(豊島区青年館25周年記念誌原稿) 注 小項目の()付数字はトルツメ 都市における青年行政の将来  昭和音楽大学短期大学部助教授             西村 美東士 1 池袋が若者にとって好ましい街に変わりつつある (1) 池袋の過去の発想  一昔前の池袋は、流行歌などで、どのように歌われてきただろうか。小さな飲み屋さんがたくさんあって、仕事に疲れたサラリーマンが「羽を休める」、そんな感じであろうか。  わたし自身、このような「旧池袋イメージ」が嫌いではないのだが、あえてシビアに考えれば、「個」を殺して「組織」に奉仕する生活を送る人々が、仕事が引けたあとでも、飲み屋街という「全体」の中に匿名で気楽に埋没することによって、「管理される自分と、主体としての自分」のバランスをとっていたといえるのではないか。  そうだからこそ、当時の若者にとっては、池袋というと「中年のためのダサい街」というイメージが強かったのではないだろうか。 (2) 「若者の発想」の現在  しかし、今日では、若者にとって池袋は「好ましい街」に変わりつつある。その「要因」を二つだけあげておこう。  一つは、いくつかの最先端の「デパート」の進出である。デパートといっても、過去の「百貨店」からはまったく様変わりしている。たて割りの商品分類に基づいた売場に品物が揃っていればよいという過去のデパートから、衣服からレジャー用品まで、横断的に「非日常」の新しいライフスタイルを提案するデパートに変わっている。本来、「日常」であるはずの「生活必需品」まで、「余暇」として楽しんでしまうための「道具」として陳列されている。つまり、今日のデパートは、情報を売っているといえる。  今日の若者にとっては、「大量生産の安いものを買う」ことは、たとえ生活上必要な事ではあっても、もっぱらの関心ごとにはなりえない。といっても、彼らがモノに執着しなくなったわけではない。ちょっとした「非日常」や自己のそれなりの「個性」を、モノによって実現しようとしているのである。  もう一つは、草の根の「演劇小屋」の存在である。池袋界隈だけでもかなりの数にのぼると聞く。ここでは、若者は、「個性」と「肌の温もり」を、小演劇という「文化」に求めているととらえることができよう。 (3) 情報都市の中の若者たちの文化  このようにモノよりも本質的には情報が価値をもつ現代都市において、それでは若者は多量の情報に十分に適応できているのだろうか。けっしてそうはいえない。じつは、私たちは、現代都市青年と情報との関係において、さまざまな相反する特質を見いだすことができるのである。  ここでは、その諸側面を見ることによって、現代都市青年がもっている課題と可能性の両方について認識しておきたい。これらは、文化・生活その他に広く関わる現代青年の意識をリアルに把握するためには、大いに参考になるであろう。  第一に、少なくとも町に氾濫する若者向け雑誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。  ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生であれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされる。「生活情報」そのものとはいえないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。  第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、テレビ番組の全国ネットワーク化が進み、居住地の地域性をよりいっそう捨象した情報を伝えている。それは、青年の歓迎するところでもある。  逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生もある。さらに、ユースカルチャーの発信地には、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な発信がなされており、青年の支持を得ている。  第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「ファッション」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。  しかし、多様化と同時に画一化も進行している。青年一人一人の個性的なやり方よりも、「最大公約数」としてのやり方や流行が、発行部数を伸ばすために優先される。  一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。  第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような情報都市においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来あいの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。  その反面、情報不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切な情報もあまりそしゃくされなくなっている。  第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、意見や評価も排されてくる。  しかし、逆に「情報離れ」も進行している。他者の意見や「情」の混じらない純化された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(コミカルではない)が盛んになる。それ自体は多様で個性的な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。  ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向にもとづく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」をもっている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は目的ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。  