「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その2)  −出席ペーパーに表れたその実態と可能性−                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(2) −The Reality and Possibility appearing in Attendant-Papers− 今回の論文の位置づけ  前回の論文、「(その1)」では、まず、講義が主体的学習にとって有益ではありえないという関係方面における一般的な論調や、その論調のもとに行われた教育実践の経緯を紹介した上で批判した。次に、出席ペーパーを中心とする「話す・書く・表現する」という営みを誘発する契機を準備することによって、「反応・発展の個別化の促進」が期待できることを主張した。そして、本論のこれらの主張を支える社会的基盤・条件として、今後のネットワーク社会の形成の可能性と特質を挙げ、そこでは個人の主体性が一人ひとりに厳しく求められることを指摘した。  詳しくは「(その1)」のとおりであるが、いずれにせよ、前回および今回以降の本論のすべてを貫く鍵概念は、「個の深み」であり、問題意識は、その獲得を家族、友だち、教育者、職場、地域などの他者、とくに社会教育がいかにすれば支援できるのか、ということである。  今回は、出席ペーパーに表れた事例をいくつかの視点から分類して紹介することによって、「個の深み」の内容、または、その阻害要因に関する具体的な姿を明らかにしたい。そこでは、学習者一人ひとりの「個の深み」の獲得のプロセスとその支援の方法が、もっとも重要なテーマとなるだろう。  ただし、枚数の関係から、すべての事例を紹介するわけにはいかない。事例は、この論文の数倍の分量である。それについては、関心がある人には個人的に提供したい。また、出席ペーパーの中には、極端にプライベートな事例などもあり、そこにはその人だけの強烈な環境・体験に基づいた「個の深み」の萌芽が散見されるのだが、その場合は出席ペーパーがカウンセリングに近い作用を及ぼしていると考えられるので、残念ながら公開を控えた。  ちなみに、前回の論文で、枚数の関係から掲載を見送った1の(1)から(2)までについても、拙著『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』(1991年4 月、学文社)の第1部にそれを含めて前回の論文の全文を掲載したので、ここでは割愛する。  なお、ここでいう「出席ペーパー」とは、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くもので、そのルールは、次に示すとおりである。(1) 何を書いてもかまわない。(2) テストではない。社会人の場合は匿名でもかまわない。(3) 書くことを義務づけるものではない。(4) ペーパーは講義時間中に書く。書く時間はとくに指定しない。(5) ペーパーは終了時に回収し、講義者が保管する。原則として返却しない。  また、ここに挙げた「T大2部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の社会人入学者を含む2部学生であり、「S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事課程を学ぶ短期大学学生である。 1 学生から教師へのストローク  ピア・コンセプトが働く中、皆の前で教師に注文を出すことは、かなり困難である。その点、出席ペーパーなら、フィードバックが大いに可能である。しかし、じつは、それ以上に、学生が教師に関心を持っている、という意思表示として、学生にとっても教師にとっても、この出席ペーパーは有益なのである(この点については、前回の論文でも触れた)。  ストロークには、肯定的ストロークとともに否定的ストロークがあり、後者へのニーズは人間存在の実存的な悲しさを物語るものだが、教育=学習の交流の場においては、水平な関係に基づく「批評的」ストロークというものが存在しうると考えたい。学生からの批評的ストロークによって、教師は自己の存在確認をすることができる。また、学生は、依存的な学習態度を自ら改めることができる。 1990. 5.23. T大2部社会教育概論  (ビデオの)放映の途中、先生の話が少し耳につきます。イメージは画面から個々が描くものです。そこに話が入ると、そちらのイメージを描いてしまいます。 1990. 6.27. T大2部社会教育概論  講義中、退席する人を、顔色ひとつ変えずに見送れる先生の心境はどのようなものなのでしょうか。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  あまりにも自由な授業で、(自分も含め)ルーズな態度の人も散見されましたが、むしろ、意欲のある人にとってこそ、成果を上げている授業だと思われます。個人的には、今ひとつ、大学の講義らしいとは思えませんでしたが、そんなステレオタイプな見方を打破する可能性を秘めていると思います。もしかすると、先進的な授業なのかもしれません。 2 教師から学生へのストロークの反映  指導(指示的な)をするのならば、指導していることを教師の側がよく認識した上でせよ、という。私は、それに加えて、教師からの率直なストロークとして指導することがありうると思う。  「こうしてはいけない」「ああしてはいけない」と教師が惰性に任せて何度も言ったところで、そうできない理由のある本人にとっては疎外感を感じるだけである。それよりも、理屈からではなく、教師が自分の実存から発する心の呼びかけを学生に対して行うこと、すなわちそれをストロークと呼ぶのであろうが、それが指示的指導の受け入れられる条件の一つだと考えられる。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  (出席ペーパーでの)十人十色の考えに対して、先生がコメントしてくれるのですが、時間やレジメの紙の大きさなどによって、十分ではなく、また、中途半端になっていると思うのです。先生が”mito”のマークをつけてひとこと書いてくださいますが、違うんです。ひとことにまとめる前の部分を聞きたいのです。1人対 120人、むずかしいですね。ちょっと考えてしまいました。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  第1回の印象・・・何なの、この授業、いやなやつ(ごめんなさい)。今、25回分の講義資料を、もう一度じっくり見直したいという私に変容をきたしております。「教育とは、学習者が主体的に自己変容を図ることである」とするなら、このコーギは、まずは成功ですね。 3 授業中の自己の体験の客観視  通常の講義内容のそれぞれの項目をどう受け止めたかということについても、出席ペーパーは学習者の自己確認にとって有効であるが、授業の内容が体験的学習である場合は、そのような「振り返り」がとりわけ必要である。体験が、自らの「振り返り」によって客観視され、自己の認知構造に取り込まれるからである。 1990. 6. 9. S短大教育社会学  こんなゲーム(銭回し)なんてやったの、中学校以来なかったと思う。だから、先生の言うドキドキした気持ちになったのは、とても久しぶりでうれしかった。それと、その反面、そういう気持ちになることが少なくなった今の自分がとても淋しく思えた。 1990. 6. 9. S短大社会教育概論  (リーダーシップ・トレーニングで)自分で当ててみるということになると、ちょっと大げさかもしれませんが、勇気がいるんです。その勇気というのは、もしまちがっていたらみんなからなんて思われるのかな、みんなに悪いな、とか、別に私が当てなくても誰かが先に当ててくれるだろう、という気持ちをおさえて、自分で当てるということなのかな、と思います。 1990. 4.25. T大2部教育学演習  今日のバズ討議は、たんにアイデアを出し合うだけなのではなくて、その進め方や、その時のメンバーの気持ち、沈黙している時の気持ちなどを考えるためのしかけがあったのですね。こういうのは、なんだかワクワクします。 1991. 1.23. T大2部教育学演習  グループでイベントを行った際、今までの自分でしたら、しっかりきっちり計画を立ててやらなくては何事も気がすまなかったのが、今回のこの経験では、非計画性を受容し、当日の全員の協力でうまくできた時(そう評価しているのだが)、喜びが大きく感じられた。 4 自己表現の不器用さと表現の解放  自己表現については、強い抵抗がある。どうしてこんなに拒絶感があるのか、他人としては理解に苦しむほどである。本人の生育歴の中で、自己表現が抑圧されたり、自己表現によって心を傷つけられた体験があるのかもしれない。  しかし、一方では、当然のことながら、その本人も自己を表現して他者とストロークを交換したいという欲求をかかえている。「個の深み」の発露のためには、本人の抵抗感を十分に配慮して安心感を与えた上で、潜在的な自己表現欲求を解放させなければならない。  たとえば、人前で喋るのは厭だけれども、教師だけが見る出席ペーパーになら安心して自己表現することができるという学生も多い(というより、そちらの方が多数派である)。そうであれば、書くことで自己表現するチャンスを豊かに提供すればよいのである。  また、専門的な芸術の高度な部分を除けば、日常生活、学業、生涯学習の中で必要になる自己表現については、慣れやテクニックの問題に単純に帰する部分も大きい。その意味からは、学習援助活動の中で自己表現訓練を普遍化させ、日常的な取り組みにしていくことが望まれる。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  この授業でものすごく感じたのは、生徒(自分も含めて)(筆者注 生徒でなく学生であることは授業中、何回も言ったが)が受け身の形に慣れすぎているということ。先生に「自由に話してもいいよ」と発言を求められても、何も話せない自分がとても恥ずかしかった。でも、この授業を受けていくうちに、まったく知らない人に話しかけたりするのもイヤじゃなくなったし、知らない人とうちとけることもできるようになった気がします。 1990.10.13. S短大社会教育概論  ブレーンストーミングでは、今まで学校で行ってきた学級会などと違い、思うように発言できた。アイデアを批判されたりすると、つい消極的になってしまう。そういう意味でも、このブレーンストーミングは、学校教育の中でもっと活用されていいと思う。  私が体験してきた話し合いでは、いつもきまって同じような人が発言し、その意見で決まる。ほかの人は面倒くさいから言わなかったり、消極的な人は言いたくても言えなかったりしていた。こんな話し合いでいいのか、と思ってしまう。 1990. 4.25. T大2部教育学演習  私は学生時代からずっと、司会者や委員長というのは、陽気な性格の特別な人がなるものだと思ってきました。ですから私にはずっと縁のないものでした。今日の授業で、司会をすることも、また、イベントの要素をもっており、ポイントを押さえれば、誰にだってできるものなのかなと思いました。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  (出席ペーパーの)文章を書くということは、なんて難しいんでしょうか。日頃思っていることや考えたことも、いざ文章にするとなると、構えてしまって手が動きません。これは、自分では考えたつもりでいても、系統づけができていないイメージだけのものであるからだろうと思いますが。 5 強力な幸福願望と自己の幸せについての懐疑  欲求段階説でいう低いレベルの欲求については満たされている場合、幸福の実現に関する本人の自己評価の基準は、かなり高いところにおかれることになる。とくに女性の場合は、幸福に対する強い憧れと、それに伴う現状否定の傾向が顕著である。  第1に、個人は集団の中で平均的な成員であればよいという過去の社会システムを克服して、個人に「個の深み」を求めようとする観点からは、この自己評価基準の高度化は歓迎すべきことである。  しかし、第2に、本人の主体的力量が、そのレベルや不成功の体験に耐えられるまでに至っていない場合は、結果的にはかえって疎外的状況を生み出してしまうことがある。  第3に、欲求段階説を機械的には当てはめることのできない状況が生まれている。すなわち、モノの豊かな今日にあっても、なお、親の責任による栄養不良症状の子どもがいるわけだが、そういう人にとって、まず食料を、ではなく、まず家族の愛情や自己の社会的認知を、というように高度な欲求の方が切実になっているのである。  第3の視点からいえば、本人の強力な幸福願望や自己の幸せについての懐疑は、恵まれているから、などと他者が本人を評論できる状況ではなく、むしろ、各人の主体性が奪われて、人々が愛情の享受や存在確認をしずらい不幸な状況になっていることの証しともいえる。あるいは、それとの葛藤のプロセスからこそ、現代的な「個の深み」が本人に生まれるという楽天的な観点から、援助のあり方も考えるべきなのかもしれない。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私は幸せです。両親もいるし、兄弟もいるし、友だちいるし、彼氏いるし、でも、私の幸せは表面だけかもしれない。もちろん、友だちの目からは、明るくておもしろい人みたいに思われているだろうけど、ちがう・・・。  私は海が好きです。ダイビングとか、ウインドサーフィン、サーフボードとかやっているときが、幸せかなってかんじ。  だんだん何を書いているのかわからなくなってきた。 1990. 4.18. T大2部社会教育概論  幸せには2通りあるように思う。1つは、お風呂のように、手近で現実になる可能性がとても高いものかしら。でも、お風呂で「ああー、幸せ!」とは思ってみても、私が私の人生に求める本当の幸せってほかにあると思う。それは、もっと大きくて遠く、現実性はお風呂よりぐっと低い。ふつう人々の言う”幸せ”とは、この2つめのもので、それは崇高でもっと理想的なものだって思いたい、という気持ちが我々の中にあるのではないか。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  この講義でよく「幸せ」ということが出てきますが、個人的にはあまり話題にしてほしくないと思っています。幸せの定義(?)は人によって違うものだし、どんな定義をもっていても自由だというのが私の考えです。  余談ですが、私は今までに自分で幸せだと感じたことがありません。幸せになりたいとも、あまり思いません。でも、きっと、心のどこかで幸せになりたいと思っているのでしょうね。矛盾! 6 学校教育への怨恨  自らの受けてきた学校教育への怨恨には大きなものがある。しかし、それが本人の深みに昇華されているかというと、残念ながらそうではない。反面教師だけでは、人間は成長できないということであろう。  オープン・エデュケーションなどによって、オルターナティブな教育も存在しうるのだということを認識できるチャンスを提供しないと、本人は、制度化されたものへの単純な全否定や敗北主義からいつまでたっても抜け出せないことになる。もちろん、その状態のまま、現代社会で「個の深み」を実現することなどは、望むべくもない。 1990. 4.14. S短大教育社会学  高校のとき、職員室や体育教官室etcの生ゴミ片付けと食器洗いが嫌いだった!何で先生たちの出した生ゴミを私たちが片付けるのー?くさいポリバケツを洗ったり、お弁当箱を洗わされたこともあった。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私が出た高校もそうなのだが、授業が受験のためだけのものになっている。高校3年になって泣かないために・・・、という理由で。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私にとっての学校教育。プレッシャーは、先生の差別、テストの敵がい心、おしつけ。学校教育のなかで一番いやだったのが、比較されることだった。幼稚園2年、小学校6年、中学校3年、高校3年、そして大学、の合計15年も、いやなのに通い続けている私は何なのでしょうか。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  最近、ふと思うことがある。私は大学に何をしに来たのか、と。たしかに教員の資格を取得すれば、職場での私の立場は有利になる。しかし、私が本当に知りたかったことは、教師が生徒にどこまで干渉していいのか、教師が自分の尺度で生徒を評価していいのか、などであった。  たとえば、入試を例にとっても、学力が基準に達していない、生活面に問題がある、などの理由で合否を決定する。もしかしたら、この合否で、その人の人生が左右されるかもしれないのに、わりと簡単に合否を分けていく。そして、その責任は、すべて受験生にある。合否を決定する側の権利(ちょっと大げさ)とは、何なのだろうか。同じ人間なのに、切り捨てる側と切り捨てられる側の差があるのは、なぜなのだろうか。  また、生活指導という名のもと、言いたくもない小言を生徒に言わなければならない。その基準は自分の考えている「社会一般で言われていること」である。時には、きついこと、自分が言われたら自分でもかなり傷つくだろうと思われる言葉で叱りつけてみたりする。このようなことを教師は生徒にしてよいのだろうか。  それらの答えは未だに見つからない。 7 学習に対する強迫観念的な態度  学習者、とくに学生や研修受講者などには、講義は黙って聞いているものという思い込みが強い。静かにすること自体は、それはそれでかまわないのだが、黙って聞いているだけでそのまま有益な学習になるという態度は、過度に(適度なら問題はない)依存的な学習態度としてとらえるべきであろう。  また、正答の与えられない問題を考えさせられたり、学習者の思考が混乱するような話題展開をしたり、学習者側が何かを発表させられたりすることを、いやがったり、まともな講義(学習)ではないと批判したりする学習者もいる。  これらは、すべて「学習とはこうあるものだ」という思い込みを、本人が意識しないままに固定化させてしまった結果であると考えられる。そこでとらえられている学習の姿も、本人の主体的な思考作用をあまり重視しない受動的な行為としての「学習」である。  「学習とはこうあるものだ」という思い込みが、強迫観念のように本人の学習を縛っているのである。しかも、その思い込み自体が、根拠のない間違ったものである。なぜなら、本来、学習とは個人的事象だからである。  しかし、本人は、そういう自己の依存的学習態度を見直す機会に接すれば、苦しみながらもそれなりに自らの認知構造を変容させる可能性をもっている。そのための機会が、一つには講義内容の改革でなければならないし、出席ペーパーなどのシステムの導入なのでもある。  本人の主体的な学習(全生活の中での)と成長なくしては、「個の深み」の獲得は期待できない。  ただし、出席ペーパーの中には、大いに的を射た批判もあり、それはそれで、教師の側の教育方法の改善に役立っている。 1990. 9.19. T大2部教育学演習  先生の話すことは、一つひとつ意味があって楽しいと思うのですが、ただ1つ疑問に思うことは、この時間の意味。「この時間は何をするのだろう」。よくわからない。 1991. 1.23. T大2部教育学演習  いつも型にはまった授業で教育され、1つの意見にもマニュアルがあるのではないかと無意識に思っていた自分にとって、このゼミはとても自信のもてる所になりました。どんな意見でも自分の意見としての自信がついたようです。 1990. 4.11. T大2部社会教育概論  初めての講義だが、前半は疲れがつのってきて、受講をやめようかと思った。それは、話が飛ぶ独特の話法よりも、相手からのフィードバックがないまま内向して自分の中で情報を処理するという今までの講義の受け方に慣れきってしまったせいだと思う。一回も睡魔と闘う機会がなかったのも、また、不思議な気がしている。  曖昧さに耐えるというのは非常に強さがいる。幸せになるためには(先生の講義を受けるときにも?)、通らなければならない試練だ。 1990. 6.27. T大2部社会教育概論  定番化した授業に慣れきった自分としては、そのイメージを崩して、今日の授業(ハドリング)のように、即席のグループの中で自分をさらけだして、自分に閉じ込もってもいられない事態となると、気分的に良くない状態になる。  ディベートやら、討論やら、アメリカから輸入した授業形態の効用は何なのでしょうか。沈黙は金なり、ということわざは、昔のことなのか。あえて自分をさらけだす必要はないのではないか。余計なことをべらべらしゃべるなんて・・・。 1990. 7. 4. T大2部社会教育概論  もうだいぶ歳をとってきたのに、まだまだ受け身的なのです。それで、自分がこの授業を学んだ気でいる。でも、それでも、安心したい自分がいるのでしょうね、情けない!受け身というのは楽なんですよ。  でも、仕事では逆の立場で、受け身ではなく自らの学習が必要なんだ、なーんて言っている私もいる。本当に矛盾している。 8 集団への帰属に対する拒否感  現代社会における人間疎外を克服する手段として、一般的な議論としては、ややもすると集団への帰属感の回復の必要を安易に結論づけがちである。しかし、そういうことでは、せっかく「個の深み」に向かいつつあった個人が疎外されてしまう。  ネットワーク型社会においては、集団に対する個人の依存はむしろ障害になるのであるから、本人の帰属に対する拒否感をむしろ自覚化させることによって、自立的な生き方の中にある孤独に耐えうるような主体性を呼び起こし、それでも潜在的に存在するであろう自己の集団への帰属の欲求と真正面から対面させる必要がある。  その上でこそ、ネットワーク型社会が個人に求めるであろう自立と依存を両立できる主体性の形成を促すことができるのである。 1990. 4.21. S短大教育社会学  このまえ、中学生の時に書いた文集を、なんとなくパラパラと読み返してみました。そこには、「まとまりのあるクラス」とか「団結しているクラス」とかいう言葉が、何度か出てきました。あの頃は、一つにまとまっていることがいいことのように漠然と思っていたけど、今はそうは思いません。みんなの意思や考えがまとまっていたのではなくて、どちらかというと、誰かの考えにまとめられていたという感じがするからです。 