社会学の情報(図書・資料)へのアクセス  −ネットワーク型のすすめ−            ver 2.0 過去の知の重力圏からの脱出  大学において講義はどのように位置づけられているか。その現在の到達点として、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)があげられる。本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。  そこでは、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。  教室の座席におとなしく座っていれば体系的な知識が身につくというのは、大きな思い違いなのだ。私は講義を話し言葉メディアとしてとらえる。このメディアを通した講義は、学生個人の認知構造の方向性と違うベクトルからのショックを無理やりでも与えることができるから、他のメディアにはない役割をもちうるのであって、こまごました知識や体系的な知識を覚え込むのには適していないのである。  書き言葉メディアのメリットとしては、その逆が成り立ちそうである。自分の好みにあった書物を、感情移入したり、筆者の理論構築に同化したりしながら読み進めていく。そうすると、自然に、自己の思想も理論武装されるし、深化していく。そして、気になる情報は繰り返し読んで(再生可能)覚えることもできるし、そうこうしているうちに、筆者の膨大で複雑な知識体系も自己の頭の中にコピーされていく。話し言葉メディアで、聴衆の一人ひとりの進度に対応してそんなことをしていたら、効率が悪すぎるのだ。  あなたが、本は読まずに講義ばかり聞いて楽しいと思っているのならかまわないが、そういう場合は、「いったい私に何が身についたんだろう」とは悩まないことだ。さまざまな教員の多種多様な考え方に接しているうちに、あなたの中にきっと知的柔軟性が育っていることだろう。それでよしとすべきであって、知識やその体系が身につかなかったからといって、それを講師の力量不足のせいにするのは、依存的で身勝手である。学習効果は、利用するメディアのそれぞれの特性によって異なってくるのであるから。  このように考えると、書き言葉は、話し言葉にはないメリットをもっていることがわかる。しかし、そのメリットは、裏返せば「危険性」にもなる。その1つは、度量の狭い教条主義に陥る危険だ。自分の思考に都合のよい本しか読まなくてもすむから、極端な例では、「○○年から○○年までの○○さんの書いた本しか読まない」ということになる。筆者にとっては、いい迷惑である。筆者も成長しているのだ。懐古趣味的な読書は、知の発展の妨げになる。たとえ古典であっても、現代的な問題意識をもって読むことこそ、主体的な読み方といえる。現代の本であるなら、読者は、筆者との水平で同時代的な知的世界をつくりあげて、評論的に読まなければならない。  もちろん、この危険は、話し言葉メディアである講義にも、ときどき見られる。自己の堅固な理論に学生が盲信的に従属することを前提として教員が講義を進める場合と、学生がそういう講義を望んで勝手に教員をそういう偶像にしたてて奉ってしまう場合である。  本にせよ、講義にせよ、人間がつくりだしてきた知は、たとえそれが叡智であっても、過渡的なものであることには変わりない。信仰すべき神ではないのだ。この「信仰」が進むと、初版本を憧憬したりする傾向にまで至る。これでは完璧な「物神化」である。気持ちはわかるが、知的な意味ではけっして他人に堂々と見せられるような姿ではないので注意したほうがいい。  とくに書き言葉を読むときは、なおさら自分好みのものにかたよりがちになる。拾い読みで、自分の好きな所だけ読むことだってできてしまうからだ。しかし、そういうことでは、自分の認知構造を変えるという主体的な学習からは遠ざかってしまい、狭い考え方に固執する結果になる危険性が大きい。  2つめの危険は、小学校以来の試験対策型の読書態度だ。書き言葉が繰り返し可能で知識の記憶に向いているからこそ、本が暗記の道具として使われてきた。しかし、本来の知は、盲信的に覚え込むことではない。覚える以前に、あなた自身の納得というプロセスが大切なのだ。あなたの受験技術としての本の活用能力は、資格試験などでは、今後も発揮していただきたいが、大学生としての読書は、もっと自立した知的好奇心にあふれたものであってほしい。  そのためには、私は次のように言いたい。記憶装置なんかになるな。記憶媒体の記憶量は、想像を絶するものだ。フロッピー、ハードディスク、そしてCDロム・・・。人間であるあなたに何が求められるかというと、それらと記憶能力を競うことではなく、それらを活用する能力である。