地域の組織・団体との連携 1 地域の組織・団体の今日的意義と公民館  前近代社会においては、地域社会はすなわち共同社会であり、たとえば村落共同体に見られるような強い地域性と共同性を保っていた。そして、そこでは強い自治的性格をもった組織も機能していた。しかし、近代社会においては、交通・流通・通信手段の拡大や都市化によって、それらの強い共同性をもった地域社会は次々と崩壊することになる。  実は、地域における強力な共同性は、ややもすると、プライバシーの侵害や村八分などの制裁など、個人の自由や尊厳を否定する結果になる場合も多かった。これに対して、近代社会において「個人」が尊ばれるようになったことは、個人の自由と成員の平等を保障しようとする民主主義の理念に照らして望ましい側面を有していると考えられる。  ところが、地域社会の崩壊は一方で地域住民の合意形成の困難、地域の自治・自立性の衰退、相互扶助の弱体化による住みにくさ、地域教育力の減退による子どもの成長の「いびつ」化などの弊害を引き起こしている。  その中で、たとえば今日の「町内会」は、相互扶助の任意団体として位置づけを変えながらも、地域住民のフェース・ツー・フェースの関係を築きつつ、主体的に「地域づくり」を推進する際のだいじな核の一つとなっている。  ここで注目すべきことは、これらの地域組織・団体がめざすべきところは、けっして過去の地域共同体への単なる「回帰」ではないという点である。崩壊した地域社会を再現するのではなく、新しい理念のもとで、むしろ、「新たに」地域を組織しなおそうということなのである。  この新しい理念が「現代社会におけるコミュニティの形成」であり、地域づくり、町づくり、村おこしであるといえよう。  そこでは、家父長的な指導者のもとに成員が「個を殺して」一致団結するのではなく、各人、各組織がそれぞれの個性を十分に発揮しながら、ゆるやかなつながりを持とうとする。個人を尊重しつつ、地域合意の形成と地域社会の作り変えをめざす。  たとえば今日のコミュニティ形成をたんねんに見ればわかることであるが、町内会のような地域包括的な組織が一つだけ活性化して、その集中的なコントロールのもとで推進されるというケースは皆無に近い。  むしろ、自治体行政も含めて地域のさまざまな組織が、緊張関係や競合を繰り返しながらも連携・協力して地域づくりが進められているのである。  公民館が地域の組織・団体と連携を図ろうとする時、一つの地域包括的な団体だけに偏重してしまえば、それは結果としてこの新しいコミュニティ形成の方向と逆行し、「団体請負主義」の社会教育になりかねない。  「過去の」コミュニティの復活ではなく、「新たな」コミュニティの形成のためには、地域のすみずみまでよく目配りし、あらゆる地域組織に対してそれぞれに適切な関係を保ちながら、ヒューマンネットワークの視点から総合的に連携をはかることが必要なのである。 2 公民館と地域組織・団体との連携の諸相  それでは、公民館が地域の組織・団体と連携するためには、実際には何をすればよいのか。  一つには公民館と組織・団体とのさまざまな話し合いの機会をもつことである。野島正也氏は次のように指摘している。  「公民館職員の中に、高齢者学級の日程を公表した後で、地域の老人クラブ主催のゲートボール大会の日程が一部で重なることに気づき、冷汗をかいた経験のある人はいないだろうか。公民館の事業が、地域の他の団体が企画している催しとうまく調整され、相乗効果があがるように、団体と十分な情報交換の機会をもつことがたいせつである。」(1)  地域形成に資する諸団体がせっかく準備を重ねて迎えた催しの当日に、それに気づかず公民館事業をぶつけてしまうようでは、「連携」などはほど遠い。公民館と団体との「情報交換の機会」を設けることも、連携のたいせつな一側面なのである。それは、公民館と団体の間ばかりでなく、地域の団体どうしのネットワークを築くきっかけともなろう。  特定の地域包括的な団体が「上部団体」として集中的なコントロール作用を行う形態ではなく、対等で民主的な団体相互の関係を保ちながら協力して地域づくりを進めるためには、公民館も交えて組織・団体間で話し合いをもつことが不可欠の要素になる。  このような組織・団体間の話し合いの機会としては、上に述べた各団体の事業に関する情報交換の会議のほか、利用団体が公民館の施設利用に関して自主的な調整を行う会議、公民館の主催事業の企画や運営について協議する会議などの活用が考えられる。  