子どもたちの団体活動  〜そこに秘められている大いなる教育力〜               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 教育とは子どもがワクワクする営み  少年団体指導者の方々が、もし、動物のしっぽの働きを子どもたちに教える場面に出会ったら、まず、どんなことをするだろうか。「しっぽの働きの教え方」という本を探して(そんな本はないが)、その本のとおり教えればよい、と思うような主体性のない人は、指導者の中にはいないと思う。動物のしっぽについて、自分が子どもたちに何を教えたいのか、考えるだろう。現在の自分の中に教えたいことがまだできていなければ、しっぽに関するたくさんの資料を集めて、「教えたいこと」を自分の中にあらたにつくり出すことだろう。  それが教育の第一歩である。ごく薄い科学絵本、一冊を作り出すためには、手に抱えきれないほどの「大人向け」の資料が読み込まれるという。そこで作者が感動したたくさんの事実のエッセンスを、科学絵本という形で表現する。その絵本が、作者が感じたのと同じ感動(共感)を子どもに与える。そこに絵本づくりの面白味がある。  少年団体指導者の活動にも、同じような苦労と喜びがいつもついてまわっている。つまり、指導者自身に伝えたい感動があるからこそ、それを苦労しながら補強した上で、その感動を同じ人間としての子どもたちに伝えようとしているのだ。教育の第一歩は、「伝えたいこと」があるということだ。  しかし、それだけでは教育にならない。子ども自身が新鮮な驚きをもって感動しなければ、指導者だけがワクワクしていただけということにしかならない。感動を伝えるためには、子どもたちとその感動をコミュニケートできるセンスが必要になる。教育的センスといってもよい。  ここに「しっぽのはたらき」という絵本がある。中を開くと、たとえば、  ふわふわした しっぽを、ひょい ひょい ふりながら、えだのうえを すばしこく はしりまわったり、えだからえだへ とびうつったりしています。なんの しっぽでしょう? とあって、ページの右上に木の枝につかまった小動物のしっぽのあたりが描かれている。よく調べられて正確に描かれているが、思わず微笑んでしまうほど可愛らしくもある。ページをめくると、それは、りすの体、全体につながっており、他の一匹はしっぽを広げて枝から飛び降りているところだ。「ふわふわした しっぽが ぱらしゅーとの やくめをする」というのである。  たとえ、りすのしっぽがパラシュートになることを知って作者がワクワクしたとしても、それを前のページに書いてしまったら、おしつけがましいし、子どもたちに作者の感動が伝わるようなものにはならなかっただろう。子どもが「何のしっぽだろう」、「何のためにあるんだろう」と◆自分で◆思ってこそ、真実を知らされて驚き、ワクワクすることができるのである。  団体が子どもたちに伝えたいことを持っているということは、少年団体活動が教育的意義をもつための基本的条件にはなるが、それを子どもたちにお説教するだけなら、そんなものは何回繰り返しても本当の教育にはならない。子ども自身が◆自分で◆ワクワクしてこそ、子どもは確かな成長をするのである。教育的センスさえあれば、少年団体活動は、そういう「ワクワク」を与えるワンダーランド(不思議の国)の「局面」を本質的にたくさんもっている。 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動  ひとがものごとをとらえる時の枠組を「準拠枠」という。「カウンセリングの話」という本によれば、次のとおりである。  人間は、言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情などを表現することができるが、それらのことを表現したり、お互いに理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。(中略)例えば、同じ「悲しい」という言葉を使って話をしていても、突きつめていくと自分の「悲しい」と相手の「悲しい」が違うということに気づくことがある。私たちの日常生活は厳密にいうと、実はそのようなことのくり返しだといっても過言ではない。  そういうすれ違いがあっても、平気で大人の準拠枠を押しつけるだけの団体運営を進めるならば、それは表面的には団体活動に見えても、けっして教育的な活動とはいえない。  現代社会では、本当にひどい本が売られている。ある本には「女性の部屋に侵入する方法」などがびっしりと載っている。「相手が一人暮らしかどうかを確認すること」から始まって、「窓ガラスに粘着テープを貼って焼き切って、手を入れて鍵を開けて侵入」する方法やクロロホルムで眠らせる方法などが◆ていねいに◆書かれている。