パソコン・パソコン通信と青年  〜成熟したネットワークとは何か〜                        西村美東士 1 パソコンの急速な普及と未成熟性 1−1 青少年から始まったパソコン  カリフォルニア州の「シリコンバレー」では、60年代以降、トランジスタからICへ、そして数ミリ角の面積に数千から数万の素子を組み込んだLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、1971年インテル社から4ビットのマイクロプロセッサーが出される。  マイクロプロセッサー(MPU)は、LSIによって構成され、中央処理機能(CPU)としての役割を果たすものである。これに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピューターすなわちマイコンになる。  しかし当初すぐに、日本のコンピューターのメーカーが、マイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。大手企業が家電製品の中ににマイクロプロセッサーを組み込むということはあったが、コンピューターメーカーが個人用のコンピューターなどというものを本気で考えるようになったのは、ずっと後の80年代からである。  マイクロプロセッサーをマイコンとして使おうとしたのは、最初は青少年を中心としたホビイストたちである。そういう人たちに向けて、ごく小さな会社が「キット型マイコン」を売り出したのであった。初めにマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「巷の青少年」だった。これはこれでブームにはなったが、そのころのマイコンブームは秋葉原などの露店を拠点とした、ごく一部の人々によるものであった。  その後、80年代に入って、ようやく日本でもキーボード、ディスプレー、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、以降、それは大変な勢いで普及している。これが今日では、「パソコン」(パーソナルコンピュータ)と呼ばれているのである。  この普及のきっかけになったのは、「インベーダー」が大流行した1979年に発売された、日本で初めてベーシック言語を搭載したパソコン(日本電気のPC8001)である。しかし、このベーシック言語もまた、じつは大学中退の青年たちによるベンチャー企業のアスキー社がアメリカから持ち込み、メーカーに「なんとか」採用してもらったものである。  また、今日、隆盛をきわめているパソコンソフトの一つの「表計算ソフト」も、1979年、アメリカで社員わずか2名の会社から「ビジカルク」が発売されたのが最初である。これがマイコン(当時はアップルコンピュータ)を有能なパソコンに変えるソフトとして、以降のパソコン利用に大きな影響を与える。パソコン文化は、従来の商業文化よりははるかにアマチュアやベンチャーの文化であり、そのユーザー寄りの発想が新しい文化をつくりだし、既成のメーカーはその後を追ってきているのである。  しかし、当時のパソコンの主体は「ゲーム」であった。1972年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出されているが、その後、日本では「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」といったLSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがパソコンに移植され関心を呼ぶことになったのである。  この数年パソコン通信をやっているSさんは、私からのインタビューで次のように言っている。「(1979年にPC8001を買ったが)まったくのゲームマシンでした。というか、そのころはやはり(マシンが)おもちゃにしかすぎなかったんですね。それでベーシックでプログラムを組んだり、マシン語の雑誌に出ているプログラムを入力して、非常に速いスピードのインベーダーを組んだりとか、そういうレベルでまあ面白かったわけです。それでもけっこう時間をくってましたね」。  このように、当時のパソコンによって、Sさん自身の言葉を借りれば「機械と人間との対話が成立」し、「ハイテク志向というか、コックピット症候群というか、少年のころ抱いていた憧れが、ついに手に入ったという感動」を青少年は味わったのである。 1−2 パソコンの機能と新しい文化  80年代以降、パソコンは急激に普及する。本体だけならステレオを買うような値段で買えるようになったからである。しかも、従来の家電製品と違って、多機能である。  パソコンは汎用的なので、その機能はどのようにも解釈できる。しかし、技術的視点はともかく、パソコンの社会的、文化的な分析の視点から、私はその機能を図表●1のように整理してみた。  今や、パソコンは青少年の専売特許ではない。図表●1のようなパソコンの多機能化、高機能化が、特にキャッチアップ志向の人々の関心をひき、大衆化が促進されている。  そして、文化が「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」(クラックホーン)だとすれば、ここには新しい特殊なパソコン文化というべきものが存在する。ここでパソコン文化とは、「パソコンの発明と量産・普及という技術的条件によって、新しく生まれつつある生活のスタイルや価値観」としておこう。  そもそも、パソコンは、仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をさせることができる機械である。