社会教育とマイクロコンピューター  社会教育はなぜマイコンに注目しなければならないか 1 新しい「文化」としてのマイコン  カリフォルニア州サンタクララ郡のかの「シリコンバレー」では、60年代以降、トランジスタからICへ、そして数ミリ角の面積に数千から数万の素子を組み込んだLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、1971年インテル社から4ビットのマイクロプロセッサーが生まれる。  マイクロプロセッサー(MPU)は、LSIによって構成され、中央処理機能(CPU)としての役割を果たすものである。これに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピューターすなわちマイコンになるわけである。  しかし当初すぐ、コンピューターのメーカーが、マイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。コンピューターメーカーが個人用のコンピューターを志すのは、ずっと後になってからである。マイクロプロセッサーは、大手企業により家電製品に使用されることはあっても、マイコンの中で使おうとしたのは、最初はホビイストたちであったり、ごく小さな会社が「キット型マイコン」として売り出したりしたのであった。日本でもそれはブームとなり、秋葉原がマニアのメッカとなった。しかしそのころのマイコンブームは、特別な知的関心を寄せる一部の人々のものであり、社会全体の文化とはほど遠いものであった。  ただし、当時のマイコンブームは、ファンの数は少なくても、大変熱狂的であったこと、そして自作機の製作などにおいて、独創的かつ進取的であったことなどは、現在迎えようとしているマイコンの「大衆化」における状況とは、若干の相違があり、その示唆するところも多いと思われるので、注目に値する。  80年代に入り、日本でもキーボード、ディスプレー、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、それは大変な勢いで普及しつつある。そしてマイコンは社会の新しい「文化」を形成しつつある。  コンピューターそのものは、1945年の世界初のコンピューター「ENIAC」にまでさかのぼり、現在までの歴史を持つものである。そしてコンピューターは、ハイテクノロジーの中でも最先端として、社会の経済活動や経済基盤等に少なくない影響を与えてきた。しかし、それだけならばコンピューターは一部のエリートによる使用と、プログラミング労働、そして残り大多数のコンピューターの支配下にある労働をもたらしているだけとしか言えない。それを社会教育で生産性向上と「人間性疎外」との葛藤の問題としてとりあげることはあっても、コンピューターの具体的かつ技術的な問題を直接論ずる必要は認められない。  このような従来のコンピューターの性格とは異なり、先程述べたマイクロプロセッサーの登場と、それを使った個人でも充分購入可能なマイコンの普及こそが、マイコン文化の成立条件となっているのである。そして、マイコンに仕事をさせようとする場合、一昔前のような難解な機械語などではなく、個人が使いこなすことのできるBASIC語やあるいは簡易言語、ソフト等が整備されつつある。さらには、このマイコンの機能は、従来のテクノロジーの主たる目的である「生産性の向上」の延長だけではなく、「個人」の知的活動や遊びとしても使われようとしているのである。(なお本論でマイコンに「仕事」をさせるというのは、いわゆるマイコン用語で、生産に結びつくものばかりでなく、ゲーム等の遊びのための利用も含んでいる。)  このようにマイコンは今後ますます大衆的にかつ精神的側面で利用される見通しであるからこそ、それは新しい「文化」として社会教育が大いに注目すべき存在なのである。 2 マイコン文化の新しさ  コンピューターはカリキュレーターと違って、数値計算にとどまらず、入力されたデータの判断や外部の機械へのアウトプットをすることができる。しかもそれに仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をすることができる。それは大型のコンピューターばかりでなく、小さなマイコンでも同じである。このようなマイコンの「汎用性」は、マイコン文化の新しさの最も基本的な要因となっている。  第一に、「汎用」であることから、マイコンは一人一人の個別な要求に応じて、多様な仕事をすることができる。