社会教育の計画とプログラム  п@各種事業計画立案の視点と展開例 7 学習情報提供事業の企画と展開     〜人間が学習情報を求めている〜 〔この事業の基本的問題〕  生涯教育の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することは大変難しくなっている。それゆえ、豊富な学習機会の中から、市民が自己の必要とするものを的確かつ速やかに選び出すこともできなくなっている。学習施設や人材など、生涯学習に関わる他の情報についても同じことが言える。  こんなことでは、せっかくの「外側」の「学習社会」の実現も、一人一人の人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのである。  しかもここで扱う情報は市民一人一人の内面に関わり、影響を与えるものであるから、その情報提供事業は特別に、「市民主体」、「公正」、「公平」などの公共性に裏打ちされていなければならない。  公的に学習情報を提供する意義は、以上のようにまとめられるだろう。しかし、さらにこの事業の実施に当たっては、次に述べる三つの基本的疑問について考えておく必要があると考える。(図1参照) 1 情報過多に「輪を掛ける」ことにならないか  社会教育行政が学習情報提供事業を開始しようとする時、あるいは次のような反論が出るかもしれない。「この情報過多の世の中でまた新たに情報提供をするなんて、今の情報過多に輪を掛けるようなものではないか。社会教育のめざすことは単なる情報提供などではなく、むしろ情報過多の状況に抗して人々が人間らしい生き方を見出せるよう、その内面的な成長を援助することではなかったか」。たしかに、もっともな話ではある。  しかし実はこの反論にいう「人々の成長の援助」も、その実体はほとんどが広い意味で言えば情報提供なのではないか。たとえば「学級・講座」において参加者の判断まで強制することができるはずがない。判断は参加者にまかされている。実際には講師は何らかの「情報提供」をしていることが多い。このように、たとえ情報過多の問題を含めて、今日の社会における人間の危機に対して何とかしようとする場合であっても、やはり最初は何らかの情報を発することから始めるはずである。  現代社会の病理現象を考えると、つい「消極的な働きかけ」としての情報提供より、「教育的意図の直接的実現」を性急に求めがちになる。しかしそれでは、市民の自己教育が社会教育の本質であるという原則を行政自らが踏み外してしまうことにつながってしまうのである。  むしろ、学習情報提供事業の実際の姿が情報過多のデメリットを克服するものになるかどうかにこそ目を向けるべきである。  情報過多のデメリットとしては次のようなことが挙げられる。余計な情報が多すぎて、自分の求める情報がどこにあるのかわからない。大切に吟味検討すべき情報までないがしろにされがちになる。他からの情報に頼らないと生きていけない「情報への依存」さらには「情報への強迫観念」に縛られる。情報に追いまわされ、じっくりと人間関係をつくりだすことができない・・・。学習情報の提供においても、このような結果にしかならないのであれば、むしろやらない方がよいということになる。  これに対し、学習情報提供事業のあるべき姿は、ある面では情報過多でわかりにくくなった学習情報を、わかりやすく整理して提供することにより、市民の主体的で的確な判断を支援することである。さらに、他者と人間的交流のできる主体の形成のための目配りまでもが求められるのである。 2 市民の情報能力の獲得を阻害しないか  人は学習するために、さまざまな学習機会を自ら見いだし、いろいろな形のネットワークを創り出すための良い仲間を自ら見いだす。その主体的な努力は、現代社会に生きうる情報能力を鍛えてくれる。またそれ自体、学習の重要なプロセスの一部でもある。  さらにたとえば人間の認識は、純粋な頭の中での思索活動だけで発達するのではなく、情報を収集し整理するという「外在的作業」によっても、大いに育まれるという側面をもっている。  このように考えた場合、他者が安易に学習情報を提供してしまうことには批判があって当然である。あまり精選され整ったレディ−メイドの学習情報を一方的に提供してしまうことは、相手の自己成長の機会を奪うことにさえなるのだ。そこで社会教育行政が行なう学習情報提供事業においては、たとえ市民が「完成品」を望んだとしても、はば広い関連情報やナマの未完成情報を提供することなどにより、市民の情報選択のプロセスを尊重しなければならないだろう。  さらには、学習情報提供事業は情報の収集・整理の「代行屋」ではなく、市民との「共同作業者」にならなければならない。