「社会教育計画」,倉内史郎編,学文社 第7章 地方自治体の役割    −−学習プログラム作成の視点からとらえる−− 7.1 知と健康のネットワークを支援するシステム ●過去の団体中心主義と現在の施設中心主義  社会教育法には国および地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第3条)こととうたわれている。社会教育を行うのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。  そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない」(第9条の3)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。  ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。  これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、虎視眈眈とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心をもってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。  社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。市民の側に、行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。  戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。  この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまう。 ●ピラミッド型からネットワーク型へ  民間の団体活動のほうも、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを自ら志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。  一方、人口1万人当たりだいたい100のグループ・サークルがあると言われる。そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この1万人につき100団体という数字は、社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が100にも満たなかったりするからである。  つねに発生・消滅をくり返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていない。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を多忙にさせる結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられる。  従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみのほうもさらに広くなっている。それが、ひとつには、小さなグループ・サークルとしてネットワークを形成している。成熟社会においては、それは重要な営みである。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。  なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。私は、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張したいのではなく、ネットワークに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。  さて、本来ならここでネットワークの定義を確定しておかなければならないだろうが、実はそれはあいまいである。しかし、ここでは、「ツリーに対するリゾーム」の論議をとっておこう。つまり、木の幹と枝のように系統だって主従関係のあるものではなく、地下茎が網の目のようにからんでいるイメージである。  私は、ネットワークの特性は自立と依存関係の統一であると考えている。いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時にパソコンネットワークによって他のコンピュータと連携することができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。  このようにネットワークという考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「連帯」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「連帯」が同時に対置されることになる。●(1)  また、その他に、特に社会教育に影響を与えるネットワークのいくつかの特徴として、つぎのような諸点を列挙しておきたい。  1つは、同じネットワーク上においても、個人は自分の財産を奪おうとする者は許せないが、「知の成果」を盗む者には寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うだろう。パソコン通信において、「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください」という「パプリックドメインソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。  2つは、ネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの外部放電が個人の内部充電に、直接連動することを良しとする。すなわち、放電的充電と充電的放電であり、個人の内面や個人と個人の間における充電と放電の乖離や分業の固定化を解消しようとする。  3つは、ネットワークにおいては、「撤退する自由」がある。撤退しても生活に響かないことが多い。「撤退する自由」の上で、他の個人と「知的論争」などをするのは、なかなか愉快である。  4つは、ネットワークにおいては、個人主義を障害とみるのではなく、むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、「異質」と交流する志向を意味する。  これ以上のネットワークのかもしだす細かい状況については、第2節以降で随時述べることにしたい。 ●啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起  啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏づけられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。  当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの3つの特徴をもっている。●(2)  しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人ひとりの人間がすでに主体性のある主体であることを前提に、その学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。  ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは大いに重要であるとともに、大いに微妙な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに主体性のある主体」であることを、平面的、教条的に前提にしてしまうとすれば、情報の豊かな今日、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際には、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。  たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。  「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「効果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着をはらんだ命題を実現する方策はあるのか。  結論から言えば、その方策はあると考える。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もある程度あがっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められる。それが、ここでいう「ネットワーク型問題提起」である。  だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の基盤としての「ネットワーク型援助」一般のあり方について述べておかなければならないだろう。  「ネットワーク型援助」の重要なファクターのひとつは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。  アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が盛んだと聞く。人びとが分断された今日の都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」になりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とは言えないのである。  施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。  これらの援助は、市民のネットワークを助長し、結果として市民が自ら社会の諸課題への気づきを深めるために役立つ。  しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性にもとづくものであるか。この「正当性」をもたないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が。  ネットワーク社会において、地方自治体、とくに社会教育行政は、各人が私有している個人的・社会的「展望」を共有するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っていると言えるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワークの中で共有するように、各人によびかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきではないか。  糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした展望をもっていたり、ほとんど絶望したりしている。行政が、たとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが生まれるかもしれない。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。  ここまで、地方自治体のとくに社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞってみた。これからは、啓蒙主義との違いがとくに問題となるであろう学習プログラム提供に焦点を当て、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、より具体的に明らかにしていきたい。 7.2 年間事業計画の作成 ●地域の実態、行政の実態をとらえる  ここでいう「年間事業計画」とは1年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」と言うことができる。  国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(1988年9月)(以下、たんに『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、このテーマに関するアイテムを拾ってみる。  