感性にせまる、核心にせまる               纃送ァ社会教育研修所「公民館経営専門講座」ルポルタージュ  三月六日の夜、東京・上野公園の国立社会教育研修所の研修室は時ならぬ仮設舞台となり、二期会の歌声に対してアンコールの拍手が渦巻いていた。すでに二期会は、「トリッチ・トラッチ・ポルカ」に始まり、声色入りの「犬のおまわりさん」、オペラ「こうもり」より「開幕の合唱」、オペラ「椿姫」より「乾杯のうた」など、楽しくきれいな合唱のかずかずを聞かせてくれていた。そして、その日のプログラム最後の曲、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」より「踊り明かそう」が終わった時、公民館経営専門講座の受講生は皆すがすがしい感動を感じてアンコールの拍手をしていた。  二期会の司会者が「アンコールにお応えしまして、『マイ・ウェイ』を歌います」と言って、ピアノの前奏が始まった時、研修室の一番後ろから見ると何人かの受講生が肩をふるわせていた。私も前奏を聞いているうちに、めがしらが熱くなってしまった。  私が歌が始まる前から感激してしまったのは、二期会の司会者がその前に言っていた「自分を主張しつつ、みんなとハーモニーをつくり、それが完成するときの喜び」という言葉が、さほど広くない部屋でその本物の人々を目の前にして突然よみがえり、実感として理解できたからである。視聴覚や活字媒体と違って、本当にそこにいる人に対して共感できるのである。「マイ・ウェイ」すなわち「私の人生」という曲の内容と美しいメロディーが、その共感を増幅してくれた。  ほんものの文化にふれる・・・ゼロと一の違い  社会教育職員がその人生の中で、合唱が与えてくれる感動を一度も味わったことがないとすれば、その人がたとえば社会教育施設職員として合唱サークルとおつきあいすることには大変な無理がある。また「混声」だの「女声」だの、ごく基礎的な用語については、それを知らなければ、合唱サークルの市民から信頼されなくなることもありうる。  国立社会教育研修所では「一度でも、ナマの芸術にふれておくこと」が社会教育職員にとって必要と考えて、研修の中でこのような場を用意しているとのことである。「そんなことは、自分のお金で見に行けばよいのでは」という声もあるが、残念ながら仕事のために自分のお金を使おうとしない風潮が、特に最近の若い職員のあいだにはあるようだ。ナマのほんものの文化に触れるという「きっかけ」は、おおいに価値のあることのようである。  公民館経営専門講座は、二月二十一日から三月二十日までの一カ月にわたる研修であるが、その中で三月十一日、「特別文化教養講座・舞踏への招待」として、各種の舞踏の観賞とその解説の催しも行われた。  チャイコフスキー記念バレエ団によるクラシックバレエにおいては、「特別な観賞法など、ない。だれが見ても感動できるものでなければいけない」ということ、ダンスシアターキュービックのモダンダンスでは、それに比べて「制約から自由に、自由なテーマを、自由に表現し、主張するもの」であるということ、花柳寿美さんの日本舞踊では、「体の線を隠蔽して踊る美しさ」や「伝統および歌詞にそむいて踊ることはできない」ということなどが、その実技と解説をとおして充分語られた。  このとき感化された受講生は、地域にもどっても各種の舞踏団体や舞踏文化にとっての良き理解者となり、良き味方になるであろう。たった一度の体験でも、それは社会教育職員にとっては千金に値するものである。もちろん、一度そういう体験をもった職員が、さらにその理解を深めることも意義のあることだが、それよりもっと緊急に必要なことなのである。国立社会教育研修所所長の塩津有彦氏はこのことについて、「ゼロと一の違いは、一と二の違いとは、比べものにならないほど大きい」と表現している。  現下の課題と、テーマの核心にせまる  国立社会教育研修所、通称「国社研」は昭和四十年、上野公園の一角に設置された。緑濃き上野の森で、受講生はじっくり研修できるのである。  「じっくり」というのは、一年の間に一週間から十日間程度の研修が五本あるほかに、三週間から六週間程度の研修が七本もあるからである。勉強好きの受講生にとっては「天国」だが、中には「研修ぎらい」の受講生もおり、その人には「地獄」かもしれない。今回の「公民館経営専門講座」も一カ月ということで、受講生にとっては悲喜さまざまといったところであろう。  