「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その3)  −学習者の発言(出席ペーパー)に対する指導者の対応のあり方−                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(3) −How the Leader's Response should be to the Learner's Appeal in Attendant-Papers− 今回の論文の位置づけ  これまでの一連の拙論のすべてを貫く鍵概念は、「個の深み」であり、問題意識は、その獲得を家族、友人、教育者、職場、地域などの他者、とくに社会教育がいかにすれば支援できるのか、ということである。一見、自己矛盾に満ちたこのテーマは、教育や哲学全般においても難解な課題だと思われるが、ここではできるだけそれぞれの具体的なケースや場面を想定しながら考えていきたいと思う。  前回は、出席ペーパーに表れた事例をいくつかの視点から分類して紹介することによって、「個の深み」の内容、または、その阻害要因に関する具体的な姿を明らかにしようとした。今回は、ペーパーに表れた「個の深み」に関連する事項に対して、指導者(ここでは大学教員)がどのように対応することが効果的なのかを探ることにする。  もちろん、ここに記した対応とは、私の拙見からのものであり、普遍的なモデルになりうるものとはとうていいえるものではない。しかし、指導者の対応のあり方は、そもそも個性にあふれるものであってよいはずであるから、そういうものを数多く考えることによって、いくらかの役に立つと思われる。ちなみに、私のコメントの方針は、カウンセリングとエンカウンターの精神にあふれたストロークを学習者にぶつけることである。  なお、ここでいう「出席ペーパー」とは、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くものであり、それに対する私のコメントは翌週の授業の冒頭に行われる。  また、ここに挙げた「S大・S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事の課程を学ぶ大学生と短大生であり、「T大T部・U部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の1部学生と社会人入学者を含む2部学生である。そして、mito以下のコメントは、それぞれの出席ペーパーについて私が授業までに準備しておいたメモである。 1 授業は勝負だ−ビートたけしに勝つ授業を公言することの意味  私は、授業を教員にとっての勝負だと考えている。私たち教員は、大学当局に雇用対策のために雇ってもらっているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会においては、テレビ番組や出版などによって、おもしろくてそれなりに役に立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業がそれらの情報より何らかの意味で「勝っていなければ」ならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思に基づくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。  だから、私は、1回目の授業で「ビートたけしに勝つ」ことを宣言する。これが一部の学生には理解が困難であったり、不快感を与えたりしているようだ。小学校以来、植えつけられてきた「学習はつまらなくても我慢するもの」という敗北主義的だがそれなりに安定した人生の構えに動揺をきたすからであろう。しかし、そういう反応に対して指導者がうまく対応すれば、学習者の主体性獲得に向けた気づきと態度変容のきっかけにもなりうるのだと思う。  蛇足ながら、私自身は、じつは、つねにビートたけしに勝っているという自信をもって授業をしているわけではない。むしろ、「学生の学習ニーズは本当は何なのか」「ぼくの授業は本当におもしろいのか」などという不安にいつもさいなまされているのが現実である。ただ、学生の支持や批判の反応を直接知りながら話を進めることができるという点では、授業はもともとテレビのビートたけしよりも有利な条件にあるといえる。 1992. 4.15. T大T部社会教育計画、男  「たけしに勝つ!」という目標は興味深いが、モハメド・アリに挑戦したアントニオ・猪木、あるいは参院選に立候補する森田健作のようなチグハグしたものをも感じてしまう。 1992. 4.18. S短大教育社会学、女  先生に一言!! 私はたけしの大ファンなのだけど、先生はたけしに勝つことは考えない方が良いのでは? mito 授業は勝負だ。学習の指導者には厳しい自己評価が必要である。 1992. 4.18. S短大教育社会学、女  どうしてビートたけしに勝つ授業がしたいのですか? ちなみにある先生は、自分がつまらなくならないために楽しい授業をするんだとおっしゃっていました。 mito 厳しい自己評価は、自分のため、自分がつまらなくならないために行うのだ。 1992. 4.18. S短大教育社会学、女  教室に入って先生が待っていてくれたのは今日が初めてです。常識かもしれないけれど、思わずうれしくなって「おはようございます」って、気持ちよくいえました。(中略)  あまり慣れていない友だちと2人になると”ちんもく”になっちゃいます。そんな時、何を話せばいいのですか。是非、教えてください。 mito 勝負でないときには、たとえば「木戸に立ちかけせし衣食住」(社交儀礼的な会話のコツ−説明)のような仮面をつけた会話でよい。だが、授業は勝負のときなので、なるべく学習者が入ってくる前に教壇で待つようにもしているし、そんな仮面をつけたような「毒にも薬にもならない言葉」は言わない。 