンボル」にするまでの実際の経緯。 科学読物研究会『親子で楽しむ博物館ガイド』大月書店、1987 「科学と歴史の宝島」として博物館を案内し、関連読物も紹介。 <情報技術の進展と個人> 東京都企画審議室『高度情報化の進展と東京−地域社会へのインパ クトと課題−』、1985 シーズ先行型の高度情報化の進展に対して、 高度化・多様化する社会や個人のニーズへの対応を重視した報告。 高田正純『データベースを使いこなす−英語でとる世界情報−』 講談社現代新書、1985 知的興味と人間のふれあいへの志向の両者 を満たすものとしてのパソコン通信の魅力を実践的に解説。 椎名誠『活字のサーカス−面白本大追跡−』岩波新書、1987  終章の「ロマンの現場読み」などで、活字メディアを再評価。 第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために <個別化・ネットワーク化社会の近未来像> ジョン・ネイスビッツ『メガトレンド』竹村健一訳、三笠書房(知 的生きかた文庫)、1984 ネットワークなどの社会潮流を予測。 アルビン・トフラー『第三の波』徳岡孝夫訳、中公文庫、1982  非マス化=個別化など、産業社会の次に来る社会を予測。 <現代人の主体的生き方の困難> L.ベラック『山アラシのジレンマ』小此木啓吾訳、ダイヤモンド 社、1974 現代の人間的過疎を生きるためのパターンを分析。 井上富男『ライフワークの見つけ方』主婦と生活社(21世紀ブッ クス)、1978 サラリーマンとしてのライフワークを会社の中で見 つけ、自分の個性を輝かせるためのノウ・ハウを具体的に解説。 斎藤茂男『妻たちの思秋期』共同通信社、1982 仕事に「主体」を 埋没させた夫に、生身で拒否を表現する妻たちの「主体」の危機。 丸元淑生『システム料理学−男と女のクッキング8章−』文春文庫、 1982 食生活のレベルでの自衛的システムを先駆的に提言。 <個人の主体性援助の方法> 川田健、薮内正幸『しっぽのはたらき』福音館書店、1969  子どもたちの主体的思考を促す工夫のこらされた代表的科学絵本。 岡本包治他編『社会教育の計画とプログラム』全日本社会教育連合 会、1987 社会教育計画の概要と各論の実践的解説。 平木典子『カウンセリングの話(増補)』朝日新聞社、1989  朝日カルチャーセンターの講座から生まれた基本的で平易な解説。 <個人の主体性交流の方法> 川喜田二郎『続・発想法−KJ法の展開と応用−』中公新書、1970  個人が参画できる社会をめざし、チームによる「探検」の方法を解説。 福留強『グループ活動と青少年』学文社、1986  体験と実例をもとに、グループ活動の実際の姿を総合的に解説。 国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房、 1981 ホンネとホンネの交流の原理、内容と実施上のハウツウ。 杉田峰康『交流分析のすすめ−人間関係に悩むあなたへ−』日本文 化科学社、1990 人間の交流と心の働きを図に表す方法などの紹介。 図表標題一覧  図1−1 「個の深み」を支援する講義技術  図2−1 高校生がほしい情報  図2−2 現代都市青年をとりまく情報の特質  表2−1 人気学習関心項目  図2−3 尊敬できる人、なりたいと思う人  表2−2 パソコンの諸機能の整理  図2−4 通信内容に見られる知的関心領域  表1   生涯学習情報提供事業の機能   表2   情報の種類・内容・収集方法   図1   情報の収集から提供までの流れ 初出一覧(今回、かなり手を加えている) 第1部  1〜3 (今回初出)  視点1 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年4月  視点2 全日本社会教育連合会「社会教育」No.460 1988年3月  視点3 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年12月  視点4 中青連「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」      (筆者の執筆部分から抜粋) 1990年3月 第2部  1   高橋勇悦編『青年そして都市・空間・情報』(恒星社厚生閣)      pp.115〜156. 1987年4月  2   高橋勇悦・川崎賢一編『メディア革命と青年』(恒星社厚生閣)      pp.109〜141. 1989年6月  3   日本視聴覚教育協会「視聴覚教育」Vol.43 No.10 1989年10月  視点1 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年2月  視点2 岡本包治編『社会教育の計画とプログラム』      (全日本社会教育連合会)pp.291〜306.から抜粋 1987年1月  視点3 山本恒夫他『学習情報の提供と活用』(実務教育出版)      pp.95〜122.から抜粋 1987年8月 第3部  1   中央青少年団体連絡協議会「なかまたち」NO.30  1990年10月  2   (今回初出)  視点1 中央青少年団体連絡協議会「なかまたち」NO. 6  1990年10月  視点2 山本恒夫編『生涯学習ハンドブック』(第一法規出版)  視点3 (視点2はpp.102〜103.,視点3はpp.190〜191.) 