1991. 1.12. S短大教育社会学  はっきり言って、集団は苦手です。集団の中にいると、本当の自分が出せないからです。たとえ、その中に溶け込むことができても、つまらないと思うときがほとんどだし、自分を出したいのだけれど、人が多いと消極的になってしまいます。だから、友だちと2人か、1人でいるというパターンが多いです。別に集団がきらいというわけではありません。自分の立場をどうおいたらいいかわからないので、苦手ということになってしまうのです。  自分で分析してみると、1人か2人のときは自分の自由がきく、というのがあるから、自分をさらけだしているような気がします。ただ、たんに、わがままなだけでしょうか。社会に出たら苦労するかも。 1990.10.24. T大2部社会教育概論  「個の深み」では、ネットワークを肯定し、異質のものと喜んで交流することを質の良い個人主義としている。ここでは、他との交流に絶対的価値をおいている。”交流できる個”は肯定しているが、”交流したくない個”の存在をどう考えているのだろうか。  出席ペーパーを書かない人がいることに対して、”自己の個の表現の抑制”、”実効主義”などと否定的にとらえられていたが、社会教育関係者の中には、個というものは表現されなければならないという思い込みが、つねにあるように思われる。社会教育関係の人々は、根底に、「人は交流しなければならない」という思い込みがある。青年の家の職員は朝礼を好み、西村氏は出席ペーパーにBBSが少ないとなげく。 9 ユーモア、ヒューマニズム  とくにユーモアについては、学校教育の教育課程の中では、科目としての道徳や国語の中でのごく一部を除いて、評価の対象になることが少ない。しかし、「個の深み」というものがアカデミックな側面に限定されるべき根拠は、まったくないのである。むしろ、人間の全体性の中に、広く幸福追求の基盤としての「個の深み」が見いだされるととらえるべきであろう。そこでは、ユーモアやヒューマニズムは、重要な要素である。それは、本来の意味での「教養」としてとらえることもできる。  したがって、出席ペーパーは、それらの「教養」の本人の深さ、またはその可能性を、自己認識させるための有効な道具になりうる。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私が動物の中で一番かわいいと思うのはペンギンです。  この前、上野動物園に行って遊んできたけど、動物はねてるだけだったんで、お金払ってんだから少しは動けーと思ったら、ペンギンは泳いでいてくれて、すっごーくかわいかったですよ! 1990. 5.19. S短大教育社会学  公民館のビデオで、ママさんコーラスの場面のお母さんたちの表情がとても良かった。歌の好きな人たちが集まり、その人たちの歌声がコーラスになる。技術面では不足していることもあると思うが、やっぱり歌の好きな人たちが歌う歌は、心がこもっていて、こっちまで顔がにこやかになってくる。  義務だけの歌になりがちなこの頃の私は、こういう歌が好きだという気持ちを忘れていたような気がする。 10 山アラシのジレンマ  現代人の対人関係は、自分や他人がお互いに傷つけ合わないよう、距離を置きがちである。これを批判することもできるが、「人間」の言葉が示すとおり、一定の「間」(ま)は基本的には望ましいのである。  問題は、間をなくすことではなくて、主体が真に欲する関係を自己認識し、それに応じた間の取り方を技術的な面から修得することである。 1990. 5.12. S短大教育社会学  今回、「おしゃべり症候群」のことが話題の一つとして取り上げられましたが、これは本当に考えさせられました。  私もおしゃべりはよくするほうなんですけど、やっぱりそれは話したいという自分の意思よりも、むしろ、沈黙に耐えられない自分の弱さのほうが強いのだと思うんです。もちろん、自分が話したいときに話したいことを話すのは人間の本能でしょう。でも、沈黙が怖くてむりに話してしまうのも、人間の本能だと思います。私も例にもれず、やっぱり沈黙を通すことは怖いです。 1990. 5.26. S短大教育社会学  私には、全国津々浦々(?!)に、文通している友だちがいます。この年になって文通しているというのも変かもしれませんが、中には8年越しのつき合いになる人もいて、今ではたんなるpenpalというだけでなく、本当に大切な”話し相手”としておつき合いしています。私の深刻な悩みは、すべてその子たちに託してしまうのです。会ったこともない、まだ見知らぬ人たちですが、Telなんかで伝えられないもどかしさも手紙を書くことによって解消されるので、私は”書くこと”が好きです(どんなことでも)。  周りの友だちやmito san等を信用していない訳ではないのですが、身近にいる人だとかえって自分の弱味を見せる気がして、それが嫌でどうしても本心がさらけ出せません。これって周囲の人間に対して”カラ”を作ってることになるんですよね、きっと。mito sanもパソコン通信をやっていると、なんだかそういう対人関係のギャップ(?!)みたいのを感じませんか? 1990. 6.20. T大2部社会教育概論  最近、社会教育について(社会教育とよべないものも含めて)、いろんなことを考えます。もし、自分が社会教育に参加することになったら、そうしようと思ったら、何を一番望むだろうか、と。仕事や職場の人づきあいなどで、すでに疲れているところへもってきて、人と人とのつながりを求める心の余裕があるのかな、などと考えてしまいます。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  何もかも相手にさらけだしてしまうのも、なんだかつまらない恋愛になってしまいそうで。自分の悲しみも淋しさも、相手の悲しみも淋しさも、共有できないし、救えないものね。自分でしか。 11 共感的理解の能力  他者への共感は、同感と違って、困難を極める。自分に引きつけて、自分の心で、しかし、自分の心の枠組(準拠枠)からではなく、他者の気持ちを理解しなければならない。  この能力は、教員などに求められるのはもちろんであるが、与えられた枠組ではなく、自らの主体的な意思で他者と交流するために、すべての人間に普遍的に必要になる一種の「生きる力」と見ることができる。  その能力の養成は、基本的には本人が意識的にそういう態度をとることによってこそ可能になる。出席ペーパーに書くことによって、自己の内なるノイズが顕在化されて意識下に置かれるので、共感的態度を本人が自覚的にとるためには、むしろ有効である。 1990.11.10. S短大社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)テレビでも言っていたように、”待つ”ということ、これが本当に大切なんだと思う。テレビに出ていた子どもたちは、なんだか元気そうに見えたけれども、そうなるまでは、すごく苦しい気持ちだったのだろうと思う。 1990.12. 8. S短大社会教育概論  今日のビデオ「障害者のための絵画教室」は、とても感動しました。今までは、障害者を見かけると、かわいそうだなと思ったり、電車の中で大声で叫ぶのを見たり、話しかけられたりすると、少しいやだなと思ったりしていたのが恥ずかしくなりました。私はすごく健康なのに、わがままや不満をいっぱい言っているだけなんて、自立していないなと反省しました。 1990. 6.13. T大2部社会教育概論  (「驚異の小宇宙・人体」を見て)まるで、自分の中、人間の中の他者や他の存在に気づかされた思いがする。そして、この講義をとっているみんなと共有した時間、共有体験というのだろうか。一番後ろに座っていたので、そんなことも感じた。そして、それを前提として、このVTRに対する不思議な親近感、「これが学ぶということなのか」というような感じをもった。 1990.11.14. T大2部社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)私自身、彼らと同じようなことを経験したからということもあるが、今日のビデオには、非常に強く共感した。あの頃のつらさというのは、とても口で表せるものではなく、今日見ていてもつらかった。  しかし、直接、彼らと会って話しても、私の場合は、それほど共感の気持ちはわいてこない。ビジュアルや本などの二次的なもののほうが共感できる。どうしてだろうか。 1990.11.28. T大2部社会教育概論  子どもの頃から、人の気持ちがわかるという人に対して、反感のようなものを持っていました。というのも、相手を理解したいと思いながらも、私という個人の目が加わることで、相手をゆがんで理解しているのではないかと思っていたからです。  私の場合、共感的理解が下手なので、簡単な言葉で相手の気持ちを表現して、なるべくその言葉が相手の気持ちに近くなるように確認しています。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  私はつね日頃から、他人の気持ちをわかることはできないと思っています。私の仕事は障害者と言われている人々と接して、その人々を援助していくような内容のものですが、障害をもった人々の気持ちがよくわかるかといえば、答えはNOです。私は五体満足ですし、その他いろいろと考えあわせても、彼らの気持ちがわかるなどとは思えません。彼らも、私のような小娘に自分たちの言葉にしきれないようなさまざまな気持ちをわかってもらおうとは思っていないのではないかと思います。  大切なことは、わかった気になってしまわないことであり、相手を否定しないことであり、相手の気持ちを想像する努力をすることであると思います。これが共感的理解ということにつながると思います。どうでしょう。 12 ヒエラルキーへの抵抗、正義感  ヒエラルキーにおける個の疎外については、現代の若者といえどもかなり抵抗感をもっている。しかし、それが主体的な批判になっているかというとそうではない。無力感、劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義などによって、その活力が削がれている。  また、ネットワークを形成するためには、ヒエラルキーに抵抗して主体性を発揮する新しい「自立」とともに、他の人間と相互主体的に関係を結び連携する新しい「依存」の能力も求められる。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  私が仕事で後輩たちの記録物を見るとき、必ず評価が前提になっているので、なんだか純粋な目で見れない。すごく苦痛な作業です。純粋な気持ちになれない私に問題があるのはわかっているけど、このプレッシャーにはたえられない。 1990.11.28. T大2部社会教育概論  (学習情報センターのビデオを)今日は、私の気分で(気分ですみません、でもそうですから)非共感的に見ていました。センターを訪問したアナウンサーが、「これは有難い!」「うーん、有難いことですね」と、有難いを連発していましたが、「何がそんなに有難いのよ!」と反感を持ってしまいました。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  組織の内側にいても、私は主体的でいるように努力しようと思いました。私だけリゾームの先端になってしまおうと。それで上司からのウケが悪くなったっていいんじゃないかということです。だけど、自分勝手にならないように、ひとりよがりにならないように、いつも自分でアンテナをめぐらして、自分で考えて、私はそうは思わない、ということもちゃんと聞いて、その上で、結論を出していければと思います。  これはとってもたいへんなことだと思います。でも、このことができなかったとしても、こういう心がまえでいたいと思いました。 13 ボランティア意識の新たなる萌芽  無気力、無関心と評されているはずの若者の中に、ボランティア志向が強く表れることがあることについて、われわれはどう解釈すればよいか。それは、若者が、他者から継続的に組織化されることを今までの厭な体験から嫌っているだけで、自発的に行う生涯学習などの形でなら活動に積極的に参加する可能性があるということであるといえよう。  そして、われわれが最近のボランティア活動を見る場合、奉仕による単純な満足感の欲求ではなく、実現困難な自分の個をなんとか実現したいという切実な潜在的欲求から発しているという深い見方が大切であろう。  「個は他者に関わることによって、より深まる」というテーゼが活動の目的の最高位に置かれるような、新しいボランティア意識が台頭していると考えられる。 1990. 5.19. S短大教育社会学  私の町の公民館は、看板がなければ、ほったて小屋といってもわからないほど、粗末でおんぼろです。こう書くといささか大げさですが、それでもVTRで見た立派な公民館に比べたら、とんでもなくボロです。そんなボロでも、そこに集まってくる人たちの心はとても暖かく、田舎者のパワーが感じられて、私のとても好きな場所でした。  小さい頃からピアノをやっていなければ、その場の状況に流されやすい私は、間違いなくボランティアの道を選んでいたでしょう。それほど、ボロに集まる人々の心のふれ合いは優しく、そしてなごやかだったのです。  音楽の道に進んでしまった今では、ボランティアに徹することなどかなわぬ夢となってしまいましたが、もし、音楽の仕事に就いても、その仕事を生かして、心優しい人々につくそうと思うのです。 1990. 5. 9. T大2部社会教育概論  (あるドラマの)「世界中の人がみんな幸せになれば、自分も幸せになる」と言って、孤児院で働くシーンが、とても嘘っぽく思えました。自己犠牲に酔っているような気がしたのです。「みんなが幸せになるために、歯をくいしばってがんばるんだ」ではなく、「孤児院の仕事が楽しくて幸せ」っていう人でないと、みんなの幸せなんて願っちゃいけないと思います。だから、私は「みんなの幸せ」を願う前に「自分の幸せ」をさがそうと思っているのです。先生が言う「幸せをくばる」って、どうしたらいいのだろうか。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  私は障害者相手の仕事をしています。それを言うと、「えらいのねェ」という反応が返ってくることが多いのです。私はいつもその言葉に反発を感じます。私は、この仕事を自分のために選びました。他の誰のためでもありません。私は、一時、真剣に自殺を考えたことがありました。それは、「なぜ生きるのか」という疑問に対し、答えが見つからなかったからです。そして、私がたどりついた結論が、今の職業です。  生産性を追い求める、そんなラインからはずれて、でも、一生懸命生きている。あの人たちは、どうして生きているのだろう。あの人たちと関わっていけば、私自身の生きている意味もわかってくるんじゃないか。そう考えてすがるような気持ちで選んだのが、今の職業です。私は私のために必死で働いています。そのことで、もし、少しでも助かる人がいるなら、こんなにうれしいことはないと思うのです。 14 アイデンティティの喪失  子どもの頃のいわば仮りのアイデンティティがいったん崩れていく過程を経なければ、その後のアイデンティティの確立はおぼつかないということは、いうまでもない。しかし、そうは言っても、その過程のジグザクの振幅があまりに大きいと、指導者側としては、つい、その揺れをおせっかいにも小さくしてあげようとしてしまいがちである。それを禁欲し、本人が「個の深み」を獲得する方向で、本人のMAZE(前掲拙著参照)につきあうことは、われわれにとって大変難しいことではあるけれども、心がけなければならないことなのである。  また、現代社会においては、成人期以降の人間でさえ、アイデンティティが弱体である場合が多い。それについても、その確立にあわてて取り組むというのではなく、自己のアイデンティティを簡単には認められない個人の深さに着目し、本人の「個の深み」が自覚化されるような支援を考えなければならない。  出席ペーパーによって、本人に自己のアイデンティティの喪失状況を確認してもらうことは、そういう意味をもっている。 1990. 4.21. S短大教育社会学  きのう、何カ月ぶりかでエンエン泣きました。ふだんでもけっこう涙は出てしまう方なのだけど、きのうは自分でもおどろくぐらい泣けてしまいました。短大1年をなんとなく過ごして、で、2年になってもう進路を決めなければならない。今、どうしたらいいのか、何がしたいのか、すべてわからなくなってしまいました。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  教育社会学を受けてたくさんの経験ができました。いろいろ、自分自身についても考えたり悩んだりもできました。なんとなくだけど、自分の中で何かがふっきれたような気もします。なんとなくだけど・・・。 1990. 5. 9. T大2部社会教育概論  何が大切なのかは、自分の価値観の問題だ。私たちの世代は、何が大切で、何が大切じゃないのか、自分で選択していくことがとても下手で苦手だ。私も同じく。  私は自分のことを「先生」という人間がきらいだ。私たちには人生を選択する権利がある。教師は、人間が人生を選択する上で必要な知識を教えるものであると思います。そんな教師に私はなりたい。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  いったい自分はどんなことをやりたいのだろうか。もしかしたら、これからずっとやりたい仕事など見つからなくて、それほどやりたくないことを我慢しながらずっとやって生きていくのか、と思うと、どうしようもなく不安になってしまいます。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  自信についての話の中で、一人だけが100 点をとることが本当の自信ではないということがありましたが、私としては、これを自信として認めたいと思います。なぜかといえば、私自身にこれと同じ経験があり、その時には自分だけ100 点だったので大変自信をつけたことを、今でも印象深く覚えているからです。  (自己受容における)こんな自分でも世の中には必要と思うことは、現実から逃げて自分の内側の世界にとじこもることであり、自信というよりは、むしろ回避や退行的現象に近いのではないでしょうか。 15 自分の過去や他人への気づき  変えられないはずの過去や他人について、変えられないとわかっていながらも悩むのが人間の実際の姿であれば、知っているはずの過去や他人のことを忘れていて、何かのきっかけでやっと気づくのも、また、その実際の姿である。  出席ペーパーに書くという行為によって、それらが不可避的に客観視されることは、援助者が思う以上に、本人自らが自己解決の方向に向かう結果につながるものである。 1990. 6.16. S短大社会教育概論  私がけがをしたりすると、お母さんはきまって「親にもらった体を傷つけるのは親不孝なんだよ」と言いながら手当をしてくれる。自分の体は自分だけのもののようであって、自分だけのものではないことがよーくわかる。自分を大切にすることは、他人をも大切にできることなのだと思います。「驚異の小宇宙・人体」は、いろいろなことを考えさせられるすばらしいビデオでした。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  なんで生きてるの、と聞かれたら、生まれちゃったから生きているとか、生きてるんだから生きてる、と私も言ってしまいそうだけど、死んでしまいたいととても思ったとき、とても悲しくなってしまったことを思い出しました。そのころとってもいやだと思っていた人々(職場でも、家族でも)が、そのときは、私にやさしくしてくれたことや心配してくれたことを思い出して、もし死んでしまったら、そういう人々に会えなくなることをとても悲しく思いました。これ以上はうまく書けませんが、私は、私のためと、私を大切にしてくれる人のために、生きているんだなと思います。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  この時間内に、このペーパーを書くに当たって、いろいろなことを考えました。職場でのこと、人間関係のこと、学校のこと。入院していた時には、病院での出来事なども友だちに届けてもらいました。授業中にこんなことばかり考えている時は、ほかにはなかったです。 16 自分自身への気づき  出席ペーパーに書くことによって得られるもっとも基本的な作用は、自己認知、さらには自己洞察である。それが端的に表れた事例を最後に紹介しておきたい。 1990. 5.26. S短大教育社会学  彼女(大学の授業をさぼりがちな友だち)自身は、「悪い」とは感じていないようである。私はそのたびにムッとしてしまう。でも、私自身はマイペース型で完璧主義だから、彼女とは根本的に合わないのかもしれない。  しかし! 彼女は私に不快感を味あわせようとしてこういう行動をしているわけではないのである。その証拠に、私が「今日は姉がいなくて、夕食一人なんだー」というと、「一緒に食べようー」と、誘ってくれた。きのう、フッと思ったが、私がムッとするのは、私にもさぼりたいという気持ちがあるからなのだろうか。 1990. 7.11. T大2部社会教育概論  (来学期の希望について)「出席ペーパーによるフィードバックシステム」は、私にとってはとても有意義でした。自分が考えていること、書いたことに対して先生からコメントや意見を伺えること、また、他の人たち(同世代の人たち)が、どんなことを考え、どんな生き方をしているか(少し大げさですが)、ということにふれることができること。そして、それについて自分がもう一度、考えることができるというメリットがあったと思います。  今、思えば、今学期の授業では、70分間、次々といろいろなことに驚き、疑問に思い、否定し、うなずき、考えていたように思います。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  癌であるということを知らされている彼(患者)は、私たち看護者に対して、すべてのマイナス感情をぶつけてくる。彼の気持ちもわかる。しかし、私も人間。全部をかなぐり捨てて、怒りをぶつけてこられても、それを100 %は受けとめられない自分を見つけてしまった。 1990.10.31. T大2部社会教育概論  (エゴグラムを作成して)けっこうさめていると思っていたのに、Aが低く、意外でした。