リテラシーとは、読み書きの能力のことであるが、今はメディア・リテラシーが求められている。  そして、あなたが記憶しておくべきことは、所在情報であったり、情報源情報であったりする。あることについて、どの本を見れば、どのような側面から、知ることができるか。あるいは、どの本を見ればいいかさえわからない場合は、どういうことについては、どういう本、人、機関に問い合わせれば、情報のある所や本を教えてくれるのか。この2つである。  後者は、本で言えば、参考図書の一つということになる。学習参考書のことではない。参考図書とは図書館の用語だ。参考図書は第1に、内容面では、二次的な情報を記録している。オリジナリティを有する一次的(primary )な情報を加工ないし再編成しているのだ。第2に、形式面では、項目見出しを立て、それらを一定の配列方針にしたがって編成している。第3に、形態面では、冊子形態の図書であり、参照が容易である(後掲「情報と文献の探索」)。たとえば、国語辞典なども参考図書の一つだ。参考図書は、探索のための道具(トゥール)として有効だから、活用能力を身につけておくとよい。  さらに凝り性の人は、長澤雅男「情報と文献の探索」(丸善)を読むとよい。「ルームクーラーが始めて売り出されたのは何年ごろか」などという質問の回答を、最適の参考図書を使って、システマティックに見いだすことができるようになる。図書館司書の秘術をちょっと分けてもらったような気分になることだろう。 本の私有と共有の方法  さて、次は、本の私有、つまり本を買うことについてだ。自分の研究に関わる本なら、高くても買うしかないだろう。専門書は発行部数が少ない。だから高い。しかも、古本屋などで見つけるのも難しい。いさぎよく新本で買うことだ。  私有ということは、自分のものになるということだから(当り前だが)、ラインを引いたり、疑問や触発されたアイデアをそのページの余白に書き込むことができる。それは、筆者とあなたのオリジナルな知的共同創造物だ。それがカッチリと1冊にまとまった本というのは、メディアとしての使いやすさの点から言って、けっこう理想に近い形態だと思う。形式的な卒業証書なんかよりよっぽど貴重なメモリアルにもなるだろう。  それから、私有したら、機会を見つけてその著者に話しかけるといい。そして、1か所でいいから、自分が気に入った所、疑問に思った所を具体的に言ってあげる。すると、あなたより何十歳も上の人でもいっぺんに相好を崩してしまうことだろう。礼儀正しい挨拶や年賀状などより、よっぽど嬉しいものだ。そういうことからも、やっぱり知はヒエラルキーではなく水平なネットワークなんだな、と感じる。  もう一つの私有方法は、古本を買うことだ。とくに文庫本の中古は、この数十年、ものすごい安さではないか。3冊で100 円なんていうのも珍しくない。しかも、そういう所に並んでいる本はよく売れた本が多いから、けっこうオーソドックスな所をおさえることができる。ざっと選んだとしても、新本では見逃していた自分のニーズにマッチした本が、10冊のうち1冊はあるから、それだけでも大儲けだ。  昔の大学は巷にあった。そして、大学のまわりには安い飲み屋や喫茶店のほかに古本屋がいっぱいあった。しかし、今の大学はそういう環境にはない所が多いので残念に思う。自然環境なんかがよくても学生生活にはあまり関係ないのだ。それよりも、何時間も粘って青臭い議論ができる飲食店や、活字の世界をこころゆくまで渡り歩くことのできる古本屋街こそ必要だ。そういうわけで、ここでは東京の古本屋街をいくつか紹介しておく。太字で書かれた書店に行くと、それぞれの店の特徴などを紹介した『本の街』という小冊子を無料でもらえる。  本の共有については、何といっても図書館の利用だ。私の知り合いのビジネスマンは、新居を決めるときにその近隣の公共図書館の蔵書数を調べていた。自分の業界に関連した本を数冊読めば一生それで足りる、なんていう昔の考え方では、仕事だっておもしろくない。自分が読みたくなった本をリアルタイムに提供してくれる頼もしい施設が図書館である。その設置と運営のためのお金は、あなたやあなたの保護者が払っているのだから、図書館の本はあなたを含めた人たちの共有物だ。  図書館のことで、多くの人が知らない大切なことの一つとして、「選書」がある。もちろん、国内のすべての刊行物を購入するのが理想かもしれないが、そんなことはスペース的にも予算的にもできない。どうするかというと、本の専門家である図書館司書が、「いい本」を選び抜いて購入するのである。だから、逆に言うと、一定のテーマについては一定の水準以上の本を揃えている。しかも、基本的には、右から左までのそれぞれの立場の代表的なものを選ぶのである。