こ・こ・ろ 生涯学習  −いばりたい人、いりません− <目次> 第1部 生涯学習するこころとは何か 1 フリーチャイルドの心をとりもどす (1) ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる (2) 人間らしい心を取り戻す (3) フリーチャイルドの心で学ぶ (4) 学習とは、自分が自分を変えること (5) 学習とは、水平なギブ・アンド・テイクのネットワーク (6) 何で生きてるの? (7) 生きる力としての主体性をはぐくむ学習を 2 生涯学習理念はなぜ新しいのか (1) あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町 (2) 傷つけあう関係ではなく、ともに支えあう関係にあふれる町 (3) 人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町 (4) 一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町 (5) 地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町 (6) 一人ひとりの個性がのびのびと発揮される町 3 学校週5日制で問われる大人の主体性 (1) 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論 (2) 新しい土曜日の個別性 (3) 新しい土曜日が求める主体性 (4) ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ (5) 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開) (6) マニュアルを越えて 第2部 こころを開く態度変容の学習 1 こころを開いて交流できる仲間づくりの方法 (1) あったかいディスコ (2) いっしょにつくりあげるから「あったかい」 (3) 安心してしゃべれる会議 (4) 仲間とゴハン・オフロ・フトンをする意味 (5) 自然に仲間づくりができるようにするための演出 (6) てれないで、ロールプレイング (7) ロールプレイングによって実感をともなって見る (8) ロールプレイングによって「信頼感」を呼びおこす 2 授業の主体的な楽しみ方 (1) まじめな人の問題点 (2) 君の主体を問う (3) 知のヒエラルキー vs ネットワーク 3 情報へのネットワーク型アクセス (1) 過去の知の重力圏からの脱出 (2) 本の私有と共有の方法 (3) 電子化された情報・映像化された情報 (4) 情報とストロークの発信 第3部 主体的学習へのいざない方 1 学習相談がめざすもの (1) 学習相談は、従来の日常的相談でも、現在の学習情報提供でもない (2) 学習相談とは何か (3) コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性 (4) 生涯学習の主体としての自立への援助 (5) ネットワークの中でともに育つ 2 保護や管理ではなく自由への恐怖を与える (1) 自分は求めるけれど、人にはあげられない (2) 現実原則の中でのストロークの自己管理を (3) コミュニケーションの成熟化と無力化 (4) 管理や保護よりも自由を ボクと出席ペーパー(本文中に散らす) ( 1) 学校教育への恨み ( 2) 勤勉主義のごまかし ( 3) 授業は勝負だ−ビートたけしに勝つ授業を公言することの意味 ( 4) 学習に対する強迫観念 ( 5) 学生の敗北主義に対する教師のエンカウンター ( 6) 身勝手な恋愛観 ( 7) 対等な人間関係の中での性的興奮や快感を受容できない ( 8) 気をつかうな、気のきく人になれ ( 9) 教師や他人の自信を不快に思う敗北主義 (10) ヒエラルキーへの抵抗 (11) 信用ではなく信頼を (12) 強力な幸福願望と自分の幸せについての懐疑 (13) アイデンティティの喪失 (14) 今の自分や他人を判断したくない気持ち (15) 他人の「聞く耳」がこわい (16) 人間不信の深み (17) 集団への帰属に対する拒否感 (18) 山アラシのジレンマ (19) 自己表現の不器用さと表現の解放 (20) 共感的理解の能力の必要 (21) 自分のために生きる−ギブ・アンド・テイク (22) 仲間の撤退を許すネットワークマインドを身につけよ 巻末資料 1 ひとくちミニ知識 Q 1 認知構造とは何ですか。 Q 2 フレーム・オブ・レファレンスとはどういうことですか。 Q 3 子どもの教育とおとなの教育とは、どう違うのですか。 Q 4 大学の教授法は、どのように改革されるべきでしょうか。 Q 5 人間の発達の可能性に対して、どんな心で接すればよいのでしょうか。 Q 6 社会教育・生涯教育は、今日の社会の変化とどう関わっているのですか。 Q 7 社会教育とは何ですか。 Q 8 社会教育主事の仕事の内容と、それに求められる資質・能力は何ですか。 Q 9 公民館は何をめざして作られたのですか。 Q10 生涯学習と生涯教育とでは、どう違うのですか Q11 自分への信頼、他人への信頼とは何でしょうか。 Q12 アサーティブ(アサーション)トレーニングとは何ですか。 Q13 社会教育主事の専門性とは何でしょうか。 Q14 社会教育の方法はどのように分類されるのですか。 Q15 社会教育行政の存在意義はどこにあるのですか。 Q16 少年期における社会教育のポイントは、何ですか。 Q17 青年期の発達課題は何ですか。 Q18 高齢者教育における学習課題はどうとらえればよいのですか。 Q19 ボランティアって何ですか? 2 自分を知ろう−エゴグラム 3 友だちとやってみよう−グループワーク その1 ジェスチャーゲーム その2 銭まわし その3 拍手で合図 その4 第一印象ゲーム その5 ハンターゲーム その6 スタンツ(寸劇) その7 お願いトレーニング その8 自己受容トレーニング その9 ブラインド・ウォーク 4 mito的授業シラバス [講義型の場合] [演習型の場合] [レポート課題] あとがき 索引 こ・こ・ろ 生涯学習  −いばりたい人、いりません− ●第1部 生涯学習するこころとは何か ●1 フリーチャイルドの心をとりもどす ●(1) ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる  人間の人生は一生が勉強、などとよくいわれるが、そういう言葉を聞くと、多くの人はちょっといやな気持ちがするのではないだろうか。抵抗感とでもいえようか。生涯学習時代とは、ひとが生涯にわたって学習し続ける時代だということができるが、学習のもともとの意味が、目上の人、立派な人、偉い人などから、まねぶ(まねをする)、ならう、ということであることを考えると、「ちょっと面白くないな」と思うほうが、むしろ当然なのかもしれない。  「本当はいやだけれども、とにかく頑張って勉強しなければならない」というのでは、なんだか不自然である。「人から押しつけられて勉強するなんて私はいやだ」という本当の自分の気持ちを、ガンバリズムなんかによってごまかさないで、教育や学習に対する自分の抵抗感を大切にするということを、ここでは提案したい。生涯学習とは、本人が学習したいから学習したいことを学習することである。  教育という言葉には、悪いことを叱ったり批判したりする厳しい親心によって、それを素直に聞き入れる従順な子ども心を育てるというイメージがある。ここで、厳しい親心とか従順な子ども心とかいう言葉は、「交流分析」という臨床心理の用語を使っている。人間の心の状態とその他人との関わり合いを分析するのが交流分析である。  