授業の楽しみ方  −自明性に「ちょっとまった」−          ver 2.0  400字×10枚=4000字 35字×30行×4ページ  実際             35字×30行×8ページ まじめな人の問題点  主体とは、「認識し、行為し、評価する我」である。このような主体性が、私には、あなたには、十分に備わっているだろうか。なんだか心もとない。  私は考える。「こうあるべき」という道徳律にきちんと従って生きているのは、外見からは主体性があるように見えるかもしれないけれど、必ずしも事実はそうではないのではないか。学生の分際なんだから、授業がつまらないと思っても教室でおとなしく座っているべきだ・・・、これって、ほんとに主体性なんだろうか。こうあるべき、と自らが認識したのならばそれでもよいだろう。でも、アバウトな言い方で恐縮だが、他者やメディアから長年のあいだに「認識」させられてしまっているだけの話なら、なんてつまらない人生なんだろう。根拠のない思い込みだと気づいたならば、そんな思い込みはやめようじゃないか。  こういうふうに書いていると、学生の読者はどう思ってこれを読んでいるのかな、と気になる。これも、私に確固たる主体性がない証拠なのかもしれないが・・・。それはともかく、いわゆるまじめな学生は、きっと不愉快に思っている人が多いだろう。  現に、私の授業も、まじめな学生から、「もっと体系的で役に立つ講義をしてくれ」とクレームがつくのである。私の授業は、一人ひとりが悩んでしまうような正答のないテーマのものが多いので、それを好む人もいるが、「まじめに教師の話を聞くことが、学習であり、学生の生き方である」という価値観を大切にしている人は、とくに最初のうちは私の授業に反発するようである。  もう一つのタイプは、アルバイト・サークル・レジャー重視型だ。そういう人たちは、本人の意識に関わらず、それなりの体験学習をしてしまっているわけだから、「そうだ、そうだ。学生が成長するのは、授業だけじゃないぜ」と冒頭の文章をのんきに読んでいたのかもしれない。たしかに、人間は、あらゆる場面において、社会から学習する。正解だ。でも、私は、そういう学生にも疑問をもっている。主体的にアルバイト、サークル、レジャーしている? そこから、ほんとに主体的に学習している? 認識や行為や評価を「してしまっている」あるいは「させられてしまっている」だけじゃないの?  たとえば、人間関係の技術を学習するには、サークルの運営に関わるとよいだろう。それ以上に対人恐怖が強い人は、ファースト・フードのアルバイトでもするとよい。対人恐怖のあなたでも、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」とか、場合によっては初対面のお客さんに会釈することさえできるようになるだろう。それは、漠とした精神論的な前提ではなく、サービス労働の部分に対してペイするという明瞭な前提が使用人側にあるので、あなたでも自然に役割演技できるようになるからなのだ。  そういうことが見えていないと、「うちのサークルの連中には責任感が足りない」とか「アルバイト先の店長が私の存在を認めてくれない」とか言って他人のせいにして悩んでいるだけで、非主体的態度は変容されないままということになる。サークルは、部活動と違って、やりたい人がやりたいときにやりたいことをやる場である。むしろ、責任感を他人に要求せずに集団をうまく運営することを学ぶ場なのである。また、アルバイトは、経営ヒエラルキーの一番底辺にいて、底辺にいるからこそ見えるものをきちんと見ていく場なのである。サークルでもアルバイトでも、必要な演技をしながら、見るべきものを見ることのできる人は、どこにいても主体的な学習・発達・成長ができるのだ。  ついでに言いたい。金欠型だ。そういう学生は、金がないからしたいこと(レジャーなど)ができない、と言う。ほんとうにそれがしたいの? やれたらいいな、と思い込まされているだけじゃないの? それから、ほんとうに金がないことが原因でできないの? 金がなくても、超一流のホテルのロビーは無料で使えるんだよ。そこでゆっくり本を読んだり、エグゼクティブたちを観察したりするのもいいんじゃないか。もし、追い出されたら、それもいい経験だ。この際、「自分はつねにあたたかく守られていなければいけない」という思い込みは捨てた方がいい。