図書館の選書結果をあまり信じすぎるのも問題だが、参考にはなる。少なくとも「普通の役人が買う本を決めているのかな」とか「よく売れている本を選んでいるのかな」というような誤解はなくしておいたほうがよい。  それから、図書館にはレファレンスサービスというものがある。これは、「何らかの情報あるいは情報源を求めている利用者に対して行われる、図書館員による人的援助およびそれに直接関わりのある諸業務」である(前掲「情報と文献の探索」)。さきほどの探索トゥールなどを知り抜いた図書館司書が、あなた個人の情報要求に対応してくれるのである。  レファレンスサービスは図書館の基本的機能の一つである。あなたと、あなたが望む資料とを、図書館が結んでくれるのだ。学校などで一つの宿題が出ると子どもたちの同じ質問が近くの公共図書館にどっと押し寄せるが、司書はそれでもにこやかに対応している。でも、あなたは、できるだけ自分で調べた上で、どうしてもわからないことを焦点化して司書に質問してみてほしい。そのほうがあなたの知的主体性のためにもよいし、司書のレファレンス能力も十分に発揮してもらえるのである。  また、最近では、図書館ネットワークが一段と強調されるようになってきた。これは、コンピュータや配送車を利用して、どこの図書館に行っても、他の図書館の本の所在を調べたり取り寄せてもらったりすることができるシステムだ。どうしても本がなければ、基本的には、国立国会図書館にまでその所在を調べてもらうことができる(図書館法第3条の4)。  ところが、あなたの家の近くの図書館が、こういう状態にはなっていない可能性もある。司書がいない館だってある。私も、近くの図書館で、「うちは人員が少ないためレファレンスサービスはやっていません」と言われて驚いたことがある。あなたは、今はまだ、近くの図書館がそのどちらであるかもわかっていないかもしれない。そうであれば、ぜひ、調べてみてほしい。そして、あなたがそこに不備を感じたならば、それなりの蔵書構成、館内サービス、ネットワークサービスなどを要求しておいてほしい。それは、知のネットワーカーの最低限の義務である。その地域での住民のための知的拠り所自体が貧困であるなどということはとても恐ろしいことだと感じることのできるセンスがあなたにも求められている。 電子化された情報・映像化された情報  活字の次は、電子化された文字情報だ。ここで、パソコン通信の意義について強調しておきたい。  ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ」という趣旨の発言をしている。たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって単純にパソコン通信の可能性を軽視する考え方には、異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。  情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、書き言葉文化の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない「知的試練」としてとらえるべきである。学生の知的主体性による書き言葉文化の盛り上りを期待する次第だ。  パソコン通信によるコミュニケーションの特徴を表す言葉として、私はMAZE(迷路)というキーワードをつくっている。パソコン通信のほとんどの記事の内容が、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。しかもそれぞれが数行の簡単な書き込みで気軽に(イージー)やりとりされている。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。  このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。  パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の可能性が生まれつつある。  情報は、もともとMAZEだ。誰かがあなたのためにきちんと整理された情報を持ってきてくれるわけではない。たとえそんな整えられた情報があるとしても、それは、えてして古くさい役立たずの情報である。そして、情報は、GIVE(発信)するからこそTAKE(受信)できる。ネットワークの精神そのものである。情報のネットワークはあなたに主体性を求めている。  しかし、映像情報のほうも、これからの若い世代は研究のための有効活用ができるようになるかもしれない。