人権尊重思想の普及のあり方についての実践的考察 } はじめに  われわれ人権尊重思想普及研究会は、昨年度、「人権尊重思想の啓蒙と社会教育」について研究を深めた。そこでは普及のあり方について、若干、本質に立ち入って考察したのだが、人権尊重思想普及の実践的側面については、問題提起に留まっていた。そこで本論では昨年度の研究成果を踏まえた上で、さらに個々の実践的問題に対し、前回試みた本質的視点をもとにしてアプローチしてみた。  さて、昨年度はまず啓蒙主義について歴史的に考察した。人権尊重思想の普及、たとえば同和問題に関する啓発活動において、それが広く国民に浸透したというには未だ不充分である現状を考えた時、国民の側に率直に言って「同和はもういい」という意識が先行しているのではないかと思われる。もちろん、このような意識自体、人権尊重思想の本質を充分とらえきれていないところからくるものである。しかし、「啓発活動をする側」(このような一面的表現は不正確であるが)にも国民に受け入れられない原因があるのではないか、すなわち、いわゆる「啓蒙主義」の色彩が強く、国民が主体的にみずからの問題としてアプローチする意欲をそいでしまっているのではないか。このような問題意識から、啓蒙主義の歴史を分析したのである。  啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つであり、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。当時の啓蒙主義は、 1、近代民主主義の基礎を築いていること 2、人間の自由平等を説いていること 3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること 以上の三つの特徴を持っており、これらの特徴は、今日の人権尊重思想の普及に関しても重要な関連があるh。                               しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。  このことは人権尊重思想の普及を考える上で、非常に重要な課題であると考える。しかもそれは、「非常に重要」であるとともに、「非常に微妙」なのである。というのは、「一人一人の人間がすでに主権者」であることを、「平面的既定事実」として機械的にとらえてしまうとすれば、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上不要ということになってしまうのである。実際は国民の「主権者」としての力量は、日々獲得されつつあり、また、そうでなければならない性格のものである。それゆえ、方法論としては国民の「主権者」としての側面を最大限尊重しつつ、人権尊重思想の普及の中身において、国民の「主権者」としての成長を意識的に援助していくことが、求められている。  この一見、自己撞着を起こしそうな命題を実現する方策はいかにあればよいのか。本論ではこの問題について、昨年度から一歩進めた実践的、具体的な考察をすることとした。なお、その際、次章に述べる理由からカウンセリング理論を糸口として議論を進めた。 h「啓蒙主義」については、江上波夫ほか編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一ほか編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)の該当する項を参照した。 ~ カウンセリングへの注目  啓蒙主義の時代においては、科学的な知識を普及することが直接に人々を啓蒙することにもなり、また、それにより「近代民主主義の基礎を築く」ことにも貢献できたのであるが、今日の時代においては、科学的知識の学習ばかりでは不充分である。昨年度の研究において三浦綾子「積木の箱」を教育学的視点から分析したが、そこでは三浦のいう「生きるという問題」、言い方を変えれば一人一人の「人間の生き方」に関することにどう対処するかが、教師の教育実践にとっても重要なファクターとなっているh。そこに今日の教育の難しさも認められるのである。  また、人権尊重思想そのものが、人間の生き方に深く関わるものであることは、もちろんいうまでもないことである。たとえば、歪んだ競争偏重の「生き方」は、当然、社会の差別を構成する最も基本的な要素と言えるものであり、人権尊重思想の普及のためには、どうしても克服しなければならない課題だからである。  