あたたかさは、社会の機構にではなく、友人や恋人や家族に求めていこうじゃないか。  少し古い話になるが、若者の気質が「四畳半主義」だと言われていたことがあった。下宿先の四畳半の世界だけが幸せに満ちていればよい、社会で貧困が生じ戦争が起ころうとも、自分の四畳半に影響しない限りは関心がない、という意味だ。今なら、さしずめマンションの「ワンルーム主義」といえるだろうか。  ここで、金欠型の人から、クレームがつくかもしれない。「私たちは、ワンルームマンションなんか住めないんだ」と。しかし、四畳半だろうが、ワンルームだろうが、あなたの人間としての成長の面からは、あまり関係はない。問題は、その生活空間にあなたがきちんと対峙しているかどうかである。  四畳半だけがよければよい? それはけしからん。もっと社会を見つめなければだめだ・・・。そういう大人もいるだろう。いや、私がもっと驚くのは、学生の中にそういうことを言う人がいるということだ。そう言って主体的に社会と関わろうとしている学生もいるのだが、そうではなく、社会に責任をもつ「べき」と言いながら、その強迫観念に悩み、自虐的、内向的になってしまっている学生も多い。自虐というのは、裏面では、他者や社会への責任転嫁や攻撃性を内包している。  主体性とは、べき論ではなく、自然体から発するものだと思う。四畳半主義でもいいじゃないか。そこにいる自分ともっとよくつきあってみたらどうか。たとえば、自己洞察なんていうのは少しでもできたとしたらすごいことで、学習成果の中でもかなり高度な部類に属するのだ。  話を「まじめな学生たち」のことに戻したい。ここで一つ、問題になるのは、「評価」だ。授業にまじめに出席してAをそろえることが、よい会社に就職することにつながると思い込んでいる。ほんとうにそれで就職が有利になるのなら、私は何も言うつもりはない。実際、理工系の学生などは、あいも変わらず、そんな入社選考をされているのかもしれない。そういう状況では、作戦上、まじめなふりをしてAをそろえるように図ればよい。ただし、自己成長の機会がそれだけでは不十分になるのなら、別途、独学やダブルスクール、その他もろもろの人生経験などによってその機会を確保しなければならない。こういう柔らかでしたたかなやり方が、あなたの主体性を防衛してくれるだろう。  しかし、一般的には、「企業の求める人材の一つの大きな要素は、まじめ、ということである」というのは、たんなる思い込みにすぎないのではないか。もっと企業経営者向きの本を読んでもらいたいが、ヒエラルキーの中でおとなしくできる人などというのは、企業の革新的経営のためには何の役にも立たないのだ。  もちろん、ほんとうのまじめとは、ヒエラルキーの中でおとなしくしていることとは違うだろう。でも、まじめと言われている人の実態は、これに近いと感じる。つまり、権威主義的で、形式を重んじ、エスタブリッシュメントに対しては依存的にふるまいがちな人なのである。  今後の会社は、自分の個性と意見が強いためにヒエラルキーでおとなしくなんかしていられない人、水平なネットワークの中でこそ、いきいきと自分を発揮できる人を求めるようになるだろう。もちろん、同族会社などの中には、社長の言うことをよく聞くまじめな人がいい、などという所もあるかもしれないが、そもそもそんな所は入社するあなたにとっては不幸だ。そういう会社の業績がこれから大幅にアップするとは、まあ考えられない(ただし、「革新的企業」の方も、組織である限り、多かれ少なかれヒエラルキーの中での役割遂行は必要になるから、甘い幻想は抱かないように。演技し、別途、自己の主体性を育もうとする主体性は、いずれにせよ必要だ)。 君の主体を問う  ここでは、自分への評価の実態を間違ってとらえている思い込みの例をあげたが、ほかにも、人間は根拠のない非主体的な思い込みのためにとても不幸になっている。本人も気づかないうちに、現代社会の一つの側面としての画一化や没個性の影響を受け、各人の認知構造が無自覚のうちに小さく固まってしまっているのだ。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。  そんな認知構造を自己変革するためには、主体性が必要だ。自己の主体性を社会や組織から自分で守り育てようとする主体性だから、私はそれを「メタ主体性」と呼びたい。ついでに言うと、それによって生まれる一人ひとりの個性を、私は「個の深み」と呼んでいる。