この「汎用性」が、パソコン文化の新しさの最も基本的な要因となっていると考えられる。  第一に、「汎用」であることから、一人一人の個別な要求に沿って、多様な仕事をすることができる。従来の大量生産、大量消費による文化の「画一化」とは、様相を異にする。この「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する。(個別性)  第二に、「汎用」ということから、パソコンという与えられた「箱」だけあっても何の役にも立たないということになる。この「箱」を役立たせるためには一人一人の何らかの主体的力量を必要とするのである。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことに始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには「簡易言語」などによって簡単なプログラムを自分の手で作ってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者の「わずらわしさ」を解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたのとはまったく逆に、パソコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)  第三に、「汎用」ということから、今までにだれも考えつかなかったような仕事をさせることも可能である。お膳立てされたものの「利用」にだけ役立つのではなく、個人が自由に工夫をこらして仕事をさせる余地がある(創造性)。しかもその「工夫」の結果が明快に表れることから、大きな達成感を味わえる。  このように、パソコン=パーソナル・コンピューターは文字通りパーソナルな汎用的道具として登場している。そして、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは異なる文化を生み出そうとしている。それはひと言で言えば、文化面における「個人の自立」を保障するものであり、また、機械側の事情からも、それを人間に要請するものであるのだ。 1−3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化  しかし一方で、パソコンがそのような使い方をされずに、従来の「産業文明」の枠組の中で利用されている現実もわれわれは認めざるをえない。パソコンの普及があまりに急速であったため、パソコンの新しい文化創造のツールとしての可能性がまだ十分には発揮されていないのである。  その一つはパソコン利用の「孤立化」である。  「テクノストレス」下の人々にとって、コンピューター相手の仕事は苦役ではない。むしろ与えた仕事をものすごい速さで正確にこなしてくれるコンピューターに、慣れ親しんでいる。しかしその分、「のろま」でイエス・ノーのはっきりしない本物の人間とは、つきあっていられなくなってしまうという。●1  しかもパソコンは、いったんマシンに向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きで、まったく他人に関係のない内容の仕事をさせ、その成果を一人で味わい、満足することができる。パソコン利用そのものが即目的化してしまう。極端に「パーソナル」なのである。  もちろん、たとえば「表計算」であれば、ディスプレーを前にしてみんなでわいわいやりながら数字をあれやこれや変えてシュミレーションしてみることができることなどからわかるように、パソコン自体は人間の交流を拒絶するものではない。むしろ、使い方によっては交流を促進する機能を発揮する。ところが、そもそも人間の行っている組織運営が、それを実現するほど柔軟ではない。  二つは、マシンの「単機能化」と利用形態の「専門化」と、そのことによる人間の「没主体性」である。  たとえば、ワープロやビデオテックスなどは、パソコン機能でカバーできるのだが、別途に専用機として売り出されている。このようにメーカー側がパソコンの「汎用性」を減らして、扱いやすいけれどその分、出来合いの仕事しかしない専用機の生産に傾くならば、パソコンは今までの家電製品と変わりないものになってしまう。実用化、焦点化された分だけつまらなくなってしまうのである。誰にもわかりやすくということは大切なのだが、それはたとえばシステムがシンプルであり、ソフトが親切であることのはずなのである。  また、ユーザーの側も、市販ソフトでゲームに興ずるなどのパソコン利用の初歩の段階で満足してしまうなら、「汎用性」は活かされない。あるいは、企業活動の面でも、「パソコンオペレーター」という専門家に任せる方向をとるならば、それは「産業文明」におけるオートメーションによる分業化となんら変わらなくなってしまう。  職場などにおいて人間は何も考えずにコンピュータにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性をコンピュータ文明はもっている。これは極端に「専門化」した利用形態である。  実際、職場にワープロが導入された初期のころは、多くの上司は、自分で手書きした文書まで、部下にワープロで「清書」するよう命じた。しかし、本来、ワープロはその豊かな機能から見て、「清書マシン」ではなく「推敲マシン」というべきである。人間の側の役割である若干の苦しみを伴う「推敲」を完成した時点で、マシンの方が「清書」を完成させてくれている。ついでながら、「清書」が完成しているから、それをそのまま発信できる。このような「清書マシン」→「推敲マシン」→「コミュニケーションマシン」としての発想転換が求められている。  