交流分析では、この「従順な子ども心」が強すぎると、目上の人や権力に弱い不安なおどおどした気持ちに支配されがちになるといわれている。また、厳しい親心や従順な子ども心が強すぎると、高血圧、心臓病、胃潰瘍、成人ぜんそくなどの原因にもなる。それは、体が自分の心に対して、「私の人生はこのままでいいのか」という危険信号を出している表れなのである。こんなことをいうと、今はやりの心理ゲームのようでうさんくさいと思われる人もいるかもしれないが、一方では、「私の人生や人間関係はなんだかうまくいかない」と思っている人の中には思い当たる節があるはずである。交流分析はひとつの科学であり、人間を決めつけたり、占ったりするためのものではないのだ。  とにかく、人を不幸にしたり病気にしたりするような教育だったらいらないということである。 ●(2) 人間らしい心を取り戻す  生涯学習とは、趣味、教養、文化、芸術、スポーツ、レクリエーションなど、どんなことでも自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶことである。もっといえば、人間どうしの対等なネットワークの中で、教えあい、学びあうことともいえる。  たしかに、さきほど述べた厳しい親心による教育も必要なときがある。交通道徳や安全管理に関わる教育などが、そうであろう。しかし、交流分析には、ほかに、保護的な親心、冷静な大人心、自由な子ども心、という言葉がある。ひとの心の状態は、大きくは、親の心、大人の心、子どもの心の3つ、細かくは、厳しい親心、保護的な親心、大人の心、自由な子ども心(フリーチャイルド)、従順な子ども心の5つに分けられる。子どもから年寄りまでのすべての人に、バランスの差はあっても5つの心があるし、どの心も欠かせない。しかし、子ども心を失ってしまって、精神的にはもう死んでしまっているような不幸な子どもだっている。これからの教育や生涯学習においては、人間らしい心の状態を一人ひとりの中に取り戻すことが大切だと考える。  たとえば、ほめてあげる、かばってあげる、何かをしてあげる、そんな保護的な親心を自らの中に育てることも大切である。なぜなら、他人に何かをしてあげるからしてもらえるのであり、人間関係の基本はそういうギブ・アンド・テイクのネットワークだからである。今まで誰かにしてもらうことばかりで、これからも誰かさんに守ってもらうことばかり考えていても、そのうち、だれも自分に目を向けてくれなくなるだろう。また、身のまわりにあふれる情報を冷静に判断し思考する大人心も必要である。けれども、そういう保護的な親心や冷静な大人心については、今までの教育においてもそれなりに力が入れられてきたと思われる。 ●(3) フリーチャイルドの心で学ぶ  ぼくがここでとくに提案したいのは、自由な子ども(フリーチャイルド)の心にあふれた学びである。フリーチャイルドは、ちょっとわがままなところもあるが、いつも何かを面白がったり、感動したり、ドキドキワクワクしたりして生きている。この心が足りなければ、芸術家などにはまずなれないだろう。だが、一般人の私たちだって、せっかくの人生なのだからそのように充実して生きていきたいと思う。  たとえば、絶対という熟語を覚えるとする。これを生徒が「絶体」と書いてしまった場合、教師が「間違ってるぞ、だめじゃないか」と叱るだけなら、教師という人間をおく必要はないのではないか。コンピュータで十分である。生徒が間違えたことは、素晴らしいチャンスであり、せっかく教師という人間がいるのだから、漢和辞典でも引かせて、絶対の「絶」が「絶えること、なくなること」、「対」が「向い合う、比較する」という意味であることを知るように仕向けたらどうだろうか。絶対とは、「ほかとの比較や対立を越えている」という意味なのである。生徒は、その意味を知れば、あとは自分で気づき、自分で「ああそうか」と納得することができるだろう。なお、「絶体絶命」の場合は「体も命もきわまる」という意味であるから「体」という字を使う。ちゃんと理屈が通っている。  学習は、本当はいやなのに鞭打ってやるというようなものではない。本人がおもしろいと思えることこそが重要である。学習の中には、このように面白いと思える世界が渦巻いている。生涯学習は、ワンダーランド(遊園地)だということができるだろう。お茶にも、生け花にも、天文学にも、スポーツやダンスにも、気づきや自分の深い部分の発見やドキドキワクワクできることがあふれているのだ。それらの活動はすべて生涯学習だといえる。  面白いからやる、などということは、昔だったら許されなかったかもしれない。実際、少し昔にさかのぼれば、よく勉強する子どもは親に「そんなことして何になる」と叱られたものだし、大人だと穀潰しなどともいわれたものだ。でも、生涯学習社会は、それが許される社会だ。好奇心にあふれた子ども心が、むしろ尊重される社会なのである。  空想する、感動する、面白がる、天真爛漫にどんなことからでも楽しく学んでしまう、そんな人生を過ごすことができれば、どんなに素敵なことだろうか。これらの態度や人生の構えは、フリーチャイルドの心の働きによって支えられる。 ●(4) 学習とは、自分が自分を変えること  人間は、いろいろなことで悩む。悩むからこそ、その人はより深い人生に出会うことになり、つまり成長するのだが、それにしても、ややもすると発展性のない消極的な悩み方に陥りがちなのも事実である。それはどんな悩み方かというと、「過去と他人」のせいにして悩むことである。過去と他人はどんなに悔やんでも変えることはできない。そんなことは誰でも知っている。知ってはいるが、人間は同時に弱いところももっているから、自分のいまの不幸を、つい、過去と他人のせいにして束の間の安心を求めようとするのだろう。  これに対して、学習の本当の意味は、自分の気持ちや考え方の枠組を変えることだととらえられる。数学であろうと、ピアノであろうと、バレーボールであろうと、本人の納得や気づきやより深い自分の発見の中で、その人の枠組そのものが変化する。つまり、自分が自分を変えていくのである。そして、自分の枠組をつねに自分で変えていくことは、かけがえのない人生を大切に生きることにも通じている。  そう考えると、みずからの枠組を変える学習というものは、他人のために行なったり、社会の必要のために仕方なしに行なったりするものではないということがいえるだろう。ぼくは大学の社会教育の授業の中で、人間の幸福追求のあり方を考えてきたが、今のところ、その3原則の1つとして「自分のために生きる」を重要なテーマにしている。ついでにいえば、あとの2つは「潔く生きる」と「さわやかに依存する」である。ボランティアだって「自分のためにやっている」と言える人が、ボランティア活動の意味を一番よく知っている人ではないかと思われる。  ここに、あひるうさぎの図がある●(図1−1)。これがあひるにしか見えないとしてもそれはそれでしかたがない。しかし、もし、ほかの人にとってもこの図はあひるに見えなければいけない、と思ったり、うさぎに見えるという「他人の枠組」が提示されてもそれを認められないとしたら、それは不幸な人生ではないか。  他人は、当然ながら、自分とは違う枠組をもっている。他者とのふれ合いとは、その異なった枠組どうしが出会うことである。いいかえれば、他者の存在を喜べる人間のほうが幸せな人生を送っているといえる。他者の枠組を面白く感じるためには、他人をその人の枠組ごと理解する「共感的理解」が必要になる。「なるほど、うさぎにも見える」と納得できたときに楽しく感じることが学習であり、そのことによって、うさぎとも認めることのできるより深い自分と出会ったことにもなるのである。  だから、変な表現だが、ひとの人生には、何からでも誰からでも学ぼうとする人生と、何からも誰からも学びたくないという人生の二つがあるということになる。  