地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。  これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりはとらえたと言うことができるであろう。  しかし、これはあくまでもひととおりであって、地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応のほうが有効になるのである。  それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを感じ取ることが必要である。  住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、一つひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」「記録」などが重要である。逆に言えば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報化社会においても地域・現場にしかない貴重なものである。  さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が、上司からも監督されず、個人の孤独な作業としてすすめられがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の「水平な」ネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとって不可欠である。 ●学習要求をとらえる  ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないか、と言う。渋谷のウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない。選択基準自体が毎日変わる、と言う。彼らのニーズを把握するために、「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでしているが、それでも把握は難しいらしい。  学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているか、はっきりした事実はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。わからない原因のひとつは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく生みだされるものだからである。  ただ、その会社の人の話では、1つには「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れない。2つには「わけのわからないもの」が意外に売れたりするという。  前者は学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の3つに欠ける場合がある。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などが必要である。  後者は、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえばおもしろがられて受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。  つぎに、「不易流行」の言葉を借りれば、ここまでの議論は「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。  しかし、この「不易」の学習要求のほうも、その本当の中身は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでも、たとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。このように、地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても不完全のものであることを知った上で行わなければならない。  それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていくしか、あるいは新たに「つくりだしていく」しか、ないのである。 ●「公的課題」の優先  ネットワークもひとつの「自治」の形態と言える。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言ってもよい。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよい。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それは当事者である個人が決める。  このような様子であるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。  それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意図」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。  そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議とも言える。むしろ、「行政らしい関わり」をすることの方が行政としての個性を出すという意味でも「ネットワーク的」なのではないか。  「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。  もちろん、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的学習課題」のように見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。  つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然と言えるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で流動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりする。  だから、学習プログラムも表面上は私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する期待(展望)をもっていなければならない。そして、その期待を住民の前につねに明らかにしていくことのほうが、住民との関係でフェアだと考えるのである。  さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題と考えることができる。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。  このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを「操作概念」として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。  たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例にあげたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、その課題を優先して問題提起し、援助する。  もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、わからない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。  しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになったときには政策のほうを転換する義務を負うという「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べよう。  つぎに、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人びとの「学習権」はどうなるか。これについては、より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。  その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。  しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は「行政から学習権が保障される」立場から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワークの「役割遂行者としての立場」に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。  なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されているものであり、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もあまり問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢は、同様に必要である。 ●学習課題を整理する  公的課題を優先するためには、その前に公的課題は何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。  たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』はつぎのように述べている。 「これからの生涯学習を進めていくうえで、とくに留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる。」●(3)  このような「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、いずれにせよこの「構想」は簡潔にまとまった提言として評価できる。  そこで、それぞれの自治体での住民の学習の実態の中で、これらの課題に対応する学習がどのように行われているか、あるいは行われようとしているのかをていねいに見つめてみたとする。そこでは、まったく学習されようとしていない課題などというものはないということが明らかになるだろう。  つまり、公的課題の優先とは、行政による学習課題の「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。  このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例をつぎのようにあげている。  生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。  これらの分類によって学習課題を体系的に整理することができ、そのことが、行政が学習要求や学習行動から公的課題を謙虚に選択するための根拠にもなる。  ただ、すでに述べたように、行政側の考えている公的課題、すなわち行政課題も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、上の領域区分と同じ次元ではなく、もうひとつの次元としてとらえて、上の区分とかけあわせたマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての行政の主体的な関わり方が出てくる。  さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。  それらの各種事業を区分する基準については、『社研資料』では「事業形態・方法別」の一例としてつぎのようにあげている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要である。  さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題の一つひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックスによるとらえ方が求められるのである。 