「個の深み」とは、個人が組織や集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもって生きることである。また、個別化よりも積極的な価値づけをし、個人の「神聖さ」と「不可侵性」を主張する言葉でもある。あなたに「個の深み」が潜在、顕在のかたちで存在しているからこそ、あなたはあなたが「個人として尊重される」(憲法13条)べきことを自己主張できるのではないか。  このようにプライドをもって、あなたの学生生活を見つめなおしてみよう。その前に、あなたが人間であることについて質問しよう。「あなたは、なぜ生きているの?」。そして、学生であることについてだ。「あなたは、なぜ大学生をやっているの?」。あなたは答えられますか? よくある答えが、「生まれちゃったから生きている」「死ぬのが恐いから生きている」。学生をやっているのも、「まわりの人が、この大学がいいと言ったから」「気がついたら大学生だった」・・・。  もっと主体的に自分のことを認識しなおしてみないか。私たちは、幸せになるために生きているのだし、幸せになることを学ぶために、しかも「大きく学ぶ」ために、大学生をやっているのだ。私も、あるレクリエーションの講師が、社会教育職員を前にこの話をするのを聞くまで、正直言って、自分に対してそんな問いかけをしたことがなかったように思う。私たちのようなフツーの人は、つい、流されて生きてしまっているのだ。さらには、自分が幸せになるための条件の一つが、他人の幸せを思いやったり手伝ったりすることだ、ということに気づいたとき、個人と社会があなたの中でやっとまともにつながるのである。  「授業の楽しみ方」の一つの結論は、他人からはまじめには見えないかもしれないけれどもじつは主体的であるという、そういう授業の受け方をすることである。それは、主体的選択をした結果として、授業に臨むということである。自分にとって、その授業を受けるよりも、ある映画を見る方が有益であると判断するのなら、授業の方は単位を落とさない程度にごまかして、映画を見に行けばよい。そういう自己管理的(self-directed )な生き方のほうが、自分自身の学生生活の物足りなさを、カリキュラム、評価などのシステムや教員という他人などのせいにしてうじうじ悩む依存的な生き方よりも、よっぽどさわやかである。あなたが成人になるにつれて自己管理的学習(self-directed learning)ができるようにならないと、とても困ったことになってしまうのだ。  それから、ごくまれに、大学当局や教員に自分の学習要求を訴えて、授業そのものを改善させようとする「超主体的」な学生もいる。教員が何のかんの言わなくても、そういう学生は、そういう行動の中で、いろいろなことを自ら学んでしまう。責任感だって、そういう人には、あとからだってついてくるものだ。  ただ、授業は、自分だけのためにあるのではなく、それぞれの学習者のさまざまな「自分」の総体のためにあり、プラスアルファ(教員の専門的・主体的判断および教育権の発動)によって構成されるということは、認識しておいた方がよい。自分の学習要求さえさわやかに自己主張できれば、あなたの学習者としての責任は果たしたことになるのであって、それが実際の授業の改善に結びつかなかったからといって敗北感にひたってしまうのは身勝手であろう。  このような「超主体的」な学習態度はともかく、フツーの主体的な学習態度、すなわち自己管理的学習重視の観点から言えば、あなたが教室で座っているのは、あなたが次のように判断したからなのだといえる。「今、ここで、この学習をしたいから、ここに座っているのだ」。やっぱり時間の無駄だったと、途中で後悔しはじめたら、さっさと、しかし一生懸命授業を聞いている人の迷惑にならないように静かに、退出すればよい。ほんとうは、こういう態度こそまじめな学習態度というべきなのだ。 知のヒエラルキー vs ネットワーク  「○○教員は、○○という問題については、たいした見解をもっていない」と、教員批判をする学生がいる。私は思う、いいぞ、いいところまでいってる、と。ところが、そのあと、学生のタイプは2つに分かれてしまう。1つはグチを言っておしまいの人だ。せっかく、そこまできたのなら、もう一歩、踏み込んで実践したらどうだろうか。その教員に議論をふっかける、それでもその教員が物足りないと思ったら、違う大学の教員の授業にモグる。