コミュニケーションを求めておののく若者たち  週刊教育資料「社会と学校のはざまで」       昭和音楽大学助教授 西村美東士 1 自分は求めるけれど、人にはあげられない  人間は、言葉がけ、スキンシップ、まなざしやうなずき、などによって相手の存在を認めていることを示す。このような行為を「交流分析」では「ストローク」とよぶ。人間は誰でもストロークを求めて生きている。  しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとるのである。ストロークを出す本人にとっては、その発信はリスク(危険)のかたまりなのだ。  今日の若者たちは、自分からストロークを出すことに慣れていない。そのうえセンシティブだから、相手からのストロークの裏にある不純さや、その「罠」に反応することの危険を嗅ぎとることにはとても敏感である。だから、相手からのストロークに答えることもできない。  そのため、大人が懸命になって「心と心のふれ合いを大切にせよ」「人間はわかりあえるものだ」などと若者たちに上から号令をかけても何の効果も及ぼさない。学生の「出席ペーパー」(拙著「生涯学習か・く・ろ・ん」学文社、参照)から、ひとつ紹介する。  「ゼミを自己変革の場に、と先生は望んでいるようですが、私にはゼミの場が自己変革の場にはなりません。自分が何を言っても、何を思っても、大丈夫、守られている、というふうには感じられないので、つまり受容されるようには感じられないので、自己開示できません。だから、ゼミは自己変革の場にはなりえません」。  この学生の場合は、人間関係のことをよくわかっているのだ。そして、自分が受容される特別な場を他の所で見いだしてさえいるのである。だからこそ、簡単には心を開かない。私は、その真摯な生き方を立派だと思う。 2 現実原則の中でのストロークの自己管理を  しかし、問題は、受容されるとはかぎらない日常生活の「現実原則」の中で、ストローク発信の自己管理(場合によっては発信しないことを含めて)をどう行うか、ということであろう。  いっぽう、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークを得るためには、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。  そして、もうひとつには、ストロークを出して傷ついた場合、そこから逃げずに、どのような形でその体験を自己に内面化するかということが問題になる。自分が傷ついた事実をあるがままに認識し受けとめることができれば、時と場合と相手に応じて出したり出さなかったりすることができるようになるだろう。ストロークを出せないということと、ストロークを出せるけれども出さないということとは、外見は同じように見えても、内面的には正反対のことなのである。  一番すじが通らない生き方は、自分はカプセルの中に閉じこもってしまっているのに、それでいて、ストロークがもらえないと嘆き、カプセルの中でいつまでも他人からのストロークを待っている姿である。それは、閉じこもっている自分の姿が見えていないだけのことなのだが、そういう若者もたくさんいる。  わたしは、そういう学生に、こう言っている。「今は閉じこもらないではいられない自分の姿をこそよく見つめて、将来まで、そういう人間の悲しみの深さをよく覚えておいてほしい。そうしたら、少なくとも、今年の新入社員は心を開いてこない、と不満を言うものわかりの悪い上司や、今の子どもたちは消極的で困る、と子どものせいにする権威主義的な教師にはならないですむはずである。なぜなら、いま悩んでいるあなたは、消極的にならざるをえない部下や子どもの心を共感的に理解する心をもっているはずだからである。あなた自身は心を開かないでおいて、相手には開くように求めるとしたら、それは最悪である」。 3 コミュニケーションの成熟化と無力化  今日、コミュニケーションの手段は大いに発達している。しかし、そんなことは若者たちにとって「あたりまえ」のことであり、ツール(道具)の素晴らしさよりもコミュニケーションするということ自体が大切なのだ。これをコミュニケーションの成熟化とよぶことができる。  しかし、成熟化とは、ある面では、活力を失うことでもある。一方通行の音楽・映像メディアや、フェース・ツー・フェースではないメディアによって、自分は傷つかないままにコミュニケーションを享受しているうちに、おたがいの存在を認め合うストロークのやりとりのチャンスまでも失いつつある。傷つく恐れのないコミュニケーションは、ストロークではない。そういう音楽や映像のメッセージが、カプセルの中の自分に個別に与えられたような錯覚のもとに受け入れられて、親和欲求を少し満たしている。つまり、エセ・ストロークとしても機能している。  また、若者たちは、おしゃべり(双方向)も華やかに上手に交わすことができる。雑誌「教育」(国土社)が「おしゃべり症候群」を特集してその空疎を衝いたのは一九八五年だが、いまや「双方向の一方通行」ともいうべき恐るべき軽やかなコミュニケーションが成熟しつつある。言葉は交わされているが、気持ちは交流できない(しようとしていない)のである。「それがおしゃれだし楽しいのだから」と若者は言うのであろう。 