『生涯学習施設ネットワーク化』 学習相談の意義・方法・課題  「現代生涯学習推進実務選書」 1 学習相談は、従来の日常的相談でも、現在の学習情報提供でもない 1−1 従来の日常的相談の焼き直しではない  学習相談よりも、学習情報の収集・整理のほうが、地味で根気のいる作業である。せっかく集めた情報も有効なものばかりとは限らないし、何らかの事情であまり勧めたくない学習情報でも、提供はしなければならない。また、情報提供をきっかけとして、学習者がすばらしい成長を得たとしても、援助者側がその成果を見届けることはあまりできない。このようなことから、人間交流や社会教育の暖かさ、楽しさを知っている社会教育主事のような職員ほど、学習情報提供の仕事をいやがる傾向が強い。ベテラン職員としてのプライドが傷つけられるような感じがするのだろう。  ところが、学習相談なら、ベテラン職員は自分の頭の中にある豊かな情報を有効に活用することができるし、有益であると確信できる情報だけを提供すればよいと思っている。また、そういう相談を日常的、継続的に行うとすれば、その成果も見届けることができる。学習情報のシステム化には消極的であっても、学習相談については、「やりましょう」とか、「そんなことなら、今までも日常的にやっていますよ」とかの答えが返ってくることが多いのは、そういう理由からであろう。  しかし、いま新しく生涯学習の援助者に求められている相談は、従来から日常的に行われてきたそれらの相談とは別のものなのである。もちろん、社会教育が築き上げた遺産のうちには継承すべき点も多々あるのだが、そういうものとは別に、社会教育を革新するインパクトとして新しい学習相談が生まれているのである。  憲法学者の松下圭一が、「国民主権の主体である成人市民が、国民主権による『信託』をうけているにすぎない道具としての政府ないし行政によって、なぜ『オシエ・ソダテ』られなければならないのか」1)として、その著『社会教育の終焉』で社会教育行政の存在に異議を唱えたのは一九八六年のことである。この書は、社会教育行政の安上がり化などのマイナスの影響も与えたが、並行してプラスの影響も大いに与えてくれた。社会教育行政がいつのまにか、しかし、歴史的に身につけてきた啓蒙的な姿勢を、社会教育行政みずからが改めるいくつかのきっかけのひとつになったのである。人間をマス(集団)としてしか扱わず、そのマスに啓蒙を振りまくような社会教育ならば、たしかに「終焉」を迎えたほうがよい。  しかし、じつは、松下の指摘よりずっと前から、個人学習援助の重視が提唱され(昭和四六年社会教育審議会答申)、また、松下の指摘と前後して、先進地では学習情報提供事業が誕生していた。学習情報提供事業は、学習のチャンスを学習者みずからが選択する幅をより広くするために、そして、松下のいう「国民主権の主体である成人市民」としての自発性を損なうことなく学習の主体性をよりいっそう深めるために、おもに個人に対して、「オシエ」るのではなくサービスする姿勢で行われるものである。今日の学習相談も、そういう社会教育の革新の中で意義が認知され始めたものであって、過去の社会教育を単純に延長したものではありえない。(もちろん、過去の蓄積から学ぶべき点も多いのだが、その論及は本論の趣旨ではない。それについては、拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』2)を参照されたい)。 1−2 学習情報提供と同じではない  一方、学習相談を学習情報提供と実質的には変わりないものであるかのように扱う傾向も見られる。しかし、それは、今日、社会教育事業全体の中で固まりつつある学習情報提供の評価に、ただ迎合しているだけの結果のように私には思える。たとえば、とにかく相談員をおいて求められた情報を提供すればよい、といったような無批判的、非主体的、消極的な姿勢の「学習相談」も見られるのである。  このように、学習情報センターに訪ねてきたり電話をかけてきたりした人に学習情報を提供することそのものをもって学習相談とよぶならば、学習情報提供のうちでも個人に対するものは、すべて学習相談であるということになってしまう。そんな程度の認識で学習相談を行うならば、しばらくすれば、利用効率が悪いなどの理由から、せっかくの相談員の人員も財政当局から削減されたりするのがオチであろう。  学習情報提供と学習相談とはともに社会教育や生涯教育の革新の姿として現代的意義をもつものであるが、そのふたつの意義はむしろ両極に分かれて対峙しているのだと思う。学習情報提供が第一の革新だとすれば、その不備を衝いて第二の革新をめざしているのが学習相談なのである。学習情報提供の革新が、個人の主体性の発揮への援助だとすれば、学習相談が提起する第二の革新とは、個人の主体性の獲得への援助である(図1)。学習情報提供のほうに振れた振子が学習相談によって揺り戻しを受けているのだが、それは在来型の社会教育に戻ったのではなく、学習情報提供が提起した課題を学習相談によって昇華させて、一段階高次なレベルに発展させたものととらえるべきである。その発展は螺旋状のものであり、新しい学習相談は、「相談業務なら今まで公民館などでふだんやってきている」というときの相談とは内実がまったく別のものである。  本論のもっとも重要な問題意識は、ここにある。「やっていることは学習情報提供であっても、相談員を介しさえすれば、それは学習相談だ」あるいは「日常業務のうちの相談的なものに学習相談の名称をかぶせればよい」といった安易な認識が流布しているように私は思えてしかたがない。学習情報提供と学習相談とは、あるいは、今までの相談と新しい学習相談とは、どこが一致していて、どこが違うかを、あいまいにしてしまうそのような思考方法は、学習者主体の学習援助形態としての学習相談がもつ深い意味を見過ごす結果になるばかりでなく、学習情報提供によってせっかく確立されようとしている学習者主体の学習を尊重する思想まで軽視して、過去の援助形態に後戻りさせることにもなるのだと思う。 2 学習相談とは何か 2−1 学習相談の定義  それでは、私たちは、学習相談というものをどう定義づければよいのだろうか。その定義は、すでに述べたように、学習情報提供が指し示す新しい生涯学習の理念を発展的に継承するものでなくてはならないだろう。すなわち、個人の学習への学習者主体の考え方にもとづいたサービスという意味では「継承」であり、個人の主体性への理念としての尊重(学習情報提供)から、個人の主体性の獲得への実質的な援助(学習相談)へ、という意味では「発展」である。