学ぶことができる人とは、つまり、自信のある人である。自信とは、人より勝っているとか、自分は絶対だ、と思って安心することではなく、自分とは違うほかの枠組を参考にして今の自分を楽しく変えることができる、ということだといえるだろう。  そのことで問題だと思うのは、教師の自信に対する学生の反発である。話す内容に対してではなく、教師の自信ある態度そのものに対して学生が不快感を示すことがある。「mitoさんの言葉は、暴力的だ。なぜなら、妙に納得させてしまうところがあるからだ」とか、「あなたはすばらしい教師だと思います。でも、あなたの自信過剰がわたしは不愉快です」と出席ペーパーに書いてくる学生がいる。もし、自分の人格の中核をえぐり取るような言い方をされたのなら、ぼくだって彼らのように不愉快になったり傷ついたりしてしまうことだろう。しかし、授業をしているときの教師の自信そのものが不愉快だというのでは、コミュニケーションも真実の追求も、それ以上、発展のしようがないではないか。  ぼくは、このような自信を喪失した現代人に対して必要な援助として、カウンセリング(共感的理解に基づく受容)、ストローク(その人への認知を表す行為)、そして、エンカウンター(その人と異なった枠組をぶつけること)の3つが重要だと考えている。  なお、「町づくりは人づくり」という生涯学習推進のスローガンを各地で聞くことがあるが、これは間違っていると思う。人づくりとは、自分が自分を変えることであって、本人にしかできない営みだからである。しかし、そういう「自分づくり」を温かく見守り支援することのできる町づくりが、いま、切実に求められているのだということは、たしかにいえるだろう。 ●(5) 学習とは、水平なギブ・アンド・テイクのネットワーク  学習とは「マネブ、ナラウ」という意味であるから、もともとは上下関係やヒエラルキーに基づく言葉だととらえられる。しかし、学習活動の中での上下関係が強すぎると、一人ひとりの個性を抑圧する「同一化」にもつながる。「先生に従え、優等生に続け」というわけである。この問題を逆にいえば、同一化は水平関係につながるものではなく、上下関係をもたらすものだということになる。  ここに「同一化の不幸」ともいうべき根深い問題がある。「みんなが同じことを考えて同じものを好きになること」を自分にも他人にも求めてしまい、そのために、自分を不幸にしたり、他者の個性や自由を蹂躙して迷惑をかけたりしてしまう。たとえば、いじめは、仲間集団(ピア・グループ)に同一化できない人への糾弾として行われている。だから、いじめる人も不幸な人たちだといえる。なぜなら、いじめは、心を開いて交流できない仲間関係と、そういう関係への不安な気持ちの表れだと考えられるからである。しかも、同一化というのは、実際には、人びとを横に並べることにはならない。画一化した物差しをむりやりすべての人に当てはめて、その物差しで序列付けすることになりがちである。これを、ヒエラルキー、すなわち、ピラミッド型の縦の関係ということができる。  これに対して、他者の異なる枠組を歓迎する生涯学習は、それぞれ方向の違う個性や価値を認めあうことだから、ネットワーク型の水平関係だということができる。そういう生涯学習の精神を一言で表せば、「いばりたい人いりません」ということなのではないか。「教育」に対する誤ったイメージを克服して、ともに育とうとする「共育」に転換させていくことが必要である。  ネットワークで大切なことは、ギブ・アンド・テイク、「してあげる」と「してもらう」の関係である。周りの人に気をつかってもらいたいと思っている人はあまりいないだろう。気をつかわれると、その人の人生まで背負い込まされた気がして憂鬱になってしまう。けれども、気のきく人がいるとうれしいものである。暑ければ窓を開けられる人が、頬杖をついている暇があるなら友だちに声をかけられる人が、ギブ・アンド・テイクの中では歓迎される。つまり、気をつかうのではなく、気がきくことが求められているのだ。  学習も同じだ。他人に情報を発信したり何かを教えてあげたりするからこそ、自分自身もいい情報をもらったり、大切なことを教えてもらったりすることができる。なぜなら、そこに、他者との共感の世界が生まれるからである。共感的理解は、その場合のキーポイントだ。小説を読んでいて楽しいのも、感動するのも、筆者や主人公に対する共感的理解があるからだ。  共感的理解や感動を伴う学習のためには、学習ばかりしている「過充電」「学習中毒」の状態から、「放電」「発信」へ向かうことがとても重要になる。一人ひとりにとって、発表できる場が大切なのだ。考え方などの枠組が異なっていてもそれを安心して発表できる場を、心を開いて交流できる「サンマ」(時間・空間・仲間の3つのマ)と呼ぶことができる。 ●(6) 何で生きてるの?  「何で生きてるの?」と聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか。学生に聞くと、一番多い答えは「生まれちゃったから」であり、その次が「死ぬのが怖いから」である。さらに、「じゃあ、何で学生やってるの?」と聞くと、「親が大学に行けと言ったから」や「気がついたら学生をやっていた」という答えが返ってくる。現代人一般も似たような状況だと思う。自分で、考え、行動し、振り返る力、つまり、「主体性」がいつのまにか根こそぎにされている。  現代社会の中で、私たちは、比べられ、順位をつけられるために生きてきたように思う。競争試験は他人と比べて順位をつけるためのものだし、書くことや話すことなどの自己表現についても、教師や大人の考えた望ましい答えや他人の答えとその自己表現とを比べられることばかりされてきた。  しかし、最初から人と比べられるために生まれてきた人など、一人もいないはずである。「わたしは比べられるために生きているのではない」、この当り前のことを思い起こしたい。だから、「弟はできるのに」とか「よその子は、みんなちゃんとやってるのに」という叱り方はとてもよくないということになる。これは、「引き合い叱り」といって、もっとも頻繁に行われているけれども、もっとも悪い叱り方のひとつでもある。その子は、親から愛されるために生きているのであって、比べられるために生きているわけではないからである。そんな叱り方ばかりされていると、「ぼくは何のために生きているんだろう」ということになってしまう。ここには、ガンバリズムの犯罪性がよく表れている。  何で生きてるの?−幸せになるために生きている(それが楽しいから)、何で学生やってるの?−生きることを学ぶため(社会に出るのをもう少し待ってもらう)、ぼくは社会教育に関する授業のあり方についてとりあえずそういう仮説的な研究テーマを立てて、学生にそれを呼びかけてから年間の授業を進めることにしている。  「何で生きてるの?」という問いに人びとが答えにくくなった現代社会においては、「何で生きてるの?」から離れたところに学問や生涯学習の存在意義はない。 ●(7) 生きる力としての主体性をはぐくむ学習を  人生は、好むと好まないとに関わらず、選択行為の連続のプロセスだといえる。今晩のおかずにしたって、和食と洋食と中華をいっぺんに食べるわけにはいかない。結婚だって、その相手以外のすべての異性を結婚対象から切り捨てる行為である。世界中に存在する何十億の適齢期の異性の人たちとすべて面接してから、「この人は世界一」などと決定しているわけではない。私たちは、自分で自分の人生を選択することから逃げることはできないのである。だから、自らの責任で判断して自らの行為を選択し、自らの責任において評価する主体性は、その人の生きる力そのものだといえる。  「人生は死ぬまで学習」と言われるとうんざりする気持ちもわかる。