「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その1) 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A new idea and technique in adult  education to support the ”Depth of  Individuality” はじめに 〜「個の深み」とは何か〜  「個の深み」という言葉は、青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」1)の中で提起された。私もその委員会のメンバーとして起草に携わった。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズに応え、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられたのである。  そこでは、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した。1)このような確かな「個の深み」ともいうべきものが、これからの社会の中で育つ可能性があるとするならば、その獲得を尊重・助長するための社会教育技術(本編では講義技術)のあり方について考察することは意義深いと考えられる。  山崎正和は、「柔らかい個人主義の誕生」という本で、「個別化」について次のように述べている。「個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである」。2)  もちろん、これは個別化のある一面であって(上では「趣味の形成」の場合)、現代社会において「個別化」の本質とは、じつは「画一化」であったりする。オーダーメイドと思っていた商品が、全部同じコンピュータのデータから作られていることもあるだろう。あるいは、その「画一化」に巻き込まれることを拒否しようとして、威勢はよいけれどもうわべだけの空しい自己顕示をする者もいる。それらは、現代社会の個の弱さの表れでもある。  山崎自身が同じ本の中で、たとえば現代人の「自己顕示」を「自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現である」ととらえている。このように、今日の「個別化」の状況は、必ずしもすべてが望ましい状況とは言えない。「個の自覚」はむしろ脆弱化する状況も見受けられるのである。  しかし、前者のように「個人が内面的な自発性を発揮」できるような「自己固有の」趣味などを形成し始めていることも、また、一つの事実である。  「個別化」とは、一人ひとりが自分にしかない「何か」をもちたいと少なくとも心の中では望むことであるといえる。今後の社会においても、この「個別化傾向」はますます強まるだろう。この「願望」を誰も否定することはできない。自分だけにしかない自分を大切にしたり、まわりから大切にされたりしたいという願いは、個の充実・確立のためには不可欠である。したがって、もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は、「派手だが空しい自己顕示」を必要とするものとは本質的に異なる。  このような個人の内面的な自主性・主体性に基づいた個別性について、私は、その言葉が意味する「神聖さ」と「不可侵性」に敬意をこめて「個の深み」と呼ぶことにしたい。「個の深み」とは、個別化が止揚されたものであり、個別化よりも積極的な価値づけをした言葉と考えてもよい。ただし、反面では、他者が一個の「個の深み」に深入りしすぎると逆機能を生ずるという危険性もある。言いかえれば、「深みにはまる」という危険性である。ここでは、「深み」という言葉に、そういう二面性を象徴させている。 1 社会教育における組織と個人 (1) 「組織的教育活動」の従来の解釈 (2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ (3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育    〜個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ〜 2 講義型学習と社会教育、高等教育 (1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰 (字数の関係から、以上1の(1) から2の(1) までは次号まで見送りますが、筆者までご連絡いただければ、その未定稿をさしあげます。) (2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育  「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とする講義(学習する側からいえば「一斉承り学習」)の逆機能は、高等教育においてもまったく同様の問題となって表れている。  大学の目的については「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、◆深く専門の学芸を教授研究◆し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法第52条)とあり、短期大学の目的については「◆深く専門の学芸を教授◆し、職業に必要な能力を育成すること」(同法第69条の2)とある。「深く専門の学芸を教授」することについては共通している。