二つには、地域の組織・団体の活力を公民館事業に生かすことである。野島氏は「商店会、農協、商工会議所、地元企業などは、それぞれ、非営利の立場から地域の発展を願っている側面をもっている。」として、実際にも学級・講座への講師の派遣、イベントでの協力、公民館への物品・サービスの提供などが行われていることを指摘している。  しかし、この場合もやはり「団体請負」に陥らないような注意が必要である。公民館の主体性を投げ捨てて特定の団体に任せきってしまうのでは、お互いの主体性を尊重しあうというネットワーキングの原則に反する。団体の成員である各個人の個性と多様な能力に着目し、それがいきいきと発揮されるよう、柔軟で主体性のあるヒューマン・ネットワークの視点に基づいた対応が公民館側に求められるのである。  三つには、公民館が地域の組織・団体に「間接的」に良い影響を及ぼし、支援する事業を行うことである。もちろん、施設提供もその重要な根幹をなす一部であるが、公民館の役割はそれだけにとどまらない。諸組織・団体が行う地域形成に資するためのさまざまな営みを側面から支援する姿勢を明確に打ち出しつつ、独自に主催事業の実施や、情報提供・相談などを積極的に繰り広げる必要がある。これが、間接的にではあるが、住民の主体的な地域づくりを援助することにつながるのである。  たとえば、今日、学校区という「地域」には「有望」な教育関係団体がある。PTAである。非常に網羅的で、成員数が多い。そして、これは、子どもの幸福な成長をはかることを目的とする社会教育団体である。しかし、PTAの一部役員だけがいくら一生懸命になったところで、その目的は完全には達成できない。地域の親や住民全体が、この目的を理解しその実現のために地域の一員としての役割を果たさなければならないのである。  一方、公民館としても、地域の教育力や家庭教育には大きな関心をもっている。だからこそ、家庭教育学級などを開催して地域や家庭の教育力の向上に役立とうとしている。そして、そこでは、わが子の問題だけを考えるのではなく、あらゆる親や住民が地域のすべての子どもたちが健やかに育つことのできる地域の環境を考えるよう提起をしているはずである。もちろん、公民館はPTAのメンバーではないが、公民館の事業はPTAという地域の団体の目的達成と「間接的」に連動しているのである。  このように、公民館の事業は地域の組織・団体の地域形成の営みをも支援している。この立場をよりいっそう明確にする必要がある。しかし、その際、それが行き過ぎて組織・団体が本来行うべき事業までをも「代行」してしまうのでは、「団体からの請負事業」と変わりなくなってしまう。ここでも、公民館と団体の相互の主体性を尊重しつつ連携するネットワークの視点が必要になることをつけ加えておきたい。 3 公民館と地域組織・団体との「協働」をめざして  野島氏は公民館の活動のしくみを大きく二つに分け、一つを「社会教育行政−学習者・住民」、もう一つを「社会教育行政−地域の学習支援組織−学習者・住民」とし、後者のとらえ方を次のように評価している。  「公民館活動の実際は、地域によってかなり差違があるので、もちろん一概には言えないが、経験的にみて、『地域の学習支援組織』がかなりの有効性を発揮している事実がある。」  そして、「地域の学習支援組織」の形態はさまざまであるが、いずれにせよそれらの活躍やその他の地域の人々による支えによって、公民館の活動は「幅が広がり、活気づいて」くるわけだし、参加する住民にとっても「自らの隠れた社会的諸能力を引き出したり、地域の交友関係を広げる」などの効果が生まれるということを指摘している。  もちろん、この場合も、それらの組織が公民館の「指示」のもとでしか動けないような図式(公民館→地域の学習支援組織)では逆効果にしかならない。「地域の学習支援組織」が自立的に活動する力量と実際の活動を伴い、「公民館−地域の学習支援組織」という対等な関係を築いてこそ、その効果が生まれる。  言葉を変えて言えば、この「対等な関係」のもとに行われる連携・協力が、今日その必要が叫ばれつつある公私の「協働」なのである。  前項で述べた3つの連携の諸相も、この「協働」の端緒と言えるが、さらに本格的には、これらの組織が公民館の主催事業の企画・運営に参加したり、共催の事業を実施する機会などを公民館としても設定する必要がある。  一方、今日の地域組織・団体も、都市化、多様化の波の中で、そのあり方の再検討が強く迫られている。これらの急激な社会の変化に対応するためには、自らの集団のシステムをヒューマンネットワーク型に変えていかなければならない。