ビデオテープの利用なら手慣れたものであろうし、さらに、レーザーディスクをコンピュータと組み合わせて、必要な場面にリアルタイムにアクセスできるようにする(インタラクティブ・ビデオ)などということも考えられる。  社会学研究の観点からの映像資料の課題としては、第1に、消え去っていくものを早急に記録することと、つくられた映像記録をその場限りのものとしないことである。社会学的に関心のある社会事象も、その場限りで消え去っていく。映像の場合、記録するのはその時しかない。また、放送などによる映像も、放映後では、放送局でさえきちんと保管していないことが多い。  第2に、映像のもつ特性に応じた整理をすることである。主要な画面の指定をどのように行うか。複数の映像をどのような共通フォーマットで総合的に把握するか。映像の画像は見る側の視点によって意味が異なる総合的な情報であって、しかもその画像が時間の流れを伴っているので、これらの問題は単純ではない。  第3には、映像には複雑な著作権がからむので、それにきちんと対応するということである。映像は、映画製作者の権利だけではなく、言語、実演、音楽、写真、絵画、図形、他の映画、コンピュータプログラムなどに関わる多くの著作権を発生させうる。ところが、実際には、映画製作者名のクレジットさえ画面に出てこない放送番組なども多く、対処に困ることがある。 情報とストロークの発信  本節の最後に、社会学の情報、しかも、あなたがもっともほしい情報を得るためにはどうすればよいか、私見を述べたい。それは、know-what よりもknow-howを、そして、know-howよりも、know-whoをということである。  公式やデータを暗記するようなことは、高等教育(大学)になったらもうほとんどないと思ったほうがよい。それよりも、社会学的真実をどうとらえるかについて、さまざまな情報と接することによってあなた自身の目を養わなければならない。それが、know-howだ。さらに、そこでつまずくこともある。そのとき、頼りになるのは他人の意見、批判、アイデアだ。どの人がどういうことを言ってくれるか。その他人とのコミュニケーションの力を含めて、know-whoだ。レポートなどでは、まだ世の中では書かれていない情報をこそ得たいと思うだろうから、そういうときはknow-whoが最後の武器になる。  このknow-whoの能力は、ネットワーク社会でもっとも求められるものでありながら、現代学生がかなり不得意としているところなのではないか。know-whoには、知的主体性を含めた人間としての全面的な主体性が必要とされるのだ。自らも情報を発信しなければならないし、それ以前に、ストロークを相手に与えられなければ人間関係もつくることができない。  ストロークとは、「交流分析」(TA=transactional analysis)の言葉である。相手をほめる言葉や、スキンシップ、まなざし、うなずき、傾聴などによって、相手の存在や価値を認めるようなすべての働きかけをストロークと呼ぶ。ストロークには法則がある。それは、「貧しい者はさらに貧しくなり、富める者はますます富をます」という法則である。あいさつをしようと思っても、もしかするとそっぽを向かれて自分のほうが傷つくかもしれないことを恐れて他者にストロークを与えない人には、いつまでも愛が貯まらない。その上、自分が人間交流から疎外されていることを周りのせいにして恨んだり、自分や他人を信頼できないままに人生を過ごしていったりすることになる。  しかし、ここに一つの明るい展望がある。すべての人間が、心の底ではあくまでもストロークを求め続ける存在であるということである。この願望は、その人にとっては、そのときは、つらく作用することもあるだろうが、その問題の自己解決のためには、内なる確かなエネルギー源になる。そもそも、情報発信、ストロークなど、心底からしたくないという根っからの精神的ケチなどはいないのではないか。  問題は、情報やストロークの出し方を知らないだけ、受容された経験がないだけなのではないか。そういういわば「コミュニケーション技術」の学習は、残念ながらあまり経験がなかった。情報を一方的に与えられること、それを型に当てはめて処理することはあっても、自分から自分らしい情報を発信する技術の学習は、あまりしてこなかったのである。そうならば、これからそういう経験をすればよい。ただし、ヒエラルキーの中での役割遂行としての情報発信やストロークだけでは、主体的な活動にはならない。各人が水平なネットワークの中で、自己と他者への基本的信頼に基づいて、あるがままに自己を発信すること、そしてそれが他者から受容される経験をもつことが、情報発信能力や主体性を獲得する手段なのである。  