現代社会の大量生産、大量消費の図式をまる写しにした形での従来の画一的文化とは、若干様相を異にするのである。この「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する傾向である。(個別性)  第二に、「汎用」ということは、裏返せば、マイコンという与えられた「箱」だけあっても何の役にも立たないということであり、よってこの「箱」を役立たせるためには一人一人の何らかの力量を必要とする。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことに始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには簡単なプログラム作りを自分の手でやってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者の「わずらわしさ」を解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたこととは異なり、少なくとも、現段階では、マイコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)  第三に、「汎用」ということから、個別に利用される時点で、それまでにはなかった仕事をさせることが、大いに可能である。お膳立てされたものの「利用」だけではなく、個人が自由に工夫をこらす余地があるのである。しかもその「工夫」により、欠陥(バグ)を何度も改善してプログラムを完成した時、その成功が結果として明白に表れることから、素晴らしい達成感を味わうことができる。(創造性)  以上のことから、マイコン=パーソナル・コンピューターは、文字通りパーソナルな知的道具として登場している。それは、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは、若干異なる文化を生み出す可能性を潜めているのである。  ただし、今日の企業がこのようなマイコンの「汎用性」を軽視し、今後扱い易い、しかしその分、出来合いの仕事しかしない利用目的の限られたマイコンの生産に傾くならば、マイコンは今までの受動的家電製品と変わりないものになってしまう。もちろん、誰にもわかりやすくということが大切であるのは否定できないが、それは例えばシステムがシンプルであるということであって、決して出来合いの機能しか果たせない「専用機」になってしまってはいけないのである。現に例えば、CAPTAINシステムの端末処理はマイコンに少し手を加えれば充分なはずなのに、それが別途CAPTAIN専用機として売り出されているのは解せないことである。  また、ユーザーの側が、市販ソフトでゲームに興ずるという、マイコン利用の初歩で満足してしまうなら、これも単なるゲームセンターの客と変わらず、「汎用性」は活かされない。  さらには、現実に要請の強いいわゆる「プログラムレス」のマイコンが出来てくれば、それはもちろん便利であり、またあらたな利用形態を切り開く可能性があることの反面、その極端な利用形態として、人間は何も考えずにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性もはらんでいるのである。  このようにマイコン文化は、過渡期にあり、多分に流動的でもある。 3 マイコン文化の危険性  マイコンは、「一人」のユーザーと、その人の占有するマシーンとが対面することを前提とするものである。この点からもマイコン=パーソナル・コンピューターは文字通りパーソナルなのである。そしてマイコン文化の危険性はここから生ずる。  文化とは、クラックホーンによれば、「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」である。よって、そもそも文化とは、良きにつけ悪しきにつけ、人間関係を伴うものである。  しかしテクノロジーの発達は人間の感情や意思の交流を機械的手段によって媒介するようになった。そこでは、人間のなまの感情や意思が、その活力を削がれたり、画一化されたりする危険がある。マイコンの場合も同様である。けれどもその「機械的手段」により、広く大量な人間のそれらの交流が可能になっている側面もあり、テクノロジーの発達そのものが文化や人間関係の阻害要因になっているかどうかは、一概には断定できない。