4 管理や保護ではなく自由の恐怖を  コミュニケーション教育の要点は、いまや、指導者が若者を管理することでも保護することでもないのではないか。管理や保護があると、それが現実原則の対象にされてしまい、若者自身のストロークの非力もそのせいにされてしまう。  ストロークを自由にやりとりさせる機会を提供することが必要である。管理したり保護したりしてはいけない。また、自由といっても、与えられた目標に自発的に追いつこうとさせるためのものでもない。どんなストロークも自分の判断で自由に出せるという状況、誰のせいにもできない状況、に彼らを引きずりこんでこそ、若者は、相手からのストロークを求めているのに、自分からそれを出すことについては恐れおののいている自分自身に気づくだろう。そこで自分はどうするのか、が本来の現実原則の学習につながるのである。 写真説明 社会教育のゼミで学園祭に参加、近所の子どもたちにストローク発信。 コミュニケーションを求めておののく若者たち  週刊教育資料「社会と学校のはざまで」       昭和音楽大学助教授 西村美東士  22字×(148−15)行=2926字=40字×73行 1 自分は求めるけれど、人にはあげられない  人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。このような行為を「交流分析」では「ストローク」とよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。  しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとるのである。ストロークを出す本人にとって、その発信はリスク(危険)のかたまりなのだ。  今日の若者たちは、自分からストロークをうまく出すことは得意ではない。経験不足なのである。そのうえセンシティブだから、相手からのストロークの裏にある不純さや、その「罠」に反応することの危険を嗅ぎとることにはとても優れている。だから、相手からのストロークに答えることもできない。  そのため、大人たちが懸命になって「心と心のふれ合いをせよ」「人間はわかりあえるものだ」などと若者たちに上から号令をかけても何の効果も及ぼさない。学生の「出席ペーパー」(拙著「生涯学習か・く・ろ・ん」学文社、参照)から、ひとつ紹介する。  「ゼミを自己変革の場に、と先生は望んでいるようですが、私にはゼミの場が自己変革の場にはなりません。自分が何を言っても、何を思っても、大丈夫、守られている、というふうには感じられないので、つまり受容されるようには感じられないので、自己開示できません。だから、ゼミは自己変革の場にはなりえません」。  この学生の場合は、人間関係のことをよくわかっているのだ。そして、自分が受容される特別な場を他の所で見いだしてさえいるのである。だからこそ、簡単には心を開かない。私は、その態度を立派だと思う。 2 現実原則の中でのストロークの自己管理を  しかし、問題は、受容されるとはかぎらない日常生活の「現実原則」の中で、ストローク発信の自己管理(場合によっては発信しないことを含めて)をどう行うか、ということではないか。  いっぽう、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークをもらいたいのなら、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。  そして、もうひとつには、ストロークを出して傷ついた場合、そこから逃げずに、どのような形でその体験を自己に内面化するかということが問題になる。自分が傷ついた事実をあるがままに認識し受けとめることができれば、時と場合と相手に応じて出したり出さなかったりすることができるようになるだろう。ストロークを出せないということと、ストロークを出せるけれども出さないということとは、表面は同じように見えても、内面的には正反対のことなのである。  一番すじが通らない生き方が、自分はカプセルの中に閉じこもってしまっているのに、それでいて、ストロークがもらえないと嘆き、いつまでもカプセルの中で他人からのストロークを待っている姿である。それは、閉じこもっている自分の姿が見えていないだけのことなのだが、そういう若者もたくさんいる。  わたしは、そういう学生に、こう言っている。「今は閉じこもらないではいられない自分の姿をこそよく見つめて、将来まで、そういう人間の悲しみの深さをよく覚えておいてほしい。そうしたら、少なくとも、今年の新入社員は心を開いてこない、と不満を言う物わかりの悪い上司や、今の子どもたちは消極的で困る、と子どものせいにする権威主義的な教師にはならないですむはずである。なぜなら、いま悩んでいるあなたは、消極的にならざるをえない部下や子どもの心を共感的に理解できる心をもっているはずだからである。あなた自身は心を開かないでおいて、相手には開くように求めるとしたら、それは最悪である」。 3 コミュニケーションの成熟化と無力化  今日、コミュニケーションの手段は大いに発達している。電話なら、いちいち会いに行かなくてもすむ。マスメディアからの情報を受けるだけなら、自分が傷つくことを恐れなくてもすむ。映像であれば、人間の情念などでさえ伝わってくる。  このような技術発展はうまく利用するのが賢いやり方である。