パソコン通信は生涯学習に何を与えるか 「在来型の生涯学習」を支援する  「親展」の通信(電子メール)、不特定多数への通信(電子掲示板=BBS)、会議、データベースの検索、通信販売、予約などの機能をもつパソコン通信が、そのまま今日の生涯学習の道具として活用しうることは、想像に難くない。とくに、●学習を援助する者●にとって必要な情報の処理や判断を行うCMI(Computer Managed Instruction)としては、かなり使えるはずである。たとえば、生涯学習に役立つ資源のデータベースを作り、それを社会教育主事等がどこからでも自由に利用できるようにするなど、活用の可能性は限りない。また、学習者自身による活用についても、学習情報の収集、施設の利用予約など、いくらでも思いつきそうだ。  これらの活用方策も興味深い。しかし、これらは、結論からいえば、いわば「在来型の生涯学習」の延長線上にある。今まで行われてきた生涯学習をかなり有効に支援するものにはなろうが、生涯学習を革新するものではない。それゆえ、パソコン通信の有用性をそこから説いてみても、「まだ普及していないパソコン通信など使わなくても、みんなが慣れ親しんでいる電話やファックスで間に合うのではないか」という消極論の前に意気消沈してしまう。  「在来型の生涯学習」を支援するために、パソコン通信もその有効なメディアの一環として、得意な分野を活かした活用を図ることは、それはそれで重要なことである。しかし、ここでは、その詳細については省略し、パソコン通信が「新型の生涯学習」を生み出し支援していることに絞って考えてみたい。 「新型の生涯学習」とは何か  それでは、パソコン通信が生み出しつつある新しい生涯学習の特性と考えられるものは何か。  一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(不定型教育)の機能の発揮である。  これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。  これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にも教育・学習の場はある。そして、社会や企業等は、その重要性を無視することができなくなってきた。  二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。  普通、「学習しよう」という本人の意識(「計画性」)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。たとえばNHK放送文化調査研究所の「学習関心調査」では、「学習行動」の定義を「ある程度まとまりをもった知識・技能(または態度・能力)の獲得・維持・向上を●めざして●行う行動」(傍点筆者)とし、また、「総計7時間未満の学習行動」などを除外している。もちろん、この「学習の限定」には、正当な理由がある。第一、ILまで学習の範疇に入れてしまうと、学習行動率は百%になってしまう。  しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことも、あらためて確認しておくべきである。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学ぶ「偶発的学習(インシデンタル・ラーニング)」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした人にとっては重大事なのだ。  三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。  たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追及する●教育●工学の立場がある。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいかということ、言い替えれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育の●しろうと●までが関心を示している。彼らも、多数に対して表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうからこそ、エキサイティングなのでもある。  以下、これらの「学習」の実際の姿を、おもに電子掲示板(BBS)の事例から見ていきたい。 アバウト、ミスマッチ、ジグザグ  私は、ある商業ネットで次のような記事を載せたことがある。  「『生涯教育事典』という本で『コンピュータ』について書いています。しかし、コンピュータについてはしろうとなので、不安なんです。間違いやおかしい点があったら指摘してください。 mito」(筆者注 mitoは私のネットワーク上の名前=ハンドルネーム)。