3 個別事業計画 ●「学習ニーズ」の優先  ここでは、一つひとつの事業における学習プログラムの作成について述べる。  年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。しかし、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応を最重視する姿勢で論をすすめたい。  なぜならば、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないという理由も、もちろんある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。現行の学習プログラム提供は、ニーズ対応の面でも、かなり不十分だという認識を私はもっている。  前節でいう「公的課題」を明確にした上で必要なこと、それは、そこで仮に設定された「公的課題」を、いろいろな機会を利用して住民にはっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。  つぎに、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が、現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば仮に「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいては、住民の学習ニーズに呼応してそれが再び「融解」して学習機会として提供される。  行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させることしかできない。しかし、それを不変のものとしてそのまま住民に押しつけるとすれば問題がある。ネットワーク型援助は、行政と住民との関係が水平であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の独善になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」することによって、初めて、行政の側が学習課題を選択することのもつ危険性を減らすことができる。  現に、あとで述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえない住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると私は思う。学習ニーズに絶対確実なものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。 ●参加対象をどう設定するか  社会教育行政はなぜ対象別、とくに発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。つまり、一義的には、プログラムの作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をすると言える。  だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならないはずである。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたはずだからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるなどの効果もあがるかもしれない。  「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであったにせよ、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民が個々に判断して行動を決定する。企画者は予測のつかない結果をむしろ歓迎すべきである。  しかし、参加対象を「限定」するほうが良い場合も、なかにはある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断をとりあえずせざるをえない。  だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」●(4) 準拠集団の端緒を、行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合は「異質」の人との水平的なネットワークがまだ期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始めるのである。  たとえば「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事だけに依存して生きているような「暗い青年たち」もいるかもしれない。そういう青年たちが、活発な婦人や一家言をもっているような高齢者と、最初から水平的ネットワークを営むのは無理だろう。そういうときは、「青年講座」への主婦、高齢者の参加を断わる場合も例外的にはありえよう。  しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。このことは、集団を固定化し、ネットワーク化を阻害する要因になっている。  さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側が住民の参加を開拓し、受け入れる、いわばマーケティングの用語といえる。しかし、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」とよぶ。「対象」と言うより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が自ら問題を解決することを基本におく姿勢が表れている。  もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」とよぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、考え方としては学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、プログラム作成時においても、「対象」の望ましい将来の姿を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。  最後に、逆に、マーケティングの観点から、新たに「開拓」すべき「対象」を考えてみたい。  1つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の動向は、実は経済活動の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されなくなっている。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが本当に身につくのは、自己成長を促すネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるはずだ。  2つは「大学生」である。彼らは今やエリートなどではなく、今後は多数派としての一般住民になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めているので、その参加により、事業にトレンドがフィードバックできる。そして、彼ら自身に、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日大いに生まれている。  3つは「一時滞在者」である。博物館は旅行者の利用を歓迎している。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。さらに、今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの人は、「新しい風」を吹かせてくれる人である。彼らを地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。各自治体が「旅行者向け学習プログラム」などを提供するようになれば、週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が全国規模で可能になるのである。 ●各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する  『社研資料』ではつぎのとおりである。 「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。  このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民は中身をよく知った上で参加を検討できる。  さて、最初に「学習目標」であるが、1つには、直接、企画者側から問題を提起すること、つまり「課題性」のあるものが考えられる。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。  2つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。  たとえば、住民の国際性のかん養をはかるという目的で「中国語教室」を開いたとする。そうすると本時の学習目標は「中国語がしゃべれるようになること」ということになりそうだが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」などとしなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。  それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定し、そういうサービスをして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化したほうがいいだろう。  つぎに、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける必要がある。  最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか提案してみたい。  1つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習ということばには、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。もちろん、今後の学習社会においても、そういう性質の学習はますます必要になるだろう。しかし、そういう「手段としての」学習ばかりを偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。  現在、生涯学習の進展の中で、「学習」とよばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いという、いわば「快感覚」の追求なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシー(健康的)でハイ(高次)な「快」である。  もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは今後の技術革新の社会において必要不可欠の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどない。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで「遊んで」いる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、そういう「遊び」のほうが結果としては効果的な学習になっているのだ。  ここで、注目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。  自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。そのひとつが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することよりも、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。  2つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。●(5)  ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワークをしようとする個人がその「深み」を獲得して発揮するために必要な技術のひとつが、情報の収集から発信までを含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。  学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」のほうがそれより優れているということではない。)  このように、行政としての期待をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を行うことは、社会教育行政の「ネットワーク型援助」の中でもとくに代表的な行為である。  3つは、「コミュニケーション技術」である。「知的生産の技術」とも重なるが、聞く・話す・書くなどの技術である。  戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議のすすめ方などが学ばれた。  しかし、今日、ネットワークの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う面をもっている。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者は、干渉したり、心配したりはしない。また、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど行使する場面がない。  それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。ネットワークのコミュニケーションの中では、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った人だけがプレゼンテーターに協力し、再びコミュニケートに向かう。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。  4つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の「下請け」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。  もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは時間的にも困難であるから、実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦するためのオリエンテーションになるような学習内容を設定することになるだろう。  個別事業計画の作成に当たっては、学習方法、講師、指導者、教材、教具などを設定する作業が残っている。また、その他に、参加者の募集、広報、企画・運営への住民参加組織、アフターサービスなどについても計画化しなければならない。  しかし、それらについてはここでは、逐一解説するのをやめ、その他の「計画化」においても、すでに説明した「ネットワーク型援助」の考え方にもとづき、学習ニーズに沿いながら参加者の主体性を誘発するような「しかけ」をちりばめる必要があるとだけ述べておきたい。 ●学習プログラム作成上の今後の課題  ここでは、これまでに言いつくせなかった学習プログラム作成上の今後の課題を、いくつか簡単に紹介することによって、まとめに代えたい。  1つは、集合学習の「非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)の課題である。  ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、「パーソナル」から「ソーシャル」へと発展する。これは一部、「パブリック」でさえある。このように「マス化」によってではなく、「非マス化」によってパブリックにまで発展することを、ネットワーク型援助はめざしている。  ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできないだろう。しかし、集合学習にあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追求していかなければならない。つまり、「あなたは、集団の中のたんなる一人ではない」というアピールをもった学習内容・方法をプログラムの中にもつ必要がある。  2つは行政の「主体性」の発揮の課題である。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。残された問題は両者のつなぎ方である。  社会教育職員の中には「概念くずし」ということばを使うものがいる。住民が当たり前だと思っていることに切り込んで、住民の認知の枠組の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性を示しているともいえる。  もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する行政側の認識の不十分さを謙虚に認識しながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。  3つはプログラムという「計画」そのものの「非計画化」の課題である。ここで、「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることを意味する。たとえば、何があるかわからないパーティー型のプログラムや、空白の時間を設定して学習者がその中身を決めるプログラムなどが考えられる。  社会教育行政は人間関係の仕事である。つねに揺れ動き移り変わる存在としての人間とつきあう。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、めざすべき価値がはっきりとは決まっていないオープンシステムのほうが適していることも多いのである。  地方自治体は各セクションごとに専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供すべきである。都市と農村の双方が大きくきしむ中、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を住民に訴える責任をもっている。  さらにその上で、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与することになる。それが「ネットワーク型」で行われるかぎり、行政と住民との相互のフィードバックはつねに保障されよう。  そして、行政から自立しながらも行政と協働する住民自身のネットワークの中で、住民は主体性を獲得する。根本的には、住民のこのような主体としての成長があってこそ、個人を疎外しない「ネットワーク型」の地域合意が形成される。これこそが「公的課題」の現代的、かつ本質的な解決の方向である。 ●注 (1) 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」に関しては、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)を参考にした。 (2) 「啓蒙主義」については、江上波夫他編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一他編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)から引いた。 (3) 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」1988年3 月 (4) 見田宗介他編「社会学事典」弘文堂、1988年 (5) 梅棹忠夫「知的生産の技術」岩波書店、1969年 社会教育計画ミニ知識 第1章のあき 15行 「社会教育計画」の科目に含まれる内容  1986年の社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」では、「社会教育計画」という科目について、ねらいを「社会教育の計画・立案についての理論と方法の理解を図る」と示した上で、次のように「内容」を例示した。   地域社会と社会教育、社会教育調査とデータの活用、社会教育事業計画、 社会教育の対象の理解と組織化、学習情報提供と学習相談、社会教育と広報・  広聴、社会教育施設の経営、社会教育の評価  それぞれの「留意点」を見ると、「地域社会の諸類型・特性に対応した社会教育施策についての理解」「地域における学習集団の形成に対する援助方策についての理解」「広報・広聴をとおした人々の学習意欲の喚起」「社会教育及び社会教育行政の効果測定に関する知識や技術についての理解」などの記述があり、それらのことも、この「社会教育計画」の科目の中で学ばれるよう想定されていることがわかる。社会教育の計画・立案のためには、結局、社会教育実践において基本になる力と同じものが必要になるのである。 第2章のあき 0行 第3章のあき 18行 社会教育の対象と発達課題  1950年ごろ、ハヴィガースト(R.J.Havighurst)は、胎児期、幼児期、児童期、青年期、壮年初期、中年期、老年期の7段階に、60年代に入って、エリクソン(E.H.Erikson )は、乳児期、早期児童期、遊戯期、学齢期、青年期、初期成人期、成人期、成熟期の8段階に、それぞれ一生涯の発達段階を区分し、各段階ごとに固有の達成すべき課題、すなわち発達課題(developmental task)があると主張した。社会教育のそれぞれの対象を理解するということは、それぞれの発達課題を理解するということなのである。  しかし、その場合に注意しなければならないことの1つは、「輪切り」すなわち発達段階別に対象を集めることが、発達課題の達成に適しているとはいえないということである。他世代と交流する方が有効な場合も多い。  2つは、よき社会に適応するための発達という側面だけで楽観的に考えることはできないということである。エリクソンは、現代社会における青年のアイデンティティ(自己同一性)獲得の困難を指摘した。現代社会の歪みの中で、どのように個人として発達するかという視点が必要である。  3つは、すべての人間に発達課題の達成が必要だとしても、その期間、形態、内容が、画一的に表れることを理想とするものではないということである。むしろ、それらは、個別であって当然で、時代の方が変わるかもしれない。 第4章のあき  4行・・・少ないのでカットしてもよい 広報・広聴の意味  広報とは、PR活動である。ただし、このPRの意味は、public relations、すなわち行政と住民との間に健全で建設的な関係を維持、確立するための活動ということであり、住民との十分なコミュニケーションが前提となる。だから、広聴(住民の意見・要望の収集)活動も、狭義の広報と並ぶPR活動である。 第5章のあき 11行 社会教育施設整備のための国からの補助  補助金は、一般には、特定の施策を奨励したり、全国的に一定水準の行政を実現するために支出される。公立社会教育施設整備費は、文部省の「補助金交付要綱」に基づき都道府県や市町村に交付されるが、やはり同様の意味をもつものである。すなわち、全国のどこに住む人でも利用できるようにすることが必要だと思われる社会教育施設の充実を、それによって図っている。  この「要綱」では、それぞれの種類の施設の建物の面積や内容の最低基準を定めた上で、建築工事費等の一部を交付することによって、結果的には全国の施設で一定水準以上のものを実現している。しかし、この補助金が、とくに縦割り行政の弊害などによって、自治体の独自性を損なうことにならないよう、注意しなければならない。 第6章のあき  8行 社会教育における学習成果の評価のあり方  臨時教育審議会は、学歴社会の弊害の是正を訴え、「人々の能力の様々な側面に着目し、特定の側面における秀でた能力を積極的に評価する」として、評価の多元化を提言した。さらに、成人学習者の場合は、自律的学習者としての主体的な自己評価がとくに重要である。しかし、それは、社会教育行政などがそれらの評価には無関心でもよいということではない。評価に必要な情報をきちんと提供するなどの援助をし、また、このようにして得られた個人の学習成果の評価を真摯に受けとめて、今後の経営に生かすことも必要である。 