これが2つめのタイプだ。  実際、私も、何人かのモグリ学生を知っている。その一人は、勤労学生で、全国でも著名なある教授の数冊の本に傾倒して、半年ほどよその大学のその授業に出席していたが、今では、「やっぱり彼には限界がある」と言って聴講をやめてしまっている。もしかしたら、その教授はもっと深いものをもっているのかもしれない。それでもいいじゃないか。その学生が知の遍歴を一つ獲得したということが素晴らしいのである。  知の行動をしなければだめだ、何も出てこない。知は、ヒエラルキー的なところがあるから、それに反発する「生意気さ」も求められる。でも、他方で、知は水平なネットワーク的世界を有しているのだから、そこにきちんとアクセス(接近行動)してほしい。それは、あなたが自己管理できることであり、あなたの責任だ。  家族、学校、社会などのヒエラルキーによって、自分の主体性が根こそぎにされている、などということは、正答かもしれないけれど、それをいくら唱えてみたところで、あなたの主体性は回復できない。そのヒエラルキーを自分の目で見つめてみよう。そこからあなたが見いだしたものが、あなたにとっての真実なのだ。  「授業では、教師の言うことをおとなしく聞いていなければいけない。だって、それって当り前のことでしょ?」、そう言って、じつは現在の授業や大学や社会に不満を抱えている人がいる。この人の不幸は、最初の認識の誤りから出発している。ヒエラルキーから自明だとされていることは、すべて疑ってかかるべきだ。「自明のことねえ・・・、それほんとう?」と疑う精神が必要だ。「そうされてしまっている」というふうに逃げないで、自分が主体的に判断したことを行動の根拠にすべきだ。そういうあなたなら、日本国憲法が援護してくれるだろう。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第19条)、「学問の自由は、これを保障する」(第23条)。  私は、ネットワークの特性は自立と依存の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する依存関係に対しては自立が、従来の産業文明における個人の自立に対しては依存関係が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。  従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーへの合意がつくりあげられ、これが一定の安定をもたらした。しかし、ネットワークにおいては各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も一人ひとり違う。安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれるが、同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものである。  今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーなしでも喜んで生きていける力をもて、ということだと私は考える。  あなたの主体性は、生活や社会の一つひとつの場面で、抑圧されたり、表出したりすることになるだろう。その一つひとつが青年期のあなたにとっては重要だと感じられるのであろうが、じつは、そのとき抑圧されたことなどは大したことではない。だいいち、実際生活でいちいちくじけてはいられない。それよりも、主体性を自己管理するメタ主体性をあなたの内なる世界で育めるかどうかがかなめなのだ。ヒエラルキーがやること自体はあなたの責任ではない。あなたがヒエラルキーの逆機能の中でもネットワーク的に行動しようとできたかどうかが、あなたの責任なのである。  本節の最後に当り前だけれどもユニークな言葉を紹介しておきたい。それは、「過去と他人は変えられない」という言葉である。自分は、今の自分しか意識的には変えられないのだ。「昔、こうすればよかった」とか、「あの人がああいう人じゃなかったらよかったのに」とか、くよくよ思い悩んでもむだである。今、ここで、あなたがどう考えて、どう行動するか、が大切なのである。このことに関心がある人は、心理療法の一種である「交流分析」(TA=transactional analysis)を調べてみるとよい。 