乳幼児期における人権尊重教育を考える 西村美東士・鈴木三則・西村千鶴子・藤本隆子 目次 1、はじめに 2、人権尊重教育の対象 (1)、乳幼児 (2)、父母 (3)、指導者 3、乳幼児期における人権尊重教育の場 (1)、集団保育 (2)、家庭 (3)、地域 4、乳幼児期における人権尊重教育の方法 (1)、自己教育 (2)、相互教育 (3)、教育的指導性 5、乳幼児期における人権尊重教育の内容 (1)、差別感を注入しないこと (2)、競争と連帯 (3)、情緒、情操、知力 (4)、自主的思考 6、おわりに 1、はじめに  近藤薫樹氏は、次のように書いている。 「未解放部落の子どもの多い保育園では、とくにそれに必要な保育対策を強化しています。キャバレーなどに働く親の子どもたちのためには、夜間の保育所が設けられ、"ハワイ"系だけでもその数二百数十に達します。夕暮れネオンのともるころ、『おはようございます』と登園してくる子どもたち。十二時前後にやっと最終の子のお迎えがきて、『午前』になった夜道を帰る保母さんたち。(1)」  このちょっとした文章一つに、すでに我々は、乳幼児期の人権尊重教育の深刻さ、複雑さに暗澹たる思いがするものである。なぜならば、そこには、こどもを取り巻く経済環境の問題、家庭環境の問題、そして、女性の商品化という女性差別の現状、さらにこれらの「貧困」がとりわけて未解放部落を襲っているという現実が、暗く重く、横たわっているからである。  本論で、乳幼児期の人権尊重教育を検討する場合も、当然、このような諸々の「貧困」の重圧すべてが、重要なファクターとなる。小手先の技術論ではなく、経済・社会・文化の広い視点が必要である。  それゆえ、議論の対象も、同和地区だけにしぼるのではなく、広く乳幼児期の人権尊重教育を検討することが、問題の真の解明に役立つものと思われる。本論も、そのように進めることとする。  さて、乳幼児期の人権尊重教育の目的は、いうまでもなく、対象である乳幼児が、将来、他者の人権をきちんと尊重できる人間になるように援助することである。  しかし、先に述べた諸々の「貧困」は、乳幼児期にしてすでに、その人権が充分尊重されているとはいえない実態を示している。そのことが、又、いかに乳幼児期における人権尊重教育を阻害する要因となっているか測り知れない。  本論では、さまざまな側面から乳幼児期における人権尊重教育をとりあげるが、その際どのような「貧困」がどのように影響しているか、努めて明らかにしながら、論を進めることとする。  もちろん、この「貧困」とは、単純な物質的な貧困をさすものではない。むしろ現代社会の病理ともいうべきもののあらわれと考えるべきであろう。  しかし、それは乳幼児期の人権尊重教育にとっては如何ともしがたいものと悲観的にとらえることではない。乳幼児期の人権尊重教育を追求することが、それらの「貧困」を一つ一つ解決していく手段の一つになる。  最初に述べた、キャバレーなどに働く親の子どもたちのための保育園の事例は、「未来の望ましい保育」を目指した「広大な社会的実践」の一例として、近藤薫樹氏はむしろ肯定的に提示している(2)。象徴的な主張である。  本論においても、重苦しい「貧困」の事実を重視しながらも、それに打ち勝って乳幼児期における人権尊重教育を実のあるものにする筋道を明らかにしたい。 2、人権尊重教育の対象 (1)、乳幼児  人間の性格形成は、3歳までに、その基礎ができるといわれている。又、4・5歳になると、子ども同士の集団生活が活発になり、感情表現の発達や知的発達が著しい(3)。  差別意識や偏見もこの発達の過程で芽生えていくと考えられる。  乳幼児期という発達段階は、その意味から人権尊重教育にとって大切な時期である。  さらに乳幼児期を発達段階としてとらえる場合、三歳未満とそれ以上とに分けて考える必要がある。  情緒(感覚的感情)は乳幼児にもありうるが、情操(道徳的感情)は、ごく大まかにいえば、言語的思考の未熟な三歳未満では、まず無理である(4)。  