なお、小・中・高等学校については「心身の発達に応じ」た教育を「施すこと」となっており、その他に大学などと違って教育目標が定められているが、「学芸の教授」という言葉はない。  「学芸」とは「学問と技芸」であり、「教授」とはそれらを「教えさずける」ことである。「学問」の「学」は旧字体では「學」であり、「臼」(両方の手)で「子」が知識を授けられる「家」を意味しているが、「爻」という「二者間の相互の動作」も含んでいる。「問」とは、とびらで閉ざされている「門」、すなわち「かくされていて分からない事を口でたずね出す意」である。「教授」の「教」は、やはり「子」に対するという意が強いが、旧字体では「子」の上に「爻」が使われる。「授」には、「さずける」という師弟的な響きが強いが、解字では「手」で「受ける」という学習者側の主体性も意識したものと考えられる。9)  このように、「学問」の「教授」という言葉のもともとの意味から言って、師弟関係を前提にしているとはいえ、それが非主体的な「一斉承り学習」によって実現できるものとは想定されていない。これは当然のことといえよう。しかし、実際の教育現場では教授側も学習側もその認識が十分とはいえないのではないだろうか。  なお、社会教育関係者の間には、「勉強」という言葉は「つとめしいる」だから強制的な意味あいが強いと決めつけ、それに比して「学習」という言葉は即主体的行為であるから好ましいとする議論がある。これについて触れておきたい。  「学習」の「学」はすでに述べたように「臼」(両方の手)で知識を授けられることであり、「まねぶ」(まねをする)ことでもある。「習」の「羽」と「白」は「ひな鳥がくりかえしはばたいて飛ぶ動作を身につける意」9)であるから、「ならう、なれる」ことである。たしかに、「学習者側からの表現」と言うことはできるが、与えられた「教育目標」に対しては無批判的に受け入れることを前提とした言葉であるといえなくもない。「学習会」などというと、無意識のうちにどうしてもそういうニュアンスで感じとられてしまうのではないか。  これに対して、「勉強」という言葉については、「勉強会ブーム」やパソコン通信のアーティクル(通信記事内容)にしばしば見かける「私も勉強しておきます」などの表現に、◆新しい意味◆を見いだすことができる。「勉強」の「勉」は、「力」(りきむこと)と「免」(女がしゃがんで出産するさまの象形)である。「無理をおしてはげむ」ことである。「強」も「無理をおす」という意味である。9)その語感に軽やかな楽しさがないのは否めないが、日本語としては他者からの強制を必然的にともなうものとは限らない。ここで、「学習」という言葉を◆しいて◆「勉強」に置き換えようと提言しようとするわけではないが、市民の「勉強志向」をあなどらずに援助することの必要については強調しておきたい。  さて、高等教育における講義の位置づけであるが、その現在の到達点を探るためには、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)に書かれている主張の吟味が有効である。11)本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における◆教員訓練研修プログラム◆に関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。  そこでは、「学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」であること、すなわち「学習は個人的事象である」ことが基本テーゼになっている。したがって、「多人数で行なう講義」については「教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離」などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、これまで述べてきた学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」としている。本書でこの「講義法」に対置されている教授法は「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」などである。  「学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」という言葉などは、アメリカのM・ノールズがアンドラゴジー(おとなの教育学)の特徴としてまとめた成人の学習の形態、動機、基盤などとぴったり一致する。12) このことから、社会教育がめざしている主体的学習の「援助方法」は、高等教育が今日模索している「教授法」と、技術的にはほとんど同じものになることは予想にかたくない。  もちろん、学習内容については、社会教育の場合は法によれば「実際生活に即する文化的教養」(第3条)であるから、「深く専門の学芸を教授研究」する高等教育とは明らかにレベルが異なる。しかし、「実際生活に即する文化的教養」にしても、いわゆる「身のまわりの問題」だけの学習、うわべだけの「文化」「教養」としてしかとらえないとすれば、これもまた問題である。  人々の生活・文化・教養ニーズは、高等教育でいう「学芸」に近づこうとしているのではないか。逆に、「学芸」の方も学際の重視などから人々の「生活」「文化」「教養」にいっそうの関心を示しつつあるのではないか。このようなことから、社会教育でいう「生活」「文化」「教養」についても、新しい時代の人々の学習ニーズに応じて柔軟にとらえなおさなければならない。