社会教育施設に「関係」のあふれた情報提供機能を                                 西村美東士 1,「押しつけがましさ」の克服  社会教育施設では、あることをわかってもらおうとするあまり、他の「対抗的」な情報や全面的な情報を知らせず、都合の良い所だけ強調する傾向を見受けることがある。この場合、たとえそれが善意のものであっても、情報の受け手は、自然にその意図を感じとってしまい、「押しつけがましさ」に反発しがちである。  住宅を購入する時のことを考えてみたい。不動産業者に「これは絶対、掘り出し物。早く買ってしまいなさい。」と薦められたとしても、安易にその気にはなれない。不動産に掘り出し物などやたらにはないはず、滅法安ければ、どこかに欠陥があるとも考えられる。「安い、良い」といういかにも一方的な情報は信じる気にはなれないし、時にはその「押しつけがましさ」が迷惑な時さえある。  これに対して、「物件はたくさんあります。見たい物件があったら、どんどん言ってください。いくらでも見せてあげましょう。そのうちに住宅を見る眼もできてきますよ。」と言える業者には、相当の信頼を置くことができる。たくさんの情報を示し、お客自信の主体的な判断を促すということは、現代の「商道徳」とも言える。  同様に社会教育施設においても、いろいろな事についての情報を、広くプラスマイナスを合わせて提供し、利用者自信がそこから何かを学びとり、自主的な判断ができるようにするということが大切である。  又、現実の身近な問題として、さまざまに「ああせよ」「こうせよ」と書いた「はり紙」の問題が挙げられる。(「本はきちんと片づけましょう」など)。これも利用者からは「押しつけ的」と反発されがちである。  むしろ、本が一目瞭然にわかり易い所にわかり易く整理されていて、その「しまい方」の情報がきちんと提供されていることの方がはるかに効果的であろう。  情報提供の「効用」が意外に忘れ去られていて、「押しつけ」と「反発」が無用に繰り返されているのではないだろうか。 2,情報提供と「関係」  周囲に情報がいくらあっても、それが自分が生きていることと関わりのない情報ばかりであるとすれば、情報の受け手は疎外感を強めるだけである。「情報過多」とはそんな状態をいうのであろう。「関わり」すなわち「関係」が重要である。  ここでいう「関係」とは、表面的なことにとどまらず、情報の受け手に何かを訴える力をもっていたり、情報の送り手からの一方通行ではなく、受け手からの何らかのフィードバックをともなうものだと考える。  今後、ニューメディアが発達し、高度に情報化した社会になることが確実であるが、そのことはあくまでもコミュニケーションの「手段」が発達することでしかない。この「手段」を活かしつつ、一人一人の幸福に貢献できる、すなわち「関係」にあふれた情報の「中味」を創らなければならない。又、これらの間接的なコミュニケーションばかりでなく、直接人と人とが接するコミュニケーション(パーソナルコミュニケーション)の方も、ますます充実させなければならない。  たとえば放送大学等、放送を媒体とした教育機会が、今後ますます拡充されることが予想されるが、そのプログラムをいかに学習者に深く響くものにするか、そして講師と学習者、あるいは学習者同志の働きかけをいかにもつかが大きな課題になる。  高度情報化社会の課題をこのように考えた時、社会教育の特徴を発揮して「関係」にみちあふれた情報を提供することは、社会教育施設の大変ユニークかつ重要な役割である 3,人間的、生活的、全面的、今日的、そして「つながり」の情報を  それでは、この「関係」にみちあふれた情報とは具体的には何であろうか。  それは「情報」という言葉が、普通、情報の受け手として「個人」を想定し、また、どちらかと言えば無機的で、時には「価値観を伴わないもの」という響きさえあるのに対し、実は次のようなものでなければならないのではないだろうか。   S 「人間的」・・・人間が人間として求める、人間に関するナマの情報   T 「生活的」・・・人間が実際の生活から求める情報   U 「全面的」・・・人間が生きていく上での喜怒哀楽に関するあらゆる情報   V 「今日的」・・・過去の資料よりも、人間が今、つきあたっている課題に関する   、今の情報   W 「つながり」・・・一人一人の人間を基礎にしつつも、情報の受け手が、それを   もとに活動したり、他の人間とつながったりするための情報  たとえば、ある一人の青年が就職や転職を考えている時、全国の就職動向や離転職状況等の資料はすぐ手に入る。しかし青年は、実際に社会で働く人間が、具体的にどのような労働条件で、どんな働きがいをもって、どんな形でその仕事にとりくんでいるのか、そういう「ナマ」の情報をこそ求めている。  