さて、このような意味から人権尊重思想の普及を考えるに当たっては、不可避的に「人間の生き方」という複雑な問題に関わらざるを得ないのだが、そのために、まず、この問題に専攻的に関与しているカウンセリングの理論から示唆を受けることが有効であると思われる。そこでではカウンセリングについて橋口孝俊氏の描いたエッセンスiから、≠ナはカウンセリングのノウハウのなかでも、まず基本になる個人面接の基礎的技法についての国分康孝氏のコメントjに沿って、その個々の問題を人権尊重思想の普及の視点から論じてみた。 h三浦綾子「積木の箱(上・下)」(朝日新聞社) i橋口孝俊「なぜ、いまカウンセリングか」(東京都職員研修所「もう一度考えよう」昭和58年9月、59年3月) j国分康孝「カウンセリングを生かした人間関係−教師の学習法」(歴々社)  カウンセリングの本質から学ぶ S 「対策」ではなく「こころ」の問題  「相談」という意味が「対策などのため話し合うこと。(広辞苑)」だとするならば、カウンセリングを、「相談」と翻訳することは多少、語弊を生ずると言わざるを得ない。ちなみにケースワークが「社会資源の活用などによる社会的・経済的問題の解決のための援助」に重点をおいているのだとすれば、それに対してカウンセリングでは「個人の心理的・精神的問題の解決のための援助」に焦点をおくのであるh。このようにカウンセリングが「対策」ではなく「こころ」を問題としていることは、人権尊重思想の普及を考える上でもおおいに示唆に富むところである。  なぜならば、一つにはそこに「啓蒙主義」克服の第一歩がある。国民の理解を求めるためには、表面に表れた「好ましからざる事例」への「対策」に追いまわされ、上からの「啓蒙」を急ぐだけでは不充分であり、むしろ国民一人一人の「こころ」に迫るような気の長い取り組みが必要だからである。  もう一つには、同和行政自体の重点が「こころ」の問題に移行しつつあるという今日的状況がある。「地域改善対策特別措置法」があと一年で期限切れとなり、昭和四十四年以来の同和対策特別措置が大きな節目を迎えているのである。昨年秋の朝日新聞の座談会「同和行政の行方と課題」において総務庁地域改善対策室長の熊代昭彦氏は、「生活環境が解決出来つつあるとすれば、今後は同和問題についての啓発活動が非常に重要になってくると思います。被差別部落の人たちを差別する理由は、何もないんだということを、国民に十分理解していただく必要があります。」と述べているi。  未だ残されている生活環境の改善すべき点をいささかも軽視することはできないが、今後、本質的に同和問題を解決するためには、「もの」に対する「対策」だけでは足りず、どうしても「こころ」の問題に踏み込むことが必要になってくるのである。 T 人間関係をつくる  橋口氏は「いわば自然発生的な人間関係の過程から、人為的に人間関係をつくり、そこで意思疎通をはかりながら徐々に個人のイメージをつくり、それぞれが悩みを克服しようとする態度ができることを期待するところにカウンセリングの特質がある。」と述べている。前段で指摘した「こころ」の変革を期待するためには、人間関係をつくるところから始めなければならないのである。  現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。それどころか、特に若い世代の中には、ごく当たり前の人間関係さえ、とりむすべない者もでてきていると言われている。そういう状態の中で、人々がある意味で「深刻な人格危機」に直面しているとすれば、そのことに心はらうことなく相手を啓蒙しようとしても、それは悪い意味での「啓蒙主義」におちいるだけである。人格危機の進む今日において人権尊重思想の普及を確かなものにするためには、カウンセリング的手法に習い、「人間関係をつくりながら」相手の自己変革を側面から促すことから、地道に始めることが、不可欠の条件になっているのである。  そもそも、人間関係なしに他者に何らかの影響を与えようとすることは、何を意味するだろうか。それは、おざなりな「情報提供」か、あるいは、上からの権力的な「説教」であるか、どちらかなのではないだろうか。カウンセリングが人間関係づくりから始まることは、従来の人権尊重思想の普及のあり方に対して鋭く反省を促しているのである。 U 人間を「個性的存在」として捉える  カウンセリングでは「個」としての人間を重視する。橋口氏は「カウンセリングにおいては、社会的存在としての人間を第一義とはしない。個性的存在としてのそれが主題である。