情報化と生涯学習  −ネットワーク社会に求められる「個の深み」− 1 生涯学習情報の基盤整備  ここでは、学習情報を一次情報と二次情報に分け、その両方について考えることとする。一次情報とは、学習活動の対象となる学習内容そのものとしての情報である。一般の文献、映像、学習材、教材、ファクトデータなどがそれである。二次情報とは、求める情報や学習にたどりつくための情報、学習の案内をする情報である。たとえば、どこでそういう学習が行われているか、どうしたらそういう学習ができるか、などを伝えてくれる情報である。  生涯学習の時代といわれる今日、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習活動が行われている。しかし、それらの発信する一次情報の中から求めるものを入手したり、それらに関する二次情報を総合的に把握したりすることは、市民個人の立場からは難しい場合がある。そこで、それらの学習情報をスムーズに流通させるための基盤の整備が必要になる。  この基盤整備の仕事の鍵になる言葉が「ネットワーク化」である。学習情報のネットワーク化とは、それぞれの情報がもつ固有の価値を失うことなく、むしろそれを生かす方向で、情報主体の連携・協力を得て、ばらばらだった情報をシステム的に再構成することである。ここでは、アクセスの便宜のために、ヒエラルキーとしてのシソーラスにデータを当てはめていくことはあっても、それぞれの情報の価値は水平のままであり、序列をつけたりはしない。これは、ネットワークという平等主義的な言葉をあえて使う理由ともとらえることができる。  ネットワークを構築する際の情報主体としては、各種の生涯学習関連施設・機関、学習者、指導者、職員などがある。ネットワークの規模としては、生活圏、市町村、都道府県、広域学習圏、全国、国際のそれぞれがある。ネットワークされる情報としては、一次情報はもちろんのこと、学習の機会、施設、教材、人材、グループなどに関する二次情報もある。二次情報のネットワーク化については、とくに学習情報提供システムにおいて取り組まれる。  文部省では、学習情報提供システム整備事業、教育映像メディアの活用方策の検討、文教施設インテリジェント化構想、文化庁では、地域文化情報システム整備構想、通産省では、ニューメディア・コミュニティ構想、ハイビジョン・コミュニティ構想、郵政省では、テレトピア構想、ハイビジョン・シティ構想、放送番組センターの設置、自治省では、地域情報化の推進、地域衛星通信ネットワーク整備構想、コミュニティ・ネットワーク構想、ハイビジョン・ミュージアム構想、図書館情報ネットワークの促進、公共施設ネットワークの促進、などが施策化されている。  そのほかにも、多極分散型の国土形成をめざすテレコムタウン構想(郵政)、アーバンフロンティアの創造を図る情報化未来都市構想(通産)、都市を情報市場および情報活用の場として積極的に活用しようとするインテリジェント・シティ構想(建設)、国公有地の活用と情報機能等の導入を図る新都市拠点整備事業構想(建設)、農業経営等の情報化を促すグリーントピア構想(農林)、自治体の役割を意識した地域CATV事業(自治)、などが進められている。  いずれも、情報流通に関する事業に国が直接、関与するものではないが、財政的援助、研究調査、モデルの提示、モデル地域の指定などをとおして、実際に各地での成果を挙げつつある。また、それらの施策が、早くから試行的にとりかかったものでさえ、10年も経過していないという点に注目したい。さらに、ほとんどのものは、ここ数年の新しい動きなのである。  これらの施策は、生涯学習を直接的に意識したものとは限らないが、生涯学習の援助の観点からこれらの情報化の施策を見ると、その最近の特徴として、次のことを指摘することができる。  第1に、地域の人々が、モノの豊かさ、あるいは、モノの豊かさを獲得するための限られた範囲の情報だけではなく、心の豊かさや人間的な生活を実現するための情報や、情報そのものを重視する志向に変わってきており、各省の諸施策も、その変化に対応しようとしている。  第2に、島しょ部や山村など、都市部の文化の発達を今まで享受しずらかった地域にも、技術進展の成果を生かして、新鮮で緻密な文化情報を流通させようとしている。衛星放送などの充実が望まれるところである。  第3に、東京発信、地方受信型の一方通行の情報流通だけではなく、地域に根ざした情報の地方発信・受信型の流通が重視されつつある。CATVのソフトの充実などが図られている。  第4に、新聞、テレビなどの従来のマス・メディアの充実だけではなく、視聴者が選択できる個別メディアの整備を重視している。パソコン通信やビデオテックスなどが、その代表例である。  このような特徴は、いずれも個人の自発的な学習意欲を尊重する生涯学習の考え方と符合するものである。  しかし、技術進展の現在の情報化の成否を決める最大の要素は、むしろ、ソフト、すなわち情報の中味である。これを作り出すエネルギーとしては、行政やメーカーなどのエスタブリッシュメントだけではなく、地域住民の主体的な情報処理と発信という生涯学習活動にこそ、大きく期待されるのである。 