また、住民一人ひとりの課題や地域の諸課題を解決するためには、たとえそれがどんな種類の「課題」であっても、各人の自主・自発の学習が不可欠になる。  地域の諸組織・団体にとっては、独自の役割とは別にヒューマンネットワーク型の地域の学習支援組織としても役割を発揮できるようにすることが「サバイバル」の方向であり、それらと連携を進めようとする公民館としては、ネットワークの精神に基づいた運営参加や共催等のシステムを構築することが、めざすべき方向といえるのである。 (1)野島正也 「公民館活動を支える地域の人材・組織」 月刊公民館No372 全国公民館連合会、1988・5、P5〜P11。以下の引用の出典も同じ。 自主的学習グループ・サークルの育成と援助 1 自主グループ化援助の意義と問題点  社会教育審議会成人教育分科会の「審議のまとめ」では、「自主的学習グループへの援助」の項の中で、いわゆる「自主グループ」について、「近年は、公民館等の主催事業をきっかけとして自主的学習グループが多数生まれ、成長しつつある。」と評価している。さらにその上で、他のグループ活動とともに、「人々の自発的学習活動を促進していく上で、グループの成長は極めて重要であるので、今後一層積極的に結成の呼びかけ、」などの援助が必要としている。(1)  公民館の利用団体の中には、いわゆる自主グループ、すなわち、公民館の学級・講座が終了した後、職員がその参加者に呼びかけるなどしてつくられたグループが数多く見受けられる。  その理由としては、「審議のまとめ」で言うように、まず第一にグループ化が「人々の自発的学習活動を促進する」ための重要な要素の一つであることを挙げなければならない。その他、学級・講座の限られた時間内では到達しえない所まで、グループ学習で補完できるなどの意義も認められる。  そして、この「自主グループ化」援助の姿勢は、公的社会教育が独自に持つ性格が発露したものといえる。もちろん、民間教育産業においても、スクール終了後に生まれたグループに対して、サービスの高度化をねらった「アフターケアー」を行うことはある。しかし、それはあくまでも「高品位サービス」として位置づけられるはずである。これに対して、公民館にとっての自主グループへの育成・援助は、住民自らが学習する環境を醸成するという社会教育行政の使命から照らして、学級・講座による学習機会の提供などと同等に重視されるべき「基本的」役割なのである。  このようなことから、人が集まるからという理由だけで同じような内容を毎年繰り返し、自主グループ化を図らないため、いつのぞいても一部の住民の同じ顔しか見えない「金太郎飴」のような学級・講座を開いている公民館がもしあるとすれば、その公民館はもっと自主グループ化を推進して、基本的な体質改善を行う必要がある。そうでなければ、その公民館の活動は住民の自発的学習を結果としては阻害することにさえなってしまう。  しかし、もう一方で自主グループ化を手放しでは喜べない状況も生まれている。その問題とは、グループ自体の自主性、主体性の衰退である。この「衰退」は、実は深刻な悪循環を繰り返している。  まだ、グループとしては「未成熟」であることから、職員としても少しでも安定したグループになってほしいと思い、何かと手をかける。時には会場借用などの面で「特権的利用」を認める。グループの方でも、各人は公民館側の事業に参加者として「参加」していた時の「癖」が抜け切らない。自分たちがしなければならないことまで、つい公民館や職員に頼ってしまい、時にはそのことに違和感を感じられなくなってしまうこともある。  こうなってしまっては、いわゆる「自主グループ化」は「人々の自発的学習活動を促進する」どころか、むしろ、メンバーおよび他の住民の「自発的学習活動」への意欲と可能性を削ぐものになってしまう。 2 自主的学習グループ援助における留意点  このような隘路に踏み込まないようにするためには、どうすれば良いか。  一つの方策としてあらかじめ学級・講座において「シュミレーション」(模擬訓練)を実施することを挙げたい。広く言えば、学級・講座においてグループ活動やその他の実践活動の予備知識および技術を獲得できるよう配慮して、グループ化した後、自主的に活動できるような力を準備しておくことである。グループ活動の実践においては、それまでの人・もの・できごととのさまざまな出会いの「体験」がその人にとってもっとも大きな励ましになる。