2 学生の非主体的学習態度への教師のエンカウンター  学生が学習に対して主体的になれない場合、社会や教育や他人のせいにするなどして、そういう自分の態度を認めることから逃避しようとしがちである。それに対して教師は真正面からぶつからなければならない。  ここでは、おもに、私の授業への評価としてCをつけた白紙の出席ペーパーを提出したケースと、3回で単位が取れるのだからもう出席しないと出席ペーパーで宣言したケースの2つを扱った。 1992. 5.13. T大U部社会教育概論、男  前回、この講義を聞かずに”C”の評価をつけた者です。Cをつけた理由は、「どうせ、こんな出席ペーパーなんて言ったところで、ろくに読みもしないんだろう」という考えにありました。軽い口調で学生に自分の授業への評価を求める・・・、いかにも今風のやり方になんとなく反発を覚えたのです。今まで、そういった人間、とくに教師にはろくな人間がいませんでしたから。  今回、「白紙でのC評価がくやしい」と言われて驚きました。そんなところまで見ていたなんて・・・。前回のC評価は撤回させていただきます。前回、僕はロクに講義を聞いていませんから。そういうのはアンフェアーですからね。次回からは、講義を聞いたときだけ評価することにします。今度は評価の理由も書きます。 mito 心を開いてストロークしてよかった。 1992. 5.13. T大U部社会教育概論、女  先生が一所懸命授業しているのは伝わります。しかし、少数意見はそれなりに大事にした方がいいと思います。私たち生徒は、単位のためには、好きじゃない教科や先生におべっかというか顔色をうかがうことは、正直言ってあると思います。だから、先生に対してプラスの評価をする人がかならずしもよい生徒だとはかぎりませんよね。先生ぐらいきちんとした人なら、あまりそのことにこだわるのはもったいないと思います。謙虚な気持ちを大切にした楽しい授業、期待してます。(評価はA) mito AかせいぜいBの上だと思っているから、これだけ学生にぶつけている。 1992. 5.16. S短大教育社会学、女  みとちゃんって自信過剰〜!と思いました。でも、その自信が良い方向で生かされているので良いと思った。Cの評価の話で、その学生がみとちゃんを解ってくれたことを話しているとき、みとちゃんがとてもうれしそうで、見ていてなんだかかわいかったです。 mito 教師は自分の授業を創る生産者であるとともに、「いい商品ですよ」と勧めるセールスマンでもあるべきだ。 1992. 5.20. T大U部社会教育概論、女  前回の授業の時、白紙のC評価に対して「僕はほとんどすべての学生からAをもらえる自信があるということを言われていましたね。私はその言葉にとてもがっかりしました。教師が自らの授業方針に対して自信をもって進めていくことは大切だと思いますし、教師が自信のない態度で授業に臨んだら、学生もきっと戸惑うことでしょう。しかし、先生自身が自分の授業に対しての評価をAだと口に出して言うのはおかしいと思いますし、おしつけとして感じます。  先生の授業の進め方が絶対的に正しく、学生にとって良いものだとは今は思いません・・・、と言うより、今の私にはわかりません。1年間授業を受け、最後に授業を受けた自分に対しての評価を出してみようと思っています。それが先生に対しての評価と一致するかどうかわかりませんが・・・。でも、毎回、この授業の中でハッとさせられたり、考えさせられたり、気づくことがあったりして、そういう意味では楽しみな授業です。 mito おしつけだったら授業評価など要求しない。学習者主体の評価が必要。そういう自分の考え方を明らかにしただけである。このようにすることによって、ほんとうは傲慢なことを考えているくせに、表面は変に謙遜ばかりしている教育者像というものを打破したい。 1992. 5.20. T大U部社会教育概論、女  先生には自分が共感できること以外は批判する傾向があるようですね。聞いててあまり良い気分じゃないです。別に何でもいいですけど。(中略)  悪影響を社会に及ぼすような性交、それにまつわる営業はキッパリとナイほうがいいと思う。私がどう言ったところで何も変わりませんが。そう思っている人は少なくないと思います。 mito いい気分にさせてあげるために教育があるのではない。学生が不快であったことなどは、僕の授業への批判にはならない。守られることを考えるのではなく、もっと対等に勝負してきてほしい。もちろん、受けて立つ。相談事業を行っているのではないのだ。 mito 別に何でもいいですけど、や、私がどう言ったところで何も変わりませんが、というのは敗北主義の表れだ。自分が思っていることが通らないからどうこうと言う前に、その自分の思っていることがそんなにたいしたことなのかどうか見つめた方がよい。 mito 教育学とは、これはないほうがいいとそれぞれが勝手に判断することではなくて、そういう現代社会の人間たちの生きる主体性の喪失という不幸とその自己解決への援助の方策の可能性を科学的に厳しく見つめることなのだ。 1992. 5.20. T大T部社会教育計画、男  今日でこの授業は3度目。これで先生は単位が取れるとおっしゃっているのですから、これからは多分出なくなると思います。  (差別の話・・・中略)ナチスドイツのヒットラーはユダヤ人を迫害したときにユダヤ人を下等な人種だという理由をつけていたが、もしかしたら差別をする人はそのような考えを持っているのだろうか。  さっき出なくなるだろうと書きましたが、この問題について先生もしくはS音大、T大の人はどう考えているのかを知りたいので、次回は出席しようと考えています。なるべく出ようと思っていますが、何かの理由で休んだらすいません。 mito 3回出たからもう出ない、と言われたのは3年目にして初めてである。でも、正直に書いてくれてよかった。すべての学生に意味ある言葉を発し続けられるのでは、という僕の自信または万能感が崩れたし動揺もあったが、それを回復させるプロセスもあった。