もともと、パソコンはアマチュア(ベンチャー)がパーソナルに(家内工業的に)つくりだした文明である。パソコンは、アマチュアのパーソナルな、その分「全人的」な文化を支援するツールとしてとらえなおされなければいけない。  三つは、パソコンの「物神化」である。これは、いまだ根強く残っているキャッチアップ志向の一種であり、「ハイテク強迫症」のなせるわざともいえる。  そこでは、パソコンの「有用性」が誇張され、それを活用しないと「時代に乗り遅れる」あるいは「損をする」という「強迫観念」が風靡する。そして、パソコンマシンというメカ=「物」自体が「神」のように崇め奉られ、パソコンを必要に応じてどう役立てているかではなく、新しい機器をどれだけ使っているかが、個人や組織の評価の基準になってしまう。  しかも、これに呼応してパソコンメーカーは次々と「上位」機種を発売する。「4年で半額になる」といわれるまさに「成長市場」(「成熟市場」ではなく)のコンピュータ関連企業にとって、それは今のところの経済社会における役割と言えなくもない。  しかし、本質的あるいは将来的にはパソコン文化はこのような「物流」の世界のものではなく、「情報化社会」を基盤とする文化というべきである。というのは、パソコンはその汎用性と使い勝手の良さの保持のためには、シンプルな方が良い。個別の用途のためには、個別のソフトなどでまかなえる。だとすれば、その時に重要なものは、もはやメカの良し悪しではない。重要なのはソフトを含めた「情報」であり、もっとつきつめて言えば、本来の「神」であるべき「情報」、すなわち人間の発信内容そのものなのである。これらの「情報」は、物流ではなく、電子的に瞬時にやりとりできる。  このようにして、情報化社会では、情報ツールが良質であることを前提に、「モノから情報へ」と価値観が転換される。ツールのための議論は二次的なものとしてとらえられるのである。  ところが、そのためには今日のパソコン生産では残念ながら不十分である。そのもっとも大きな問題は、ソフトなどの機種間のコンパチビリティー(互換性)の欠如である。この「欠如」も「買い換え」を誘発するためのメーカーの戦術であろうが、そのためにせっかく豊かに作り出されつつある「情報」の方が容易には流通・共有できなくなってしまっている。これは、社会的損失である。  その点、パソコンの万国共通の設計思想(TRONなど)が「有志」(企業ではなく)の手により構築され、財産権としての著作権を放棄までして提唱されていることは、コンパチビリティーの重要性を示すと同時に、私たちにこの問題に関する楽観を与えてくれるものでもある。さらに言えば、人々のコンピュータリテラシーの修得を公的機関が援助することは、こういうことを理解し、応援することのできる「賢い(情報の)消費者」になるための学習を援助することなのである。  さて、私が今日のコンピュータの「物神化」傾向にもっとも対比されるべきと考えるものが、パソコン通信によるパソコン利用の「成熟化」である。  ある自動車評論家は「高性能を誇示して特殊化、異端化することを嫌い、それをごくフツーのものとして軽く受け流しているような自動車をむしろオシャレなクルマとする動きがすでにある」●2と指摘し、この自動車の消費動向を「成熟化」としてとらえている。  私はパソコン通信がまさにこれであると考える。パソコン通信は、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したニューメディアの一つとして、多量の情報を高速にやりとりすることができる。しかし、パソコン通信をする人たちにとってそのような「モノ」それ自体の素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。それよりも、「双方向性」をもったニューメディアであるという点が重要である。  パソコン通信はたいした「覚悟」なしに手軽に参加できる。しかし、その参加は手軽ではあっても、そこでの情報交流は直接的であり主体的である。これがパソコン通信の魅力なのである。  事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を良しとする。さまざまな機器の助けを借りていることは忘れてしまって、機器が「透明」になる感覚を良しとするのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。  豊かなモノに囲まれた現代青年にとって、パソコン自体はあこがれの対象にはなりえない。情報交信ができるというパソコンの本質を知っている(クオリティ・コンシャス=「クリ・コン」)だけのことなのである。クリ・コンの人は、成長時代の「ブランド依存」の人たちのようにモノをステータス・シンボルなどとしては扱わず、自分で実際に試して良ければ、その人なりに「使いこなして」いく。モノを「溺愛」するようなことはしない。  「大衆文化」の新しいトレンドとしての「パソコン文化」を見極めていこうとするなら、成熟したパソコン利用形態としてのパソコン通信こそ、われわれの関心の対象とすべきである。これを、ネットワークとしてのパソコン通信と呼びたい。後半は、このことについて述べる。 ●1 「テクノストレス」、クレイグ・ブロード、 ●2 「フツーの車が人気化」、舘内端、日本経済新聞、1987.9.6 2 ネットワークを体現するパソコン通信 2−1 パソコン通信の経済性  今日のハイテク化の進行は、人々のライフスタイルや文化に大きな影響を与えている。あるいは、今後おおいに貢献する可能性を秘めている。とくに高度に発達した情報技術は、市民の主体的な「情報交流」のための社会的基盤を提供する可能性を有している。  