このような情報やストロークの発信ができるようになれば、know-whoがあなたの身につき、know-howやknow-what もそれにしたがって豊かなものになってくるだろう。しかし、繰り返すが、それは待ち望んでいるだけではやってこない。情報ネットワークは、あなたに、主体性の発揮をきびしく要請するのである。 旧版 社会学の情報(図書・資料)へのアクセス  −ネットワーク型でいこう−            ver 1.0 過去の知の重力圏から抜け出よう  大学において、講義は、どのように位置づけられているか。その現在の到達点として、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)があげられる。本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。  そこでは、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。  教室の座席におとなしく座っていれば、体系的な知識が身につくというのは、大間違いなのだ。私は講義を話し言葉メディアとしてとらえる。このメディアを通した講義は、学生個人の認知構造の方向性と違うベクトルからのショックを無理やり与えることができるから、他のメディアにはない役割をもちうるのであって、こまごました知識や体系的な知識を受動的に覚え込むのには、講義は適していないのである。  書き言葉メディアのメリットとしては、その逆が成り立ちそうである。自分の好みにあった書物を、感情移入したり、筆者の理論構築に同化したりしながら、読み進めていく。そうすると、自然に、自己の思想も理論武装されるし、深化していく。そして、気になる情報は、繰り返し読んで(再生可能)覚えることもできるし、そうしているうちに、筆者の膨大で複雑な知識体系も自己の頭の中にコピーされる。話し言葉メディアで、聴衆の一人ひとりの進度に対応して、そんなことをしていたら、生産性が悪すぎるのだ。  あなたが、本は読まずに、講義ばかり聞いて、楽しいと思っているのならかまわないが、そういう場合は、「いったい私に何が身についたんだろう」とは悩まないことだ。さまざまな教員の多種多様な考え方に接しているうちに、あなたの中にきっと知的柔軟性が育っていることだろう。それでよしとすべきであって、知識やその体系が身につかなかったからといって、それを講師の力量不足のせいにするのは、依存的でわがままである。学習効果は、利用するメディアのそれぞれの特性によって異なってくるのであるから。  このように考えると、書き言葉は、話し言葉にはないメリットをもっていることがわかる。しかし、そのメリットは、裏返せば「危険性」にもなる。その1つは、度量の狭い教条主義に陥る危険だ。自分の思考に都合のよい本しか読まなくてもすむから、極端な例では、「○○年から○○年までの○○さんの書いた本しか読まない」ということになる。筆者にとっては、いい迷惑である。筆者も成長しているのだ。懐古趣味的な読書は、知の発展の妨げになる。たとえ古典であっても、現代的な問題意識をもって読むことこそ、主体的な読み方といえる。現代の本であるなら、読者は、筆者との水平で同時代的な知的世界をつくりあげて、評論的に読まなければならない。  もちろん、この危険は、話し言葉メディアである講義にも、ときどき見られる。教員が自己の堅固な理論に学生が盲信的に従属することを前提として講義を進める場合と、学生がそういう講義を望んで勝手に教員をそういう偶像にしたてて奉ってしまう場合である。  本にせよ、講義にせよ、人間がつくりだしてきた知は、たとえそれが叡智であっても、過渡的なものであることには変わりない。信仰すべき神ではないのだ。この「信仰」が進むと、初版の本を憧憬したりする傾向にまで至る。これでは完璧な「物神化」である。気持ちはわかるが、知的な意味ではけっして他人に堂々と見せられるような姿ではないので、注意したほうがいい。  とくに書き言葉を読むときは、自分好みのものにかたよりがちになる。拾い読みで、自分の好きな所だけ読むことだってできてしまうからだ。しかし、そういうことでは、自分の認知構造を変えるという主体的な学習からは遠ざかってしまい、狭い考え方に固執する結果になる危険性が大きい。  2つめの危険は、小学校以来の試験対策型の読書態度だ。書き言葉が繰り返し可能で知識の記憶に向いているからこそ、本が暗記の道具として使われてきた。しかし、本来の知は、盲信的に覚え込むことではない。覚える以前に、あなたの納得というプロセスが大切なのだ。