「生涯学習の方法」第1単位「生涯学習の原理」 □第一単位「生涯学習の原理」の学習目標  第二単位からは、生涯学習の方法を具体的に学ぶことになるが、それらの方法を一つ一つ知り、身につけ、つなぎあわせるためには、ある重要な基本的原理について考えておかなければならない。その原理とは、生涯学習における「個人性の原理」である。この原理について理解し、その実際の姿と、この原理の応用のあり方について学ぶ。  その上で、多様なメディアを活用して生涯学習を援助できるようになるために関連するメディアを概観し、おおよその特徴を学ぶ。  主要には、次のような問題について答えられるようにする。 1 生涯学習における「個人性の原理」の意味と意義は何か。 2 個人の学習活動はどのような段階を踏んで発達するか。そして、それぞれの段階において必要な援助は何か。 3 生涯学習において利用されるメディアの種類とそれぞれの特徴は何か。 4 生涯学習においてメディア活用を進めるための方策は何か。 □第一単位「生涯学習の原理」の本文 対話・生涯学習に「原理」はあるか A:こんにちは。きょうは、生涯学習の原理について考えるということでしたわね。なんか、むずかしそう・・・。 B:いやぁ、私もなんだかむずかしそうな感じがしていたところなんです。それに、自分たちは自由にのびのび生涯学習を楽しんでいたつもりなんですが、「原理」だなんていわれると、ちょっとね。 C:はいはい、おふた方のご心配はもっともなことです。私としても、みなさんに安易に「生涯学習の原理」だなんて言ってほしくない気持ちのほうが、むしろ強いんですよ。 A:ええっ。 B:あれまあ。 C:なぜなら、生涯学習は個人の自発的意思▲によるものですからね。外側から、「こうあるべきだ。」なんていう「原理」はないと思います。 B:それじゃあ、なんで。 C:はい、ここで考えようとしていることは、生涯学習の方法を考えるにあたっての原理なんです。しかも、もっぱら学習する個人がどうすべきかではなく、主にみなさん方のような生涯学習のボランティアや援助者が押さえておくべき基本として、その原理を学ぼうということです。 B:ふーむ、わかったような、わからないような。 C:つまり、生涯学習とひと口に言っても、その方法はいっぱいある。学習者はそのさまざまな選択肢から、まあ好きな方法で学習を進めるわけです。 B:そうですね。ですから、学習者に対して「あなたには、この学習方法が望ましい」などということは、私たち、軽々しく口にしてはならないと思っています。個人の適性▲なんて、そう簡単にわかりませんから。 C:そう、それは大切なことです。学習の方法にしたって、本人のトライアル・アンド・エラー(試行錯誤)によってこそ、自分にとっての最適の学習方法が見つかるのですから。ところが、学習援助者にとっては生涯学習の方法に関してあまりよく知らないということではすまされないのです。 A:それは、そうですわね。 C:このことに関連して何かお考えがありそうですね、Aさん。 A:ええ、私のところでは家族旅行をした時、ついでにそこにある博物館によく寄ってみるんです。 B:ほほう、とても知的なご家族ですね。 A:とんでもない。だいたいは物見遊山でしかないんです。その気分の延長で地元の博物館にも寄ってみるだけなんです。でも、そんな気分でいても、このごろの博物館は気楽に入れて、とても楽しく見れるようにできているんですよ。 C:ところで、生涯学習の方法について知っておく必要というのは。 A:はい、横道にそれて失礼しました(笑い)。このまえ博物館に行った時、ふと思ったんです。これも大切な生涯学習の一環ではないかと。なんだか、私たち、婦人学級とかサークルとかの活動だけに目を奪われていたけれど、生涯学習ってとても広いものなんでしょ。私たち学習ボランティアは、いろいろな学習の方法を知った上で、バラエティー豊かな学習機会を提示したり提供したりしたいものだと思ったの。 C:今、Aさんから、とても大切なことを指摘していただきましたね。学習の援助者はさまざまな学習方法を把握し、それらを有機的にむすびつけて学習機会を構成するなどの努力が必要だというわけです。その時の基本的な考え方に当たるものがここで学ぼうとしている「生涯学習の原理」なんです。 B:そこまでは、わかりました。でも、いくら、ある「原理」を打ちたてたところで、生涯学習が個人の自発的意思に基づき、さまざまに自由に行われるものだとすると、その「原理」は無力なものということにならないですかね。 C:はい、実はBさんの今おっしゃったことが、今回学ぼうとする「生涯学習の原理」そのものなんです。 B:ええっ。というと・・・。 C:生涯学習の動機▲は、それぞれの学習者個人の内部に存在し、そこから出発します。それを無視して、学習者の外側から何らかの学習をおしつけようとすることは、無駄なことですし、よくないことでもあるというわけです。これを「生涯学習の個人性の原理」と呼びたいと思います。 A:とすると、「生涯学習の個人性の原理」の立場に立った生涯学習の方法とは、どんなものでなければならないということになりますか。 C:正確にいうと、ここでは生涯学習の援助の方法ということになりますが。それはあくまでも「はじめに学習をしようとしている人ありき、学習をしている人ありき」という原則に立ち、つねに学習者自身の動機に基づきながら、その人の学習を援助するという姿勢で行われるものであるべきだということになります。そして、学習そのものも学習者本人が達成感を味わえるものでなければなりません。