そして、その次の記事としてアップロード(文章を仕上げてディスク等に記録しておき、それを一気に送信すること)した文中に、コンピュータの定義として「電流がONかOFFかの組み合せを判断することによって、情報(データ)を大量にすばやく処理するシステム」という部分があった。  この定義について数十分から半日(夜中から翌昼にかけて)までで5、6件のレスポンス(他者が反応して書いた記事)がついた。数日後に入ったレスポンスも含めて、簡単に紹介する。  「電流が流れているかどうかで0/1を表現するというのは、例外がいろいろ思いつける説明です」、「『電圧の高低により』がいいんじゃないかな」、「それより現在おもに使用されているソフトウェアの機能ということで説明してほしいですね(あるソフト屋さんから)」、「そういえば、この中にはアナログコンピュータが含まれてませんね」、「アナログコンピュータって、聞きませんね。どうでしょうか」、「電圧のon、offであったとしてもよろしいのではないでしょうか」、「アナログコンピュータ(聞きます)に限らず、ファジーコンピュータとか光コンピュータも含んでいないと思います」・・・。  ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も右のごとく、大ざっぱ(アバウト)で、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。  しかし、このような「アバウト、ミスマッチ、ジグザグ」の情報から、各自は最初、気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、●予期せぬ●解答を見いだすのである。BBSは、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)ということができる。  近代になって、さまざまな権威者や専門家が制度化され、彼らが「良いもの」をセレクトしてくれるようになってきた。図書館司書は「選書」をして、良い本を書架に並べてくれる。最先端のデパート(ロフトなど)は、洗練された選択眼のもとに商品をセレクトする。もちろん、それらは特定の価値観を独善的におしつけるものではない。むしろ、結果的には、私たちが情報過多におぼれずに、読書や消費を選択する手助けになっている。  これに対してパソコン通信は、このような権威者や専門家がいない世界である。たとえば、ネットの主催者も、基本的には「たんなるキャリアー(運搬者)」にとどまるべきだとされる。そういう世界では、「アバウト、ミスマッチ、ジグザグ」な情報に耐え、それをセレクトし、つなぎ合わせ、確かめることを自分でしなければならない。しかし、それだけに、情報主体としての「個」を鋭く発揮する余地が大きいのである。 コミュニケーション型学習  先日、野間教育研究所で成人学習者のインタビュー調査を行った。その時、パソコンネットワーカーのSさんは私に次のように語っている。 「最初の1カ月ぐらいは、あまり夢中にはならなかったんです。やはり、慣れるまでちょっと時間がかかる。マナーを覚えるというか。しばらくは読むだけに徹するみたいな期間があったりして。  その後、おずおずとあまり期待もせずに書き込んだもの(ある本の感想文)に対して、何人かの人が好意的なレスポンスを返してくれたということで、『はまった』という感じで、面白くなってきた。」 「自分の書いた文章を、電話線からホストの方にアップロードすれば、その日の内に何十人、場合によっては何百人の人が読んでくれる。中には、それに対する感想なり、反応なり、意見なりを翌日には書いてくれる人がいる。このようにレスポンスがあるというのが、パソコン通信の一番の面白いところですね。でも、この面白さを人に説明しようとしても、なかなかわかってもらえない。やはり、実際に体験してみないと理解できない。」  じつは、彼らにとっての書き込みとは、有益な情報を他者からもらうための一方策などという軽微なことがらではない。書き込みが、人からのレスポンス(反応)を引き出す。さらに、これから新たなリ・レスポンスが生まれる。このようなREAD←→WRITEの循環の中で、自己の発言にレスポンスが与えられること自体がパソコンネットワーカーの至上の幸福なのである。これは、パソコン通信における「レスポンス至上主義」とよぶことができるだろう。  学習には、いわば「●情報物取り学習●」もあるだろう。先行研究やその他の必要なデータを早く的確に収集・整理することを重んずる学習である。これに対してパソコン通信は、いわば「●パーティー学習●」といえるのではないか。  パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、よく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流である。しかも、交流する相手も、日常的なフェース・ツー・フェースのつき合いよりは、「見知らぬ他者」との出会いを尊重する。