区市町村社会教育行政に対する東京都青年の家の独自の役割とは何か 77、12、8 府中青年の家 西村美東士 「青年の家を考える」部会  我々の任務は常に都の社会教育職員としての義務であり、決して市町村社会教育の任務を負うものではない。しかし、その社会教育においては、市町村第一主義が貫かれねばならない(1)。我々が青年の家で仕事するにあたって「禁欲」すべきは、一つは市町村社会教育職員と同様、「環境醸成」の限定から飛び出すことはできないという点であり、さらにもう一つ、都道府県の職員として特殊的に限定されるわけである。何だか、がんじがらめで苦しい話である。何故に「市町村第一主義」というそんな「不自由」な(都の社会教育職員にとって)限定がくっついてしまうのだろうか。  一つ、社会教育は継続的なプロセスの中で、ほんの少しずつ芽生える。故に、「ゲタばき」で行ける距離にある市町村社会教育施設が中心となる。  二つ、社会教育は「実際生活に即する』(社協法3条)学習である。市町村ごとに、生活課題が異なるとすれば、当面、それは市町村ごとに分れて行われるだろう。  三つ、社会教育の一面は、地方自治を学ぶことであり、住民の自治能力を高めることである。同時に社会教育は、地方自治、住民自治そのものでもある。市町村は、地方自治にとって基礎単位として重要であり、又、「民主主義の学校」として有効である。  これらの理由から、社会教育の市町村第一主義が導かれる。  さて、ここで、都内の青年の諸活動の現状をみてみたい。一つ、自らの存住、あるいは在勤の区市町村と無関係に、活動したい所、活動しやすい所で活動する青年が増えている。  二つ、各区市町村のサークルが、連絡をとりあい、さらに区市町村をこえた連絡に発展する動きがある(五区連協、三サ連、この指とまれ)。  三つ、一区市町村においては、数的にごくわずかしかない学習要求がある。それは区市町村内部では参加者数から考えて共同学習たりえない。(リーダー間の学習の一部もそれに含まれる。)  四つ、全都的ともいえる活動がある。それは特に文化活動において顕著である。  五つ、一区市町村の範囲を超える広域的生活課題ともいうべき問題が山積みされている。それは当然、青年の生活の上にも重くのしかかっている。そしてその中でも青年に特殊な問題は青年たちの手で解決するしかない。  次に青年の家職員(特に専門職…社会教育主事としてではあるが)の職務の面から考えてみたい。市町村第一主義を侵害しない為の最も安全な方法は、青年の家が、現在あるような主催事業等の直接的事業を行わず、貸し施設に徹すること、青年の様々な活動にタッチしないことである。しかし、もしそうすれば、次のようなことが考えられる。  一つ、職員の仕事が、青年から検証されることなく、行政レベルでしか進めなくなるおそれがある。青年とのつながりがない所で、たとえ「御意見箱」などを置いたとしても、本当の青年の気持ちは聞けないであろう。  二つ、それゆえ、たとえ最初、職員の青年を愛する情熱がすばらしくとも、それを持続させるのは困難である。それは、片想いの恋が時とともにうすれていくのに、にている。 三つ、施設提供の中で、ある程度、教育作用がありうるとしても、それは、各々の団体にとっては一過性のものであり、積み重ねにはなりにくい。またその単発の「教育作用」がもしあるとしても、そのほとんどは「団体宿泊訓練」でしかないのではあるまいか。  確かに、都道府県が市町村の自治権を侵害し、その都道府県の自治権を国が侵害するという、過去の忌わしい封建的中央集権制を思うならば、市町村第一主義の意義は大きい。都は決して区市町村の自治権を侵害するようなことがあってはならない。しかし、それは、都が青年とむすびつき、青年の要求に応えた事業を行うことをも排除するものではない。先にのべたような都内の青年の諸活動を考えるならば、都の社会教育に対するそういう青年の要求は高まりつつあるといえよう。  そもそも最初に述べた市町村第一主義の根拠は、「市町村でなければ通じない」という性格のものではない。都立の社会教育施設であろうと、足の便がよく、「サンダルばき」でいけるのにこしたことはない。生活課題についても、市町村を越えた課題が続出している。都の自治権を守る必要性が、市町村のそれと同様、近年とみに叫ばれている。市町村第一主義を大切にしようとする根拠を、都段階の社会教育についても適用する必要があるのではなかろうか。  「何をぐずぐず当たり前のことを言っているのか」と思う人もいるかもしれない。しかし、私には、都が都民に対して講座などの事業を行うと、それはすべて区市町村の自治権に対する侵害だと受け取る議論があるように思える。  さらに、都の社会教育行政内部にも問題があるのではないか。従来、区市町村に対する都の役割として、「区市町村が展開する社会教育行政に対しこれをあらゆる面から支援する援助者の位置に立つものとする(2)」と言われてきた。そして、実際にはそれは、「財政的援助、情報資料及び研修の機会」の提供などに表われている。  しかし、「広域的役割」については、どうだろうか。「社会教育部政策推進方針」中に五本の「基本方針」があるが、「(2)、都は広域的役割をはたす」として「(略)…補完的、先導的事業を行い、広域にわたる都民の教育、文化課題にこたえる。」とある(4)。しかし、その「補完」や「先導」の内容が明確でない。よって「広域的役割」もはっきりしない。これらは、青年の家などの各社会教育施設が、その事業の中で実践的に、具体的に明らかにするべきであろう。  思うに、「広域的役割」の実践は、困難であるとともに、危険や緊張をはらんでいる。一歩間違えれば、範囲が一つの区市町村でしかなかったり、区市町村の社会教育と同内容だったりしてしまう。都の社会教育が、明確な目標とプロセスを持った広域的役割を果たしえていない原因もここにあるのではないだろうか。  しかし、青年の広域的要求はますます、広がり深まっている。青年の家がそれをさけて通ることは、社会教育施設としてはサボタージュともいえる。区市町村に対する独自性を自覚しつつ、それらに取り組む必要があるだろう。  その営みによって青年の自己教育運動は育てられ、各地域に成果として持ち帰られる。それは区市町村の社会教育行政を支える力の一つとなるだろう。すなわち、それはあくまでも市町村第一主義を守るものである、否、市町村第一主義を内実から創り上げてゆくものといえるだろう。なぜならば、市町村第一主義とは、何よりも、「住民一人一人の生活課題についての学習要求に直接こたえる」、「生活に根ざした教育活動(5)」であり、その実現の手助けになるのだから。