ある意味では、個々の人間がその個性を十分に発揮できることで、それぞれが社会的存在となりうるとの前提に立っているといえる。」としている。  この徹底した「個」の重視は、それが行政のものであれ、同和団体のものであれ、従来の人権尊重思想の普及活動に対して大いなるアンチテーゼを提起していると考える。従来のそれは、極端な例としては「一斉講義型学習」「大衆動員」という言葉に象徴されるような形態を持ち、また、結果としての単一な反応と成果を期待しすぎていた傾向があったのではないだろうか。  蛇足にはなるが、このことは人権尊重に逆行するような差別的意識を「個性」だからと言って是認したりすることでは決してない。また、人権尊重思想の普及活動のすべてにわたって、「集団」より「個」を重視すべきと主張する意図もない。その点では、カウンセリングの理論と、人権尊重思想の普及の理論とは自ずから性格を異にするものである。ただ、常に「マス」(集団)でしか人をとらえないのではなく、集団を構成する一人一人の「個」に視点を戻してみる意識的な作業が欠けていたのは否めないだろう。  さらには、人権尊重思想そのものが、そもそも前近代的な人間観を克服し、近代民主主義の基本である「個」の尊重をめざすものであることを考えると、その普及活動においてそれが尊重されねばならないことは、当然なのである。 h浜島朗ほか編「社会学小辞典」(有斐閣)の「カウンセリング」の項 i朝日新聞、昭和60年10月29日朝刊 =@カウンセリングのノウハウから学ぶ S 受容  国分氏は「(生徒の言葉が)弁解でも一応耳を傾けて聴くと、生徒にすればこの先生は私に関心をもってくれている、この先生は私の味方であると受けとってくれる。」として「構えがなくなること」(リレーション)を不可欠条件として指摘している。これが、さきほどの「人間関係をつくる」ということにもつながるカウンセリングの基礎的技法の一つ、「受容」すなわち非審判的に話を聴くことにより「ホンネ」をつかむことである。  人権尊重思想の普及活動、特に同和問題の啓発活動においては、「啓発する側」は人権尊重の意識が強く、不正義を許しがたいという気持が当然ながら強いのであるが、そのため、相手側が不用意な発言をした場合にはすぐにその非をつき、訂正を求めがちである。しかし、それは通常の人間関係における場にあっては望ましい態度であったとしても、「啓発する側」という特別な関係にあることを意識するならば、違った対応が求められるはずである。時と場合によってはカウンセリングの技法にならい、受容的に聴いてみることも有効なのではないだろうか。  この「技法」はカウンセリングのなかでも特に主要な技法であり、また、人権尊重思想の普及活動のあり方を考えるうえでも、その意味するところが大きいと思われるので、やや詳しく、同和問題の啓発活動を例にとって考えてみたい。この技法が有効に活用された場合、次のような効果を生み出すものと思われる。 1、相手に実は差別的な意識がなくその真意が違うところにあった場合、啓発する側の相手に対する無用の誤解を防ぐことができる。(これは実際の場面では少ないかもしれないが) 2、相手がしゃべっているうちに、その言語化の作業のなかで、自ら自己の差別意識に気づく可能性に期待することができる。このような「自己認識」が実際に行われ、さらにそれが「自己変革」につながるとすれば、これは啓発のあり方として、そして国民みずからの自己教育の営みを援助しようとする社会同和教育の立場から考えても、もっとも望ましい姿である。 3、相手に問題となる差別意識が存在し、しかもそれに気づかず話されていたとしても、啓発する側がそれをよく聴くことにより、相手の差別意識の深いところからの根源を理解することができる。そのことにより、「何を言えば、一番効果的か」も推定しうる。とりわけ、啓発を単なる言葉のうえでの表面的な「投げかけ」にとどめることなく、相手の「こころ」の変革を迫るものにしようとするならば、これはどうしても学ばねばならない「技法」である。 4、相手との人間関係を維持、発展させることができる。もちろん、これは相手の差別意識までも、人間関係のために許容してしまうことではない。人間関係の形成という基本的条件が整ってこそ初めて、こころに迫る「啓発」も可能になるということである。 5、国民の間に、率直に言って「同和はこわい」という残念な誤解、および消極的傾向が見受けられ、広範な国民の学習活動を阻害する要因になっている。