たとえば、「つとめしいる」勉強に関心を示し「自ら」それを行なおうとする一般成人などは、その潮流の先駆者ととらえてもよいであろう。 (3) 講義からの「逃避」に隠された弱点    〜多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ〜  このような新しい生活、文化、教養、あるいは学芸にとって、講義型学習は「本質的」に無効なのであろうか。たしかに、「個の深み」の実現のためには、生活、文化、教養、学芸においても◆各人の◆独特の深みが求めらる。しかし、そのような「深み」が求められるからこそ、「ある専門の学芸を深く研究している」教授者(professor )が自己の研究の最先端を告白(profess )する講義という教授形態は、かえってそのための高度で能率的な方法として再評価されるべきではないか。もちろん、そこでは「教授技術」(社会教育における「講義技術」)などの改善の努力が前提になることは当然である。  前出「大学教育の原理と方法」では、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、1週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。  しかし、同時に、「伝達されるべき情報がまだ未発表のものであるか、新しい方法で構成される必要がある場合、もしくはそれらの情報が課程の概略・要約となる場合」などは、「解説的な教授法が最もふさわしい技法となる場合もある」としている。だが、その場合でも「学生に大きな刺激をもたらす源泉」となることは「例外的」としている。その上で、本書では、講義法を行なう場合、フロアへの質問の投げかけ、自己評価のための小テストなどの「革新的試行」が教師にも学生にも有意義だとしている。そして、聴講者の前に立つ時の精神的不安に対処する方法、聴き取りやすい話し方、その他講義の準備・構成・提示にわたってさまざまな技術的な「アイデア」も提示している。これらの「技術」の中には、学習者の主体性支援のためのものもかなり含まれており、講義の技術を考えるにあたって大いに参考になる。  ただし、本書の場合、先に述べたとおり「講義法」よりも「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」の方に、より大きな価値をおいている。しかも、たとえば「小集団討議法」の章では、「小人数でグループを形成して、各自の考え、知識、理論、洞察等を互いに交換し合う機会をもつことは、学生にとって大学教育から得られる最も貴重な学習体験のひとつとなる。伝統的に小集団討議法は、最も中心的で歴史的な大学教育の機能とみなされてはきたが、その役割はこれまでにその価値にふさわしい形で開発されてきたとはいえない」とし、小集団討議によって「帰属感や楽しみの感情が存在し、考えや意見を分かち合う」ようになることを提言している。学習者の主体性の支援の必要を強く意識したものといえる。  このような考え方にもとづく「小集団討議法」は、社会教育の手法と似通っており、私は正直に言えば好感さえ持つのだが、同時に、教授者が個人の個別な深まりをどう援助するかということについては、ほとんど深められていないことに多少の不満も持つのである。もちろん、小集団討議における教授者の役割やその技術も緻密には述べられている(わが国では類がないほど)。しかし、それは、本書を見るかぎり、個々人の「深まり」よりも、◆すべての学習者が◆主体的に学習できることに最大の関心を持った上でのことのようである。主体性が多数の者にいきわたることのために、ほとんどの精力を費やしてしまっている。講義型学習への「あきらめ」は、そこから生じているのではないか。  わが国の場合は、どうであろうか。ロンドン大学のような教授法に関する教員の訓練がないことは言うに及ばず、高等教育における教授法の研究・開発自体が進んでいない。教授者は自らの教授法を自ら管理しながら、あるいはひどい場合は教授法に無頓着に、教授を行なっている。しかし、皮肉な話だが、もし教授法を真摯に検討するようなことになれば、高等教育が大衆化している今日、すべての学習者が主体的に学習できる方法と技術(講義以外で)があるということに驚き、それを「救世主」のように受けとめ、いっぺんにそこに傾倒してしまうのではないか。  「大学教育の原理と方法」でいう「小集団討議法」の理想像程度ならば、「共同学習」などに始まる社会教育実践の場で、ある程度現実のものとしてきている。この成果を、わが国の高等教育の教授法の改善においても反映させるなどといったことは考えただけでも楽しい。しかし、もう一歩立ち入って考えるならば、高等教育は中等教育までとは違うのだから、「落ちこぼれ」の心配をするよりも、「落ちこぼれ」は(教授側が設定したカリキュラムからの)「落ちこぼれ」なりに(その個人が自覚し自負する)「個の深み」を獲得し、「成績優秀者」は(教授側が設定した評価基準の上での)「成績優秀者」なりに(教授側が予定しえなかった個別な成果としての)「個の深み」を獲得するよう援助すること、つまり、一言でいえば「個人主義的援助」にもっと力を注ぐ必要があるのではないか。  あるいは、もし、高等教育の大衆化、中等教育化が、国民のニーズでもあり不可避だとするならば、そのような「個人主義的」な高等教育の役割は、社会教育が肩代りして、今日の高等教育にあきたりない人々にサービスすることを考えるべき時代なのかもしれない。 