つまり、学習集団がトータルとして成果を得るよりも、ひとりひとりの個人が学習成果を得られる方法を考える必要があるのです。 B:そうですね。そうなればすばらしいと思います。でも・・。 C:Bさん、思い切って「でも」のあとを続けてくださいませんか。 B:ええ、それでは。実は、私、「今の若い者は」という言葉は言いたくないと、つね日頃思っています。でも、少なくとも若い人たちの現実の姿を考えると、Cさんのおっしゃる「個人性の原理」を適用することは、ちょっとどうかと思ったんです。 C:と、おっしゃいますと。 B:一口に言いますと、「自分だけよければ」、あるいはせいぜい「自分の家族や恋人さえよければ」という感じなんです。 A:今の青年に対して「ミーイズム」▲(注・ミーとは自分のこと)と批判する人もいますわね。 B:そう、そのミーイズムです。たとえ、本人の動機から発していると言っても、ミーイズムから発した学習などまで援助する必要があるんでしょうか。私は、若者にもっと社会や政治のことなどを論じてもらいたいと思ってます。個人を重視しすぎて、ミーイズムを助長させるようなことがあってはいけないと思うんですが。受験戦争の弊害と同じことが、生涯学習にまで現れてしまうと言ったら、言いすぎでしょうが。 C:なるほど、いわば望ましくない学習動機もあるというわけですね。 A:私もBさんに同感ですわ。けれど、もっと絶望的なこともあると思うんです(笑い)。私たちの社会教育学級でも、学級生が新しい学習仲間をふやそうと頑張っているんですが、特に若いお母さん方はなかなか入ってくれません。手を変え、品を変え、いろいろなテーマの学習に誘っているんですけれど(笑い)。子育てにいっしょうけんめいなことはわかりますが、同時に生涯学習だってとても大事なんだということをわかってもらいたいわ。本人に学習動機がある人に対してなら、「個人性の原理」もいいような気がするけれど、初めから学習動機をもってないという人に対してはどうすればいいのかしら。 C:そうですか。「個人性の原理」も、本人がなんらかの学習動機をもっていなければ話にならないということですね。 A:まあ、そうですね。私たちが気づかないだけで、何かを学習したいとは思っているかもしれないけれど、それはちょっとわかりようがないんです。 C:ふーむ。実は、今お二人から出された疑問は、「生涯学習の個人性の原理」を考える時だけでなく、公がなぜ個人の生涯学習の援助を行うのかを考えるにあたっても本質的な課題なのです。 A:B:???(不可解な表情) C:生涯学習を行う個人と、いわばその人の社会的環境の一つとしての生涯学習のボランティアや援助者との関係やいかに。この単位の読者も、自分なら今の問題をどう整理するか考えてみてください。  それでは、今の問題意識を念頭に置きながら、「生涯学習の原理」を探ることにしましょう。 1 生涯学習における個人性の原理 1−(1) 個人性の原理  ひとはなぜ学習するのか。なんらかの新しい知識・技能・態度を獲得しようとするからである。  それではなぜ、そのようにして新しい知識・技能・態度を獲得しようとするのか。それは、このような知識・技能・態度の獲得によって、 1 精神的な充実 2 身体的な健康 3 職業的な成功 を得ようとする要求を満足させるためであると考えられる。  そのことから、学習はあくまでも「その人自身」がよりよき知識・技能・態度を獲得するためのものであり、その目的も直接的には「その人自身のため」ということができるのである。  すなわち、学習とは個人が行うものであるということができる。  蛇足になるかもしれないが付け加えておくと、「その人自身のため」というのは、親が子どもに「勉強するのはだれのためでもないのよ。あなた自身のためなのよ。」という時のこころとほぼ同じであると思ってよいが、それは決して、いわゆる「教育ママ」のような利己主義、出世至上主義、打算的な意味合いのものではない。  そのわけについては、ぜひ、よく考えてもらいたい。結論だけいえば、本当の「精神的充実」、「身体の健康」、「職業的な成功」は、利己主義的な考え方ややり方では得られないのである。このことが理解されなければ、ここでいう「個人性の原理」も自信をもって応用し、実現することができないであろう。  さて、学習とは個人が行うものであるとすると、集団学習は学習ではないのか。そうではない。集団▲の中で、多かれ少なかれ相互作用を及ぼしあいながら、実は「個人」がそこで学習している。逆にいえば、個人ひとりひとりが学習しているという認識や喜びを感じることのできない「集団学習」などというものがあるとすれば、それは学習の名に値しないのである。  サークルなどの運営で、リーダーが「私の所は月に一度は勉強会をしている。」とか、「いや、私の所は毎週だ。」などと、その数ばかりで競ったり、気にしている場合があるとすれば、それは集団が「学習」していればよいと学習の意味を勘違いして「形式主義」にとらわれている証拠である。  一番、気にしなければいけないのは、メンバーひとりひとりがそれぞれどんな学習成果を獲得したかということであり、それを通してひとりひとりが学習における個々の主体性をどれだけ育ててきているかなのである。 ◆[ミニテスト1]  この「学習は個人がする」という原理は、成人においても子どもにおいてもまったく同じである。だから、学校においても同様のことがいえる。教室が静まりかえっていて、先生の話が教室中ひびきわたっていても、それだけで立派に子どもたちの学習が行われているとは判断できない。教室という「かたまり」が学習しているのではない。