例えば無線機器の進歩は、たくさんのアマチュア無線愛好家を生み出し、遠くの見ず知らずの人と電波で交流することを可能にしている。  ところがマイコン文化は、いったんマシーンと面と向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きですませることも可能であるという、全く新しい文化である。マスコミでさえも、その取り扱う内容は人間に関することばかりであった。人間疎外のオートメーション工場でも、その製品は他の人間に使われるべく生産される。しかしマイコンの場合は、全く人間に関係のない内容の仕事をさせ、その成果について一人で満足することが充分ありうる。マイコンの利用そのものが、自己目的化してしまうのである。しかもそれが非常に「楽しい」のであるから、始末が悪い。  このようなマイコンの極端に「パーソナル」な性質は、マイコンを愛好する「特定のメンバー」はあっても、そのメンバーの間の人間関係やまわりの社会との関係は全然持とうとしないという恐るべき文化を形成する危険性を持っている。  実際に、クレイグ・ブロードは、その著「テクノストレス」において、コンピューター相手の仕事をしているある研究者が次のような症状に陥っていることを報告している。  「家庭に戻ると乱雑さが気になる。妻はのろまで会話にはイライラさせられる。世間話などまっぴら、そこで仕事を持って帰る。一人きりになれるからだ。」  この研究者にとってコンピューターの仕事は苦役ではない。むしろものすごい速さで(マイコンの場合でも一秒間に数十万回)正確に、与えられた仕事をこなしてくれるコンピューターに慣れ親しんでいる。しかしその分、「のろま」でイエス・ノーのはっきりしない、本物の人間とはつきあっていられなくなってしまったのである。  今の日本の子どもたちの中にも、友達とつきあいもせずに、マイコンゲームに没頭している子も多いと思う。  文化行政の一端を担う社会教育行政が、このようなマイコン文化の持つ危険性に無関心であってよいはずがない。 4 コンピューターリテラシー学習の必要性  コンピューターの急速な発展に伴い、コンピューターリテラシー(読み書き能力)の学習が緊急に必要になっている。  人間が言語を持つようになってから長い時間がたっている。それでも言語、特に文字言語については、各人の能力に断然たる差があり、例えば「文盲」に近い人であれば、その人は文明社会の中では、大変不利な取り扱いを受けたり、生き死にに関わる危険な目にあうこともあるだろう。しかも、その「各人の差」は、その人の教育環境等に規定される部分も大きい。文字言語リテラシーの差が、階層間の格差を生み出し、それが又、文字言語リテラシーの差を生み出しているのである。  コンピューターの場合はどうだろうか。文字言語の形成と比較して、比べものにならないほどのスピードでコンピューター言語は形成されてきている。また、その形成は、文字言語の形成が大衆によるものであったのに対して、ごく一部のハイテクノロジーエリートによるものである。よって「各人の能力差」は、文字言語以上のはっきりした差がある。そこにおける最も大きな格差は、「できる」と「できない」である。これは大変恐ろしいことである。  コンピューターの急速な普及の中で、この各人の差を放置しておくならば、一部の「できる人」と、コンピューターに「使われる」他の「できない人」とに、今後明確に二分されてしまうであろう。ここにコンピューターリテラシー学習の必要性と緊急性がある。  もちろん、すべての人が、コンピューターのハードエンジニアであり、かつプログラマーであることが必要なのではない。これは、自動車の運転は、自動車の設計ができない人でも充分可能であることと同じである。  しかし、自動車が移動と運搬の手段であるのに対して、コンピューターはコンピューター用語でいう「情報処理」という広い仕事が可能である。それゆえコンピューターのこの「汎用性」は今後、あらゆる人の労働と生活に関わってくるであろう。その時に、最低限のコンピューターリテラシーさえ知らない人は、コンピューターの摂取はおろか、的確な批判さえできないのである。  社会教育が行おうとするコンピューターリテラシー教育の目的は、ハイテクのエリートをつくることではなく、すべての人が、今後好むと好まざるとに関わらず普及するであろうコンピューターについて、主体的に摂取したり、批判したりするための、最低限のコンピューターリテラシーの習得を援助することなのである。 