情緒と情操の相違と関連については後に述べるが、乳幼児期ということで、機械的に一括してとらえるのではなく、発達段階を二つに分けて考えることが大切である。 (2)、父母  「子どもは大人の思うようには育たない」といわれる。ところが「子どもは大人たちのしているようには育つ」のも事実である。  近藤薫樹氏は、これについて、「子どもをどう教育するか、ということは、大人自身がどう生きるか、という問題にはねかえってきます。」と述べている(5)。  又、自分の子どもの短所ばかり気にする親に対し、短所の裏側にある長所をみるように勧めている。そして、いつも他人の子どもと比較してあくせくしているような子ども観は、子どもに優越感と劣等感、利己的競争心を育てることになると、指摘している(6)。  このようなことから、乳幼児における人権尊重教育のためには、その乳幼児をもつ親の与える影響が大きく、父母に対する人権尊重教育を重視する必要があることがわかる。  その場合、家庭教育学級等の社会教育の側面からの援助も意義があるが、根本的には親、自らが、広い意味での学習により意識変革するのを待つ他ない。  この学習は、切実な学習動機を持つものである。すなわち、「子どもの幸せのために」ということである。日常、父母と接触する保母等は、この学習動機を重視し、それが歪んだ方向に進まないよう注意する必要がある。  間接的な、社会教育等による父母への援助もさることながら、直接子どもを受け持つ指導者による、その父母への対応と、さらには関係する父母どうしの相互作用は、より大きな影響力を持っている。  灰谷健次郎の「兎の眼」の中で、知恵遅れの子が、我が子のクラスに入ったのをきらって、淳一の母は先生に激しく抗議する。「もし、自分の子の学力が落ちたら」という不安からであり、利己的で歪んではいるが、「子どもの幸せのために」という思いから出発している。  しかし、後に、先生の印刷する学級新聞や、なによりも淳一自身の成長を見て考え方が変わってきている。  ついには、PTA総会で、「ひとのことなど知らん顔をしていた子が、他人のことでなやむようになり、考えるようになったのです」と言い、「一部の子どものためにみんながめいわくをこうむる、わたしたちははじめそう考えていたのです。しかし、それはまちがいでした。よわいもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてダメになる」と発言するまでになる。  淳一の母は、「こどもの幸せのために」から歪んで出発しつつも、同じ、「こどもの幸せのために」自らの意識を自ら変革している。そして、この意識変革を実現したのは、淳一の成長のようすであり、それを支えた先生であり、「学級新聞」という形での先生からの訴えであった。  ここには父母の意識変革の筋道が、象徴的に示されている。 (3)、指導者  指導者自身も常に、自己変革が求められている。人権尊重教育の面でも私達は、乳幼児期の指導者に対し、不動の完全性を求めるのではなく、常に少しずつでも前進する姿勢をこそ求めるべきだろう。  黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」で、背がのびない体質の生徒に、何気なく、「あなたにはしっぽがあるんじゃないの」と言った先生が、その深い意味に気づき、「本当に私が、間違ってました」という場面がある。  これは、怒ることなどない校長先生が、真剣にその先生に対して怒り、訴えた結果、その先生が自らの不用意な言葉を心から反省したものである。  このように深い見識からの、指導者に対する指導は重要である。  又、障害児を含めた保育を行っている、「風の子保育園」という園の園長は、次のように述べている。  「全職員が同じ保育観をもって、共同の責任で保育をする心がけが必要で、保育観の一致をつくりあげることが非常に大事だと思っている。そのためには、会議や勉強会をしなければならない。(7)」  これは、言いかえれば、指導者相互の集団としての教育作用の必要性を述べている。  さらに、子どもの存在が指導者に与える教育的作用も大きいものである。