3 「個の深み」を支援する講義技術 (1) 「個の深み」を支援する講義技術  本章では、講義の中でいかに「個の深み」を支援するか、その「技術」について述べたい。「技術」であるから、「だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質」13) をもっていなければならないということになるが、私の力量の限界や「教育」の技術という性格上、そこまで汎用的ではない。試論である。だが、梅棹忠夫のいうように「(技術に関する)話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしい」と思う。  そして、梅棹の言葉を借りれば「知的生産の技術(ここでは講義の技術)の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性(ここでは教授者側の主体性と独自性)という原則」は大切にしたい。そもそも、教授者による「自己の研究の最先端の告白」が、内容の深みと真実の迫力をもっているのなら、たとえ聴き取りずらくても、その講義は個別の「個の深み」に訴えるからである。(それでも技術は些末な事項ではない。)  つぎに、「個人学習」の支援や「多数者の主体性」の獲得の上で、講義には不利な面が多いことは、社会教育や高等教育の現在の到達点から見れば明らかである。それゆえ、「個の深み」支援においても、講義が他の方法より有利だということはありえない。しかし、そういう困難の中で「個の深み」を支援するすじ道を考えることにより、「個人学習」や「多数者の主体性」とは違う「その上の次元」(断絶しているわけではないが)としての「個の深み」とその支援のあり方の独自性が浮かびあがると考える。  ここでは、講義の中で「個の深み」を支援する技術を、三つの階層に分類した。下部は「教授者の不安の解決」、中部は「学習者の主体性の確保」、そして上部は「反応・発展の個別化の促進」である(図1)。  一つには、「講義を行なう場では、教師は教科の専門家として、さらに学生の行動をコントロールする監督者として、『権威者』の役割をになう立場にたたされる」。11) そこから生ずる不安に対処する方法として、前出「大学教育の原理と方法」では、「その不安はよい兆候だとあえて思うこと」「質疑応答」「バズ・グループ討議」「OHP用シートの準備」があげられている。しかし、とくに社会教育においては、教授者は教育技術の観点から「演技者」であることは必要かもしれないが、自身の「個」を曲げてまで「専門家」「監督者」「権威者」のふりをしなくてもよいと割り切ることこそ、その前に必要であろう。その上で、先のようなことも有効だが、基本的に大切なことは、教授者の予想どおりかどうか、良いか悪いかはともかく各学習者による講義の「受けとめ方」(個別である)を知ることである。これらのことが、下部の「教授者の不安の解決」を構成する。  二つには、「承り学習」にならないよう学習者の問題意識に訴える必要がある。「大学教育の原理と方法」からは、要約すれば「教師の関心を示す」「五官に訴える」「体験や既習の学習に関連づける」「現代性を明示する」「対照的な観点や対立する論争点を紹介する」「質問する」「仮説を提示する」「問題を提起する」などが、それに該当するものとして拾える。その基本は「学習は本来個人的事象」であるから、◆なるべく多くの◆学習者の「自らの興味や価値観、能力、レディネス、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会」11)に迫るような工夫をすることである。これらのことが、中部の「学習者の主体性の確保」を構成する。  これらの下部と中部の階層は「個の深み」支援の下部構造としては必要であるけれども、それだけでは「個の深み」支援そのものまでには到達しない。「個の深み」は、個別化が止揚して、はじめて結果として生まれるのである。  そこで、三つには、教授者が予定しうるはずのない学習者の個別な深まりまで教授者が援助する技術を編み出さなければならない。「大学教育の原理と方法」の講義法の章からは、しいてあげれば「学生に積極的に賛成か反対かの意見を表明させたり、自分の仮説を提示するようつよくうながすこと」が拾える。しかし、これとて、個別な意見や仮説が生じたとしても、その専門について自分より見識の高い教授者の行なう講義や教育目標にしばらくすれば収斂されてしまう可能性が強い。主体性が深まる点では評価すべき手法だが、ここでめざしている本格的な個別化を深めることには直接にはつながらない。  教授者が何かを発言すると、それは刺激(stimulus)となって、学習者のなんらかの反応(response)を呼び起こす。刺激と反応(S−R)の関係ということができる。まず、この反応が、すでに個別的である。教授者側が設定した教育目標に沿う方向の反応もあれば、思わぬ反応もある。その時、「思わぬ反応」をすなわち教授の失敗ととらえるところに個別化を阻害する要因がある。「思わぬ反応」を本人に自覚させ、それがどういうものであろうと基本的に好ましいことを教授者は表明しなければならない。「教育目標に沿う方向の反応」の場合でも、それぞれがさまざまな方向性をもっていよう。厳密にいえば、遺伝子と生育歴の違いの数だけ、反応の違いがある。教授者は、その違いを喜び、大切にしなければならない。S−Rを一面的に規定し、操作しようとすることは、望ましくないというよりも、もともと不可能なことなのである。  つぎに、その反応を個別的に発展させるためにはどうすればよいか。じつは、この「発展」も当然のことながら本来、個別的である。