子どもひとりひとりが、学習の中で感動をしたり、時々、その感動を表現したりすることが、学習の手ごたえの一番の表れなのである。  しかし、次に学習行動をおこす動機づけについていえば、成人の行う生涯学習は、学校教育とは大きく異なっている。  子どもに対する学校教育の場合は、子どもの外側から、子どもの学習ばかりでなく、その内なる「動機」までをも掘り起こし、育てていってやることが必要になる。そのために、条件設定や計画的・持続的な活動が教師側に要求される。この子どもは算数がきらいなようだから、何も無理して分数を教えなくてもいい、ということにはならない。教師側が「無理をしてでも」、分数が面白くなるようにしてやらなければいけない。「人間の英知の結晶の一つである分数を教える」という「教育目的」を遂行しなければならないのである。  社会教育の場合でも、子どもに対する場合には、まだ子ども自身の学習への動機づけが不十分なのであるから、動機までをも育てることを配慮した計画性、持続性が指導者側に要求される。たとえば、子ども会活動をしたいというはっきりした「学習動機」をもって、子ども会に参加してくる子どもはむしろ少数派かもしれない。最初のうちは「親が行けというから」、「ともだちが行くから」などという理由で、なんだかよくわからないまま子どもたちは参加してくれるのではないか。そういう彼ら、彼女らが「子ども会はすてきなところ。」といってみずから喜んで参加するようになるように、子ども会活動の実践を積み上げていくのである。  ところが、それと同じ調子で成人の生涯学習に接しようとすると、おおいに痛い目にあうことは間違いない。「この人たちには、○○の学習がまったく欠けている。よし、私が、その勉強会を開いてやろう。」などと意気込んでみたところで、もし相手自身にそのことについての学習動機が存在していなければ、せっかく開いた会に顔も見せてくれない。相手にはしたくない学習までする義務も義理もない。暇もないのである。よって、学習動機の掘り起こしなども実現するわけがない。  しかし、ちょっと皮肉な言い方をすれば、このような上から導くような型の事業が失敗することは、むしろ生涯学習の健全な姿を表しているのである。成人の生涯学習とは、その学習の動機をその人自身の内部にもっているのが前提であり、そこから学習が始まるべきなのである。  ここで、なぜ「そこから学習が始まるべき」なのかをあらためてじっくり考えてもらいたい。学習動機をその人自身がもってない学習の事業を他者があえてやろうとしても、その人は来てくれないだろう。しかし、「そこから学習が始まるべき」という理由は、来てくれないからということだけではないのだ。  相手は成人である。学習の主体なのである。その主体性が尊重されてこそ、大きく言えば「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法第13条)という民主社会の基盤が成立するのである。このように「自由な」生涯学習とは、ことほどさように民主社会における重要な行為である。  そこで、生涯学習は、いま述べたように人々の自発的・自主的な動機づけにもとづく学習を基礎としていることから、個人ひとりひとりの自由な意思にそって、じつに多種多様な動機による、多方面の学習に分散することになる。実際、学習実態の調査においても、全体の1%に満たない学習項目が軒並ならび、しかもその数がどんどん増える傾向にあることが指摘されている。  この「多様化」について「とても対応しきれない。やっかいなことだ。」と生涯学習の援助者が思うようでは、ちょっと困る。学習の「多様化」は、社会の画一化を食い止め、社会をさまざまな側面から活性化し発展させる重要な役割の一環を担っているのであるから。  ただ、「多様化」の中で何から何まですべての学習に対応しようとして、結局は「多様化現象」に振り回されただけで終わってしまったということにはならないように気をつけなければならない。そのためには、個人の学習の多様化に対応できる確かな方法論を見つけることが、新たに必要になる。  この項では生涯学習における「個人性の原理」について、一つには「学習」一般がもつ直接的な目的の面から、また一つには、成人の生涯学習における動機づけの所在の面から説明した。あなたの言葉で言い直すことができるかどうか、ぜひ頭の整理をしておいていただきたい。 ◆[ミニテスト2] 1−(2) 学習活動の3段階  以上のことから、生涯学習を援助する側が学習者側をつねに「マス」(集団)としてだけとらえ、学習者を十把ひとからげにして単一のものを教え込もうとするならば、それは間違いであることは明らかである。  それに比べて、「個人性の原理」を尊重する立場においては、学習者に対して、高村久夫氏の言う「はじめに学習しようとしている人ありき、学習をしている人ありき」という態度になるはずである。すでに各人に存在する学習や学習動機から出発するのである。前者とは対照的である。そして、そのことから個々の学習者をとらえ、それぞれの状況に対応して援助していく方法についても、緻密で個々の学習の実態に即したものとなりうるのである。  すなわち、このような態度で学習者に接すると、高村久夫氏の表現を借りれば次のような学習の発展段階が見えてくる。「潜在学習者から学習者への段階」→「計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階」→「既得の知識・技術を補強する段階」である。そして、各人それぞれの段階に個々に対応した学習の援助方法を考え出すことがこの段階分けから可能になるのである。  