職場においては、ほぼAの部分を押し出して行動しているつもりでしたが、今日の設問に対する自分の回答を見てみると、かなりCPとNPの使い分けで自分のやりたいようにやらせてもらっているようだ、と気づきました。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  (カウンセリングを受けていて)あまりにも客観的に自分を見るようになったため、それが自分だという実感が得られないでいる。自分は確かにいるが、自分が確かに感じているが、それは自分ではないように思う。だから、ある場面を想定して、そのとき自分はどうするか、どんなことを思うか、ということは、分析結果からある程度、予想がつく。  ここで問題なのは、その想像された自分に対して、肯定できない。そんなふうに思う自分が好きでないと思う。だからといって、そう思わないようにはできないとも思う。その結果、自分自身が嫌いになる。このごろ自己否定が多くなったのは、そのせいだろうかと思う。そして、自分を見つめることが嫌になっている。 旧版 「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その2)  −出席ペーパーに表れたその実態と可能性−                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(2) −The Reality and Possibility appearing in Attendant-Papers− 今回の論文の位置づけ  前回の論文、「(その1)」では、まず、講義が主体的学習にとって有益ではありえないという関係方面における一般的な論調や、その論調のもとに行われた教育実践の経緯を紹介した上で批判した。次に、出席ペーパーを中心とする「話す・書く・表現する」という営みを誘発する契機を準備することによって、「反応・発展の個別化の促進」が期待できることを主張した。そして、本論のこれらの主張を支える社会的基盤・条件として、今後のネットワーク社会の形成の可能性と特質を挙げ、そこでは個人の主体性が一人ひとりに厳しく求められることを指摘した。  詳しくは「(その1)」のとおりであるが、いずれにせよ、前回および今回以降の本論のすべてを貫く鍵概念は、「個の深み」であり、問題意識は、その獲得を家族、友だち、教育者、職場、地域などの他者、とくに社会教育がいかにすれば支援できるのか、ということである。  今回は、出席ペーパーに表れた事例をいくつかの視点から分類して紹介することによって、「個の深み」の内容、または、その阻害要因に関する具体的な姿を明らかにしたい。そこでは、学習者一人ひとりの「個の深み」の獲得のプロセスとその支援の方法が、もっとも重要なテーマとなるだろう。  ただし、出席ペーパーの中には、極端にプライベートな事例などもあり、そこにはその人だけの強烈な環境・体験に基づいた「個の深み」の萌芽が散見されるのだが、その場合は出席ペーパーがカウンセリングに近い作用を及ぼしていると考えられるので、公開を控えた。  ちなみに、前回の論文で、枚数の関係から掲載を見送った1の(1)から(2)までについても、拙著『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』(1991年4 月、学文社)の第1部にそれを含めて前回の論文の全文を掲載したので、ここでは割愛する。  なお、ここでいう「出席ペーパー」とは、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くもので、そのルールは、次に示すとおりである。(1) 何を書いてもかまわない。(2) テストではない。社会人の場合は匿名でもかまわない。(3) 書くことを義務づけるものではない。(4) ペーパーは講義時間中に書く。書く時間はとくに指定しない。(5) ペーパーは終了時に回収し、講義者が保管する。原則として返却しない。  また、ここに挙げた「T大2部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の社会人入学者を含む2部学生であり、「S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事課程を学ぶ短期大学学生である。 項目見出し 01 学生から教師へのストローク 02 教師から学生へのストロークの反映 03 授業中の自己の体験の客観視 04 自己表現の不器用さと表現の解放 05 強力な幸福願望と自己の幸せについての懐疑 06 学校教育への怨恨 07 学習に対する強迫観念的な態度 08 集団への帰属に対する拒否感 09 ユーモア、ヒューマニズム 10 山アラシのジレンマ 11 共感的理解の能力 12 ヒエラルキーへの抵抗、正義感 13 ボランティア意識の新たなる萌芽 14 アイデンティティの喪失 15 自分の過去や他人への気づき 16 自分自身への気づき 17 その他 18 参考 1 学生から教師へのストローク  ピア・コンセプトが働く中、皆の前で教師に注文を出すことは、かなり困難である。その点、出席ペーパーなら、フィードバックが大いに可能である。しかし、じつは、それ以上に、学生が教師に関心を持っている、という意思表示として、学生にとっても教師にとっても、この出席ペーパーは有益なのである(この点については、前回の論文でも触れた)。  ストロークには、肯定的ストロークとともに否定的ストロークがあり、後者へのニーズは人間存在の実存的な悲しさを物語るものだが、教育=学習の交流の場においては、水平な関係に基づく「批評的」ストロークというものが存在しうると考えたい。学生からの批評的ストロークによって、教師は自己の存在確認をすることができる。また、学生は、依存的な学習態度を自ら改めることができる。 1990. 4.14. S短大教育社会学  黒板の下の方は、なるべく使わないでほしい。席がうしろの人が見にくい。上の2/3くらいを使用してほしいと思います。 1990. 4.14. S短大教育社会学  先生はアニメの”となりのトトロ”に出てくるサツキとメイのお父さんにも似ていると思います。”となりのトトロ”、観たことありますか??感動しますから、ぜひ観てください。  教育社会学の時間がこれからとっても楽しみです。でも、来週は演劇を見に行くのでさっそく休んでしまいますが、どうもすみません。 1990. 4.21. S短大教育社会学  最近、「日本人の○○がいけない」というようなことを、よく耳にする。先生も授業中に、「アメリカの大学では、ディスカッションできない人は」と言っていた。ここは日本なのに、皆はどうして「外国では」と言うのだろうか。アメリカ流に、派手に遊んで、しっかり勉強して、自己主張して、仲間をつくって、なんてことのできない私のひがみかもしれない。けれども日本人なんだからいいじゃないですか。ここはアメリカではありません。  でも、けっして私を他国の文化に対して否定的な人間だとは思わないでください。私は語学が好きですし、ディスカッションする授業を昔から望んでいました。何か話せと言われたら、何でもしゃべっていられます。でも外国に出たって私は日本人ですし、私は私でしかありません。  今日はイライラしているので、変なこと書いてごめんなさい。 1990. 5.26. S短大教育社会学  先生の「しっぽのはたらき」を見て、そのあとの話を聞いて、なるほどと思いました。ドキドキしたり、何だろうと思ったりする気持ちをそいでしまうような教科書などがあふれています。  何もかも、早く、速く、急いで、忙しい、で動いている世の中だから仕方がないですが・・・。けれども、”出席ペーパー”を聞いたり、自分で実際に実習校の先生と話をしたりすると、(地域の人と、レッスンの先生と、先輩方と、友だちとも)、みんな同じことを思っているのですよね。どうしてかと思ったら、みんな人間だから、という考えにたどりつきました。とても簡単なことです。人間は人間らしくありたいと思うから、やはり人間らしくないことには反発を覚えるのです。  けれど、社会はもう変わらないだろうな、と思います。そっけない言い方ですが、結局、こうなった以上は変わらないと思います。 1990. 5.23. T大2部社会教育概論  (ビデオの)放映の途中、先生の話が少し耳につきます。イメージは画面から個々が描くものです。そこに話が入ると、そちらのイメージを描いてしまいます。 1990. 6.27. T大2部社会教育概論  講義中、退席する人を、顔色ひとつ変えずに見送れる先生の心境はどのようなものなのでしょうか。 1990.11. 7. T大2部社会教育概論  講義をするならテーマを一つに絞って、じっくり話してほしい。あっちこっち広く手を出して、結局よくわからない感じがする。でも、続きの話も聞きたい。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  私がザッと授業中の学生を見ると、半分ぐらいの学生しか、先生にひかれて授業に参加していなかったような気がします。mito的授業は今までにない大学の講義で、学生のためにやってくれているというのが伝わってきて、私は好きです。しかし、残り半分の学生をどうするかが、今後の先生の課題だと思います。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  あまりにも自由な授業で、(自分も含め)ルーズな態度の人も散見されましたが、むしろ、意欲のある人にとってこそ、成果を上げている授業だと思われます。個人的には、今ひとつ、大学の講義らしいとは思えませんでしたが、そんなステレオタイプな見方を打破する可能性を秘めていると思います。もしかすると、先進的な授業なのかもしれません。 2 教師から学生へのストロークの反映  指導(指示的な)をするのならば、指導していることを教師の側がよく認識した上でせよ、という。私は、それに加えて、教師からの率直なストロークとして指導することがありうると思う。  「こうしてはいけない」「ああしてはいけない」と教師が惰性に任せて何度も言ったところで、そうできない理由のある本人にとっては疎外感を感じるだけである。それよりも、理屈からではなく、教師が自分の実存から発する心の呼びかけを学生に対して行うこと、すなわちそれをストロークと呼ぶのであろうが、それが指示的指導の受け入れられる条件の一つだと考えられる。 1990. 4.21. S短大教育社会学  (海外旅行は私も好きだけれども、ブランド品を漁り歩く日本人の姿が嫌いだと言ったところ、)今日、海外旅行の話がありましたけれど、私もこの春休みに初めての海外旅行で友だちと香港に行ってきました。そして、先生がおっしゃったように、「買物、買物」と、まっさきに免税店に行って、シャネルの香水や化粧品、バッグなどの買物の方に夢中になってしまいました。  楽しかったので、これからもいろいろなところへ行ってみたいと思いますが、これからは買物よりも見学の方にもっと重点をおこうと思いました。 1990. 4.25. T大2部社会教育概論  「私は自信がないのでこんなふうに話しています」と言える先生はステキです。私は自信がないことを表現することすらできない人間です。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  (授業の冒頭行った)トークショーで、先生のプライバシーについての回答は知りたい者にとっては楽しかったことであろうが、私にとっては不快感の方が強い。あまりに人間的な面や家庭生活の姿は、教える者と学ぶ者との関係においては、むしろ邪魔である。プライバシーの公開は、必ずしも信頼関係や親密さを生むとはかぎらないと、言いたいと思います。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  (出席ペーパーでの)十人十色の考えに対して、先生がコメントしてくれるのですが、時間やレジメの紙の大きさなどによって、十分ではなく、また、中途半端になっていると思うのです。先生が”mito”のマークをつけてひとこと書いてくださいますが、違うんです。ひとことにまとめる前の部分を聞きたいのです。1人対 120人、むずかしいですね。ちょっと考えてしまいました。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  個人の学習が個人の楽しみに終わってしまってはいけないと思う。それは社会に対して無責任だと思う。生きているかぎり、人間は社会の構成員だし、政治(行政)とは無関係でいられるものではないと思う。たとえ仕事(就職)をしていなくても、何かしらの責任を負わなくてはならないのではないかと思う。だから、生涯学習=みんなで集まって何かを楽しみながら学ぶこと、で終わってはいけないんじゃないかと思います。学ぶことを通して、いつまでも自分の考え方やものの見方などを更新していく努力をやめてしまってはいけないと思うんです。そして、一人の人間として、社会の中で負う責任を見失ってはいけないとも思うのです。  私は、毎回、水曜日3時間めのこの授業が楽しみですが、悩み、苦しみに変わりつつあります。自分の考えがまとまらない、自分の核がどこにあるのかわからない、と苦しみます。でも、発達は、分裂と統合との繰り返しだって、誰かが言ってたから、いずれはバラバラな思考が統合されて成長できるといいなと思います。 1990. 7. 4. T大2部社会教育概論  先生はかなり誤解されやすいタイプでしょうか。毎回、授業の初めに、前回の出席ペーパーで誤解されている点について、補足説明していますね。でも、批判や誤解を生み出して(意図的なのか、無意識なのか)、それを出席ペーパーで引き出して、次の授業でそれに対応していくという過程を踏んで、「認知構造の問い直し」を行っているのではないかと思っています。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  (ある出席ペーパーについて西村が)「共感できない」とおっしゃいましたが、他人の意見を批評、批判しておきながら、自分の意見を述べないのは、いかがなものでしょうか。どんな形にしろ、問題提起の答えが、数名の学生の意見の提示と批評で終わり、教授の見解が出てこないものが、講義と言えるでしょうか。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  (教師の見解を求めるよりも、自分で考えよ、という西村の発言について)先生の考え方は、わかるような気もします。しかし、何かはぐらかされたような感じのほうが強いのが本音のところです。大学の講義なので、これ以上のことは私には言えませんが、教職を志す私にとって、もし、中学や高校での教師の発言ならば、かなり疑問が残ります。生意気なようですが、高い位置から発せられた言葉のような気がしてならないのです。  「〜だと思う」という考え方一つ言ってもらえるだけでも、自分の意見が受けとめてもらえたと、十分喜べるのですが・・・。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  (1年間の授業の評価として)あまりしっくりこなくて、どこかちがうと思いながら、この授業を受けていましたが、終わりに近づいたのだと思うと、少し淋しい思いがあるのは事実です。形は受け入れがたかったのですが、mito先生がとにかく一生懸命私たちを引き込もうとしていたことは十分伝わっていましたから。  今、わかりました。大教室授業におけるtwo way を追求していたんですね(?)。小人数制の中でこそtwo way は成り立ち、先生のような教師がリードしてくれると、それはすばらしく興味深いものになったのではないか。そんな気がしています。  この大学に3年間いて初めてのフォームだったから抵抗してきましたが、こんなふうに理解し納得しています。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  たしかに西村先生の授業は異質であった。授業について、最初のころはとくにいろいろあったと思うが、私自身としては大変面白い授業だったと思う。私たちはこれまでつねに授業とは講義であったように思う。大勢の生徒に向かい、教師がひたすらしゃべる。知識を投げかける。生徒は、その「知識」というものをひたすら受けとめていく。すでにできあがった知識を、私たちはたんに受けとめることしか知らなかった。  西村先生は、「知識」として作り上げず、1つの問題提起として、私たちに投げかけてきたように思います。「こういうこともあります。君はどうかんがえますか」と、私たち自身に考える場所を与え続けてくれた先生の授業は面白かったです。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  私は身近にいた人からの薫陶は、あまり受けたことがない。したがって同級生などからの影響は少ない。しかし、先生からは、試行錯誤をしながらも他の人とは明らかに異なるユニークな授業に影響されたものがあった。まず第1にわれわれと共鳴しようとするものを、よく体験の中から話されること、第2にレジメを作り、その中にわれわれの声を反映させること、第3に、その中にもちゃんと自らの主張を織り込むことと、じつに画期的だった。(中略)先生は授業ではよく話されるし、個人的につき合ったこともあるので、じつにヒューマニスティックだと思うが、レジメにももう少し人間性を発揮してほしかったと思う。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  先生の授業は、なじむまで、ひたすらに苦労したし、時間もかかりました。しかし、なにごとも受け身ではいけないのですよね。そのことを、一番強く感じる授業だったと思います。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  第1回の印象・・・何なの、この授業、いやなやつ(ごめんなさい)。今、25回分の講義資料を、もう一度じっくり見直したいという私に変容をきたしております。「教育とは、学習者が主体的に自己変容を図ることである」とするなら、このコーギは、まずは成功ですね。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  あっちこっちへと振り回されながら、でもふりまわされていることをけっこう楽しんですごした1年でした。これは、自分の気持ちが許容量(?)を増したということかな。先生の発言は、ときには私をとんでもなく苦しめてくれたりしました。でも、そのあとで、きちんと私を成長させてくれました。 3 授業中の自己の体験の客観視  通常の講義内容のそれぞれの項目をどう受け止めたかということについても、出席ペーパーは学習者の自己確認にとって有効であるが、授業の内容が体験的学習である場合は、そのような「振り返り」がとりわけ必要である。体験が、自らの「振り返り」によって客観視され、自己の認知構造に取り込まれるからである。 1990. 6. 9. S短大教育社会学  こんなゲーム(銭回し)なんてやったの、中学校以来なかったと思う。だから、先生の言うドキドキした気持ちになったのは、とても久しぶりでうれしかった。それと、その反面、そういう気持ちになることが少なくなった今の自分がとても淋しく思えた。 1990. 6.16. S短大教育社会学  ジェスチャーゲームなんて、今まで一度もやったことありませんでした。テレビとかで見て、面白いなとは思っていたけど、自分でやってみたら、それ以上に面白かったです。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  ほんの短時間でも、やる気になればこれだけのことができるんだなと、とてもうれしくなってしまいました。みんな、基本的には、こういった即興劇をすることが好きなのだとは思うのですが、いざやろうとすると、「考えるのがめんどくさい」「人が集まらない」など、いろいろな問題がでてくるものです。  それでも、やはり、楽しくやれるこのような寸劇や歌などは、ずっとずっと続けていきたいと思います。幼稚園の頃から子ども会のキャンプに参加していた私としては、教育社会学は血のうずく授業でした。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  こういう機会って、これからはもうほとんどないですよね、多分。だから、即興で、煮詰まって、やぶれかぶれで演じたこの即興劇の楽しさっていうのは、一生忘れられないと思います。  最初、この話を聞いたとき、正直言って面倒くさくて嫌だなって思ってました。けれども、今ではやってみて本当に良かったと思います。七夕の楽しい思い出、ありがとうございました。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  私は、見るのは好きですけど、やるのは好きではありません。でも、楽しかったのでよかったと思います。皆がこんなに準備をしていたということが、とても不思議です。なんでできるのでしょうか。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  私は今まで教育社会学を「めんどうな授業」と思っていたところがある。でも、今、考えてみると、けっこう楽しかったような気がする。あまり話したことのなかった子と話したり、ゲームをしたり、この授業で出会ってから話をするようになった子も、何人かいる。今回のスタンツなんかでも、みんな楽しい人なんだとあらためて思った。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  思わぬハプニングがあったりして、何が起こるかわかりませんね。練習なしで、というのは、とても不安でしたが、アドリブなどのその場の面白さは十分あると思います。恥じを捨て、その役になりきるというのは、やっぱりとても勇気のいることです。でも、人に伝えようと思ったら、絶対必要なことなんですね。うまくできなかったにせよ、見てるだけじゃなくて、実際にやってみて、本当に楽しかった。直前の相談はあっても、きちんと準備したわけではないのに、ここまでできたのはちょっとすごいかも・・・。  小学校以来の劇、とても新鮮でした(じつは大好きなんです)。自分でやってみる、いろいろあっても実際にやってみるっていいですね。そして、楽しまなくちゃ損ですよね。 1990. 