学級・講座の運営への主体的関与や小グループによる「演習」、その他の実体験などの「シュミレーション」は、「出会いの体験」そのものになるのである。  二つには、公私をいったん「分離」することである。「私」との関係がウェットになってしまってはいけない。「公」としての公民館側が援助すべきこと、「私」としてのグループ側が自ら行うべきことの「区別」を明確にし、それをいわゆる自主グループに対しても明示し、グループにある程度困難な状況が起きても特例を設けずにその「区別」に従うことが必要である。この「区別」の設定基準には、何も特別なものはない。一般のグループ、ただしその内、「未成熟」であるがために援助を求めているグループに対して公民館が行うようなすべての援助を、その自主グループにも行えばよい。  三つには、講座を修了したら何が何でも自主グループをという「呪文」から解放されることである。この「呪文」から解放されることによって生涯学習のダイナミズムを保障することができる。  自主グループを結成しても、そのグループが人々のニーズや時代に基本的にそぐわない場合はグループは消滅し、各メンバーは違うグループや次の新しいグループをつくりだすことになるだろう。少し逆説的だが、この「新陳代謝」こそが民間の生涯学習をダイナミックにしているのである。それゆえ、グループの「延命」のための善意の援助はかえって生涯学習を阻害するということになる。生涯学習の援助がウェットになってしまってはいけない。  さらに、生涯学習の方法は「集団学習」ばかりではない。公民館が行うべき学習援助にもさまざまなバラエティーがある。講座修了後のアフターサービスも同様である。自主グループ化だけが援助ではない。時々の、あるいは個人個人の状況に応じて個人学習の援助や、場合によっては社会教育の「宅配」などフェース・ツー・フェースの関係を離れたサービスも考える必要がある。このように公民館は地域の「学習センター」として住民とのダイナミックな関係をめざさなければならない。  これらの留意点は学級・講座終了後のいわゆる「自主グループ」だけでなく、地域の一般の自主的学習グループ、特に「未成熟」のグループの援助においても同じである。  たとえば、「シュミレーション」はグループメンバー対象の講座にも有効であろうし、どんなグループに対する場合でも「ウェットな関係よりダイナミックな関係」が求められるのである。 3 グループ援助の今後の方向  これまでも公民館は主催事業とともに、施設提供などの自主的学習グループの援助を行ってきている。しかし、施設提供以外の団体援助は実際にはその対象が限られがちであったきらいがある。  その「限られた団体」がたとえば、先に述べたいわゆる「自主グループ」であり、また、伝統的な地域団体としての婦人会、青年団などの狭義の「社会教育関係団体」であった。実際にこれらの団体には、施設提供だけでなく、補助金の支出や昼夜いとわない相談・情報提供などが行われてきている。  しかし、一般的な意味での「自主グループ」とその端緒はもっと地域のいたる所に、そして公民館が知らない所にまで広く存在する。しかも、この場合の「自主グループ」とは、必ずしも「学習」を主目的にするものとは限らない。さまざまな目的と内容のグループが考えられる。  そもそも「自主グループ」という用語を公民館の主催事業によって生まれたグループにだけ適用することには問題があるのであろう。公民館は「館外」のグループにも関心を持たなければならない。そして、「館外」でいかにグループ化を促進し、いかにその援助を行うか、方法を検討しなければならない。  しかし、現実にはこのような「館外グループ」への援助にはたいへんな困難がともなう。グループ化の無限の可能性と、ありとあらゆる実際のグループの存在に対して、公民館はどのように促進・援助できるのか。  そのためには、基本的にはネットワークの姿勢が求められるのであろう。公民館の中ですべて抱え込もうとすれば、当然無理が出る。それよりも、それぞれのグループの主体性を最大限に尊重し活かしながら、公民館ができる援助を考えるべきなのである。  それにはまず、公民館ではグループで集まることができる、他の人やグループと知り合うことができるということを、人々に実感として感じてもらえるようにすることが大切であろう。そのためには、一般の施設提供の他、オープンスペースとしてのロビーやたまり場としての団体室などを最大限活用できるようにすることも必要である。