とりわけ、ここではパソコン通信に注目したい。パソコンと電話をもっている人なら、あとはその二つをつなぐモデムを買えば、在宅のままリアルタイムな情報検索と収集、そして「情報発信」ができる。  モデムは2万円ぐらいで買える。パソコン本体も最近では、簡単なワープロやファミコンなどでも可能になってきた。会費が無料のネット(パソコン通信サービス)もかなりある。また、商業ネットの場合、大型コンピュータによる高度なサービスが受けられる。ネットワークによって、生涯所得以上の莫大な費用のかかる大型コンピュータのシステムを、あたかも個人所有しているような利用の仕方ができるのである。  あえて問題をあげれば、それは電話料金であろう。市内電話なら、1時間通信して200円だが、毎日欠かさず3時間以上も通信しているネットワーカーには、1カ月2万円にもなってしまう。市外なら、なお大変である。ちなみに、アメリカでは市内電話は基本料金に含まれているので無料であり、そのためか、日本よりもパソコン通信が盛んである。●1  しかし、いずれにせよ、一般的な利用を想定するなら、パソコン通信はすでにパソコンを持っている個人にとっては、すぐれたコスト・パフォーマンスを保障するものといえる。 2−2 新しいコミュニケーション環境  ひと言でいうなら、パソコン通信は、情報処理なら「何でもできる」。もっとも、パソコン通信でテレビのニュースを見ることはできないのだから、正確にいえば「もっぱら、文章としての情報の処理なら」と限定すべきであるが。(現在、メンバーが作ったプログラムや静止画のやりとりは行えるようになってきている)。  たとえば、発信された情報を次から次へとためこむ。それをどんなメンバーでも、読んだり、反応(レスポンス)を加えたりすることができる。逆に、特定のメンバーや個人にだけ、読めるようにすることもできる。あるいは、発信内容をためこまないで、その時アクセス(交信)している人だけで、ふだんの会話のようにやりとりすることもできる。また、情報発信者、発信内容、発信日時などが自動的に記録されるので、株式や商品の注文、会合などの参加申し込みに使うことも可能である。図表●2に、実際のアクセスの流れを示した。  パソコン通信が可能にしたこのような情報処理の条件は、新しいコミュニケーション環境を私たちに提供するものである。パソコン通信は、ニューメディア=「新しい」メディアなのである。その「新しさ」の特性を端的にまとめるならば、次のとおりである。  第一に、双方向的である。しかもそれは、「反応分析装置」のように、一方の側の目的に奉仕するものではなく、双方の主体的な意思と行為に基づくものである。  第二に、即時的(リアルタイム)である。情報発信者が発信したい時に発信する。その瞬間、他者によるその情報の受信が可能になる。もちろん、他者はそれ以降の自分の都合の良い時間に、それを受信することも可能である。  第三に、空間超越的である。つまり、交通手段などの物理的制約がない。在宅時はもちろん、電話がある所ならどこでも同じ条件で通信できる。  第四に、蓄積が可能である。発信された情報をホストコンピュータなどに蓄積することもできるし、受信者が好きな情報だけ自分のパソコン(端末)に保存することもできる。  第五に、検索が可能である。ホストに蓄積された情報は、メニュー化されて表示される。ここから、自分のパソコンで指令して、欲する情報を引き出すことができる。  第六に、端末処理がかなり自由である。通信内容を自分のパソコンに文章(テキストファイル)として記録できる(ダウンロード)ので、自分のパソコンを利用して、あらためてそこから必要な記事や箇所だけを抜き出したり、加工したり、プリントアウトしたりすることができる。通信内容が、簡単に安く「印刷媒体化」されるのである。  テレビも出た当時はニューメディアだったのではないかという人もいる。しかし、今日のニューメディアは、情報が電子化されることによって、大量、迅速、かつ応用自在に流通するようになっていることが、今までのメディアになかった特徴である。パソコン通信も、後者の意味での今日的なニューメディアの一つである。  しかも、パソコン通信はニューメディアの一つであるだけにとどまらない。すなわち、他のニューメディアより、その「双方向性」がけたはずれに強力である。この「双方向性」が、パソコン通信を楽しく、きびしい独特のメディアにしている。 2−3 スタンド・アローンがネットワークする  私は、ネットワークの特性は「自立」と「依存」の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。「スタンド・アローンがネットワークする」のである。  このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「依存関係」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「依存関係」が対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。●2  従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これが、一定の「安定」をもたらした。  しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。「安定」のみを重視する人には耐えられないシステムである。  それゆえ、ネットワーキングとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。