さて突然ではあったが、心よくインタビューに応じてくださった塩津所長は、今回の公民館経営専門講座を企画する際の「全体のこころ」を、次のように話している。  第一に、現下の大きな行政課題に「勇気」をもって取り組んだということ。すなわち、昨年九月には初めて「生涯教育専修コース」を設置したが、それに続いて今回は「公民館経営専門講座」の中に一週間の「高齢者教育専修コース」を設置して高齢者教育に関して集中的に取り組み、また、そのコースだけの短期間の受講生も受け入れたのである。  第二に、テーマの核心にせまろうとしていること。たとえば「高齢者教育の意義」という研修事項については、研究者の他に兵庫県いなみの学園長を交えてシンポジウムを開いているが、そのテーマを「個人的意義と社会的意義」としてずばり問題に鋭く切り込もうとしている。また「高齢者教育の目標・内容の整理と選定の視点」という講義は、社会教育における学習の「必要課題」をまともに考えようとするものである。  現下の課題に応え、その核心にせまろうとすることは、学問として定説化されていない「発展途上の分野」に踏み込むことであり、そういう研修のカリキュラムづくりには大変な苦労をすることになる。所長も、「知恵と熱意と労力を、ずいぶんかけた」と自認している。しかし、だからこそ社会教育を真剣に考えている受講者には、その研修が面白くなる。いつも同じメニューを出してくるレストランより、日々研究を重ねメニューにも改善の跡の見られるレストランの方が、グルメにとっては魅力的なのである。  第三に研修の方法論においても、効果をあげるべく努力したということ。その一つとして、実践に役立つ「事例研究」を多く取り入れ理論と実践の融合を図っている。二つ目に受講生も研修実施の主体の一員であるという観点から、講義の中でも積極的に意見を述べてもらうようにしたり、受講者自らが調査研究する「演習」を設定したりしている。三つ目にけっこう分厚いものも含めて、受講者に計十一種類もの資料を配っている。そのテーマは、たとえば「高齢化社会における高齢者教育繧サの意義と方向縺v、「公民館事業事例集(第1集)」などである。さらには「有意義で楽しく」をモットーに、ユニークな研修がカリキュラムの中に位置付けられている。さきほど述べた「特別文化教養講座」などがそうである。  さて、このように苦労してできた研修も、受講者は八十人定員のところ、二十八人しかいない(「高齢者教育専修コース」の受講者を含めると六十四人)。各自治体が社会教育職員の増員を図れない現状では、一人一人の職員の資質の向上を必要とするはずだが、逆に職場の人員の減少傾向などにより、職員が長期間、職場から離れて研修に出ることが難しくなっているのだ。国立社会教育研修所では、いっそうのPRとともに、短期間の研修の開催など、研修形態についても再考しているとのことである。  なお、受講者の内訳は最高五十三歳、最低二十四歳、平均三十九・0歳で、社会教育の平均経験年数は六・二年である。  忘れてはいけない、学習援助の視点  この「公民館経営専門講座」で、結局は何を探ろうとしているのだろうか。所長は次のように語っている。  「一言でいえば、生涯教育時代において多様化し、高度化する住民の学習需要に対して、公民館がその学習を援助する方法を真剣に探りたいと思うのです。今まで公民館は、地域生活への便宜提供の面や、仲間づくりを進めるなどの面では貢献してきました。たしかにそれは大切なことです。しかし、だからといって多様な学習の多くをカルチャービジネスなどに任せてしまうのだとすれば、社会教育の教育たるゆえんから見ていかがなものでしょうか。かけるべきところにはきちんとお金もかけて、今日の幅広い住民の学習需要に応えられるような、ハードとソフトと指導陣のグレードアップを図るべきです。  また、他行政や民間の教育的事業と、そこでの住民の学習にも、公民館はもっと関心をはらうべきでしょう。本来、社会教育は教育の専門家を数多く擁しているものとして、生涯教育の要(かなめ)であるはずです」。  この話を聞いて、私は大変考えさせられてしまった。これは公的社会教育の本質にも関わる問題である。生涯教育の意義が高らかに叫ばれているのにもかかわらず、逆に皮肉にも公的社会教育の存在がないがしろにされている現状の中で、社会教育はその役割をいつのまにか自ら狭めすぎていたのかもしれない。