しかし、学習によって、そのときどきに気づきを深め、判断基準(枠組)を発展させながら自分の人生を選択して生きていくことは、一度しかない人生を分厚くていねいに生きることにつながることだろう。「学校を卒業したのに、まだ学習、ああいやだ」と思うような人間や、そう思われるような教育ではなく、「学校を卒業したけれど、ますます本格的な生涯学習の学生であり続けたい。なぜなら、私は私の人生を大切にていねいに生きたいから」と言えるような人間の生き方や、そう思われるような生涯学習のあり方を考えたいものだ。  一人ひとりの内面的な変革は、生涯学習のもっとも大きな目的といえるのだろう。人間は、あるとき、主体性を自ら放棄してしまったり、一時的な安定に身を預けて閉じこもってしまったりしたくなることもある。しかし、潜在的に持っているであろう幸せに生きようとする気持ち(幸福追求)は、それらの敗北主義的な誘惑をいずれ断ち切って、自分の枠組を変化させる生涯学習の営み、そして、今まで抑圧していた自由な子ども心を解き放つ自己解放の営みに向けられることにもなるのだろう。  このことは、生涯学習がこれからの社会になくてはならないものであることの証でもある。なぜなら、生涯学習によって、それぞれの人にとっての自分や他人の個性や「個の深み」が価値をもち、歓迎すべきものになってこそ、初めて、個人に対して主体性と自立的価値を要請するネットワーク型社会はその支持基盤を得るからである。そして、ときには他者にさわやかに依存しながら、自己の個人としての存在意義を発揮して生きていくネットワーク型の生き方は、生涯学習活動のさまざまな姿として、現在すでに社会のあらゆる場面で現れているようにも思われる。 ●2 生涯学習理念はなぜ新しいのか  ぼくは、佐野市生涯学習推進協議会の委員として、「佐野市生涯学習推進基本構想」の原案の一部として、「生涯学習のまちづくり」に関する次のような考え方を表した。 ●(1) あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町  一九六五年(昭和四十年)、ユネスコの第3回成人教育推進国際委員会において、ポール・ラングランによってはじめて生涯教育が提唱された。そこでは、人間の全生涯にわたって教育機会を提供することなどの理念が説かれ、また、人の一生という時系列に沿った垂直的な次元と、個人および社会の生活全体にわたる水平的な次元との双方について、必要な統合を達成すべきであることが強調されたのである。このように、社会のさまざまな分野にすでに存在している生涯学習の諸要素を統合しようとするばかりではなく、そのことによって、現代社会の教育機能の全体を生涯学習の援助の視点から大きくとらえ直そうとする姿勢は、今日においても非常に重要だといえる。  行政のセクショナリズムを打破して、それぞれのセクションが独自の特徴と役割を発揮しながら連携・協力するネットワークの確立が望まれる。現在進められようとしている、学習者が時間と場所と機会を豊かなメニューから選択できるようにする学習メニュー方式や、施設や事業やひとに関する情報を自由に入手できるようにする学習情報提供などは、この理念を実現するためのものとしてもとらえられる。生涯学習の町づくりとは、あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町をつくることなのである。 ●(2) 傷つけあう関係ではなく、ともに支えあう関係にあふれる町  一九六八年(昭和四三年)、アメリカのロバート・ハッチンスの著作『学習社会論』が出版された。これは生涯にわたって学習が行われる「学習社会」への方向を示したものである。そこでは、学習社会は、真に人間的になるために、あらゆる制度がその目的の実現を志向するように価値の転換に成功した社会、として規定されている。ハッチンスのこの規定は、国家や社会の発展のために一人ひとりの人間性を失うような学習を強いるのではなく、逆に、市民個人が、自己の能力を最高限度まで発達させ、人間的になることが、教育や社会が存在する目的ではないか、という根本的な問題提起としてとらえることができるだろう。  現在、偏差値偏重の競争社会は、子どもたちばかりではなく、青年や成人にまでも影を落としている。傷ついたり相手を傷つけたりしたくないのに、望むと望まないに関わらず、傷つけあう競争の中に放り込まれてしまうのである。生涯学習の推進のためには、偏差値偏重のような人間を計りにかけて比べるようなやり方を改めなければならない。生涯学習活動においては、競争があったとしても、それは偏差値競争のような人間性を傷つけあう陰惨な競争ではなく、それぞれの異なった個性を認めあうさわやかで後腐れのない競争である。このようにして、傷つけあう関係ではなく、ともに支えあう関係にあふれた町をつくることが、ハッチンスのいう学習社会の形成につながると考えられる。 ●(3) 人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町  一九七二年(昭和四七年)、ハッチンスの理念を受け継いだユネスコ教育開発国際委員会、いわゆるフォール委員会が、『未来の学習』(『Learning to be』)というレポートを提出した。「BE」とは人間として存在するという意味であるから、「Learning to be」とは、人間であるための学習ということになる。そこでは、すべての人は生涯を通じて学習を続けることが可能でなければならないこと、そして、そういう生涯教育の考え方は学習社会の中心的思想であることが明らかにされ、学習社会の建設が提唱された。  経済的に社会に貢献することだけが、人間一人ひとりの生きている意味ではないことはいうまでもないだろう。しかし、「BE」が軽視されて「HAVE」(地位や財産などを得ること)ばかりが重視されると、世の中はぎすぎすしたものになっていく。たとえば、他者と仲良くしたいのに、互いの針で傷つけ合ってしまうのが怖くて近づけない「山アラシのジレンマ」などは、その象徴的な事例といえる。生涯学習は、このような疎外状況を乗り越えて、個人一人ひとりの生きがいを大切にし、しかも各人の個性や生きがいを交流することによって、いっそうそれらが充実することを目指すものである。生涯学習の町づくりとは、人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町をつくることだともいえるだろう。 ●(4) 一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町  一九七三年(昭和四八年)、OECD(経済協力開発機構)のCERI(教育研究革新センター)は、『リカレント教育−生涯学習のための戦略−』という報告書をまとめ、リカレント教育の概念を明らかにした。リカレント教育とは、生涯にわたって労働と教育を交互に行おうというものである。同報告書では、リカレント教育について、生涯学習を実現するために行われる義務教育修了後または基礎教育修了後の総合的教育戦略としている。学校を卒業してからも、教育の機会を得ることができるわけである。また、いわゆる教育などの中で行われるシステム的な学習活動と、その他の社会活動の中で自然に行われる学習活動との間に、効果的な相互作用をつくりだそうとする同報告書の考え方も見落とすことができない。  個人が生涯にわたって自己を充実する生涯学習社会においては、当然、学位や免許状などは最終的結果にはならない。その人の過去の学歴だけで十把一からげに判断してしまうような労働管理しかできないような企業では、これからの社会を生き抜いていけないともいえるだろう。働く人びとの生涯にわたる学習意欲を重視し、また、それを援助しようとする労働環境が望まれる。生涯学習の町づくりとは、一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町にすることなのである。 ●(5) 地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町  一九七九年(昭和五四年)、世界各国の有識者からなるローマクラブが、『限界なき学習』という報告書を出版した。ローマクラブはもともと人口、資源、環境、エネルギーなどの地球的規模の問題を協議してきた団体だが、この報告書では、技術文明への危機感から、その克服手段を模索している。そして、人間が危機について予知し回避するために不可欠な方策として、生涯学習を提唱している。すなわち、資源やエネルギーは無尽蔵ではなく、限界があり、人類はその限界に気づかなければいけないが、さらに、人びとがそれに気づいてその克服方法を究明するためには生涯学習が不可欠であり、しかも、その生涯学習は資源やエネルギーと異なって無限に広がり豊かになるものである、と強調しているのである。  現代社会においては、たとえば、地球環境の保護、遺伝子操作に関する合意形成など、市民が主人公として判断しなければならない難題が数多く控えている。また、たとえば、自己の文化をもちながら異文化交流などに積極的に取り組める国際人としての資質も、いまの市民には求められている。生涯学習とは、それらの現代的な課題の学習を通して、地球規模の歪みを正し、宇宙船地球号の危機を克服し、人類の恒久平和を創出する活動でもあるのだ。つまり、生涯学習の町づくりとは、地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町をつくることといえるだろう。 ●(6) 一人ひとりの個性がのびのびと発揮される町  一九八〇年(昭和五五年)、A・トフラーは、その著作『第三の波』において、産業社会の次に来る社会の特性のひとつとして、非大衆化すなわち個別化や個性化への転換を挙げている。そして、第二の波(産業社会)の思想家たちが「身勝手な少数派のせいで断片化、細分化が起こった」といって大衆社会の崩壊を嘆いていることに対して、「そのようなつまらない解釈は、原因と結果を取り違えている」と批判し、むしろ「豊かな多様性を人間性発展のための好機」としてとらえるよう主張している。つまり、人びとの個別化や現代社会の多様化を否定的にとらえるのではなく、それを活かして、市民一人ひとりが個性的な人生を送る社会、あるいは送ろうとする社会こそ、これからの望ましい社会のあり方だと考えることができるのである。  産業社会が発達する中で、企画化、同時化、集権化、極大化、専門化、集中化などが極端に進行し、人間性を疎外するようにまでなろうとしている現在、トフラーの指摘は重要である。そして、その意味から、一人ひとりの個性がのびのびと発揮されるような生涯学習の町づくりは、人間性を回復するための営み、すなわち新たなルネサンス(人間復興)の運動だということができるのである。 ●3 学校週五日制で問われる大人の主体性  学校週五日制は、じつは、生涯学習社会の形成に向けた動向のひとつとしてとらえることができる。そこで問われるのは、大人たちが学校週五日制の実施に耐える主体的なこころを持ち得ているかどうかである。拙論「社会教育の新しい展開からみた学校週五日制」に基づき、その点について考察する。●(1) ●(1) 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論  中青連(中央青少年団体連絡協議会)には、青年団、子ども会、ガール・スカウト、ボーイ・スカウト、YMCA、YWCAなど、二二の中央団体が加盟している。社会教育とは、「学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」(社会教育法第二条)のであるから、中青連は、青少年に関わる社会教育活動を行う団体の全国的連絡組織であるととらえることができる。  この中青連によって特別研究委員会が設置されている。委員会は、平成元年度に「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」●(2) を、二年度に「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動−」●(3) を提言した。  元年度の提言のキーワードは「個の深み」●(4) であった。そこでは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入ったり踏み入ろうとしたりして、自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、「根本的には、集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切」と主張した。  これに対応していえば、二年度の提言のキーワードは「ネットワーク」ということになろう。そして、キーコンセプトは「地域の子育てネットワークづくり」であるということができる。学校が週五日制になったからといって、安易に、既成の青少年団体が請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、子どもも大人も地域でともに育つ(共育)ネットワークをつくりだすチャンスとしてとらえなおそうというのである。  もちろん、今日の学校週五日制の動向は、青少年団体が従来から世の中に提案してきたことが社会的に理解されようとしていることの表れともいえるのであるから、団体の中には「いよいよ私たちの出番だ」と意気込む気持ちもある。しかし、特別研究委員会の提言は、そのボランタリズムをさらに一歩進めて、組織や団体といえども、その存在意義はそれぞれの個人のため、「個の深み」の獲得のため、という本質的観点からまとめられたのである。そして、地域子育てネットワークも「個の深み」が発揮できる団体運営や地域活動を実現するためのかなめとして構想されている。  二回の提言とも立教大学坂口順治教授を座長とする委員会によって作成された。そして、ぼくも起草委員長として関わる機会を与えられた。本論では、その議論の中でぼくが勉強したことをもとに、つたない私見ではあるが、新しい社会教育の観点から学校週五日制時代のあり方を考えてみたい。  ぼくの問題意識の根底にあるものも、多少の重複を恐れずにいえば、土曜日の子どもたちを学校が面倒を見なくなるのならば今度は社会教育(青少年団体)だ、という安易な受け皿論を克服して、人びとがもっと主体的に生きる土曜日を創り出せないだろうか、ということである。  社会教育活動をしている人たちは、暇だから活動しているのではない。多くの現代人と同様に忙しい生活を送りながら、その中で時間をつくって活動している。それなのに、「普通の人たち」が「暇で奇特な人たち」にわが子を任せるようなつもりで青少年団体に依存するとすれば、それは団体にとってもけっして名誉なことではないし、その「普通の人たち」にとっても学校に(もちろん、塾にも)わが子を預けることによって子育ての主体性まで失いつつある今日の状況とたいして変わりない結果しかもたらさないことになってしまうのである。 ●(2) 新しい土曜日の個別性  前節で慎重に「私見」と断ったのにはわけがある。委員会で出た議論は十者十様(委員は十人であった)で、意見の一致をみた、とはとてもいえる状態ではなかったからである。しかし、なぜか快い議論ではあった。それでも起草委員長というポジションのぼくとしては、内心、これで本当に草案をまとめることができるのか、不安に襲われることがあったのも事実だが、そのたびに思い直した。学校週五日制の土曜日は、そもそも多様に展開されるべきなのだ、と。  それぞれの委員の考え方が多様であった理由をぼくはつぎのように考える。  