行政の一方的サービスに終わらせることなく、市民も行政も情報能力を最大限に活用しあうことにより、お互いがさらに次元の高い情報能力の獲得へと向かうことができるのである。  また、メディアの発達は現在の人間に大きな影響を及ぼしているが、現実のマスコミへの批判能力も含めたメディアリテラシーの習得なくしては、生涯学習情報の適切な摂取ができないだけでなく、主体的判断のまったくできないことにもなりかねない。学習情報提供事業においてもメディアリテラシーの習得援助が重要な視点となる。 3 情報提供より学習相談を中心的機能とすべきではないか  成人教育の分野においても、「学習相談」という言葉を聞くようになった。人格の危機をもたらしている現代社会において、カウンセリングに期待が集まっていることと通じるものであろう。しかし本来、カウンセリングでいう「相談」とは個人の心理的・精神的問題の解決のための援助である。このような「こころの問題」に触れることがなければ、それは厳密には「相談」ではなく、「情報提供」でしかない。  だとすれば、みずからの学習のあり方や進め方について、市民が行政にカウンセリングでいうような相談をもちかけるというケースは本当にあるだろうか。他のことなら想像に難くない。しかし、こと成人の学習については考えにくいのである。たとえ本人が「相談に来ました。」と言っても、その「相談」の内容は実際には学習情報を求めているだけなのではないか。  率直に言って、自分が学習に関する「相談員」になろうとしている人はいても、学習情報の提供ではない「学習相談」をもちかけたいと考えている人は少ないのではないか。万一、もしそのような学習相談をしたい人が本当に多いとすれば、市民の主体性の最大限の尊重という生涯学習の原則に照らして逆に憂うべきではないか。  むしろ通常は、市民は実際には学習情報の提供を求めて来て、それに行政が応ずる過程の中で初めて、カウンセリングでいう本来の相談の機能も含まれると考えるべきであろう。ただし、このように「付随的に」発生した学習相談であっても、その意義と難しさは、本来の「相談」に何らひけをとらない。それゆえ、この場合にも行政側は学習相談の本質をきちんと踏まえていなければならないのは当然である。  たとえばそこで一番かんじんなことは、自己の真に欲している学習のあり方と進め方について、上から教え諭すのではなく相談者が自ら気づくよう仕向けることである。そしてそのためにはカウンセリングでいう「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法が大きな効果を発揮する。  ともかく、学習相談については独立したものとしてではなく学習情報提供事業の一環としてとらえつつ、しかもその「相談」というものの独自の意義と役割を重視して位置づけることが適切であると思われる。  なお念のためつけ加えておけば、以上のことは学習相談に関する本質的認識のために述べたのであって、現実の運営において「生涯学習相談」などと銘打って、実際にはどこで何の講座が開かれているか、どんなグループが会員を募集しているかなどの学習情報の提供を主に展開するということは、当然あってもよい。「相談」という言葉にどういう意味をもたせるかによって、表現の仕方は変わってよいのである。「相談」という言葉は、「個人個人のケースへのていねいな対応」など、なかなか魅力的な意味を持っている。  また、社会教育においては学習相談の他に、家庭教育相談のように「情報」よりむしろ「相談」が大切と思われるものもある。そこでは子どもや親の精神的葛藤や自立の阻害など「こころの問題」の解決を、カウンセラーがなるべく「非指示的」にどのように援助するかが問われる。しかし、皮肉にもそこでの現実の「相談」には、このような本来の「相談」の機能が不足しているように思えてならない。経験主義的な情報提供を安易に行なってしまうことにより、親子の両者のダイナミックな主体形成をむしろ阻害してはいないだろうか。  いずれにせよ、これらの相談については学習援助よりも精神的自立の援助などの他の要素が強いのであるから、学習情報提供事業のあり方とは別に、心理学的にあるいはそれぞれの課題別・内容別に究明される必要がある。 〔展開の構想にあたっての留意点〕  本論で描く学習情報提供事業の構想においては、既に述べたことの他に次のことを大切にしたつもりである。 1 側面的援助という原則の遵守とともに積極性の必要  学習情報提供事業とは市民自身がそこで得た情報群から何かを学びとったり、自主的に判断、選択をしたりするためのものである。