そこで、私は、学習相談を次のように定義する。  「学習相談とは、個人(または援助者)の求めに応じ、学習環境等の客観的条件や、精神的・身体的な問題等の主体的条件などの、その個人特有のそれぞれの条件にもとづいて情報提供、助言、対話等を行うことにより、学習情報の収集・選択や学習の意欲・能力の獲得などを支援する教育(学習援助)サービスである」。  しかし、この定義を採用するとしても、「学習相談」の名のもとに現実にはいくつかの事業がすでに行われている。そのサービス内容は、次の3つに分類できるようである。 @ 学習情報の提供が中心になるもの。すなわち、学習者(または援助者)が学習機会、施設、団体、人材(指導者)、教材(学習材)などを効果的に選択できるよう、おもに学習情報の提供を行うもの。 A 目標設定から学習評価までを一貫して学習者側と相互的に行うもの。 B 心理的な学習阻害要因の克服をおもな目的として治療的に行うもの。  ここで、Aについては、アメリカの「学習契約」などの事例があり3)、わが国でもいくつかの市町村で「学習メニュー方式」などの実践の中にその萌芽が見いだされる。また、Bについては、たとえば「埼玉県県民活動総合センター」では、県民活動相談事業のために、カウンセリングの研鑽と実践の経験を長年積み重ねてきた専任相談員を配置して、心理的な相談にも対応している4)。そこでは、実際、地域団体の役員などから、神経症的な問題の相談をいくつか受けている。団体役員のなかには、まじめでぎりぎりまで頑張ってしまう性格だからこそ、リーダーにも推され、断りきれなくて就任した人も多い。そういう人たちが、グループ内の人間関係やリーダーとしての悩みとともにそれらと分けることのできない自分の個人的な悩みによって、神経症状を引き起こしているのである。地域の生涯学習のリーダーとして活躍しているこのような個人に、心理的な援助の手をさしのべることの意義は大きい。  これらの事例からわかるように、AもBも深い現代的意義をもつものではあるが、われわれがもっとも問題にしなければいけないものは、@の「学習情報の提供を中心とするサービス」だといえるのではないか。なぜなら、学習情報提供の必要性が関係者の認識するところになり、それとともに@の学習相談の事業が全国で展開されようとしている現状がありながら、その現状の中に、過去の集団的・啓蒙的な学習援助からの意識変革をともなわずにその事業が行われようとしている危険な状況が見受けられるからである。  たとえば、学習相談の名のもとに行政機関の関連事業だけを紹介・宣伝する、従来から関連行政が依頼していた講師陣をリスト化するだけでそれを指導者バンクと称する、そのバンクも実際には行政関係者の企画・立案のためにしか利用されない、そのことによってそれぞれの行政セクションによる企画・立案がかえって創意と独自性に欠けるものになるなど、枚挙に暇がないほど数多くの生涯学習の理念以前の前時代的行為も行われているのである。学習情報提供と学習相談の同一視なども、同様な問題のひとつであろう。そこで、ここでは、学習相談の「多数派」として一般化する一方でこのように多くの問題を抱えている@に絞って議論を進めたい。もちろん、@のあり方を考えるためには、AやBが私たちに投げかけている問題提起も真摯に受けとめ、活かさなければならないことはいうまでもない。 2−2 学習相談の特徴  学習相談に関する先述の定義は、学習相談の特徴を次のように想定していることにもとづいている。  1つは、「個別性」である。学習者の個別な条件の差異によって対応が変化する。広報においては、マス(集団)に対して均一の情報を提供しようとするし、学習情報提供においては、個人が求める情報を誰でも個人の必要に応じて同じ情報源から平等に自由に選択できるようにしようとする。これに対して、学習相談では、相談員が個々の学習者のニーズやその他の状況を勘案した上で、対応の仕方を逐一、判断する。  2つは、「双方向性(プロセス重視)」である。対話などの双方向の交流をともなう。相談の「相」は「互いに」「ともに」という意味である。それは、いいかえれば、学習者の意思決定のための相談員からのアドバイスにとどまらず、学習者の意思決定や問題解決のプロセスの中に相談員が飛び込んでいって双方向のおつきあいをするということである。  3つは、「援助性」である。生涯学習の援助活動の一環として行われる。直接、個人の生涯学習を援助することを目的とするものであり、援助者側の行う事業や保有施設を宣伝するなどして生涯学習全体の推進を図るものではない。また、その行為はあくまでも個人の生涯学習の援助であるから、他の行政目的などから生ずる目標への誘導や指導を紛れ込ませることは許されない。  4つは、「教育性」である。一般行政の相談が行政、法律、医学などの特定事項の専門性にもとづいて行われるのに対して、学習相談は教育的専門性にもとづいて行われる。この場合、教育的専門性のはっきりした規定は困難だが、少なくとも先述の松下の言う「オシエ・ソダテ」ることとは意味が異なる。たとえば「その場合はこうですよ」と「教える」ような場面は、むしろ一般行政の相談に頻発するのであって、学習相談においては、「こういうこともありますが」とニーズに的確に応える情報を提示しつつ、情報の選択は学習者の主体性に任せることになるだろう。それは、学習者の学習主体としての成長を第一義に考える教育的観点があるからである。  また、同じ社会教育の専門職である図書館司書が行うレファレンスサービスとも異なる。レファレンスサービスでは、直接の答を教えることよりも、「人と本をむすぶ」という観点から情報源としての図書資料の所在を伝えることを大切にする。その態度は、学習相談においても学ぶべきだが、しかし、学習相談ではそういう情報源の紹介さえもかならずしも必要とはかぎらない。極端な例だが、学習者がグチを言い続け、そんなことに対して直接役に立つ学習情報など思いつかないだろうから、相談員はそのグチを聞くだけに終わったとする。それは、レファレンスサービスとしては成り立たなくても、学習相談としてなら成り立つのである。なぜなら、学習者が悩みを言葉にして表現することは、学習者自身の気づきや成長につながる大きな可能性を秘めているからである。このような立場も人間の可塑性を信じる教育的観点からのものである。  5つは、「自由性」である。「求めに応じて行う」ということである。相談を望まない人にまで相談を呼びかける必要はない。