また、より直接的には「グループ学習継続のための相談、講師、教材等の斡旋、作品展示の場所など学習成果の発表の場の斡旋、活動の場の紹介」(2)なども考える必要がある。  このような基本的な営みの中でこそ、公民館とグループとがともに個性と主体性を発揮しながら、共有できる「問題」に対してゆるやかに連携し「協働」するという本格的なネットワークが実現するのである。 (1)社会教育審議会成人教育分科会 「成人教育分科会の審議のまとめ」 昭和63年4月。 (2)同上。 グループリーダーの養成 1 グループリーダー養成事業の対象と方法  今日の多様化、個別化の社会において、グループリーダーのあり方も大きな変貌を遂げつつある。その主要な変貌の一つがリーダーからメンバーへの「権限(リーダーシップ)の移譲」ともいえる現象である。  「○○委員会」、「○○部」などの固定的なブロックの上に恒常的な会長がいて、その会長が全体を統括するというのではなく、ある企画や問題について関心のある数人がその時のグループの中心になってプロジェクト・チームに似た機能を発揮する。そして、会長は他にいても、それより強力なリーダーシップを「不定期に」発揮する者がそのチームの中から登場する。この新しいリーダーシップのシステムは非常に流動的で柔軟である。  ここでは、会長などのグループ全体の恒常的な指導者を「ゼネラル・リーダー」、不定期に出現する指導者を「プロジェクト・チーム・リーダー」と便宜上、呼んでおく。なお、ここでいう「プロジェクト・チーム」とは、会社組織などでつくられる当該事項に関する「適性」を持つ者の「横断的」なチームとは、多少、性格を異にする。むしろ、グループ活動の「自主性」、「自発性」という特性に規定されて、当該事項に「関心」をもつ者の「自然発生的なチーム」である場合が多いだろう。必ずしも他者から「特命」を受けた明確な組織形態をとるわけではない。  もちろん、グループの効率的な運営などのためには、今日でもグループ全体を掌握する「ゼネラル・リーダー」の役割は軽視できない重みをもっている。しかし、それとともに、これらの「プロジェクト・チーム」がグループの中で認められいきいきと活動できることが、新しいネットワーク型のグループ運営を進めるための必須条件と言えるのである。  むしろ、「ゼネラル・リーダー」の持つべき今日的なリーダーシップとは、そういうプロジェクト・チームが盛んに形成され、それぞれのリーダーが続々と生まれ育つよう励まし見守ることとも言えるのである。  これに対して、公民館で行われるリーダー養成事業が、「ゼネラル・リーダー」ばかりを対象として、しかもその事業にリーダーシップのためのありとあらゆる知識・技術を盛り込もうとするならば、それはグループのネットワーク型運営の方向に逆行し、活性化を阻害する結果にさえなってしまう。  たとえば、グループ運営を一手に引き受け、たくさんの「責任」をしょい込んでいるリーダーには、対外的な仕事もかなり集中してしまう。その上に、公民館の行うリーダー研修への参加までもが、「対外的な仕事」(動員への対応)の一つとしてこのリーダーにおおいかぶさる。このようにして、リーダー一人がますます忙しくなってしまうのである。  そもそも公民館が養成すべきリーダーを「ゼネラル・リーダー」に限定してとらえることは、グループ全体の成員の自発性、主体性を軽視し、グループをリーダー偏重のタテ組織としてとらえていることの証左ではないか。さらに言えば、この「ゼネラル・リーダー」偏重の志向は、初級→中級→上級というリーダー研修体系を、より大きな規模の「ゼネラル・リーダー」になるための単なる「踏台」として歪曲化することにもつながりかねないのである。  今日、リーダーシップとメンバーシップは、機械論的な二元論で扱うべきものではない。グループ活動の中で、この二つは成員の間を自由に行き来すべきものなのである。ネットワークとはそういうことである。  公民館で行うべきグループリーダー養成の今日的目的とは、一つには、「ゼネラル・リーダー」に対して「権限の移譲」を名実ともに成功させるようなリーダーシップが獲得できるように、二つには、「プロジェクト・チーム・リーダー」に対して新しい形のリーダーシップが獲得できるように両者を援助し、そのことによってグループ内のネットワークを促進することと考えられるのである。  なお、後者の「プロジェクト・チーム・リーダー」の養成としては、広報担当者の研修などのある特定の内容に関わるテーマの研修を行っている公民館が現状としても多い。