前出、「兎の眼」の小谷先生が、知恵遅れのみな子をあずかる決心をしたのは、「自分の人生を変えるつもり」で決心したのであり、結果的にも、少しひ弱なところのある小谷先生は、たくましくなる。  これは、指導者が子どもから学び、自己変革することを示している。 3、乳幼児期における人権尊重教育の場 (1)、集団保育  集団保育において、子どもは、友だちと先生とのふれあいを見ていたり、友だちの体験を直接見ながらそれを自分のものとすることができる。これは、集団保育の場では、子どもをとりまく人間関係が、同質同類の集団が主であり、自分とは異質なものにとりかこまれている家庭にはない教育作用を、もたらしていることを示している(8)。  又、子どもの集団は、認識を促進させ、みんなの分業とか協力を身につけていく方向に発展させる(9)。  このような意義を考えると、保育園は、救貧対策としてではなく、重要である。  なお、幼稚園についても同様の意義が認められる。しかし、「私たち教師は、保母とは違う。」という優越感(差別意識)や、「幼稚園は教育するところだから、4時間以上は無理」という遊びや生活と教育とを分離した保育観は改めなければならない(10)。  特にエリート主義的な、差別的発想の幼稚園については、人権尊重教育を阻害する一要因とさえ、いえる。  以上、人権尊重教育の面から、集団保育の意義を論じたが、ここで、「乳児集団保育」の意義についても触れておきたい。  乳児には、集団生活は成立せず、その意味からは集団保育の意義が見出せない。  しかし子どもたちに合理的に最高のものを与えることは集団保育の大事な役割であり、子どもたちの人権を尊重することにもなる。又、当然、実際の社会的必要に迫られていることはもちろんである。  いずれにせよ、早産である人間のゼロ歳時代は重要な時期であり、その時期の集団保育は、充分な条件を整える必要がある。 (2)、家庭  先に2の(2)で述べたように、父母が子どもに与える教育的作用は非常に大きいものがある。  ここでは、家庭の中で、子どもが愛され、尊重されることについて考えてみたい。  言うまでもなく、子どもは愛されて育ってこそ、他者を愛す人間になりうる。  しかし、家庭での愛情と、保母等の指導者の愛情は、区別しておく必要がある。  近藤薫樹氏は、家庭で子どもをとりまく愛情を、「多くの対象にわけることのできない要素を持った愛情」として、「特異的愛情」と名付け、施設の中で子どもをとりまく愛情を、「客観性に裏づけられたヒューマニズムに近い愛情」として、「科学性のある愛情」と名付けている。そして、前者は主に情緒を育てるもの、後者は主に情操を育てるものと述べている(11)。  このように、両者の愛情は、ともに重要であるが、家庭での愛情には、独自の教育的意義があることに注意しておきたい。  さて、次に子どもが、きちんと尊重されるべきことについて考えてみたい。  マカレンコは、「場合によっては、子どもが何かをぬすんだりしたら、それを追求することがきわめて大事なことがあり、みなさんがその証拠をあげ、話すことが必要だと感じるならば、話したまえ。しかし、みなさんが嫌疑のほかに何も持っておらず、彼がぬすんだという確信がないなら、第三者のあらゆる嫌疑からまもってやるべきだ。」と述べている(12)。  これは、子どもに対する親の、小さな人権侵害を批判したものと、とらえることができる。  しかし、次のようにも述べている。  「わたしは、家庭ではまず第一に、親にいちばんよくすることを心から支持しています。もしあなたに絹地があれば、まず母に服をつくることです。(中略)。といっても、べつに子どもの事を考えるのをやめなさいというわけではありません。あなたは子どものことで気を使ってもいいのですが、まず第一に、親のことに気をくばるのが本当だということを子どもたちが信じるようにしなくてはなりません。(13)」  子どもに対し、愛情をもって接し、その人権を尊重しつつ、しかも過保護に陥らずに、子が親を尊重する気持ちを養うことを、マカレンコは主張しているといえる。  