三多摩の70年からの青年教育の流れをとらえるために  74年12月、昭島に「でく」、75年9月、小金井に「サチ」が相次いで誕生する。これらは青年や市民、自らの手によるスナックである。そこでは酒が飲めて、気楽にフラリと立ちよって話したり歌ったりできる。開店当初は本当に愛されていた。しかし今は、残念ながら赤字のために潰れてしまっている。  これに並行して、75年1月、国立公民館内に「コーヒーハウス」が開店する。内容としては、「野草を食べる会」「こころと体の健康」「わさび田づくり」などを行っている。これは青年学級の性格を一部ひきつぎ、しかもフラリと立ちよれる「たまり場」でもある。  「コーヒーハウス」の場合は、「でく」「サチ」と異なり、社会教育施設の中にある。また、講師料、合宿旅費、連絡用役務費、ミニコミ発行の為の需要費などは公民館によって保障されている。ゆえに大きな赤字が出てそれを青年たちがしょいこむということはありえない。  さらに専門職員なり、公的な青年教育の講師なりが、つねにいるという点でも「でく」「サチ」と異なる。そして、彼らと青年たちとによって先に述べたような活動が行われている。三多摩成人教育セミナーでは、「従来のたまり場論は施設論の中でとりあげられてきた。物があるからたまり場になるのではなく、職員がいて事業編成のなかで集まる内容をつくっているから行く気になるたまり場論が生まれるということを考えていく必要がある。」と指摘しているが、そういうたまり場論がこれからは進められるだろう。  確かに「型へはまる」ことへの拒否から「自由なたまり場」を青年は志向する。しかし社会教育行政の本来の役割は決して「型へはめる」ことではない。また、青年自身も、決してアナーキーな「自由」を求めているのではないはずだ。(もちろん、「でく」や「サチ」がそうだと言うのではない)。青年が、気楽にフラリと立ちよれて、しかもその中で、今まで気がつかなかった、学習・文化など自らの要求に目覚め、自ら成長していけるような、そんな目的的な活動を援助し保証していくことが必要であろう。  もちろん、「たまり場」を自前で作るより、公的施設の中に作る方がよいという判断は、社会教育行政がすべき性質のものではない。また、そういう「自前論」と「公的保障論」とを対立するものとして一面的に捉えること自体、おかしい。しかし青年たち自身が、自らの「たまり場」を公的社会教育施設に求めるならば、それにこたえてゆく必要がある。「コーヒーハウス」を始めとして、さまざまなかたちの試みの中で、各地の公的社会教育施設が、形式的にロビーを作るだけでなく、気楽にふらりと立ちよれて、しかも青年たちが主人公としていきいきと活動できる本当の「たまり場」を実現しようと模索し始めている動きは、現在の公的な青年教育の特徴の1つといえるかもしれない。 二、青年サークルの交流・連絡の動き  72年、東京都狭山青年の家で、「三多摩青年サークル交流会」が開かれる。それはサークルが「地域的な横のつながり」を持つことによって、1、悩みや問題、経験などを出し合い、2、三多摩に大きな青年の輪を広げようとするものであった。1、サークル活動についての分科会、2、青年問題に関する講演、3、都の社会教育行政との対話が主な内容である。対話の中では、青年の家の運営や建設などに関して青年からの要求が出されている。73年の第二回交流会において、「三多摩サークル連絡協議会」(三サ連)が生まれる。それは、1、サークルを運営する拠点となる、施設の条件整備を進める、2、各サークルのもつさまざまな問題の解決の方向を見出す、という二本の柱を持っている。この交流会では、主に都の社会教育行政に対し、無料化や、青年の手による運営などの内容を持つ要請文が出された。  以後、この交流会は狭山青年の家で毎年一回、続けられている。しかし、77年の三サ連事務所の閉鎖など、三サ連は崩壊の危機に立っている。私見になるが、その理由として、1、サークル活動家の多忙と、各サークルにおける彼らの重要性、2、範囲が広域であり、集まりずらいことなどがあげられよう。  74年、サークル活動交換の役割をはたしていた「人生手帖」が廃刊される。そういう状況のなかで、若者自身の手で75年、唯一のサークル専門誌、「月刊サークル」が発刊される。しかし翌年200万を超える赤字を出し、これも休刊されるされてしまう。