また、「リーダー研修」を「ゼネラル・リーダー」だけでなく、意欲的なメンバーの参加を広く積極的に呼びかけ、ネットワーク型運営に資するリーダーシップの養成を図っている所もある。これらの実践の価値を評価し、リーダーシップ研修としての内実をいっそう豊かにすることがまず必要である。  しかし、さらにメンバーの間に随時生まれるさまざまな関心と、その事項に関する不定期なリーダーシップへの発展の可能性を的確に把握し効果的に援助するためには、研修事業だけでなく、情報提供、相談など、日常的な公民館の事業をすべて広い意味でのリーダー養成としても位置づけて展開することが必要になるのである。  ネットワーク型のグループ運営を援助するリーダー養成は、「ゼネラル・リーダー」一人を養成することで足りる問題ではないだけに、このように総合的に展開されることなしには、その目的を達することはできないであろう。 2 リーダー研修の内容  そもそも、ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」とされているのに対して、リーダーシップは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」とみられている(1)。リーダーシップは、本質的にネットワーク型なのである。特にグループのリーダーシップは、成員各自の主体的な合意のもとに、しかも「プロジェクト・チーム・リーダー」を含む非固定的なリーダー個人の自立的な価値によって、可変的に発揮されるという意味で、ネットワーク的性格をいっそう強く有しているものといえる。  リーダー研修の内容としては、場合によってはごく実務的な事項も含まれて当然であるが、研修全体として見ればこの本来のリーダーシップのあり方を実現するために必要な事項こそが核に据えられるべきなのである。  その一つは、コミュニケーション能力である。ネットワーク型リーダーには、自己の企画を他のメンバーに訴える力(プレゼンテーション)と、それに共感してくれた各人の人間関係をとりむすぶ力(グループワーク)の両方が必要である。コミュニケーション能力はその基本になる。  二つには、「不定型」に挑戦する能力である。ネットワークは、めまぐるしく変化する問題や関心に自由自在に対応できるところに、その魅力がある。その時点での役職やルーティンワーク、あるいは慣習にしがみついて発想したのではネットワークにならない。未知で形の定まっていないことへの挑戦の姿勢が求められる。そのためには、発想法のトレーニングなどが有効である。  三つには、外と交流し学びとる、「外とのネットワークづくり」の能力である。異種の人間との交流が各自の世界を飛躍的に広げる。人材を知ること(ノウ・フー)にもつながり、グループ運営にも資することができる。そして、それは外とのネットワークであると同時に、グループ内の風土にも新鮮な風を起こしてくれる。このような意味から、団体間コミュニケーションとしての「交流」を援助する意義は非常に大きいと言える。  しかし、もう一方で、公民館はネットワーク型グループ運営のもつ問題や危険性も見過ごさないようにしなければならない。  ネットワーク社会においては、専制的な「リーダーシップ」は否定され(権威失墜)、拡散し、大衆化する。だが、そのことは反面、正当なリーダーシップをも軽視する傾向にも通ずる。厚みのある「大作」としての文化が喜ばれないのと同様に、「不易」の根拠をしっかりと持つリーダーシップまで捨て去られてしまう。そして「流行」だけが追い求められる。  そのような時、リーダーに「不易」を提起する公民館独自の役割は大きい。公民館は、この役割を主体的に発揮しなければならない。  もちろん、その場合でも、「主体的」であるべきは公民館だけではない。研修を「受ける」側としてのグループリーダーにも「主体的」参加が求められる。このような両者の主体性を両立させるためには、「問題共有の視点」をもつ研修内容にする必要がある。すなわち、研修を「同時代」に生きる者としての共通の問題に共同で取り組むような内容にするのである。そこには主体的な自己成長と相互作用が生まれるだろう。  もともと「養成」には「教育して一人前に成長させる。」という語義がある(岩波漢語辞典)。しかし、そういう「養成」の古い語義はもう新たにしたい。お互いに「同時代人」としてすでに「一人前」であるという対等な立場から、「自己養成」、「相互養成」を繰り広げることが「リーダー養成」の新しいあり方なのである。 (1)見田宗介他 「社会学事典」 弘文堂、昭和63年2月。