高校生あたりになるとそれほどでもないらしいが、中学生がよく買っていくとのことで、またたく間に版を重ねている。子どもたちが異性を見る目は、その準拠枠は、この先、どうなっていくのだろうか。あるいは、そこまで極端ではなくても、たとえば従来の競争社会が生んだ受験体制の圧迫は、ほとんどの子どもたちの準拠枠の形成に大変な影響を与えている。「偏差値君さようなら」という生涯学習社会の理想からは、まだほど遠い実態なのだ。  こういう環境に影響を受けてしまっている今の子どもたちの準拠枠のずっと遠くの方で、きれいごとばかりで埋めつくされたお説教をしていても、子どもたちに情報の一つとして聞かれることはあっても、子どもたちの準拠枠そのものには響かない。  かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、子どもにどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。現在の少年団体指導者の中にも、忙しさのあまり、そういう傾向に流れてしまっている人がいるかもしれない。しかし、本当の教育の姿は、そこにはない。それぞれの子どもなりの「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらない。  しかし、本来の少年団体活動なら、子どもの準拠枠そのものに迫っていくことができるはずだ。なぜなら、活動の中には、感動を呼び起こす参加や体験があって、感動を共有できる子ども集団があって、それらを受け止める地域があるからである。 少年団体活動には教育力があふれている ★ 体験のもつ教育力  国立日高少年自然の家の紀要では、集団宿泊活動の中での子どもたちの体験活動を、@人への働きかけ、A自然への働きかけ、B地域文化への働きかけ、C公共施設への働きかけ、Dその他に分けて検討している。  また、「なかまたち」15号で三浦清一郎氏は、子どもたちがもっている自然に関する知識について次のように述べている。  これらの子どもが知っているのはいわゆる「解説」であって、実際の自然の在り様についてはほとんど経験していないし、知識もないことに驚くのである。(中略)このような状態を青少年の自然接触体験の欠損と呼んでいい。  そして、三浦氏は、ある体験が子どもに欠如しているということは、子どもの「社会化」(社会のメンバーとしてふさわしい資質や行動の仕方を子どもたちに教えていくプロセスであり、少年期にはその大部分が体験を通して獲得される)が行われないということを意味している、と指摘している。 ★ 参画のもつ教育力  全国子ども会連合会の資料には、「おしきせプログラムはまっぴら」と題して、次のように書かれている。  どうも、大人が事前にすべてを準備しきって、ただ子どもは、お客さまで参加するという行事が多かったのではないか。プログラム立案の段階から参画することは、参加意識を高め、苦労しても、なんとかやりとげ成功させたい、そのために労をおしまず仲間と協力しあおうとするであろう。その仲間と苦労をともにして、やっと仕事をなしとげたあとの成就感を味わったとき、ヤッタという晴れ晴れした気持ちになるであろうし、その時「またやってみよう」というやる気を育てるわけである。  参画は、ひとをワクワクさせる。参画するためには、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身の準拠枠にも鋭く迫られる。そういうせっかくのチャンスを指導者が独り占めにするならば、指導者だけが「成長」するという結果になりかねない。 ★ 地域活動のもつ教育力  創造性開発理論の中に「異質馴化と馴質異化」という考え方がある。異質なものを身近な馴れたもののように眺め、馴れたものを新たな気持ちで見直すという意味であろう。  住みなれた地域には、「空缶拾い」や「花いっぱい」などのいわば「馴」のレベルの素材がいっぱいころがっている。これはこれで、子どもたちに素晴らしい体験のチャンスを与えてくれる。しかし、その教育的効果はもっと奥行きの深いものとして認識され、広がりのある活動がなされるべきである。いつもの地域を地球の一部を他の天体から見るような気持ちで、つまり「異」のレベルで、見直してみると、地球の限りある資源を大切に使わせてもらうために小さなコミュニティが果たすことのできる大きな役割も見えてくるのではないか。  子どもたちにとって、地域は、主人公として参加できる身近な場であると同時に、少年団体の教育的センスによっては、壮大な夢と認識を広げてくれる場にもなるのである。 ★ 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力  少年団体活動の中では、同世代の仲間や◆義理◆の兄弟姉妹との関係が、自然に数多く発生する。子どもたちは、そういう自然発生的集団の中でこそ、自らを変えていく。  