社会教育におけるマイコンの具体的諸機能の利用 1 CALCULATE(集計)  1979年、社員わずか2名のパーソナル・ソフトウェア社(現ビジコープ社)から米国のマイコン、「アップル」に適合するソフト、「ビジカルク」が発売される。そしてこの「ビジカルク」については、他のマイコンのためにも、たくさんの翻訳ソフトが出されている。これが、マイコンを有能なビジネスマシンに変えるソフトとして、以降のマイコンの利用に大きな影響を与えたのである。  「ビジカルク」は、最大縦254行、横63列のありとあらゆる種類の集計をやってしまう。そして修正、挿入、削除等も非常に簡単である。従来のように「けしゴム」で悪戦苦闘する必要がなくなる。  社会教育行政や団体、グループ・サークルにとって、予算の編成、管理等に大きな可能性を秘めていると言えよう。  しかしもっと大切なことは、例えば予算の編成において、数値の修正、挿入、削除が、担当者一人の鉛筆と「けしゴム」との苦闘ではなく、ディスプレーを囲んで、みんなで話し合いながらできることである。このような実質面での組織運営の民主化にこそ、マイコンの集計機能が活用されてしかるべきである。 2 FILE(ファイル)  マイコンは、インプットされたデータを記憶し、必要に応じてそれを引き出すことができる。この機能を応用して、文書や名簿等の管理が可能である。  たとえば、地域文庫で子どもの要求に応じて、ジャンル別あるいは著者別に、該当する在庫の本を一覧にしたり、購入希望をインプットすることができる。他の地域文庫や公共図書館とネットワークを組めば、用途はさらに広がるであろう。  名簿管理についても、一つの組織内で使えるだけでなく、ボランティア派遣や、団体間交流等にも活用できる。  従来の管理システムでは、これらの情報を得るには、いちいち担当者の手をわずらわせねばならないことが多かった。しかしマイコンを活用することにより、開放できる情報はお互いに気軽に交換できるのである。情報を得ようとする者が自分の手で、その情報を検索できるのなら、気兼ねなく心ゆくまで求める情報を検索し続けることができよう。  ただし、団体の所有するファイルについては、その団体の意思だけで運用すること、行政の所有する団体及び個人に関するファイルについては、その団体及び個人の支配下にあることは、欠かせない前提である。 3 GRAPHIC(作画)  コンピューター・グラフィック(C・G)を新しい芸術形態として注目すべきである。 また、ソフトの利用により、作図及びそのいろいろな表現(ふかん位置、角度など)が簡単にできることは、たとえば、社会教育施設の設計段階での住民参加を容易にするであろう。 4 MUSIC(音楽)  音楽の練習、創作に有効なソフトの利用をはかるべきである。特に青年層のこれに対するニーズは高い。 5 WORD−PROCESSER(文書作成)  マイコンの内部または周辺機器に、漢字や熟語等のデータ他を付加すればワープロになる。よって、ワープロもマイコンの一種と考えてよいであろう。  市民の知的レベルが向上し、文化の享受だけでなく、自ら表現しようとする時、ワープロは有効な道具である。  文章を書くことを職業とする人の中には、自分の頭の中で構想を完全にねりあげ、実際に書き始めれば、ほとんど修正などしないという人もいるかもしれない。しかし、われわれ一般人にとっては、文章を書くということは、書き始めからして悩ましいことである。その点、訂正、削除、挿入、移動が自由にできるワープロの存在は、われわれを勇気づけてくれる。  書斎を持ってもの書きに専念している人だけがものを書くのではなく、すべての市民が労働と余暇の「合い間」に文章という広い意味での文化表現に関わることができる技術的条件をワープロは保障しつつあると言えよう。 6 NEW−MEDIA(ニューメディア端末)  社会教育において、ニューメディアは、その地域メディア性および双方向性において注目されるべきである。そしてこれらのニューメディアの端末は、基本的にはマイコンの機能である。  ニューメディアがマスメディアの欠点を克服するためには、一つには、その双方向性が重要なポイントとなる。ニューメディアにおいては、情報を受ける側が、流された情報をただ一方的に受け入れるのではなく、取捨選択し、時には情報や意見を情報の送り手にフィードバックすることが可能である。  このようないわば「情報の民主化」にとって、市民が端末としてのマイコンのキーボードを操作できるように援助することは、最低限、必要なことである。 