その意味で、ネットワークは人間以外の動物にはありえないものである。  ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚を呼びさましてくれる。しかし同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものでもある。  パソコン通信がこのような意味でのネットワークシステムであることを保障する第一の条件は、繰り返しになるが「双方向性」である。  複数、または多数の他者をNとするなら、テレビは1→Nである。電話は双方向ではあるが、基本的には1←→1である。これに対して、パソコン通信では、1←→1(電子メール)、1←→N(電子掲示板)、N←→N(電子会議)などを自由に使い分けることができる。  パソコン通信がネットワークシステムであることを保障する条件として、私は次に「スタンド・アローン」をあげるべきだと考えている。  パソコンは本来、スタンド・アローンなマシンである。パソコン通信の通信内容も、個人のパソコンを使って、個人の個別な行為によって、作成・加工・編集される。その個別な行為の中で、個人の自立が育まれ、また、ネットワークが歓迎する個別性と多様性が生まれるのである。  このように、パソコン通信におけるパソコンは、情報の相互依存のための「ターミナル」(端末)でもあり、「スタンド・アローン」な情報処理ツールでもある。このことが、ネットワークシステムとしてのパソコン通信を保障し、ひいては、情報技術が進行しても、人間がそれに「管理」されることなく、主体的に情報に関与できる可能性を開いているのである。 ●1 「パソコン市民ネットワーク」、岡部一明、技術と人間社、1986.12. ●2 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」については、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)。 3 パソコン通信における新しい「知」と「集団」 3−1 ROMの存在  コンピュータにはロム=ROM(Read Only Memory=読取専用記憶装置)という技術用語があるが、パソコン通信の世界では、いつまでたっても「読むだけの人」をROM(Read Only Man)と呼ぶ。ROMは、ネットが提供するデータベースやネットの中の他人の記事を読むことによって、自分だけが「情報を得よう」としている。それが「エゴイズム」だとして、パソコン通信の愛好者=パソコンネットワーカーから軽蔑される。  情報収集は得であるが、情報発信は得にならないというROMのような「思い違い」は、普通の社会にはある。しかし、すでに述べたとおり、パソコン通信は自らも発信する双方向のメディアである。自ら発信しないのなら、別にパソコン通信でなくてもよい。「情報を発信する所に、情報は集まってくる」という原理が有効に機能するところにこそ、パソコン通信の魅力がある。  パソコンネットワーカーたちは、この「READだけでなくWRITEを」ということに、異常に見えるほど固執する。初心者が入ってくると、何とかその人に書いてもらおうと、懇切丁寧に技術的な情報提供をする。逆に、ネットワーカーが吐く「最大の捨てゼリフ」は、「こうなったら、僕はしばらくROMになってやる」である。自分のWRITEを自負しているのだ。  じつは、WRITEは、彼らにとってより有益な情報を収集するための一つの方策などという「低次元のもの」ではない。WRITEすることによってのみ、人からのレスポンス(反応)が得られる。あるいは、READすることによって、WRITEした人にレスポンスを返すことができ、それがまた書いた相手からリ・レスポンスを得るきっかけになる。このようなREAD←→WRITEの循環の中で、自己の発言に(個別の)レスポンスが与えられることこそがパソコン・ネットワーカーの至上の幸福なのである。  だから、どんどん書きまくるけれども、だれもレスポンスする気のおこらないような記事ばかり書く人も、ウォム=WOM(Write Only Man)、または「ヒーロー」と呼ばれて、ROMと同じように軽蔑される運命にある。  パソコン・ネットワーカーのこのような志向は、「レスポンス至上主義」と呼べるだろう。これは、レスポンスを発する個人の主体性、他からのレスポンスを獲得できる個としての魅力を要請するものであり、また、自己の他者への、他者の自己への影響、すなわち相互の依存関係を最大限に尊重し、歓迎するものである。これは、ネットワーク一般の志向とぴったり符合する。  このようにして、技術としての情報化が進行する中で、パソコン通信は結果として情報化社会の健全な発展に貢献するものになりつつある。なぜなら、「得する」情報を求める受動的情報摂取の志向、「情報ものとり主義」ともいうべき志向を克服して、主体的で確かな、情報と認識の交流のネットワークを構築することが、情報化社会の「健全な発展」に不可欠だからである。  しかし、現実には、自分にとっても他人にとっても理想的にWRITEするためには、困難が多々ある。  第一に、パソコン通信は「書き言葉文化」なので、慣れるまでは少し「しんどい」読み書きの作業が強いられる。最初は電話のような気軽さはない。とくに自己の思考を文章で表現することは、つらいものである。「読み・書き・算」のうちの二つも能力が求められる。真の意味での「学力」の不足は、ここでは直接的に影響し、その人の情報行動を消極的にしてしまう。  ただ、青少年の場合は、「交換ノート」のような「ノリ」で気軽に読み書きしている。これが、新しい「書き言葉文化」を形成しつつある。  第二に、「知の防衛機制」が働く。