この状況に対し、カウンセリングでいう「受容」がうまく取り入れられるならば、「(啓発する側が、国民それぞれの言うことを)とにかくは、聴いてくれる」という国民の安心感が獲得でき、広い層の国民の自然な参加と意見が得られるはずであり、それがひいては、今述べたような同和問題の啓発に当たっての閉塞状況を打破する大きな足掛かりとなりうると考えられる。 T 繰り返し  国分氏は「繰り返し」について「ぼくは君の話をこう理解したのですが、ぼくの理解の仕方にまちがいはないでしょうか」と確認の気持をこめて問い返すことであると、端的に説明している。この技法は「事実の確認」のためにも有効なのであるが、ポイントはむしろ「感情の確認」にある。  人権尊重思想の普及活動においても、この技法の活用は次のような効果を生みだすと考えられる。 1、人権尊重思想を普及しようとする側に対して、それを受ける側が「ああ、この人は私の気持をわかってくれた。」という信頼を寄せてくれるきっかけとなる。 2、相手の話をよく聴いて「枝葉末節を切り落とし、核心を把握する」という、コミュニケーションのためにはなくてはならない営みを、普及する側に必然的に促すことになり、それは結果として啓発活動が「ひとりよがり」の一方通行となって形骸化することを防ぐ「歯止め」として作用する。これまで、普及の側がどれだけ真剣になって国民一人一人の意見を聴いてきたか、反省が促されるはずである。 3、相手は繰り返しをしてもらうことによって、自分の意識に自ら気づくことができる。そのなかで、当初は本人に差別意識などがあったとしても、それに自ら気づくことは、「自己変革」を促す強いモチベーションになるのである。 U 明確化  国分氏は「明確化」という技法について、「まだことばには出していないが、うすうす本人も気づいていることを先手を打ってことばにのぼらすこと」であり、「これをしないと会話が深まらないのである。」と説明している。もちろん、カウンセリングで言う「明確化」とは、「うすうす本人も気づいている」ということが必須の条件であり、その点では「説教」や悪しき「啓蒙主義」とはまったく異なるものである。  さて、人権尊重思想の普及活動において、この技法の活用は次のような効果を生みだすと考えられる。 1、本人であるがゆえにむしろ気づきにくい自己の差別意識などに、はっきりと気づくことができる。この面では、「受容」や「繰り返し」より、さらに積極的な作用をもたらすものである。ただし、それだけにカウンセリングの原則を踏みはずすことのないよう、留意する必要がある。考えられる「失敗」の例としては、相手の気持を的確にとらえられないまま誤解に基づく「明確化」をして相手を失望させてしまうことなどもありうる。 2、「同和はこわい」という誤解を持っている人々の場合、かえって啓発活動を行う側に対して「本音」を隠して、たてまえでとりつくろう傾向が見受けられる。あるいは自分の差別意識などに「気づきたくないから、気づかない(ふりをする)」こともあろう。このような場合には、カウンセリングの原則を踏まえたうえでのやや積極的な「明確化」も、時には有効であろう。 3、2とは逆に相手が差別されている立場の人の場合、たとえ同和問題の啓発をしようとする者に対してでも、それが行政側であった場合など、なかなか「本音」を言いづらいということが考えられる。その場合、「遠まわし」な気持の発露を的確にとらえて、「明確化」することは、啓発しようとする側の責務であろう。国分氏の挙げる次の事例は、人権尊重思想の普及活動にとって、大変示唆的である。  「『騒いだのはぼくじゃありません』と生徒が抗議してきたら、『ぬれぎぬを着せられたというわけだな』と応ずる。生徒は自分の口から『先生はぼくにぬれぎぬを着せた!』とは言えないので前記の表現をとったのである。」 V 支持  相手の言動を是認することである。他者から「支持」されることは、その人にとって生への意欲の源泉になる。  人権尊重思想の立場から見て、一人一人の人間の生き方はどうとらえることができるのだろうか。もし、「いい人」「悪い人」に二分できるのなら、ある意味ではこれほど単純なことはない。「悪い人」の「悪い所」をなんとか治すようにすることしか、やるべき事は残っていないからである。  しかし、実際には一人一人が、ある時には「差別する側」になり、ある時には「差別される側」になる。ある時には「差別をする気持」「差別を許す気持」になり、ある時には「差別を憎む気持」「差別を許さない気持」になる。だとすれば、人権尊重思想を普及する側には、相手に対して先入観を持つことなく、評価できるところに対しては徹底的に「支持」し、それを励ます営みが求められているのである。  