ほかの学生などにも僕の授業についての感想を聞いてまわったのだ。 mito もしかしたらこの学生は僕の授業をあまり聞いていないで発言したのかもしれないし、あるいは最初から僕なんかをはっきり超えた主体性をもった人間なのかもしれない。それはわからないが、自分の原初的な問題意識に対する反応を面識のない多数の学生に期待し、しかも「次回だけは」出席するという態度には、真実の追究に対する傲慢さを感じる。差別に関する考察も、本人の実存から発した深い訴えになっているとはいいがたい。もう少しじっくりとらえていくべきものではないか。 mito 差別を封建時代のたんなる残りかすとして片付けるわけにはいかない。差別には、制度的差別と心理的差別(偏見)の二つがあり、とくに後者は私たちの主体性の問題が問われていて、この授業と深く関わっている。それは、自己の内なる差別意識を問え、批判の刃(やいば)を自己に向けよ、ということであり、この人の話のさらに次の段階のつもりで僕は授業を進めているつもりだ。対等な人間関係から逃げようとする権威主義への自分自身の依存を見つめてほしい。 1992. 5.27. T大T部社会教育計画、男  前回、「差別が・・・」というペーパーを出した者です。私のあんなひどいものに対して、先生が一生懸命にコメントしてくださっている姿に感動しました。これから地方公務員になり社会教育主事になろうと思っている人間(私のことです)がこんなことじゃだめですね。あんな教師批判のようなコメントを出したら、普通はにらまれるのに、怒りを抑え込んでコメントしてくれている姿に感動しました。ただ、自己弁護になるかもしれませんが、「3回出たら」という人は私の他にもいると思います。ただその人たちはそう書かないだけなのかもしれない、ということは言いたいと思います。  久しぶりに本当にためになる授業に出会えたような気がします。3回出たら、という言葉は取り消します。就職活動中ですが、できるだけこの授業は出ようと思います。こんな良い授業のある教育学科はうらやましいような感じもしました。  あの文章は、途中からかなり感情が入ってしまったので、あんなひどいものになってしまいました。「差別」という問題はかなり深いものがあると思うので、もう一度じっくり考えたいと思います。そして、これに対する考えがもう少し自分でまとまったら、また、ここに書きたいと思います。 1992. 5.27. T大T部社会教育計画、女  私を含めて、今の学生で大学の授業を能動的に受けている人はごくわずかだと思う。大学の授業に大きな期待をしていないのが本当ではないだろうか。大学に入るために勉強をし続けて、今やっと解放されたのに、また勉強をする気になどなれないし、自分から学ぶ姿勢というものも持っていないと思う。私たちの世代は、学歴社会という社会に勉強させられてきたように思われる。だから大学は、授業に参加する場ではなく、卒業に必要な単位だけとってあとは遊ぶ場としている人が大多数だと思う。それにカリキュラムが決まっていて、自分が興味がない授業でもとらなくてはならなかったり、とりたくてもとれなかったりして、つまらない授業でも1時間半、教室に座り続けなければならない。そんな時、頭の中では違うことを考えているんだと思う(私はそうだから)。  自分がきちんと聞いていないのもいけないが、先生によっては黙々と1人で話をしているだけの人もいる。大学は、学生と教師の距離が一番遠い所なのではないだろうか。mitoちゃんの授業は、その点、私たちとの距離が近くて教師の一方的なものではなく、私たちの意見に反応してくれている。でも、点を取るための詰め込み教育を受けてきた私たちの世代には、そういう授業への参加の仕方がわからないんだと思う。  U部の学生は前の席から座っていく人が多いと言っていましたが、それは、T部が受からなかったから仕方なく、という人を除いて、本当に勉強したい人がずっと多いからだと思う。 mito 大学の授業に主体的に取り組めないという学生の気持ちは、僕も学生時代はそうだったから、すごくよくわかる。でも、自主ゼミを開いたり、よその授業にもぐったりすれば、その問題は自分の力で解決できるのではないか。 1992. 5.27. T大T部社会教育計画、男  美東さんは、僕が好きなタイプの一人です。教科書には書いていないような人生にとって大切なことを教えてくれるから・・・。でも、美東さんを見ていると、何か下心が感じられてしまうのです。学生に好かれたいという下心です。  先生に挫折感を与えたその学生は、僕と同じように感じたのではないでしょうか。だから先生の心を試したのではないでしょうか。 mito 教師が学生により好かれたいと思うのは当然だと思うが、このペーパーが言いたいのは、僕が学生からのストロークを「卑屈に」求めているということか。何気ない仕草でそう感じられてしまうのだったら仕方ない。しかし、たとえば出席3回で単位を出すということに対してだったらそれは違う。授業を真剣勝負としてとらえる僕の考え方の表れなのだ。そして、そこではかならずしもいつも僕が勝つとはかぎらないというだけの話だ。 1992. 5.27. T大T部社会教育計画、女  いろいろと挑戦していつも前向きに生きている強烈な意志のようなものをmitoから感じます。それに比べて学生側はずっとだらけていると思います。私はできる限り真剣に聞いているつもりですが、時々、聞いていないこともあります。すみません。でも、ただ、座って時間のたつのを待っているだけの授業を、今まで20年間近く受け続けてきた人間にとって、積極的に授業に出ることは非常に難しいことだと思うのです。 mito そりゃあそうだ。すべての授業に集中し続ける、なんて無理な話だ。教える側が「有利」であるに決まっているのだ。教師はその自覚をもつ必要があるだろう。 1992. 5.27. T大U部社会教育概論、男  自己マン(自己満足)はつかれるのでやめてください。自己葛藤は人に話すものではないと思うのですが。 