その理由の1つは、委員が学校、地域、団体のそれぞれの現場を抱えており、その立場から誠実に発言をしたことである。自らの現場を真摯に振り返るほど、一般論には解消できない問題が浮き彫りになってしまった。  2つめは、ネットワークという言葉をとりいれたことである。ネットワークとは何なのか。水平性、自発性、柔軟性、異質の交流、ギブ・アンド・テイク……、ネットワークに対するそれぞれの委員の異なったイメージを互いに受容しながら、議論を進めていったのである。  3つめは、教育(共育)という概念にあくまでも執着し続けたことである。端的なたとえを挙げるが、週五日制の土曜日に正規の学校教育になるべく近いものをつくりだすだけの結果になるならば、週五日制は不要ということになる。だから、その逆に、教育という概念を最初から捨てて議論すれば、委員の間に共通する方向がもっと簡単に見つかったのかもしれない。  しかし、委員会では、前年度の報告に引き続いて、個人の自己成長をこそ重視した。そして、自己成長を他者や集団が援助する可能性、すなわち本来の教育がもつ可能性、にこだわり続けたのである。ちなみに、そこでの私たちのささやかな結論は「ともに育つ教育」である。しかし、それとて、単純化はできない。たとえば、「ともに育つ」場合の子どもに対する大人の指導性や、文化の伝達者としての役割をどうとらえるべきか、多様な見解が成立するのである。  このようにして委員会の論議は個別で多様な思い入れや主張を柔らかく包み込みながら展開したのだが、それは新しい土曜日のあり方のひとつの特性を示唆しているように思われる。すなわち、学校週五日制に関して、1つには、学校、地域、すでに社会教育活動をしている団体、の三者にそれぞれ独自のとらえ方があり、2つには、従来の二項対立の図式では割り切ることのできないネットワークという概念がどうもポイントになりそうであり、3つには、これまでの教授法の蓄積が有効には機能しない新しい教育活動が行われるようになる(べき)と思われるのである。こういう場合、ひとつのモデルをつくってがむしゃらに押し進めるようなやり方は通用しないだろう。  多様な個性を受けとめてそれに耐えていく力を、週五日制は私たちに要請しているのだと思う。 ●(3) 新しい土曜日が求める主体性  人間は自分の判断基準に、つい、シンプルなものを求めたがる。そして、その基準をあまり悩むことなく人やものごとに適用して、レッテルをどんどん貼って処理していけば、生きていくのもラクそうでいいな、と思ってしまう。しかし、その欲求のとおり突き進んでいる人を、「スクエアヘッド」ということができよう。これは、「いわゆる石頭的人物。権威主義的で、物事の白黒をはっきりさせないといらいらするタイプの人間」である。外見上は権威(正確には権力というべきであろう)に忠実に仕えているように見えるが、つきつめて問うてみれば、ヒエラルキーの中で自己の安定を求めているだけのことなのである。  週五日制の土曜日が個性的であるべきだとすれば、それを受け入れる力は、「スクエアヘッド」に対置される「エッグヘッド」に見つけることができる。これは、「一般に知的で、柔軟思考ができ、曖昧さに対する許容度が大きいタイプの人間」である。●(5)  また、個別性を受け入れるためには、その集団の風土も問題になる。人間は、他者との関係において、表面的な一致を求めたがる。そこには、つきつめていうならば、仲間からいつ足を引っ張られるかわからないのでつねに自分を防衛していなければならないという「防衛的風土」が背景にある。  その逆に、個別な価値を受け入れるためには「防衛的風土」に対置される「支持的風土」が集団の中に求められるのだと思う。「支持的風土」とは、「仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーへの肯定的な感情をもっている」という集団風土である。●(6)  新しい土曜日が多様に展開されるためには、たぶん、個人がエッグヘッドであることと、集団がその個人に対して支持的であることとの両方が必要になるのだろう。  スクエアヘッドの個人や防衛的風土の集団は、統合的なモデルが提示されないかぎり自らは簡単には動き出せない、という呪縛にかかる。自分自身でかける自己催眠のようなものだ。その呪縛から解放されるためには、自分が勝手に妄想してつくりあげた「社会の重圧」や、勝手に行っている自己規制などの、根拠のないさまざまな思い込みや敗北主義に気づかなければならない。当面は、自分自身の思い込みが主要な敵なのである。当人はその思い込みのおかげでいっときの安定を得てきただけに、つまり、自己の錯覚に従属してこれまで生きてきたために、その心の平和を打ち破って自己をありのままに認識することはかなりつらい作業になるかもしれない。しかし、それはしかたがないことだ。  主体とは、認識し行為し評価する我、のことである。だから、その人のそもそもの主体は本人にある。しかし、スクエアヘッドや防衛的風土のように、認識の基準が外から与えられることを望み、仲間への同調や組織への忠誠を示すために行動し、自己評価よりも他者からの評価に依存するようになってしまうのなら、それは形の上の主体でしかない。  現代社会特有の主体性の疎外状況の中で、社会教育は、もっと成人の主体性の獲得に関心を払うべきである。学校週五日制への対応に関しても、社会教育がまっさきに目を向けるべきは親たち、あるいは地域の大人たちに対してでなくてはならない。個別な他者や個別な環境の展開に耐え、それを楽しんでしまう主体性は、子どもにはまだ少しは残っている。それよりも、現代社会でより長く生きてきてしまった(スクエアヘッドな)私たち大人にこそ、その欠損が指摘できるのである。  根本的な問題は、制度ではなく、「教育主体」としての私たち親の主体性の欠如だ。考えてみれば、今までだって、親は子どもに対して学校を休ませようと思えば一定の範囲内なら休ませることができたはずだ。ほかの教育的意義を見いだせるプログラムなどがあるのならば、少しぐらい学校を休ませてもよいのだ。そんなことは当り前に行われている国だってある。進度の遅れが気になるのなら、家庭ででもどこででも補習をすればよい。学校に深い教育的意義があると判断して選択的に子どもを学校に行かせているのならよいのだが、「学校で授業が行われている限りには、何が何でも子どもを学校に行かさなければならない」というガンバリズムの思い込みだけで学校を休ませないことは、極端にいえば、親の教育権をみずから放棄する行為であるといえる。  実際、登校拒否というSOS信号を出している子どもをむりやり学校に行かせようとすることだけしかしないために、わが子の症状を決定的に悪化させてしまう親たちがたくさんいる。そういう態度は少数の人たちの特殊な困った態度ではなくて、一般の親たちが日常的にとっている普遍的な態度といえる。人間なら当然にもっているはずの共感する能力や幸福追求のための主体性が、「社会や制度がそうなっているのだから」という不合理な思い込みによって現代社会の中でそがれてしまっているのである。 ●(4) ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ  委員会は「地域子育てネットワークづくり」を提言した。土曜日の子育てを地域の親たちの共同作業(共働)にしようというのである。既存の団体も、そのネットワークに対してノウハウや情報を提供することができるだろう。また、地域のふつうのお父さん、お母さんから、団体にはなかった新しいセンスを学び取ることができるかもしれない。団体自身もネットワークの中でともに育とうというのである。  ぼくは、ネットワークの特性を自立と依存の統一であると考えている。●(7) いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かといって孤立でもない。