7 GAME(ゲーム)  マイコンの利用でゲームほど、好きな人、きらいな人、そしてマイコンの意義を認める人、認めない人がはっきり分かれるものはない。しかし、マイコンの普及の最初は「ゲーム」であったことは事実である。  1972年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出され、その後「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」と、LSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがマイコンに移植され、マイコンへの関心を呼ぶことになったのである。先に述べたように、初めのころマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「青少年」であった。  しかし、たとえば「インベーダー」のころ、これに熱中する子どもたちの、「遊びの質」が問題とされ、さらにはゲームセンターでたむろすことによる非行化問題が起きたのも事実である。  このようなゲームが好きな子どもに対しては、それを禁止してすませるのではなく、学校や家でマイコンを利用して、友達と楽しめるよう指導することこそ必要である。また、できればゲームプログラム作りの喜びも味あわせてやりたいものである。  さて既にマイコンの「汎用性」の所で述べたとおり、マイコンの利用においては、既成のソフトばかり利用するのではなく、その「汎用性」を活かして市民自らがプログラム作りできるよう社会教育は援助すべきである。簡単なゲームソフトの作成は、その容易性、一般性と達成感からみて、手初めに取り組むには最適であろう。  しかしそのことは前提とした上で、ここでは、市販の高度なプログラムによるゲームの社会教育利用について考えてみたい。  1 ACTION(アクションゲーム)  キーボードやパドル、ジョイスティックなどの機敏な操作を競うゲームである。これに類するゲームは、マイコン以前にもゲームセンターで、ピンボール等として当時の若者が楽しんでいた。当時の若者の志向を評して、「3S」(スリル、スピード、サスペンス)と言われていたが、その意味では、当時のゲームも今日のマイコンゲームもほとんど変わりない。  ただ、今日のマイコンゲームは、きれいなグラフィックとそのスピード、意表をつくアイデア等で格段の進歩をしており、一部のゲームマニアは、ゲームをする楽しみよりも、ゲームを作ったプログラマーに、時には涙さえ流しながら「共感」できる楽しみを大事にしているほどである。  そこまではともかく、アクションゲームは、初めての人でも楽しめ、それを囲んでみんなでワイワイやることもできる。公民館や集会施設のロビーにあれば、楽しいだろう。  2 ADVENTURE(アドベンチャーゲーム)                 アドベンチャーゲームは、推理を重ねた上でのコマンドの入力により、次々と迷路を進み、そのたびに素晴らしい画面が現れるというものであり、マイコンならではのゲームである。マニア用語でいう「奥行き」の深いものが多く、クリアーするのに全部で一年以上かかる難解なものもある。  人づきあいもせず、これを一年もやっている人もおり、それを考えると、アクションゲームなどより、「恐ろしいしろもの」である。時には情報交換をしたり、自慢話をしたりする機会があっても良いのではないだろうか。  3 BOARD−GAME(ボードゲーム)  オセロ、バックギャモン、マスターマインド等、本来なら一枚のゲーム板をはさんで、人と人とが対戦するゲームを、マイコンが対戦相手になってくれるものである。マージャン、ポーカー、コントラクトブリッジなどができるプログラムもそれに類するものとして売られている。  せっかく人間関係のあるゲームを、マイコンが代行してしまうのだから、批判は強いと思うが、初心者がゲームのルールを覚えて、実戦に備えて準備をするには都合が良い。ゲーム大会などで、そのルールを知らない人が参加できずにいるのを、よく見かけるが、該当するゲームのソフトを備えたマイコンとインストラクターを一名、待機させると良いのではなかろうか。 8 EDUCATION(教育)  マイコンの機能を活かして、個別の進度に応じた学習を進めることができる。社会教育においても、外国語学習等ではある程度役立つであろう。  