それでは、この3つの段階についてそれぞれどんな内容であるか、考えておこう。 1 潜在学習者から学習者への段階  私たちのまわりには、ひと、もの、できごと、情報などがつねにとりまいている。テレビなどのマスメディアもあれば、活字情報としての図書などもある。しかし、これらは学習者本人が何もしなければただ「ある」だけで、学習に必然的にむすびつくものではない。  これらから本人が何か学び取ったり、これらをきっかけにして学習が始まる時には、実は本人のほうに漠然とはしていても必ずそれなりの学習動機が用意されているはずなのである。本人側に学習する心身的条件が整っていることを「レディネス(readiness)がある」というが、成人の学習の場合、特になんらかの理由による学習関心の存在という「レディネス」▲が非常に重要な要件であるし、また学習の開始に不可欠なのである。  このようなことから、成人があることに関して学習に移る、つまり、学習者になる前の段階というのは、まったくそのことに関する関心がなかったととらえるのは適切ではなく、むしろ、そのことに対する学習要求が「潜在的に」存在していたととらえるべきであることがわかる。当該学習はしていないけれども、そのレディネスをもっている人、これを潜在学習者と呼ぶことができるだろう。  潜在学習者は、身のまわりの図書、放送番組、実物、人、その他何かとの出会いをきっかけとして、潜在化していた学習要求を学習行動にむすびつける。その時は、ただ単にまわりが「ある」のではなく、「出会い」である点に注目していただきたい。学習者の側に「出会う」だけの主体的条件があるのである。  そして、生涯学習の援助者は、あることがらに対する学習要求がゼロの人(そんな学習課題や人が実際に存在するかどうかはわからないが)を想定して「何とかしてやろう」と空しい努力をするのではなく、潜在的ではあるがそのことに関する学習要求をもつ人に対して適切な内容のタイムリーな「学習のきっかけ」と出会えるよう、あらゆる配慮をする態度こそ大切なのである。 ◆[ミニテスト3] 2 計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階  潜在学習者が、まわりの「学習のきっかけ」との出会いによって、学習行動を起こすことは以上でわかっていただけたと思う。そこでいう「学習行動」とはその「学習のきっかけ」から直接、何かを学び取ることまで含めているから、とても広い範囲のものであり、日常的な学習行動を含んでいることになる。このような学習行動は、随時行われている。そして、「人間、なにごとも勉強だ。」という時の「勉強」に近い。  いうまでもなく、そのような「随時」学習する姿勢、すなわち、人、もの、ものごと、情報などとの日頃の出会いをつねに吸収し、自己開発につなげていこうとする姿勢は、生涯学習時代には、各人に強く求められる姿勢だといえよう。  しかし、生涯学習の援助者が援助している学習は、実際にはそのほとんどは、もう少し狭い意味での学習行動である。それが、ここにいう「計画的・継続的あるいは集中的学習」である。  この段階では、学習者側に第1段階よりはっきりした(顕在化した)学習要求があり、学習を第一義的目的とした学習行動がされるようになる。本人もそれを学習として自覚している行動である。  たとえば、読書、番組視聴、学級・講座の受講、団体・サークル活動への参加、社会通信教育の受講、習い事、民間教育産業の利用などによって、ある程度の期間に何回か、あるいは一回だけの場合でも集中的に学習が行われるような場合をさす。  しかし、このような段階においても学習者は各人各様の学習の困難や学習中断の危機▲につねに直面しているはずである。生涯学習の援助者は、その個人個人の多様な困難や危機に応じて、画一ではない多様な援助方策を講じねばならないのである。 3 既得の知識・技術を補強する段階  第2段階のような学習を行ったり、家庭生活や職業生活で一定の経験を積むと、その人にとってある程度の知識・技術が身につくことになる。  従来の学習援助、特に公的な援助体制においては、まさにマス(集団)を相手に、必要最低限の入門的なレベルの学習機会をもっぱら提供していたから、このような第3段階の学習への援助はややもすると軽視されがちであった。  「教える」という姿勢のままでは、学習者のレベルが高すぎるので対応しきれなかったとも考えられる。あるいは、たとえ「教えるよりも援助する」姿勢があったとしても、「個人」より「集団」に偏重しがちであったため、肝心なぴったりした援助方策を見いだせなかったり、高いレベルの学習要求をもつ「個人」をつい見過ごしがちであったと考えられる。  しかし、技術革新や社会の急激な変化の中で、きょう得た知識・技術が明日には古くて使いものにならなくなるという現代の時代においては、すでに得た知識・技術であっても、それをさらに継続的に更新し発展させていく努力が学習者各人に求められる。これは今日が「生涯学習の時代」と呼ばれるゆえんの一つでもある。  そこで、生涯学習の援助者は第3段階におけるこのような「高度な継続的学習」の援助の方策を新たに練り直さなければならないことになる。新しい援助においては、次のような点に留意する必要がある。 1 多様に分化した個人ひとりひとりの学習への援助を重視する。 2 高度化、専門化した内容の学習への援助を行う。 3 新鮮で今日的なテーマ・内容の情報を提供する。 4 既定・定型の知識・技術を「教える」立場ではなく、ともに研究し開発する立場から援助する。 5 個人の日常的・継続的学習に対して、援助も日常的かつ継続的に行う。  