旧版 授業の楽しみ方  −自明性に「ちょっとまった」−          ver 2.0  400字×10枚=4000字 35字×30行×4ページ  実際             35字×30行×8ページ まじめな人の問題点  主体とは、「認識し、行為し、評価する我」である。このような主体性が、私には、あなたには、十分に備わっているだろうか。なんだか心もとない。  私は考える。「こうあるべき」という道徳律にきちんと従って生きているのは、外見からは主体性があるように見えるかもしれないけれど、必ずしも事実はそうではないのではないか。学生の分際なんだから、授業がつまらないと思っても教室でおとなしく座っているべきだ・・・、これって、ほんとに主体性なんだろうか。こうあるべき、と自らが認識したのならばそれでもよいだろう。でも、アバウトな言い方で恐縮だが、他者やメディアから長年のあいだに「認識」させられてしまっているだけの話なら、なんてつまらない人生なんだろう。根拠のない思い込みだと気づいたならば、そんな思い込みはやめようじゃないか。  こういうふうに書いていると、学生の読者はどう思ってこれを読んでいるのかな、と気になる。これも、私に確固たる主体性がない証拠なのかもしれないが・・・。それはともかく、いわゆるまじめな学生は、きっと不愉快に思っている人が多いだろう。  現に、私の授業も、まじめな学生から、「もっと体系的で役に立つ講義をしてくれ」とクレームがつくのである。私の授業は、一人ひとりが悩んでしまうような正答のないテーマのものが多いので、それを好む人もいるが、「まじめに教師の話を聞くことが、学習であり、学生の生き方である」という価値観を大切にしている人は、とくに最初のうちは私の授業に反発するようである。  もう一つのタイプは、アルバイト・サークル・レジャー重視型だ。そういう人たちは、本人の意識に関わらず、それなりの体験学習をしてしまっているわけだから、「そうだ、そうだ。学生が成長するのは、授業だけじゃないぜ」と冒頭の文章をのんきに読んでいたのかもしれない。たしかに、人間は、あらゆる場面において、社会から学習する。正解だ。でも、私は、そういう学生にも疑問をもっている。主体的にアルバイト、サークル、レジャーしている? そこから、ほんとに主体的に学習している? 認識や行為や評価を「してしまっている」あるいは「させられてしまっている」だけじゃないの?  たとえば、人間関係の技術を学習するには、サークルの運営に関わるとよいだろう。それ以上に対人恐怖が強い人は、ファースト・フードのアルバイトでもするとよい。対人恐怖のあなたでも、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」とか、場合によっては初対面のお客さんに会釈することさえできるようになるだろう。それは、漠とした精神論的な前提ではなく、サービス労働の部分に対してペイするという明瞭な前提が使用人側にあるので、あなたでも自然に役割演技できるようになるからなのだ。  そういうことが見えていないと、「うちのサークルの連中には責任感が足りない」とか「アルバイト先の店長が私の存在を認めてくれない」とか言って他人のせいにして悩んでいるだけで、非主体的態度は変容されないままということになる。サークルは、部活動と違って、やりたい人がやりたいときにやりたいことをやる場である。むしろ、責任感を他人に要求せずに集団をうまく運営することを学ぶ場なのである。また、アルバイトは、経営ヒエラルキーの一番底辺にいて、底辺にいるからこそ見えるものをきちんと見ていく場なのである。サークルでもアルバイトでも、必要な演技をしながら、見るべきものを見ることのできる人は、どこにいても主体的な学習・発達・成長ができるのだ。  ついでに言いたい。金欠型だ。そういう学生は、金がないからしたいこと(レジャーなど)ができない、と言う。ほんとうにそれがしたいの? やれたらいいな、と思い込まされているだけじゃないの? それから、ほんとうに金がないことが原因でできないの? 金がなくても、超一流のホテルのロビーは無料で使えるんだよ。そこでゆっくり本を読んだり、エグゼクティブたちを観察したりするのもいいんじゃないか。もし、追い出されたら、それもいい経験だ。この際、「自分はつねにあたたかく守られていなければいけない」という思い込みは捨てた方がいい。