すなわち、恥や照れによる消極化である。実際、「話し言葉」でなく「書き言葉」を公表することは、他の人に、しかも見も知らぬ人に自分の「あさはかさ」を知らすようで、恐ろしいものである。  「恐れを知らない」青少年にはともかく、「分別ある大人」にとってはとくにそうである。一人でできるコンピュータ支援学習=CAL(Computer Assisted Learning)が「相手が機械だから、何をどう答え、質問しても恥ずかしくない」という理由から、意外にそういう「大人たち」に好評なのと対照的である。  第三に、WRITEするためには、その前後を含めてかなりの時間がかかることがある。というのは、パソコン通信ではオンライン(電話回線を通じたまま、ホストのコンピュータにパソコンから直接、記事を書き込むこと)で、二言、三言の短信を手軽に書き込むこともできるのだが、一度書き込むと、予想外の量や内容のレスポンスがあったりして、その対応(リ・レスポンス)に追われることがある。これは、多忙な人にはかなりの負担になるのである。  このような意味で、パソコン通信の「大衆化」の前途は厳しい。あるパソコン通信を行う会社の経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下の方になるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ。」という趣旨の発言をしている。  たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって、単純にROMの存在を不可避とし、パソコン通信の可能性を軽視することは問題であろう。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この「発展」を継承せずに、消極的な理由から「動画」に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。  情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、ROMの存在に象徴されるパソコン通信の「困難」は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない知的試練としてとらえるべきではないだろうか。 3−2 新しい「知」の誕生  パソコン通信は、ROMの存在に示されるようなやっかいな問題をかかえつつも、「知」の新しい傾向を生みだしつつある。  その一つは知の「ボランタリズム化」である。  たとえ同じネットワークを組んでいる人でも、自分の財産を奪おうとする者は許せないだろう。しかし、一方で、自分の知の成果を「盗む」者に対しては、寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うのである。パソコン通信において、たとえば「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください。」という「パプリック・ドメイン・ソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。  人間には他者に対して影響力を持ちたいという自己実現欲求があると考えられる。情報化が進展することによって、その欲求を平和裏に充足させることが可能になっている。なぜなら、他の本がたくさん出版されたからといって、一つの本の価値が薄まるわけではないように、そもそも「知」を情報の流通に乗せる場合、権力や所有にからむ争いとは対照的に、競合性・独占性が少ないのである。  そしてプログラムづくりやWRITEなどの「知的生産」は、その知を他者にアウトプットするものという意味で、不可避的に社会的存在であるといえるが、ボランタリズムによって、さらにこれらを実際に社会の「共有物」にすることができる。  ただ、最近、営利事業体が経営するネットにおいては、原稿料を払わずに会員の書き込みを出版するなどの二次使用に対して、会員から異議が出始めている所もある。知の発展とその流通のためには、パソコン通信一般において、書き手の著作権(財産権としての)を尊重すべきか、むしろ「無償」の「情報ボランティア意識」を醸成すべきか。議論のあるところである。  二つめは、知の「アマチュア化」である。  パソコン通信は基本的には、「しろうと集団」(ネットワーカー)からの情報発信である。そこでは、効率より「楽しさ」が重視され、知的喜びなども「楽しさ」の一つとしてとらえられる。産業社会にもてはやされた「手段としての情報」に対して、このような「即目的としての情報」あるいは「遊びとしての学習」は、今日の「脱産業化社会」のトレンドの一つである。  また、「手段的情報」についても、「知的プロ」によってオーソライズされた情報ではなく、ナマ感覚(未完成)で不定型の情報と思考態度、知恵が伝わっていく。いわば「耳学問」であるが、これは今日の情報化社会において欠如し、人々から渇望されている情報である。パソコン通信では、このような情報と知が、いとも気軽に安易に文章(テキスト文)として量産されているのである。  一方、一部の「知的プロ」は、この種のアマチュアリズムによる知の可能性に関心をもちはじめ、パソコン通信に参加し始めている。このようにして、アマチュアとプロの「無境界化」が進行する。  そして、これらの「知のアマチュア化」は知のネットワークを推進するファクターとなる。「どんぐり(アマチュア)の背比べ」と自嘲するパソコンネットワーカーもいるが、「どんぐり」だけに「無償」で知のやりとりをすることにやぶさかではないのである。  