「それは○○部局で、それは○○カルチャービジネスで」と割り切ってしまい、残りの比較的取り組みやすいものだけ「公的社会教育に適する」と拾ってきた傾向はないだろうか。厳しい財政的しめつけのもとで、つい無力感におそわれ、「易き」と「安き」に走りがちだったのではないだろうか。所長の話を聞いて私はこのように反省したのである。  公民館の経営目標に学習援助の視点を  「公民館経営専門講座」の中には「公民館の経営目標の望ましいあり方」という研修があり、東海大学生活科学研究所講師の西ヶ谷悟氏の講義と埼玉県日高町の事例研究が行われた。  所長は言う。「今までの公民館の経営目標は、管理作用に関する目標と教育作用に関する目標が、雑然と混じり合うなど、必ずしも十分には整理されていなかったのではないでしょうか。両者はきちんと識別すべきです。それから教育委員会の社会教育目標との差異や関連も考える必要があります。そして、これからの経営目標を考えるためには、学習の援助という視点が絶対に欠かせないと思います」。  この話に触発されて私は次のようなことを考えた。公民館で「○○しましょう」という程度の「よびかけ」は、いろいろな形で行われている。もちろんそれは、「読み終わった本は、必ずもとへ戻しましょう」といったようなものが多く、教育目標などといったものではない。また、それらの「よびかけ」の中には、現実の公民館経営においては「条件整備」の一環として、そうすることが妥当なものもあるだろう。しかし、「教育機関」ということで、そのような管理的事項まで「教育」と称するとすれば、それは「管理作用」と「教育作用」の混乱である。所長の言うように「識別」しなければならない。  次に、教育目標についてはもっと困難な問題がある。社会教育はそもそも学習者が自ら学ぼうとして学ぶものであり、公民館といえども「これをこう学ぶことが良い」と学習者に指示するものではない。とは言っても、公民館の学級・講座は少なくとも「これを学習することがより適切であり、より必要だろう」という見通しの上で行われているはずである。その「見通し」のための研究が必要であろう。  いずれにせよ、学習者の多様で高度な学習を可能にする施設設備の条件整備等をめざす「管理目標」と、所長の言う学習の援助という視点に立った「教育目標」こそ求められているといえよう。  学習の必要課題の研究が急務  公民館では学級・講座などのたくさんの事業が行われている。しかしそれは学習者の学習要求などが、どれだけ把握された上でのことなのだろうか。  「公民館経営専門講座」では「学習調査の方法」として、「学習要求の調査」と「学習実態と阻害要因の調査」に関する、流通経済大学教授の渡辺博史氏の講義と、東京都稲城市教育委員会による調査の事例研究が行われた。公民館事業の企画と展開のためには、学習調査をして、学習要求、学習実態、そして学習を阻害する要因を把握すべきだというのである。  次に、学習の要求課題とならんで、学習の必要課題が問題となる。このことについて「要求課題にすべて応じていたのでは、きりがない。よって必要課題を設定して、それに基づいて事業を組み立てるべきである」という主張がある。しかしそれに対して、所長は次のように問題を提起している。  「学習者からすれば、要求課題というのは、その人自身にとっての必要課題だからこそ要求として出てくるので、一面では尊重されなければならないと思います。しかし、要求課題の中には私的利益に関わるものもあり、また、必要なものでも要求として出揃わない場合もあります。ここに必要課題を広い視野から、また専門的立場から研究しなければならない必然性が存在すると思います。  必要課題を本格的に研究すれば、それは極めて幅広いものになるでしょう。生活の領域や学問の領域を思いうかべるだけでも、容易に御理解いただけましょう。したがって、これからの公民館の事業は、広い視野に立って、今まで以上に幅広く展開されなくてはならないと思います。  しかし、だからといって公民館で多くの必要課題を自らとりあげるということは、実際問題として困難でしょう。幸い、他行政でも民間でも事業が実施されていますから、相互の連携プレーがますます必要になってくるということでしょう。また、一方で公民館の事業についても、これからは必要度、つまりプライオリティの発想が、従来以上に強く求められると思います。たとえば、人間形成の根幹に関わるもの、生活の基盤に関わるもの、公共性の強いものといった観点から、優先度を考えるということになりましょう。  