家庭での教育作用については、「特異的愛情」の性質から、「盲目的」になりやすい。マカレンコの主張に学ぶ必要がある。 (3)、地域  地域の教育力の重要性と、その危機的状況については、「社会同和教育研究会」の昭和56年度の報告に指摘されているとおりである(14)。  この現状を打開する一つの方策として、乳幼児の人権尊重を課題意識とする活動が有効だと考えられる。  なぜなら、父母の行動の大きなエネルギー源は、先にも述べたように、子どものために」であり、わが子を含めた乳幼児の人権を充分保障するためには、地域活動が不可欠なのは明白だからである。  その活動により、人権尊重の意識が、地域のいたる所で普及することが期待される。 4、乳幼児期における人権尊重教育の方法 (1)、自己教育  人権尊重教育が、もし、学習者の主体性を無視して行われるならば、これは自己撞着であり、許されるものではない。  ところが、対象が子どもだと、つい、その原則を忘れがちである。もちろん、成人の学習のような自己教育活動を期待はできないが、それでも、乳幼児の成長・発達の基本的原則も、やはり自己教育活動であるといわねばならない。  矢川徳光は、幼児がスプーンを使いこなす自由を手に入れる経過について述べ、「いまのばあい幼児が手に入れた自由や解放は、まえでもちょっといいましたように、母親からのたんなる頂戴物ではなくて、母親の援助や指導が必要ではありましたが、それでもなお、幼児はじぶんの側の活動によって獲得したのでした。その獲得活動の主体(し手)は子どもだったのです。このことは、子どもは自分の発達を創りだした当人つまり主体であるということを意味しています。(15)」と述べている。  このように、乳幼児期の学習をも、その本質を「自己教育活動」であると認識することは、人権尊重教育にとっても、大変意味のあることである。  なぜなら、乳幼児の発達の主体をきちんと認識することは、子どもを親の「従属物」としてしかとらえない封建的な考え方を否定し、子どもの人権を尊重し、その上での親や指導者の役割を正確に認識することにつながるからである。 (2)相互教育  前出「兎の眼」で、淳一は、知恵遅れの、みな子の世話で成長し、のみならず、「そういう機会をみんなにわけてやろう」と、「みな子当番」を提案する。  そこには、相互教育の活動のすばらしさが、いきいきと描かれている。  このように相互教育の成果を挙げようとするならば、その子どもが差別的な価値観を持っていては不可能である。  さらに、子どもたちの帰属する集団が、利己的競争、差別・分断の場でなく、子どもなりに心から愛せる集団でなくては、相互教育の生命力は失われてしまうだろう。  前出、「窓ぎわのトットちゃん」で、子どもたちは、「トモエ学園、ボロ学校!入ってみても、ボロ学校!」という、はやし歌に憤慨して、「トモエ学園、いい学校!入ってみても、いい学校!」と歌いながら行進する。  帰属集団へのそれほどの愛着があってこそ、相互教育の良さが生きる。 (3)、教育的指導性  以上のように、自己教育、相互教育の意義は大きなものがあるが、その上で、保母等の指導者には、「教育的指導性」が求められる。  ここでは、さまざまな側面から、逐一、それを検討することは避けたい。しかし、いずれにせよ、「教育的指導性」を簡単に公式化することはできないはずである。  近藤薫樹氏は、「親や教師が、ある時、ある所で、子どもに対してとるべき言動は、自分のおかれた条件の中で、自分の頭で思考し、自分の責任において行われなければならない(16)」とし、指導者の自主的思考の重要性を主張している。  我々も、「教育的指導性とは何か」の解答を、単に技術論的に安易に求めるべきではないと思われる。 5、乳幼児期における人権尊重教育の内容 (1)、差別観を注入しないこと  クルプスカヤは、「あらゆる民族の子の友情について」という文で、ポーランド人、ユダヤ人、タタール人の子どもたちと、子どもどうしの交流を深めたこと、そして、その後ユダヤ人やポーランド人の虐待を聞いて、無性に腹が立ったということを述べている(17)。  