あなたの受験技術としての本の活用能力は、資格試験などでは、今後も発揮していただきたいが、大学生としての読書は、もっと知的好奇心にあふれたものであってほしい。  そのためには、私は次のように言いたい。記憶装置なんかになるな。記憶媒体の記憶量は、想像を絶するものだ。フロッピー、ハードディスク、そしてCDロム・・・。人間であるあなたに何が求められるかというと、それらと競うことではなく、活用する能力である。リテラシーとは、読み書きの能力のことであるが、今はメディア・リテラシーが求められている。  そして、あなたが記憶しておくべきことは、所在情報であったり、情報源情報であったりする。あることについて、どの本を見れば、どのような側面から、知ることができるか。あるいは、どの本を見ればいいかさえわからない場合は、どういうことについては、どういう本、人、機関に問い合わせれば、情報のある所や本を教えてくれるのか。この2つである。  後者は、本で言えば、参考図書の一つということになる。学習参考書のことではない。図書館の用語だ。参考図書は第1に、内容面では、二次的な情報を記録している。オリジナリティを有する一次的(primary )な情報を加工ないし再編成しているのだ。第2に、形式面では、項目見出しを立て、それらを一定の配列方針にしたがって編成している。第3に、形態面では、冊子形態の図書であり、参照が容易である(後掲「情報と文献の探索」)。たとえば、国語辞典なども参考図書の一つだ。参考図書は、探索のための道具(トゥール)として有効だから、活用能力を身につけておくとよい。  さらに凝り性の人は、長澤雅男「情報と文献の探索」、丸善発行、を読むとよい。「ルームクーラーが始めて売り出されたのは何年ごろか」などという質問の解答を、最適の参考図書を使って、システマティックに見いだすことができるようになる。図書館司書の秘術をちょっと分けてもらったような気分になることだろう。 本の私有と共有の方法  さて、次は、本の私有、つまり本を買うことについてだ。自分の研究に関わる本なら、高くても買うしかないだろう。専門書は、発行部数が少ない。だから高い。しかも、古本屋などで見つけるのも難しい。いさぎよく新本で買うことだ。  私有ということは、当り前だが、自分のものになるということだから、ラインを引いたり、疑問や触発されたアイデアをそのページの余白に書き込むことができる。それは、筆者とあなたのオリジナルな知的共同創造物だ。それがカッチリと1冊にまとまった本というのは、メディアとしての使いやすさの点から言って、けっこう理想に近い形態だと私は思っている。形式的な卒業証書なんかよりよっぽど貴重なメモリアルにもなるだろう。  それから、私有したら、機会を見つけて、その著者に話しかけるといい。そして、1箇所でいいから、自分が気に入った所、疑問に思った所を、具体的に言ってあげる。すると、あなたより何十歳も上の人でも、いっぺんに相好を崩すことだろう。礼儀正しい挨拶や年賀状などより、よっぽど嬉しいものだ。そういうとき、私は、やっぱり知はヒエラルキーではなく水平なネットワークなんだな、と感じる。  もう一つの私有方法は、古本を買うことだ。とくに文庫本の中古は、この数十年、ものすごい安さではないか。3冊で100 円なんていうのも珍しくない。しかも、そういう所に並んでいる本はよく売れた本だから、けっこうオーソドックスな所をおさえることができる。ざっと選んだとしても、新本では見逃していた自分のニーズにマッチした本が、10冊のうち1冊はあるから、それだけでも大儲けだ。  本の共有については、何といっても図書館の利用だ。私の知り合いのビジネスマンは、新居を決めるときにその近隣の公共図書館の蔵書数を調べていた。自分の業界についての本が数冊あれば、一生それで足りる、なんていう昔の考え方では、仕事だっておもしろくない。自分が読みたくなった本をリアルタイムに提供してくれる頼もしい施設が図書館である。その設置と運営のためのお金は、あなたやあなたの保護者が払っているのだから、図書館の本はあなたを含めた人たちの共有物だ。  図書館のことで、多くの人が知らないことの一つとして、「選書」がある。もちろん、国内のすべての刊行物を購入するのが理想かもしれないが、そんなことは予算的にできない。どうするかというと、本の専門家である図書館司書が、「いい本」を選び抜いて購入するのである。だから、逆に言うと、あるテーマについてはある水準以上の本を揃えている。しかも、基本的には、右から左までのそれぞれの立場の代表的なものを選ぶのである。図書館の選書結果をあまり信じすぎるのも問題だが、参考にはなる。少なくとも「普通の役人が買う本を決めているのかな」とか「よく売れている本を選んでいるのかな」という誤解はなくしておいたほうがよい。  