さらには、就職や転職で現在悩んでいる人、過去に悩んだことのある人が、その情報提供機関を仲介にして、悩みや体験を交流しあえればすばらしい。  社会教育施設ではそのような情報提供をすべきである。 4,地域情報・行政情報の提供  地域との「関係」が人から奪われつつある状況の中で、人と人との「関係」が豊かに育まれるコミュニティーが渇望される今日、地域や行政の本当の意味での「主人公」としての住民に、地域情報・行政情報を提供することは非常に大きな意味がある。そしてこれらの情報は、とりもなおさず「関係」の情報である。  その際、地域情報とは、地域で生まれた情報及びその地域に関するあらゆる情報ととらえ、行政情報とは、行政の発行する資料だけではなく、未だ資料化されていない情報を含む行政に関する情報の総体としてとらえるべきだと考える。  これらの情報の提供のためには、提供側の「柔軟性」が大いに必要である。  行政情報の場合、行政から出した資料ばかりでなく、今行政が何をやっており、何をやろうとしているのかという情報まで求められる。又、たとえば来年度予算がどうなるかを、行政が冊子にして発行するのは随分後のことになってしまう。しかし、新聞ですぐ報道されるわけだから、それを使えば行政が正式に発行する資料を待たずして、その情報が提供できる。  このように、行政情報や地域情報を提供しようとするならば、既存の行政ルートで機械的に入手できるものだけでは当然足りないので、情報源の開拓等に関して創意工夫が必要である。  さらに、行政情報や地域情報というのは、ごく薄いリーフレットや、時には紙っぺら一枚であったり、規格がさまざまであったりして、その整理には大変苦労するところである。これらの決定的な解決策というものは、まだどこにもない。しかし、紙っぺら一枚の「資料」が、重要な意味をもつこともあり、あだやおろそかにはできない。  これらの「整理上の問題」は、極めて技術的な問題であるが、やはりここでも柔軟な創意工夫が必要であることは確かである。 5,カウンセリング・グループワークの位置づけ  社会教育施設における情報提供において、「ナマ」の情報提供に力点が置かれるとすれば、それは簡単な情報提供では事足らず、明確な解答のないものや、相手の「自立」「成長」により初めてその解決がなしうるもの等が予想される。このような情報提供には相談活動が不可避的に伴うことになる。  その場合、家庭・地域・社会の教育力が低下し、一人一人がバラバラになりつつある社会において、とりわけ自ら、あるいは自ら所属する集団の中で、個々の問題を解決できずにいる人に対しては、その自立、成長のプロセスをサポートするための、カウンセリングやグループワークの手法が非常に有効である。  カウンセリングでは、カウンセラーが相手の話をよく聴いてやることにより、相手が自ら問題の所在にきづき解決する能力を身につけるようサポートする。  又、グループワークにおいては、自己と他者の「感情の交流」を重視し、メンバーがワーカーの「支え」の上に、自ら自己及び他者との関係、そして「ともに生きること」を学ぶことが重視されている。  これらに対して、従来の社会教育においては、対象を「マス」(集団)としてのみとらえがちで、一人一人の感情や気持への配慮が充分ではなかった。その反省の上で、社会教育施設における相談事業は、カウンセリングやグループワークの理論に習い、   S 相手の話をよく聴くこと   T 相手の「気持」や「感情」を理解し、大切にすること   U 「感情の交流」を大切にすること   V 相手が自ら「気づく」ようサポートすること が大切である。 6,情報提供の個性化とシステム化  単独の一つの施設が、市民の求めるあらゆる情報をそろえておくことは不可能であり、それは図書館においてさえ同様である。  それゆえ図書館には、「資料を一ヵ所のものにとどめず、ネットワークにより、どこでも使えるようにする」という「システム化」の考え方がある。  一般の社会教育施設においても、他の機関の利用方法等について、職員がよく理解していることを前提とすることができれば、個々の社会教育施設の情報提供の種類には、相当な「個性」が許されるであろう。そこには、地域性や、時には職員等の個性が反映することもありうる。個性を持ち、あることがらに深く関わることにより、その本質にも迫ることができよう。  社会教育施設における情報提供では、個々の施設の「個性化」と、全体としての「システム化」の両方を統一的に進めることが必要である。  なお、民間企業の活力の根源を考えた場合、そこには、コンペティター(競争者)の存在がある。今日のカタログ誌、情報誌の氾濫を見ても、それらがしのぎを削りあう中、読者は自由にそこから選択することができる。これは結果としての「読者主体」であり、魅力の要因の一つはそこにある。