そして、ネットワークにおいては各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も一人ひとり違う。だから、安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。  従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーとそれへの合意がつくりあげられ、これが一定の安定をもたらしてきた。ヒエラルキーの中では、個人は自己の主体性を発揮することよりも、制度の枠組の中での自分のポジションに合わせて生きていくことを心がければよい。ヒエラルキーの中での自己実現の難しさに悶々としている人もいるが、ヒエラルキーに甘んじて従属している人もいる。  学校週五日制が実施されても、それが団体請け負い主義で進められるならば、このヒエラルキーに馴れきった現代人の主体性喪失の片棒を担ぐ結果につながるのではないか。なぜなら、団体請け負いならば、ふつうの親たちは相変わらず教育主体ではないままだからである。「子どもを預ける相手先を選んだのは親自身だ。そこに親の主体性の発現が見られる」という人もいるかもしれないが、主体性とは継続的に獲得していくべき動的な状態をさすのであって、その可能性を自ら断ち切ってしまうことは、極端な表現になるかもしれないが、精神的な自殺といえるのだと思う。  もともと、何のために現在の伴侶と結婚したのか。何のために子をもったのか。伴侶や子どもたちといっしょに暮らしたかったからではなかったのか。そんな当り前のことさえ、いつのまにか忘れてしまっている。家族がいっしょに過ごす時間が少ないことを労働条件の厳しさや住宅難などの外的状況のせいにする人もいるが、その前に、本人が勝手に思い込んで自らがつくりだした枠組(思い込み)に自ら気づくことが先決である。「とにかく学校にはきちんと登校させなければならない」、「とにかく会社のいうとおりに働かなければならない」……。この「とにかく」が、くせものなのである。「とにかく」を捨てて考えてみれば、子どもが学校で成長することができるから学校に行かせるのであろう。発展的企業なら、言われたとおりに働く社員よりも、人間的な豊かさをふくらませる生活を自ら設計・管理できる個性的な社員をこそ求めるはずであろう。  ヒエラルキーを当てがったのは自分ではなくても、ヒエラルキーを内から支えているのは自分なのである。その場合、少なくとも主体的な認識を経た上で、ヒエラルキーの中に自己のスタンスの持ち方を見いだすべきである。いいかえれば、無意識のうちにヒエラルキーを支えてしまうのではなく、自らが主体的に認識した上で、つまり「きちんと意識して」ヒエラルキーに関与すべきだ、ということである。  やや蛇足にはなるが、ぼくはヒエラルキーを完全に撲滅せよと訴えているのではない。人間の細胞にもネットワーク(リゾーム)的な自立とヒエラルキー(ツリー)的な階層が見いだされることからわかるように、ヒエラルキーにも正機能はあるのだ。たとえば、行政の意思決定システムからヒエラルキーを完全に葬り去ることなど、非現実的であるばかりでなく、万一そんなことが行われたら危険この上ない話でもある。そのほか、帰属意識、自己犠牲の精神などにもメリットは認められる。問題は、これらの逆機能である。逆機能が今日、肥大化して、主体性の疎外状況を生み出しているのである。  既存の青少年団体にも組織としてのヒエラルキーは多かれ少なかれ存在する。たとえば、会長と会員とに分かれている。それに対して、会長を置くな、といいたいのではない。対等な関係において対話が行われていて、会員が主体的に参加できていれば、それでよい。ただし、ヒエラルキーが社会教育の団体運営のすべてでもない。会長を置かないルーズなネットワークからもそのマインドや魅力を学び、ともに育つことが、今日の青少年団体に強く求められているのである。  また、学校教育の現場にもヒエラルキーが存在する。教員はそのヒエラルキーの中での自分のポジションに安住したり、逆に、敗北感に浸ったりするのではなく、そこでのスタンスを主体的に見つけだしてほしい。そして、新しい土曜日には、ヒエラルキーの中の教員としてではなく、子どもの心と教育の技術に詳しい地域住民のひとりとしてのスタンスから参加してほしい。それによって、ヒエラルキーの中にいるだけでは得られない新しい自分らしさ(アイデンティティ)を獲得できればすばらしい。このようにして、ポジションからスタンスへ、スタンスからアイデンティティへと、教員自身の主体性の成長も期待できるのである。  ぼくは、週五日制の土曜日には、他の地域から通勤している教員は、勤務校が所在している地域ではなく、自分が住んでいる地域あるいは自分が参加したいと思う種類の活動をしている地域で活動する方が、この制度の本来の趣旨に沿うものだと思っている。  このような地域子育てネットワークづくりによって、学校週五日制は、大人自身の生き方や社会教育のあり方を問い直すきっかけになるだろう。 ●(5) 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開)  委員会では、大人の都合に合わせるのではなく、子どもの「個の深み」を尊重することを重視した。「個の深み」の代わりに「自主性」などの言葉を使っても理屈は通じるのだが、ぼくは後者が軽い意味で受けとられる現状に批判をもっている。たとえば、「うちの子どもは親が命じなくても自主的にドリルに取り組んでいます」という教育ママの使う「自主性」という言葉はかなりインチキくさい。  本当に求められていることは、指導のもとに管理された個性や自主性ではなく、すでにひとつの主体である子どもの一人ひとりがもとうとしているはずの個別な深みである。それこそがサービスや、ましてや教化という言葉などではなく、教育という人間の内面に関わる営みを表す言葉をわざわざ使う理由でもあると考える。  現代社会の中で、私たち大人の価値観が病んでいる。ヒエラルキーの中での優越、劣等の意識など、その証拠はいくらでも挙げることができる。そんな大人でも、子どもといっしょに時間と空間をわかち合うことによって子どもの「個の深み」と接することができるならば、大人にとっての主体性の回復や獲得の絶好の機会となるだろう。それは、すぐれた教師がふだん行っていることと、まったく同様である。親がわが子だけとそのようにつきあうことにもそれなりの自己成長の契機はあろうが、子ども同士、大人同士、子どもと大人などのマルチな関係性の中での対話の迫力にはとうていかなわない。  そして、ここまで述べてきたこと、とくに「個の深み」の獲得の過程は、だれかが上から指導することによって実現するものではない。また、こうすればかならず成功する、という定まったモデルもぼくには提示できない。できるのは、「個の深み」の阻害状況を問題提起することと、さまざまな局面から活動を改善するアイデアを提案することだけである。  ただ、ひとつ、ぼくが予想するのは、それらの過程がちょうど迷路(MAZE・メイズ)のようになるだろう、ということである。  ぼくは、パソコン通信によるコミュニケーションの特徴をMAZEであると考えている。●(8) パソコン通信ではほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたりもどったり(ジグザグ)している。しかもそのやりとりは気軽でイージーだ。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見する。迷路を自分の力で歩くことによって、「教師なし」で予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、求める情報を能率良く獲得するためには不都合に見えても、創造的な学習にとっては有効なツール(道具)なのである。  