このように、現実に現代都市青年をとりまく情報と、それに基づく文化には、さまざまな特質がある。これらはいわば多面体として理解すべきであろう。青年行政の役割は、もちろん、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義をもつ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる青年サービスは、他の営利機関などからはあまり望めないからである。 2 青年行政の意義も変わりつつある (1) 対策からサービスへ  過去において、地域は、若者が主人公の一員になれる場であった。青年団は、村の現在と将来の姿を決定する重要な団体の一つであったし、子ども集団でさえ、祭りの時には自治をまかされ、祭りのいくつかの場面を自主運営した。  だが、都市化の進行の中で、これらの地域網羅的な組織は次々に崩壊してしまい、個々人の好みと要求に応じたグループやサークル、そして専門的な教育機関や制度に変わるところとなった。ところが、前者は、青年団のような網羅的な影響力は持ちえないし、後者は、原則としては割り振られた時間だけの責任を持つことしかできない。そのため、これらの組織・機関だけでは、都市問題の一つとして表れてきた青少年の非行問題に対応しきることはできなかった。ここに、「非行化対策」としての青少年行政の必要が叫ばれるようになった要因がある。  しかし、今日では、対処療法的な「対策」だけでは、問題の根本的な解決にはつながらないことが、青少年行政担当者の共通の認識になっている。やはり、青少年自らが、基本的には自らの力で成長し、都市の中で生きていく主体性を身につけることを待たなければならないのである。青少年行政は、そういう青少年自らの動きの「芽」を見つけ、それを援助しなければならない。最近のこのような考え方は、「対策からサービスへの転換」としてとらえることができる。 (2) 主人公になろうとしない若者たちの内面の問題  街のウィンドウ・ディスプレイを企画している人の話を聞いたことがある。「何が若者に受けるのか、まったくわからない」という。きのうはその前に群がっていても、きょうは閑古鳥が鳴くこともあるという。商品開発でも、「これは絶対に当たる」と自信をもって市場に出すことなど、今はないという話である。  すなわち、若者のニーズ自体が読めないのである。今の若者は満たされているから、ニーズなど、もともとないのだという人もいる。  こういう状況の中で、青年行政のほうが若者にサービスする姿勢をとったとしても、若者自体のほうにそんなことを自分と関わりのあることとして受けとめる内面的な力、主人公としての力がない。これでは、行政だけの「空回り」になってしまう。  もちろん、若者の中には、こういう都市化の波の中でも、自己をしっかりと持ち、他者との暖かい交流を意識的に育もうとしている者もいる。そういう自発的な努力に対して、青年行政が交流の機会や施設の提供などの「サービス」を行うことを怠ってはならない。しかし、より深刻な問題は、そうでない(ように見える)多数の若者たちが「そのように生きてみたい」という気持ちをもつために、私たちはどう接していけばよいのかということである。 (3) 本当の教育とは何か  かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、青少年にどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。しかし、知識や情報を詰め込むことだけが教育ではない。それぞれの青少年の「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらないのである。  このような一人ひとりの気持ちの持ち方の枠組(準拠枠)やものごとの認識の枠組(認知構造)に迫り、青少年自らがその枠組自体を変えていくよう援助すること、それが、今日求められている教育の姿といえよう。そのためには、まるで宇宙人にでも接するかのような、おざなりのサービスをしていたのではおぼつかない。青年行政は、池袋を受け入れ始めた若者の今の「枠組」に飛び込んでいき、その志向や考え方とつき合い、さらには今の池袋の魅力以上の魅力を提示できなければならない。しかも、一方的な上からの押しつけではなく。  その魅力とは、たとえば一つは、人とのふれ合いなどの直接体験による感動である。彼らが「自分で」体験し、交流する。そのことによって、自らのつまらない思い込み、劣等観、無力感などの枠組を取り外していくことができる。青年行政は、そのための「しかけ」をふんだんにばらまいておくことが必要なのである。先に述べた一部の「自発的な若者たち」は、きっとその時のネットワーカー役を自主的に買って出てくれるだろう。  このようにして、青年行政は、「おざなりのサービス」から、教育的意図をはっきり持ちながら、しかも青年の自主性を育てるサービスへと転換できるのである。 3 青年行政の将来 (1) 「個の深み」とMAZE 「個の深み」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられた。そのことによって、団体の維持・存続を自己目的化するのではなく、青少年の「自己成長」を援助するように提案したのである。  同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得るようにすることが、青年行政の目的ではない。皆をいわゆる「健全青年」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの青年のエネルギーを評価しなければいけない。  むしろ、行政にとって青年とは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、今の青年たちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとするためには、当然といえよう。  