本人が自分で「相談したい」と思うまで待たなければならない。逆に、相談に訪れてくれた人に対しては、「相談に来た」という行為自体をその人の主体性の表れとしてとらえて最大限の敬意を払うべきである。「相談する」ということも、情報収集のための主体的な行動、すなわち生涯学習活動のひとつなのである。  なお、「自由性」は「教育性」に矛盾するという反論もあるかもしれない。しかし、その反論は古い教育観に立脚しているのだと思う。実際、教育サービスを自ら進んで受けようとする人は今や世の中にたくさんいるのだ。その反面、むしろ大学生などの「学習専業者」の中に、「教育というものは必然的に強制をともなうものだ」と思い込んでいる人がたくさんいる。子どもの教育についてそう思っているだけではなく、みずからも「授業への出席をもっと厳しくとってくれないと、ついさぼってしまう」と私に訴える学生さえいる。さぼるならさぼってもよいのだから、他人のせいにしないで、もっと自信をもってさぼってもらいたいものだ。大学生になったのにまだ主体的な学習態度を身につけられず、「自由から逃走」しようとするそういう学生の姿を見ると、この問題の根は深いと思わざるをえない。5)  話をもとに戻すが、相談員のほうも、「こういうときにはこう答える」という制約をほとんど受けない。ひとつのケースに対しても相談員によってさまざまな対応がありうるが、それは個性的であってよい(「こう答えてはいけない」という制約は、相談員の内発的動機からなら無数にあるだろうが)。このことは完璧なマニュアルはありえないということでもあり、それをいやがる相談員もいるかもしれないが、そういう人は相談員には向いていない。相談員とは、学習者の主体性の獲得を援助する活動の中で、自分もみずから育とうとする人たちなのである。  これについても、教育に確実性や普遍性を求める人からの反論があるかもしれない。しかし、「教育職という立場上、自分はつねに正しい言動だけをしなければならない」という思い込みの強い人は、そもそも教育職には一番向いていない人なのだと私は思う。自分自身をつねに変えていき学習者とともに成長できる人こそ、望ましい教育職員像なのではないか。教育が、他人の学習を強制によって完全にコントロールしたり、完全無欠の指導を行ったりするということなど、どこにも書いていないし、そもそも、やろうと思ってもできることではないのだ。  再び話を戻して、学習相談の特徴をまとめるならば、「学習者の意志にもとづき、個々のケースに応じて、学習者の意思決定のプロセスに双方向的かつ教育的に関わりつつ行われる」ということになる。この「特徴」は先述の「定義」とも軌を一にするものである。 3 コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性 3−1 コンピュータの効果的活用  @の学習相談においては、適切な学習情報を提供することがもっとも重要であるから、それをいかに効果的に検索するかということがひとつのポイントになる。そのため、コンピュータによる学習情報データベースの活用を考えなくてはならない。なぜなら、データベースは、大量のデータを記憶してそれを必要に応じて必要なものだけ引き出す、という優れた機能をもっているからである。  そしてコンピュータをうまく扱うことのできない学習者、たとえばメカニックなものに恐怖感を抱いている高齢者などには、相談員がコンピュータ操作の手伝いをする必要がある。これも、学習相談による個人の主体性(ここではコンピュータ・リテラシー)の獲得への援助のひとつということができる。  もっとも、市民の中には、コンピュータ操作の研修を少しばかり受けた職員などよりよっぽど操作に慣れている人もたくさんいるのだから、なにがなんでも相談員を介さなければならない、というのも本末顛倒の話である。たとえば、子どもや青年たちの中には、キーボードアレルギーどころか、キーを見ればとにかく押してしまうような能動的な人も多い。そういう人には端末機に自由にさわってもらえばよい。いちいち担当者の手をわずらわせることなく、気軽に心ゆくまで求める情報を検索できるというメリットは、コンピュータの魅力のひとつなのである。  「プライバシー侵害などの問題が起こるから」などの理由であくまでも職員だけが端末を操作するという所もあるが、それは「依らしむべし、知らしむべからず」という態度であるといわざるをえない。一定の項目を表示しないようにすること(マスキング)など、コンピュータなら簡単に設定できるのだから、そういう工夫によってシステムをなるべくオープンなものにすることは援助者側の義務である。こうした努力をせずに、情報提供システムを行政の側に一律に囲い込んでおいて、しかもそれに「相談員を介しているから」という理由で「学習相談」という名称をかぶせることなどは、行政の怠慢としかいいようがない。  市民に開かれた情報システムの運営の事例として、「横浜女性フォーラム」を挙げたい。この館の正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできる「フォーラメディア」が設置されている6)。近くの子どもたちも喜んでさわりにくるのだが、それを婦人問題に関する利用ではないから目的外利用だと批判する声に対して、館長は、「男女平等に関する情報にたまたま接する機会になるかもしれないし、そもそも、将来の社会を担う子どもたちがコンピュータに触れるということ自体が意味のあることです」と言っている。  学習情報提供にも学習相談にも、そのぐらい柔軟で積極的な発想が求められる。教育側が予想したとおりに突き進む教育コースにそのまま乗りたいと思う人など、いまやだれもいないだろう。教育側には、「偶発的学習(インシデンタル・ラーニング)」を待つ、歓迎する、あるいは仕掛ける姿勢こそ求められているのである。相談員も、すべての人のすべての学習の面倒を見よう、というようなよけいな気負いは捨てたほうがよい。そんなことはできるものではない。教育側が不要な構えを捨てたとき、MAZE(迷路)7)のような個人の成長に対応してコンピュータの柔軟性をうまく発揮することができるのである。  さらに、コンピュータ活用は相談の第一義の目的ではないという、もうひとつのあたりまえのことを忘れないようにする必要がある。行政のなかでシステムが運用されているあいだに、そのことが意外に忘れ去られ、コンピュータシステムだけが一人歩きをしてしまいがちなのである。