2 情報処理の中での学習とメディア・リテラシーの修得  人々の学習には、必ずなんらかの情報が関わっている。人間の認識は、頭の中だけでの純粋な思索活動だけで発達するのではない。情報を収集し整理するという「外在的作業」によって、大いに育まれる。また、必要な情報を受け入れ、それを自己の思考のなかで加工し、新たな情報を生み出すことは、自己の認知の枠組を変えることでもあり、学習の過程そのものであるともいえる。  一方、人々の学習を援助するという観点からも、情報は重要である。学ぶ対象としての情報(教材など)や、その情報についての情報、その情報を得る機会や方法についての情報などを整備し、学習者の多様なニーズにこたえる情報環境をつくることが生涯学習行政にとって重要な課題になる。  そして、そういう教育・学習の活動には、つねになんらかの形でメディアが用いられる。なぜなら、メディアは、学ぶ対象としての情報を運ぶ媒体であり、それがあってこそ個々の学習も成立するからである。  ただし、繰り返すが、情報の収集から生産にいたる作業には、その個人の認識を育てる作用が内包されている。したがって、情報処理や流通のための「作業」を教育あるいは行政が「代行」するという結果になってしまってはいけない。情報・メディアへの学習者の主体的な関与、すなわち「参加」が大切なのである。  このような理由もあって、二次情報をもっぱら扱う学習情報提供システムにおいても、情報の集中と地域や施設の独自性との両立が必要になる。データベースには、小さなものはなかなか成長できず、大きなものはますます大きくなるという特性があることから、情報の集中や、それを可能とするフォーマット等の統一が望まれるのであるが、一方では、個性のある情報発信拠点にこそ、いきいきとした学習情報が集まるという傾向もある。  また、地域や施設が、学習情報の収集・分析・加工・編集・提供を主体的に行うことによって、その地域、施設自体も学習者とともに学び育つことができる。情報を提供する側にも、学習情報への機械的な対応ではなく、独創性をいかした関わり方が求められるのである。  さらに、リテラシーとは「読み書きの能力」という意味であるが、最近のメディアの発展の中で、人々は好むと好まざるとにかかわらず活字媒体以外のメディアにも直面するようになり、その活用の能力が重要になってきている。この能力をメディア・リテラシーと呼ぶ。  生涯学習援助の観点からは、まず、情報化の「光と影」のうちの「影」の部分が注目される。そこからは、メディアといっそううまくつき合えるようになるための教育サービスとともに、情報化が人間に与えるマイナスの影響を克服するための人々の主体的な営みへの援助も重視される。後者のように批判的にメディアと接することのできる主体性も、今日求められているメディア・リテラシーの一つなのである。  さらにつきつめて考えると、個人が情報を必要と感じるのは、当人なりの課題意識があるからなのだが、その課題意識そのものが空洞化しているという現代社会の人間の非主体的状況が浮かび上がる。しかし、その根本からメディア・リテラシーを構築するためにも、最初は、やはり、情報・メディアサービスから始めなければならない。 3 新しい学習の誕生 −パソコン通信にみる可能性−  最近の目ざましいメディアの発達の中において重要なことは、情報技術の進展に流されることなく、それとしっかり向かい合いながら、自分の個性や人間性をより豊かなものにするためにメディアを活用できる人間の側の主体性の獲得である。この過程が、生涯学習ということに他ならない。  最近、パソコン通信が盛んに行われているが、われわれはそこに新しい学習の形を見ることができる。  一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(無定形教育)の機能の発揮である。これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にもそういう教育・学習の場がある。社会や企業等も、その重要性を無視することができなくなってきている。  二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。普通、「学習しよう」という本人の意識(計画性)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことは、あらためて確認しておくべきであろう。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学んだ「偶発的学習」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした本人にとっては重大事なのだ。  三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追求する立場がある。それはもっぱら「教育」の専門家である教師のためのものであった。