6.16. S短大教育社会学  自分で身体だけを使って相手に意思を伝えることが、こんなにも大変で難しいこととは知りませんでした。けれども、自分だけではなく、ほかの人たちも同じように身体全体を使ってなんとか”言葉”を伝えようとする姿には、敵、味方、関係なく感動させられました。もう、こんなに楽しいゲームはできないかもしれないけれど、子どもたちにもこうしてコミュニケーションを楽しませてあげられるのだという勉強にもなりました。 1990. 6.16. S短大教育社会学  ジェスチャーゲームは、当てる方は楽しいが、自分がやるのはとてもいやだと思っていた。しかし、今日、自分がジェスチャーをやってみて、やってみればけっこうできるのだと思った。恥ずかしさを捨てて、大きなはっきりした動作を何かしらやってみれば、あとはみんながフォローしてくれるのがわかってうれしかった。自分にはむりだと思っていることでも、やってみれば意外にうまくいくものだと思った。 1990. 6.23. S短大教育社会学  (スタンツ大会の準備のために)全員で1つの目的に向かって”わーっ”と進んでいくというのは、中学生のパワーに似たものがある、と思いました。”私たちにも、まだ、残っていたんだなあ”と。やっぱり、いくつになっても、もえるときはもえるんですね。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  私はナレーションを担当したが、それがほとんど必要がないぐらいのみんなのパワーに圧倒されてしまったテンションが上がりっぱなしだったと思う。このような緊張感はとても必要だと思う。  そして、5分間で何かやれと言われた時に、メンバーのアイデアや考えの違いが、いろいろな方向にとぶのがおもしろかった。みんな、いろんなことを考えているんだナと思った。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  先週の話し合いのときは、誰も何も考えを出してくれなくて、ほとほと困りましたが、みんなはけっこう本番に強いらしくて、面白いものになったと思います。(これって、自己満足かもしれないけど・・・)。 1990. 6. 9. S短大社会教育概論  (リーダーシップ・トレーニングで)自分で当ててみるということになると、ちょっと大げさかもしれませんが、勇気がいるんです。その勇気というのは、もしまちがっていたらみんなからなんて思われるのかな、みんなに悪いな、とか、別に私が当てなくても誰かが先に当ててくれるだろう、という気持ちをおさえて、自分で当てるということなのかな、と思います。 1990. 6. 9. S短大社会教育概論  (ジェスチャー・ゲームの出題の)オーロラには、まいった。見られているということはつらい。表現するのは、つらい。 1990. 6.16. S短大社会教育概論  映像の効果はすごいと思う。見る人たちに実物で訴えるところ。誰かの押し売りではなくて、自分で感動できるところ。 1990. 4.25. T大2部教育学演習  今日のバズ討議は、たんにアイデアを出し合うだけなのではなくて、その進め方や、その時のメンバーの気持ち、沈黙している時の気持ちなどを考えるためのしかけがあったのですね。こういうのは、なんだかワクワクします。 1991. 1.16. T大2部教育学演習  (自主授業のスポーツドリンク当てクイズで)同じグループの中の協力的行動を見た。また、試飲する人やそれを見ているだけの人も、すべてがこのイベントに参加しているという体験をしたと考える。そういうなごやかな雰囲気が教室内に満ちていると感じた。  「全員参加は難しい」という反省が出ていたが、ただ見ていただけの人も「参加した」という雰囲気は、私だけかもしれないが感じた。 1991. 1.23. T大2部教育学演習  発表することが自分を出すことにもなるので気分がよくなるかな、と思っていました。演劇をしている人がやめられなくなるのと同じように。しかし、発表を行っている最中はそれほどでもなく、終わったあとに解放感を感じることがわかりました。 1991. 1.23. T大2部教育学演習  グループでイベントを行った際、今までの自分でしたら、しっかりきっちり計画を立ててやらなくては何事も気がすまなかったのが、今回のこの経験では、非計画性を受容し、当日の全員の協力でうまくできた時(そう評価しているのだが)、喜びが大きく感じられた。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  (1年間の授業の評価として)とにかく、初めての授業形式がいろいろあって、とても刺激になりました。ときにはついていけなくて、授業中ぼーっとしてしまう時もありましたが、そういう時はそういう時で、1つのキーワードにひっかかってずっと考え込んでしまったり、自分についてあらためて考えたり、社会教育概論の奥の深さと自分の理解の浅さのギャップを感じてぞっとしてやたらに落ち込んだりしていました。頭の中が忙しいか、頭がストップすると、心の中が忙しい、という授業でした。  一番始めの授業で、社会教育は「幸せをつくること、配ること」という言葉があったのを思い出したのですが、あらためて考えて「人間が人間らしく幸福に生きる」ということの意味の幅広さと深さとむずかしさについて知ったような気がします。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  いろいろな形の授業を受けてきたつもりでしたが、西村先生の授業によって、授業という私の概念をくずされ、始めのうち不適応をおこしかけました。いろいろなものがポンポンでてきて、なんとかそれを結びつけようとして疲れました。その後、力を抜いて、一つひとつの話題を受け入れると楽になりましたが・・・。  「個の深み」という言葉は、大変気に入っています。自分自身、あるいは他者の「個の深み」につながる支援が、私自身にできたらと思っています。 4 自己表現の不器用さと表現の解放  自己表現については、強い抵抗がある。どうしてこんなに拒絶感があるのか、他人としては理解に苦しむほどである。本人の生育歴の中で、自己表現が抑圧されたり、自己表現によって心を傷つけられた体験があるのかもしれない。  しかし、一方では、当然のことながら、その本人も自己を表現して他者とストロークを交換したいという欲求をかかえている。「個の深み」の発露のためには、本人の抵抗感を十分に配慮して安心感を与えた上で、潜在的な自己表現欲求を解放させなければならない。  たとえば、人前で喋るのは厭だけれども、教師だけが見る出席ペーパーになら安心して自己表現することができるという学生も多い(というより、そちらの方が多数派である)。そうであれば、書くことで自己表現するチャンスを豊かに提供すればよいのである。  また、専門的な芸術の高度な部分を除けば、日常生活、学業、生涯学習の中で必要になる自己表現については、慣れやテクニックの問題に単純に帰する部分も大きい。その意味からは、学習援助活動の中で自己表現訓練を普遍化させ、日常的な取り組みにしていくことが望まれる。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私はあまり人前で話をするのは得意ではないので、何かしゃべらされるのか、と思うとちょっと不安です。 1990. 4.14. S短大教育社会学  イタリア人の先生が、われわれの声があまりにも小さいことに驚いていた。私たちは、先生の話を受身になって聴いているだけという授業に慣れてしまっているので、私自身なども、そういう形をはずれた授業には、非常にやりづらいものがある。 1990. 4.21. S短大教育社会学  「出席ペーパー」の紹介、大変良いと思います。みんなが将来をどのように考えているか、また、さまざまなことに対して、どのような考えをもっているか、ふだん聞くことのできない本音を聞くことによって、自分になんらかのプラスが出てくると思います。  でも、今日の紹介の中で、笑いを受けたペーパーを書いたのは私です。笑われたけれど、少し優越感。 1990. 5.12. S短大教育社会学  私は自分のノートに自信をもっています。高校のときに、ノートの取り方を見つけたというか、先生の話を文章化するのが楽しく思えてきたのです。ということで、文章化の問題などは苦労しなかったのですが・・・。自分の考えを文章化するのは難しいですね。 1990. 5.19. S短大教育社会学  私は、昔、自分の意見など言えない子でした。信じられないほど自己表現が下手でした。いつごろから変わったのか。。。あまりよくわからないです。小学生のとき、隣の席の男の子にスカートをはさみで切られたことがありました。その時も、私は、ただ黙って泣いているだけでした。  BUT、今は違います。今週の月曜日でした。友だちと二人で帰ったとき、向かいの小学校の男の子2人がちょっかいを出してきました。私は、その日、とてもやな気分だったので、その男の子を追いかけて後ろからケリを入れてやりました。あー、気持ちよかった。(私ってガキだわっ) 1990. 5.26. S短大教育社会学  毎週、この出席ペーパーに書いていると、mito先生に頼っている気がする。気がする、というよりも、頼っている。これでいいのかなー。いつもいつも相談ばっかり持ち出して。でも、この出席ペーパーに書くことによって、気持ちが楽になって素直になれたようだ。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  今日で教育社会学は最後ですが、この授業を受けて、だいぶ自分が積極的に行動することに慣れてきた気がします。文章を書くのが苦手だった私ですが、思ったことをすぐに書いて表現することができるようになったと思います。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  この授業でものすごく感じたのは、生徒(自分も含めて)(筆者注 生徒でなく学生であることは授業中、何回も言ったが)が受け身の形に慣れすぎているということ。先生に「自由に話してもいいよ」と発言を求められても、何も話せない自分がとても恥ずかしかった。でも、この授業を受けていくうちに、まったく知らない人に話しかけたりするのもイヤじゃなくなったし、知らない人とうちとけることもできるようになった気がします。 1990. 4.21. S短大社会教育概論  ロの字型になるのは、話しやすくていいけど、少し離れすぎっていうか、場所が広すぎて、よけい緊張したような気がしました。でも、自己紹介は、いろいろな友だちの新しい面が見えて楽しかったです。私も、話をしている時に、何を言っているのか、だんだんわからなくなってしまうんですけど、なぜでしょうね。でも、友だちとしゃべっている時は、そうなっても、それはそれで楽しいので、別にいいやと思っています。 1990. 4.21. S短大社会教育概論  (自己紹介をして)みんなしっかりしているなと思いました。思ったことをすぐ口に出して言えて、積極的で、私はとてもうらやましかったです。私の住んでいる方では、あまり口に出さない、発言しないっていうのが、美徳とされていることがあるので、地方の人たちが新鮮な空気を入れてくれてうれしいです。 1990. 6. 2. S短大社会教育概論  (コミュニケーション・ゲームでの気持ちは)ちょうど学校の授業に当てはまる。高校のとき、授業でわからないことがあると、(はずかしいけど)なるべく質問するようにした(確かめる意味でも)。その時は、やっぱりはずかしいけど、先生が親切に説明してくれるとうれしいし、内容もわかってくるし、楽しくなってくるものだ(この反対になると、楽しくなくなるけど)。授業でわからなくても、たまにはずかしくなって質問しないと、不安になってきてしまう。それと今日のゲームは、なんだか似ているように思う。 1990. 6. 2. S短大社会教育概論  (コミュニケーション・ゲームで説明役をやって)2回目は緊張しませんでしたが、みんなが質問してくれることが、すごくうれしくて、みんなが理解できない所がわかるので、説明もしやすかったです。私は教師をめざしているので、すごくいい経験でした。  教師の気持ちを初めて知りました。今は、満足感でいっぱいです。 1990. 6. 2. S短大社会教育概論  (コミュニケーション・ゲームで)コミュニケーションの大切さがよくわかりました。私は大学生になって、初めて一人暮しをしているのですが、このゲームをやるまでは「家の人に連絡しなくても、親の方は私のことを安心しているだろう」と思っていましたが、間違いだったように思います。かえって「こうだった、ああだった」とチョクチョク連絡をした方が安心するのだとわかりました。(説明役をした)○○さんの説明ぶりは、本当に上手だったです。頭のいい人なんだなあ、と思いました。 1990.10.13. S短大社会教育概論  ブレーンストーミングでは、今まで学校で行ってきた学級会などと違い、思うように発言できた。アイデアを批判されたりすると、つい消極的になってしまう。そういう意味でも、このブレーンストーミングは、学校教育の中でもっと活用されていいと思う。  私が体験してきた話し合いでは、いつもきまって同じような人が発言し、その意見で決まる。ほかの人は面倒くさいから言わなかったり、消極的な人は言いたくても言えなかったりしていた。こんな話し合いでいいのか、と思ってしまう。 1990.10.13. S短大社会教育概論  いつもはいろいろと考えているんだけど、こんなこと言っていいのかなというためらいがあった。でも、「そんなこと言ってもつまらない」という考えを捨てると、こんなにいろいろ(アイデアが)出てくるので、ふだんの生活の中の会話でも、少しでも今までの考え方を捨てると、話題がもっと豊富でおもしろくなるんじゃないかなあと思った。 1990. 4.25. T大2部教育学演習  私は学生時代からずっと、司会者や委員長というのは、陽気な性格の特別な人がなるものだと思ってきました。ですから私にはずっと縁のないものでした。今日の授業で、司会をすることも、また、イベントの要素をもっており、ポイントを押さえれば、誰にだってできるものなのかなと思いました。 1990. 5. 9. T大2部教育学演習  (自己主張訓練をして)何かすごく高度なことをやっているような気がした。ふだんの何気ない私たちの行動や言動にも、細かく注意してみると、さまざまな見方や考え方があると思った。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  (出席ペーパーの)文章を書くということは、なんて難しいんでしょうか。日頃思っていることや考えたことも、いざ文章にするとなると、構えてしまって手が動きません。これは、自分では考えたつもりでいても、系統づけができていないイメージだけのものであるからだろうと思いますが。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  自分のことさえそう(伝えられない)なのだから、他人の話を聴くことは、もっと大変だ。相手が苦しんで何か言いたげなのにうまく表現できないとき、こちらも理解しようともどかしく思うが、やはり中途半端な共感しかもてなくて、くやしい思いをしてしまう。我々は永遠に気持ちを伝え合う努力をし続けていくのかもしれない。 1990.12.19. T大2部社会教育概論  (OFFJTのベテランの中でのグループワークで)ただ聞いているだけではあまりに私が”なさけなく”なってしまうと思いましたので、「グループ発表をやらせてください」と頼みました。あとから聞くと、まわりの人たちは「やめればいいのに」と思っていたそうですが、グループの人たちがいてくれるから大丈夫と思っていました。おかげで発表もきちんとできました。ヒヤヒヤしながらも私に発表させてくれたグループの方々にとても感謝しています。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  集団学習は、「個の深み」にとって本当に不都合だろうか、という問題提起について、自分の意見としては、ある集団学習は、「個の深み」にとって都合が良いと思います。先生の実験的授業は、ペーパーを通して「個の深み」に向かう自分にとって、確かな支えとなったような気がします。主体性というのは”自己表現の喜び”もあるのだけれど、もう一つの側面として”不安”があります。自分の不安の気持ちをどうなだめながら自己表現の場に挑むかが、結局、自己実現の課題だと思います。  さまざまな自己概念に対する先生からの言葉のプレゼントは、私にとって時々は暖かく、時々はひやりと感じさせるものでした。心もとない思いは消えないままですが、このままの自分を大事にして、まあがんばるしかないんだなあと思い、そういうことを教えてくださった先生に感謝しています。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  先生の1年間の授業は”社会教育概論”だったけれども、それ以上に、一番良かったと思うのは”概念くずし”だったと思います。(でも、”社会教育”の始まりが”概念くずし”であると考えれば、この授業はまさに”社会教育概論”です)。  大学に入ってから、ある問題について本音で語れる友人が減ってしまっていた。BBSによって、1つのことについてのさまざまな考え方をする人がいる。そして、それについて、また答えることができるという相互性を確認できて、とてもよかったです。私もBBSで私の勝手な意見を出してきましたが、自分の意見と他人の意見との重さ−どちらも、その持ち主が生きてきて確立したものなのだから−ということが実感できた気がします。こんなこと、当然のことかもしれませんけど。 5 強力な幸福願望と自己の幸せについての懐疑  欲求段階説でいう低いレベルの欲求については満たされている場合、幸福の実現に関する本人の自己評価の基準は、かなり高いところにおかれることになる。とくに女性の場合は、幸福に対する強い憧れと、それに伴う現状否定の傾向が顕著である。  第1に、個人は集団の中で平均的な成員であればよいという過去の社会システムを克服して、個人に「個の深み」を求めようとする観点からは、この自己評価基準の高度化は歓迎すべきことである。  しかし、第2に、本人の主体的力量が、そのレベルや不成功の体験に耐えられるまでに至っていない場合は、結果的にはかえって疎外的状況を生み出してしまうことがある。  第3に、欲求段階説を機械的には当てはめることのできない状況が生まれている。すなわち、モノの豊かな今日にあっても、なお、親の責任による栄養不良症状の子どもがいるわけだが、そういう人にとって、まず食料を、ではなく、まず家族の愛情や自己の社会的認知を、というように高度な欲求の方が切実になっているのである。  第3の視点からいえば、本人の強力な幸福願望や自己の幸せについての懐疑は、恵まれているから、などと他者が本人を評論できる状況ではなく、むしろ、各人の主体性が奪われて、人々が愛情の享受や存在確認をしずらい不幸な状況になっていることの証しともいえる。あるいは、それとの葛藤のプロセスからこそ、現代的な「個の深み」が本人に生まれるという楽天的な観点から、援助のあり方も考えるべきなのかもしれない。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私は幸せです。両親もいるし、兄弟もいるし、友だちいるし、彼氏いるし、でも、私の幸せは表面だけかもしれない。もちろん、友だちの目からは、明るくておもしろい人みたいに思われているだろうけど、ちがう・・・。  私は海が好きです。ダイビングとか、ウインドサーフィン、サーフボードとかやっているときが、幸せかなってかんじ。  だんだん何を書いているのかわからなくなってきた。 1990. 4.14. S短大教育社会学  ”幸せ”を探していこうということですが、この間、”幸せ”について討論になりました。幸せというものの価値観は、人それぞれ異なっています。自分が幸せと感じても、他人には不幸に思えたり、そんなことも少なくありません。  幸せについて興味があるので、答えは見つからないかもしれないけれど、いろいろと話し合えたらうれしいです。 1990. 4.14. S短大教育社会学  一人暮らしを始めて1年がたちました。昨年の今ごろは、初めての所で、初めての人と出会って、いろいろとワクワクしていました。だけど、今は、本当の意味では楽しくありません。楽しい生活が当り前になり、もっと楽しく生きたいと思うと、今の生活がつまらなく感じるのでしょう。・・・とまあ、こんな事はいいですが・・・。 1990. 4.14. S短大教育社会学  最近、私がよく考えるのは、このまま型通りに単位を取って、職について、あるいは進学して点数を集めて・・・、本当に幸せかな、ということです。そうしないと幸せになれないのかな。でも、そうしないと幸せにはなれないと、今まで教わってきたので・・・。けれども、ある程度はこなしていかないと、人間は夢ばかりでぼーっとしていては生きていけない。短大2年からは、少し気を張ってゆくつもりです。この授業が、そんな私をホッとさせてくれる授業になればいいです。 1990. 4.21. S短大教育社会学  私はピアノの講師になりたいのですが、この1年間で、夢がかなうかどうか、自分の頑張り次第で決定するので、一生懸命やらなくては、と思うのです。小さいころは、忍者になりたいと思っていましたが、もうそんなこと言ってはいられない時なのです。だけど、家ではすぐだらだらと寝てしまう意志の弱さはどうしたらよいのでしょう。 1990. 4.18. T大2部社会教育概論  幸せには2通りあるように思う。1つは、お風呂のように、手近で現実になる可能性がとても高いものかしら。でも、お風呂で「ああー、幸せ!」とは思ってみても、私が私の人生に求める本当の幸せってほかにあると思う。それは、もっと大きくて遠く、現実性はお風呂よりぐっと低い。ふつう人々の言う”幸せ”とは、この2つめのもので、それは崇高でもっと理想的なものだって思いたい、という気持ちが我々の中にあるのではないか。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  この講義でよく「幸せ」ということが出てきますが、個人的にはあまり話題にしてほしくないと思っています。幸せの定義(?)は人によって違うものだし、どんな定義をもっていても自由だというのが私の考えです。  余談ですが、私は今までに自分で幸せだと感じたことがありません。