しかし、単なる「電子紙芝居」として、画面が順番に現れるだけでは、マイコンの機能を充分発揮しているとは言えない。既存の教育ソフトにも、多少その点の不備が見られるので、もっと学習者の反応に対して細かく配慮したプログラムの作成が望まれる。  また根本的には、すでに述べたとおり、与えられたソフトの利用だけでなく、プログラムの修正、作成に学習者が直接関わることこそ、マイコン利用の本命である。                                         社会教育におけるマイコン利用の展望 1 社会教育のCMIの必要性  学校教育では、S−P表などによるマイコンの活用によって、たとえばテストの解答について、生徒と問題の相関関係をかなりシビアーに分析するようになってきている。マイコンに分析を出させることによって、総体的、量的にしか、把握してなかったものが、個々の問題所在についてはっきり、表で示されてしまうのてある。  これらは、学習者の学習を直接助けるCAI(コンピューター・アシステッド・インストラクション)に対して、CMI(コンピューター・マネージド・インストラクション)と呼ばれている。  教科学習、特にドリル的なものが比較的少ない社会教育においては、CAIの活用はそれほど多くならないだろうが、社会教育事業の参加者、一人一人のレベルにまでつきつめて、その事業を厳しく分析するためのCMIの活用については、今後大いに必要となるであろう。  CMIの活用は、社会教育行政運営の効率化を図ることもさることながら、むしろマイコンの機能を活かした、マス(集団)だけでない「個」、個別学習への注目が、社会教育に対し、大きな良い影響を与えることと思われる。 2 効率より、知的喜びのために  コンピューターが普及して、ものごとがスム−ズに進んだとしても、それが人間の幸せにつながるがどうかは、別問題である。  社会教育におけるマイコン利用においては、すでに述べたように、個人の知的喜びにつながる「文化」としての側面を大切にすべきである。 3 相互的教育作用という「かなめ」  マイコンは、確かに楽しいものである。それは、基本的には、一人で解くパズルのような楽しさであり、その楽しさが大切であることは否定できない。  しかし、社会的存在としての人間の幸せのためには、同時に人間関係が重要な要素であることも事実であり、その点、社会教育が従来大切にしてきた「相互教育」の意義がむしろ、比例的に重要なのである。  ハイテクになればなるほど、ハイタッチが求められるというテーゼは、ここでも通用するはずである。 4 市民の実践的自治能力の形成  従来の「住民自治」が、自治体に対する「要望」の域をなかなか脱しきれなかったのに対し、住民自身のマイコンの活用によるデーターベースの充実は、大いなる可能性を示すものである。  「2人のスティーブとアップル」(1983年12月、旺文社)によれば、「カモメのジョナサン」の作家リチャード・バックは、「アップル」を活用している代表的有名人の一人である。バック夫妻は、自宅近くの森林が無制限に伐採されているのに異義を唱え環境保護団体(TELAV)とともに、マイコンの活用により3巻600ページにもおよぶ異義申し立て書を作成した。管轄の米国土地管理局は、その綿密な運動に舌を巻き、野放図な伐採を中止せざるを得なかったという。  このようにアメリカでは、マイコンを活用し、情報武装をすることで住民パワーを活発にさせようとする動きがあり、しかも、アップル社は、このような各地の有力なグループに、コンピューター・コミュニケーション・ネットワーク・システムを寄贈し始めているという。  このように、マイコン、特にデーターベースの市民の手による活用は、情報の一点集中型の官僚主義を切り崩し、市民が直接自治に携わることを可能とするのである。今後、社会教育において、市民の自治能力の向上を言うならば、このような市民自治の実践的能力の援助も、絶対に無視することができなくなるであろう。 社会教育とマイクロコンピューター(ポイント)  社会教育はなぜマイコンに注目しなければならないか 1 新しい「文化」としてのマイコン  このような従来のコンピューターの性格とは異なり、先程述べたマイクロプロセッサーの登場と、それを使った個人でも充分購入可能なマイコンの普及こそが、マイコン文化の成立条件となっているのである。そして、マイコンに仕事をさせようとする場合、一昔前のような難解な機械語などではなく、個人が使いこなすことのできるBASIC語やあるいは簡易言語、ソフト等が整備されつつある。