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいRを得ることができるかということ、言いかえれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育のしろうとまでが関心を示している。彼らも、多数に対して何かを表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうコミュニケーションだからこそ、パソコン通信はエキサイティングなのである。  パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、それをよく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流にある。しかも、交流する対象も、フェース・ツー・フェースの日常的なつきあいをしている人とよりも、見知らぬ他者との出会いを歓迎する。パソコン通信も、パーティーに見られるこのような志向をもっている。  さらに、パソコン通信によるコミュニケーションの特徴としては、MAZE(迷路)ということがあげられる。ほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。しかも気軽(イージー)にやりとりが行われている。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。  このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、求める情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。  パソコン通信は、お互いのメッセージを電子化してやりとりすることを可能にした。この情報の電子化は、情報化の諸側面の中でも最大の技術的基盤の一つといえよう。それが、このような新しい生涯学習の創造の舞台にもなっているのである。 4 ネットワークと「個の深み」  ネットワークでの人々のつながりは、いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。  従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、これが一定の安定をもたらした。しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。  ネットワークは、このように一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれるが、裏を返せば、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものだということである。企業活動や市民活動や生涯学習活動の中の各種の情報ネットワークにも、そのきびしさが端的に表れている。  私は、そういうきびしさに立ち向かう力の根本は、「当事者」の存在にあると考える。自ら学ぶことを信条とする社会教育は、本人の「自己解決能力」を信じるのであるし、さらにはその自己解決を外部から支援する可能性をも信ずる。  この「自己解決」は、「自己認知」すなわち自己(と、その問題)を認識することから始まる。自己を認識するためには、自己を表現しなければならない。じつは、この「自己表現」の力が現代社会の中で削り取られてしまっているのだ。今の学生は、試験の答案を要領よく書くことはできても、自己をあるがままに受容して他者に表現することなどは、損である、あるいは、許されない、と思い込んでいる。話すことも同じである。「おしゃべり症候群」とよばれるように、情報交換とうつろなおしゃべりはしているが、人間の実存から生まれる好み、悩み、怒りなどは交流されない。  自己の認識と、それにもとづく行動と、その自己評価は、主体性の発現そのものであり、同時に、その人しかもちえない深みであるともいうことができる。私はこれを「個の深み」とよびたい。「個の深み」は、個人にもともと備わっているはずだ。しかし、それらはピラミッドの中でおさえつけられ潜在化している。これを水平な情報ネットワークの中で発信することによって解き放てばよい。話すこと、書くことが、「個の深み」を成長させるだろう。今後の生涯学習においては、このようないわば情報生産の活動が重要になると思われる。情報化による情報技術の進展は、そういう活動にとって大いに味方になるだろう。  そもそも情報化は情報に化けると書く。何が情報に化けるのか。情報の量が多くなるだけなら、情報機器が発達するだけなら、情報化とはいえない。それらの物的基盤の成熟化の上で、人間が追い求める価値の対象がモノから情報に変わってきたからこそ情報化というのではないか。そして、そこでもっとも価値のある情報は、人間一人ひとりの「個の深み」から発信された情報である。だとすれば、そういう情報をネットワークする活動そのものが生涯学習活動でもあるし、生涯学習活動とは情報ネットワークの実現に向かって個人が主体性を獲得していく過程ともいえるのである。