幸せになりたいとも、あまり思いません。(でも、きっと、心のどこかで幸せになりたいと思っているのでしょうね。矛盾!) 1990. 5.23. T大2部社会教育概論  最近、仕事の変化、人間関係のつまずきがあり、苦しくて自然に涙が出そうになりました。泣くことを昔に置いてきた私は、泣きたい時に泣く場所がないことに気づき、ぼう然としてしまいました。結局、お風呂場で泣いてしまいましたが。  その後、また1回、泣いてしまったのですが、その理由がつきあっている人から電話がこなかったということ。同じ涙を流すことでも、まったく意味が違い、私にとって後者の方が健全でいいな、と思いました。 1990. 6.27. T大2部社会教育概論  好きな人と結婚して、子どもを生んで、それだけで私は幸せだと思う。けれど、何かを見つめて何かを知れば(社会の裏側とか)、もっと幸せを感じられる気もする。でも、のんびり生きて、余計なことは考えたくないって思うときもある。最近、それでジレンマに陥っている。なんだかこんなんでいいのかなあ、とふっと思ってしまう。欲張りかな? 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  BBSで、誰かが主体的にどうのって書いていたけど、キャリアウーマンしようと、フラフラしようと、むずかしいこと抜きに、今ある状態に納得できちゃう人間です。人間でありたい、かな。うーん。 6 学校教育への怨恨  自らの受けてきた学校教育への怨恨には大きなものがある。しかし、それが本人の深みに昇華されているかというと、残念ながらそうではない。反面教師だけでは、人間は成長できないということであろう。  オープン・エデュケーションなどによって、オルターナティブな教育も存在しうるのだということを認識できるチャンスを提供しないと、本人は、制度化されたものへの単純な全否定や敗北主義からいつまでたっても抜け出せないことになる。もちろん、その状態のまま、現代社会で「個の深み」を実現することなどは、望むべくもない。 1990. 4.14. S短大教育社会学  今までの高校教育がどうだったか話し合ってください、ということを先生が言ったのですが、私にとってはあんまり意味がなかったような生活でして、象っていうのは、とっても合っていると思います(筆者注 高校のイメージについて、あるグループから、象であるという発表があった)。 1990. 4.14. S短大教育社会学  高校のとき、職員室や体育教官室etcの生ゴミ片付けと食器洗いが嫌いだった!何で先生たちの出した生ゴミを私たちが片付けるのー?くさいポリバケツを洗ったり、お弁当箱を洗わされたこともあった。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私が出た高校もそうなのだが、授業が受験のためだけのものになっている。高校3年になって泣かないために・・・、という理由で。 1990. 4.14. S短大教育社会学  教育とは、ただ勉強を教えることだけではないと思う。中学校では、今、思うと、押えつけられて生活していたと思います。私は中学校の時の先生たちが大嫌いでした。私たちは心の中では反抗していたのに、それを口に出して言うことはほとんどありませんでした。  6月に、教育実習に行きますが、今度は先生と生徒の間に入るわけです。先生たちの考えも理解しなければいけないとは思いますが、私は中学の時に感じた気持ちは忘れてはいけないなと思うのです。 1990. 4.14. S短大教育社会学  試験のための勉強(授業)を今までやってきましたが、実際に役に立っているかと思うと考えてしまいます。「考えが甘い」っていう先生も多いと思いますが、やっぱりもっと実になる授業を受けたいと思います。先生、期待してます。決して、灰色で、象で、ピーマンのような授業にしないでください。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私にとっての学校教育。プレッシャーは、先生の差別、テストの敵がい心、おしつけ。学校教育のなかで一番いやだったのが、比較されることだった。幼稚園2年、小学校6年、中学校3年、高校3年、そして大学、の合計15年も、いやなのに通い続けている私は何なのでしょうか。 1990. 4.21. S短大教育社会学  私が小学校5年の時の担任の先生は、手を挙げていない人に当てる先生でした。その人がどうしてもわからなかったり、何も発言することがなかった場合、「助け舟」というのを用いました。「助け舟」というのは、当てられた人以外でわかる人が、その人の代わりに発言するのです。私は、テレビドラマ「熱中時代」の先生の「グー、チョキ、パー」より、この「助け舟」の方が好きです。なぜなら、「助け舟」の中には、クラスの連帯感や思いやりなどがあるからです。 1990. 4.21. S短大教育社会学  私は前から思っていたのですが、先生というのは、良くも悪くもとにかく普通ではなくて目立っている人ばかりに目がいきすぎているような気がするのです。普通と言われる人にだって、もちろん、人格があるはずなのに。  うまくまとめられなくなってしまいましたが、今、気になっていることです。 1990. 6.30. S短大教育社会学  教育実習に行って、2週間を「先生」と呼ばれてすごしたわけですが、自分が中学生だった頃と、「先生」と呼ばれた2週間とでは、学校の見える部分が違って、毎日が新鮮でした。  たとえば、先生方が生徒のことを一人ひとり、本当に真剣に考えた上で行動していることがわかりました。自分が中学時代に誤解していた先生の本当の姿が見えたときには(その先生はもう実習校にはいませんでしたが)、自分のおろかさと先生への申しわけなさに涙が出ました。それから、人に物を教えるということを通して、新たな自分の欠点なども見えてきて、自分を見つめなおすいいチャンスになりました。 1990.11.14. T大2部社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)なぜ、学校を休んではいけないのだろうか。大人が会社を休む時、会社をやめる時、または転職する時、説明ができますか。それなのに、ただ「休みたいから」では、学校は休めないのです。 1990.11.14. T大2部社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)私は登校拒否の人たちの理由を聞いていると、とても嫌な思いがする。「私のこと、誰もわかってくれないっ」なんて言って。しかも、自分は絶対正しいといった顔でテレビカメラに向かってまくしたてる。私は言いたい。ふざけんな。校則が嫌いだの、学力が追いつかないだの、校風が合わないだの、もうー。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  最近、ふと思うことがある。私は大学に何をしに来たのか、と。たしかに教員の資格を取得すれば、職場での私の立場は有利になる。しかし、私が本当に知りたかったことは、教師が生徒にどこまで干渉していいのか、教師が自分の尺度で生徒を評価していいのか、などであった。  たとえば、入試を例にとっても、学力が基準に達していない、生活面に問題がある、などの理由で合否を決定する。もしかしたら、この合否で、その人の人生が左右されるかもしれないのに、わりと簡単に合否を分けていく。そして、その責任は、すべて受験生にある。合否を決定する側の権利(ちょっと大げさ)とは、何なのだろうか。同じ人間なのに、切り捨てる側と切り捨てられる側の差があるのは、なぜなのだろうか。  また、生活指導という名のもと、言いたくもない小言を生徒に言わなければならない。その基準は自分の考えている「社会一般で言われていること」である。時には、きついこと、自分が言われたら自分でもかなり傷つくだろうと思われる言葉で叱りつけてみたりする。このようなことを教師は生徒にしてよいのだろうか。  それらの答えは未だに見つからない。 7 学習に対する強迫観念的な態度  学習者、とくに学生や研修受講者などには、講義は黙って聞いているものという思い込みが強い。静かにすること自体は、それはそれでかまわないのだが、黙って聞いているだけでそのまま有益な学習になるという態度は、過度に(適度なら問題はない)依存的な学習態度としてとらえるべきであろう。  また、正答の与えられない問題を考えさせられたり、学習者の思考が混乱するような話題展開をしたり、学習者側が何かを発表させられたりすることを、いやがったり、まともな講義(学習)ではないと批判したりする学習者もいる。  これらは、すべて「学習とはこうあるものだ」という思い込みを、本人が意識しないままに固定化させてしまった結果であると考えられる。そこでとらえられている学習の姿も、本人の主体的な思考作用をあまり重視しない受動的な行為としての「学習」である。  「学習とはこうあるものだ」という思い込みが、強迫観念のように本人の学習を縛っているのである。しかも、その思い込み自体が、根拠のない間違ったものである。なぜなら、本来、学習とは個人的事象だからである。  しかし、本人は、そういう自己の依存的学習態度を見直す機会に接すれば、苦しみながらもそれなりに自らの認知構造を変容させる可能性をもっている。そのための機会が、一つには講義内容の改革でなければならないし、出席ペーパーなどのシステムの導入なのでもある。  本人の主体的な学習(全生活の中での)と成長なくしては、「個の深み」の獲得は期待できない。  ただし、出席ペーパーの中には、大いに的を射た批判もあり、それはそれで、教師の側の教育方法の改善に役立っている。 1990. 6.13. T大2部教育学演習  いまだにKJ法がよくわからない。というよりも、自主授業というテーマがわからないので、KJ法がわからないのかもしれない。自主授業という耳慣れない言葉のせいと、受け身の授業を受けてきたため、あくびをこらえながら授業を受ける態度が身についてしまったせいで、グループで行う話し合い的授業にとまどっているのかもしれない。(この授業では)かなり苦しいし、つらい時間を送っている。 1990. 6.13. T大2部教育学演習  KJ法を学んで何にたどりつくのか、それが生きていく上でプラスになるのかがわからない。先生は、(KJ法において)理論で勝った者の意見が通るのではない、とおっしゃったが、それには赤カード(反対の意思の表明)。 1990. 9.19. T大2部教育学演習  先生の話すことは、一つひとつ意味があって楽しいと思うのですが、ただ1つ疑問に思うことは、この時間の意味。「この時間は何をするのだろう」。よくわからない。 1991. 1.23. T大2部教育学演習  西村先生のゼミは今日で最後だ。最初は何をやっているのか、何をやっていいのか、わからなかった。でも、今は、意味のないところに意味がある、という何とも摩訶不思議な授業だということがわかったような気がする。メンバーが変わるとどうなるのか、来年ものぞいてみようかなと思ったりもする。 1991. 1.23. T大2部教育学演習  いつも型にはまった授業で教育され、1つの意見にもマニュアルがあるのではないかと無意識に思っていた自分にとって、このゼミはとても自信のもてる所になりました。どんな意見でも自分の意見としての自信がついたようです。 1990. 4.11. T大2部社会教育概論  初めての講義だが、前半は疲れがつのってきて、受講をやめようかと思った。それは、話が飛ぶ独特の話法よりも、相手からのフィードバックがないまま内向して自分の中で情報を処理するという今までの講義の受け方に慣れきってしまったせいだと思う。一回も睡魔と闘う機会がなかったのも、また、不思議な気がしている。  曖昧さに耐えるというのは非常に強さがいる。幸せになるためには(先生の講義を受けるときにも?)、通らなければならない試練だ。 1990. 4.25. T大2部社会教育概論  わかりました!過去2回の授業の調子になじめないわけが。MAZEの世界だったからだと。しかし、21世紀を生活していかなければならない、と思っている私としては、こんな調子も受け入れなければならないと覚悟しました。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  西村先生は「結果論」の世界に住んでいて、たとえその時はどんなに関係ない話であろうと、役に立たない話であろうと、この講義を1年とった学生が、結果的に大きな何かを得たとか、もっとあとですばらしい社会教育主事になったとかしたときに、「ほれみろ」といって笑うつもりなのだ。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  (生涯学習啓発ビデオを見て)人間、一生学んでいかなくてはダメなのよ、学んでいかなくては幸せにはなれないのよ、と言われているような気がして、ちょっと気が重くなった。私は学ばなくてはダメだとずっと思っていたし、今でもそう思っているのですが、なぜだか今日は、そう感じたのです。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  (サークルのイベントに)たまに顔を出して、突然、「うちの大学に社会教育の講義をしているおもしろい先生がいて、すぐではなくても、いずれ講演してもらったらどうだろう」と持ちかけたところ、「何の講義をしているんだ」と聞かれて、「・・・社会教育のこと・・・えーと・・・スキゾなの!」としか答えられなかった私でした。今度から授業内容を具体的に自分に取り込むことにしようと決めました。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  生涯学習というと、自分のように大学に来るなど、どうしても大げさに考えがちでしたが、もっと趣味的なもの、つまりは、生涯を通して自己を向上させるためのあらゆるものが含まれるんだということがわかりました。 1990. 6.27. T大2部社会教育概論  (ハドリングの)その中で出た内容は、この授業に対する批判だった。「概論」という授業について、私たちは一種の決まりきった内容を期待しているのかもしれない。この時間を楽しんでいる人が多い中で、少数ではあるが、一つの方向性、これだけは必要というものを出してほしいと考えている人たちの不満はそうとうなものだと気づいた。私は今まで気楽に感じていて、必要だったら自分でやればいいし、この時間を頭の休養と思っていた。それで、人生のごく一部だが講義されているようで面白かったのだが・・・。 1990. 6.27. T大2部社会教育概論  (ハドリングを行った授業で)今、気づいた。先生の授業が苦にならない。人間の適応能力ってすごい。 1990. 6.27. T大2部社会教育概論  定番化した授業に慣れきった自分としては、そのイメージを崩して、今日の授業(ハドリング)のように、即席のグループの中で自分をさらけだして、自分に閉じ込もってもいられない事態となると、気分的に良くない状態になる。  ディベートやら、討論やら、アメリカから輸入した授業形態の効用は何なのでしょうか。沈黙は金なり、ということわざは、昔のことなのか。あえて自分をさらけだす必要はないのではないか。余計なことをべらべらしゃべるなんて・・・。 1990. 7. 4. T大2部社会教育概論  (社会教育法の逐条解釈の)今日の授業は何だ。個人の意見(ある学生の要望)の尊重はわかりますが、自己の信念に基づいた教育方法を貫いたらいいと思いますよ。本に書いてあることを解説する講義など、もっとも高等教育らしからぬあり方ではありませんか。”西村先生らしさ”を貫いたらいいと思います。  ユニークな講義をしたいと思いつつ、「教授する」という古典的形態に甘んじなければならない現実に悩んでいる教師のはしくれとして、一言!! 1990. 7. 4. T大2部社会教育概論  (社会教育法の逐条解釈の)講義中に「つまらないかな?」なんて学生に聞かなくてもいいと思います。たしかに楽しいものでもありませんが、これも目標達成のためです。きにしないでやってください。 1990. 7. 4. T大2部社会教育概論  先生の授業だって、普通に聞いているのなら、意味がないようで、「いったい、この授業は何を意味してやっているのだろう」と思うことが正直いってあります。しかし、学生の中には、何かを感じとって、しっかりとらえている人もいるわけで、このようなことからしても、学生の自主性によってこそ、その学生にとっての高度な授業になるのだと思います。 1990. 7. 4. T大2部社会教育概論  (社会教育法の逐条解釈の)授業中に、「安心をもたせるための社会教育の概観」という先生の言葉がチラッと聞こえたのが、私の心に刺さった。つまり、情けなかった。そういう思いが頭の中をよぎった。  もうだいぶ歳をとってきたのに、まだまだ受け身的なのです。それで、自分がこの授業を学んだ気でいる。でも、それでも、安心したい自分がいるのでしょうね、情けない!受け身というのは楽なんですよ。  でも、仕事では逆の立場で、受け身ではなく自らの学習が必要なんだ、なーんて言っている私もいる。本当に矛盾している。 1990. 7. 4. T大2部社会教育概論  (来学期の希望について)グループワーク型、大反対!他の授業でもやったことがあるが、とにかく、やる気のある者がバカをみる。やらない人間は、ずるがしこく点数や単位のみに重点をおいて、話し合いにも出てこない。やれと言われたこともやってこないのが、現代の若者の特徴である。 1990. 7. 4. T大2部社会教育概論  (社会教育法の逐条解釈の)今日の講義も、今までの講義内容を思い出しながら聞いていたら楽しかった。最初はどうしてせっかくうまくいっている講義のパターンをこわすんだろうと思った。社会教育の概観は、学生が自分で読めばいいのに、と思った。  でも、先生の話を聞いているうちに、(社会教育の概観希望の)あの出席ペーパーを出した人は、もしかすると、先生が社会教育についてどんなふうに考えているのかを知りたかったんじゃないかとなと思った。 1990. 7.11. T大2部社会教育概論  (来学期の希望について)学生の自主性、主体的積極性を前提とするのは、避けた方がいいと思います。そんなものは、この教室の中にはありません。みんな、そろいもそろってマヌケです(半分くらいは?)。  (インタビュー・ダイアローグで)少なくとも僕は、遠くない将来には、こんな場合、しょーもないなあと思いつつも、先生につき合って質問の一つでもできる人間になりたい。 1990.11. 7. T大2部社会教育概論  ここ1カ月近く、ほとんど大学に来ませんでした。大学に入って3年ですが、初めてのことです。しばらく、「何をしに大学に行ってるんだろう」ということが頭にひっかかっていました。だから何となく休んでいました。  今回のレジメに「大学とは、いったい・・・」の文字を見つけて、大変ドキッ!としました。西村先生のおっしゃるとおり、大学は「自分のやりたいことを自分で探すところ」ですよね。「誰かが与えてくれるのを待つところ」ではけっしてないんですよね。わかっていたつもりなのに、忘れていました。 1990.11. 7. T大2部社会教育概論  かつて私は○○の講義にもぐりで行ったことがある。また、その○○が著する○○シリーズも何冊か読んでいる。そう、2年前のことである。あのころは熱狂的な○○ファンであったが、今は違う。彼の思想は限界がある。 1990.11.14. T大2部社会教育概論  後期もそろそろ終わろうとしている今日になっても、今まで自分は何を学んできたのか。というより、何も学べなかったのではないか、という気持ちの方が強いような。何を学ぼうとしていたのかが、よくわからず、ヘンな気持ち。ヘンな気持ちというのは、今の気持ちをうまく表現できないけど、すっきりはっきりしないという感じ。  今まで学校の授業といえば、講義形式か、テーマを与えられたグループワークということに慣れ親しんできた。大学に来る前の看護学校、助産婦学校では、どちらかというと、職業訓練的な色彩が強く、先輩から知識を与えられるって感じだった。それに、今までの大学の授業も先生が一方的に話し、私は聞く人だった。  こんな私にとって、西村先生の授業は、えっ!何!これ!って感じで、拒否的反応があったのかもしれません。私はステレオタイプな考え方が強いので、なかなか自分に受け入れられなくて、今に至っているようです(つらいけど、今後にはプラスになるかも)。  もっと早期に先生と話し合うチャンスを持っていたら、違う姿勢で授業に参加できたのに、と思います。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  第4回から出席しました。初めての出席ペーパーには、大変失礼なことを書いたと思います。なにしろ、何を言っているのかわからず、消化不良のままで不満感のみ残りました。が、回を重ねるにつれ、講義方法、内容になぜかひかれてゆきました。とくに「個の深み」の論文を読ませていただき(まだ未消化ですが)、さらに共感する部分が増えました。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  私は学習することが必要だと思っている。その学習は、人から与えられるものではなく、自分から欲しているものである。興味のあることはとことんやってみたいし、いやなことには耳も向けたくない。幅広い学習のためには、それではいけないかもしれないが、私は与えられた学習より、求めていく学習をしたい。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  この1年間、授業を受けていて感じたことは、はっきり言って時間の無駄な授業に感じた。本音で書いていますが、評価は下げないでください。まじめに授業を受けても、とくに頭の中に残っていることは、ほとんど何もなかったような気がします。しかし、逆の見方から考えてみると、まじめに勉学している人の場合、このような息抜きの授業も大切ではないかと思う。  情的にはとても深まったような気がします。しかし、知的には何も残らなかったような気がします。しかし、人間本来の情的な大切さをこれから知っていくためにも、この授業はよかったのかもしれない。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  1年間ありがとうございました。テスト、テストで、悲しいかな訓練されてきた私にとって、先生の講義は、少しこわいナ、なんて思いながらの1年間でした。