第7章のあき 14行 社会教育目標と社会教育行政目標との違い  社会教育目標として、たとえば、「スポーツに親しみ、健康な心と体を鍛える」という言葉があったとする。これは、行政自体の心と体を鍛えることではないのはもちろん、住民の心と体を行政が鍛えてやることでもない。心と体を鍛えるのは、住民自身であり、行政がそういう社会教育目標を掲げるのは、住民にそれを提言しているだけのことなのである。すべての社会教育目標は、当然のことながら、このように住民にとっては拘束力のないものである。  しかし、社会教育行政目標は、この社会教育目標に基づいて設定される。これは、社会教育目標が達成されるためには、行政は条件整備者として何をしなければならないかを明らかにしたものである。それは、施設の整備や行政としての事業の実施などの目標であったりする。  社会教育目標を行政が設定することについては、住民の自主性を尊ぶ立場からの異論もあるが、社会教育行政の経営が目的意識的になり計画化される、行政の考えていることが住民の前に明らかにされる、などの意義は大きい。 社会教育計画の種類  社会教育計画というのは、非常に広い概念である。そのため、実際に存在する社会教育計画は、さまざまな視点から、さまざまな分類をすることができる。  「ひと・もの・こと・かね」のファクターで考えれば、人的計画、施設・設備計画、事業計画、財的計画ということになる。スパンの違いなら、長期計画(5〜10年)、中期計画(3〜5年)、単年度計画(1年)などがある。1カ月の計画や、1週間の計画だって、社会教育計画の一つである。  また、視点を変えると、特定の学習分野・領域の計画、特定の教育対象のための計画、特定の学習方法・形態の計画、特定の施設の経営のための計画、そして、それらを総合した計画というように、分けることもできる。  分野としては、自然系、人文系などのほか、男女平等教育、人権尊重教育、環境教育などのような学問的にはボーダーレスな分野も重要である。領域としては、文化振興、スポーツ・レクリエーション振興、あるいは、指導者養成、団体援助などもある。教育対象(学習主体)としては、乳幼児(実際には両親、保護者)、少年、青年、成人、高齢者、あるいは、大学生、婦人、サラリーマンのような対象も考えられる。方法・形態としては、放送利用学習なども考えなければならない。施設としては、公民館、図書館、博物館、青年の家、あるいは、一般部局や民間の関連施設もある。総合的な計画についても、社会教育行政セクションの計画のほか、自治体の総合計画や地域総合計画に含まれている学習援助の側面を鋭く見いださなければならない。  このように多種多様な社会教育計画を、われわれは、紙の上で、頭の中で、相互関連的に縦糸と横糸とを組み合せて把握する必要がある。 以下旧版 「社会教育計画」,倉内史郎編,学文社 7章 地方自治体の役割    〜学習プログラム作成の視点からとらえる〜            国立教育会館社会教育研修所専門職員 西村美東士 1 知と健康のネットワーキングを支援するシステム 1−1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義  社会教育法には国及び地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行なうのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。  そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない。」(第九条の三)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。  ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。  これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、「虎視眈眈」とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心を持ってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。  社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が、市民側に一部、育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。  戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。  この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまうのである。 1−2 ピラミッド型からネットワーク型へ  一方、民間の団体活動の方は、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。  ところが、文部省社会教育官の瀬沼克彰氏は、ある会議で「グループ・サークルを調査したところ、人口1万人当たりだいたい100の団体がある。」と紹介している。当然、そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この100という数字が概数であっても、その数は社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が全市でその100という数にも満たなかったりするからである。  つねに発生・消滅を繰り返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていないのである。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を「多忙にさせる」結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられるのである。  従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみの方もさらに広くなっている。それが、一つには、小さなグループ・サークルとして「ネットワーク」を形成しつつある。成熟社会においては、それは重要な一現象である。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。  なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。本論では、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張しているのではなく、ネットワーキングに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。  さて、本来ならここでネットワークの定義を確定しておかなければならないだろうが、実はそれはあいまいである。しかし、ここでは、「ツリーに対するリゾーム」の論議をとっておこう。つまり、木の幹と枝のように系統だって主従関係のあるものではなく、地下茎が網の目のようにからんでいるイメージである。  私は、ネットワークの特性は自立と依存関係の統一であると考えている。いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時にパソコンネットワークによって他のコンピュータと連携することができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。  このようにネットワークという考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「連帯」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「連帯」が同時に対置されることになる。●1  また、その他に、特に社会教育に影響を与えるネットワークのいくつかの特徴として、次のような諸点を列挙しておきたい。  一つは、同じネットワーク上においても、個人は自分の財産を奪おうとする者は許せないが、「知の成果」を盗む者には寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うだろう。パソコン通信において、「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください。」という「パプリックドメインソフト」を無料で提供する若者がたくさんいることがその好例である。  二つは、ネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの外部放電が個人の内部充電に、直接連動することを良しとする。すなわち、放電的充電と充電的放電であり、個人の内面や個人と個人の間における充電と放電の乖離や分業の固定化を解消しようとする。  三つは、ネットワークにおいては、「撤退する自由」がある。撤退しても生活に響かないことが多い。「撤退する自由」の上で、他の個人と「知的論争」などをするのは、なかなか愉快である。  四つは、ネットワークにおいては、個人主義を障害とみるのではなく、むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、「異質」と交流する志向を意味する。  これ以上のネットワークのかもしだす細かい状況については、第2節以降で随時触れることにしよう。 1−3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起の公的役割  啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。  当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの三つの特徴をもっている。●2  しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人一人の人間がすでに学習主体であることを前提に、その自己学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。  ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは「非常に重要」であるとともに、「非常に微妙」な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに学習主体」であることを、平面的、機械的、教条主義的に前提にしてしまうとすれば、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際は、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。  たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。  「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「結果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着を起こしそうな命題を実現する方策はあるのか。  結論から言えば、その方策はある。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もそうとう上がっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められている。それが、「ネットワーク型問題提起」であると考える。  だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の発生する基盤としての「ネットワーク型援助」一般について述べておかなければならないだろう。  「ネットワーク型援助」の重要なファクターの一つは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。  アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が非常に多いと聞いた。