すなわち市民の主体的学習のための側面的援助なのであり、それは社会教育行政の原則でもある。  その実現のためには、情報提供の側でまずプラスマイナスの価値判断をした後の情報を市民に押しつけるものであってはならない。相手の求めに対して可能な範囲であらゆる情報を提供すべきである。  しかし、現実には、市民の価値観に踏み込まないよう神経質になるがあまり、ややもすると禁欲的、消極的になりすぎて「無難」な何らかの形で既に「権威づけられた」学習情報だけでよしとしてしまい、たとえば「草の根」的な活動などの収集や取り扱いが難しい情報はその必要があっても避けてしまう傾向がある。このような姿勢では良い情報は集まらないだろう。  側面的援助という原則を守りつつも、新しい時代の新しい市民の学習に対応できるような学習情報を収集・提供するためには「果敢」な積極性が必要なのである。 2 新鮮な情報の収集  学習情報提供事業では、たとえば学習機会などが過去どうなっていたかという情報はほとんど必要ない。学習情報に関する歴史を研究するためのものではないのである。それよりも今どうなっているか、あるいは近日中に何があるかが必要である。それゆえ、吟味されつくした正確な情報よりも、動態的、今日的な「新鮮な情報」が求められる。  これは事業を行なう者にとっては、大変な苦労を要する。懸命になって集めた情報が次から次へと無用のものと化していき、休むところがないのである。むくわれることが少ないばかりか、他から「無駄が多い」と批判さえ受けるかもしれない。しかし、急激に変化する社会における生涯学習の必要、それに対応する学習機会の豊富さと統一的情報の不足などを思うと、この収集・提供を怠るわけにはいかない。そもそもこの情報化社会においても、個人のレベルでは新鮮な情報をリアルタイムに把握することが容易ではないからこそ、公的社会教育による学習情報の提供が切実に必要とされているのである。  なお、この「学習情報の新鮮さ」とともに生ずる「学習情報の範囲の流動性」にも注意したい。生涯学習は社会の激変と学習する人々の主体的成長に伴って、急に「時の課題」となったり、逆にみんなの学習の関心から消え去ったりするのである。ゆえに取り扱う情報の範囲を固定的にとらえたり、アカデミックな視点から固定的なシソーラスをまず確立しようとすることは、賢明ではない。ふわふわした状態のまま、一歩を踏み出してしまった方がよいと思う。そこから出発して、枠組みを随時、時代にあわせて変更すればよいのである。 3 実際に市民が求める情報の提供  提供する側に情報がたくさんあるのに越したことはないが、市民が求める肝心な情報がなければ無意味である。当たり前のことのようであるが、その肝心な情報とは前述の「新鮮な情報」であり、ナマの人間らしい情報なのであり、それゆえ機械的に集められるものではないことを考えると、ことはそれほど簡単ではない。  さらには、学習情報源側と、その受け手の側のニーズとの間に大きなギャップがある。たとえば、人材バンクにおいて「青年の生き方について講演したい」という高齢者はいても、それを聞きたいという青年はほとんどいないだろうということが予想される。受け手の側のニーズにこたえる情報を得るためには、情報源側からの情報だけに期待するのではなく、学習情報提供事業を行なう社会教育行政が自ら地域の諸活動とコンタクトをとったり取材したりして、埋もれている魅力的な情報を新たに「発掘」しなければならない。  次に、市民がいくらその情報を欲しても、それが他の人のプライバシーに触れるような情報であれば安易に提供するわけにはいかない。しかし皮肉なことに情報公開制度などにおいても、実際にはこのような情報は需要が多い。もちろんその目的が営利上のものもあるだろう。だがもう一方では、「グループに入りたいので、活動内容や代表者の連絡先を知りたい」ということがある。学習情報の中では「人」の情報が大きな位置を占めており、プライバシーに接近せざるをえないのである。その時には、行政は、「ある個人に関する情報は、その個人だけがコントロールすることができる。」という原則を守らなければならない。具体的には、個人の情報の収集・提供にあたっては、まずその人の了解を得ることである。 4 「学習情報」の範囲を偏狭にとらえない  生涯教育の時代の今日、市民は狭い意味での「教養」を身につけるためばかりでなく、激変する社会の中にあって、むしろ広く生活の諸側面のうちの大部分で何らかの学習を必要としており、また実際にも行っている。そこで関連行政が心すべきことは、従来の行政セクショナリズムを打破して、市民の全生活に関わる諸課題と行政の諸課題において生涯教育の観点を貫き通して市民の学習にサービスすることである。