本当に悲しいかな、私の学校生活は、少なくとも高校までは、試される生活だったんだなあ、と思ってしまう。悲しい!人材として見られることを、甘んじて受け入れてきたんだなあ。でも、気づいた今は、改善していける。1人の人格として見られる私になろう!  先生の1年間の講義は、やっぱり私の受け入れ能力をオーバーしていた所がありましたが、選択することはできました。慣れるまで、やっぱり統一性を求めたりして、パニック起こしたりしたこともあったけど。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  出席ペーパーに記入することって、けっこう、何を書こうか迷うんですよね。その迷っている時間と記入している時間は、自分が講義から逸脱してしまうんです。つまり、自分の時間をその中に作り上げちゃう。マスプロ化している講義の中で、このような手段で、学生の個人単位のことについて関心をもってくれるのって、うれしいとは思うんですが、やっぱり限界が見えちゃう。両方とも、中途半端になりかねないのです。時間がもっとあればいいのですが・・・。だけど、このスタイルで行われる講義は、私にとってすごく強烈でした。 8 集団への帰属に対する拒否感  現代社会における人間疎外を克服する手段として、一般的な議論としては、ややもすると集団への帰属感の回復の必要を安易に結論づけがちである。しかし、そういうことでは、せっかく「個の深み」に向かいつつあった個人が疎外されてしまう。  ネットワーク型社会においては、集団に対する個人の依存はむしろ障害になるのであるから、本人の帰属に対する拒否感をむしろ自覚化させることによって、自立的な生き方の中にある孤独に耐えうるような主体性を呼び起こし、それでも潜在的に存在するであろう自己の集団への帰属の欲求と真正面から対面させる必要がある。  その上でこそ、ネットワーク型社会が個人に求めるであろう自立と依存を両立できる主体性の形成を促すことができるのである。 1990. 4.14. S短大教育社会学  ビデオを見て思ったこと。最初に映った星条旗。私は嫌いです。日の丸も。うーん、そういう物への執着というか、国とかピア・コンセプトというか、そういうものが好きではない。国境があるから、私たちのところはという意識があるから、戦争とかが起こると思うから。今、UFOとか、はやっているけど、国とか旗とかを変に大事にする人間が多いあいだは、宇宙人には会いたくない。  でも、こう言っている私も、外人がこわいし、そういう気持ちをまだまだたくさん持っていると思う。今の私は、まだ、教育者にはなれない。 1990. 4.21. S短大教育社会学  このまえ、中学生の時に書いた文集を、なんとなくパラパラと読み返してみました。そこには、「まとまりのあるクラス」とか「団結しているクラス」とかいう言葉が、何度か出てきました。あの頃は、一つにまとまっていることがいいことのように漠然と思っていたけど、今はそうは思いません。みんなの意思や考えがまとまっていたのではなくて、どちらかというと、誰かの考えにまとめられていたという感じがするからです。 1990. 4.21. S短大教育社会学  私は学校の先生が大嫌いだった。なぜかというと、私が人と違うことをすると、すごく注意したからだ。私は小さいころから納得しないとあやまったりしなかったので、先生にとっては目の上のたんこぶだったらしい。中には、私が心から尊敬できる先生もいた。それは、自分の勉強を追求している先生だった。体育の先生だったり、歴史の先生だったりしたが。  はっきり言って、私は教師にはあまり興味がない。教職をとっているのにこんなことを言ったら軽蔑されるかもしれないけれど。私は一つの目標を持っている。でも、それは達成できるとは限らないので、生きるための手段として教職をとっておこうと思った。動機が不純で、自分が汚い人間になったような気もする。でも、その気持ちは自分の心の中で聞き流してしまおうと思う。なぜなら、そういうことを考えていて、目標を達成する勉強がおろそかになるのが恐いからだ。 1990. 4.21. S短大教育社会学  私は人とちょっと違うことをしたりするのが好きだ。私はちょっと変な人になりたいと思っている。だから、一生懸命、ヘンなことを考えてみたりもする。しかし、今のヘンは人工的ヘンだから、わざとらしくていやらしい。このわざとらしさといやらしさが、私を不幸にしている気もする。  変な人になりたいのは、本当は、つまらない自分から逃げたいからだと知っている。まだまだ子供である。まだ、教育者にはなれない。しかし、教育実習は間近に迫っている。 1990. 4.21. S短大教育社会学  これ以外(一生懸命と一所懸命とについての話)のことでも、日本語の奥深さをひしひしと感じることはたくさんあります。こんなにすばらしい言葉を使える民族に生まれて本当に良かったと思います。 1991. 1.12. S短大教育社会学  はっきり言って、集団は苦手です。集団の中にいると、本当の自分が出せないからです。たとえ、その中に溶け込むことができても、つまらないと思うときがほとんどだし、自分を出したいのだけれど、人が多いと消極的になってしまいます。だから、友だちと2人か、1人でいるというパターンが多いです。別に集団がきらいというわけではありません。自分の立場をどうおいたらいいかわからないので、苦手ということになってしまうのです。  自分で分析してみると、1人か2人のときは自分の自由がきく、というのがあるから、自分をさらけだしているような気がします。ただ、たんに、わがままなだけでしょうか。社会に出たら苦労するかも。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  生涯教育を表面的に進めることは、日本人の独特の個性を失わせるものだと考える。個人が勝手に趣味でやれることを、団体でやるなんて、自分は嫌いだ。とくに行政に、その場を借りたり、きっかけを作ってもらうなんて!自分は、アルプスの少女ハイジのおじいさんになりたいのだ。個性の主張。頑固でもいい。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  選択肢のわくの中から選択させる生涯学習なんていうのは、おしきせがましい。楽しみながら芸術なり文化なりをやるのに、学習という文字で書かれてしまうと、会社の研修みたいだ。たとえば、音楽も音学になってしまいそうだ。カリキュラムがたまたま自分の好みと合った人は運がいいけど、合わない人もいるのでは?一生学ぼうとする日本人は、高テンション民族だなあ。ただ、ビデオで気に入ったのは、地域の文化を伝承するカリキュラムのところ。その地域にしかない独自のカリキュラムになって面白いと考える。 1990. 6.13. T大2部社会教育概論  映像によって同次元で同じ感動を得ることが可能。また、同じ感動をともに感じる。これが映像の良さではないだろうか。 1990.10.17. T大2部社会教育概論  「個の深み」という言葉を聞くたびに、逆に少しも深まらない自分を感じるのです。先生は、それこそが深みの入口だとおっしゃいました。入口ならまだ喜びもありますが、実感としては、ひたすら落ち込みつづきです。  仕事場で安易に協調してしまう自分から、専門的に責任をもつ個の立場を確立しようとして、しかし、たんに孤立してしまうだけではないかという不安に襲われ、暗中模索とはこのことかという感じです。でも、現状維持というのも苦しいので、とにかくこのまま未知なる感覚に身をまかせたまま進んでみようと思います。  人に受け入れられなくても、自分らしさを勇気をもってそこに表現してみることのこわさを乗り越え、それを人に理解してもらう努力をしなければ、いつまでも自分が深まらないような気がするのです。 1990.10.17. T大2部社会教育概論  個性化、個別化などというものは、全体という枠の中で、ある種のこだわりのある人々だけが自然発生的にマニアックになっていき、全体の中で邪魔にならない(社会に影響しない)程度に、囲いの中で目的に対して沈潜していく、という方が、社会の安定にとってはよいのでは、と思っています。個性化、個別化を、あえて社会の方から促すことはないのではないでしょうか。 1990.10.24. T大2部社会教育概論  「個の深み」では、ネットワークを肯定し、異質のものと喜んで交流することを質の良い個人主義としている。ここでは、他との交流に絶対的価値をおいている。”交流できる個”は肯定しているが、”交流したくない個”の存在をどう考えているのだろうか。  出席ペーパーを書かない人がいることに対して、”自己の個の表現の抑制”、”実効主義”などと否定的にとらえられていたが、社会教育関係者の中には、個というものは表現されなければならないという思い込みが、つねにあるように思われる。社会教育関係の人々は、根底に、「人は交流しなければならない」という思い込みがある。青年の家の職員は朝礼を好み、西村氏は出席ペーパーにBBSが少ないとなげく。  しかし、この”交流”というのは絶対的な価値なのであろうか。(というのも、私のまわりには、この交流というものを好まない人が何人か存在しているので、こういう疑問を抱くにいたった。彼らは個を表出することはしない)。 9 ユーモア、ヒューマニズム  とくにユーモアについては、学校教育の教育課程の中では、科目としての道徳や国語の中でのごく一部を除いて、評価の対象になることが少ない。しかし、「個の深み」というものがアカデミックな側面に限定されるべき根拠は、まったくないのである。むしろ、人間の全体性の中に、広く幸福追求の基盤としての「個の深み」が見いだされるととらえるべきであろう。そこでは、ユーモアやヒューマニズムは、重要な要素である。それは、本来の意味での「教養」としてとらえることもできる。  したがって、出席ペーパーは、それらの「教養」の本人の深さ、またはその可能性を、自己認識させるための有効な道具になりうる。 1990. 4.14. S短大教育社会学  私が動物の中で一番かわいいと思うのはペンギンです。  この前、上野動物園に行って遊んできたけど、動物はねてるだけだったんで、お金払ってんだから少しは動けーと思ったら、ペンギンは泳いでいてくれて、すっごーくかわいかったですよ! 1990. 5.19. S短大教育社会学  公民館のビデオで、ママさんコーラスの場面のお母さんたちの表情がとても良かった。歌の好きな人たちが集まり、その人たちの歌声がコーラスになる。技術面では不足していることもあると思うが、やっぱり歌の好きな人たちが歌う歌は、心がこもっていて、こっちまで顔がにこやかになってくる。  義務だけの歌になりがちなこの頃の私は、こういう歌が好きだという気持ちを忘れていたような気がする。 1990. 4.25. T大2部社会教育概論  (サラ金で)99万6千円借りている人が、3000 円を追加して借りようとしたことで、笑いをとったのはいやだ。その人はその人なりに一生懸命何かを考えて行動しているのだから、他人に笑ってほしくないと思う。 10 山アラシのジレンマ  現代人の対人関係は、自分や他人がお互いに傷つけ合わないよう、距離を置きがちである。これを批判することもできるが、「人間」の言葉が示すとおり、一定の「間」(ま)は基本的には望ましいのである。  問題は、間をなくすことではなくて、主体が真に欲する関係を自己認識し、それに応じた間の取り方を技術的な面から修得することである。 1990. 5.12. S短大教育社会学  今回、「おしゃべり症候群」のことが話題の一つとして取り上げられましたが、これは本当に考えさせられました。  私もおしゃべりはよくするほうなんですけど、やっぱりそれは話したいという自分の意思よりも、むしろ、沈黙に耐えられない自分の弱さのほうが強いのだと思うんです。もちろん、自分が話したいときに話したいことを話すのは人間の本能でしょう。でも、沈黙が怖くてむりに話してしまうのも、人間の本能だと思います。私も例にもれず、やっぱり沈黙を通すことは怖いです。 1990. 5.12. S短大教育社会学  このあいだ、友人に相談をしました。その時に、友人は、「頑張りなよ」とか「大丈夫だよ」とかいう言葉で、私を励まそうとしてくれました。けれども私は、「なにか違う」というか「私はそんな言葉を求めていたんじゃないのに」と思ってしまいました。  私も昔からよく相談を受けるのですが、私も、そんなとき、いつも「頑張りなよ」とか「大丈夫」と言っていたような気がします。今になって、やっとそう言われた人の気持ちがわかるような気がします。  でも反対に、そういう言葉が聞きたいために相談する人も、きっといると思います。 1990. 5.19. S短大教育社会学  今日は大雨の中、自転車をこぎこぎ、先生の話を聞きにきました。台風が近づいているようで、ものすごい風で、傘をさしながらの操縦は非常にたいへんでした。  途中で知らないおばさんに、「前に気をつけてね」と言われ、なんだかうれしくなりました。人の一言って大きいですね。元気になったり、傷ついたり・・・。だから、子どもたちには、気をつけて接していこうと思います。 1990. 5.19. S短大教育社会学  私は最近、不眠症で、寝つきが悪かったり、変な夢ばかり見ていたり、ふとんの中でゴロゴロしているうちにすずめがチュンチュンいったりして、不調のかぎりです。  自分で自分自身のことがよくわからなくて、相手に自分を出せないっていうようなこと、先生はありませんでしたか。授業中に「言葉っていうものは本当に難しい」とおっしゃってましたが、私も、今、すごく、それを感じています。あまり深く考えずにありのままで生きればいいのかもしれませんが、なかなか難しいような気がします。 1990. 5.26. S短大教育社会学  この講義は回を重ねるごとに、だんだんといろんな人の本音や本心が見えてきて、少なからずShockを受けている私です。なんか自分の抱えている悩みなんて、本当にちっぽけなものなんだなって。  私には、全国津々浦々(?!)に、文通している友だちがいます。この年になって文通しているというのも変かもしれませんが、中には8年越しのつき合いになる人もいて、今ではたんなるpenpalというだけでなく、本当に大切な”話し相手”としておつき合いしています。私の深刻な悩みは、すべてその子たちに託してしまうのです。会ったこともない、まだ見知らぬ人たちですが、Telなんかで伝えられないもどかしさも手紙を書くことによって解消されるので、私は”書くこと”が好きです(どんなことでも)。  周りの友だちやmito san等を信用していない訳ではないのですが、身近にいる人だとかえって自分の弱味を見せる気がして、それが嫌でどうしても本心がさらけ出せません。これって周囲の人間に対して”カラ”を作ってることになるんですよね、きっと。mito sanもパソコン通信をやっていると、なんだかそういう対人関係のギャップ(?!)みたいのを感じませんか? 1990. 6.30. S短大社会教育概論  長所を言ってあげられる人は、本当にやさしい人だと思う。長所を見つけてあげることは、短所を見つけることよりできにくいことだと思う。(グループワークで)長所だけを実際に言ってもらうなんて、すごく感激した。それから、みんながこんなにたくさん良いところを見つけられるなんて、いい人たちばかりだなと思った。人の長所を見てあげられる人に私もなりたいと思う。 1990. 9.29. S短大社会教育概論  自分1人で自分について思ったことを言うのはマンネリだが、人に質問されることによって、自分でも思いもよらない言葉が出る。インタビューって、とてもよいものだ、魅力的だと思った。  ふだんあまり口にしないことを、人によって引き出されるというところが新鮮に感じられて、とってもためになりました。今日は、つくづく1人と2人の違いを思い知りました。こういう経験はとてもよい。 1990.10.20. S短大社会教育概論  (学園祭に出展することになって)お客さんが本当に来ようが来まいが、みんなの協力が大切だと思います。なんだか前よりみんなと仲良くなれてすごくうれしい。 1990. 5.23. T大2部社会教育概論  人と接する際に、相手の”幸せ”な部分や”不幸せ”な部分に触れずにいる、などということができるのだろうか。出席ペーパーで紹介された彼女は、そういうものに触れたり触れられたりするのはいやだ、と言っていた。そうならば、彼女は人と接する時、何を話し、何を感じているのだろう。”幸せ””不幸せ”を除いてしまった会話とは、いったいどんなもので、何が得られるというのだろうか。 1990. 6.20. T大2部社会教育概論  最近、社会教育について(社会教育とよべないものも含めて)、いろんなことを考えます。もし、自分が社会教育に参加することになったら、そうしようと思ったら、何を一番望むだろうか、と。仕事や職場の人づきあいなどで、すでに疲れているところへもってきて、人と人とのつながりを求める心の余裕があるのかな、などと考えてしまいます。 1990. 6.27. T大2部社会教育概論  (1カ月間の入院で)入院している人たちは、皆、どこか具合が悪くてここにいるのに、親切で、頼まなくても手助けしてくれます。自分より大変そうな人でも、声をかけてくれたりします。ここでの生活は、これからのわたしにとってなんらかのプラスになるのではないかと思います。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  先生、府中青年の家での合宿ではお世話になり、ありがとうございました。「こうしたいんだけど、周りがどう思うかな」という、ときとしてムダなブレーキをかけることを、意識的にやめる(私にはそうだった)ということは、学ぶものが多いなと思いました。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  何もかも相手にさらけだしてしまうのも、なんだかつまらない恋愛になってしまいそうで。自分の悲しみも淋しさも、相手の悲しみも淋しさも、共有できないし、救えないものね。自分でしか。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  共感して他人の気持ちが少しでもわかりあえれば素晴らしいと思うのです。でも、人によっては、私みたいな人間を偽善者と見る人もいるのかもしれませんね。しかし、私としては、自分の利益や自惚れのためでなく、純粋にそう思っているのですが・・・。 11 共感的理解の能力  他者への共感は、同感と違って、困難を極める。自分に引きつけて、自分の心で、しかし、自分の心の枠組(準拠枠)からではなく、他者の気持ちを理解しなければならない。  この能力は、教員などに求められるのはもちろんであるが、与えられた枠組ではなく、自らの主体的な意思で他者と交流するために、すべての人間に普遍的に必要になる一種の「生きる力」と見ることができる。  その能力の養成は、基本的には本人が意識的にそういう態度をとることによってこそ可能になる。出席ペーパーに書くことによって、自己の内なるノイズが顕在化されて意識下に置かれるので、共感的態度を本人が自覚的にとるためには、むしろ有効である。 1990.11.10. S短大社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)テレビでも言っていたように、”待つ”ということ、これが本当に大切なんだと思う。テレビに出ていた子どもたちは、なんだか元気そうに見えたけれども、そうなるまでは、すごく苦しい気持ちだったのだろうと思う。 1990.11.10. S短大社会教育概論  登校拒否をしてしまった人がビデオに出てきましたが、この人たちはとても幸せな人だと思います。とてもしっかりしていて、うらやましく思います。何より家族愛がすばらしい。自分の考えがはっきりしていなくて、どっちつかずで学校に行っている人の方が、もっと不幸ですよね。 1990.12. 8. S短大社会教育概論  今日のビデオ「障害者のための絵画教室」は、とても感動しました。今までは、障害者を見かけると、かわいそうだなと思ったり、電車の中で大声で叫ぶのを見たり、話しかけられたりすると、少しいやだなと思ったりしていたのが恥ずかしくなりました。私はすごく健康なのに、わがままや不満をいっぱい言っているだけなんて、自立していないなと反省しました。 1990. 6.13. T大2部社会教育概論  (「驚異の小宇宙・人体」を見て)まるで、自分の中、人間の中の他者や他の存在に気づかされた思いがする。そして、この講義をとっているみんなと共有した時間、共有体験というのだろうか。一番後ろに座っていたので、そんなことも感じた。そして、それを前提として、このVTRに対する不思議な親近感、「これが学ぶということなのか」というような感じをもった。 1990. 6.20. T大2部社会教育概論  (患者の)彼が(他の看護婦から)言われたことを挙げると、だいたい次のようになる。「きき手じゃなくて良かったわね」「肩ぐらいですんで良かったわね」「脚が動かないより良かったわね」「事故にしちゃあ軽くて良かったわね」などなど。言った人たちは、何を基準に彼に「良かった」などと言えたのか!彼にとってはたった1つしかない左肩である。21歳の柔軟な肩。それが一生動かないのだ。同じような事故で、両手両足がマヒして動けない人も、世の中にはいる。でも、それは比較の対象にはならない。彼にとって、彼の肩が一生動かないということを、「良かったね」と言った人は、どのくらい考えたのだろうか。 1990. 6.20. T大2部社会教育概論  「トトロ」の中で、子どもがお父さんに対して、その子の姉が見たというお化け(トロル=童話の上の怪物)を自分も見ることができるか、とたずねるシーンがある。子「ねえ、お父さん、私もトトロに会える?」、父「うん、そうだね、運が良ければね」。私は、このシーンを見たとき、このお父さんが、「うん、そうだね、いい子にしていたらね」と答えなかったことに対し、感動以上の大きなものを感じたのでした。 1990.11.14. T大2部社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)「なぜ学校に行かないのか」、なんて、どうしてそんなことを、たった一人で悩んでいた子どもに言えるのか、とても腹立たしく感じました。あの場(登校拒否児のつどい)に集まった子どもたちは、自分がまちがっているんだと責めて、自分の存在(学校に行けない自分の存在)を疑いながらも、ようやく、自分には自分の考えがあって、それは他人と同じものである必要はないということに気づきはじめた子どもたちではなかったかと思います。 