それに加えて複雑なことには、現実にはそれぞれの人の一つ一つの言動自体が、「差別をする気持」「差別を許す気持」と「差別を憎む気持」「差別を許さない気持」の双方の弁証法的な発露なのである。普及の側は、深い洞察なしに「評価できない」と片付けてしまうのではなく、注意深く後者の崩芽の可能性を育まねばならない。これはまさに、相手の人権を尊重した普及のあり方でもある。  さらに、国分氏の挙げている次の事例は、人権尊重思想の普及活動の観点からも注目されなければならない。「教師は概して批判めいたことをいう。一言居士といってもよい。たとえば生徒がクラス委員に立候補した。ある教師が『クラス委員は何でもできなけりゃいかんのだぞ。』と。勉強ができないくせにクラス委員でもあるまいという言外の含みがあった。生徒は立候補を辞退して落ち込んでしまった」。支持の言葉が出てこないこの教師に対して、国分氏は「精神の貧困」と断じているのである。たしかに、カウンセリングで言う「支持」の精神と逆行する人権侵害ともいえるこのような事例は極端ではあるが、ありえないことではない。  ただし「支持」とは相手の何らかの側面を励まし「強化」することであるから、何であろうと支持しさえすればよいということではない。人権尊重思想に反するような側面については、普及する側が明確に識別しなければならない。国分氏は「人間はどうあらねばならないかという自分なりの人生哲学が定まっていないと、勇気を出して支持できない。」としている。普及する側の鋭い人権意識が求められているといえよう。 W 質問  「質問」の意味を「相手が自分の感情を整理して出しやすいように導く」ことと、国分氏は説明している。「君は勉強する気があるのか」というように「はい」「いいえ」で答えさせるのではなく、「勉強するということについて君自身はどんな感じをもっているの」というように、自分のことばで説明して自ら問題がつかめるように導くべきであると言うのである。  われわれは性急に人権尊重思想の普及を急ぐあまり、「あるべき姿」を前提に、相手との対話においても「情報をとる」あるいは「告白させる」ことを第一義としていなかったか。それに対してカウンセリングの一技法である「質問」は、「人間が自分の力で自己を啓発する営みに待つ」という姿勢だと思う。この姿勢に学ぶことの意義は、非常に大きいといえるだろう。                                         a@カウンセリングだけでなく  われわれは、ここまでカウンセリングの本質と技法から、人権尊重思想の普及活動にとって教訓的なさまざまなことを学んできた。しかし、そのことはカウンセリングが人権尊重思想の普及活動にとって全能(オールマイティー)であることを意味するものではないことは、当然である。  カウンセリングはカウンセリーとカウンセラーの、あくまでも個人的な、そして対等な人間関係である。思えば、従来の人権尊重思想の普及活動がつい忘れがちな人間のこころに迫るカウンセリングの理論と技法は、その原則から発していた。  しかし、実際の普及活動は必ずしもカウンセリングのような人間関係のもとで展開されるわけではない。それより複数の人間やその集団、あるいは不特定多数を相手として、しかも普及する側は明らかに「啓発者」として位置することが多く、実はこのレポートにおける今までの論議も、むしろそれを前提に、それでもなおかつカウンセリングから何を学べるかを論じてきたのである。  そこで普及活動の実践のなかで、カウンセリングの活用だけでは事足りない部分について列挙し、補足しておきたい。 S 情報提供  カウンセリングが相手のこころの中での人権尊重思想の形成を側面から援助するものであるとすれば、情報提供は相手の自発的選択に待ちながらも、人権尊重思想の形成のために必要な基礎としての情報を主体的に受け止めてもらおうとするものである。  その時に大切なことは、おしつけにならないことであろう。普及活動においては、わかってもらおうとすることを、つい急ぎがちである。しかし、それでは相手は「おしつけがましいな」と感じてしまうことにもなる。特に同和問題の啓発活動などに対して、このような感覚を持っている国民は多いのではないだろうか。  この誤解、先入観を克服するための解答の一つは、「情報提供の姿勢」であろう。人権に関するさまざまな情報を提供し、そこから国民自身が何かを学びとり主体的に判断をするのを待つという姿勢である。  ここで、昭和60年12月に発足したばかりの「大阪人権歴史資料館」に注目したい。