石けりをしていて、大変な難事を要求する所に石が入ってしまっても、同世代の仲間が見ていれば、子どもたちはなんとかその難事をこなそうとしてきた。親や教師がいくら言ってもできないことを、仲間の前では泣きながらでも頑張ろうとする。そういう努力を放棄するなどの遊びのルール違反は、仲間から厳しくとがめられた。同時に、最後はお互いに手心を加えることなども体で学んできた。また、その遊びのレベルまで達していないような小さな子が来れば、遊びを中止しなくてもすむように、その子のために一部ルールを変更するなどの知恵を働かせてきた。「自然に」発生する集団がもっているこれらの自律的な教育力を、団体は「意識的に」尊重し可能な側面的援助を与えることが必要であるといえよう。  それにしても、少年団体活動には、現在の子どもたちに欠けている体験・参画、仲間や地域とのふれ合いのチャンスが、なんと豊かにあふれていることか。 子どもにだって「個のふかみ」がある  「個のふかみ」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズに応え、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個のふかみ」に言及せざるをえないと考えられた。提言はいう。  ある施設での活動で、子どもが外からいそいそ帰ってきて、指導者をつかまえて話しかける。「ねえ、あっちにきれいなお花が咲いていたよ」。しかし、その指導者は彼に対して大声で「何やってるんだ。みんな向こうに集まってるぞ」と注意する。子どもが自然の中でとらえた出来事、発見そして喜びなどの感情が、この指導者の対応によって台無しにされてしまうのである。  子どもたちは、自然の中で、遊びや活動の中で、さまざまな発見や体験をする。そして、この発見と体験を指導者に伝えようとする。これをしっかり受け止めることが、指導者の重要な役割であろう。  心理療法の中に交流分析という手法がある。子どもにも大人にも、どんなひとにも、自由な子ども、従順な子ども、理性的だが打算的な大人、看護的な親、厳格な親という要素が混じっているそうである。その度合はひとによって違う。どの要素が一番望ましいなどと、誰かが決めることのできるものではない。「個のふかみ」は、そういう個別性から生ずる神聖で不可侵なものだ。  同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得ることが、集団教育の目的ではない。子どもたちの「さまざまな発見や体験」という多様な個別の深まりが、今、大切にされなければならない。塩化ナトリウム99%の工業塩より、不純物の多い天然塩の方が料理の味に深みを出すという。少年団体活動も、皆を「団体の優等生」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの子どものエネルギーを評価しなければいけない。  むしろ、組織にとって子どもとは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在、子どもにとって組織とは、どうにでもなる、どう変わってもよい存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、少年団体という◆組織にとっては◆荷の重くなるような言い方だが、子どもたちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとする◆教育的観点からは◆当然の見地だと思う。  「しっぽのはたらき」を作った人は教育の専門家ではない。少年団体にも、教育の専門家が必ずしもいなくてよい。しかし、子どもの教育とは、子どもたちにおしなべて「こうさせよう」とする「対策」ではなく(そうは言っても、時として「安全対策」などが必要になることはもちろんだが)、本来的には、子ども自らが気づき多様な「個のふかみ」をもつための、側面からの「援助」なのであるということは、認識しなければならない。未知数のものを外から援助するというところに教育の難しさがあり、本当の面白さもある。  つけ加えれば、子どもの「個のふかみ」とつき合える少年団体の指導者は幸せである。なぜならば、近代合理主義社会の中で凝り固まった自分の「準拠枠」が、子どもたちの「個のふかみ」に接することによって快く揺さぶられ、子どもたちとともに育つことを体験できるからである。 参考文献(紹介順) 川田健、薮内正幸「しっぽのはたらき」福音館書店 平木典子「カウンセリングの話」朝日新聞社 国立日高少年自然の家紀要「シシリムカ」第5号 三浦清一郎「自然接触体験の欠損と青少年の活動」(「なかまたち」15号所収) 全国子ども会連合会「中学生 −その青春と地域活動−」 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」