NTTの電話番号案内は、コンピュータ検索だからこそ速くて便利なのだが、一方、活字媒体である電話帳も、一覧性をもっているので、望む情報を手に入れるためのメリットが別の意味で大きい。情報が並んで提示されているから、他の周辺情報などに気づくことができるのである。データベースはかなり大きくなければコンピュータ活用のメリットは出てこないのだから、比較するデータが少ない場合は、冊子(レファレンスブック)からのほうがスムーズであるし、付加価値も期待できる。 3−2 コンピュータ利用の成熟化と人間の介在の意味  コンピュータやニューメディアの利用は、今や成熟しつつあるといえる。成長時代の人たちがブランドやハイテクなどの「モノ」をステータスシンボルとして扱ったのとは対照的に、成熟時代の人たちは、モノをそのように溺愛したりしないで、自分で実際に試してみて、よいものだと思ったら、その人なりにそれを使いこなしていく。  たとえば、パソコン通信についていえば、それは、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したモノから成り立っており、それらのモノの集まりが、多量の情報を高速にやりとりするパソコン通信の物質的基盤になっている。しかし、パソコンネットワーカーたちにとって、そんな素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を大切にする。さまざまな機器の助けを借りていることを忘れてしまうこと、つまり機器が「透明」になることを評価するのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。  機器が「透明」になるということは、優れていてあたりまえのメディアと情報技術(技術者の方々には恐縮な表現だが)を捨象するということである。そうすると何が残るか。コミュニケーションの中身であり、自己と他者の存在そのものである。メディア機器が「透明」になればなるほど、自分と他人の中身がはっきりと向き合う。そこでは、より豊かな人間存在と人間関係の追求そのものが最高の価値として認められるのである。  これは生涯学習全般についても同じことがいえる。そこでは、自己の人間存在そのものに一番大きな関心が払われる。たとえば、コンピュータ学習についても、機器の操作技術を身につけたかどうかよりも、学習によって自分の考え方の枠組(認知構造)がどう変わったか、今後どう変えることができるか、ということこそが主要な関心ごとになるはずである。コンピュータを使って学習情報をうまく引き出せない学習者への援助も学習相談の機能である、と先に述べたが、学習相談の意義はけっしてその程度に留まるものではない。学習者の人間存在そのものの表れ、すなわち存在証明としての生涯学習を、相談員という他の人間存在を通してどのように援助するのか、ということこそが、学習相談の本質的な課題なのである。  コンピュータそれ自体はたんなる道具、たんなるハコにすぎない。人間以外のものは、たとえ人間存在のための優れた手段にはなりえても、けっして人間存在に関する主体にはなりえない。学習相談においての本来の学習主体は学習者であり、本来の援助主体は相談員なのである(図2)。  私は、このような「本来の援助主体としての相談員」を「学習情報ワーカー」として位置づけたい。ここで「ワーカー」という言葉は、ケースワーカーのように当事者(学習者)のケースに個々に対応する仕事と、ネットワーカーのように情報や人々をつなげる仕事の、ふたつの仕事(ワーク)が遂行されることへの期待を意味している。「相談員」という言葉があまりにも意味中立的なために「与えられた職務だから役割を遂行する」という冷淡なニュアンスを与えかねないことに比べて、「学習情報ワーカー」という言葉は期待の込められたきわめて意味的な言葉であるといえる。  ワーカーはネットワーク的な援助を行うことになる。ネットワークとは、自発的意思にもとづく水平なギブ・アンド・テイクの交流であり、そのためには互いが異質の価値(自立的価値)をもっていることが条件になる。また、私は、ネットワークを「自立と依存の統一」としてもとらえている。8)  しかし、情報や人間をつなぐために人間が介在することが必要だとしても、人間によるその援助が、なぜ、どのように、ネットワーク的でなければならないかということについては、もっと深い議論が必要だと思われる。どのように水平なのか、どのように異なった価値をもっているのか、あるいは、どのように学習者がワーカーにギブしろというのか、ワーカーの側まで何をテイクしようというのか、などの異議や疑問が考えられるのである。そこで、ここからは、カウンセリングマインドという切り口から、人間存在への援助としての学習相談の内実にいっそう深く踏み込んで述べることによって、それらの問題について考えてみたい。 4 生涯学習の主体としての自立への援助 4−1 求められるカウンセリングマインド  ここでは前述のとおり@の学習相談を考える。Bならば、カウンセリングマインドの発揮どころかカウンセリングそのものとして行われなければならないのは自明のことであるが、ここで提唱したいのは、@の学習相談であってもカウンセリングマインドが必要であるということである。これは、学習相談がたんなる学習情報提供にはとどまらないためのもっとも大切な要素になるだろう。また、コンピュータ自体はカウンセリングマインドをもちえないのであるから、ワーカーの存在意義を示すものでもある。  ちなみに、学習相談を学習カウンセリングと称するケースを見かけることがある。これはBであるのならその名称は実体をよく表すものということができるが、@のような場合には問題があると思う。臨床心理におけるカウンセリングの現代的意義を認めるならば、むしろ、@のような場合に「カウンセリング」という言葉を使うことははばかられて当然であろう。その場合は、学習者の意思決定や問題解決のプロセスにていねいにつきあうという意味から、「学習コンサルティング」ぐらいの表現が妥当だと思われる。ここで主張したいのは、学習相談をカウンセリングではなくコンサルティングと呼んだとしても、そこには情報提供だけではなくカウンセリングマインドの発揮が求められているということである。  なぜ、学習情報提供のサービスだけでは不足して学習相談がひつようになってきたのか。それは、急激に変化する現代社会の中で、生涯学習を行うための主体性そのものを人々が失いつつあるからである。主体とは「認識し、行為し、評価する我」という意味である。