それから、図書館にはレファレンスサービスというものがある。これは、「何らかの情報あるいは情報源を求めている利用者に対して行われる、図書館員による人的援助およびそれに直接関わりのある諸業務」である(前掲「情報と文献の探索」)。さきほどの探索トゥールなどを知り抜いた図書館司書が、あなた個人の情報要求に対応してくれるのである。  レファレンスサービスは、図書館の基本的機能の一つである。あなたと、あなたが望む資料とを、図書館が結んでくれるのだ。学校などである宿題が出ると子どもたちの同じ質問が近くの公共図書館にどっと押し寄せるが、司書はそれでもにこやかに対応している。でも、あなたは、できるだけ自分で調べた上で、どうしてもわからないことを、焦点化して司書に質問してみてほしい。そのほうが、あなたの知的主体性のためにもよいし、司書のレファレンス能力も十分に発揮してもらえるのである。  また、最近では、図書館ネットワークが一段と強調されるようになっている。これは、コンピュータや配送車を利用して、どこの図書館に行っても、他の図書館の本の所在を調べたり、取り寄せてもらったりすることができるシステムだ。どうしても本がなければ、基本的には、国立国会図書館にまで、その所在を調べてもらうことができる(図書館法第3条の4)。  ところが、あなたの家の近くの図書館が、こういう状態にはなっていない可能性もある。司書がいない所だってある。私も、近くの図書館で、「うちは人員が少ないためレファレンスサービスはやっていません」と言われて驚いたことがある。あなたは、今はまだ、そのどちらかもわかっていないかもしれない。ぜひ、調べてみてほしい。そして、あなたがそこに不備を感じたならば、それなりの蔵書構成、館内サービス、ネットワークサービスなどを要求しておいてほしい。それは、知のネットワーカーの最低限の義務である。その地域では住民のための知的拠り所自体が貧困であるなどということは、恐ろしいことだと感じるセンスがあなたにもなければならない。 電子化された情報・映像化された情報  活字の次は、電子化された文字情報だ。私は、パソコン通信の意義について、強調しておきたい。  ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ」という趣旨の発言をしている。たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって、単純にパソコン通信の可能性を軽視する考え方には、私は異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。  情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、書き言葉文化の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない「知的試練」としてとらえるべきである。学生の知的主体性による書き言葉文化の盛り上りを期待する次第だ。  パソコン通信によるコミュニケーションの特徴として、MAZE(迷路)ということがあげられる。ほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。しかも気軽に(イージー)やりとりが行われている。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。  このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。  パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の可能性が生まれつつある。  情報は、もともとMAZEだ。誰かがあなたのためにきちんと整理された情報を持ってきてくれるわけではない。もしそんな整えられた情報があるとしても、それは、えてして古くさい役立たずの情報である。そして、情報は、GIVE(発信)するからこそTAKE(受信)できる。ネットワークの精神、そのものである。情報のネットワークは、あなたに主体性を求めている。  しかし、映像情報のほうも、これからの若い世代は研究のための有効活用ができるようになるかもしれない。ビデオテープの利用なら手慣れたものであろうし、さらに、レーザーディスクをコンピュータと組み合わせて、必要な場面にリアルタイムにアクセスできるようにする(インタラクティブ・ビデオ)などということも、考えられる。  社会学研究の観点からの映像資料の課題としては、第1に、消え去っていくものを早急に記録すことと、つくられた映像記録をその場限りのものとしないことである。