公的社会教育施設においても、完全な自由競争は無理でも、お互いが刺激しあって、個性を発揮することは必要である。  しかし一方、情報、特に公的社会教育施設が取り扱おうとする情報は、その性格上、特定の機関の独占物にすべきではないという側面を持つ。むしろ各所(できれば民間の情報機能も含めて)の「共有化」をはかるべきものである。そのための連絡、調整等の機能の発揮は、「公」に対してこそ、とくに求められるものであり、公的社会教育施設も、その役割の一環を担うべきである。「コンペティション」(競争)と「コオペレーション」(協力)の両立が求められていると言えよう。  なお、今、カタログ誌、情報誌の魅力について述べたが、これらの雑誌によって情報が自由に求められる反面、一人一人違っているはずの読者の思考様式が、いつの間にか出版物の「傾向」に沿ってステロタイプ化されてしまうという危険も認められる。これが「カタログ誌文化」や「情報誌文化」の問題であろう。  社会教育施設においては、情報提供の「個性」を追求する際、「情報の受け手の主体的思考を促す」という基本原則の上に発揮されるべきであるということをつけ加えておきたい。 7,情報の整理と提供がさらに認識を育てる  人間は情報を整理するという「作業」の中で、あたまの中に認識を育てる。このことは、社会教育施設で組織的に情報整理を行なう場合でも同じである。  さらに情報提供の段階でも、情報の受け手からのフィードバックにより、提供した側の認識も育つ。  これらのことがうまく作用するためには、「利用者主体」の考え方が不可欠である。「学習者主体」は、社会教育の基本でもあるが、情報提供においても、利用者の立場に立った情報の収集・整理をし、その利用による「検証」があるからこそ、そこで社会教育施設の側の認識も高まりうるのである。  たとえば、情報の「加工」としての広報誌の編集において、そのことは端的に示される。市民との密接な関係の中で、ナマのふん囲気の中で取材し、市民感覚を極力取り入れた編集を心がけ、発行後の市民の反応にアンテナをはりめぐらせるとすれば、そのプロセスの中で、社会教育施設の認識は大いに発展しよう。  逆に読まれようが読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけならば、そんな効果は望めない。  「利用者主体」とは言葉を変えれば、利用者との「関係」にみちあふれた状態と言うことができる。 8,おわりに  近い将来、コンピューターの端末等が個々の家庭に普及し、ニューメディア等も加わって、「情報化」がますます進展することは明らかである。  しかし、コンピューターやニューメディアは、一面では非常に便利で有効だが、その反面、市民の立場に立った情報提供と、それを選択し判断する市民の主体性が、今まで以上に必要になるであろう。  このような意味から、「情報化社会」の中で、社会教育施設が情報提供機能を発揮する役割は、ますます重要になってくる。  その際、市民との「関係」にみちあふれた社会教育施設から、市民との「関係」にみちあふれた情報が、いきいきと提供されるよう願ってやまない。                                   (以上) 社会教育施設に「関係」のあふれた情報提供機能を(要旨) 1,「押しつけがましさ」の克服  情報提供の「効用」が意外に忘れ去られていて、「押しつけ」と「反発」が無用に繰り返されているのではないだろうか。 2,情報提供と「関係」  周囲に情報がいくらあっても、それが自分が生きていることと関わりのない情報ばかりであるとすれば、情報の受け手は疎外感を強めるだけである。「情報過多」とはそんな状態をいうのであろう。「関わり」すなわち「関係」が重要である。  社会教育の特徴を発揮して「関係」にみちあふれた情報を提供することは、社会教育施設の大変ユニークかつ重要な役割である 3,人間的、生活的、全面的、今日的、そして「つながり」の情報を   S 「人間的」・・・人間が人間として求める、人間に関するナマの情報   T 「生活的」・・・人間が実際の生活から求める情報   U 「全面的」・・・人間が生きていく上での喜怒哀楽に関するあらゆる情報   V 「今日的」・・・過去の資料よりも、人間が今、つきあたっている課題に関する   、今の情報   W 「つながり」・・・一人一人の人間を基礎にしつつも、情報の受け手が、それを   もとに活動したり、他の人間とつながったりするための情報 4,地域情報・行政情報の提供  地域との「関係」が人から奪われつつある状況の中で、人と人との「関係」が豊かに育まれるコミュニティーが渇望される今日、地域や行政の本当の意味での「主人公」としての住民に、地域情報・行政情報を提供することは非常に大きな意味がある。