1989年8月  視点4 湯上二郎編『現代公民館全書』(東京書籍)  視点5 (視点4はpp.279〜281.,視点5はpp.281〜282.) 1989年5月  視点6 文部省編集「文部時報」(ぎょうせい) 1990年2月 索引(21字×37行×2段×6ページ) 索  引 ア行 アーティクル(通信記事)......138 アイデンティティ......43 アイボールミーティング......145 アスキー......105,116 遊び型内容......212 遊び心......57 遊びとしての学習......137 新しい風......97,210,229 新しい教育技術......155 新しいコミュニケーション環境......128 足立区生涯学習推進構想......230 アマチュアとプロ......138 アマチュアのパーソナルな文化......123 アンドラゴジー......22 異質馴化と馴質異化......181 一時滞在者......210 一斉承り型学習......16 異年齢集団......182 イロ・モノ・カネ......141 インシデンタル・ラーニング......150,214 インフォーマル・エデュケーション......149 インフォメーションリーダー......103 映像活用......14 エスタブリッシュメント......149 エンカウンター・グループ......108 援助とコントロール......188 オートパイロットプログラム......155 オールドオールド......224 おしゃべりサロン......140 おしゃべり症候群......40,74 おもしろ的情報......83 カ行 快感覚の追求......213 海外旅行......55 開放的地域主義......97 カウンセリング......38,79,107,177 関わりのある情報......90 科学絵本......174 書き言葉文化(パソコン通信)......134 書くこと......36 賢い(情報の)消費者......125 仮想空間(パソコン通信)......139 過疎を逆手にとる会......57 環境醸成......186 概念くずし......217 学園祭......60 学習......20 学習課題......84 学習課題と行政課題......204 学習課題の選択行為......203 学習課題の優先順位......198 学習圏構想......230 学習・コミュニケーション......150 学習社会......165 学習者の主体性の確保......30 学習集団......11 学習主体としての成熟化......202 学習主題......212 学習情報提供......159,166 学習と活動......54 学習ニーズの優先......205,209 学習プログラム提供......192 学習目標......211 学問......20 キット型マイコン......116 キャリアー(運搬者)......146,153 教育的センス......175 教育的役割......109 教育番組......100 教員の訓練......26 共感を伴った関心......91 教師の構え......172 教師の嫉妬......59 教授......20 教授者の不安......29 共著とパソコン通信......156 共同学習......17 記録......195 技術......28 技術修得への援助......214 凝固と融解......206 行政職員としての可能性......111 行政情報......95 行政の主体性......217 行政のネットワーク的関わり......199 空間超越性(パソコン通信)......128 クオリティ・コンシャス......126 グッドアース......105 グループ・サークル......188 グループワーク......108 計画の非計画化......218 系統学習論......17 系統的学習内容......216 啓蒙主義......190 ケ・セラ・セラ......53 欠損体験......180 権限の移譲......226 健康食志向から自然食志向へ......112 検索可能性(パソコン通信)......128 ゲーム......117 コアラ......156 講義......15,22,24,44 講義への集中......33 控除的定義(社会教育)......6 公的課題......199 公的課題の明示......206 公的情報提供......77,106 高等教育......19 広報......98 交流したくない個の深み......147 交流と緊張......147 交流分析......184 高齢者教育......223 個人か、組織(社会)か......12 個人学習の重視......9 個人主義......144 個人主義的援助......27 個人そのものの尊重......11 個人的課題と社会的課題......224 個人的事象としての学習......22 個としての存在......48 個の深み......2,4,35,44,52,183,217 個の深み支援技術の三つの構造......29 個別化......3 コミュニケーション型学習......154 コミュニケーション技術......215 コミュニケーション能力......229 コミュニケーションマシン......123 