現代は境界線のない時代といわれる。研究者などの「知のプロ」と「アマチュア」との「境界線」も以前よりは崩れつつある。「アマチュア」の高度化、専門化した研究や生活者の視点からの実際的な研究の成果は、社会的にも注目され、実際に社会の発展に貢献するに値するものになりつつある。つまり、生涯学習によって「生産」されたもの(=生涯学習の成果)が直接、社会還元▲される時代に向かっているのである。  生涯学習の援助者がこのような学習を援助しようとする場合、何かを「教える」姿勢ではとうてい対応しきれないだろう。まさに文字どおり、個々のケースの学習に対して「援助する」姿勢が求められるのである。 ◆[ミニテスト4] 1−(3) 学習活動に対応する教育的援助  私たちは学習者をひとりひとり、個人として見ることによって、3つの学習の発展段階があることに気づいた。さらに、これらの各段階に対応して予想され期待される教育的援助(社会教育)のいくつかを前述の高村久夫氏が例示している。ここでは、そこで例示されている援助策を紹介し、その基本的性格について考えてみよう。 「潜在学習者から学習者への段階」に対して a 学習の機会・施設・学習情報に関する情報提供  生涯学習の時代と呼ばれる今日、個人のレベルでは把握しきれないほどたくさんの学習機会が提供されている。社会教育行政だけでなく、一般行政や民間など広い範囲で、多種多様なかたちで提供されているのである。そのため、学習者はせっかくの豊富な学習機会から、自己の必要とするものを的確かつすみやかに選び出すことができなくなってしまっている。  個人をつねに集団の単なる一員としてしかとらえない立場からは、その問題が見えにくい。なぜなら、すでに所属している集団が行っている、または行おうとしている学習をメンバーがしさえすれば、必要最低限は足りていると考えてしまうからである。  これに対して、学習の個人性を重視する立場においては、これらの学習情報の不備をとりわけ憂慮する。そして、この不備を埋める学習情報の提供を、学習援助の中でも、特に学習者が学習をスタートする時点では、欠くべからざる基本的役割と見るのである。  たとえば個人が学習機会の情報を的確に把握することによって、本人が主体的に学習機会をその中から選び出すことが可能になる。これに反して、そういう情報なしに学習機会を決定する場合は、それまでの自己の学習経験の枠内で判断するか、まわりや所属集団などの「流れ」に受動的に従うという結果にならざるをえないのである。  画一的な学習機会を一方的に授与する立場から言えば、学習情報提供はせいぜい、その授与に付随する「周辺的」な行為にしかすぎない。それとは対照的に、個人性重視の立場からは、学習情報提供はむしろさまざまな教育的援助の中でも中核的存在なのである。 b 学習相談  最近、とみにカウンセリング▲に対する関心が強まっている。現代社会における人格の危機に対して、まさに個人の深みに入り込んで、相談者の主体的な自己解決を援助するカウンセリングの思想からは学ぶべきところが多い。  ただし、カウンセリングでいう「相談」とは、あくまでも個人の心理的・精神的問題=「こころの問題」の解決のためのものである。教育的援助をする側が、自分の行う通常の学習相談までをもカウンセリングと同一と考えるのは誤解である。あるいは、その誤解がこうじて、生涯学習の相談に来た人に対して、こころの奥の深い所まで立ち入ってそれを「直接」カウンセリング的に解決してやろうなどと考えるとしたら、問題はいっそう深刻である。(もちろん、ここでの論議は成人の生涯学習への援助に限定している。)  たとえば、新しく引っ越してきてまだ近所にとけこめていない主婦が、幸いにもあなたの所に「どこかで華道を習えるところがないか。」と尋ねてきてくれたとする。その時、あなたは、「この人は、前にいた所での人づきあいが途絶えたので、少し寂しいのかもしれない。」と考えるだろう。そのぐらいのことを考える思慮深さ、思いやり、やさしさはぜひあってほしい。しかし、たとえば当人に「近所にとけこめるように、あなたから話しかけてみたらどうですか。」などといきなり切り出したりしたら、きっとその主婦からしばらくは敬遠されてしまうだろう。そもそも、カウンセリングでもそんな忠告、説得に類すること(指示)は行わないのが普通である。学習相談において安易に「カウンセリング」を行うことの危険性はここにある。  それよりも、その主婦の「孤独」を心配する思いやりを心に秘めながらも、要請どおりに華道を習える所を豊富に提示し、ゆきとどいた情報サービスをしてあげたほうがよっぽど気がきいているのである。さらには、おしつけにならない程度に、華道以外にもいい仲間になれそうな人の揃っているサークルなどを紹介する必要はあるかもしれない。なぜなら、その主婦が本当に要請している情報は、「華道を習える場」と同等に、あるいはそれ以上に「よい仲間」であるかもしれないからである。  しかし、せいぜいこの程度までであろう。あとは、学習者がそれぞれ自己の力で学習機会を選択し、自己の力で自己の問題を解決するよう見守る他はない。  そもそも、学習相談においては、たとえ本人が「相談に来ました」と言ったとしても、それはカウンセリングのような「こころの問題」(学習に関する)ではなく、学習情報の提供を求めにやってくるのが普通であろう。(理解を深めるために言えば、学習における「こころの問題」とは、たとえば「自分にとって、そもそも何を学習すればよいのかわからない。」とか、「学習したいことはあるのだが、なぜか手につかない。」などの悩みがそれに近い。)  