設立の目的は「大阪府下の同和問題をはじめとする人権問題に関する歴史的調査研究を行うとともに、関係資料、文化財を収集、保存し、併せてこれらを一般に公開することにより、人権思想の普及と啓発に資する」ということであるh。この資料館においては、太鼓とまつり、信仰、芸能との関係、「水俣」写真展、大阪大空襲、アンネ・フランクの資料など、巾広い視点で資料を構成している。この姿勢は、今述べた「情報提供の姿勢」につながるものである。  さらにこの姿勢を徹底するならば、情報提供そのものへの国民の主体的な関わりを重視することになるはずである。その点で、資料館の展示の特徴の一つとして「伝達型から参加型の博物館を目指す。一定の知識を一方的に伝えるだけでなく、来館者が自ら問題意識を持って参加できるようにする。」としていることは大変興味深い。その実現が期待されるところである。 T 交流の援助  カウンセリングがカウンセラーとカウンセリーの個人的人間関係だとすれば、ここでいう「交流」は国民相互の集団も含むダイナミックな人間関係である。  前出の朝日新聞の座談会「同和行政の行方と課題」において、地域改善対策協議会会長の磯村英一氏は「いまは国の方針を決める協議会にも(運動団体が)入らないで、それで別々なことをいっているのでは、どうにもならない。国民の世論を結集しなければ、いくら法律をつくっても、行政に何とかしろといっても、同和問題の解決は無理ですね。」と言っている。氏の言を借りるまでもなく、同和問題を含む人権尊重思想の普及にとって国民の合意はもっとも大切な要素である。  しかし、人権尊重思想の普及活動におけるいわば「草の根」的視点から言えば、国民の合意形成よりも前に、それを基礎から形づくる人と人との間のあたりまえの関係さえ、危機に面しているといえないだろうか。たとえば汐見稔幸氏は授業中の生徒間のおしゃべりについて次のように分析しているi。「彼らのおしゃべりが、深刻な方向に向かわず、必ずある笑い(めいたもの)をさそい出すような方向を向こうとするのは、自分たちの意識が、深刻なテーマを考えることに向くことへの無意識の防衛機制が働くためだと考えられる」。そしてこの「おしゃべりシンドローム」は、「言葉を発し合わないことの方に精神的安定を見出す」ような社会的関係の「裏返し」の反映だというのである。  人権尊重思想の普及が「草の根」的に浸透するためには、国民の間にいきいきとした相互交流が必要なのであるが、そのための契機となり、励ましとなるような普及活動のあり方が求められているのである。さらには「人間関係の非直接性=媒介性」(汐見氏)の強まりは、その人が本来享受すべき人間の基本的な喜びとしての人間の交流、すなわち人権にほかならないのだが、これを阻害するものであり、また、このような状況下においては他者に対する緊張と他者からの逃避は、他者の人権に対しても同様に無関心たらしめるという二重の意味での人権侵害の誘因であることを考えるならば、交流の援助は人権尊重思想の普及につながるのはもちろんのこと、人権尊重の社会を形成する直接的な営みともいえるのである。 U 「社会教育」としての営み  これまで述べてきたことは、そのまま社会教育の営みでもある。そして既述の「相談」(カウンセリング)、「情報提供」、「交流援助」などを統括する概念として、社会教育における自己教育の原則を指摘することができる。それは、社会教育法第3条「(国及び地方公共団体は)すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。」という条文に表されている。  この本質的原則に則り、「相談」「情報提供」「交流援助」などを有機的に組み合わせつつ、さらにその上で生活課題・地域課題を学習し共有する国民の営みを援助することが求められているが、この社会教育の独自の役割については今後の課題として残されていることを付記して、この論の終わりとする。 h大阪人権歴史資料館「オープンした『リバティ・おおさか』」(解放出版社「部落解放」1986年1月) i汐見稔幸「意味の充満した沈黙をこそ」(国土社「教育」1985年9月)                                                    人権尊重思想の啓蒙と社会教育(要旨)           } 啓蒙主義の歴史的意義  啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つである。