又、前出の「窓ぎわのトットちゃん」で、アメリカ育ちの級友に対して、子どもたちは仲良く交流し、政府が「アメリカ人は鬼」と発表しても、そんなことにはおかまいなく、楽しく英語を教えてもらっている。  又、トットちゃんは、朝鮮人差別の不当性を母親から教わり、朝鮮人の子供に対しても「みんな同じ子供!」といって友達になろうと決意する。  このように、子どもには、生まれつきの差別的価値観は、ありえない。親や社会が後から、植えつけるのである。  だから、乳幼児期の人権尊重教育を行なう場合、大切な前提として、「差別感を注入しないこと」をとりあえず、まっ先に徹底するべきである。 (2)、競争と連帯  他人に対する連帯意識を育てることが、人権尊重教育の目的の一つであることは、明らかである。  しかし、それは、何の波乱もなしに自然に獲得されるものではない。  松田道雄氏は、「人間が人間にたいしていだくものは、権力欲であり、競争心であり、名誉心であり、怨恨であります。そういうものの交錯のなかで、人間は自分の主人でありつづけるにはどうするかを、試行錯誤していくのです。(18)」と、むしろ、「競争」を最初の動機として積極的に評価している。  競争の状態を少しでもなくすことが重要なのではなくて、「競争」が「連帯」に止揚されるプロセスこそ重視しなければならない。  それゆえ、人権尊重教育だからと言って、機械的にすべての競争的要素を教育課程から排除しようとすることは妥当ではない。むしろ、ある時には、「競争」を意図的に導入することも必要である。  問題なのは、その競争が、差別的価値観に基づいて行われる時であろう。たとえば、ゲームで負けると「乞食」にさせたり、みんなの前で罰ゲームをやらせたりというのでは、子どもに対して「競争」が差別観を助長することになりかねない。  さらに近藤薫樹氏は、けんかについて、「相手の言い分に筋が通っていようがいまいが、自分の情緒の方はらおさまらない。知性の枠組みに取り込まれることを拒んであばれる」ことだと言っている。しかし、そのけんかを否定的にとらえているのではなく、「後でけんか相手に対して燃えていた(怒りの)情緒が、自分の(補強された)思考の枠組みの中にとりこまれ、おさまる。いくらか、スーとしてくる。」として、「こういう感情体験はなかなか大切なもの」と評価している(19)。  逆説的ではあるが、「けんか」により、「連帯」の端緒をつかむと考えて良いだろう。  しかし、近藤薫樹氏は続けて、近ごろ、子どものけんかは激減しており、「おとなっぽい物わかりのよさがあって、いやなことされても、『ふん』とせせら笑って避けてしまう。『おまえがそう思うんなら、そうしたらいいだろう』(オレはかかわらないぞ)という調子で、大きいけんかにはならない」と述べている(20)。  この「けんかの激減」という現実こそ、まさに子どもの連帯意識の危機をあらわすものといえるだろう。 (3)、情緒、情操、知力  情緒(感覚的感情)は、「心のエネルギー」であり、情緒に欠ければ、他人に対して冷たい、無気力な子どもになってしまう。  情操(道徳的感情)は、「当面の情緒に乱されないで、より正しいもの、より美しいものを志向する、かなり恒常性をもった、高度の感情(21)」であり、情操に欠ければ、他者の人権を尊重できる人間にはなりえない。  乳幼児期における人権尊重教育にとって、豊かな情緒と情操はともに大切だが、無関係に存在するものではない。近藤薫樹氏は、「やさしい心という情操の場合もやっぱり、情緒に点火、そのエネルギーが上昇して、思考(一定の知的活動)をくぐる。くぐるときに、一定の思考の枠にはめこまれる。そして知性と一体になって働く感情である。」とその関係を示している。  さらに思考力の発達も重要である。たとえば、きちんとした論理的思考をしない子どもについて近藤薫樹氏は次のように述べている。  「小学校三、四年生にもなれば、『あの子は三歳のとき病気になって耳が聞こえなくなったんだ』と聞けば、同情と協力の感情が流れて然るべきです。