そしてこれらの情報は、とりもなおさず「関係」の情報である。  その際、地域情報とは、地域で生まれた情報及びその地域に関するあらゆる情報ととらえ、行政情報とは、行政の発行する資料だけではなく、未だ資料化されていない情報を含む行政に関する情報の総体としてとらえるべきだと考える。  これらの情報の提供のためには、提供側の「柔軟性」が大いに必要である。 5,カウンセリング・グループワークの位置づけ  社会教育施設における情報提供において、「ナマ」の情報提供に力点が置かれるとすれば、それは簡単な情報提供では事足らず、明確な解答のないものや、相手の「自立」「成長」により初めてその解決がなしうるもの等が予想される。このような情報提供には相談活動が不可避的に伴うことになる。  従来の社会教育においては、対象を「マス」(集団)としてのみとらえがちで、一人一人の感情や気持への配慮が充分ではなかった。その反省の上で、社会教育施設における相談事業は、カウンセリングやグループワークの理論に習い、   1 相手の話をよく聴くこと   2 相手の「気持」や「感情」を理解し、大切にすること   3 「感情の交流」を大切にすること   4 相手が自ら「気づく」ようサポートすること が大切である。 6,情報提供の個性化とシステム化  社会教育施設における情報提供では、個々の施設の「個性化」と、全体としての「システム化」の両方を統一的に進めることが必要である。  民間企業の活力の根源を考えた場合、そこには、コンペティター(競争者)の存在がある。今日のカタログ誌、情報誌の氾濫を見ても、それらがしのぎを削りあう中、読者は自由にそこから選択することができる。これは結果としての「読者主体」であり、魅力の要因の一つはそこにある。公的社会教育施設においても、完全な自由競争は無理でも、お互いが刺激しあって、個性を発揮することは必要である。  しかし一方、情報、特に公的社会教育施設が取り扱おうとする情報は、その性格上、特定の機関の独占物にすべきではないという側面を持つ。むしろ各所(できれば民間の情報機能も含めて)の「共有化」をはかるべきものである。そのための連絡、調整等の機能の発揮は、「公」に対してこそ、とくに求められるものであり、公的社会教育施設も、その役割の一環を担うべきである。「コンペティション」(競争)と「コオペレーション」(協力)の両立が求められていると言えよう。 7,情報の整理と提供がさらに認識を育てる  「利用者主体」とは言葉を変えれば、利用者との「関係」にみちあふれた状態と言うことができる。 8,おわりに  近い将来、コンピューターの端末等が個々の家庭に普及し、ニューメディア等も加わって、「情報化」がますます進展することは明らかである。  しかし、コンピューターやニューメディアは、一面では非常に便利で有効だが、その反面、市民の立場に立った情報提供と、それを選択し判断する市民の主体性が、今まで以上に必要になるであろう。  このような意味から、「情報化社会」の中で、社会教育施設が情報提供機能を発揮する役割は、ますます重要になってくる。  その際、市民との「関係」にみちあふれた社会教育施設から、市民との「関係」にみちあふれた情報が、いきいきと提供されるよう願ってやまない。                                         感想  職場で入賞の知らせをいただきましたが、とにかくうれしくてうれしくて、さっそく一階の公衆電話から、女房の働く保育園に電話をしました。そうしたら、「こんな忙しい時間にかけてきたらだめよ。もうかけてこないでね。」、ガチャッ、と冷たく切られてしまいました。でも、その夜、大いに飲んで一時ごろ帰ったのですが、それでも彼女は玄関で、「おめでとう」と迎えてくれたのです。  今回の論文は、武蔵野青年の家で三年間やってきた「情報講座」で、本当にさまざまな立場の人が、心をこめて教えてくれたことを、社会教育の立場からまとめたものです。  社会教育の人々が「教育」という名のもとに安住し、「情報」に対して切実感を持ちきれないでいる間に(失礼!そんなのは私だけかもしれません)、青年団体のリーダーが情報過多の社会の中での自分達の機関紙のあり方を模索し、図書館職員が情報公開に対する自分たちの役割を追及し、一般行政の職員が住民にどうしても提供したい情報をいかに提供すべきかトライをくりかえしているのです。そんな姿を見ながら、社会教育における情報提供の必要性と可能性を痛感しました。  われわれ社会教育関係者は、まず情報化社会の「便利さ」につくづくひたりそれを味わうこと、次には、それがそれだけでは意外につまらなく味気ないことを、とりあえず体験を通して知ることから始めるべきだろうと思います。                                   西村美東士