コミュニティ......98,181 暦年齢・社会年齢・機能年齢......224 今日的情報......82 コンパチビリティー(互換性)......125 コンピュータ支援学習(CAL)......134 コンピュータ・デモクラシー......141 コンピュータ・リテラシー......213 サ行 参画のもつ教育力......180 在来型の生涯学習......149 椎名誠......139 しかけ......193 シグナルカード......171 施設提供......191 施設配置......233 自然接触体験......180 しっぽのはたらき......175 私的課題と公的課題......200 指導者の役割......183 渋谷......49 市民感覚......99 社会教育......5,186 社会教育主事......186 社会教育審議会答申(昭和46年)......9 社会教育団体......188 社会教育の公的存在意義......45 社会教育の独自性......10 社会教育の方法......18 写真情報誌......89 集合学習......217 集団......143 集団宿泊活動......179 出席ペーパー......37,42,44 生涯学習......9 小集団討議......25 少年団体活動......179 消費者情報......92 職員間のネットワーク......195 シリコンバレー......115 新型の生涯学習......149 信頼......79 ジェスチャー......172 ジェネレーション......223 自己解決能力......79 自己管理的学習......41 自治......198 自治体のアイデンティティ......230 自治のトレーニング......96 実験社会学級......17 実際生活に即する文化的教養......23 充電と放電......138 準拠集団......208 準拠枠......177 情報......64,114 情報化......125 情報重視の傾向......112 情報整理......75 情報提供......62,75 情報提供の操作性......88 情報と創造......71 情報による万能感......73 情報能力......73 情報の切り取り......72 情報の限界......72 情報の公共性......76 情報の集中と分散......66 情報の純化......69 情報の操作性......77 情報の大衆化......76 情報の多面体......70 情報の多様化と画一化......68 情報の電子化......129 情報離れ......69 情報必要......74 情報不適応......63,107 情報ボランタリズム......155 情報ものとり主義......133,154 情報ユースワーカー......107 情報要求のほりおこし......167 情報リテラシー......135 推敲マシン......123 スタンド・アローン......129,131 ステップダンス......219 スローガン型......57 生活自遊人......46 生活の情報......91 青少年健全育成......78 清書マシン......123 青年政策......78 青年の家......219 青年の参加......102 西武ロフト......45 全面的情報......81 相互教育......139 双方向性(パソコン通信)......128,130 即時性(パソコン通信)......128 即目的的学習行動......213 即目的としての情報......137 組織的な教育活動......5,13 タ行 体験のもつ教育力......179 対策から援助へ......185 対策からサービスへ......79 対象者と当事者......209 対象別プログラム......207 たまり場......55 端末処理(パソコン通信)......129 大学生......210 大学の目的......19 団体活動......52 地域課題の導入......222 地域活動のもつ教育力......181 地域情報......95 地球の歩き方......55 蓄積可能性(パソコン通信)......128 知的生産......113 知的生産の技術......214 知的生産の社会性......113 知のアマチュア化......137 知の個別化......139 知の雑多化......140 知の非体系化......141 知の防衛機制(パソコン通信)......134 知のボランタリズム化......136 知の民主化......141 チャット......39 中央教育審議会答申(平成2年)......9 中央青少年団体連絡協議会......2 中途退出者......59 中毒性の麻薬としての講義......24 注文仕立型......56 著作権......137 知覧町連合青年団......57 提供できない情報......88 テクノストレス......121 撤退する自由......144 ディスコ......219 電子的仮想空間......143 東急BE......47 統計的手法......196 到達目標......211 匿名性......89 都市政策......78 ともに育つ......110 トランスペアレンシー(透明感)......126 