同和教育映画における、部落差別以外の差別について −女性差別問題を中心として− 1、本論のねらい 2、「性別役割分担」について …同和教育映画の映像に表われた「固定概念」 3、キャスティングにおける「不美人」差別 …つくられた「美人の基準」 …リアルで生活に根ざしたキャスティングを 4、封建的な「イエ」の思想の克服について …嫁・姑の矛盾を、同和教育の民主的観点から克服する 5、あらゆる差別を考える必要性について さまざまな差別 同和地区内の差別 映画製作所の差別 「春の汽笛」について 映画芸術への民主的・大衆的な関与 (自己教育を本質とする社会同和教育の営みとして) 同和教育映画における、部落差別以外の差別の問題について ー女性差別問題を中心としてー 1、本論のねらい  いうまでもなく、同和教育の課題は、差別が基本的人権の重大な侵害であることの認識の上に立ち、部落差別の解消を中心的課題としつつも、さまざまなその他の差別も許さない人間尊重の理念を実現することにある。  しかし、現実の社会には、様々な差別が存在しており、同和教育映画といえども、それらを完全に払拭しているとはいえない。  以下、女性差別の問題を例にとって、同和教育映画が、意識的にせよ、無意識的にせよ、それをどうとらえているか、そして問題点はないか、考えてみたい。 2、「性別役割分担について」  「婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条例」の署名式が、国連婦人の10年「1981年世界会議」の席上で行われ、日本も署名をした。  この条例では「固定的な性別役割分担を変える必要がある」と書かれている。  ところが、「男は外で仕事をし、女は家の中で家事・育児をすべきだ。」という観念が通常化しており、男女ともに是認している人が多い。  ある同和教育映画の中に、夫が夕食のあとかたづけをする妻に対し、自分は寝ころびながら、部落差別に対し戦う姿勢を説く場面があった。多分、映画製作者は、無意識の内に、「男は外で仕事をし、女は家の中で家事を」という固定概念にとらわれていたのだと思う。  しかし、これは、家事労働分担の理想に反するばかりでなく、共働きの増加による現実の姿からの離れている。それゆえ、リアリティに欠け、せっかくの夫の言葉も、何かシラジラしく聞こえる。  これが、たとえば、妻が皿を洗い、夫がふきんでふいている中での会話だったら、部落差別と闘ってきた夫婦の愛と生きざまをもっと感じさせることができたのではないだろうか。 3、キャスティングにおける「不美人」差別について  現在の社会の価値観では、ややもすると、女性を本来の人間の姿として見ることができず、外見上のつくられた「美人の基準」に流されてしまう。  しかしそのような外見による「美人」、「不美人」の「選別」は女性を人間としてではなく、「品物」としてみる差別観の第一歩だといえる。  同和教育映画であっても、必ず「美人」ばかりが、善き主人公であったり、しかも彼女が、くつろぐ夫の前で、文句を言わずせっせと家事労働にいそしむシーンばかり出てきたりすると、これは低俗なテレビドラマを見ているような気にさせる。  ある同和教育映画の監督は、「(監督自身は)性格俳優を使いたかったが、委嘱をした行政から、観客の知名度の高い女優を使うよう指示された。」と語っていた。  少なくとも、同和教育映画ぐらいは、「不美人」差別を克服して、リアルで生活に根ざした画面を合成できるキャスティングを実現してほしい。  又、このことが、芸術的にも成功し、大衆的にも共感されるならば、同和教育の目指す「民主主義」「人権尊重の理念」が、映画芸術全体に良い影響を与えることにもなると考えられる。   4、封建的な「イエ」の思想の克服について  嫁・姑の問題等は、直接には女性差別の問題ではない。  しかし、嫁が夫の家に「入り」、そこで対等の人間としてではなく、「しゅうと・しゅうとめ」に仕えることを義務づけられるとすれば、「平等の精神」に逆行する「差別」の一つであることは明らかである。  もちろん、数多くの同和教育映画に。そういう「逆行」を、直接支持する内容のものはない。  しかし、夫と姑を捨てて飛び出した嫁が、悪者に描かれている映画は見受けられた。  そこでは彼女が「悪者」である理由は他にあるのだが、それにしても、同和教育映画では、これらの状況設定にはもっと神経質であってほしい。  さらに、封建的な「イエ」の考え方をきちんと問題としてとりあげ、古い制度にとってかわる、民主的で、すべての人の幸福を追求する新しい「イエ」のあり方を提起する積極的な姿勢があって良いと思う。 5、あらゆる差別を考える必要性について  同和教育が、部落差別だけでなく、あらゆる差別をなくしていくことを理念として掲げていることはいうまでもない。  世の中には、部落差別の他にもたくさんの差別がある。同和地区の人間どうしの間にも、男女差別などがあるかもしれない。  又、映画制作の現場にも差別がある。ある同和教育映画の監督が、「撮影所自体が、ものすごい差別社会である。その中では、自分の担当した同和教育映画の制作は、いわゆる『下働き』の人たちがいきいきと仕事にとりくんだ、まれな例だった」と語っていた。  同和教育映画においては、あらゆる差別を考えてゆく必要がある。そのことによって同和教育映画は、同和問題をすべての人の問題として、訴える迫力を持つだろうし、差別の本質的解決にも迫ることができるだろう。  ところで、さまざまな差別を告発している同和教育映画の一つとして、神戸市教育委員会の「春の汽笛」が挙げられる。  部落差別を中心として、朝鮮人差別、エリート主義、差別的教育観、「政略」的結婚、そして極度な経済的貧困等、差別に関係するさまざまな問題をリアルに描いている。  しかも登場する人物は、その苦しさの中にあって、力強く展望を切り開いてゆく。  そこには、テレビの現実離れしたホームドラマとは異なり、「われわれの」問題として感じさせる、「現実の生活に根ざした迫力」、即ちリアリズムの迫力があふれている。  しかしこの映画ばかりが意義があるとはいえない。同和教育映画といえど何らかの問題はあるだろう。むしろ、それらの映画を、人々が、主体的で自立した精神で批判し、しかもそれが次の映画製作に役立ってゆく、そんなプロセスこそ重要だと思う。  先に述べた、同和教育映画における女性差別の問題も、それが黙視されてしまうから問題なのであって、上映後、きちんとそれについて討議すれば、かえって良い効果が現れるかもしれない。又、さらに進んで、そういう視聴者の意見を、次の同和教育映画製作にフィードバックさせることにより、主体的・大衆的な映画芸術への関与も考えてゆきたい。社会同和教育が、国民一人一人の意識変革を併なった自己教育だとすると、同和教育映画も、なんの欠点もない完成品としてあるのではなく、国民の自由で主体的な営みによって発展すると考えるべきであろう。 (完)