パソコン通信でやりとりされる記事(レスポンス)は、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ=M)、大ざっぱ(アバウト=A)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ=Z)している。しかも、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、気楽(イージー=E)に書かれている。まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。  しかし、このような「迷路」から、各自は、各自なりに、最初気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。  青年行政も、すでに設定された目的にとっての最適の「手段」ばかり考えるのではなく、青年自身が「迷路」の中でさまようことを歓迎し、あるいは、むしろ行政自らもその「迷路」を楽しんでしまうようなゆとりのある精神を求めたい。 (2) 地球規模のコミュニティ意識が都市を変える  一般的にいえば、青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。非日常志向は、青年期の独自の発達課題の表れの一つでもある。  しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そのためには、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくことができるよう援助することが必要である。  そもそも、今後の地域や行政の姿は、偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」にもとづくものであってはならない。地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報はつねに他の情報と行き来する「開放性」があって、すなわち「風」が吹いてこそ、根腐れせずに生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」には関心を示さないことは、あながち不当なこととはいえない。  青年は、きまりきった情報にあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りたかもしれない。しかし、今日、住民が地域社会に関わる場合、自発的行為であることが多くなっている。何らかの形で情報を得て、魅力を感じた場合に地域に関わる。そういう地域活動の形態は、現代都市コミュニティの新しい理念型といえる。  このような「楽しい日常」としての、地域や自治は、自立しつつ互いの主体が交流するネットワークを育てるだろう。そのネットワークの一つが、若者自身の手による若者自身の連帯である。この、いわば「ユース・コミュニティ」の創造は、人類が今日、将来に向かって都市と地球の課題に取り組むための、新たな足がかりの一つともなるのである。  今日の村おこし、町づくり、コミュニティづくりは、過去の村落共同体をそのまま復活させることではない。過去の「村八分」などの文字どおり個人を抹殺するようなことさえあったコミュニティではなく、「新人類」とも呼ばれる青少年を含めて一人ひとりが個人として尊重されるコミュニティをめざしている。究極的にはヒューマン・ネットワークの中で「個のふかみ」が連携し、しかも、その一つ一つが十分に実現され、発揮される社会を形成するための模索なのである。また、このコミュニティは、地球規模の人間のネットワークの一環でもある。 (3) 失われつつある自己表現能力を若者が取り戻すために  それにしても、私たちが若者の主体性の獲得を援助しようとする場合、結局のところ、その本質的な進展は若者自身の主体に期待するほかないわけである。青年行政は、このジレンマにつねに直面しつつ進められなければならない行政だといえよう。  本論の最初に、「個」を殺して「組織」に奉仕する「過去の発想」から、「個性」を求める「若者の発想」への変化の現状について述べた。しかし、若者の求めるその「個性」も、若者の中に自ら芽生えたものではなく、最先端のデパートが与えてくれる情報としてのモノであったり、他者から与えられる「温もりのある」文化であったりする。青年行政が、彼らのそういう「枠組」に飛び込むことは大切であっても、それだけだったら若者の主体の本当の成長にはつながらない。たとえば、人とのふれ合いなどの直接体験による感動が大切だといっても、もし彼らに「自分で」体験し、交流する意欲も能力もすでになくなっているとしたら、その感動は生まれない。  しかし、人間には、人間が社会で生きていくための根源的なエネルギーとしての自己表現欲求がある。この自己表現欲求こそが、受け身の情報摂取にあきたらずに、現代都市を主体的に生きぬくためのエネルギーになるのである。たとえ、無気力、無関心に見える現代の若者の中にも、その欲求を見いだすことができる。  ところが、現代の若者たちは、たとえば「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。自己表現さえもが、得になるから行う、損にならないように行うという「枠組」を与えられてしまっているのである。自己表現欲求はあるのだが、それを実現する場がないのである。  このような「危ない状況」において、青年行政が、若者の自己表現のための空間と情報の提供を行うことは、とくに緊急で重要な課題である。幸い、池袋では、小演劇が盛んである。たとえば、演劇という自己の内面的な規制と解放による表現活動は、若者に自立と交流の機会を与えてくれるだろう。  演劇を含めて、若者のさまざまな自己表現活動は、ありとあらゆる方法があり、実際にはどこに進んでいくのかという方向もはっきりしたものはない。まさに、現代青年の、「今、ここで」の状態がありのまま反映されていくのである。それは、当然、迷路のような進路をたどることだろう。これに対して、青年行政は、寛容な姿勢で、しかもその「迷路」から真摯に学びながら、対応していかなければならない。  そこでは、青年行政自体に、若者のMAZEにつき合い、耐え、「成長する」ことができる主体性が求められるであろう。