1990.11.14. T大2部社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)私自身、彼らと同じようなことを経験したからということもあるが、今日のビデオには、非常に強く共感した。あの頃のつらさというのは、とても口で表せるものではなく、今日見ていてもつらかった。  しかし、直接、彼らと会って話しても、私の場合は、それほど共感の気持ちはわいてこない。ビジュアルや本などの二次的なもののほうが共感できる。どうしてだろうか。 1990.11.28. T大2部社会教育概論  子どもの頃から、人の気持ちがわかるという人に対して、反感のようなものを持っていました。というのも、相手を理解したいと思いながらも、私という個人の目が加わることで、相手をゆがんで理解しているのではないかと思っていたからです。  私の場合、共感的理解が下手なので、簡単な言葉で相手の気持ちを表現して、なるべくその言葉が相手の気持ちに近くなるように確認しています。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  共感的理解が苦手、というある出席ペーパーの紹介を聞いて、一瞬、私が書いたのかなと思ってしまった。後半、そんな彼女なりの努力、「できるだけ簡単な言葉で確認するようにしている」ということ、を聞いて、ああやっぱり違う、と納得。  私は「共感的理解やそういう態度のとりにくい冷たい女」ということを自覚していても、それについての努力はしていないレベルであることを、再度、確認した次第。でも、感情の交流を大切にするのにも、私のような者は、人一倍努力が必要というのも、ちょっとさみしいですね。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  私はつね日頃から、他人の気持ちをわかることはできないと思っています。私の仕事は障害者と言われている人々と接して、その人々を援助していくような内容のものですが、障害をもった人々の気持ちがよくわかるかといえば、答えはNOです。私は五体満足ですし、その他いろいろと考えあわせても、彼らの気持ちがわかるなどとは思えません。彼らも、私のような小娘に自分たちの言葉にしきれないようなさまざまな気持ちをわかってもらおうとは思っていないのではないかと思います。  大切なことは、わかった気になってしまわないことであり、相手を否定しないことであり、相手の気持ちを想像する努力をすることであると思います。これが共感的理解ということにつながると思います。どうでしょう。 12 ヒエラルキーへの抵抗、正義感  ヒエラルキーにおける個の疎外については、現代の若者といえどもかなり抵抗感をもっている。しかし、それが主体的な批判になっているかというとそうではない。無力感、劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義などによって、その活力が削がれている。  また、ネットワークを形成するためには、ヒエラルキーに抵抗して主体性を発揮する新しい「自立」とともに、他の人間と相互主体的に関係を結び連携する新しい「依存」の能力も求められる。 1990. 7.11. T大2部教育学演習  KJ法の作業をやっていて、他人の意見や考え方を取り入れることによって、視野を広くもつことができるということはわかった。だが、自分はチーフという仕事の立場では、「これはこうしよう」「ああ、それならこうしなさい」という独断的な方法で仕事を進めているものだから、みんなでチンタラチンタラなかなか進まない作業をしているとイライラしてしまった。これではいけないな、とは思うのだが・・・。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  私が仕事で後輩たちの記録物を見るとき、必ず評価が前提になっているので、なんだか純粋な目で見れない。すごく苦痛な作業です。純粋な気持ちになれない私に問題があるのはわかっているけど、このプレッシャーにはたえられない。 1990.10.24. T大2部社会教育概論  「個の深み」論文、何度も何度も読みました。個の尊重ということについて、教えるという立場にいる自分が、つねに心の中でこれでいいのかと悩んでいる部分である。限られた時間の中で、目的達成というより、これだけは教えなくてはという教える側の課題達成志向のニーズに基づき、つねに走らせ、後ろから押し上げている自分であり、また、そうした自分につねに矛盾とやりきれなさを感じている。  一人ひとりが何を感じ、何を見ることができたのか、一人ひとりと話してみたい。個との関わりをもちたいと思いつつ、不満足な思いで忙しく走っている毎日である。 1990.11.28. T大2部社会教育概論  私が「異動するとしたら○○課がいいなあ」と言ったら、ある男の人に「あそこは高卒じゃ使いものにならないからなあ」と言われました。この人はやはりランクが上の大学卒で、職員にもその大学のOBが多いんです。こういう人が、役職につくことが多いという実情があるかぎり、学歴社会は続くと思います。 1990.11.28. T大2部社会教育概論  (学習情報センターのビデオを)今日は、私の気分で(気分ですみません、でもそうですから)非共感的に見ていました。センターを訪問したアナウンサーが、「これは有難い!」「うーん、有難いことですね」と、有難いを連発していましたが、「何がそんなに有難いのよ!」と反感を持ってしまいました。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  組織の内側にいても、私は主体的でいるように努力しようと思いました。私だけリゾームの先端になってしまおうと。それで上司からのウケが悪くなったっていいんじゃないかということです。だけど、自分勝手にならないように、ひとりよがりにならないように、いつも自分でアンテナをめぐらして、自分で考えて、私はそうは思わない、ということもちゃんと聞いて、その上で、結論を出していければと思います。  これはとってもたいへんなことだと思います。でも、このことができなかったとしても、こういう心がまえでいたいと思いました。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  「健全育成」という言葉は、ひじょうにタテマエ的な言葉に聞こえます。「健全」とはいったい何なのか。健全な人というものはいるのだろうか。私は、健全な人は、基本的にいないと思います。人間はみんな「不全」だと思います。「健全」という言葉には無理があります。  以前から「健全育成」という言葉は気になっていましたが、もっとふさわしい言葉を見つけたいと思います。 1990.11.22. N市社会教育職員研修  先生のお話しになった「自立」を主体とした生涯学習の理念について、また、「支持的風土づくり」という点、非常に感銘を受けました。しかし、現実に「社会教育行政」に関わっている限りでは、行政の体質はツリー型のまま、変化の糸口もつかめていないというのが正直なところではないでしょうか。それには、職員の意識改革の不十分さといった点も指摘できるとは思うのですが、巨大化した「ツリー」の中では、そういった枝葉の部分で改革しても、「ツリー」全体を変革する力とはなりにくいのが現実だと思います。  そうした意味で先生のお話になられた理想的、理念的生涯学習体系とはまった相反する組織体としての「社会教育行政」が存在することは、疑うことのできない事実だとわたしは思います。  そして、そうした組織、つまりツリー型のあるいは防衛型風土の組織の中で、「生涯学習情報システム」の整備が一足飛びに行われることの危険性はあまりにも明白ではないでしょうか。それは、つまり、先生のおっしゃられたこととはまったく逆の風土を、より強化するための大きな(巨大な)システムになってしまう可能性をもつと思うのです。 13 ボランティア意識の新たなる萌芽  無気力、無関心と評されているはずの若者の中に、ボランティア志向が強く表れることがあることについて、われわれはどう解釈すればよいか。それは、若者が、他者から継続的に組織化されることを今までの厭な体験から嫌っているだけで、自発的に行う生涯学習などの形でなら活動に積極的に参加する可能性があるということであるといえよう。  そして、われわれが最近のボランティア活動を見る場合、奉仕による単純な満足感の欲求ではなく、実現困難な自分の個をなんとか実現したいという切実な潜在的欲求から発しているという深い見方が大切であろう。  「個は他者に関わることによって、より深まる」というテーゼが活動の目的の最高位に置かれるような、新しいボランティア意識が台頭していると考えられる。 1990. 5.19. S短大教育社会学  私の町の公民館は、看板がなければ、ほったて小屋といってもわからないほど、粗末でおんぼろです。こう書くといささか大げさですが、それでもVTRで見た立派な公民館に比べたら、とんでもなくボロです。そんなボロでも、そこに集まってくる人たちの心はとても暖かく、田舎者のパワーが感じられて、私のとても好きな場所でした。  小さい頃からピアノをやっていなければ、その場の状況に流されやすい私は、間違いなくボランティアの道を選んでいたでしょう。それほど、ボロに集まる人々の心のふれ合いは優しく、そしてなごやかだったのです。  音楽の道に進んでしまった今では、ボランティアに徹することなどかなわぬ夢となってしまいましたが、もし、音楽の仕事に就いても、その仕事を生かして、心優しい人々につくそうと思うのです。 1990. 5. 9. T大2部社会教育概論  (あるドラマの)「世界中の人がみんな幸せになれば、自分も幸せになる」と言って、孤児院で働くシーンが、とても嘘っぽく思えました。自己犠牲に酔っているような気がしたのです。「みんなが幸せになるために、歯をくいしばってがんばるんだ」ではなく、「孤児院の仕事が楽しくて幸せ」っていう人でないと、みんなの幸せなんて願っちゃいけないと思います。だから、私は「みんなの幸せ」を願う前に「自分の幸せ」をさがそうと思っているのです。先生が言う「幸せをくばる」って、どうしたらいいのだろうか。 1990. 5.16. T大2部社会教育概論  私は障害者相手の仕事をしています。それを言うと、「えらいのねェ」という反応が返ってくることが多いのです。私はいつもその言葉に反発を感じます。私は、この仕事を自分のために選びました。他の誰のためでもありません。私は、一時、真剣に自殺を考えたことがありました。それは、「なぜ生きるのか」という疑問に対し、答えが見つからなかったからです。そして、私がたどりついた結論が、今の職業です。  生産性を追い求める、そんなラインからはずれて、でも、一生懸命生きている。あの人たちは、どうして生きているのだろう。あの人たちと関わっていけば、私自身の生きている意味もわかってくるんじゃないか。そう考えてすがるような気持ちで選んだのが、今の職業です。私は私のために必死で働いています。そのことで、もし、少しでも助かる人がいるなら、こんなにうれしいことはないと思うのです。 1990. 5.23. T大2部社会教育概論  小さい頃、私は、友だちに誘われて児童館の「竹馬づくり」のイベントに参加した。他の子どもたちはキャーキャー、ワーワー子どもらしく楽しんでいたにもかかわらず、私はイヤだった。なにがイヤかというと、ボランティアの人たちだった。「これはこーして、あーして」とか「乗り方はそーじゃなくて」と親切に言われれば言われるほど、「ほっといてよ」と心の中でムッとしたものだ。じつは今でもそういうところがあったりする。 1990.11. 7. T大2部社会教育概論  行政が住民を指導するなんてとんでもない、とか、市民主体の、とか、そういうことを言うよりも、行政が先頭を切らずに後ろからついていくような形で、お互いに必要な時に手を貸していくような関係が大切なのではないかと思います。それに、住民を教育するなんて、というような反発を、はたして住民自身がしているのかどうか。そのように騒いでいるのは、行政側だけじゃないでしょうか(予想ですが)。  住民が住民の力だけで活動を起こすのは、なかなか難しいことだと思います。行政が火つけ役になるのは、決して批判すべきことではないと思うのですが。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  (駅で車椅子の人が階段を上がることに手を貸したことは)私が決めたことであす。誰も手を出す人がいないから手を出さざるをえなかったというわけではないし、まわりの男性が通りすぎることを決めたことに対しても、責める気はありません。(私も気が向かなければ、そういう行動はしなかったと思います。ただ、だいたい気が向くことが多いのですが・・・)。  職場は規則ばかりで・・・とぼやく人がいますが、私は規則に従わされているとは思っていません。規則に従うことを自分で決めて従っていると思っています。(だから従えない規則には、やはり意見します。その意見が通らないときは、さらに意見するか、あきらめて従うかの決心をします。ただし、あきらめることを決心するのも私自身であることは忘れてはならないと思うのです)。偉そうに聞こえると思いますが、私もさまざまな苦労をして、現在にたどりつきました。ちょっとした考え方の転換です。こういう生き方もあるという紹介でした。 14 アイデンティティの喪失  子どもの頃のいわば仮りのアイデンティティがいったん崩れていく過程を経なければ、その後のアイデンティティの確立はおぼつかないということは、いうまでもない。しかし、そうは言っても、その過程のジグザクの振幅があまりに大きいと、指導者側としては、つい、その揺れをおせっかいにも小さくしてあげようとしてしまいがちである。それを禁欲し、本人が「個の深み」を獲得する方向で、本人のMAZE(前掲拙著参照)につきあうことは、われわれにとって大変難しいことではあるけれども、心がけなければならないことなのである。  また、現代社会においては、成人期以降の人間でさえ、アイデンティティが弱体である場合が多い。それについても、その確立にあわてて取り組むというのではなく、自己のアイデンティティを簡単には認められない個人の深さに着目し、本人の「個の深み」が自覚化されるような支援を考えなければならない。  出席ペーパーによって、本人に自己のアイデンティティの喪失状況を確認してもらうことは、そういう意味をもっている。 1990. 4.21. S短大教育社会学  きのう、何カ月ぶりかでエンエン泣きました。ふだんでもけっこう涙は出てしまう方なのだけど、きのうは自分でもおどろくぐらい泣けてしまいました。短大1年をなんとなく過ごして、で、2年になってもう進路を決めなければならない。今、どうしたらいいのか、何がしたいのか、すべてわからなくなってしまいました。 1990. 4.28. S短大教育社会学  1人でいる時間が増えて、1人でいろんなことを考えるようになってから、いつのまにか、以前とはまったく考え方の変わってしまった自分がそこにいました。それは、今まで知らなかったことを知って多様な経験をした結果だから仕方のないことだとは思うけど、でも少し悲しかったです。  こんなことって、ほかの人にはくだらないことなのかもしれないけれど、でも、誰もが感じていることだと思うんです。 1990. 4.28. S短大教育社会学  自分の存在価値・・・。出席ペーパーの紹介で、進路について悩んでいる人の紹介がありましたが、それは私にとってとても心強いものでした。なぜなら、私も同じように悩んでいたからです。なんだか、「ああ、同じ仲間がいた。私だけではない」という気持ちになりました。  友だち同士で進路については話すけど、心の寂しさなどは言葉でうまく表現できないのです。また、何気なく言ったとしても、相手が本当に理解してくれているかどうかが、不安なのです。今日の出席ペーパーに、とても感謝しています。 1990. 5.12. S短大教育社会学  今までのことを考えてみると、自分の意思でこれからを変えようと思って自分の生活に変化を与えたことはありません。自分に変化が表れた時は、前ぶれもなく突然きていたように思います。突然というよりは、気がついたら何か自分が変わっていたんですよね。  自分の意思で未来を変えることの難しさを、この頃、ひしひしと感じています。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  教育社会学を受けてたくさんの経験ができました。いろいろ、自分自身についても考えたり悩んだりもできました。なんとなくだけど、自分の中で何かがふっきれたような気もします。なんとなくだけど・・・。 1990. 5.26. S短大社会教育概論  先生の話を聞いていると、なるほどなあと納得します。しかし、私も先生と同じ考えになってしまって、自分としての考えがないのです。それでよいのかなとも思います。  先生の考えを聞いて、自分ではどうか、と考えてみることが大切だとおもうのですが、どうでしょうか? 1990. 6.16. S短大社会教育概論  (ビデオ「驚異の小宇宙・人体」を見て)人間のあり方というのを深く考え込んでしまった。私という人物は1つしかなく、よりすぐられた生命である。また、この社会のよりすぐられたほかの人たちと暮らしていき競い合うというのは、まさにゼイタクな話であり、逃れられない事実。それに加えて、人間は進化の頂点だと言っている。頂点に立つということは、落ちてはいけない、つねに進化し続けていかなくてはいけないと考えてしまう。いろいろな意味において。つねに頂点に立つ者としての宿命、または、義務を負わないでいては人間でなくなる。形は人間でも。  このように命の尊さを知るということは、人間だけの特権なのだ。それについて悩むというのが宿命であり、それについて努力していくのが義務であると思う。努力の仕方もいろいろで、それが特技なり趣味なり才能なりへと導かれて、自分が気づかないうちに自分を磨いていって、人生を充実したものへとつないでいくのだと思う。「私の人生、何だったの」と嘆いている人もいるけれど、そう気づいたらしめたもので、これから自分というものを見つけ出せればと思う。それが今、言われている社会教育の内容に入っているものだと思う。今は、いい時代だ。両親に感謝しよう。作文のようになってすみません。それにしても、人間とは、奥が深い。 1990. 5. 9. T大2部社会教育概論  先生、私、死にたい。ううん、違う。そんなに積極的でなく、とにかく、世の中からいなくなりたい。でも現実的な私が、明日はゼミがある、とか、バイト行かなきゃ、とか、教育実習の手続きしないと、とか、ちゃんと思ってる。あー、でも、やだ。 1990. 5. 9. T大2部社会教育概論  何が大切なのかは、自分の価値観の問題だ。私たちの世代は、何が大切で、何が大切じゃないのか、自分で選択していくことがとても下手で苦手だ。私も同じく。  私は自分のことを「先生」という人間がきらいだ。私たちには人生を選択する権利がある。教師は、人間が人生を選択する上で必要な知識を教えるものであると思います。そんな教師に私はなりたい。 1990. 5.23. T大2部社会教育概論  毎日、仕事して(好きな人ばかりじゃないと思う)、家に帰って、適当に家族サービスして、自分のこと中流だナって思いながら、20年も30年も生きていくのって、何があるのかな。私は30過ぎても思春期やっていたいから、いろんなことを見過ごしたくないから、「足並みそろえて、みんな一緒じゃなきゃ不安」みたいな逃げにまわった生き方はしたくない。とかいって、今でもさんざん逃げているんだけど。 1990. 9.19. T大2部社会教育概論  自分にしかないものなど、ほとんどないと思う。あるとすれば、何らかのものを発明した人、あるいはその世界(100 m走など、誰が見ても差がわかること)でトップになることぐらいしかありえないのではないか。なぜなら、人は、何らかの集団に属しながら生きていくからだ。つまり、すべてが同じ環境ではないが、部分的にはさまざまな人と同じ環境をいやでも共有してしまうことになるからだ。  だから、自分にしかないものなど、一般論ではありえないはずだ。私には、そんなことより、「オレはこれが好きだ」というものがはっきりと言えることの方がずっと大切だ。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  いったい自分はどんなことをやりたいのだろうか。もしかしたら、これからずっとやりたい仕事など見つからなくて、それほどやりたくないことを我慢しながらずっとやって生きていくのか、と思うと、どうしようもなく不安になってしまいます。 1990.11.28. T大2部社会教育概論  人は自分の人生を肯定しようとして生きているのだと思います。ごまかしていると言われようが、なんと言われようが、自分の人生を肯定して、自分は正しいのだと信じて、人は人生を過ごしたいのだと思います。ゆがみは忘れて過去の記憶を訂正して納得して生きる。それでいいのだと思います。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  先日、テレビの特集で、看護婦不足のことをやっていました。どうも看護婦の現状のきびしさを結びつけたかったようなのです。(中略)仕事のきびしさと仕事のやりがいとは別のものなので、公平に報道してほしいでーす。(もし、両方を放送していたら、テレビ局さん、ゴメンナサイ)。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  自信についての話の中で、一人だけが100 点をとることが本当の自信ではないということがありましたが、私としては、これを自信として認めたいと思います。なぜかといえば、私自身にこれと同じ経験があり、その時には自分だけ100 点だったので大変自信をつけたことを、今でも印象深く覚えているからです。  (自己受容における)こんな自分でも世の中には必要と思うことは、現実から逃げて自分の内側の世界にとじこもることであり、自信というよりは、むしろ回避や退行的現象に近いのではないでしょうか。 15 自分の過去や他人への気づき  変えられないはずの過去や他人について、変えられないとわかっていながらも悩むのが人間の実際の姿であれば、知っているはずの過去や他人のことを忘れていて、何かのきっかけでやっと気づくのも、また、その実際の姿である。  