だから学習情報提供事業を社会教育行政が行なう場合でも、それが取り扱う情報は社会教育行政関係のものばかりではない。むしろ他行政によるもの、民間のものなど、ありとあらゆるさまざまな学習情報を、学習援助の専門家として行政的「思惑」にこだわらずに提供すべきである。そうでなければ、社会教育行政がこの事業を実施する意味はほとんどなくなってしまう。  さらに直接、学習・教育活動ではなくても、たとえばコミュニティー活動が市民の自己形成を促す教育的機能を持っていることを考えると、それらの地域活動情報もないがしろにはできない。学習情報の範囲を偏狭にとらえることをやめて視野を広げた途端、いきいきとした生涯学習情報がたくさんころがっていることに気づくはずである。 5 地域情報・行政情報の重視  市民が地域や自治の本当の主人公としての力量を身につけることは、現代の民主主義社会において非常に大きな学習課題ともいえる。社会教育行政がそのための情報を提供することは、公的社会教育の役割として特に重視されなければならない。  そこで学習情報提供事業において地域情報や行政情報については、たとえそれが学習機会や学習団体などに関する「学習情報」ではなくても、やや広く市民の地域学習・自治学習に役立つ情報をできるだけ収集・整理して、地域の自治のセンターの一つとしての役割も果たすことも考えたいのである。 6 科学技術の急速な発達をうまく活用する  即時的な情報の収集・提供のために、今後も急速に発達するであろう通信技術は最大限に活用したい。特に双方向メディアの発達は、情報化社会における情報の受け手の没主体性を克服するための手段として、学習情報提供事業においても大いに期待できる。  現在「届ける社会教育」の重要性が叫ばれているが、それにしては市内なら3分間10円でできるパソコン通信の在宅利用などは、ほとんど試みられていない。学習情報提供事業においては、これらの可能性を試みたいものである。  その他、現在はコンパクトディスクやビデオディスクなどのオーディオビジュアル(AV)にコンピューターのCを加えて、これらを有機的につなぎ合わせるAVC=オーディオビジュアルコンピューターの時代とも言われているが、それに対しても充分対応できていないようである。成人用のAVC教材の開発と活用ができたら楽しいだろう。  なお、ニューメディアやコンピューターの発展速度はわれわれしろうとの想像を絶するものがある。学習情報提供事業を始める時のこれら科学技術の発達段階に合わせて、しかも生半可な知識を頼りに、固定的で融通のきかないシステムにしてしまうのではなく、技術の発達を随時取り入れられるような柔軟なシステムにしたい。 7 学習情報ニーズを育てるための教育的機能の発揮  生涯学習時代の今日、学習する市民はますます自己の学習能力を備え、その中の社会教育行政に期待する人々は、質・量ともに充実した学習情報の提供を求めてきている。しかしこれに応えているだけでは、このような「学習できる市民」とまだそれだけの力量を獲得していない市民との間の格差をますます広げてしまうという問題が生ずる。「学習主体形成の援助」という視点のもとに、教育的機能により情報提供機能を補完することも必要なのである。  そのための具体的方策としては、生涯学習や学習情報への関心につながるような親しみやすく一人でも参加できるイベントの開催などが考えられる。 8 市民自身の手による調査・研究との結合  市民のあいだに「知的生産」、「知的生活」、「ライフワーク」などの志向が出てきている。それは地域から、そして当然、社会教育行政からも離れていった「企業戦士」にまで広がっている。いや、むしろ特に「企業戦士」の中に、これらの新しい自己実現の生き方を求める気風が強まっていることにこそ注目すべきであろう。物的な生産性向上ばかりを目指してきた従来の人間的文化不在のやり方が、今日のソフト化社会の中で反省されている。そしてその上で、知的生産を含む生涯学習が行われており、すでにその「アマチュアリズム」の成果は相当なものになっているのである。  この「企業戦士」を含めた「市民アマチュアリズム」の志向は、従来の社会教育行政とは残念ながらあまり縁が無かった。しかし今、社会教育行政はその援助を急がねばならない。学習情報提供事業は情報を大学その他の研究機関に提供することを第一義とするものではなく、このようなアマチュア市民のある時には孤独になりがちな営みを、情報でつなぎ励ますことこそ、主な目的なのである。これは社会教育行政の現代的役割でもある。  