人々が分断された都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」たりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とは言えないのである。  施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。  これらの援助は、市民のネットワークを助長し、「結果として」市民が自ら社会の諸課題への「気づき」を深めるために役立つ。  しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性に基づくものであるか。この「正当性」を弁明できないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が・・・。  ネットワーク社会において、地方自治体、特に社会教育行政は、各人が「私有」している個人的・社会的「展望」を「共有」するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っていると言えるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワーキングの中で共有するように、各人に呼びかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきなのではないか。  糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした、またはほとんど絶望的な「展望」をそれぞれもっている。行政がたとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが発生するだろう。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。  ここまで、地方自治体の特に社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞるつもりで足早に論を進めてきた。これ以上の論議は、啓蒙主義との違いが特に問題となる学習プログラム提供についてしぼって、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、なるべく具体的に明らかにしていきたい。 ●1 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」に関しては、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)が参考になった。 ●2 「啓蒙主義」については、江上波夫他編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一他編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)から引いた。 2 年間事業計画の作成 2−1 地域の実態、行政の実態をとらえる  ここでいう「年間事業計画」とは1年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」ということができる。  さて、国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(昭和63年9月)(以下、単に『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、この見出しに関するアイテムを拾ってみる。  地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。  その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。  これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりとらえたと言うことができるであろう。  しかし、これはあくまでも「ひととおり」である。地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来への「トレンド」も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応の方が有効になるのである。  それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを「感じ取る」ことが必要である。  それは、住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、ひとつひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」、「記録」などが重要である。逆に言えば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報化社会においても地域・現場にしかないのである。  さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が上司から「監督」されずに個人の孤独な作業として進められがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の「水平な」ネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとっても不可欠である。 2−2 学習要求をとらえる  ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないかと言う。若者の街におけるウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない、選択基準自体が毎日変わると言う。「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでして、彼らのニーズを把握しようとするなどの猛烈な企業努力をしているが、それでも難しいらしい。ただし、企業は今でも若者に、なんとか、ものを売り続けている。  行政が学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているかのはっきりした正解はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。なぜわからないかといえば、その主要な原因の一つは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく「生みだされる」ものでもあるからである。  ただ、その会社の人の話の中から、一つには「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れないということ、二つには「わけのわからないもの」が意外に売れたりするということの二つから我々は学べるものがある。  前者は学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の三つに乏しいのである。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などの主体性が付加されなければいけない。  後者は、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえば「おもしろがって」、受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。  次に、今までの論議は「不易流行」の言葉を借りれば、「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。  しかし、この「不易」の学習要求の方も、その中味は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでもたとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても、最小公倍数のものであることを知った上で行わなければならない。  それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていく、あるいは「つくりだしていく」しかないのである。 2−3 「公的課題」の優先  ネットワークは「自治」である。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言った方がよいだろう。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよいのである。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それを当事者である個人が決める。  このようなことであるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。  それに対して、行政が行うべき「ネットワーク型問題提起」は性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意思」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。  そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議とも言える。むしろ、「行政らしい関わり」をすることの方が行政としての「個性を出す」という意味から「ネットワーク的」なのではないか。  「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。  しかし、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的課題」に見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。  つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然と言えるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりすることに留意する必要がある。  だから、学習プログラムも表面上、私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する展望をもっていなければならない。そして、その展望を住民につねに明らかにしていくことの方が住民との関係でフェアーだと考えるのである。  さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題であるという現実がある。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。  このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを操作概念として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。  たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例に挙げたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、それを優先して援助・提起する。  もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、保障されない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。  しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになった時には政策の方を転換する義務を負うという意味での「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べる。  次に、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人々の「学習権」はどうなるか。より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。  その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。  しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は行政から「学習権が保障される」立場から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワーカーの「役割遂行者」としての立場に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。  なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されており、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もほとんど問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢が、すなわち、公的課題の「優先」ではなく「一般の他の課題との同列化」ぐらいの重視の姿勢は必要であろう。 2−4 学習課題を整理する  公的課題を優先するためには、公的課題とは何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。  たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』は次のように述べている。 「これからの生涯学習を進めていくうえで、特に留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる」。●  このようにいわば「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、これは簡潔にまとまった提言として評価できる。  そこで、これらの青少年問題以下の課題に対応する学習がすでに行われているか、あるいは行われようとしているかどうか、それぞれの自治体での住民の学習の実態を思いおこしていただきたい。実は、まったく学習されようとしていない課題というのはないのではないか。  つまり、抽象的に言えば、公的課題の「優先」とは、行政による学習課題の「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。  このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例を次のように挙げている。  生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。  これらの分類によって整理が比較的、体系化され、行政が学習要求や学習行動から謙虚に公的課題を選択する根拠ともなるのである。  ただ、すでに述べたように、行政側が考える公的課題(行政課題)も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、上の領域区分と並列ではなく、もう一つの次元としてとらえて、上の区分とのマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての主体性がある。  さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。しかし、これらについては、そのポイントがほとんど次の節と重なるので本節では省略する。  ただ、それらの各種事業を区分する基準であるが、『社研資料』では「事業形態・方法別』の一例として次のようにあげられている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要であることに留意したい。  さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題のひとつひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックス的なとらえ方が求められるのである。 ●1 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」、88.3 3 個別事業計画 3−1 「学習ニーズ」の優先  いよいよ、ここでは、ひとつひとつの事業における学習プログラムの作成について述べることになる。  さて、年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。ところが、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応最重視の姿勢で論を進めたい。なぜか。  もちろん、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないということもある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。そして、現行の学習プログラム提供もニーズ対応の面では、私はかなり不十分だという認識をもっている。  前節でいう「公的課題」がそれなりに明確になったあとに必要なこと、それはそこで「仮に」設定された「公的課題」を住民にいろいろな機会を利用して、はっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。  次に、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいてはそれが住民の学習ニーズに呼応して「融解」して提供される。  行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させてよい。しかし、それをそのまま不変のものとして住民に押しつけるとすれば問題がある。しかも、個別の学習プログラムの段階までいくと、講師の依頼の関係などから、残念ながら宿命的に「不変なもの」としての性格が強まってしまっているのである。  これに対してネットワーク型援助は、住民との関係が水平的であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の「独善」になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」する必要がある。このことによって初めて、住民の主体的な学習参加とネットワーク化が促されるし、行政の側が学習課題を選択することについての安全性の保障にもなる。  現に、次から述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえないであろう住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると私は思う。学習ニーズに絶体確実と言えるものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。もちろん、それは私のトレンドの「見間違い」の可能性もあるが、それはそれで「公的課題」設定の困難性と安全性保障の必要性を示していると言えるだろう。 3−2 参加対象をどう設定するか  社会教育行政はなぜ対象別、特に発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。第一義的には、プログラム作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をするといえる。  だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならない。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるかもしれない。  「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであっても、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民の個々が判断して行動を決定する。企画者が予測のつかない結果をむしろ歓迎するのである。  しかし、参加対象を「限定」(「設定」ではなく)する方が良い場合もある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断を「とりあえず」することは許されるだろう。  だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」●1準拠集団の端緒を行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合はまだ「異質」の者との水平的なネットワークが期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始める必要がある。  たとえば「ビッグトゥモロー」、「セイ」などの「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事を熱心に読んでいる「暗い青年たち」もいる。活発な婦人や一家言を持っている高齢者に対して、そういう青年たちが最初から水平的ネットワークを営むのは無理と企画者が思うなら、「青年講座」への主婦、高齢者の参加は断わらなければならない。  しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。これは、すなわち「集団の固定化」の傾向であり、ネットワーク化の阻害要因なのである。  さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側から住民に対して、参加を開拓して受け入れる、いわばマーケティングの用語と言える。ところが、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」と呼んでいるようだ。「対象」と言うより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が「自ら」ことを解決することを基本におく姿勢が表れている。  もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」と呼ぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、作成時においても、「対象」の「望ましい姿」を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。  最後に、マーケティングの観点から、新たに注目すべき「対象」を考えてみたい。  一つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の傾向は、実は経済基盤の変化の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されない。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが養えるのは、ネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるばずだ。  二つは「大学生」である。彼らはエリートではなく、多数派としての一般住民の一員になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めていることには変わりない。大学生の参加により、事業にトレンドがフィードバックできるのである。そして、彼ら自身がすでに一般社会人としての性格をもっているのに、中期高等教育の程度の教育しか受けていない者が多いということから、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日生まれているのである。  三つは「一時滞在者」である。博物館のように旅行者へのサービスはできないものか。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの「新しい風」を吹かせてくれる人を地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。さらに、各自治体が「旅行者向け学習プログラム」を提供するようになれば、日本全体として週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が可能になるのである。 3−3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する  『社研資料』では次のようになっている。 