出席ペーパーに書くという行為によって、それらが不可避的に客観視されることは、援助者が思う以上に、本人自らが自己解決の方向に向かう結果につながるものである。 1990. 5.26. S短大教育社会学  今日、先生が読んでくれたマンガで、自分のお父さんを思い出しました。お父さんは口数が少なく、仕事から帰ってきてもほとんど言葉を交わすこともありません。でも、私がピンチのときには、やさしい言葉をかけるのじゃなくて、なんとなくやさしさを感じるお父さんの態度が私は好きです。  私は、お父さんのことをとーちゃんと呼んでます。大学に入って両親と離れたがっていた私は、突然、お父さんやお母さんに会いたくなる時があります。家族って、本当に大切ですよね。 1990. 5.26. S短大教育社会学  「しっぽのはたらき」を見ていて、思い出した本が2つあります。(略)そのころの自分を思い出しました。絵にとてもひかれて、「何かあるのかな?」と考えたり想像したりする楽しさがあって、このような本は自然でそぼくであたたかいなあと思いました。  この3冊のそれぞれの作者の意図は異なるかもしれませんが、私には何か同じ思いがあるように感じられました。 1990. 6.16. S短大社会教育概論  私がけがをしたりすると、お母さんはきまって「親にもらった体を傷つけるのは親不孝なんだよ」と言いながら手当をしてくれる。自分の体は自分だけのもののようであって、自分だけのものではないことがよーくわかる。自分を大切にすることは、他人をも大切にできることなのだと思います。「驚異の小宇宙・人体」は、いろいろなことを考えさせられるすばらしいビデオでした。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  なんで生きてるの、と聞かれたら、生まれちゃったから生きているとか、生きてるんだから生きてる、と私も言ってしまいそうだけど、死んでしまいたいととても思ったとき、とても悲しくなってしまったことを思い出しました。そのころとってもいやだと思っていた人々(職場でも、家族でも)が、そのときは、私にやさしくしてくれたことや心配してくれたことを思い出して、もし死んでしまったら、そういう人々に会えなくなることをとても悲しく思いました。これ以上はうまく書けませんが、私は、私のためと、私を大切にしてくれる人のために、生きているんだなと思います。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  この時間内に、このペーパーを書くに当たって、いろいろなことを考えました。職場でのこと、人間関係のこと、学校のこと。入院していた時には、病院での出来事なども友だちに届けてもらいました。授業中にこんなことばかり考えている時は、ほかにはなかったです。 16 自分自身への気づき  出席ペーパーに書くことによって得られるもっとも基本的な作用は、自己認知、さらには自己洞察である。それが端的に表れた事例を紹介しておきたい。 1990. 5.26. S短大教育社会学  彼女(大学の授業をさぼりがちな友だち)自身は、「悪い」とは感じていないようである。私はそのたびにムッとしてしまう。でも、私自身はマイペース型で完璧主義だから、彼女とは根本的に合わないのかもしれない。  しかし! 彼女は私に不快感を味あわせようとしてこういう行動をしているわけではないのである。その証拠に、私が「今日は姉がいなくて、夕食一人なんだー」というと、「一緒に食べようー」と、誘ってくれた。きのう、フッと思ったが、私がムッとするのは、私にもさぼりたいという気持ちがあるからなのだろうか。 1990. 5.23. T大2部社会教育概論  先生にとくに(出席ペーパーの)コメントをいただかなくていいです。先生の思っていらっしゃるとおり、書くことで整理しています。このごろ2週間ずつくらいのペースでそううつを繰り返しています。原因もなくひどく落ち込む。外見は明るいみたいですけど・・・。先生、落ち込んだとき、どうしてしますか。 1990. 7.11. T大2部社会教育概論  (来学期の希望について)「出席ペーパーによるフィードバックシステム」は、私にとってはとても有意義でした。自分が考えていること、書いたことに対して先生からコメントや意見を伺えること、また、他の人たち(同世代の人たち)が、どんなことを考え、どんな生き方をしているか(少し大げさですが)、ということにふれることができること。そして、それについて自分がもう一度、考えることができるというメリットがあったと思います。  今、思えば、今学期の授業では、70分間、次々といろいろなことに驚き、疑問に思い、否定し、うなずき、考えていたように思います。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  癌であるということを知らされている彼(患者)は、私たち看護者に対して、すべてのマイナス感情をぶつけてくる。彼の気持ちもわかる。しかし、私も人間。全部をかなぐり捨てて、怒りをぶつけてこられても、それを100 %は受けとめられない自分を見つけてしまった。 1990.10.31. T大2部社会教育概論  (エゴグラムを作成して)けっこうさめていると思っていたのに、Aが低く、意外でした。職場においては、ほぼAの部分を押し出して行動しているつもりでしたが、今日の設問に対する自分の回答を見てみると、かなりCPとNPの使い分けで自分のやりたいようにやらせてもらっているようだ、と気づきました。 1990.12.19. T大2部社会教育概論  ある時期、私は悩みました。彼はいつでも私を愛してくれているので、不満があったわけではありませんでした。自分に自信がもてなかったのです。彼を前にして、自分に自信をもつことができなかったのでした。彼はあまりにやさしく、いきいきとしていて、賢明で、誠実で、そして正直です。自分の生き方を持っていて、情熱的に生きています。「そんな彼が、なぜ、私のことを?」、そんな風に考えるのはつらいことでした。  彼に出会うまで、私は自信過剰な人間だったと思います。あまり、自分に対して悲観的に考えたことはありませんでした。しかし、彼と出会って、私がもっていたものが崩れ、それらが非常にうすっぺらでもろいものだったと気づいたのです。私は彼の前では、飾ることも、気取ることも、かっこうつけることも、知ったかぶりをすることもできず、「私」そのものであることしかできませんでした。  (中略)彼からもらうばかりではなく、与えることもできる私でありたいし、そういう意味で、良い関係でずーっとありたいと思うのです。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  (カウンセリングを受けていて)あまりにも客観的に自分を見るようになったため、それが自分だという実感が得られないでいる。自分は確かにいるが、自分が確かに感じているが、それは自分ではないように思う。だから、ある場面を想定して、そのとき自分はどうするか、どんなことを思うか、ということは、分析結果からある程度、予想がつく。  ここで問題なのは、その想像された自分に対して、肯定できない。そんなふうに思う自分が好きでないと思う。だからといって、そう思わないようにはできないとも思う。その結果、自分自身が嫌いになる。このごろ自己否定が多くなったのは、そのせいだろうかと思う。そして、自分を見つめることが嫌になっている。 17 その他 1990. 5.26. S短大教育社会学  (美術展で)いっぱしの評論家ぶって、ピカソの絵を語ろうとしていた。そこへ、母親に連れられた5歳ぐらいの少年がやってきて、グニャッと折れ曲がった形で、全身、青く染められた「横たわる女」を見て、「ママ、ゾウさんがいるよ」と、大声で言った。母親は「しっ、静かにしなさい」と、こわい顔をして叱りつけただけだったが、私は「うっ、やられた」と思ってしまった。  どこが頭で、どこが足で、というのではなく、パッと見て、「あっ、ゾウさん」と、そのまま自然に答えてしまった子どもって、すごいなと思う。今日の「しっぽのはたらき」を見ていて思い出したので、書いてみました。 1990. 6.23. S短大社会教育概論  (ビデオの中で)ロールプレイングって出てきましたが、私は○○(レストラン)でバイトした時、イヤっていうほどロールプレイングのビデオを見せられました。あのバイトは2度とごめんって感じです。 1990. 4.18. T大2部社会教育概論  (スクエアヘッドとエッグヘッドの話題で)私は、あいまいさを許容できないために、かなり無駄な気苦労をしてしまっていることに近頃気づきました。でも、柔軟になろうとすればするほど、つまらないことまで気になって考え込んでしまいます。 1990. 4.25. T大2部社会教育概論  教育は、どうしても上下関係が生じてきやすい。それには必ず反動がある。価値観を自分でたえず捜しながら耐えている現代人の中で、人に教える立場はかなりつらいと推察する。 1990. 5.23. T大2部社会教育概論  (公民館のビデオを見て)しばし日常の顔(立場)を忘れて、人が集まって文化的行為に没頭することの重要性を再確認しました。仕事と家庭、学校と家庭という器に入りきらない、人の多様な希望を実現させる場としての価値は大きいと思います。競争の原理で計られずにすむことは、人間性回復にとって重要だと思います。  自主性を尊重し、支援していくという立場が要だと思いました。公民館主事の仕事は、結局、縁の下の力持ち的存在として光ってくる仕事だと思いました。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  趣味などの小さな個人的なものを、わざわざ行政の場にもってきてやる必要があるのかと考えてしまった。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  (生涯学習啓発ビデオを見て)なんだかとても苛立ってしまって、途中で帰りたくなった。奇麗ごとを山のように目の前に並べられた気分だ。だいたい、生涯学習の定義をいくら言われても納得がいかないというか、しっくりいかないというのが実感だ。人が何を糧に生きていくかと考える上で、今みたいなビデオの話が核心ではない気がする。 1990. 5.30. T大2部社会教育概論  (生涯学習の推進を)たしかに行政側も必死にやっているし、あまり裏読みしすぎるのはよくないという先生の言うこともわかるが、僕にはどうしてもその必然性が見えないのだ。資本主義体制の下では、トクにならないことはやらない、というのが当然であり、「生きがいを発見してもらう」という理由だけで、今、これだけの生涯学習熱が高まっているのだとは、とても思えない。それならば、生涯学習はたんなる行政の好意だけで運営されていることになる。ビデオでは、みごとにその辺に触れていなかったので、食いたりなかった。 1990. 6.13. T大2部社会教育概論  徳育や性教育は、人間が長い時間生きてきた間で培ってきた生きていくうえでの大切な情報を伝えるものだと思う。でも、どんなに重要な情報でも、その意図するところが相手に理解されなければ意味がないと思う。  映像は事実や現実をそのまま伝えるだけだから、どう受け取るかは見る方の自由だという意味では、伝えたいものが伝わらないおそれがある。だが、それぞれの人が、自分の考えや実生活の体験などと直接結びつけて理解することができる点で、理解度は高いと思う。 1990. 6.13. T大2部社会教育概論  精神障害者を援助する仕事で、手工芸、スポーツ、喫茶店などを一緒にやっていますが、私の意に反して、ペダゴジー一辺倒になってしまい、依存性を助長している結果になっている気がします。相手は退行している人も多いので、ある部分は子どもと同じであるともいえるし、人手不足から効率を優先するという現実的理由もあるのですが、日々悩んでいます。 1990. 9.19. T大2部社会教育概論  今回のこと(事故による怪我)で、普通にやっていたことができなくなるつらさを何度も感じました。「歩けるようになるのか・・・」、今まで考えたこともなかったことを考えました。歩くことをそれまで強く意識したことはなく、生活の中で当然のこととしていたなと思います。歩けることに感動するとは、思ってもみませんでした。長いか短いかわからない人生の中で、大きな勉強をしたな、と思います。でも、一歩間違えば人生が終わっていましたね。 1990. 9.26. T大2部社会教育概論  「個の深み」は、それぞれの人が異なるものを持っているはず。そうすると、ここで言われている個とは何なのだろう。たとえば石にだって「個の深み」を見ることができると思う。石は見る者に、さまざまな印象を与えられる。石は、形も違えば、色、模様も異なる。とすると、これも一つひとつ個をもっていると言えないだろうか。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  職場のスタッフから仕事をやめたいとの退職の相談(?)というか、宣言がされる。私のところに意思表示するときには、もう彼女たちの気持ちは固まっている。こんなこと、もう3年も続けている。ホントはとっても悩んでいる。気持ちが固まる前に何らかのサインを出しているというのだが、気がつかないんでしょう。仕事をしていて、「3月いっぱいでやめさせてください」と言われると、「またか・・・」という思いが全身を走る。最近、疲れている私です。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  これに書いたら気持ちが晴れてほしいと願いながら書いています。また、失恋をしました。(中略)今、考えて残念なのは、はっきりとお互いに意思を伝えていなかったこと。相手から、○○がいや、と言われた方が、私の気持ちはどんなに整理がつくことでしょう。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  冷静に考えれば、(自分の通っているカウンセリングの)このドクターは、いい医者なのだと思います。しかし・・・。私のいらだちは、どうすればいいんでしょうね。非指示的カウンセリングを行いながら、しかも、患者にいらだちを感じさせなくなったら、私はこのドクターに花マルをつけてあげるんだと思ってます。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  この状態(末期症状の癌の患者)になっても、家族は医師へのうらみつらみを言っていて、今、患者に一番しなければならないことが考えられなくなっています。そんな家族にここ数日振り回されながら、私は、どんな死を患者に迎えさせることがよいことなのか、と考え、思い悩んでいます。 1990.12. 5. T大2部社会教育概論  (流行歌の歌詞を書いたあとで)歌なんて書いてしまってすみません。でも、落ち込んでいるとき、この歌を聞くと、ほのぼのとした気持ちになれるんです。今、すっごく落ち込んでいます。嫌なことって、どーしていっぺんにやってくるのでしょう。でも、がんばらなくては・・・。つらいからといって、逃げることだけはしたくないから。  明日もがんばって会社へ行きます。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  (通る道が)明るかろーが、(レイプされた女性が)地味なかっこをしていよーが、おそう男はおそうのよね、どーやら。どーして私が、この話をBBSにもってきたかというと、考えてほしいの。彼女でも友人でもいいから、男女間で話し合ったりしていしいな、と思ったのです。話しにくい内容かもしれないけれど、タブーにしてもいけない、現実に起きていることだから。  女は女だけで、男は男だけで、ギャーギャー騒いでいるんじゃ何にもならない。将来、自分の奥さんや娘さんが被害にあわないという保障は、どこにもないんだからね。 1990.12.12. T大2部社会教育概論  この間、在日韓国人のおばさんと日本語の勉強をしていて、あっ、いけない、と思ったことがあります。私の中には、まだ、教えている、という意識があるのだなあ、と。あくまで手助けなのに、何か自分のやり方みたいなものを出してしまったので、そのおばさんに、私は読みたいんですって言われちゃった。たしかにマンツーマンだったら(基本的にはそうなんだけど、そのときは人が足りなくて、私は3人を見ていた)、また、ちがったのだろうけど。「能率」みたいなものを先行させちゃったんだー、と思った。  あくまで、おばさんのやりたいこと、知りたいことに、応えられればいいのかな。そこに、私の主体性はどうなればいいのだろう。でも、おばさんの勉強に対する姿勢って、感動しちゃいますよ、うん。 1991. 1.16. T大2部社会教育概論  物療室でのほのぼのとしたコミュニティという話が(西村から)でましたが、私は、そのコミュニティの迫力に、いつも圧倒されています。ほのぼのとしたコミュニティの中での会話の例です。「私はね、両方の膝を人工関節に入れ換えてもらったのよ」、「あら、私は股関節を入れ換えたの、ほら見て」、「私は20針ほど縫ってもらったんだけどネ。先生が上手で縫い目がこんなにきれいなのよ」、「あらいいわねェ。私の方はちょっとひきつれちゃってたりするのョ。冷えたりすると痛いの」、「ひきつれてなくたってね、冷えればやっぱり痛いわよ」、「私はリウマチで、両膝、両股関節、両肩の6つを人工関節にしたのよ。足の方はよく動くけど、手の方はあんまりよくないわ」、「6回も手術したの?」、「とんでもない。人工関節にする前にも関節の手術はしてるから、今回で9回目になるわ」、「すごいわねェ。私なんて股関節の手術を1回しただけなんだけど、痛くて大変だったわ。9回も手術なんてねェ」、「あら、でも、手術が痛いって言っても、リウマチの痛みよりは楽だもの・・・」。私は、こういう「ほのぼのしたコミュニティ」と、今後もつきあい続けていくのです。 1990.10.11. K研修所社会教育職員研修  その講義が「タイクツ」するかしないかは、講義を聞く側の認識の問題である。  ネクタイをはずすことにより、何の効果があるか。少なくとも私は、自分の講演・講義においてネクタイをはずしたことはない。はずすことによって満足を覚えるのは本人のみであり、「私も(ネクタイを)はずしますので、みなさんもリラックス云々・・・」は、自己中心的であろう。それよりも話術の中にリラックスさせる要素を盛り込むべきである。 18 参考 1990. 4.14. S短大教育社会学  がんばろうと思いますので、よろしくお願いします。とは言っても、”がんばろう”と思うのは最初だけで、後半、ダラダラしちゃうんですよね。それはきっと授業がつまらなかったからだと思います。だから、退屈しない楽しい授業だとうれしいなと思います。 1990. 4.14. S短大教育社会学  はじめまして。今日は最初の授業ですが、これから楽しい授業になりそうな感じがします。この学校に入って2年目、どうしてここへ来てしまったのか、などと後悔しておりますが、一人暮しの気楽さと大勢の友だちとのふれあいを大切にしてます。なんといっても、これが一番楽しいですもの。  そして、この授業、「つまんなそう」と思ってましたが、なんだか先生がきさくな人なので安心しました。どうぞよろしくお願いします。 1990. 4.14. S短大教育社会学  はじめ、先生が教室に入ってきた時、まじめな先生に見えていやだなあと思っていましたけど、おもしろいので、これからの授業も楽しく受けられるのではないかと思っています。 1990. 4.14. S短大教育社会学  イタリア人の先生の授業で、先生は何度も「書くより聞いてください」と言っていました。私たちは小学校から、まず書いて覚えていました。そういうところからも、外国と日本の教育方法が違うんだナ・・・、と思いました。 1990. 4.14. S短大教育社会学  「幸せになりたい」というのは、私もよく考えることですが、「あれ、私、今、幸せだ」なんて、思うときがあるんですよね。そんな、ふとした幸せがいいんじゃないかと思います。 1990. 7. 7. S短大教育社会学  (スタンツ大会を行ってみて)音大に入って個人活動(ピアノ練習)などが多く、大勢で集まるのはたまにしかなくて淋しい感じがしていました。今までの高校生活の学級のまとまりが懐かしくなります。大学の淋しさは、大勢の人がいるのにまとまりがないことだと思います。今日の発表会で楽しさがよみがえってきました。土曜日は、この教育社会学1つだけのために学校に来るので最初はいやでしたが、そんなことは忘れていました。 1990. 5.12. S短大社会教育概論  私は老人天国になるこれからは、音楽を通してのシルバー教室を開きたいと思っていました。ですから、この社会教育をとったというわけです。しかし、老人相手となると、並み大抵のことではありません。友人がカルチャークラブで、フルートの助手をやっていて、自分よりはるかに歳の入った40〜60歳の方を教えることがしょっちゅうだそうで、とても気疲れすると嘆いていました。  今の老人の方々は知識人ですから、自分がもっともっと多くの知識を得なければ、そんな教室を開くことなど、とうていできません。 1990. 6.16. S短大社会教育概論  やっぱり、このビデオ(「驚異の小宇宙・人体」)は、1家庭に1つ強制的に置いたほうがいい。人生に少しぐらい挫折したとき、これを見れば、「私は何億という中からの、超エリートだ!」とか思って、気持ちが晴れると思うし、世の中で悪いことをする人も減ると思うし、中絶をする人もいなくなると思うし、何よりも両親を大切にすると思う。  生まれたての赤ちゃんの脳がゴリラといっしょというのは、ちょっとショック。私、今でも脳みそはチンパンジーぐらいかもしれない。  ゲシュタルトの祈りは、ちょっとさびしすぎる。むなしい。 1990. 6.16. S短大社会教育概論  学校で初めてDNAという物質について習ったとき、このVTRを見ていたら、そのあと、人体についての新聞記事などを読んだときに、もっと興味をもっただろうに、と思いました。 1990. 6.23. S短大社会教育概論  生涯学習って叫んでいても、地方の山の中にはそんな環境はないから、学習したい人がいてもできない。まず、差別なく、環境を整えてほしい。私は、個人的には、勉強という言葉のほうが好きです。 1990.10.13. S短大社会教育概論  (交流分析の)先生の話に「仮面的交流」というのがありましたよね。あれがすごく感動しました。あのようなことは、大学に来たからこそ知ったことで、とてもうれしかったです。