さらには、このマイコンの機能は、従来のテクノロジーの主たる目的である「生産性の向上」の延長だけではなく、「個人」の知的活動や遊びとしても使われようとしているのである。  このようにマイコンは今後ますます大衆的にかつ精神的側面で利用される見通しであるからこそ、それは新しい「文化」として社会教育が大いに注目すべき存在なのである。 2 マイコン文化の新しさ  第一に、「汎用」であることから、マイコンは一人一人の個別な要求に応じて、多様な仕事をすることができる。(個別性)  第二に、(自力性)  第三に、「汎用」ということから、個別に利用される時点で、それまでにはなかった仕事をさせることが、大いに可能である。(創造性)  以上のことから、マイコン=パーソナル・コンピューターは、文字通りパーソナルな知的道具として登場している。それは、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは、若干異なる文化を生み出す可能性を潜めているのである。  ただし、今日の企業がこのようなマイコンの「汎用性」を軽視し、今後扱い易い、しかしその分、出来合いの仕事しかしない利用目的の限られたマイコンの生産に傾くならば、マイコンは今までの受動的家電製品と変わりないものになってしまう。 3 マイコン文化の危険性  ところがマイコン文化は、いったんマシーンと面と向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きですませることも可能であるという、全く新しい文化である。マスコミでさえも、その取り扱う内容は人間に関することばかりであった。人間疎外のオートメーション工場でも、その製品は他の人間に使われるべく生産される。しかしマイコンの場合は、全く人間に関係のない内容の仕事をさせ、その成果について一人で満足することが充分ありうる。マイコンの利用そのものが、自己目的化してしまうのである。しかもそれが非常に「楽しい」のであるから、始末が悪い。  このようなマイコンの極端に「パーソナル」な性質は、マイコンを愛好する「特定のメンバー」はあっても、そのメンバーの間の人間関係やまわりの社会との関係は全然持とうとしないという恐るべき文化を形成する危険性を持っている。 4 コンピューターリテラシー学習の必要性  コンピューターの急速な普及の中で、この各人の差を放置しておくならば、一部の「できる人」と、コンピューターに「使われる」他の「できない人」とに、今後明確に二分されてしまうであろう。ここにコンピューターリテラシー学習の必要性と緊急性がある。  社会教育が行おうとするコンピューターリテラシー教育の目的は、ハイテクのエリートをつくることではなく、すべての人が、今後好むと好まざるとに関わらず普及するであろうコンピューターについて、主体的に摂取したり、批判したりするための、最低限のコンピューターリテラシーの習得を援助することなのである。 社会教育におけるマイコンの具体的諸機能の利用 1 CALCULATE(集計) 2 FILE(ファイル) 3 GRAPHIC(作画) 4 MUSIC(音楽) 5 WORD−PROCESSER(文書作成) 6 NEW−MEDIA(ニューメディア端末) 7 GAME(ゲーム) 先に述べたように、初めのころマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「青少年」であった。  1 ACTION(アクションゲーム)  2 ADVENTURE(アドベンチャーゲーム)             3 BOARD−GAME(ボードゲーム) 8 EDUCATION(教育) 社会教育におけるマイコン利用の展望 1 社会教育のCMIの必要性  CMIの活用は、社会教育行政運営の効率化を図ることもさることながら、むしろマイコンの機能を活かした、マス(集団)だけでない「個」、個別学習への注目が、社会教育に対し、大きな良い影響を与えることと思われる。 2 効率より、知的喜びのために 3 相互的教育作用という「かなめ」 4 市民の実践的自治能力の形成  このように、マイコン、特にデーターベースの市民の手による活用は、情報の一点集中型の官僚主義を切り崩し、市民が直接自治に携わることを可能とするのである。今後、社会教育において、このような市民自治の実践的能力の援助も無視することができない。