「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。  このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民はよく中味を知った上で参加を検討できるのである。  さて、最初に「学習目標」であるが、これは一つには、直接、企画者側から問題を提起する、つまり「課題性」のあるものが良い。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。  二つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。  住民の国際性のかん養をはかる目的で「中国語教室」を開いたとする。まさか本時の学習目標は「国際性のかん養」とは書けないから、「中国語がしゃべれるようになること」ということになるが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」としなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それでも出たい人には、前半の数回はお義理で参加していただくようお願いするしかない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。  それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定しサービスして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化した方が良いだろう。  次に、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける。  最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか列挙したい。  一つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習という言葉には、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。また、今後の学習社会においても、そういう性質の学習もますます必要になるだろう。しかし、そういう「目的意識」のある学習にばかり偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。  現在、生涯学習の進展の中で、「学習」と呼ばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いといういわば「快感覚」の追及なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシーでハイな「快」である。  もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは明らかに今後の技術革新の社会において必要不可欠の個人の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどないのである。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで遊んでいる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、その「遊び」の方が結果としては効果的な学習になっているのだ。  ここで、着目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには反対する議論もある。しかし、少なくともそうとう有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)にはなっているのは事実だ。  オイルショック以降、経済の安定成長の中で人生が楽しめるような個人の主体性を社会が求めている。その一つが人間のネットワーク能力であり、もう一つが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。後者に対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することではなく、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。  二つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。●2  ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワーキングをしようとする個人がその「深み」を発揮するために必要な技術は、情報の収集から発信まで含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。  学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」の方がそれより優れているということではない。)  このように、行政としての「期待」をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を広い層に提供するということは、「ネットワーク型援助」の中でも特に象徴的な社会教育行政の行為である。  三つは、「コミュニケーション技術」である。具体的には、二つめとも関わるが、聞く・話す・書くなどの技術である。  戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議の進め方などが学ばれた。  しかし、今日ネットワーキングの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者はなぜかを聞くことはあっても、干渉したり、心配したりはしない。そして、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど必要ない。  それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。それは、ネットワークのコミュニケーションの中で、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った他者だけがプレゼンテーターの気持ちの理解もともなってその企画を理解し、それによって自己を革新し、再びコミュニケートに向かうすべての営みの総体をさす。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。  四つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の単なる「弟子」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。また、行政が必要と考える「部分」だけに絞ってプログラム提供することは危険でもある。  もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは不可能である。実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦する動機づけに最適な学習内容を設定することになる。  そもそも、「ネットワーク型問題提起」としての学習プログラム提供は、「すべて」を提供してしまうものであってはならない。教育一般の本質とも言えることだが、「教える」場合は最小限に、そして意識的に「中途半端で打ち切る」ということが必要なのである。  個別事業計画の作成に当たっては、学習方法、講師、指導者、教材、教具などを設定する作業が残っている。また、その他に、参加者の募集、広報、企画・運営への住民参加組織、アフターサービスなどについても計画化しなければならない。  しかし、それらについてはここでは、逐一解説するのをやめ、すでにるる説明した「ネットワーク型援助」の考え方に基づき、学習ニーズに沿いながら参加者の主体性を誘発するような「しかけ」をちりばめる必要があるとだけ述べておこう。 ●1 見田宗介他編「社会学事典」、弘文堂、88.2 ●2 梅棹忠夫「知的生産の技術」、岩波書店、69.7 3−3 小括  すでに与えられた枚数を越えてしまっている。また、これまでより新しい知見で学習プログラム作成における「ネットワーク型援助」について語る力量も私にはない。そこで、残された課題を述べることによってまとめに代えたい。  一つは「集合学習の非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)についてである。  ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、パーソナルからソーシャルへと発展する。これは一部、パブリックでさえある。このように「マス化」でなくて「非マス化」によってパブリックにまで発展することが、ネットワーク型援助行政のめざすところである。  ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできない。しかし、そこにあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追及していかなければならない。とりあえずは、「あなたは『大衆』ではない」というアピール性のある集合学習のプログラムを作成、提示することになるだろう。  二つは行政の「主体性」の発揮についてである。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。問題は両者のつなぎ方である。  自治体の社会教育職員の中に「概念くずし」という言葉を使うものがいる。住民が当り前だと思っていることに切り込んで、意識の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性も示している。  あるいは、行政自体が、「公的課題」というコンセプトをもち、それをメッセージとして発することは、許されるのではないか。それは、住民に対する「おしつけ」ではなく、いわば「刺激」としてとらえられないか。  さらに、教育は「教え育てる」ことだからと言って、社会教育を忌避する論もある。しかし、そういう論者の言う「成熟した市民」にとっては、「教える」と「育つ」は、ネットワークの中ではお互いに「教師と生徒」ということでこん然一体となり、行政に対しては「育つ」主体は自分だということできちんと分離できているのではないか。  もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する自己の見識の貧弱さにつねに不安をもちながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。  三つはプログラムそのものの「非計画化」についてである。「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることである。たとえば、学級・講座型ばかりでなく、パーティー型の何があるかわからない、あるいはその場で参加者が決めるプログラムなどがそれである。  社会教育行政は人間関係の仕事である。だから、つねに揺れ動くもの、移り変わるものとしての人間とつき合うことになる。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、価値を先に決めないオープンシステムが、本質的に適しているのである。  地方自治体は各セクションの専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供する。都市と農村の両方が大きくきしむ中で、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を訴えることができる。  さらにその上に、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与できる。それが「ネットワーク型援助」であれば、住民との相互のフィードバックがつねに保障されているからである。  そして、これら行政と自立しながら協働する住民自身のネットワーキングによって、住民はいっそうの主体性を獲得する。そして、究極的には個人を疎外しない「ネットワーク的」な地域合意を形成してこそ、「公的課題」の本質的な解決がはかれるのである。