生涯学習と大学を考える  学生に自由に書いてもらうと、いろいろなことがわかる。たとえば、公民館の活動の様子をビデオで見て、次のような反応が返ってきた。  「ママさんコーラスの場面のお母さんたちの表情がとても良かった。歌の好きな人たちが集まり、その人たちの歌声がコーラスになる。技術面では不足していることもあると思うけど、やっぱり歌の好きな人たちが歌う歌は心がこもっていて、こっちまで顔がにこやかになってくる。私は歌が好きだという自分の気持ちを忘れていたような気がする」。  もちろん、大学は、学校教育の中でももっとも高度な学芸を専門的に学ぶべき所であるが、学生の学習のエネルギー源が一般の人々とまったく違った特殊なものであるわけがない。自らが学ぼうとして学ぶ社会教育や生涯学習と、学生の学習とは、同じ人間であるという理由で同じ原点から出発する。  「退屈でもじっと耐えて学ぶ」とか「単位を取得するため」とかの、いつのまにか本人の気持ちを縛っている頑張りや思い込みというのは、かえって、主体的な学習態度を学生が持ち切れない最大の原因になっている。我慢も自主性の一つと言う人もいるかもしれないが、そういう頑張りは、「うちの子は、親が何も言わなくても、自主的にドリルをやります」という教育ママの言葉のようにインチキ臭い。学習に求められる自主性というのは、もっと本人の人間としての実存から発する主体性に基づくものだろう。  生涯学習の時代と言われてはいるが、学ぶ主体性ばかりか、生きる主体性さえ蝕まれている学生が多い。それは現代社会においては学生だけの現象ではないが……。今日の大学においては、学生に学ぶ主体性があることを前提として出発するのではなく、学び、生きる本人の主体性をいかに引き出すかということから考えなければならない。  学習とは、究極的には、学習者個人が学習しようとしてこそ成立しうるものであり、教育はその営みを促進することができるからこそ存在しているはずだ。だとすれば、大学が社会教育から得るものは大きい。なぜなら、社会教育は、学習者の主体性を尊重しながら、その主体性が発揮されるようどう仕掛け、どう援助するかについて、真正面から取り組んできたからである。ママさんコーラスという支持的風土の集団づくりとその中での相互学習の成果なども、その一つである。  実際、ロンドン大学では、小集団討議法やグループワークなどの教授法を大学の教員を対象にしてトレーニングしている(「大学教授法入門」玉川大学出版部)。教員は立派な研究者であるとともに有能な教育者でなけれはならないからである。  社会教育の場で開発されてきた学習者主体の方法は、このように大学の教授法として導入できるものであるし、それ以上に、今日の生涯学習の高まりの中では、学生が直接、社会教育の場に参加することも考えるべきだろう。また、教員の方も、そういう場に参加したり手伝ったりして、新しい風を自らの専門領域に吹き入れた方がよい。アメリカに支部を建てた日本の大学が「君たちのキャンパスはアメリカ全土だ」というコピーを作ったり、ある大学の学長が「大学の教員は、授業のないときは、学内の研究室にいるのではなく、外を飛び回って自らの資質を向上してほしい」と言ったりしているのは、そういう傾向の表れと考えることができる。  アカデミズムを生涯学習とは両端のものとしてとらえることは、まったく根拠のない思い込みにすぎない。生涯学習推進の合言葉として、「偏差値君、さようなら」があるが、この「偏差値君」が最終目標としていた大学の姿が、この思い込みと重なっている。古い姿の大学への不合理な執着を捨てることは、生涯学習社会の形成のために不可欠な要素なのである。「良い大学」の基準を大学自らが改める必要がある。  わが昭和音楽大学でも、生涯学習センターを発足させた。市民の音楽への意欲と情熱に煽られて、音楽の専門家である大学の教員がますます目を輝かせている。生涯学習は、教える者と学習する者が水平に交流するギブ・アンド・テイクのネットワークなのだ。