ただし、現実の問題としては、理論的な優先度にしたがって機械的に選択されるということではなく、地域の実情に応じて、人々が参加しやすいテーマから始めるという工夫も必要だと思います。イントロとしては、たとえば芸術文化やスポーツがふさわしいかもしれません。ですから、これからの公民館には、芸術文化やスポーツのためのハードやソフトや指導者も、こういう意味でまず必須なものであるといえるのではないでしょうか。  そしてもう一つ大事なことは、必要課題の研究は大いに進めてこれを「整理」するが、その「設定」はしないということです。そもそも学習者に対して『あなたには、こういう学習が必要です』と必要課題をおしつけ気味に提示すること自体、社会教育の本旨にそわないのではないでしょうか」。  現に「公民館経営専門講座」では、ずばり「必要課題整理と選択の視点」と題して、筑波大学助教授の山本恒夫氏による講義を行っている。そのテーマが、必要課題の「設定」ではなく「整理と選択の視点」となっていることに注目したい。  さて、必要課題をこのように幅広くとらえ、それに応える事業を行うとすれば、公民館職員の資質にはとても高いものが求められる。特にそれぞれの学習内容に関することについて、所長は「概論は基本となるもので欠くことはできませんが、これからはそれに加えて、主な学習内容に関するそれなりの見識が必要になるのではないでしょうか。その面での社会教育の研究は、まだあまり進んでいないので、今後つくりだしていくしかないでしょう」と、研究の必要を述べている。  また幅広い学習のためには、豊かな施設・設備が必要になる。その点については「とりあげるべき事業がはっきりすれば、必要なハードは自然にうかびあがります。そして、それを実現するために必要な設備投資をすべきです。職員の資質がいくら良くても、施設・設備が整っていなければ良いことはできません。そういう所に配置された、やる気のある職員が気の毒なくらいです」とまで言っている。  世は生涯教育時代。ところが自治体の社会教育予算はなかなか伸びない。貧困である。学習の必要課題の研究は、説得力と迫力をもってその貧困の打破を訴えるための強力な武器の一つになるのかもしれない。  高齢者教育には固有の意義がある  「公民館経営専門講座」の期間中、三月四日から三月九日までの間を「高齢者教育専修コース」として、そのコースのみの受講者も受け入れて合同研修が行われた。高齢者教育が現下の重要な課題になっているとの認識からである。それでは、この研修の高齢者教育に関するねらいは何だろうか。  第一に、所長は「まず、教育であることの認識」が必要であると言う。たとえば、福祉との協力は当然としつつも、それとの違いを明らかにする必要があるということである。 第二に、高齢者教育の意義を解明することである。しかもこのコースでは、「高齢者教育の意義」というシンポジウムを、「個人的意義と社会的意義」と副題をつけて開いている。この副題自体、問題提起的である。ちなみに、受講生に配布された資料「高齢化社会における高齢者教育繧サの意義と方向縺vにおいて、奈良女子大学教授の森幹男氏は、高齢者教育に固有の意義について次の柱立てで論を進めている。  まず、個人的意義については、「退職後の準備」「余暇活動」「老いの受容の援助」「死の受容の援助」という柱立てである。  社会的意義については「高齢者教育というのは、その社会的な側面として、老人の社会的な負担の軽減を図るという一面を持っているものである」として、「ヤングオールドを対象として」「オールドオールドを対象として」「他の世代との交流」「老人のための、老人による、老人と一緒の、老人に関する教育」という柱立てで論じている。  これ以上の詳細は省くが、この「個人的意義」と「社会的意義」にいったん分けて分析する手法は、他の対象別社会教育を考える場合にもかなり有効な手法だと思われる。  第三に、第二にも関連するが、高齢者教育を他の人々、特に成人と切り離して行う根拠を問うことである。原理的なことからくるものなのか。学習内容の違いからくるものなのか。  学習内容に関わる面では、第二で述べた「高齢者教育に固有の意義」が重要な示唆を与えてくれるだろう。所長は「方策もなしに学習のメニューを構成するのではなく、高齢者の固有の学習内容を整理すること」を提言している。