あたたかさは、社会の機構にではなく、友人や恋人や家族に求めていこうじゃないか。  少し古い話になるが、若者の気質が「四畳半主義」だと言われていたことがあった。下宿先の四畳半の世界だけが幸せに満ちていればよい、社会で貧困が生じ戦争が起ころうとも、自分の四畳半に影響しない限りは関心がない、という意味だ。今なら、さしずめマンションの「ワンルーム主義」といえるだろうか。  ここで、金欠型の人から、クレームがつくかもしれない。「私たちは、ワンルームマンションなんか住めないんだ」と。しかし、四畳半だろうが、ワンルームだろうが、あなたの人間としての成長の面からは、あまり関係はない。問題は、その生活空間にあなたがきちんと対峙しているかどうかである。  四畳半だけがよければよい? それはけしからん。もっと社会を見つめなければだめだ・・・。そういう大人もいるだろう。いや、私がもっと驚くのは、学生の中にそういうことを言う人がいるということだ。そう言って主体的に社会と関わろうとしている学生もいるのだが、そうではなく、社会に責任をもつ「べき」と言いながら、その強迫観念に悩み、自虐的、内向的になってしまっている学生も多い。自虐というのは、裏面では、他者や社会への責任転嫁や攻撃性を内包している。  主体性とは、べき論ではなく、自然体から発するものだと思う。四畳半主義でもいいじゃないか。そこにいる自分ともっとよくつきあってみたらどうか。たとえば、自己洞察なんていうのは少しでもできたとしたらすごいことで、学習成果の中でもかなり高度な部類に属するのだ。  話を「まじめな学生たち」のことに戻したい。ここで一つ、問題になるのは、「評価」だ。授業にまじめに出席してAをそろえることが、よい会社に就職することにつながると思い込んでいる。ほんとうにそれで就職が有利になるのなら、私は何も言うつもりはない。実際、理工系の学生などは、あいも変わらず、そんな入社選考をされているのかもしれない。そういう状況では、作戦上、まじめなふりをしてAをそろえるように図ればよい。ただし、自己成長の機会がそれだけでは不十分になるのなら、別途、独学やダブルスクール、その他もろもろの人生経験などによってその機会を確保しなければならない。こういう柔らかでしたたかなやり方が、あなたの主体性を防衛してくれるだろう。  しかし、一般的には、「企業の求める人材の一つの大きな要素は、まじめ、ということである」というのは、たんなる思い込みにすぎないのではないか。もっと企業経営者向きの本を読んでもらいたいが、ヒエラルキーの中でおとなしくできる人などというのは、企業の革新的経営のためには何の役にも立たないのだ。  もちろん、ほんとうのまじめとは、ヒエラルキーの中でおとなしくしていることとは違うだろう。でも、まじめと言われている人の実態は、これに近いと感じる。つまり、権威主義的で、形式を重んじ、エスタブリッシュメントに対しては依存的にふるまいがちな人なのである。  今後の会社は、自分の個性と意見が強いためにヒエラルキーでおとなしくなんかしていられない人、水平なネットワークの中でこそ、いきいきと自分を発揮できる人を求めるようになるだろう。もちろん、同族会社などの中には、社長の言うことをよく聞くまじめな人がいい、などという所もあるかもしれないが、そもそもそんな所は入社するあなたにとっては不幸だ。そういう会社の業績がこれから大幅にアップするとは、まあ考えられない(ただし、「革新的企業」の方も、組織である限り、多かれ少なかれヒエラルキーの中での役割遂行は必要になるから、甘い幻想は抱かないように。演技し、別途、自己の主体性を育もうとする主体性は、いずれにせよ必要だ)。 君の主体を問う  ここでは、自分への評価の実態を間違ってとらえている思い込みの例をあげたが、ほかにも、人間は根拠のない非主体的な思い込みのためにとても不幸になっている。本人も気づかないうちに、現代社会の一つの側面としての画一化や没個性の影響を受け、各人の認知構造が無自覚のうちに小さく固まってしまっているのだ。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。  そんな認知構造を自己変革するためには、主体性が必要だ。自己の主体性を社会や組織から自分で守り育てようとする主体性だから、私はそれを「メタ主体性」と呼びたい。ついでに言うと、それによって生まれる一人ひとりの個性を、私は「個の深み」と呼んでいる。