その特徴として、サークルがその必要性を否定したのではなく、1、サークルの要求をくみ上げきれなかったため、サークル構成員に広く配布されなかった、2、サークルの側からもサークルの発展のための「月刊サークル」の意義が認識しきれなかった、という2点が挙げられている。  反面、現在の状況としては、公的な青年教育会の組織的参加、あるいは各サークルの要求の集約など、各市の単位サ連の高まりが見られる特に隠しのフェスティバルについてはサ連の協力によるものが多い。  さらに全都的ひろがりを持つものとして、「この指とまれ」(東京青年交流集会)がある。これは76年、第十六回社会教育研究全国集会が、東京で開かれたが、その一部として「青年のつどい」が企画されたことに始まる。その「青年のつどい」の実行委員会において、研究集会のためだけのものでなく、これを機に、東京の青年サークルが手をつなごうという方向が決められる。9月に研究集会が開かれるが、その前の8月に、杉並公民館において第一回の「この指とまれ」が開かれる。「青年のつどい」(都立水元青年の家)も盛況の内に行われる。以後77年1月(小金井市立青少年センター)、8月(世田谷区立青年の家)、12月(都立府中青年の家)に、集会が開かれている。  府中青年の家での「この指とまれ」は、「ウインターフェスティバル」と銘うち、150名規模の青年の家にて、「この指」として初めて100名を超える規模で開催された。  杉並公民館を除いて、それ以降は宿泊をともなう集会である。また参加者も東京のさまざまなところから広域的に集まっている。このようなところから、東京都の青年の家が比較的よく使われている。  しかし、先に述べた三サ連のいきさつとは大きな違いがある。青年の家は催しの場として使われているだけで、実行委員会などの拠点としては、もっと交通便利なところが使われていることであり、さらに、「この指とまれ」においては都の社会教育専門職員が、勤務の位置づけでのつながりを持てなかったことである。その理由は、集会が青年の自主的な動きの中で生まれたことであろう。しかし、自らの事業の中で生まれたものでなければ援助できない体制は、民主的とは言えない。それは、都の社会教育行政の機動性が足りないということであり、また都の社会教育専門職員が、青年からつながりを求められるような信頼を得ていないということでもある。いずれにせよ、これから青年サークルが広域的交流を求めて行くとすれば、そのための広域行政の社会教育専門職員の役割が問われてゆくといえよう。  次に参加者の構成をみると、それまではサークルのリーダー層がほとんどだった。しかし「ウインターフェスティバル」では、サークルリーダーの他に、新旧のサークルメンバーや、既成文化団体のメンバーが参加している。内容が、実際にサークルの中で活動されているモノそのものの交流であった面が、一般のメンバーにも魅力的だったからといえよう。  「この指とまれ」のような活動での一般の問題は、サークルリーダーが、個々のサークル活動と「この指」の活動を全て一人でしょいこんでしまう無理から生ずる。これからのサークルの交流は、いかにメンバーまで含めた広い要求にこたえて、広い層をまきこんで行われるかが、キーとなるだろう。その点で「ウインターフェスティバル」が新たな層をまきこんで成功したことはこれからの展望を開くものである。さらに、そういう大衆的な広がりの中で、いかに「社会教育施設の条件改善」や「サークル連協」をみんなの問題にしてゆくか、「この指とまれ」実行委員会は模索中である。  いずれにせよ、個々のサークルのリーダーが、サ連などの活動に、一人でとび出てゆき、一人で帰ってくるくり返しは、今、少しづつ変わろうとしているといえるだろう。 〈資料〉 ・たまり場に関して くにたち公民館だより(国立公民館) 昭和50年度「成人教育の諸問題」(立川社会教育会館、三多摩成人教育セミナー) 季刊「でく」 現代「若衆宿」の再創造(月刊社会教育1976・2) みんなの力でスナック経営(月刊サークル1975・5) ・サ連に関して 青年教育のありかたを全国・三多摩の青年教育のながれから考える(立川社会教育会館、三多摩青年教育セミナー) 月刊サークル(1975・創刊号〜76・1最終号) 三多摩青年サークル交流会記録(1972・3、73・3、74・2、 狭山青年の家) 「この指とまれ」記録集(発行予定)