このような理由で、知のネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの放電が個人の充電に直接連動する。この「相互教育」(意識化された「教育」ではないが)の実現は、個人の内面の「充電と放電の乖離」や、他者との間の知の分業の固定化を克服するための強力な手段である。しかも、学習コーディネーターが省力化できる(不要になるということではない)という意味で、経済的学習システムでもある。  三つめは、知の「個別化」である。  まず、パソコン通信の会員には、個別にIDナンバーというものが与えられる。これとハンドルネームというものが、すべての書き込みの発信元をつねに明らかにする。ただし、ハンドルネームは実名でなくても良いということが、かえってネットワークを活性化させる要素になっている。  次に、パソコン通信が「書き言葉」に純化した仮想空間であることが、ネットワーカーの各「個性」を守ってくれる。椎名誠は、シルクロードを歩いたとき、自分の家のテレビで以前に見たシルクロードの映像と音楽がうかんで困ったということ、そして、テレビではなく本を読むのであれば、イメージは「防衛」されるのに、ということを書いている。●1  つまり、こういうことが言えるだろう。今日氾濫している映像は、それぞれが具象的な「全」情報でありすぎるので、「即イメージ」として個人に浸透しすぎてしまう。それに対して、本やパソコン通信でやりとりされるような「書き言葉」は、各人固有の、あるいは自己の体験に基づくそれぞれのイメージまでは、「根こそぎ」にはしないのである。  加えて、「相互教育」もきわめて個別化される。パソコンの世界では、各実行段階でのユーザーへの画面上のアドバイス(オンラインヘルプ機能)が充実しているものほど良いソフトだといわれている。その意味で、パソコン通信において、各人固有の「問題」に対して、ネット上で他のメンバーから援助の手がさしのべられていることは、「ヘルプの個別化」として評価されるべきである。  四つめは、知の「雑多化」である。  パソコン通信では、各人各様の関心が錯綜する。それを逐一、紹介する余裕はないが、代表的なものを整理すると図表●3のようになる。とくにプログラム志向の人たちはメカよりロジックに関心があり、彼らの哲学的論議にもその傾向が表われている。  しかし、全体的にはパソコン通信はいわば「おしゃべりサロン」である。フォーマルな情報(新聞記事データベースなど)もとれるが、それよりインフォーマルな、そして不定型な「おしゃべり」の方がおもしろい。そこに、思想、情報、データ、そして交流が混在する。それらが「学習」として意識化されたものではないにせよ、実質的に各人の学習素材、学習理念、学習ノウハウ(学習の機会・場所・人材)、そして学習を励まされたり、けなされたりするコミュニケーションなどとして「相互教育」の内実を形成している。  場合によっては、たあいない「イロ、モノ、カネ」の「学習」が新しい時代の価値を創造する人類の営みと連続する。新しい価値は、山奥の「純粋」な大学キャンパスからではなく、「余計な情報」の氾濫する「猥雑」な実社会から生まれてくるのである。  五つめは、知の「民主化」である。  私たちの社会には、「ああせよ、こうせよ」というおしつけがましい情報提供と、それに対する反発の無益な繰り返しがかなり多い。これらの情報は、いわば「模範解答の提示」としてとらえられる。これに対して、パソコン通信などで行き交う情報は「私はこう思う」、「私はこう聞いた」というような、あいまいなだけに受信者の判断力を要請する情報である。発信者も自分の考えがまとまらないままでも、気軽にWRITEすることができる。  これが、パソコン通信による知(情報流通)の民主化の側面である。コンピュータ・デモクラシーとも言うことができるだろう。  六つめは、知の「非体系化」である。  パソコン通信においては、「知」に関連して、実用的論議(たとえば知的「技術」への関心)と根源的な問い(たとえば知的「技術」への懐疑)が対抗しつつ共存している。しかし、前者の「情報」は共有されやすいが、後者の情報は共有されにくい。つまり、「技術」に対して「発想」や「体系」というものは、個人の深い内面に関わるものだけに「個別的」なのである。このことは、「異種の交流」をめざすネットワークにとっては好都合であるが、厚みのある「体系」の継承・発展のためには不利である。  そして、パソコン通信の中では、知が「雑多化」する分、「体系」に関する情報まで「断片化」していく。そのため、メニューなどのシステムがいくら改善されたところで、それらの情報を個人が「自由にわたり歩く」ためにはかなりの知力を要する。システムとしては、そういう「厚み」のある情報も含めて、情報が自由に選択できるのだが、それを選択する能力としての自己の「知的体系」などが備わっていないのである。  最近、「反情報」ともいうべき知的態度を見受けることがある。理科系のパソコンネットワーカーの中にも、こと哲学的な問題に関しては意外にそういう立場の人が多いのは興味深い現象である。すなわち、情報や知的生産の技術をいったん断ち切り、自己や自然との対話をすることこそ、むしろ「発想」や「体系」の源泉であるというのである。  また、ネットワーク社会において、既存の「権威」が失墜し大衆化が進むにつれて、せっかくの「古典」や「大作」の遺産も無力化してしまう。それと同時に「重厚長大な知」も崩壊していくのである。  直接体験がもつ自己への「教育力」と比べて、情報のもつ「教育力」があまりにも無力なのか。しかし、後者を少しでも有効なものにしていくことこそ、情報化社会の主要命題なのであろう。