しかし、通常の学習相談においても、相談者の訴えに対してていねいに情報を提供するということ、しかも、一方的に限られた情報をおしつけるのではなく、相談者がみずから主体的に判断し選択するよう広くヒントになる情報を提供するということについては、情報提供側は最大限の努力を払う必要がある。  そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などと同様の働きかけにより、学習者の相談を励まし、明確化し、自覚化を促し、ひいては主体性の発揮の実現を援助することが必要である。その意味から、学習相談そのものはカウンセリングとは区別はしても、「カウンセリングマインド」ともいうべきカウンセリングの基本的態度とは一致するのであり、カウンセリングから学ぶべき点も多いのである。  学習相談が個人の学習情報の求めに対応するという意味で、形の上からも「個人性の原理」を尊重するものであるということは自明のことである。しかし、それ以上に、「応答」の内容も「個人性」を尊重し、さらにはこの「個人性」がいっそう発展するよう援助するものでなければならないのである。 c 図書館、博物館における経費の工夫  図書資料、実物などは、直接個人の関心に働きかけるので、図書館、博物館に勤める人以外の生涯学習の援助者は、その意義を実感しにくいかもしれない。しかし、この「働きかけ」の効果は肝心の個人に対しては相当なものがある。それは、自分自身の学習関心の形成を振り返れば納得できるであろう。  生涯学習の援助者としては、図書館、博物館に関する性格、所在、特徴、利用方法の情報提供などにより、その活用を促進することを考える必要がある。 ◆[ミニテスト5] d 学習関心・意欲を触発する活動  このためには、aからcまでの他、先に述べた「ひと、もの、できごと、情報」と「潜在学習者」が出会える場と機会をさまざまに積極的に提供する姿勢が求められる。  その際、援助者側がみずからの設定した既成の狭い「学習課題」の枠に縛られるのではなく、多様で個性的な学習関心を学習者自身が主体的にもつことができるよう援助する姿勢が大切である。 「計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階」に対して a 学習機会の提供  この段階に入ると、先にも述べたように「ある程度の期間に何回か、あるいは一回だけの場合でも集中的に」学習が行われるようになる。図書、放送番組、学級・講座、団体・サークル活動、社会通信教育、習い事、民間教育産業などは、そのための学習機会を提供しているわけである。そして、これらは非常に目に見えやすい教育的援助の形態であり、従来から活発に進められてきている。  しかし、このような「学習機会の提供」のひとこまひとこまにおいても、やはり、「個人性の原理」の最大限の実現が求められるのであり、従来ありがちだった「つねにマスの一部分としてしか相手をとらえない」態度では、早晩飽きられてしまうのである。  具体的に言えば、次のような「きめ細かさ」が必要である。個人のひらめきや気づきに極力、注意し、それを励ます。学習の進度に遅れそうな人が追いつけるよう、プログラムを工夫する。現在の進度を超えたレベルの学習をしようとしている人にも役に立つような展開を行う。  その上で、「学習機会の提供」だけでなく、各人の個別の学習阻害要因の解消などの援助ができるよう、他に述べるような情報提供や相談を並行して行うことも大切である。つまり教育的援助方法の「複線化」▲が必要なのである。 b 集団学習方法の工夫  i  良質の情報提供  集団学習の中でも学習の「個人性」を尊重しようとするならば、すでに述べたように、個人ひとりひとりが学習しているという認識や喜びを感じられるようなものでなければならない。そのためには、メンバー各人の学習レディネスや志向性、持ち味などの「個性」に柔軟に対応し、だれもが主体的に学習できるよう、集団学習の運営もおおいに工夫する必要が生じる。  画一的な集団に対してであれば、どこでも同じような運営技法でほとんど事は足りたのかもしれないが、現代の「メンバーの個性にあふれた集団」は、集団としても際立った「個性的」な問題や可能性をもっているものである。  正解が決して自明のものではない問題、解答が一つではない問い、こういう問題や課題に学習者や学習集団がチャレンジしていく時に、本当に役に立つ情報提供が「良質」といえるのであろう。  それは、平板で単一なものではなく、縦横無尽に学習情報の網の目をたぐり、生かしたものであるはずである。  ii 学習者の組織化  「個人性」をいかす集団学習といえども、その集団自体が主体的に活動できる集団として自立するためには、学習者の組織化をはかる必要がある。  ただし、少なくとも学習活動の展開においては、そこでの「組織化」は、「共通の目標」や「統一的な意志」を強調するものであってはならない。むしろ、メンバーの「個性」が有機的に発揮されるシステムとしての「組織化」でなくてはならない。  その他、以下のような例示がされている。これらの場合にも、学習の「個人性」の尊重と実現の立場から進められなければならないのはいうまでもない。 c 社会教育施設の設備・資料の充実・整備 d 団体・サークル活動の奨励・援助 e 学習相談、レファレンス・サービス体制の整備 ◆[ミニテスト6] 「既得の知識・技術を補強する段階」に対して  学習における「個人性」の尊重は、一方では、「ゆっくり型」「マイペース型」の学習を励ますものであるが、もう一方では、ひとりひとりがさまざまな内容の高度で専門的な学習を希望するような状況においても、これを本格的に援助しようとするものである。  