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。このように、当時の啓蒙主義は、 1、近代民主主義の基礎を築いていること 2、人間の自由平等を説いていること 3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること 以上の三つの特徴を持っている。  しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。 ~ 教育における「啓蒙」の問題  現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。そういう状態の上で、教育の専門家が相手を啓蒙しようとしても、相手がもっと深刻な人格危機に直面しているとすれば、カウンセリング的な対応なしには、その「啓蒙」は「押しつけ」にしかならないのである。  従来の啓蒙は、あるべき理想の姿をさし示すという性格の強いものであり、その意味では、カウンセリング、特に非指示的カウンセリングとは、まさに正反対のものであったが、人格危機の進む今日においては、カウンセリング的手法で相手の自立を側面から促すことは、不可欠の条件になっている。  その際、教育の専門家がカウンセリングから学ぶべき点は、単にその手法だけでない。最終的には相手の自らの問題解決力を信頼し、それを待つ姿勢をカウンセリングは持っているが、この姿勢こそ、啓蒙をしようとする者がしっかりとわきまえねばならぬ点であると言えよう。さらに、対象を常にマス(集団)としてだけ捉えるのではなく、「個」に注目し、それを重視するというカウンセリングの姿勢からも学ぶべき点は多い。  社会教育における「啓蒙」の問題  いわゆるカルチャーセンターの盛況等による「社会教育の拡散」と呼ばれる今日の状況において、公的社会教育が文字通り「公」として住民による「地域での問題解決」を援助する役割は非常に重要である。ここに当時の「公民館構想」が今日、あらためて注目されつつある所以がある。                                          人権尊重思想の普及のあり方についての実践的考察(レジメ) 昭和61年3月18日} はじめに  方法論としては国民の「主権者」としての側面を最大限尊重しつつ、人権尊重思想の普及の中身において、国民の「主権者」としての成長を意識的に援助していく。 ~ カウンセリングへの注目  人権尊重思想そのものが、人間の生き方に深く関わるものである。  カウンセリングの本質から学ぶ S 「対策」ではなく「こころ」の問題 T 人間関係をつくる  そもそも、人間関係なしに他者に何らかの影響を与えようとすることは、おざなりな「情報提供」か、あるいは、上からの権力的な「説教」になりがちである。 U 人間を「個性的存在」として捉える  カウンセリングの理論と、人権尊重思想の普及の理論とは自ずから性格を異にするものである。ただ、社会教育における人権尊重思想の普及活動においては、集団を構成する一人一人の「個」に視点を戻してみる意識的な作業が欠けていたのは否めないだろう。 =@カウンセリングのノウハウから学ぶ S 受容   T 繰り返し艨@                                U 明確化 諞紙面の都合上、レジメにおける文書での説明は省略。口頭で発表する。V 支持  艨@                                W 質問   a@カウンセリングだけでなく S 情報提供  カウンセリングが相手のこころの中での人権尊重思想の形成を側面から援助するものであるとすれば、情報提供は相手の自発的選択に待ちながらも、人権尊重思想の形成のために必要な基礎としての情報を主体的に受け止めてもらおうとするものである。 T 交流の援助  交流の援助は人権尊重思想の普及につながるのはもちろんのこと、人権尊重の社会を形成する直接的な営みともいえる。 U 「社会教育」としての営み  既述の「相談」(カウンセリング)、「情報提供」、「交流援助」などを統括する概念としての社会教育における自己教育の原則。                                                    人権尊重思想の啓蒙と社会教育(要旨)           } 啓蒙主義の歴史的意義  啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つである。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。  