「個の深み」とは、個人が組織や集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもって生きることである。また、個別化よりも積極的な価値づけをし、個人の「神聖さ」と「不可侵性」を主張する言葉でもある。あなたに「個の深み」が潜在、顕在のかたちで存在しているからこそ、あなたはあなたが「個人として尊重される」(憲法13条)べきことを自己主張できるのではないか。  このようにプライドをもって、あなたの学生生活を見つめなおしてみよう。その前に、あなたが人間であることについて質問しよう。「あなたは、なぜ生きているの?」。そして、学生であることについてだ。「あなたは、なぜ大学生をやっているの?」。あなたは答えられますか? よくある答えが、「生まれちゃったから生きている」「死ぬのが恐いから生きている」。学生をやっているのも、「まわりの人が、この大学がいいと言ったから」「気がついたら大学生だった」・・・。  もっと主体的に自分のことを認識しなおしてみないか。私たちは、幸せになるために生きているのだし、幸せになることを学ぶために、しかも「大きく学ぶ」ために、大学生をやっているのだ。私も、あるレクリエーションの講師が、社会教育職員を前にこの話をするのを聞くまで、正直言って、自分に対してそんな問いかけをしたことがなかったように思う。私たちのようなフツーの人は、つい、流されて生きてしまっているのだ。さらには、自分が幸せになるための条件の一つが、他人の幸せを思いやったり手伝ったりすることだ、ということに気づいたとき、個人と社会があなたの中でやっとまともにつながるのである。  「授業の楽しみ方」の一つの結論は、他人からはまじめには見えないかもしれないけれどもじつは主体的であるという、そういう授業の受け方をすることである。それは、主体的選択をした結果として、授業に臨むということである。自分にとって、その授業を受けるよりも、ある映画を見る方が有益であると判断するのなら、授業の方は単位を落とさない程度にごまかして、映画を見に行けばよい。そういう自己管理的(self-directed )な生き方のほうが、自分自身の学生生活の物足りなさを、カリキュラム、評価などのシステムや教員という他人などのせいにしてうじうじ悩む依存的な生き方よりも、よっぽどさわやかである。あなたが成人になるにつれて自己管理的学習(self-directed learning)ができるようにならないと、とても困ったことになってしまうのだ。  それから、ごくまれに、大学当局や教員に自分の学習要求を訴えて、授業そのものを改善させようとする「超主体的」な学生もいる。教員が何のかんの言わなくても、そういう学生は、そういう行動の中で、いろいろなことを自ら学んでしまう。責任感だって、そういう人には、あとからだってついてくるものだ。  ただ、授業は、自分だけのためにあるのではなく、それぞれの学習者のさまざまな「自分」の総体のためにあり、プラスアルファ(教員の専門的・主体的判断および教育権の発動)によって構成されるということは、認識しておいた方がよい。自分の学習要求さえさわやかに自己主張できれば、あなたの学習者としての責任は果たしたことになるのであって、それが実際の授業の改善に結びつかなかったからといって敗北感にひたってしまうのは身勝手であろう。  このような「超主体的」な学習態度はともかく、フツーの主体的な学習態度、すなわち自己管理的学習重視の観点から言えば、あなたが教室で座っているのは、あなたが次のように判断したからなのだといえる。「今、ここで、この学習をしたいから、ここに座っているのだ」。やっぱり時間の無駄だったと、途中で後悔しはじめたら、さっさと、しかし一生懸命授業を聞いている人の迷惑にならないように静かに、退出すればよい。ほんとうは、こういう態度こそまじめな学習態度というべきなのだ。 知のヒエラルキー vs ネットワーク  「○○教員は、○○という問題については、たいした見解をもっていない」と、教員批判をする学生がいる。私は思う、いいぞ、いいところまでいってる、と。ところが、そのあと、学生のタイプは2つに分かれてしまう。1つはグチを言っておしまいの人だ。せっかく、そこまできたのなら、もう一歩、踏み込んで実践したらどうだろうか。その教員に議論をふっかける、それでもその教員が物足りないと思ったら、違う大学の教員の授業にモグる。