独習......33 どんぐりの背比べ......138,156 ナ行 仲間集団......182 なまなましいニーズ......101 何でもありの授業......14 ニーズの可塑性......197 日常・非日常の情報......66 ニューメディア......129 人間関係の希薄化......93 人間の情報......89 ネットワーク......102,129,155,214 ネットワーク型援助......191 ネットワーク型問題提起......207 ネットワーク社会......142 ネットワークづくりの能力......229 ネットワークと社会教育......187 ネットワークのインフラ......201 ネットワークの援助......189 年間事業計画......194 ノウフウ......155 覗き趣味......89 ノンディレクティブ(非指示的)......79 ハ行 ハイタッチ......143 話すこと......36 羽根木プレーパーク......57 反情報......142 ハンドルネーム......139 反応・発展の個別化......31 反応・発展の個別化の促進......34 パーソナルとソーシャル......217 パーティー......154,192 パジャマでおじゃま......91 パソコン......116 パソコン通信......54,105,126,148 パソコン通信と動画......135 パソコンの個別性......120 パソコンの自力性......120 パソコンの創造性......121 パソコンの汎用性......118 パソコンの物神化......124 パソコン文化......118 パソコンマニアの学習......213 パソコン利用の孤立化......121 パソコン利用の成熟化......125,146 パソコン利用の専門化......123 パプリック・ドメイン・ソフト......136 バーンアウト......145 非施設・団体中心性(社会教育)......7 非文献的情報......82 非マス化......216 ピア......66 ピア・グループ......39 ピア・コンセプト......41 ピラミッド型とネットワーク型......188 ビジカルク......117 ビジネスマン......209 ファシリテーター......108 不易流行......197,229 フェース・ツー・フェース......144 不定型への挑戦......229 プッシュ型の教育・プル型の援助......146 プライオリティー......223 ブランド志向......112 プロジェクト・チーム......226 ヘイル委員会報告書......24 ヘッドシップ......228 ヘルシーでハイな快......213 ヘルプ機能......139 ベーシック言語......116 勉強......21 放送の公共性......100 マ行 マイコン......115 マシンの単機能化......122 マトリックスによるとらえ方......205 ミニFM放送局......68 耳学問......137 民間教育事業......49 民間放送教育協会......100 メール......39 メトロポリタン美術館......192 燃え尽き症候群(パソコン通信)......145 目的−手段システム......218 モノ......46,111 モノと情報......49 モノの透明化......126 問題共有の視点......230 ヤ、ラ、ワ行 山アラシのジレンマ......144 山崎正和......3 ヤングアダルト......80 ヤングアダルト情報サービス......81 ヤングオールド......224 ユーザー教育......146 要求課題と必要課題......84 要求情報と必要情報......87 余暇......46 横浜女性フォーラム......51 ライフステージ......223 ライブ感覚のプログラム......218 ラッピング......48 リアルタイム......128 リーダー......226 リーダー研修......228 リーダーシップ......228 リーダー養成事業......227 リファラル(照会)サービス......83 レクリエーション......221 レスポンス......127 レスポンス至上主義......133,154 連帯の情報......92 ロンドン大学教育研究所......21 若者のニーズ......196 ワンダーランド......96,176 英字 A.トフラー......56 AV−PUB......154,158 BBS......39,40,105,151 CMI......148 IDナンバー......139 M.ノールズ......22 MAZE(迷路)......53,152 NHK放送文化調査研究所......150 PC8001......116 READ......132 ROM(Read Only Members)......132 S−R......31,64,151,178,184 TRON......125 WOM(Write Only Members)......133 WRITE......132 オビの文章  パソコン通信のネットワークのなかに「自立」と「依存」の 統合の可能性を見出し、そこからさらに「知」と「集団」の新 しいあり方、新しい情報文化の可能性を遠望したもので、文章 と議論の運びには生彩があり、楽しく説得されてしまう。 