社会学的に関心のある社会事象も、その場限りで消え去っていく。映像の場合、記録するのは、その時しかない。また、放送などによる映像も、放映後では、放送局でさえきちんと保管していないことが多い。  第2に、映像のもつ特性に応じた整理をすることである。主要な画面の指定をどのように行うか。複数の映像をどのような共通フォーマットで総合的に把握するか。映像の画像は見る側の視点によって意味の異なる総合的な情報であって、しかもその画像が時間の流れを伴っているので、これらの問題は単純ではない。  第3には、映像には複雑な著作権がからむので、それにきちんと対応するということである。映像は、映画製作者の権利だけではなく、言語、実演、音楽、写真、絵画、図形、他の映画、コンピュータプログラムなどに関わる多くの著作権を発生させうる。ところが、実際には、映画製作者名のクレジットさえ画面に出てこない放送番組などの映像も多く、対処に困ることがある。 情報とストロークを発信せよ  本節の最後に、社会学の情報、しかも、あなたがもっともほしい情報を得るためにはどうすればよいか、私の考えを述べたい。それは、know-what よりもknow-howを、そして、know-howよりも、know-whoをということである。  公式やデータを暗記するようなことは、高等教育(大学)になったらもうほとんどないと思ったほうがよい。それよりも、社会学的真実をどうとらえるか、さまざまな情報と接することによって、あなた自身の目を養わなければならない。それが、know-howだ。さらに、そこでつまずくこともある。そのとき、頼りになるのは他人の意見、批判、アイデアだ。どの人が、どういうことを言ってくれるか。その他人とのコミュニケーションの力を含めて、know-whoだ。レポートなどでは、まだ書かれていない情報をこそ得たいと思うだろうから、そういうときはknow-whoが最後の武器になる。  このknow-whoの能力は、ネットワーク社会でもっとも求められるものでありながら、現代学生がかなり不得意としているところなのではないか。know-whoには、知的主体性を含めた全面的な主体性が必要とされるのだ。自らも情報を発信しなければならないし、それ以前に、ストロークを相手に与えられなければ、人間関係もつくることができない。  ストロークとは、「交流分析」(TA=transactional analysis)の言葉である。相手をほめる言葉や、スキンシップ、まなざし、うなずき、傾聴などによって、相手の存在や価値を認めるような働きかけをストロークと呼ぶ。ストロークには法則がある。それは、「貧しい者はさらに貧しくなり、富める者はますます富をます」という法則である。あいさつをしようと思っても、もしかするとそっぽを向かれて自分のほうが傷つくかもしれないことを恐れて、他者にストロークを与えない人には、いつまでも愛が貯まらない。その上、自分が人間交流から疎外されていることを周りのせいにして恨んだり、自分や他人を信頼できないままに人生を過ごしていったりすることになる。  しかし、ここに一つの明るい展望がある。すべての人間が、心の底ではあくまでもストロークを求め続ける存在であるということである。この願望は、その人にとっては、そのときは、つらく作用することもあるが、その問題の自己解決のためには、内なる確かなエネルギー源になる。そもそも、情報発信、ストロークなど、心底からしたくないという根っからの精神的ケチなどはいないのではないか。  問題は、情報やストロークの出し方を知らないだけ、受容された経験がないだけなのではないか。そういういわば「コミュニケーション技術」の学習は、残念ながらあまり経験がなかった。情報を一方的に与えられること、それを型に当てはめて処理することはあっても、自分から自分らしい情報を発信する技術の学習は、あまりしてこなかったのである。そうならば、これからそういう経験をすればよい。ただし、ヒエラルキーの中での役割遂行としての情報発信やストロークだけでは、主体的な活動にはならない。各人が水平なネットワークの中で、自己と他者への基本的信頼に基づいて、あるがままに自己を発信すること、そしてそれが他者から受容される経験をもつことが、情報発信能力や主体性を獲得する手段なのである。  このような情報やストロークの発信ができるようになれば、know-whoがあなたの身につき、know-howやknow-what もそれにしたがって豊かなものになってくるだろう。しかし、繰り返すが、それは待ち望んでいるだけではやってこない。情報ネットワークは、あなたに、主体性の発揮をきびしく要請するのである。