たしかに、そのことなしには、適切な高齢者教育の事業は望めないであろう。  第四に、高齢者対策全体からの社会教育の位置づけを明らかにすることである。前述の資料「高齢化社会における高齢者教育繧サの意義と方向縺vにおいて、森幹男氏は福祉・保健・医療関係者、あるいは農林水産省、国土庁などの行う高齢者対策が高齢者教育の一環としてもとらえられ、お互いに重なり合っていることを指摘している。またこれを受けて所長は「生涯教育体制においては、教育行政がその専門家としてかなめに位置すべきであるのに対し、高齢者教育体制においては、教育行政は高齢者対策の一環としての役割を持つと考えるべきではないだろうか」として、高齢者対策の一方の「核」としての福祉・雇用と一体となって施策を進めることを主張している。  学習のニーズから出発する施設整備を  それでは最後に、「公民館経営専門講座」の長い研修のうちのひとこまとして、三月十三日に行われたシンポジウム、「学習社会における公民館施設整備の方向」をのぞいてみよう。  シンポジストは、全国公民館連合会事務局長の谷口正幸氏、豊橋技術科学大学助教授の渡辺昭彦氏、文部省社会教育官の高村久夫氏の三人である。シンポジウムの中で、谷口氏は公民館の併設大型化の流れの中で、いかにそれを住民の学習の多様化、高度化に対応できるものにするかということなど、渡辺氏は「時代は機能の転換を常に求めている」ということから、公民館にもオープンシステム導入が必要なことなど、高村氏は日常生活圏に設置される公民館が地域とつながりつつも、その学習は幅広いものを要するようになっていることなど、それぞれの方がわかりやすく発表された。そしてその内容は、まさにこのシンポジウムのねらいどおり、「学習社会への対応」という現下の課題に肉薄するものだった。  ここでは渡辺氏の「オープンシステム」の主張について紹介する。建築家である渡辺氏の主張は、計画決定、管理・運営、施設間ネットワークなど、公民館のあらゆる側面にオープンシステムを取り入れよとする主張である。そして、学習形態へのオープンシステムの導入については次のように述べている。  「社会教育が本当の意味で生涯教育になるためには、一斉講義だけで良しとするのではなく、個人の主体的な学習を側面から援助する役割に変わらなければいけません。公民館の教材・図書・資料を整備し、それを各人、各グループが使用する。そして公民館側からは、資料の紹介や共同学習のアドバイスをしたり、時には同程度の理解度の人達に対して講義をするなどの形で援助する。そういうシステムが必要です」。  さらに渡辺氏は、「現在の公民館建設は、国の補助金交付要項で規定された部屋の名前から出発しがちですが、そうではなく、この学習形態から出てくるニーズから出発すべきです」と言う。公民館の室構成もこのオープンシステムから、当然に決定されるというのである。そしてその室構成とは、図書・資料・講義・集会・実習・事務などの各エリアを間仕切の壁のないオープンな形で作り、その時点での使い方の必要に応じて可動間仕切で仕切ることになるという。  また、渡辺氏の公民館に対する考え方の原点には、「公民館の従来の重点が学習・研修・実習・交流であったのに対して、これからは情報・相談・調査・研究という個人学習の援助にもっと重点を置くよう機能を転換することが求められている」という発想がある。 さて、これらの渡辺氏や他のシンポジストの発言もさることながら、フロアーすなわち受講生からの意見、質問等も文字どおり続出するという状態で、とても活発であった。終了時刻が予定より二十分も延びてしまったほどである。受講生だって、まる一日の研修で疲れていたと思うのだが・・・。  思えば、このようなフロアーからの発言も、学習への主体的な参加形態の一つである。主体的だからこそ、受講生は時間延長など、ものともしなかったのであろう。公民館の学習援助は今後もっと「調査・研究」に重点を置かれるべきだと、渡辺氏は主張している。それと同じように、社会教育職員の研修にも未解決の課題に取り組んでいくという主体的な学習方法が求められていること、そしておまけにそれは誰にとってもけっこう楽しいことであることを知ったことは、現在社会教育職員研修の担当をしている私にとっては一番の収穫であった。いわゆる「勉強好き」の人だけの「天国」で、あとの人は「じっと耐えるだけ」という研修であってはならない。国立社会教育研修所の「勇気あるチャレンジ」に敬意を表したい。