大阪大学教授 井上俊 (金子書房「青年心理」90.1より、 「パソコン・パソコン通信と青年」を評して)  氏は若者に必要な情報とはどんな情報かという問題について 興味ある問題提起を行っている。・・そうした新しい情報とチ ャンネルは多分彼らと地域との関係をひっくり返し、地域を彼 らにとっての人間形成空間につくり変えるに役立つと思われる。 茨城大学教授 菊池龍三郎 (中青連「なかまたち」89.12 より、「現代都市青年と情報」を評して) ソデの文章  4月のさわやかな風とともに私たちの前に 現れた先生は、今までの「先生」のイメージ をガラリと変えてくれました。mito先生 のような「先生」は初めてです。       ・・昭和音楽大学ピアノ科学生  今までの学校の授業は、先生が一方的に話 す講義か、テーマを与えられた話し合いかの どちらかだったのに、mito先生の授業は、 えっ!何?これ!という感じです。       ・・東洋大学2部学生[看護婦] 宣伝チラシ案 生涯学習 か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ− 「学習社会」において人間が主体的であるとはどういうことか。  この本は、不確かな迷路を遊ぶことのできる主体の形成をめざ して、今後の生涯学習の推進における問題の所在を明らかにした 冒険的な著である。  4月のさわやかな風とともに私たちの前に 現れた先生は、今までの「先生」のイメージ をガラリと変えてくれました。mito先生 のような「先生」は初めてです。       ・・昭和音楽大学ピアノ科学生  今までの学校の授業は、先生が一方的に話 す講義か、テーマを与えられた話し合いかの どちらかだったのに、mito先生の授業は、 えっ!何?これ!という感じです。       ・・東洋大学2部学生[看護婦]  パソコン通信のネットワークのなかに「自立」と「依存」の 統合の可能性を見出し、そこからさらに「知」と「集団」の新 しいあり方、新しい情報文化の可能性を遠望したもので、文章 と議論の運びには生彩があり、楽しく説得されてしまう。 大阪大学教授 井上俊 (金子書房「青年心理」90.1より、 「パソコン・パソコン通信と青年」を評して)  氏は若者に必要な情報とはどんな情報かという問題について 興味ある問題提起を行っている。・・そうした新しい情報とチ ャンネルは多分彼らと地域との関係をひっくり返し、地域を彼 らにとっての人間形成空間につくり変えるに役立つと思われる。 茨城大学教授 菊池龍三郎 (中青連「なかまたち」89.12 より、「現代都市青年と情報」を評して) <内容> 第1部  「個の深み」への注目、そして、支援   はじめに −「個の深み」とは何か− 1 社会教育における組織と個人 2 講義型学習と社会教育、高等教育 3 「個の深み」を支援する講義技術 視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点      −西武ロフトがとらえた若者たち− 視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業      −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE− 視点3 「個人」がいきいきするしかけ      −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座− 視点4 「個のふかみ」を尊重し助長する団体活動の形態 mito的授業 第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして 1 現代都市青年と情報    −ヤングアダルト情報サービスの提唱− 2 パソコン・パソコン通信と青年    −成熟したネットワークとは何か− mito的授業 3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか 視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク      −AV−PUBのサロンで「私的」交流− 視点2 学習情報提供事業の企画と展開      −人間が学習情報を求めている− 視点3 学習情報提供の実際 mito的授業 第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために 1 子どもたちの団体活動    −そこに秘められている大いなる教育力− 2 地方自治体における学習プログラム作成の視点 視点1 あたたかいディスコダンス 視点2 レクリエーション的な要求への対応 視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方 視点4 グループリーダーの新しい形 視点5 リーダー研修に望まれる内容 視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ      −東京都足立区の生涯学習推進構想− あとがき 初出一覧 参考文献 索引 申し込み先  学文社 2000円(消費税込み)  〒153   東京都目黒区中目黒1−2−6  phone 03−3715−1501