それなのに、非論理的で情緒的な子どもは『あのツンボの子と遊ぶと、何かたたりがあるかもよ』などという言葉に容易にひっかかってしまいやすいのです。(22)」  そして、「今日、乳幼児保育における思考力養成を軽視し、あるいはこれを葬りさってしまおうとする(23)」流れに警鐘を鳴らしている。  乳幼児期における人権尊重教育では、情緒、情操、知力を総合的に豊かなものにしていくことが必要である。 (4)、自主的思考  親や指導者にとって望ましい子ども像として、「すなおな心の子」が挙げられることに異議のありようはずはない。  しかし、近藤薫樹氏は、それが「大人のいうことにすなおに従う子」を意味するならば反対であり、自主的思考ができて、「自分の思うことをすなおにいえる子」を意味しているなら大賛成だとしている(24)。  この自主的思考は、世の中の不合理な差別や偏見に流されず、正しい判断ができる人間になるためには是非必要な能力である。  又、各人が、お互いの自主的思考を認め合い、尊重する態度は、民主的な人権尊重の態度ともいえる。  乳幼児期における人権尊重教育においても、私達は、良い意味での「すなお」な子どもを育てていかねばならない。   国民一人一人の自主的思考が阻害されていたり、あっても全体としては、うまく機能していない今日、そういう民主主義の危機を、新しい世代が、たくましく克服していけるよう、乳幼児期における人権尊重教育を進めてゆかねばならない。 6、おわりに  乳幼児期における人権尊重教育について、諸側面から論じてきたが、その問題のほとんどは、乳幼児自身の問題ではなく、一言でいえば、大人および、その大人たちが作り出している社会の問題であった。  しかし、それは、乳幼児期の人権尊重教育が無力であることを意味するものではない。  今まで論じてきたように、乳幼児期における人権尊重教育を追求していくとすれば、一つには、子ども自身の力と、父母の「特異的愛情」、指導者の「科学性のある愛情」の力が、そういう障害をのりこえて前進することを可能にするし、又、このような人権尊重教育は、既存の障害、そのものを変革してゆく力を持った新しい世代を作り出してゆくことにもなると思われる。  乳幼児期における人権尊重教育の一層の推進が期待される次第である。 (完) (1) 近藤薫樹「集団保育とこころの発達」(新日本新書)、 p 165。ここでは、未開放部落の子どもの多い保育園と、キャバレーなどの夜間の保育園が並列的に記されている。 (2) 同  (3) 社会同和教育研究会「乳幼児期における人権尊重教育の推進のためにV」、 p 5。 (4) 近藤薫樹「子どもの成長と脳のはたらき」(有斐閣新書)、 p 31。 (5) 前掲「集団保育とこころの発達」 p 168。 (6) 同、 p 187。 (7) 「乳幼児期における人権尊重教育の推進のためにU」、 p 35。 (8) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 92。 (9) 同、p94〜95。 (10) 同、 p 152〜153。 (11) 同、 p 45。 (12) マカレンコ「愛と規律の家庭教育」(青木書店)、 p 147。 (13) 同、 p 157。 (14) 前掲「V」、 p 20〜23。 (15) 矢川徳光「教育とはなにか」(新日本新書)、 p 51。 (16) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 183。 (17) クルプスカヤ「家庭教育論」(青木書店)、 p 153〜154。 (18) 松田道雄「自由を子どもに」(岩波新書)、 p 148。 (19) 前掲「子どもの成長と脳のはたらき」、 p 36〜37。 (20) 同、 p 38 (21) 同、 p 30。 (22) 同、 p 56〜57。 (23) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 134。 (24) 同、 p 130。