このように、当時の啓蒙主義は、 1、近代民主主義の基礎を築いていること 2、人間の自由平等を説いていること 3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること 以上の三つの特徴を持っており、これらの特徴は、今日の人権尊重思想の普及に関しても重要な関連があると、認識すべきである。  しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。 ~ 教育における「啓蒙」の問題  啓蒙主義の時代においては、科学的な知識の普及は、直接に人々の啓蒙に貢献したのであるが、今日の時代においては、教科に関する学習ばかりでは不充分であり、むしろ三浦のいう「生きるという問題」が啓蒙にとっても重要な要素となってきている。言い方を変えれば、今日、「啓蒙」とは主に「人間の生き方」に関することなのである。そこに今日の「啓蒙」の難しさがあり、それは本論においても大いに問題とするところである。  今日の学校教育においても、これと同じような「教師と生徒の断絶」は、いたる所で見いだすことができる。たとえ教師が、「人間の生き方に関する啓蒙」に熱心であっても、それが肝心の生徒に伝わらないのである。「啓蒙」というのは、えてしてこのような「独り相撲」が多いのではないのだろうか。  現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。そういう状態の上で、教育の専門家が相手を啓蒙しようとしても、相手がもっと深刻な人格危機に直面しているとすれば、カウンセリング的な対応なしには、その「啓蒙」は「押しつけ」にしかならないのである。  従来の啓蒙は、あるべき理想の姿をさし示すという性格の強いものであり、その意味では、カウンセリング、特に非指示的カウンセリングとは、まさに正反対のものであったが、人格危機の進む今日においては、カウンセリング的手法で相手の自立を側面から促すことは、不可欠の条件になっている。  その際、教育の専門家がカウンセリングから学ぶべき点は、単にその手法だけでない。最終的には相手の自らの問題解決力を信頼し、それを待つ姿勢をカウンセリングは持っているが、この姿勢こそ、啓蒙をしようとする者がしっかりとわきまえねばならぬ点であると言えよう。さらに、対象を常にマス(集団)としてだけ捉えるのではなく、「個」に注目し、それを重視するというカウンセリングの姿勢からも学ぶべき点は多い。  社会教育における「啓蒙」の問題  しかし当時の人々が、まだ民主主義や地方自治について精通していなかったことを考えると、むしろ「公民館構想」に基づく「啓蒙活動」が正当な政治的理想の実現のために貢献した側面こそ評価すべきであると考える。  そしていわゆるカルチャーセンターの盛況等による「社会教育の拡散」と呼ばれる今日の状況において、公的社会教育が文字通り「公」として住民による「地域での問題解決」を援助する役割は非常に重要である。ここに当時の「公民館構想」が今日、あらためて注目されつつある所以がある。  ここでは「公民館構想」以降の流れを逐一追う余裕はないが、「公民教育から『市民教育』への転換」として藤岡貞彦が批判的に指摘している、50年9月の「第2次アメリカ使節団報告」については、藤岡の指摘どおり、「反共市民教育」の誹りを免れないものである。「報告」では、「極東において共産主義に対抗する最大の武器の一つは、日本の啓発された選挙民である。」とされている。しかしこれが、教育に対する露骨なイデオロギー的干渉であるからこそ、これ以前の「公民館構想」等の、いわば素朴な民主主義志向に基づいた「啓蒙」とは、決然と区別されるべきである。 =@社会教育における人権尊重思想の普及のあり方について(試論)  しかし、今ここに述べた通り、集団討議(話し合い学習)や視聴覚(視聴覚メディアの活用)の手法は、「自己変革」即ち意識変革を促すという点で有効なのであるが、その力が強力であるがゆえに、社会教育ではそれらの手法の導入にあたっては、常にある意味でストイックに取り組むことが必要と考える。なぜなら、もしその手法が社会教育行政の側できままに使われるとしたら、場合によっては、「自己変革」の内実が乏しいものになり、かえって今までその人の持っていた良さが失われるという恐るべき結果だけが残るということもありうるからである。 S 情報提供の姿勢 T 「個」の重視 U 科学性 V 市民の検証 W 課題の共有