そこで以上の趣旨から、一つには市民の自発的な調査・研究への情報提供による援助、二つにはそれら調査・研究成果の蓄積と交流の援助、三つには社会教育行政やその他の一般行政による調査・研究においてもこれらの「アマチュアリズム」の力を活用することを考えたい。 9 ともに育つ「しかけ」の配置  情報化が進むとともに情報を管理・提供する側はますます巨大な情報の集中を強めていく。また一方、ややもすると市民はますます情報の一方的な受け手となってしまう。このような事態に無頓着に学習情報提供事業が行われるのならば、その事業は結果としては市民の情報に関する主体性の喪失を進めるものに変質しかねない。  すでに述べたように、本来、情報を収集・整理・提供する作業というものは、人間の認識を育てる契機としての機能を内包しているものである。学習情報提供事業においては、学習情報の収集と提供という作業の持つこれらの「人間形成の機能」を尊重し、充分発揮させるようにしなければならない。  そのためには一つには、この事業全体を事業主体と市民の両者が「共有」できるようにあらゆる努力をつくすべきである。そうすれば、市民が「育つ」ばかりでなく、事業を行なう側も市民からのフィードバックにより、市民的感覚を養い、広く正確な認識を得ることができる。  そこで学習情報提供事業を「共有」するためのしかけが必要になるのであるが、最も代表的な「しかけ」は市民参加型の企画委員会、運営委員会の設置である。しかし、これらを単純に設置するだけで他に努力をしないとすれば、早晩これらの委員会自体も形骸化あるいはボス支配の危機に陥るだろう。そこで今回の構想では、「ともに育つしかけ」をいろいろな所にちりばめたつもりなのである。  たとえば地域に根づいて住民にフェースツーフェースでレファレンスサービスをしてくれるような、いわば現代の御隠居さんとしてのインフォメーションリーダーの役割を果たしている人の存在への注目とそれへの協力・援助・連携や、有志市民の情報の収集・整理・提供への参加などがそうである。  さらには、学習カウンセリングにおいて一人一人の学習情報ニーズをとらえ、またそこで直接、学習情報提供事業への注文も話してもらうなどの、マンツーマンレベルの細かくていねいな作業も大切なのである。カウンセリングではカウンセラーが相手の「個」としての存在を重視し、相手と人間関係をつくり、相手の話をよく聞き、相手が自ら何かに気づくよう援助することを基本としているのだから、「ともに育つ」ことについても大いに期待できるはずである。 10ネットワークシステムの中での位置づけ  たとえもし学習情報提供事業のためにコンピューターを備えたセンターができたとしても、考えられるすべての情報をそのコンピューターにインプットしておくことは、とても不可能であるし、また無理をしてそんなことをしてもあまり意味がない。市民の誰もがどこでも図書を手に入れることができるという図書館のネットワークシステムと同じように、行政全体が市民の立場に立って情報ネットワークを構築することこそ、大切なことである。  さらに、一般の社会教育施設で学習情報提供事業を行なう場合などは、地域性や対象などを反映したいっそう限定的、個性的な情報提供であってよい。ただしその場合にも、情報のネットワークがあり、職員が他の情報提供機関についての利用法などをよく知っていて、利用者にきちんと紹介できることが前提である。  実は、本論の構想では学習情報提供事業で取り扱う内容はそうとう網羅的である。しかし、それは必ずしもある一つのセンターで請け負うということではなく、実際にはネットワークにより全体としてカバーできていればかまわない。むしろ自治体の意思決定の現状を考えると、パイオニア精神の豊かな社会教育施設がその独自性を生かして個性的な学習情報提供事業を開始し、それがだんだんとネットワーク的に広がって、その後初めて本格的な情報センターも設置されるということの方が実現の可能性が大きいかもしれないぐらいである。 〔展開の構想〕  以上の「基本的問題」や「留意点」を受けて、今日の生涯教育時代において社会教育のなすべき学習情報提供事業の展開の構想を、具体的に図示してみたい。この事業については、社会教育の実践においても理論においても、未だ充分に整理されているとは言えない段階であるから、粗雑ではあるがあえて図表化を試みて、批判と実践での克服をお願いする次第である。  なお、この構想は東京都で生涯学習情報システムを計画した際、その当初の昭和60年度に筆者がプロジェクトチームの一員として作成した案を下敷きにしながらも、実際の行財政的制約にあまりこだわらずに描き直してみたものである。 生涯学習情報提供事業の機能例一覧(表1) 情報の種類・内容・収集方法   (表2) 情報の流れ           (図2)