これが2つめのタイプだ。  実際、私も、何人かのモグリ学生を知っている。その一人は、勤労学生で、全国でも著名なある教授の数冊の本に傾倒して、半年ほどよその大学のその授業に出席していたが、今では、「やっぱり彼には限界がある」と言って聴講をやめてしまっている。もしかしたら、その教授はもっと深いものをもっているのかもしれない。それでもいいじゃないか。その学生が知の遍歴を一つ獲得したということが素晴らしいのである。  知の行動をしなければだめだ、何も出てこない。知は、ヒエラルキー的なところがあるから、それに反発する「生意気さ」も求められる。でも、他方で、知は水平なネットワーク的世界を有しているのだから、そこにきちんとアクセス(接近行動)してほしい。それは、あなたが自己管理できることであり、あなたの責任だ。  家族、学校、社会などのヒエラルキーによって、自分の主体性が根こそぎにされている、などということは、正答かもしれないけれど、それをいくら唱えてみたところで、あなたの主体性は回復できない。そのヒエラルキーを自分の目で見つめてみよう。そこからあなたが見いだしたものが、あなたにとっての真実なのだ。  「授業では、教師の言うことをおとなしく聞いていなければいけない。だって、それって当り前のことでしょ?」、そう言って、じつは現在の授業や大学や社会に不満を抱えている人がいる。この人の不幸は、最初の認識の誤りから出発している。ヒエラルキーから自明だとされていることは、すべて疑ってかかるべきだ。「自明のことねえ・・・、それほんとう?」と疑う精神が必要だ。「そうされてしまっている」というふうに逃げないで、自分が主体的に判断したことを行動の根拠にすべきだ。そういうあなたなら、日本国憲法が援護してくれるだろう。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第19条)、「学問の自由は、これを保障する」(第23条)。  私は、ネットワークの特性は自立と依存の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する依存関係に対しては自立が、従来の産業文明における個人の自立に対しては依存関係が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。  従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーへの合意がつくりあげられ、これが一定の安定をもたらした。しかし、ネットワークにおいては各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も一人ひとり違う。安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれるが、同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものである。  今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーなしでも喜んで生きていける力をもて、ということだと私は考える。  あなたの主体性は、生活や社会の一つひとつの場面で、抑圧されたり、表出したりすることになるだろう。その一つひとつが青年期のあなたにとっては重要だと感じられるのであろうが、じつは、そのとき抑圧されたことなどは大したことではない。だいいち、実際生活でいちいちくじけてはいられない。それよりも、主体性を自己管理するメタ主体性をあなたの内なる世界で育めるかどうかがかなめなのだ。ヒエラルキーがやること自体はあなたの責任ではない。あなたがヒエラルキーの逆機能の中でもネットワーク的に行動しようとできたかどうかが、あなたの責任なのである。  本節の最後に当り前だけれどもユニークな言葉を紹介しておきたい。それは、「過去と他人は変えられない」という言葉である。自分は、今の自分しか意識的には変えられないのだ。「昔、こうすればよかった」とか、「あの人がああいう人じゃなかったらよかったのに」とか、くよくよ思い悩んでもむだである。今、ここで、あなたがどう考えて、どう行動するか、が大切なのである。このことに関心がある人は、心理療法の一種である「交流分析」(TA=transactional analysis)を調べてみるとよい。