ここで、主体性は自主性に置き換えてもよさそうなのだが、私は自主性という言葉が軽い意味で受けとられる現状に批判をもっている。たとえば、「うちの子どもはわたしが命じなくても自主的にドリルに取り組んでいます」というときの教育ママの使う「自主」という言葉はかなりインチキくさい。本当に求められているものは、他者からの指導のもとに管理された個性や自主性ではなく、一人の人間が人間として生きる力であり、ひとつの生きる主体としての個別な深みである。私はこれを「主体性」とよびたい。  つぎに、なぜ、カウンセリングマインドにもとづく対応が、学習情報提供だけではできなかった主体性の獲得そのものへの援助になるかというと、それは、カウンセリングが学習者の自己への「気づき」を促す側面をもっているからである。あとに述べるように、自分のすべてが受容される雰囲気のもとで学習に関する自分の期待などについてしゃべることは、学習者自身が今まで気づかなかった自分に気づくことにもつながるし、そういう自分をオープンにしても受容されるのだ、という安心や自信にもつながる。情報の羅列を外から与えられるだけでは、都合のよい情報だけ選択して自分の今の枠組をさらに強化することはできても、自分のもっている劣等感や敗北感などの不幸な思い込みの枠組自体を変えていくことはできないのである。  生涯学習の理念が自発的意思にもとづいてみずから選んだ手段・方法で行うことであっても、本人が自分自身を見つめていないとしたら、その「自発的意思」も生まれようがなく、したがってその理念の実現は望めない。しかし、そのように自分の深みまで知るということ、すなわち自己洞察は、じつはだれにとっても容易なことではない。つまり、「自分に気づく」ということは、生涯学習を行うために不可欠の課題でありながら、それを完全に実現することは困難な課題なのである。  それらの自分への「気づき」のなかでも、学習相談においてもっとも決定的なことは、生涯学習を行う自己の主体性の欠損への気づきだと、私は思う。たとえば、「他人の期待に沿うために」とか「勤勉でなければならない」とかいったような不合理な思い込みが、生涯学習の自発的意思を内からねじ曲げる結果になっている。不合理な思い込みから解放されるためには、まず、そういう思い込みをしている自分の現在と過去に気づかなければならない。問題の本当の所在さえ明らかになれば、あとはそれを自分で解決する能力を人間はもっている。  このような「自己解決能力」への信頼も、カウンセリングマインドにもとづくものである。明治以来の教育が一定の教育水準まで集団全体をしゃにむに押し上げていこうとするプッシュ型だったことに対して、これからの教育は一人ひとりの個性や関心を引き出そうとするプル型に転換されなければならないということが生涯学習の議論のなかで言われている。カウンセリングマインドにもとづく学習相談は、まさにこのようなプル型の教育作用といえるのである。 4−2 共感・傾聴・ストローク・エンカウンター  カウンセリングマインドの基本の1つめは、「共感的理解」である。  共感は、同感や同情とは違う。共感的理解とは、自分の枠組ではなく、相手の枠組にもとづいて相手を理解することである。一人ひとりの枠組(フレーム・オブ・レファレンス)がすべて違うのだから、ワーカーはそのいずれの枠組をも理解し対応できるように努めなければならない。共感的理解を示すワーカーが対応することによって、学習者は安心してしゃべることができる。共感的理解こそが、ワーカーと相談者との心のふれあいのあり方なのである。9)  共感的理解のために大切なことは、傾聴である。傾聴とは心を傾けて相談者の話を聴くことである。「早く本題に入って、どんな情報がほしいか言ってほしい」などの態度がワーカー側にちらつくと、相談者は安心してしゃべれなくなる。じつは、カウンセリングマインドにもとづいた学習相談の本旨は、学習情報の検索の代行などではなく、学習者が生涯学習に関するみずからの動機や希望、阻害要因などに気づくよう援助することなのである。また、毒にも薬にもならない無駄口が相談者に目立つ場合には、ワーカーがその人の発言を抑止することもあるかもしれないが、その時でさえも、無駄口をたたかざるをえない相談者の気持ちを察するように努めなければならない。このように、ワーカーには、自己の傾聴する役割への自覚が強く求められる。  傾聴のための技法としては、受容、繰り返し、明確化、支持、質問などが挙げられる。10 )  「受容」とは、相手を共感的に理解し、あいづちやうなずきなどによって、その共感を相手に示すことである。「こうすれば」「ああすれば」などの診断的な言葉をなるべく言わないようにして、まずは、相手の話に関心をもって耳を傾けなければならない。相談者の話も終わらないうちから、「ああ、それならこういう講座が開かれていますよ」などと言うのでは、ワーカーとしては失格である。  「繰り返し」とは、相手の話をよく聴いた上で、「こういうことですね」と確認することである。繰り返しが的確であれば、相手からの信頼も得ることができる。その場合、的確であるということは、最後の結論だけを繰り返すことを意味しているのではない。たとえば、相手が、職場で英会話の勉強が必要になった経緯をしばらくしゃべったとしたら、「英会話の教室を探しているのですね」ではなく、「仕事の上で必要だから英会話を習いたいということなんですね」と繰り返さなくてはならない。このように「仕事の上で必要なのかどうか」を確認することはとても大切なことである。なぜなら、それを確認しておけば、もし仕事のほかにも英会話を活かそうとする期待が本人にあった場合、本人もあらたにそれに気づくことができるかもしれないし、ワーカーもその人のより深い本音を知ることができるからである。  「明確化」とは、相手が遠慮などによってまだ言葉には出していない気持ちまで、ワーカーが言葉にして相手に示してみることである。そのためには、ワーカーは人間に関して敏感でなければならない。たとえば、「ここの学習相談は、あくまでも学習に関する相談を受け付けているんですよね」と聞かれたら、「はい、そうです」で終わらせてしまうのではなく、「そうですが、何かほかのことでご相談なさりたいことがおありならおっしゃってください」と対応する。相手は本当はそれを聞きたいのに、遠慮している恐れがあるからである。そういう積極的な傾聴によって、いろいろな相談を埋もれさせずに、その学習的側面を引き出したり、他の相談機関を紹介したりすることもできるのである。  「支持」とは、相談者の言葉に賛意を感じたら、「それは当然ですよね」などと支持する言葉を口に出すことである。