しかし、コミュニケーションのツール(道具)は発達していてあたりまえであり、重要なことはコミュニケーションそのものである。パソコン通信では、機械などは透明(トランスペアレンシー)のものに感じて、通信そのものに没頭できる感覚こそ尊ばれる。さらに、わたしは、パソコン通信そのものには飽きてしまってパソコン通信をきっかけとしたミーティングや宴会の方に熱心になってしまうバーンアウト(燃え尽き)現象も成熟化のひとつとしてとらえている(前掲書参照)。使っているツールが大切なのではなくて、コミュニケーションするということ自体が大切なのだ。これをコミュニケーションの成熟化とよぶことができる。  しかし、成熟化とは、ある面では、活力を失うことでもある。フェース・ツー・フェースではないメディアや一方通行の音楽・映像メディアによって、自分は傷つかないままにコミュニケーションを享受しているうちに、おたがいの存在を認め合うストロークのやりとりのチャンスまでも失いつつある。傷つく恐れのないコミュニケーションは、ストロークではない。そういう音楽や映像のメッセージが、カプセルの中の自分に個別に与えられたような錯覚のもとに受け入れられて、親和欲求を少し満たしている。つまり、エセ・ストロークとしても機能している。  先日、授業で傾聴のトレーニングをした。この授業の受講者は自己表現の一つである音楽を専攻しており、しかも二十歳前でもあり傷ついた経験はそれだけ少ないからであろうか、「受容」はスムーズにできた(表面的には支持的だった)。どのペアも話がはなやかに盛り上がっている気配だった。ところが、「繰り返し」になると、とたんにできなくなった。聞き役が要約を繰り返すことによって話し手への理解を確認させようとしたのだが、そのことに反発さえ起こったのである。特徴的なことは、傾聴されるほうの話し手側からの反発が強かったということである。出席ペーパーには、「せっかくの話をさえぎられる感じ」「うざったい」とある。実際、繰り返されることなど邪魔になるほど、相互確認のないまま、人をひきつけるおもしろいおしゃべりが若者はできるのである。うなずきとあいづちさえあればよい。  おしゃべり(双方向)も華やかに上手にできるようになってきた。雑誌「教育」(国土社)が「おしゃべり症候群」を特集してその空疎を衝いたのは一九八五年だが、いまや「双方向の一方通行」ともいうべき恐るべき軽やかなコミュニケーションが成熟しつつある。言葉は交わされているが、気持ちは交流できない(しようとしていない)のである。「それがおしゃれだし楽しいのだから」と若者は言うのであろう。 4 管理や保護よりも自由を  若者に与えられるべきコミュニケーション教育の要点は、いまや、指導者が若者を管理することでも保護することでもない。管理や保護があると、それが現実原則の対象にされてしまい、若者自身のストロークの非力もそのせいにされてしまう。  ストロークを自由にやりとりさせる機会を提供することが必要である。管理したり保護したりしてはいけない。また、自由といっても、与えられた目標に自発的に追いつこうとさせるためのものでもない。強制されたり守られたりした中での自主性だけでは、傷つく自分を受容するレベルまでには到達しえない。  どんなストロークも自分の判断で出せるという自由の場に彼らを引きずりこんでこそ、自分がストロークを本当は求めながらも、それを出すことによって傷つくことを恐怖している、ということに気づくだろう。もし、それでも、自分がストロークを出したいのに出せない理由を他人のせいにしようとする者がいたら、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない。あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という原則を確認させるとよい。  このように誰のせいにもできない状況では、その人のすべてのストローク発信をその人の責任とすることができる。そこでどうするか、ということこそが、本来の現実原則の学習につながる。 ・「個の深み」への注目。 ・その場合のMAZEを受容する力。 ・スクエア・ヘッドからエッグ・ヘッドへ。 ・守られた中での自主性ではなく、現実原則の中で自分を守る生きる力としての主体性の重視。 ・傷つけたり傷ついたりしてはいけないという「従順な子ども心」による一種の禁止令(思い込み)を、「自由な子ども心」(フリーチャイルド)に向けて解放すること。 ・ピアノ、演劇などの自己表現体験の必要。 ・「批判的な親心」に対しては、その批判を自己にも向けさせる。 ・「保護的な親心」の過剰に対しては、「私は私、あなたはあなた」を対置する。(誤った集団主義の克服) ・知的空間の対等な関係における(肯定的、否定的とは異なる)「批評的」ストロークの意義。(たとえば授業での教師と学生との相互批判) ・保護的管理ではなく、また、自由を与えることによって目標に追いつこうとする自発を待つことでもなく、自由に対面させてそれを恐怖する自己を確認させること。 ・大人になることの支援。 ・ヒエラルキーの中で場合によっては仮面をかぶり、社会や組織の中で与えられたる自分の役割を演ずること、そういう自分を受容することなど、現実原則の中で生きるレベルまで教えることの必要性。(生きる力を注ぎ込むのが教育の役割) ・ある面で自分が非力であることを受け入れ、しかもそれでも自分はOKである、という自信。