mito 不特定多数に言うべき言葉か、という問題はある。しかし、自分が自分の弱味をただ単にみんなにさらしただけだとは思わない。自己葛藤を含めた「強く闘う姿」の一つをみんなに提示したとは考えられないか。教師は、最後には、学生に乗り越えてもらえばよい立場なのだ。 mito 自己葛藤を話したのは「早くこの俺を乗り越えてみろよ」という意味があったのだと思う。それが自己満足かどうかなどと気にしていたら、コミュニケーションはできない。アヒルウサギの図を見て、ぼくがそれをアヒルだと言って「自己満足」しているとしたら、学生は「違う、ウサギだ」と批判してくれればよいのだ。むしろ、自分のことを「そもそも守られるべき存在なのに疲れてしまう」とか「他人から気持ちよくしてもらうべき存在なのにそうなっていない」とかしか言えない人こそ、自己満足的な生き方だとして批判されるべきではないか。 mito 僕を乗り越える事例・・・「先生はずるい。結局、考えれば当り前のことしか言わないのだから」と言って、恋や趣味に走っていった学生はいる。単位うんぬんとは決定的に違う生き方といえる。それまでは、くらいついてきてほしい。 1992. 6. 3. T大T部社会教育計画、男  毎回、先生に対する我々の意見が発表されますが、やはり私には未だに先生を受け入れることはできません。どうしても偽善ぽく見えてしまうのです。たしかに先生自身はいつも本音で私たちに向き合ってくれているのに違いありませんが、私が疑り深いせいか、そう思ってしまう今日このごろです。 mito 僕の努力・・・1 ペーパーを毎日ていねいに読む(のめりこんでしまう)。 2 始業10分前には教室に入っている(先に入っていることの意味)。 3 オープニングセール。それらは、自分が楽しいから、自分のためである。 1992. 6. 3. T大U部社会教育概論、女  mitoちゃんは、自分はこういう人間なんだということを、みんなに同じように認めてほしいと思っていらっしゃるのでしょうか? そんな風に聞こえてしまいます。 mito 本人が自分の不幸に気づかないかぎり、その問題を他人が解決してあげることなどできない。 mito 過去と他人は変えられない。しかし、他人自らの「人づくり」を支援することはできる。それが教育(社会教育)ではないか。 mito 教師として、みんなに認めてもらえるよう努力はしている。しかし、「同じように」認められるわけはないことはわかっている。それは当り前のことであって、ペーパーの意図がよくわからない。最初からふれあえないと判断して切ってしまった方がよい人もいる、ということだろうか。そうだとしたら、それは敗北主義であり、僕はいやだ。僕は、教師としての自分の方がすべての学生にわかってもらうための最大限の努力さえしていれば、それでよいと思っている。 3 教師や他人の自信を不快に思う敗北主義  自信とは、本来、他人より優れているということでも、絶対的に強い、正しいということでもない。むしろ、自己の弱さを受容し、そのうえで新しい知識や他者の言動なども参考にしながら、自分の核を変えていけることこそ、本当の自信といえるだろう。しかし、競争主義のなかで傷つき主体性が歪められた学生にとっては、他人の自信のある態度は不愉快なものとして映るのである。しかも、自分が授業料を払っている相手の教師に対してさえも、同じ反応を示す。そういう人たちは、今後、どのように成長し、自己を確立していこうというのだろう。  ここでは、私が学生の私語を間違って注意してしまった事件が中心になっている。人間が接すると傷つけあうこともある。そのとき、謝って許しあうということができないと人間関係はやっていけないのだろうが、一部の学生はいったん傷つけられたら謝られても自分の心の傷は回復できないと考えている。それまでの人生のなかで、守られることしか経験していないのだとすると、相手を傷つけないように、自分が傷つかないように、おそるおそる生きていくしかない。まさに、これは、「山アラシジレンマ」であり、自信(自分を信頼すること)と他信(他人を信頼すること)のない人生ということになる。 1992. 5.27. T大U部社会教育概論、女  (mitoの)ある程度の努力とそれに伴う自信に裏うちされる必要以上の思い込みに、私はある種のごうまんさを感じる今日この頃です。教職をめざす身の私にとって学ぶべき点は数多く、縁あってこの講義をとったわけですから、ずっと参加していこうとは思います。けれども、「ごうまんではない」と言い切ることそれ自体がすでにごうまんなのではないでしょうか。  日に日につのるこの感情を自分の中で消化しきれずにいるので、多少、時間はかかると思います。それでも、私は、自分と違うものを受け入れようとはしているつもりです。 mito 自信とは、欠点や弱点がないことではなく、それらを含めたありのままの自分をOKと受けとめ、必要に応じて自分を変化させることである。 mito 僕が「自分は傲慢ではない」と言ったのなら訂正する。しかし、そんなことは僕はふつうは言わないと思う。人間はアンビバレントな存在だから、僕自身も数%が傲慢で数%が傲慢ではない存在だと思っている。僕は自分のある行為に対して「傲慢(の表れ)ではない」と言ったのではないか。そういうことなら大いにありうる。それも否定して、すべての人間の行為を傲慢さと結びつけるのなら、それは敗北主義である。そういうふうにして、あなたは、結局、みずからの数%の傲慢さを黙認するつもりなのではないか。 mito 「ある程度の努力」という表現が、「自分が教師になったらもっと努力する」という意味のものだったら認めるが、きっとそういう意味ではないのだろう。むしろ、「努力」の効果への疑問視が最高位に置かれてしまうという敗北主義の特徴が表れた言葉だと思う。 1992. 6. 4. S短大視聴覚教育、女  今日はお友だちが傷つきました。あなたは自分に自信を持ちすぎていると思います。たしかにそれは大切だと思いますが、自信は人を傷つけることがあるのです。「口はわざわいのもと」です。気をつけてください。(全文) mito 「口はわざわいのもと」は自己表現に対する敗北主義である。 mito 暴力は知的水平空間にはなじまない。変にわかりあってしまうところがあるからである。だからこの授業では暴力は禁止している。僕が間違った自信をもっていると思うのなら、どこが間違っているか言ってほしい。そうでないなら、暴力を振るわれてもいないのに「傷ついた」と思ってしまう自分の弱さに気づいてほしい。 1992. 6. 4. S短大視聴覚教育、女  あなたはいかにももっともらしいことを言いますね。さぞかしものわかりのよい教師なのでしょうね。教師の理想像ともいうべき人でしょう。私も見習ってそういう教師になりたいです。でも教師といえども人間だから人を傷つけることもあると思います。私は、とくにあなたみたいな性格の方に、一番そういうことが多いと思います。あなたは、自分に自信があるから、自分に意欲があるから、その分、絶対に、あなたが感じている以上に、人を傷つけていると思います。今回のラベリングのことを良い機会にして、少し気にかけてみてください。  ちなみに、先ほどのラベリングで、あなたはラベリングをしてしまった学生に謝っていたけれど、あれはその前にレッテルを貼られるような行為をしていた学生が悪いのであり、謝る必要はないと思います。  私はあなたの自信過剰があまり好きではない。  生徒の身分でえらそうなことを書いて申し訳ありません。(全文) mito ラベリングとは、相手の過去の行為が現在の判断に影響してしまうところに基本的な問題があるのだと思う。相手の今の行為については、むしろ、理由や気持ちなどをわかろうと分析する努力が大切だと思う。そうでないと、人間の相互理解の難しさを一面的に強調する敗北主義に陥ると思う。 mito 自信過剰というが、資質・能力以上のホラを僕が吹いただろうか。このように考えている、努力している、と言っているだけではないか。 mito 僕の授業は、僕にとっての勝負をかけている唯一の商品である。それを「素晴らしい品物ですよ」と言わずにどう言ってほしいのか。教師の授業に対する自信を不快がるのではなく、現実の授業(商品)が教師の公言するほどでもない部分があるならそれを指摘して批判すればよいではないか。僕は「受けて立つ」と公言しているのだから。それとも、教師が自分の授業を「つまらないだろうけど僕のために我慢してくれ」と言ったら、あなたは初めて満足するのか。だとすれば、あなたはひどく主体性のない(教育の)消費者だと僕は思う。 1992. 6. 4. S短大視聴覚教育、女  今までにない楽しめる授業で良かったです。自分の過ちを認めて、生徒の前で頭を下げる先生なんて、そうざらにいないと思います。感動しちゃいました。しゃべったのは、私と○○さんです(この学生は僕のラベリングによって私語に関する2回目の注意を受けた学生の一列前に座っていて、その私語を僕が先ほどの学生のものと誤認したようである)。どうもすみませんでした。内容は○○さんのペーパーにちょっとmitochanのイラストを書いていて、そのことでしゃべってしまったのです。トレードマークにでも使ってちょうだい。・・・なんてずうずうしいんでしょう。 1992. 6. 4. S短大視聴覚教育、女  一番印象に残ったこと、学んだこと、をいうと、mitoちゃんが話をしていた子をまちがえたでしょ? そのあとすぐあやまった。これってすごいと思った。普通のっていうか一般の教師というような人は絶対あやまらないと思う。だって教師っていうのは、生徒より立場が上だっ、みたいに考えているでしょ?  だから、教師って苦手だった。中学でも高校でも。何かしようとしても、それがちょっとまわりの人と違うことだと、上から圧力みたいのをかけるでしょ。そういう所とかがすごくイヤだった。  でも、mitoちゃん見て思った。「苦手」って決めつけていたからいけなかったのかナって。あたしがわかろうとしてなかったのかもナーって・・・。むこうもあたしのこと対等のものとして見てなかったのと同じように、あたしもむこうを対等のものとして見てなかったのかもしれない。 1992. 6. 6. S大教育社会学、女  私は、そのペーパーの文章の中に、人間が本来もっている「いじわる」の気質がかくれているように感じました。もちろん、その人もそれだけのために書いたわけではなく、本当に思ったことを書いていたと思うけど、人間って少なからず「いじわる心」をもっていますよね。それって、弱い人がマトになることが多いけど、逆に自信があっていつも熱く燃えているはりきり屋さん(=mitoちゃん)に対しても、起こってしまう時があるみたいです。そのような人に対して、「自分はそこまでできない」「先を越された」というような”あせり”や”しっと心”が「なんだかちょっといじめたくなっちゃうなあ」という気持ちを生んでしまうときもあります。彼女のペーパーにはそんな気持ちがちょっと隠れていたような気がしました。でも、こういう私の考えもラベリングなのかなー?  最後の最後に思ったのですが、mito先生のことを「あなた」と書いた人たちは、ちょっと卑怯な人だと思う。mito先生を目の前にして口で言うならまだしも、顔がわからないから紙に書いて紙を仮面にしている。口にする方がイントネーションによって言いたいことももっと素直に伝わるのに、紙に書いて人を批判するのは卑怯だと思う。 mito 知的水平空間としての授業における出席ペーパーだからこそ、どんどん批判すればよいのである。そこで僕を練習台にして、きちんと相手を批判できる能力をだんだんと身につければよいのだ。だから、普通の友だちに対してやってはいけない。僕に対してならかまわないのは、教員としての僕は学生からの批判をまともに受けて立ってあげるために給料をもらっているようなものだからである。 mito 学生からのそれぞれの批判のなかには、かならず数%ずつの真実が含まれている。1%の真実が含まれているとすれば、それはすべての学生が1%ずつそういう気持ちをもっていると考えてもよいのだと思う。だから、その1%に対して教師はまともに答える必要がある。 1992. 6. 6. S大教育社会学、女  私もmitochanのことを、ちょっと自信過剰だと思ったことはあります。なにか信念みたいなものがあるのか、自分の言っていることが一番正しいと思い込んでいるように見えたからです。  でも、mitochanは、学生から指摘されたことについて、ちゃんと答えてくれるし、弁明をしたり、必死で説得しようとしてくれます。  それで、”どうしてみんな自信過剰だと思うのか”ということについての私なりの解釈です。私たちは、たかがといえど20年以上生きているわけで、それなりの経験にもとづき考え悩んでいるのだから、それを指摘されたり変えろと言われたりしても、ムッとするというか、心をかき乱される気がして、いい気分ではなくなるからなのだと思います。 mito 本当の自信とは、もし自分が間違っているとわかった時には変えてもいいや、別に恥じではない、と思えることである。そのように思えるようになると、人生はとてもいい気分で、つまり自信に満ちてすごせる。 1992. 6. 6. S大教育社会学、女  自信がなきゃ音楽を人前でできませんよね。うじうじ舞台に出て「どうしよー」なんて言いながら弾いたり歌ったりするのは、みっともない。ただし、油ぎったオジサンみたいに自信を公私にひけらかすのはアホです。私的にはひかえ、公的には胸をはる(逆をやるのもアホです)。  自信のない人が会社で立案できます? 自信のない人が「あのー、僕、こう考えてきたんですけどー」なんて言ってきたら一発でクビです、私が上司なら。でも、普段、控え目な人間が自信を前面に出してきた時ほど目を見張らせるものがあると思います。 mito 私的に控えるということは、さわやかに依存できることを意味していて、公的に胸を張るということは、そういう自立した人間が役割遂行することを意味しているのだととらえられるだろう。その逆をやる人も世の中にはたしかにいる。そういう人はCP(厳格な親の心)とAC(従順な子ども心)の傾向が大きい権力に弱いタイプの人といえる。 1992. 6. 6. S短大社会教育概論、女  今日のみとchanは少しこわかったです。それはすっごく真剣に話していたからだと思うけれど、私は萎縮しちゃいました。  今日の話で学んだことが多くて、頭がこんがらかっていてうまくまとまりませんけど、「視聴覚教育事件」で私が思ったことは、いいとか悪いとかの前に、先生から授業中に指摘されることは本人には好ましく思えないっていうのか、何かスマートではない、かっこわるい、だから注意されるのは避けたいっていう、人間の中にある自分を守ってしまう作用が働くのだと思う。  みとちゃんが、今、何を考えているのかわからないけれど、みとちゃんは自分のことを非難した人に対してどういう感情を持っていますか? 私はみとちゃんを見ていて怖い気がしました。みとちゃんに注意された人の、現代人にしかわからないっていうのかな、気持ちをわかっていないのなら覚えてあげておいてほしいと思いました。  今、何を言っているのかわからないので、変な言い方をしてたらごめんなさい。傷つかないでください。ある面でみとちゃんの考えに賛成しているんです。 mito このペーパーを読んで、事件の当事者の痛みを少し再認識した。でも、結局は、その双方の痛みの積み重ねが授業なのであろう。 mito 教師が傷つかないように配慮する気持ちはやはりありがたいものだ。これは批判のしかたとしてもなかなかのものだ。 1992. 6. 8. S短大社会教育概論、女  この人の言いたいことはすごくよくわかる。けれどこの人は今までずいぶん傷ついてきた人なんじゃないかと思う、学校などの先生によって。mitoちゃんが言っていたような「自信」と「他信」がもてなくていつも「守り」に入っちゃうような人だと思うのだ。  先生がラベリングのあととった行動はそれでいいと私は思う。これぐらいでそっぽを向くような人も肝っ玉の小さい人ですね。たとえばmitoちゃんがいつもラベリングするような先生だったら、そりゃあ怒りたくなるけれど、そんな先生じゃないんだし。その人が傷つく気持ちもよくわかるけれど。その子は「自分を信じてもらえなかった」と思ったのだろうが、逆に言えば先生も「信じてもらえなかった」のだ。この子は他人を信じないで自分を信じてもらえると思っているのだろうか。(事実は、問題のペーパーを書いた人は、僕のラベリングの直接の被害者ではない)  先生は自信があると言うより、私の言葉で言えば「強い」のだと思う。「弱い」人は何かと「強い」人を批判しがち(批判されて当然の場合もありますけど)なのではないでしょうか。 1992. 6. 8. S短大社会教育概論、女  高校のときの先生が、言いたいことがあったら言え、と言ったので、実際に言いたいことを言ったらすっごく怒りまくられた。それ以来、卒業までの2年間、その先生には何も言えなくなったし、言わなかった。そして、卒業式の日にそのことに関して先生からあやまられてしまった。すごくショックだった。私も先生に対してラベルを貼ってたんだなあ、あの先生はイヤな奴だって(あんまり思い出したくなかったけど思い出してしまった)。  そのとき私が先生に言ったことで、先生はすごく傷ついてしまったらしい。言いたいこと言えないのもつらいけど、言ってしまうのも考えものだと思う。この人は絶対にそんなこと言わない人だと思っていた人にズバリ言われてしまったら、やっぱりショックだろうな。この前、先生に会ったけど、普通にしゃべれた。よかったと思う。 mito 自信をもっている人は、他人からどんなことを言われても、耐えられるはずである。その教師は、それができると思っていて実際にはできなかったのだから、これこそ「自信過剰」というべきであろう。そういう人には攻撃的な言い方はしない方がよい。そういう場合は、人格に踏み込まないようにして、行為だけについて、「私は」という言い方で、迷惑な点などをわかってもらうようにするとよい。そして、基本的に信頼しているのだけれども、という、Yes,Butの言い方も有益である。なお、これらのテクニックは、アサーティブ・トレーニング(自己主張訓練)の基本的技法である。 1992. 6.10. T大T部社会教育計画、男  自信に満ちている感じがする。それは子どもの頃から優等生であったからだろう。劣等生の気持ちをもう一度考えてほしい。(全文) mito このペーパーの人は自分を「劣等生」としてラベリングしているのではないか。自分の主体性の獲得を阻害するようなそんな社会の物差は、自らが拒否せよ。教師の態度が自信に満ちていること自体だけをとりあげて批判するのは、たんなる負け犬根性の表れであり、知的水平空間における本来の批判にはとうていなりえていない。 1992. 6.10. T大U部社会教育概論、男  私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのか、分かりません。  しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。  しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに「変に理解しあってしまう」という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです。(全文) mito この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて「真剣に」受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう。この授業は深い意味をもっているのだから、友だちにこの授業の録音を頼むなどしてもっと僕に食いついてくることを勧めたい。 mito たかだか2回目の受講だけで、年上の教師に対して実質的には「敵対語」ともいえる「あなた」という言葉を使っているが、それはあなたがその言葉を本当に主体的に選択した結果なのか。僕には理解しがたい。 mito 納得したのなら、自分を変えよ。納得しなかったなら、自分は変えるな。それだけの話だ。最初の授業で話したことだが、自分を変えることを学習というのだ。自分を変えることは初めはつらいだろう。つらいから、それをあなたは暴力と短絡させたのではないか。しかし、暴力は相手の納得に関わりなく行われる行為であり、自分が納得してしまうことをその暴力と混同することは、学習に関する非主体性の表れというべきである。 4 そのほかの事象  紙面に限りがあるので、考察の部分だけ抜粋する。これに関わる出席ペーパーおよび私のコメントの事例を希望される人には、2DD(5インチ、3.5インチのいずれも可)のMSDOS標準テキストの形態で喜んで提供します。 (1) 人間や教師に器(うつわ)などない  教師を志望する学生のなかには、「自分は子どもを教えることに向いている」と思い込んでいる人がいる。そういう学生に会うと、私はぞっとしてしまう。知的水平空間で対等に教え学びあうということができない人が多いのだ。そういう人が教師になれば、典型的な独善的教師になることは目に見えているではないか。逆に、教師になるための情熱と資質がありながら、「自分はそんな器ではない」と考えてあきらめてしまう学生もいる。  教育の世界だけでなく、現代管理社会全体が、「しかるべき器」という勘違いの幻想をヒエラルキーのそれぞれの地位や階層に勝手に当てはめて勝手に満足しており、運良くそれに当てはめられた人は過度に認知されすぎ、また、その人の行為が地位や役割に関する社会の誤った認識をいっそう固定化させているように思える。現代社会のすべてにわたって、人間の成長の可能性を重視する教育の観点が必要であるといえよう。 (2) 他人の「聞く耳」がこわい  出席ペーパーは、それぞれの学生の完全な自己コントロールのもとにおかれている。しかし、彼らが今までの人生のなかでものを書くときには、他者と比較されるためでしかなかったとすると、出席ペーパーを書くという初めての体験には戸惑いが生ずる。見知らぬ他人にわざわざ自分から情報を発信するという意義も必要性も見いだせないのである。  この問題を克服することなしには、現代社会のなかで人間的なネットワークを創り出すことは不可能だということになる。 (3) 対等な人間関係の中での性的興奮  セクハラの問題は、対等な人間どうしという立場では人間関係をもてなくなった人が、地位や暴力を利用して性的関係を味わおうとする、現代人の一種のあがき、または、生きる主体性の喪失の象徴的事象として理解できる。  そこまで論及しないで、性的興奮自体を悪いこととして排除しようとしたりする潔癖主義や、逆に仕方のないこととして黙認する反理性主義は、結局、敗北主義に陥るしかないのである。 (4) 人間不信の深み  本来の厳しさとは、自分にも向けるべきものである。自分や他人に基本的信頼を寄せることが教育の営みの根底を築くが、他方では、人間には醜い部分や弱い部分があるのも、もうひとつの真実である。そこから目をそらさないで自己の人間不信を自ら問い詰めていく姿はまさに「個の深み」と呼ぶにふさわしいものであろう。  ただし、現代青年にとって、責任を転嫁しないで真実を探求しようとすることは容易なことではない。それは、保護や管理ばかり与えて、自由の恐怖を与えてこなかった社会や教育も悪いのである。 (5) 身勝手な恋愛観  「自分は守られ続けなければいけない」という強迫観念に縛られている現代青年にとって、もっとも大きな危機は恋愛である。なぜなら、相手もそう思っているからである。かといって、結婚はともかく、恋愛まで人生から放棄する気にはさすがになれないようだ。そこで、「世界一かわいい女の子」と「世界一かっこいい男の子」が社会から突出した形で交際するというファッショナブルで身勝手な恋愛観が作られる。  そういう恋愛観は、仮説的ではあるが、自己実現を一度は求めたが挫折してあきらめたそのあとの敗北の見返りのようなつもりで信じ込まれているようだ。競争社会の悲しみを味わってしまったお姫様が、こんなにかわいそうな自分を守ってくれるすてきな王子様が現れないわけがない、と無理に自分に言い聞かせているように思えるのである。 (6) 不当な相手を許すな  不機嫌な駅員が客である自分にぶしつけな言葉を吐いたときに、どう対応すればよいか、というテーマで、さわやかな自己主張訓練の話をしたとき、「私ならその駅員に謝ってしまう」という学生が驚くほど多かった。自分は守られるのが当然だと主観的には思っていても、実際の生活ではそううまくはいかない。そういうとき、コンフロンテーション(対決)することができず、不当な相手に謝罪することによって、結果としては、とかげの尻尾のように自分の尊厳を切り捨ててしまうのである。それが身を守るためのたんなる演技であるなら大きな問題ではないのだが、彼らの場合、傷つきたくないがゆえの人生の常習的な構えにまでなっている。それでいて、そういう事件によって、心の傷や人間に対する不信感、諦観がいっそう増大する結果にもなっている。  なんという悪循環であろうか。 (7) 今の自分や他者を判断することからの逃避  交流分析のエゴグラムを紹介したりすると、人間の言動をあまりにも直接的に扱うことになるからか強い抵抗を受けるときがある。「決めつけられるものではない」ということで逃げてきた部分に引き戻され、自分や他人が理想的な存在ではなくアンビバレンツな存在であることを思い知らされることになるからである。もちろん、人間存在は結局は「決めつけられるものではない」のだが、それは真実に鋭く迫ったあとに知るべきことなのである。  他方では心理テストブームのなか、こういった実証主義的な科学までゲーム感覚で取り込んでしまう学生も多い。両者の根源に流れる問題は同じなのであろう。それは、人間存在が弱い部分や醜い部分をもっていることを受容し、発達・成長する可能性に基本的信頼をおく、ということができないでいる現代社会の人間全般の問題である。 (8) ガンバリズムのうそ  頑張ろうとしても頑張れない精神的な問題をもつ人に「頑張って」という言葉は禁句である。なぜなら、そう言われた人は「やっぱりわかってもらえなかった」という気持ちをもってしまうからである。私は、そもそも、「頑張る」という言葉に嘘があると考えている。「頑張る」という言葉は、オルターナティブ(もうひとつの)な価値を無理に否定して、自分が自分をだまして突き進もうとする言葉だと思うのである。日本語にはもっと素直な言葉、一所懸命や一生懸命などがあるはずだ。  もちろん、運動会で頑張って走れている人に向かって「頑張れ」と応援することは、とくに問題にはならない。問題になるのは、何か深刻な葛藤があった場合に、本人または関係者がその問題と対面することを避けようとしてこの言葉が使われるときである。 (9) 自分のために生きる−ギブアンドテイク  自分のために生きるということは、どんな分野でもとても大切なことであるといえる。それは「利己主義」や「功利主義」とは異なるものである。他人が「自分の期待に沿うために生きる」ことを期待したり、自分が「他人の期待に沿うために生きる」ことで自分の問題から逃避したりするような非主体的な態度ではなく、自己管理的な人生や人間関係を主体的に創り出す態度である。  現代青年はミーイズムだといわれているが、あることについて「自分のためにやっている」といえる青年は、むしろ少ない。他人から保護されたり管理されたりして守ってもらうことが当り前、という生き方をしているうちに、「自分のために」が下劣なことのように感じられるようになり、「自分のために」生きる力を失ってしまっているのである。  しかし、おたがいに自立した対等な人間どうしとしてギブアンドテイクの依存関係を繰り広げるネットワーク社会においては、何かを自分のためにしていると言える資質と能力は不可欠のものになりつつある。また、現代青年にとってもその魅力は大きく、実際にもボランティア活動などとして表れているのである。 (10) 信用ではなく信頼を  自分や他人に対する基本的信頼とは何か。難しい課題である。しかし、次のような出席ペーパー(省略)から、私はひとつのヒントを得た。それは、「信用」と「信頼」の違いである。やはり、「信頼」という言葉は、産業社会やヒエラルキーのなかでの言葉ではなく、仮面を外した人間関係やネットワークのなかでの言葉といえるのである。 (11) 気をつかうな、気のきく人になれ  「してもらう」経験しかない青年が交流するとき、「してあげる」「してもらう」ことのやりとりが、なかなかスムーズには交換されない。その理由のひとつが、自分が傷つきたくない、他人を傷つけたくない、という気持ちが強いあまり、「気をつかって」疲れてしまうということである。グループワークトレーニングの最大の効果のひとつは、「気をつかう」のではなく「気のきく人になる」ということによって、とても楽な気持ちになれるということを知ることである。 (12) 仲間の撤退を許すネットワークマインドを身につけよ  私はネットワークの大原則のひとつとして、「参入と撤退の自由」を挙げている。現代の心優しい青年たちにとって、異質の他者の参入は不快ではない。しかし、他者の撤退は気になるし、また、自分の自己管理的な撤退にもためらいを感じるようだ。それは、同一化によって自他の安全や安定が保障されるというピア・コンセプト(仲間意識)の非主体的側面の表れとしてとらえられる。そのままでは、個を疎外する社会や組織に不適応を起こしつつある自分たち自身を解放することはできないであろう。コミュニケーションの努力は怠らないとしても、各人の行動についての責任は各人がもつべきなのである。  生涯学習の理念が提唱するSelf-directed Learning(自己管理的学習)の現代的意義は、ここに象徴的に表れている。