形だけの肯定ではなく、二人が心から共有できる空間を作り出すように努める。たとえば、通信教育の勉強の途中で挫折した人が相談に来たら、「もっと頑張って」ではなく、「一人だけで勉強するのは、とても大変だったでしょうねえ」と応ずる。そのことによって、相談者はほっとできるし、通信教育に復帰したり集合学習に転換したりする気持ちにみずからもなるのである。  「質問」は、情報提供のためのたんなる下調べや情報収集のためだけのものではなく、傾聴のための技法としても重要である。よい質問は、相手への関心を示し、より深い共感的理解にもつながる。その場合、取り調べではないのだから、イエス・ノーでは答えられない質問が望ましい。そのことによって、結論だけではなくプロセスが浮かび上がるし、より正確に相手を理解することができる。たとえば、「公民館ではなく、民間の教室を希望されているのですか」という質問なら「はい」という答だけで終わってしまう場合でも、「公民館でもそういう講座が開かれているのですが、それについてはどのように思われますか」と質問すれば、相談者の学習に関するニーズがより積極的に明らかにできるのである。  カウンセリングマインドの基本の2つめとして、「ストローク」を挙げたい。  人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。「交流分析」ではこのような行為をストロークとよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。  しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとる。このようにストロークを出す本人にとって、その発信はリスク(危険)のかたまりなのである。  一方、最近の生涯学習の学習内容の傾向のひとつとして、こころへの関心が指摘できる。生涯学習に向かう要因としても、それを阻害する要因としても、こころの問題は大きい。豊かなこころは、豊かな対人関係、つまりは豊かなストロークに支えられる。そういう意味から、学習情報ワーカーはストロークの達人であってほしい。そのことによって、生涯学習に向かおうとする学習者にエールを送ることができる。  また、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークを得るためには、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。その意味では、ワーカーは相談業務のなかで、相手のストローク発信を励ますとともに、みずからのストロークを豊かにすることが必要である。  カウンセリングマインドの基本の3つめとして、「エンカウンター」を挙げたい。  日常の対人関係にはいわゆる「仮面」がつきものであるが、エンカウンターでは、それを脱ぎ捨てて本音と本音をぶつけあう。対立することも多い。このようなエンカウンターは、通常、グループワーク(エンカウンターグループ)として行われるが、学習相談においてもエンカウンターの精神が求められていると考えられるのである。なぜなら、学習相談は、社交儀礼がやりとりされる場ではなく、幸福追求の一環としての自分なりの生涯学習を模索する生身の人間(相談者)に対する生身の人間(ワーカー)からの援助が行われる場だからである。  カウンセリングマインドにもとづく学習相談において、生涯学習に関する相手の枠組をワーカーが理解すること、すなわち共感的理解は重要であるが、それは、ワーカーがその人と同じ枠組になる、すなわち同化するということではけっしてない。逆に、相談者とは異なったワーカーの好みや感情、考え方を率直に表明することも効果を及ぼす場面がありうる。カウンセリングのように精神的な治療を必要とする人を相手にしているわけではないのだから、対等な基本的信頼の関係のもとでは、異なった価値観や考え方の提示はむしろ有益な場合が多いであろう。また、対立までには至らないものでも、生涯学習の方法論に関する専門的・技術的な助言なども、ワーカーだからこそできる「異なった立場からの援助」のひとつとして重要である。  しかし、それらをエンカウンターすれば、極端な場合には、コンフロンテーション(向き合うこと、対決)につながることもありうるが、必要なときにはいつでもそれを受けて立つ自信がワーカーには求められる。なぜなら、学習者ととことん向き合おうとすれば、学習者の人間存在により深く関わることになり、また、自分自身の問題にも対面せざるをえないからである。実際の学習相談の場面では、社交儀礼の挨拶なども交わすことになるだろうが、機を見て相談者の懐に飛び込むなど、人間の生き方に対する真摯な姿勢がワーカーには必要である。なお、この場合にワーカーに必要な自信とは、自己をあるがままに認めることであって、自分が相手よりも相対的に優位であることを誇示したり、優位な立場から相手に何かを押しつけたりすることではない。  エンカウンターグループは日常生活から離れた所で期間を区切って実施される。それは文化的孤島と呼ばれる。しかし、その目的は、日常生活で具体的な行動を起こす力にまでむすびつけることである。このような点でも、学習相談がエンカウンターから学ぶべきことは多いと考えられる。なぜなら、学習相談も一時的な「孤島」であり、現実社会に戻ったあとの本人の実際の生涯学習に役立たなければ意味がないからである。  とくに、セパレーション(分離)のあり方については重要である。エンカウンターグループにおいては、解散のときに泣いてばかりいて分離がスムーズにいかないのは、けっして連帯感の高まりとしては評価されない。むしろ、分離不安の表れとされ、過去志向的で自立がうまくいかなかったと見なされるのである。学習相談のワーカーは、この厳格なエンカウンターの姿勢に見習わなければならない。学習者から受ける過度の愛着は自慢にはならない。学習者の現実復帰、つまり理想的な学習社会にはなっていない実際の娑婆で学習するための主体性の獲得をこそ、ワーカーは援助しなければならないのである。 5 ネットワークのなかでともに育つ  学習相談は、ネットワークの営みである(図3)。情報と情報をつなぎ、学習者と情報とをつなぎ、さらには、学習者と学習者とをつなぐ。そこでのワーカーと相談者の関係は、今まで述べたとおり、異質な者どうしの水平なギブ・アンド・テイクである。あくまでも学習者の自発的意思にもとづくものであり、そのつながりはゆるやかで、参入と撤退、出会いと別れを自由に繰り返すものである。  