そこでは、「体系」や「発想」の伝え合いを含めた厚みのある「情報共有」と、それを実現する基盤としての新たな「集団性」の構築が求められる。 3−3 新しい「集団」の形成  パソコン通信のネットワーカーたちは、「電子的仮想空間」を媒体とする新しい「集団」を形成している。  すなわち、従来、集団は「人為的、単一機能的、合理的」←→「自生的、複合機能的、情緒的」という二つのパターンで代表されていたのだが、パソコン通信は、「明瞭な人為性」、「諸単一機能の交錯」、「合理性と情緒性の混在」、「個人的行為と集団的行為の混沌化」という新しい集団を形成している。このようにして、近代的機能集団の中で「ハイタッチ」を実現している。  そして、「電子的仮想空間」であるから、「広域」であり、物理的・精神的に閉じ込められた狭い世界のワクを突破することができる。  それでは、パソコン通信の「集団」は、どういう点で現代人に好まれる「ネットワーク型」といえるのか。  まず、パソコン通信においては、「撤退する自由」がある。「仮想空間」であるから、撤退しても生活に響かない。「撤退する自由」の上で、論争などの他の人との「ゲーム」を行えるのである。「親しくなりたいけれども、自分は傷つけられたくない」と言って、他者が近づくと針を逆立ててしまう「山アラシのジレンマ」●2に冒された現代人にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。  もちろん、ネット上でのけんかもたまにあるが、それを含めてすべての「論争」は、率直にさわやかに他者を批判できる知的風土を形成するためのシミュレーションと考えられる。  そして、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向を意味する。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがパソコン通信の醍醐味である。  しかし一方で、パソコン通信の新しい「集団性」は、たとえ現代人に好まれるといっても、フェース・ツー・フェースのコミュニケーション能力を減退させ、電子上でしかコミュニケートできない人間をつくりだす危険性をもっているという批判もある。実際、「パソコン通信ばかり」している青少年もおり、そのパーソナリティー形成への影響は心配されて当然かもしれない。  「共感」や「感動」はナマの人間に対してあるのであり、情報やメディアそのものに対してあるのではない。情報から「人間」を嗅ぎとり、その人間に共感することは、仮想空間でもできるが、そこには限界があることもたしかである。この「限界」は在宅メディアすべてに通じる基本問題でもある。  私は、だからといって従来の「空間的集合」による方策(たとえば集合学習など)を単純にむし返すのでは、後向きだと思う。過去の「集団」ではついていけない人、あるいはあきたりない人が現にいるのである。むしろ、フェース・ツー・フェースのコミュニケーションを模擬・増幅・補完するパソコン通信の機能を評価したい。  最近、「パソコン通信燃え尽き症候群」が取り沙汰されている。今まで毎日のようにアクセスしていた人が、電子上では週末ぐらいしかアクセスせずに、むしろ「アイボールミーティング」(目玉であうこと=宴会・集会など)をせっせと開催し始めているというのである。●3これは、通常、「バーンアウト」によるパソコン通信離れと言われている。  しかし、この「燃え尽き症候群」は、パソコン通信の「危機」ではなく、じつは可能性を表すものではないか。パソコン通信だからこそ、家族や学校や職場以外の人との「出会い」のきっかけになりうるのだ。「アイボールミーティング」などは、現代一般のコミュニケーション阻害を克服する営みの一つといえるだろう。しかも、パソコン通信に「埋没した」生活ではなく、「一般人」でもできる常識の範囲内のアクセス回数になってきているという。「燃え尽き症候群」は、むしろパソコン利用の成熟化の端緒といえるのではないか。  パソコン通信で何が「通信」されるか、だれも計画や予想はできない。それゆえ、押し出す先の決っている「プッシュ型」の教育の観点からは、パソコン通信は関心の対象外になりがちである。  行政ばかりか、「ユーザー教育」の重要性を唱えるパソコンメーカーでさえ、パソコン通信の通信内容に関しては、あまり「敬意」を払ってはいないようである。ただ、ネットワーカーたちは「自立的」であるから、メーカーに「評価」も「ユーザー教育」も求めていない。むしろ、たとえばパソコン通信サービスを行っているメーカーなどに対して、「キャリアー」(運搬者)に徹してくれればよいと言っている。  しかし、これからますます発展するであろう情報化と人々のネットワーク化は、すでに述べたように、大きな可能性とともに、どうしても克服しなければならない問題性をもっている。その問題の克服のためには、「不易」を「体系的」に提示しながら、イロ・モノ・カネに関わるなまなましい「学習」需要もみくびることなく、それが量的にも質的にも発展するよう促す「プル型」の援助の姿勢が社会にも求められる。  このような姿勢でパソコンネットワークを援助するならば、それは「学習者の現在の自発性を尊重しながら、今後の自主的能力を育成する」という、一見、「自己撞着的」な教育理念を実現するための「偉大な試み」になるのである。 ●1 「活字のサーカス」、椎名誠、岩波書店、p210、1987.10 ●2 「山アラシのジレンマ」、L.ベラック、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、1974.1、もとはショーペンハウアー。 ●3 「転機に立つパソコン通信」、松岡資明、日経パソコン、1988.8.22