パソコン通信の「レスポンス至上主義」も、パーティーに見られるこのようなコミュニケーション志向をもっている。  ちなみに、●パソコン通信をするために●必要な何らかの学習があるとすれば、それも同様に「コミュニケーション型」である。  LLL(AVPUBを利用している生涯学習関係者のグループ)のメンバーの上尾市社会教育主事のフィギュアさんは、パソコンのノウハウに詳しい。彼は、AVPUBにパソコン通信ソフトの「オートパイロットプログラム」を載せてくれている。これを使えば、コンピュータ・リテラシーなどほとんどなくても、ソフトを起動させるだけでパソコン通信の中のめざすメニューまで自動的にたどりつくことができる。技術に詳しいネットワーカーは、このようにして喜んで初心者への技術的援助をしてくれる。私はこれを「情報ボランタリズム」とよびたい。  このような環境の中では、じつはノウハウよりノウフウこそ大切になる。誰が何に詳しく、何を手伝ってくれるかということである(たとえば、フィギュアさんがパソコンのノウハウに詳しいなど)。  そして、他者と交信する際の一番大きな課題は、いかにして表現すれば(Sを発すれば)他者からのレスポンスがあるか=コミュニケートできるかということなのである。これは、新しい意味での「教育」技術である。 ネットワークによる知的生産  パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。それゆえ、「まねぶ・ならう」べき権威の存在する学習だけを礼賛する「学習観」にとっては、パソコン通信における相互学習は「どんぐりの背比べ」であって学習たりえないととらえられがちである。たしかに、外部講師や助言者のいない討議は生産的に見えない。しかし、今後の「ネットワーク型の学習」の原点は、メンバー間の「水平性」である。  大分県の「コアラ」は、「(官は)金は出すけど口は出さない」という官民一体のパソコン通信ネットである。そこでは平松知事もメンバーに県の各種構想の支援を訴える電子メールを出すし、高校生も「高校生シリーズ」という電子掲示板で大人と同等の関係で意見交換する。パソコン通信の世界では、これで当り前である。  パソコン通信は、そもそも物理的システムとしても水平である。各自のパソコンは、中央(ホストコンピュータ)に対する「端末」にとどまるのではなく、発信源にもなり、また、スタンドアローン(自立型)の情報処理も各パソコンでできる。  ネットワークは、各「個」が自立的な価値をもちつつ、「水平」な立場で「異質」と連携することであろう。ハイテク・情報化の中で疎外されがちな「個」が復権し、しかも「グループワーク」するためには、パソコン通信のシステムが適しているのである。  このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の共同化の可能性が生まれつつある。  LLLのメンバーである花園町社会教育主事のSHOUさんは、メディアの活用における生涯学習関係職員の専門性について、他のメンバーから問題提起されたのを受けて図式化を試み、レスポンスとしてAVPUBにアップロードした。その図式は他者からの指摘も受けて改訂されていった。AVPUBでは画像の通信はできないが、研究の整理のための図式程度のものならば、全機種共通のテキスト文の文字フォントを使って十分伝え合うことができる。  従来の出版における「共著」は、どうしても各個人の論文の寄せ集めになりがちであった。あるいは、編者を頂上とするヒエラルキーのもとに、整合性を計ることもやむを得ない場合もあった。しかし、パソコン通信を利用すると、個をあくまでも発揮しつつ、適宜、各自の都合のいい時間帯に見解を戦い合わせることができる。しかも、編集ソフトを使えば、訂正と更新の手間もほとんどかからない。パソコン通信によって、本来の意味としての「共著」が可能になるのである。  乳幼児が日々の生活と遊びの中で学習・発達するように、つね日頃、好奇心、探求心などの「発達意欲」さえあれば、成人でも生理的活動以外のすべての活動が「学習」につながりうる。そもそも、セルフ・ディレクテッド・ラーニング(自らが「監督」する学習)は、そういう資質なしには成り立たないであろう。パソコン通信は、セルフ・ディレクテッドに個性を出し合い、コミュニケートし、共同化することにおいては、とても好都合な電子的空間である。  紙面の都合から足早に説明した。とくに、パソコン通信による学習の困難や課題の側面について述べることができなかったことは、本論が「パソコン通信びいき」であるという●そしり●を増すことになるかもしれない。  すなわち、「ROM」(読み出し専用メンバー)の存在、「書き言葉文化」の非大衆性、公による支援(FE、NFE)の困難性などである。  しかし、これらも興味深い問題である。拙稿を読んでくださった方と、AVPUB上で議論を続けたい。