学校の土曜休日2回を大人自身のために    明治図書「学校運営研究」1993年3月号                   西村 美東士                   (昭和音楽大学助教授)  ここでは、大人の主体性の獲得を援助しようとする社会教育の立場から意見を述べたい。  まず、既存の社会教育団体等の拡充を願うことはあっても、それらを受け皿としては期待すべきではない。受け皿とは、こぼれたものを受けとめるためのものだ。受け皿ではなく本来のカップ、すなわち子どもの教育の主体とは何なのか。それは親たち大人たち自身であろう。そして、社会教育とはそういう人びとの主体的選択行為である。だから、社会教育も受け皿ではなく、子どもと大人の成長がその中で行われるカップそのものだといえる。土曜休日に大人が子どもとともに育つことによって、カップとしての大人自身も、子育てをする自らの役割をもっと味わい、楽しめるようになるだろう。  今まで、学校のほうこそが、親という本来のカップの受け皿として、専門的・教育的役割を果たしてきた。しかし、それと並行して、親たちは子どもへの教育力を失っていき、子どもの教育を学校に依存しすぎるようになってきた。私は何も家庭の教育力の弱体化だけを問題にしようとしているのではない。それと同じような調子で、何のために現在の伴侶と結婚したのか、何のために子をもったのか、何のために生きているのか、現代社会の中で私たちは答えを失いつつある(拙著『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』学文社)。そういう主体性喪失の状況に抗し、あらためて人間らしさを取り戻そうとするさまざまな活動が人びとの手で自覚的、無自覚的に生涯学習活動と結びついて行われようとしている。学校の土曜休日も、そのための条件づくりの一環である。  もちろん学校の土曜休日に関して、週休二日制への国際的動向や教職員の労働運動などが影響している「事実」は否定できない。しかし、ここで追求したいのは、そういう「事実」への同調や抵抗を越えた次元での、土曜休日の「真実」のあり方である。その「真実」とは、すなわち、「子どものため」という言葉で自分をごまかさない大人自身の幸福追求の姿である。いま、大人が不幸であるからこそ、子どもたちも不幸になっている。たとえば、十代の少女を妊娠させている相手は、圧倒的に二十歳以上の大人、社会人である。私たち大人の主体性の回復なくしては、子どもたちの幸せもありえない。  その回復の営みは、「個の深み」を味わいつつ「MAZE(迷路)」をさまようという経緯をたどるだろう(拙著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社)。大人は迷路に不安を感じるが、子どもにとって、迷路は迷えば迷うほど楽しい。私たち大人も、土曜休日の子どもたちとともに、そういうフリーチャイルド(自由な子ども)の心を取り戻したい。