このようなネットワークであるためには、それぞれが自立的価値(個性)をもっていることが条件になる。そうでなければ、ヒエラルキーなどとしてのシステムではありえても、ネットワークとしてのシステムにはなりえない。そして、自立したパソコン(スタンド・アローン)がパソコン通信によってネットワークされるように、自立的価値をもつ個人や機関や情報が学習相談によって相互に連携(依存)する。ネットワークが自立と依存の統一である、というのはそういう意味である。  私はこれらを貫く鍵概念として「個の深み」という言葉を提起したい。「個の深み」とは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人一人ひとりとして生きること、そして、その固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすること、という意味の造語である。11 )人間はなぜ生きているのか、といえば、究極的には自己実現によって「個の深み」という高次な幸福を獲得するためであり、その人間がなぜ社会の一員として生きるのかといえば、究極的にはコミュニケーションによって他者の「個の深み」を味わいつつ自己の「個の深み」の形成にも活かすため、と私は考えている。  ネットワークのこころさえ失わなければ、学習相談の事業は、学習者の「個の深み」とたえまなく接し続けることができるだろう。それは、たとえば一般行政の相談では、「本務ではない」などの理由から相談員は禁欲しなけれはならなかったことである。しかし、学習相談においては、ワーカーの主体的な判断力とモラルを前提とすれば、むしろ「本務」として勧められるべき行為である。学習相談事業のなかでつねに変わることや育つことがもっとも望まれ、また、可能なのは、組織としてはその事業を行う機関であり、人間としてはその事業を担当する学習情報ワーカーなのである。だから、みずから学び育ちたいという気持ちがあるかぎり、学習相談という仕事は至上の喜びをもたらしてくれるはずである。  生涯学習推進のために、あるいは、住民のために、犠牲的精神で学習相談活動を行っているなどというような人がいたとしたら、その言葉はウソであろう。中身のない虚ろな言葉だ。ともに育つ学習相談のなかでは、援助者側の人間は自分のために研鑽を深め、自分のために業務に携わっているはずだ。それは、教育の仕事全般にもいえることである。本当の「自分のために」ということは、自分自身がつねに変わり成長することであり、その姿勢は他者の主体性の獲得とはまったく矛盾しないばかりか、援助者、教育者であるためのもっとも大切な資格要件ともいえるのである。                                 (西村美東士) 1) 松下圭一『社会教育の終焉』筑摩書房、一九八六年、三頁 2) 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、一九九一年、一五頁−二七頁 3) 三浦清一郎『比較生涯教育』全日本社会教育連合会、一九八八年、三九頁 4) 西村美東士「生涯学習を援助する相談事業」一九九一年、日本教育新聞社『週刊教育資料』第二六三号 5) 西村美東士「コミュニケーションを求めておののく若者たち」一九九二年、日本教育新聞社『週刊教育資料』第二八一号 6) 前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、五一頁 7) MAZEについては前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに五三頁及び一五二頁 8) ネットワークについては前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに一二九頁 9) カウンセリングについては、とくに平木典子『カウンセリングの話(増補)』朝日新聞社、一九八九年 10) 傾聴の技法とエンカウンターについては、とくに国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房、一九八一年 11) 「個の深み」については前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに二頁−四頁 図1「学習相談への発展」           OGGG学習情報の判断者GGS OGGGGG援 助 目 的GGGGGGS RDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDユDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDDV F 従来の日常的相談 I    援助者    I I  集合学習への動機づけ I F ZDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDユDユDDDDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDDユDD^           I     F I I F E RDzDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDzDzDDDDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDDzDDDDDDDV        F 第1の革新・・・個 人 の 主 体 的 学 習 の 重 視 と 尊 重 F ZDrDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDrDrDDDDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDDrDDDDDDD^           I     F I I F E RDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDユDユDDDDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDDユDDV F 学習情報提供   I    学習者    I I  個人の主体性の発揮 E F ZDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDユDユDDDDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDDユDD^           I     F I I F I RDzDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDzDzDDDDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDDzDDDDDDDV        F 第2の革新・・・個 人 の 主 体 性 の 欠 損 へ の 気 づ き F ZDrDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDrDrDDDDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDDrDDDDDDD^           I     F I I F I RDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDユDユDDDDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDDユDDV F 学習相談     I    学習者    I I  個人の主体性の獲得 I F ZDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDユDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDユDD^ WGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGG[ WGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGG[ 図2「コンピュータとワーカーの仕事との関係」 RDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDV F 学習情報データベース F ZDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDDD^     F RDDDDDDDD~DDDV 学習情報提供RDDDDV FコンピュータfDDDDDDDDDDDDDDDDDn   F F fDDDDDDDDDDDvDDDDDn 学 F ZDDvDDDDDDDDD^ F F F   F 学習相談※1F F F RDDD~DDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD~DV F 習 F F 学 習 情 報 ワ ー カ ー F F   F ZDDDvDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD^ F F   F学習相談※2 F 者 F ZDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDn F ZDDDD^  (※1 コンピュータ利用への援助)  (※2 ネットワーク的援助) 図3「ネットワークとしての学習相談」 RDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDV        F           OC受容 F        F           _C繰り返し F        F OC共感的理解CC傾聴CCC明確化 F  援助者 ……F E   _C支持   fDDDDDDDDDDDDDDDDDV        F E   WC質問 F 自分のため→ F        F _Cストローク F F        F WCエンカウンター F F ZDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD^ F F RDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDV RDDDDDDDD~DDDDDDDDDV              fDn カウンセリングマインド fDDDn 援助者自身の成長 F F ZDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD^ ZDDDDDDDDvDDDDDDDDD^ RDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDV 異質の交流↓F        F マス(集団)   →個別  F RDDDDDDD~DDDDDDDDV F 一方向      →双方向  F F F  学習相談……F 指導      →援助    F F と も に 育 つ F   F 特定事項の専門性 →教育の専門性F F F        F 定型性      →自由性 F ZDDDDDDDvDDDDDDDD^ ZDDDDDDDDDDvDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD^ 異質の交流↑F F   RDDDDDDDD~DDDDDDDDDV F   F相互の自発的意思 F              F RDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDV F参入と撤退の自由 F              fDn ネットワーク的援助 fDDDDDDDn水平なギブ&テイクF              F ZDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD^ F自立と依存の統一 F F ZDDDDDDDDvDDDDDDDDD^ RDDDDDDDDDD~DDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDV F        F 自己の主体性の欠損への気づき F F F    ↓ F 自立的価値→ F  学習者 ……F 問 題 の 自 己 解 決 fDDDDDDDDDDDDDDDDD^   F    ↓ F        F 「 個 の 深 み 」 F ZDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD^