「現代的課題」に関する学習プログラム作成の視点                   1993県民ガイドブックかながわの生涯学習                    昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 4 学習プログラム作成の実践的課題 (1) 学習ニーズの把握と事業成果の評価  NHK学習関心調査の結果を見ると、小数点以下の学習ニーズ(需要)がずらっと並んでいます。人権、まちづくり、高齢化社会などの現代的課題については、顕在的学習関心(ふだんから学びたいと思っているような顕在的な学習の希望)がそれぞれ0.1%以下であるばかりでなく、潜在的学習関心(ふだんは意識していないが、学習項目のリストをみれば学んでみたいと思うような学習の希望)でさえ、10%を超えるか超えないかという程度です。人びとの現代的課題に関する学習ニーズを把握しようとする場合、まずは、こういう問題について企画者側としてはどう考えればよいのか、整理しておく必要があります。  もし、「ニーズがその程度しかないのなら、人が集まらなくて苦労するのは目に見えているから、そういう企画はやりたくない」と考える人がいたら、それは論外です。そんなことでは、現代的課題に関する学習事業など、そもそも成立しないといえるでしょう。しかし、「参加人数などは問題ではない。たとえ孤立無援になっても、わが道を行くのだ」と突っ張るのもどうかと思われます。企画者側は、自らの自己実現のために社会的役割(現代的課題に関する学習プログラムの作成)を与えられているのではないからです。わが道を行くのもいいのですが、そういう人には、自らの事業の成果を客観的に評価できる力量が人並み以上に求められます。  その場合、事業の成果は「質×量」で評価されるべきであるということが重要です。これを経費で割れば、効率ということになります。質とは、難しければよいということではなく、現代的課題をどれだけ有効に提起できているかということであり、量とは、人が会場にやってくることだけではなく、集団学習や個人学習の援助なども通して、どれだけたくさんの人にその現代的課題を提起できたかということだと考えられます。たとえば、高齢化社会の問題について0.1%の人びとが顕在的学習関心をもっているとすれば、1万人の人口に対してなら10人の人がいるということになります。その10人は今後の高齢社会におけるキーパーソン(鍵になる人)であり、地域でのその影響力は量的にもかなり大きいと思われます。また、その10人がたとえ私たちの講座には参加してくれなくても、私たち企画者側の存在に気づいてくれて、この問題に関するゆるやかなネットワークを私たちと結ぶことができたとすれば、それ自体に大きな意味があると考えられます。  これと同じように、現代的課題に関する学習ニーズの把握においても、量的調査だけでなく、質的調査が重要です。量的には小数点以下の学習ニーズであっても、質的には現代社会がその解決を強く求めていると認めることのできる課題は十分ありえます。また、そのなかからは、私たち企画者側がまだ十分には認識しているとはいえない住民の学習ニーズのトレンド(流れ)を、いくつか発見することができるかもしれません。「絶対確実に当たる」という学習ニーズを最初から捜し当てることは私たちにはできなくても、住民の生活のなかにすでに山のように存在しているトレンドが、ここで求めている現代的課題の発見につながっていくことを期待することはできるのです。いいかえれば、現代的課題は学習ニーズの質的調査によって「発掘すべきもの」とさえいえるかもしれません。  量的調査としてのおざなりの学習需要調査をしただけで、「うちの町民は学習意欲が低いんです」と訳知り顔で決めつけて勝手に悲観的になっている関係者を見かけることがありますが、よく考えてみると、住民の学習ニーズとしてまったく表れてこないような「現代的課題」を、神様のように言い当てることができると私たち自身が思い込んでいるとしたら、そのほうが恐ろしいことです。 (2) 参加対象の設定・限定と「異質の交流」  学習プログラム作成における参加対象の設定の意味は、私は3通りあると考えています。   @ プログラムを作成する場合に、おもな対象を具体的に頭に浮かべるほうがより現実的な発想ができるという程度のもの  A この対象にこそ、この現代的課題について学習してもらいたいという意図を企画者側がもっているもの。  B 個人が安心して同調できるような仲間関係(準拠集団)をつくりだすために、予定した対象以外の層からの参加を意識的に排除するもの。  しかし、対象を限定した現実の学習プログラムのなかには、@の理由か、せいぜいAの理由しか考えつかないようなものなのに、ほかの参加対象をはっきりと排除してしまっている開催要項のチラシも見受けられます。それは、「対象輪切り」の社会教育の古い観点から発想されたものであり、その功罪は冷静に見つめ直しておく必要があると考えられます。結果的に対象外の層の人びとが参加してくれないのなら仕方ありませんが、予想した対象範囲外の人がせっかく参加申込をしてくれているのに、担当職員がむしろ自慢気に断ってしまっている一部の状況を見ると、本当にもったいないと思います。今後のネットワーク型社会は、「異質」な人とのヨコの相互交流をめざそうとするものなのです。現代的課題は、従来の階層社会の上下関係ではなく、ネットワーク型社会の水平関係によってこそ、その解決が期待できるのです。  もちろん、まだそんな主体性を期待できない段階の対象に対しては、Bのように「積極的に」参加対象を限定して、同質集団の仲間づくりから始めることもありうるかもしれません。たとえば、青年たちのための料理教室を行なっていたとして、そこに「元気印」の主婦層の参加を認めると、現代の消極的な青年たちは、積極的に実習する主婦を遠巻きにして、彼ら自身は包丁を握らなくなる恐れもあります。婦人学級で女性の悩みを語り合おうとしていたとして、そこに男性の参加を認めると、その男性からの悪意の発言によってぺしゃんこになってしまう女性参加者も出てくるかもしれません。企画側の職員は、そういうことを恐れて、Bのようにして「同質集団」をつくりだそうとすることがあるのでしょう。しかし、それが自分たち職員の「思い込み」にすぎないのではないか、あるいは主対象に対する「みくびり」になってはいないか、厳しく自分を振り返っておく必要もあるでしょう。  とくに、現代的課題の学習を進めようとする場合は、いっそう積極的な「異質の交流」が求められると思われます。現代的課題の解決の方向に関する合意形成を住民のあいだに創り出すためには、人びとの価値観や判断基準の違いの折り合いをつけることが必要になるからです。そのためには、参加対象についても、広い世代層の参加や、外国人、他地域からの参加と交流を求めるなどの積極性や柔軟性こそがむしろ大切なのです。 (3) 学習テーマの設定と表記  学習テーマはどんな根拠から設定されるのかというと、そのおおもとは教育目的であり、公教育の場合、その教育目的は教育基本法第1条(教育の目的)に載っています。その内容は次のとおりです。「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない」。  ですから、もし、「わが町の駅前再開発について学ぶ」という学習テーマを設定したとしても、そのおおもとの教育目的は、たとえばこの場合なら、「社会の形成者としての自主的精神に充ちた市民の育成」ということになるわけです。社会教育行政などの教育委員会の行なう事業については、とくに、現代的課題の学習を住民にしてもらうこと自体が事業の根本的な目的になってしまってはいけないと思います。なぜなら、公教育が住民の内面に関わることを許されているのは、教育目的に関するこのような歯止めがあるからであり、それを外して現代的課題の学習自体を自己目的化し、しかもそのある程度の「解答」まで準備してしまうような状態では、行政や職員側の御都合主義に陥る危険性があるからです。  ただし、参加者募集のチラシにこのような教育目的がそのまま書かれているだけで、住民にとっては、その事業がどんな内容なのかはわからないとすれば、実際には困ったことになります。そんなことでは、住民のなかから参加したいと思う人が現れるはずはありません。もし、「社会の形成者としての自主的精神に充ちた市民の育成」を、そのチラシの文面どおり「してもらいたい」という住民がいるとしたら、それは不健康な状態と考えるべきです。生涯学習とは、「学びたいことを学びたいように学ぶ」ことであって、教育基本法でいう「行なわれなければならない」ものとは違うのです。  教育基本法の「〜の育成を期して行なわれなければならない」という言葉は学習の援助者に向けた言葉であると考えられます。この言葉をもっとも肝に命じ、自戒すべきは、じつは企画者側なのです。なぜなら、企画者は、自分の自己実現のために生涯学習を行なうのではなく、自分に与えられた社会的役割(教育の目的)の遂行のために生涯学習の援助を行なっているからです。(しかし、その他者のための援助を、「住民のため」ではなく「自分のため」に行なっているといえるさわやかな謙虚さも、企画者には必要でしょう。)  さて、教育目的を具現化するための最初のレベルの表記が教育目標です。ここに引いた例では、「都市計画に関する知識を深めるとともに、そのことによって関心を喚起する」ということになるでしょうか。さらに、この教育目標を反映してそれを学習者向けに表記したものが、事業名や学習テーマということになります。事業名については、もとの名称が「○○市成人学級」などであったとしても、それを踏襲する必要はありません。それは行政内部で施策名として理解されていればよいのであって、事業名としては「都市計画連続講座」など、事業の内容をよく表す名称に臨機応変に組み変える必要があります。そして、最後に「わが町の駅前再開発について学ぶ」という学習者自身にとっては一番大切な学習課題、すなわち学習テーマが浮かび上がってくるのです。  しかし、ここで例示した表記は、どれもいまひとつぱっとしない感じです。各地域の企画担当者が、それぞれの地域性を反映したもっと魅力あるネーミングを工夫されるよう望みます。そこで大切なことは、ひとことで言えば「学習者の主体的選択行為に貢献できる表記」ということです。学習プログラムのなかに現代的課題に関わる学習目的や学習課題を抽象的に述べ立てただけで、あとはとにかくそのプログラムを実施しさえすればよいという行政側の形式主義、御都合主義な態度では、「しらじらしい」「うそっぽい」ということで、住民を現代的課題の学習からますます遠ざける結果につながりかねません。 (4) 学習内容の設定と「新しい枠組」の提示  学習情報提供の重要性は、いまやすでに関係者によってかなりはっきりと認められるようになっています。それは、従来の教育の押しつけがましさとそれへの反発の不毛な繰り返しを中断して、一歩踏み出す意味をもっているのだと考えられます。しかし、そこで、ひとつの問題が生じます。企画者側は、情報の提供をするばかりで、独自のメッセージは発信しないのか、という問題です。  従来、地域の社会教育やその施設が自立性を発揮して個性的なメッセージを発信することについては、その意義が繰り返し強調されてきました。現代的課題に関する学習プログラムの重視は、そのような個性的なメッセージの発信、すなわち、たんなる情報提供サービスにとどまらない企画者側からの問題提起にもつながることになるでしょう。それがもっとも具体的に試される場面が、学習プログラムの作成における学習内容の設定なのです。そこでは、企画者は、「何をメッセージとして織り込みたいのか」、すなわち自己の仮説の存在とその鋭さが問われます。  つぎに、学習者の共感をよりいっそう誘うために、どのように学習内容を設定するかということが問題になります。学習者の共感を得るためには、まず、こちら側から学習者の現在の枠組を共感的に理解し、その理解を学習者に伝えなければいけません。つまり、「みんなのため」ではなく「あなたのため」に、すなわち学習者にとっての「自分のため」に、その現代的課題を設定したのだということを示すのです。そうでなければ、「学びたいことを、学びたい方法で」という生涯学習の大原則を守ることはできません。なお、企画者側からいうと、実際には集団を対象にしているので、「一人ひとりのため」ということになりますが、たとえばキャッチ・コピーなどでは「あなたのため」のほうが迫力があると思われます。  このようにして、企画者と学習者とのおたがいの共感的世界を築き上げたうえで、学習者の現在の枠組とは異なる新しい枠組を提示できるように、学習内容を設定します。「新しい枠組の提示」は、固定化した枠組のなかに知識を詰め込むだけの受け身的なものから、自己の枠組の変革を伴う主体的な内実をもつものに学習を発展させるためには、とても重要です。その新しい枠組は、現代的課題の学習についていえば、たんなる住民の一人(ワン・オブ・ゼム)としてではなく、行政職員としての、あるいは生涯学習援助者としての、独自の専門的・技術的な見識を土台にする問題意識などから形成されるものです。そうであってこそ、自由な学習者としての住民が勤務時間内の行政職員と「ともに学ぶ」意味合いが生まれるのです。これとは逆に、行政職員に対して、その存在価値として「今の自分と同じ枠組」を求める住民の同一化の志向は、結局は行政依存型の学習態度にしかつながりません。  「新しい枠組」の発見の仕方については、そのほかに、たとえば「異質馴化と馴質異化」という発想法の方法論が参考になるでしょう。これについては、現代的課題の学習を例に引いて説明したいと思います。  たとえば、国際理解教育では、つい、「国際関係論」などの抽象的な内容に進みがちになります。これは、国際理解を自分たちの日常生活とは離れているもの、すなわち「異なもの」としてしかとらえていないので(「異」のレベル)、発想が限定されてしまうからなのです。これに対して、日本に今いる外国人に対してなぜ私たちは変なわだかまりを持ってしまうのだろうという問題を認識したいのならば、いったんごく日常のレベル(「馴」のレベル)に立ち戻って、地域の隣どうしの関係において「あの家はピアノを買った」とか「自分は買えない」ということを気にする私たちの日常的な意識を問いなおしてみたらどうでしょうか。それと私たちの国際意識の問題との関連を明らかにすれば、これはかなり主体的認識を呼び起こす学習プログラムといえるでしょう。  また、コミュニティ教育においては、今度は逆に、「公園の空缶を拾いましょう」とか「地域に花を植えましょう」などという日常生活レベル(「馴」のレベル)の発想に終始しがちです。それらのことも大切なのですが、そればかりやらされるほうはいやになってしまうわけです。しかし、いつも身近にあるコミュニティを、地球の一部としてあたかも他の天体から見るような気持ちで見てみると(「異」のレベル)、地球の限りある資源を大切に使わせてもらうためにコミュニティが果たすことのできる大きな役割も見えてくるでしょう。さらには、地域にコミュニティを形成することと、世界全体が一つのコミュニティであるという意識を持つこととは本質的には同じ精神に基づくものなんだという気づきにまで発展するかもしれません。  さらに、学習目的の違いによって、学習内容は大きく変わりうると考えられます。私は、学習をその目的の違いによってつぎの3つに分類してとらえています。  @ 即自的学習(学習すること自体に楽しみや意義のある学習)  A 目的的学習(ほかの目的の実現のために意義をもつ学習)  B メタ的学習(その学習の意義や方法について学ぶことによって、その学習をより効果的、主体的に進めていくための学習)  これらの目的は、実際には、ひとつの学習のなかにもこん然と存在しているのでしょうが、それでも、現代的課題の学習の場合には、Bのような抽象的な目的から発する学習内容がどうしても多くなり、直接的な楽しみや行動に結びつきにくいために、@の学習のもっているような魅力や迫力を失いがちだと思われます。Bの学習としては、たとえば「人権尊重学習の意義の理解」、「地球環境保護のための意識啓発」、「生涯学習の(普遍的)方法論の修得」などが考えられます。Bのようなメタ的な学習内容だけでは、結局は建前だけの交流にしかならず、共感的な学習の世界は創り出せません。この場合、学習目的はメタ的であっても、必ずしも学習内容までメタ的であるとは限らないと思われます。企画者としては、たとえメタ的な目的の学習であっても、学習内容については具体的イメージや豊かな人間性をいきいきと思い起こさせるようなものを設定できるように工夫すべきです。 5 学習プログラム作成上の今後の課題  人びとの学習ニーズと現代的課題とをまったく別物のように扱うことについて、それが間違いであることは、すでに述べました。しかし、それにしても、このふたつをつなぐための、投げかけやしかけの仕方は、いまだはっきりしているとはいえません。教育とは、他人と何らかの関わりをもつことによってその人の主体性の獲得を援助しようという、一見、「大それた」行為でもあります。「ふたつをつなぐこと」とは、教育そのものがもっている「難問」にも関わる問題なのでしょう。  いずれにせよ、企画者が現代的課題に関するプログラムを学習者に一方的にサービスするという一方通行の考え方は危険だといえます。私は、プログラム自体を走らせながら、その実施途中で、学習者の流動的ニーズからのフィードバックを受けて、変更し、発展させるような「発展途上型」ともいうべきプログラムが目指されるべきだろうと考えています。たとえば、内容や方法が前もって決まっていない空白の部分を配置しておく「空白のプログラム」などもひとつの方法かと思います。それは、本質的には、学習主体として学習者が本来もっているはずの主体性を、形式だけではなく内実から実現していくためのものだと考えられます。  同じような意味で、即自的学習の価値をあらためて評価して、現代的課題の学習プログラムにもそれを導入することを検討すべきだと思います。ネットワーク型社会では、人びとはパーティーのなかからさえ、自ら、または相互に学習します。学習しているという意識もせずに、「楽しいから」「知りたいから」という理由でいつのまにか学習してしまうのです。パーティーなどでの無意図的な学習については、「偶発的学習」と呼ぶことができます。そこでは、タテマエではなくホンネが交流されやすくなります。  現代的課題の学習については、「それを学習しなければならないから」という義務感からではなく、自分自身の生き方の問題と関連づけて自発的に進められることが大切です。生身の人間どうしのホンネの交流のなかで学習されるようになってこそ、その現代的課題が、実質的な意味でも主体的に学習されていることになるのです。私は、以上のようなことから、現代的課題の学習のなかに即自的学習や偶発的学習の要素をいかに織り込んでいくかということが、プログラム作成上の重要なポイントになると考えています。もっとくだいた言い方をすれば、「現代的課題だからこそ、肩肘張らずに自然体で学習しよう」ということです。