程度の差はあれ、自らの「反応」を個別に味わい、吟味し、洞察する。それが個別的である理由をあえてあげれば、「反応」と同様に「遺伝子と生育歴の違い」といえよう。しかし、この「発展」をそのまま「放置」することには、「反応」と違って現実上の大問題を生ずる。「反応」は一時的なものであるから講義の流れを阻害しないが、「発展」は各自のプロセスや所要時間が異なるため、多人数を対象とした講義を予定どおり進めるためには不都合なのである。  このようなことから、主体的学習を支援しようとする人の中からも、「講義は無力だ。小人数の討議の方がよい」、あるいは「講義は『承り』でもしかたない。あとは学習者の『独習』に期待するしかない」というような講義に対する敗北主義が生まれるのである。しかし、小人数討議なら必然的に学習者の個別な発展を保障できるというのだろうか。また、講義の全時間、神経を集中し、さらにその時の自らの反応を発展させるためにあらためて独習の時間をかける学習者がそんなにいるだろうか。もちろん、独習の意義が大きいことは否定できない。学習内容によっては、独習こそ最良の学習方法という場合もあろう。だが、むしろその場合は、口述メディアの講義を通してより、活字メディアを通して学んだ方がスムーズで有効な内容なのに、無頓着にそれを講義で行ってしまうことにこそ問題がある。  それよりも、「講義であるからには、こうでなければならない」という思い込みを、あらためるべきである。学習者の個別な「発展」(あるいは人によっては、あることに関して「発展」しないこと)の方を大切にし、全体講義は進めておいて、その全体講義に復帰して集中する時間は、それぞれの学習者の「発展」の事情と判断にまかせることがあってよいのではないか(たとえ全時間、神経を集中してノートをとって聴いたとしても、1週間後の記憶率は20%以下なのである11))。あるいは、教授者が「発展」の時間を仮に定めて、講義を中断し、各学習者に「発展」の時間を自己管理してもらってもよいかもしれない。  いずれにせよ、教授者側が予定した講義を、設定した教育目標のとおり話を進めて、それを一斉に受講させようとすることこそ、「個の深み」の発展を阻害する最大の要因といえる。 (2) 反応・発展の個別化を促進する方法  それでは、上部の階層である「反応・発展の個別化の促進」を構成する講義技術とは何であろうか。その一つは、すでに述べたように、全体講義からの一時的な個別の離脱(集中しないこと)を黙認すること、あるいは全体講義の方を一定時間、中断することである。これは、教授者側からいえば「消極的行為」ではあるが、重要である。  しかし、教授者による「積極的行為」の方はありうるのだろうか。たとえ教授者といえども個別化の方向性は予定しえない。また「個の深み」が「神聖・不可侵」なものであるだけに、教授者側は干渉やおしつけにならないよう厳しく自己規制(禁欲)すべきである。ふたたび、梅棹忠夫の同じ言葉を借りれば「知的作業(ここでは反応・発展)の聖域性ないしは密室性という原則」13) が「個の深み」にとっても生命線なのである。このような理由から、「反応・発展の個別化の促進」に関わって学習者にその◆方向◆を講義で直接的に指導するということは、社会教育にせよ、高等教育にせよ考えにくい。  それに近い指導があるとすれば、講義ではなく、双方向のカウンセリングの形態(受容、支持、共感、明確化など)をとって行われることになろう。また、とくに高等教育機関などにおいては、「教育的判断」により個別化の方向そのものを修正するよう特定の個人に要請することも、慎重かつ意識的に行うという条件のもとにはありえよう。ただし、後者については本論での「反応・発展の個別化の促進」に分類される行為ではない。「促進」の行為ではなく、かならずしも悪い意味ではないが、やむを得ない「統制」の行為である。  つぎに、「反応・発展の個別化の促進」を構成する教授者からの「積極的行為」としては、学習者が講義を聴きながら個別化を獲得できるよう、その◆方法◆を指導(提起)することが考えられる。  「個の深み」は、それ自体を深めようとして深まるものではない。さまざまな可知、不可知の要因から多様な方向性が生まれ、それが各人の個性というフィルターを通して無意識のうちに深まっていく◆はず◆のものである。しかし、実際にはそのような「個の深み」にいたることのできない学習者ないし局面がでてくる。その状態を「没個性」ということができる。これは、現代管理社会の中で、人々が自分らしさ(アイデンティティ)を表現したり主張することが疎外されがちであることに一つの原因があるのだろう。  他者からは、はかり知れない個人の内的世界における知的営みだけではなく、その時々の内なる到達点(アイデンティティ)を自ら外在化する営み(表現)との双方が循環して「個の深み」を創り出す。このようなことから、個人が「話す、書く、表現する」◆舞台◆を設定することは有効な手段といえる。それは、教授者側の「積極的行為」と考えられるのである。  「話す」は、ここでは情報交換や合意形成や発想などのための討論を意味するものではない。ここでの「話す」ことの目的は、個別化した「反応・発展」を「外在化」することにある。したがって、むしろスピーチに近いものになろう。しかも、スピーチをすることであり、聴くことではない。スピーチを聴くことは、聴かれる者、聴く者の相互の「個の深み」のための刺激にはなるが、自己の個別化した「到達点」を外在化することではない。それゆえ、小集団の討議が必然的に「到達点」の外在化につながるものではないと同時に、多人数の講義においては聴く側にまわる者が多く、能率的ではないという問題がある。ただし、多人数でも、隣どうしの者でペアを組み、話す者、聴く者の役割を交替しながら、それぞれの個別な方向について紹介と批評を交わすことなどは、訓練によっては可能になるかもしれない。  「話す、書く」以外の表現方法もあるが、それは心理学や芸術などの観点から、別に詳細に検討する必要がある。ここでは、「話す、書く」に「表現する」も加えておく必要があるという指摘だけにとどめたい。  個別化した「反応・発展」を表現するための方法の中で、講義型学習にもっとも適しているのは「書く」ことではないか。「反応・発展」という内的世界を、それなりの論理構成をもって記述することによって、自己の「反応・発展」に気づき自負することもできるし、欠陥部分を発見することもできる。自己の勝手な無力感や万能感を、自らの目の前にあからさまに突き出すことになるのである。もちろん、「自分はやっぱり何も書けない」という無力感を増大させることもありうるが(自由に書いてよいという場合は、それは意外に少ないようだ)、そういう試練を乗り越えて自己の個別化を自負し、「個の深み」を獲得していくことが必要なのだと思う。 (3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際  学生の場合は、「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。私は、可能な場合は、試験の時に使われる大学所定の「解答用紙」をあえて配布している。学生は、そこに自由に記述する。学生の「書く」ことへの認知構造を変革させたいからである。社会教育や研修などでの講義の場合は、氏名は無記入でもよいことにしているが、大学の授業では出欠のチェックにも使うため、必ず氏名を記入してもらっている。ただし、記述内容は成績評価には影響させないことを宣言している。個別化の方向性には点数をつけられないからである。この紙を「出席ペーパー」とよんでいる。  「出席ペーパー」には、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くことになっている。しかし、「講義どころではない固有の課題」を抱えた者の中には、講義の内容にまったく関係のないことをびっしりと書く者もいる。かえって、これらの記事の中には、しばしばユニーク(個別的)でおもしろいものがある。また、白紙で提出してもかまわない。それも、私の講義への一つの正直な反応であろう。  自らのプライバシーを綿々と綴ることも認めている。何回目かの失恋の話程度のものもあるし、私が初めて聞くような惨憺たる家庭状況などの話もある。その場合は、皆の前ではもちろん、本人にもそれについてのコメントはしないことにしている。とくに後者のような場合、中途半端な励ましは、かえって無責任になるからである。(教授者側に、徹底的にそれを理解し、解決まで面倒を見る覚悟がある場合は別だが。)それよりも、教授者に対して書くこと自体が、ちょうどカウンセラーに話をしている状態と似ており、自分の本当の問題に自ら気づき整理することになる効用を訴えたい。ちなみに、本当に悩んでいる人に「頑張って」などの安易な励ましの言葉を投げかけてはいけないことは、カウンセリングの常識である。  「出席ペーパー」が百数十人分になる授業もある。それでも次週の授業までに、私は必ずすべてを読んでおく。学生に、そう約束してある。読むことは、やってみるとわかるが、とても楽しい作業である。自分の言動が他者から受容されていることを味わうことができる。次の授業では、他の学生にも興味を引きそうだと思われる箇所を、コメントをつけてプリントや口頭で紹介する。その場合、名前は伏せる。同じ立場の他の学習者(ピア・グループ)が書いた記事の紹介は、学習者からは大変な好評である。その紹介によって学習者の興味を持続したまま、本時の講義内容にスムーズに移行できることもある。  ただし、「出席ペーパー」の本来の目的は「自分が書く」ことであるから、紹介の方は本時の講義に差し支えない範囲と時間に限っている。本時の講義のために紹介の時間がとれないときは割愛する。学生はそれを一応は納得しているようだ。もちろん、コメントがつかなかった場合に「書きっ放し」になることのさびしさや、私との「文通」の希望を訴える学生もいるが、「コメント」や「文通」を全員に対して行うことは物理的に不可能に近い。「出席ペーパー」の本来の目的を理解してもらい、納得してもらうしかないだろう。  あとになって、学生から私への意思表示のために三つのマークを定めた。BBS(Bulletin Board System =掲示板システム)、メール(手紙)、チャット(おしゃべり)の三つである。これらはすべて、パソコン通信の用語を借用している。後ろの二つは重要ではない。「私信のつもり」「軽いおしゃべりのつもり」という意思表示をしたい人は、好みでそのマークをつけてもよいというだけのことである。しかも、メールと書いても、「文通」はとうてい請け負えない。一方通行である。それを知った上で、「メール」マークをつけてくる人がかなり多い。手紙という言葉に彼らのフィーリングが合うのであろう。手紙を書く労力は損したとは思わないらしい。  私が気負ってこのマークを提案した理由は、BBSにある。ある人が「出席ペーパー」に、何か問題提起をする。その記事にBBSのマークをつければ、もれなく次回にそのままコピーして紹介することになっている。それを読んで関心をもった他の人は、同じくBBSのマークをつけてレスポンスを書く。今度はそれが次の週に紹介される。このようにして学習者の間に知的交流のブームが起こることを期待したのである。「とりあえずは、BBSにしたらもれなく紹介する」と宣言したので、もし全員がBBSにでもしたらどうするかを最初は心配していた。しかし、自分のペーパーをBBSにしてくれる人は、百数十人中、わずか二、三人だったのである。パソコン通信のような市民主義的な知的交流の土壌は、まだ育っていないととらえるべきであろうか。  それにしても、たとえメールであろうと、書く人たちはとにかく自由に楽しんで書いている。私はそれでよいと思っている。書くこと自体が本来的に自己抑圧的な作業であり、その人なりにそれを克服してなんらかのものを書くわけだから、現在問題になっている「伝言ダイアル」などとはおのずから性格が異なるものなのである。  ただ、講義への集中を中断して書くこと、あるいは講義を聴きながら書くことに抵抗感をもつ学習者は、学生の中にもいる。そのため、終了予定時間の10分前には本講義は終了し、雑談のような話をすることによって、書く時間をそこで保障している。もちろん、事前に書いてくる熱心な学生も中にはおり、それも歓迎している。  しかし、是非は問われるだろうが、学習者が「自己管理的」に講義に集中・離脱できるよう私自身は求めたい。講義のすべての時間を、すべての学習者のニーズにマッチさせることなどは、多様化の時代にありえないことなのである。そのような「完璧な講義」を教授者の責任として求めることこそ、むしろ学習者側の過度に依存的な態度と考える。講義からの離脱と復帰のタイミングは、それぞれの学習者がつかめると思うし、良いか悪いかはともかく、それは現代社会での生き方につながると思う。  「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつは次のとおりである。最初からはっきりと「反応・発展の個別化の促進」という目的を掲げていたわけではない。初めて演壇に立ち、「学生の注視を一身に受ける立場」11) になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。  しかし、多人数の学生の前で仲間意識(ピア・コンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで、思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。社会教育施設でも、自由記述のノートを部屋に置くなどしておくと、いきいきと意見や情報などを交換している。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。  その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下の方に書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられた。  学生の方も、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」というよけいな思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためには、「出席ペーパー」はかなり役立ったようである。  このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。  ところで、中高年の社会人の人たちの中には(この場合、一過性の講義であるが)、「出席ペーパー」を書くことそのものに対する拒絶反応を示す人がいた。もちろん、社会人の場合、提出する、しないは本人の自由にしているのだが、何人かはわざわざ「出席ペーパー」の存在に対して抗議をしたためた「出席ペーパー」を提出した。「抵抗を感じる」「意味がない」などの一言ずつなので、詳しい気持ちはわからない。  これは、階層社会で生きているうちに、自己の「個」を表現することを抑制するようになってしまった結果だろうか。あるいは、自分しか読むことのない日記を書くことによって自己洞察するようなことは、青年期をすぎるとあまりしなくなるのと同様に、他者からの賞賛を得ることのない「無益な自己表現」はしたくないという「実効主義」が原因になっているのだろうか。しかし、そうだとすれば、若者がいたずらに幸せの「青い鳥」を探し回っているというが、おとなの方こそ自己の内なる確立(アイデンティティ)という本当の「青い鳥」はもう見つけられないのではないかという不安を感じる。もっとも、中高年の人たちの抗議は、初めて会ったばかりの◆若僧◆(講師としての私)などに、内なる自分の反応・発展などさらけ出せるものかという自我の主張の結果である可能性も強い。そうであれば、何も心配すべき問題ではない。 (4) 「個の深み」を考える    〜中間まとめと今後の問題の所在〜  S短期大学(音楽系)とT大学(2部人文系)の実質3カ月程度の授業で、すでに「出席ペーパー」はファイル10冊以上になっている。私が作ったそれらのダイジェストを眺めているだけでもおもしろい。彼らの多様な関心事についての傾向がわかる。紙面の都合上、それらを逐一紹介することは差し控えざるをえないが、試験の模範的な「解答用紙」であったらまず見られない「個別の」感じ方、それまでの体験の蓄積、それと授業とをつなぐ感性、思考の自己発展などに散りばめられている。  ところが、それが「個の深み」かというと、残念ながらそうとは言い切れない。表面的には「個別化」に見えても、最初に述べたように、本人も気づかないうちに現代社会の一つの側面としての「画一化」「没個性」の影響を受けていることがある。各人の認知構造が無自覚のうちに定め◆られて◆しまっているのだ。たとえば、自分という人間を不自由にするような「思い込み」に塗り込められてしまっている。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。そんな「認知構造」を自己変革するためには、かなりの主体性が求められよう。それは、至難のわざのようにさえみえる。  しかし、「自ら学ぶ」ことを信条としている社会教育は、個人の「自己解決能力」を信じるのであろうし、さらにはその「自己解決」を外部から支援する可能性をも信頼する。講義は「義を講ずる」ものというが、真の義はだれにもわからない。「個の深み」のごとく、多様な義があるのだろう。講義はそのような「個の深み」への多様な入口を、さまざまに刺激的に提示することなのではないか。したがって、「講」の旁(つくり)の部分の「相手が同じ理解に達するように」という意味は克服されなければならない。教授者のもたない「深み」を学習者がもつように援助することが教育の営みなのである。それにしても、教育が「独習」にまさることなどあるのだろうか。これこそ「教育の挑戦」とよぶべきである。  「それ(学生の主体化)ができないのは、教師が悪いからだ」といった責任回避をせずにロンドン大学がスタッフ・デベロプメントに取り組んでいるように、社会教育機関も委嘱した講師のせいにして責任放棄することなしに、自らの社会的責任の重大さに居住まいを正すべきである。  率直に言って、一人ひとりの「個の深み」は現在の組織運営にはむしろ邪魔にさえなりかねない。だが、やっかいだけれどもそれとつきあっていく覚悟を決めなければならない。「個の深み」は、本人の目先の利益に役立つかどうかもわからない。だが、それを支援するのは今後の社会への教育の責任である。これを社会教育(行政)の新しい「公的」存在意義と呼んでよいだろう。  ネットワークとは「自立」と「連携」の統一といえる。いわゆるピラミッド型社会では、同種の者が集まり同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これはある程度の「安定」をもたらす。しかし、ネットワーク型社会においては、各人が水平に関係を保つ。異種も混在する。目的も一人ひとり違う。「安定」に住みなれた人には耐えられないシステムである。  このように、ネットワークは各人が◆あえてそれを行う◆すぐれて意識的な行為であり、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続ける。ネットワークでは、個人主義を障害とは考えない。むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流することをさす。「個の深み」は、そのように個別の「深さ」をもちつつ、水平に横につながるものでなくてはならない。  今日の人々の「個別化」がそのような「個の深み」と今はイコールでないことは、これまで述べてきたように残念ながら明らかであろう。ピラミッドにおける位置(ポジション)の維持から、その個人自らが決めた「構え」(スタンス)へ、さらには「自己存在そのもの」(アイデンティティ)へと学習者の関心が深化するまでにはかなりの道のりがありそうだ。だが、そこまで発展しないことには、ネットワーク社会は実現しない。新しいネットワーク社会に向けて、それぞれの「個の深み」を獲得する個人とそれを援助する社会教育に与えられた課題は大きいが、その課題が達成されるかどうかは、本質的なネットワーク社会をそもそも人間はつくりだすことができるかどうかを示す指標にもなるのである。 参考文献・資料等 1) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、平成2年3月、とくにPP.10-17. 2) 山崎正和著『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、1984年、とくにPP.50-51. 3) 福原匡彦著『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会,1989年、とくにPP.34-36. 4) 島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、1974年、PP.343-346. 5) 碓井正久編『社会教育』(戦後日本の教育改革)東京大学出版会、1971年、P11.,P.231.,P.282.,PP.359-360. 6) 社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」、昭和46年4月 7) 中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」、平成2年1月 8) 見田宗介他編『社会学事典』弘文堂、1988年 9) 山口明穂他編『岩波漢和辞典』岩波書店、1987年 10) 文部次官通達「公民館の設置運営について」、昭和21年7月 11) ロンドン大学・大学教授法研究部(喜多村和之他訳)『大学教授法入門−大学教育の原理と方法』玉川大学出版部、1982年、とくにPP.86-105. 12) 倉内史郎著『社会教育の理論』第一法規、1983年、PP.137-140. に紹介されている。 13) 梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波書店、1969年、とくにPP.1-20.