それは、具体的には、下にあげられた手段の他にも、多様な既存・新設の学習機会や、従来からの、または新しい学習援助方法を駆使してこそはじめて実現可能なのである。 a 高度化・専門化した内容の学習機会  i  成人への高等教育の開放  ii 大学教育の開放  iii 専修・各種学校の振興  iv その他成人大学講座等の開放 b 専門的なレファレンス・サービス体制の整備  以上のように、生涯学習の方法は「学習の個人性の原理」から成り立っている。この基本的原理は、今まで述べてきたように、人々の学習活動がその人自身の学習意欲を根として始まるものであること、それがどのような動機に発するかによって学習の内容・領域も明確化されるということ、学習が発展し高められるにつれて、学習内容にも専門化が見受けられるようになることなど、われわれが留意すべきさまざまな生涯学習の諸現象の根源と認められるのである。 2 生涯学習におけるメディア利用 (以下、テキストP20〜P23の(1)〜(4)に対応...2500字) 2−(1) 図書資料 2−(2) 放送 2−(3) 実物・視聴覚資料 2−(4) マイクロコンピュータとニューメディア 3 学習活動推進のためのメディア活用のあり方 (以下、テキストP23〜P26の3学習活動推進のための諸方策に対応...1800字) □第一単位「生涯学習の原理」の注解(100字×?) 自発的意思  生涯学習は、強制によらずに自らの内面的欲求によって開始される。このようにして生涯学習を開始する際の感性的、理性的な意思が自発的意思である。 適性  個人の知識・技術・能力・性格などが、そのことに適していること。意欲・関心・興味も関係している。しかも、これらについては固定的なものとしてとらえることは誤りである。 生涯学習の動機  あることがらについて学習しようとする意欲があることを動機があるという。その動機の基礎は、生理的欲求、社会的欲求、心身の成熟や発達、それまでの学習経験などの状態である。 ミーイズム  自分主義。自己中心主義。従来から、青年期においては周りに対して自己のみを実現しようとする傾向が現れると言われてきたが、ミーイズムの場合は、一方的に自我を他者に認めさせ、おしつけようとする傾向は弱いようである。むしろ、社会への「無関心」の傾向が顕著である。 集団  ある一定の共同目的に基づき、相互作用を行っている複数の人々の結合。メンバーはその成員として、多少なりとも帰属意識をもつのが普通であるが、むしろ集団化によってその個人の疎外が進行する場合が見受けられる。 レディネス  ある学習をするのに必要な心身の用意性、準備性。子どもの場合は、心身の成熟の度合が重要な要素になるが、それに比べて成人の場合は、それを学習しようとする関心の度合が重要である。しかし、その場合もその学習関心を形成してきたのは、過去の学習経験や社会経験であることには変わりない。 学習中断の危機  一人一人の生涯学習は、つねに中断の危機に直面しながら発展している。その要因は学習阻害要因の一部ととらえることができる。時間的、経済的理由なども考えられるが、本人の意欲の減退も大きいであろう。 社会還元  還元とは、もとに戻すこと。生涯学習をする個人はなんらかの形で社会資源の恩恵を受けているはずであり、それをより高次なものにして社会に還元することができればお互いに理想的である。 カウンセリング  個人の精神的な問題の解決のための援助の手法の一つ。人間を社会的存在としてよりも、第一義的には個性的存在としてとらえ、人為的に個人と個人の人間関係をつくり意思疎通をはかることによって、相談者による自己解決を図ろうとするものである。 複線化  ここで、複線化とは、一人の学習者が両方の援助を受けることができるということばかりでなく、学習者の自由な意思によって、学習者の好むどちらかの援助だけを選択して受けることができるということを意味する。総じて「複線化」は、自由な選択の幅を拡大する有力な手段として機能することが多い。 マイクロコンピュータ  大規模集積回路(LSI)によって構成されるマイクロプロセッサーに記憶部と入出力部を加えたもの。最近は普通、パソコン(パーソナルコンピュータ)と呼ばれている。大型コンピュータと比べて安価であり、個人でも手軽に活用できる。 ソフトウエア  コンピュータを利用するための技術。ここでは、特にマイクロコンピュータのプログラムをさしている。マイクロコンピュータの世界では、「コンピュータ、ソフトなければただの箱」と言われるぐらいその役割は大きい。 □第一単位「生涯学習の原理」のミニテスト ◆[ミニテスト1] 1 生涯学習は学習する個人にとって、何のために行われるか。( )内に適する言葉を入れなさい。さらに、それぞれについて学習内容の例を考えなさい。              学習内容例  (  )的な充実・・・  (  )的な健康・・・  (  )的な成功・・・ 2 生涯学習の「個人性の原理」と矛盾しない集団学習とはどのようなものか。( )内に適する言葉を次から選んで入れなさい。 喜び、学習成果、個人、主体性、相互作用、  集団の中で、(  )を及ぼしあいながら、実は(  )がそこで学習している。そして、個人ひとりひとりが学習しているという認識や(  )を感じることができる。そのためには、リーダーはメンバーひとりひとりがそれぞれどんな(  )を獲得したか、それを通してひとりひとりが学習における個々の(  )をどれだけ育ててきているかについて注意を払う必要がある。 ◆[ミニテスト2] 1 子どもに対してするような学習の動機づけを、なぜ成人に対してはできないのか。もう一度本文を読み直した上で、あなたの考えでその理由を箇条書にしてまとめなさい。 ◆[ミニテスト3] 1 潜在学習者というとらえ方は、どのような点でメリットがあるか。ア〜ウの内から間違っているものを一つ選びなさい。  ア 本人が学習をしていなくても、今後学習にむすびつく可能性を見落とさな  いで援助することができる。  イ 本人の内部には学習動機がまったくなくても、「潜在」ととらえることに  より、学習を始めるようにさせることができる。  ウ 学習行動が始まる時の、本人の主体性を尊重するとらえ方である。 ◆[ミニテスト4] 1 あなたのまわりにある高度で継続的な生涯学習の事例をあげ、その学習を援助するとしたらどうすればよいか考えなさい。 ◆[ミニテスト5] 1 学習情報提供が「生涯学習の個人性」を実現するものであると考えられる理由を述べなさい。 2 学習相談が「生涯学習の個人性」を実現するものであると考えられる理由を述べなさい。また、逆にそれが「個人性」を損なう場合とはどういう場合か、述べなさい。 ◆[ミニテスト6] 1 計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階への援助はどうあるべきか。(  )の中に適切な言葉を入れなさい。  学習機会の提供においても、(  )の原理の最大限の実現が求められる。「つねに(  )の一部分としてしか相手をとらえない」態度ではいけない。集団学習に対しては、縦横無尽に学習情報の網の目をたぐり、それを生かして、(  )を行う必要がある。そして、学習者の組織化は、「(  )の目標」や「(  )的な意志」を強調するものでなく、メンバーの(  )が有機的に発揮されるようなものでなくてはならない。 ◆[ミニテスト7] 1 生涯学習に利用できるメディアの種類を6つあげ、それぞれについて1つずつ、それを利用した生涯学習の形態をあげなさい。 ◆[ミニテスト8] 1 メディア活用のために必要な諸条件の整備として必要なことは何か。文中の(  )内に適切な言葉を入れなさい。  十分に体制の整った施設を(  )、しかも人々の(  )に設置する必要がある。さらには、今日、発達、普及している(  )を活用することによって、個々の施設間の連携を図る(  )の整備が望まれる。 □第一単位「生涯学習の原理」の復習問題 1 「個人性の原理」とはどういうものか、説明しなさい。 2 この単位の最初の対話、「生涯学習に『原理』はあるか」で出されたBさんとAさんの次の疑問に、それぞれわかりやすく答えなさい。 B:自分たちは自由にのびのび生涯学習を楽しんでいたつもりなんですが、(注・他者から)「原理」だなんていわれると、ちょっとね(注・抵抗がある)。 B:いくら、ある「原理」を打ちたてたところで、生涯学習が個人の自発的意思に基づき、さまざまに自由に行われるものだとすると、その「原理」は無力なものということにならないですかね。 B:個人を重視しすぎて、ミーイズムを助長させるようなことがあってはいけないと思うんですが。受験戦争の弊害と同じことが、生涯学習にまで現れてしまうと言ったら、言いすぎでしょうが。 A:本人に学習動機がある人に対してなら、「個人性の原理」もいいような気がするけれど、初めから学習動機をもってないという人に対してはどうすればいいのかしら。 □第一単位「生涯学習の原理」のティータイム(2−3枚)  パソコン通信ではホストコンピュータの「電子掲示板」というシステムに自分たちの書き込み(ライティング)が蓄積される。この蓄積された情報を、自宅のパソコンと電話線を通して、いつでも自宅で出し入れできる。  読者の皆さんにパソコン通信の実際の様子をお知らせするために、私の書き込みを紹介する。  小学校1年の息子を寝かしつけて、今、パソコンに向かっています。(略)「一般生活」を営む普通人の僕としては、継続的にレスポンス(注・反応,返事のこと)を書く余裕がないのでワンテンポ遅れたレスになってしまいましたが勘弁してください。でもこういう「普通人」?の参加も許容してくださいね。(略) パソコン通信の時は、同僚にしゃべるような気持ちで書いています。ツーウェイ(注・双方向)ですから、わからなければ質問しあえばいいでしょう。その意味では、エディター(注・編集用のソフト、いったんパソコン通信を終了してから利用する)を使う場合でも、僕は、オンライン(注・パソコン通信をつなげたまま、直接文章を打ち込むこと)感覚に近いのです。わかりづらくて、しかもつまらなければ、読み飛ばされるでしょうが、そうしたら諦めて次のライティングをすればいいのではないでしょうか。そういうライティングを「迷惑だ」としかめっつらをすることもないでしょう。「ああ、あいつだ」と思ったら、読まずにパスすればいいのですから。(略)  私のこの文章もやたら長くなってしまいました(注・普通、書き込みは数行である)。でもちょっとでも「いい所」があるともし感じられたなら、そこだけ拾い読みしてくださいませんか。いやだったらパスすればいいのですから、「迷惑」というのはちょっと当たらないと思うのですが、いかがでしょうか?  以上が私の書き込みである。皆さんもパソコン通信の雰囲気を、少しかいま見ることができたのではないかと思う。自己の書き込みが他者にとってどのような意味を持ち得るのか・・・。それはパソコン通信をする者(自称,ネットワーカー)の共通の関心事なのである。