だから、地域子育てネットワークで個人の「個の深み」に注目してそれに入り込んでいけば、その個人さえも見通すことのできていない迷路に踏み入ることになるだろう。しかも、他の個人の「個の深み」も重層的にそこに関係をもってくるのであるから、「深みにはまる」といった危険性を感じなくもない。  しかし、考えてみれば、子どもたちは迷路遊びのコーナーがあると目を輝かせて列をつくっている。迷路は、迷えば迷うほど楽しいものなのである。それなのに、私たち大人がMAZEに不安を感じるのは、そういうフリーチャイルド(自由な子ども)としての心を失いつつあるからであろう。見通しがきかないことから逃避してしまう非主体的な敗北主義がしみこんでいるのだ。今の子どもたちにその悪癖を押しつけてはいけない(自由な子ども心を失ったそういう大人のような子どもたちが今は増えつつあるが)。  特別研究委員会の報告では、大人も義務感からではなく、あくまでも楽しく、ということを主張した。また、この報告を受けて中青連主催によるシンポジウムが開かれたが、そこでも、今の子どもは縛りつけられすぎている、大人は「教えなければならない」という義務感が強すぎる、などの指摘があった。迷路をさまようことを子どものように気楽に楽しんでしまう自由な心が、大人のほうにこそ求められているのである。 ●(6) マニュアルを越えて  報告では、最後に、時間・空間・仲間(この三つの間をサンマという!)を生かす青少年団体活動への提言として、子どもと大人がともに育つ柔らかい組織運営と柔らかいプログラムを提案している。その内容は、穴埋めではなくネットワークづくりとしての団体外の人材の活用、多人数一斉プログラムからコミュニケーションを重視する小人数個別プログラムへの転換、子どもであっても自分が社会に役立つという認識を育てるためのボランティア活動の採用、などである。しかし、それからもわかるとおり、報告はマニュアルとして使ってもらおうと考えて作られたものではない。委員会から青少年教育団体や社会教育活動へのメッセージにすぎないのである。  ぼくは一般のマニュアルのメリットは認めるけれども、少なくとも学校週五日制に求められているものはマニュアルではないと考えている。なぜならば、五日制が求めているものは、教育・学習に関わるべき者、つまり教師、親、大人たちが、教育・学習主体としての本来の自己を取り戻すことであり、そのためには、だれもが安心できるひな型が必要なのではなく、ひな型を与えられてから動き出すという今までの自己の非主体的な枠組をみずから乗り越えることこそがもっとも急がれている課題だと思うからである。 第1部・注− (1) 西村美東士「社会教育の新しい展開からみた学校週五日制−地域子育てネットワークの形成−」、エイデル研究所「季刊教育法」第八六号、一九九一年一二月 (2) 中央青少年団体連絡協議会特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」一九九〇年三月 (3) 中央青少年団体連絡協議会特別研究委員会提言「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動−」一九九一年三月 (4) 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、一九九一年四月 (5) スクエアヘッドとエッグヘッドについては、L・ベラック『山アラシのジレンマ』小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、一九七四年一月、二九頁。 (6) 防衛的風土と支持的風土については、J・R・ギッブの言葉。ここでは、片岡徳雄『学習と指導』放送大学テキスト、一九八七年三月、四五頁、から引用。 (7) (8) 前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』 ●第2部 こころを開く態度変容の学習 ●1 こころを開いて交流できる仲間づくりの方法  ぼくは二十代の六年間を東京都青年の家の職員として過ごした。これは、そこで出会った青年たちのあたたかい記憶を思い出しながら書いたものである。●(1) そういう事情から、本論はやや楽天的すぎる傾向があるが察してほしい。ここでは、現代人の抱えている山アラシジレンマの問題から逃げずに、それを受けとめ、乗り越える方法を具体的に考えてみたい。なお、後半はロール・プレイングの活用に絞って述べている。 ●(1) あったかいディスコ  今から十年ほど前、ぼくが青年の家の職員だった時、ディスコダンスを取り入れて「ダンスフェスティバル」を行っていた。そのころ、まちではディスコが熱っぽくはやっていたが、社会教育の場でそんなことをしたのはこれが初めだったと思う。  地域のレクリエーション研究会や青年の家のボランティアグループのメンバーなどで実行委員会を結成して準備や運営に取り組んだ。新しいディスコのステップを実行委員が友達やディスコなどから仕入れてきて、実行委員会の例会で教え合ったりした。フェスティバルの本番ではディスコの店長を招いて教えてもらったこともある。  当時は「バスストップ」などのステップダンスの全盛時代だった。これは、バスの停留所に並ぶような形でみんなでステップを合わせる踊り方である。今から思えば、いにしえのディスコということになるが、アップテンポのリズムで初めての人でもみんなとステップを合わせて簡単にノルことのできる「古き良きディスコ」は、技術を要する今のフリーダンスよりみんなで取り組みやすいダンスだった。青年の家のフェスティバルでは、生まれて初めてディスコをやるという人と、毎週ディスコに通いつめている人とがいっしょになってステップを踏んだ。  参加者は次のように感想を書いてくれている。「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」……。  ディスコで汗をかくと、身も心もすっきりする。これはお店のディスコも同じである。しかし、お店のディスコでは青年は意外にひとりぼっちだ。ステップがわからずにフロアーで立っている人を、じょうずな者が教えるなどといったことはない。それに対して、青年の家ではもっとあたたかいディスコができたとぼくは自負している。なかでも、もっとも印象に残っているのは、ディスコボーイのA君がステップ指導をしてくれたことだ。「ステップを一歩一歩教えるなんてかっこ悪いことはしない。カッコ良く踊ってみせるのが生きがい」というのが、普通のディスコボーイのやり方である。A君もそうだった。  彼は最初はたんなる参加者だった。しかし、A君のステップのかっこよさにしびれた実行委員は、さっそく彼を実行委員会に引きずり込んでしまった。彼は次第に実行委員会にのめりこんでいった。そして、三年目のフェスティバルでは、難しいステップの曲がかかった時に、スッと前に出てきてマイクを握り、百人以上の参加者の眼前で一歩一歩ステップを説明してくれたのである。 ●(2) いっしょにつくりあげるから「あったかい」  ここで、もう少し参加者の感想を拾ってみよう。「いろんな人と知り合えた」「汗を流し、おおいに笑えた」「心からバカになって、ほんとうの自分が出せた」「先日のミニフェスティバルに参加をした人達と再び会えたことが、そして、覚えていてくれたことが思いがけなくうれしかった」「若者達が一つになって何かをするということは、たいへんすばらしいことだと思う」「実行委員の人が一生懸命やってくださっているのがよくわかり、感激した」。このように、参加者は「あたたかさ」や「仲間の良さ」を味わうことができた。  ところが、実行委員は、「めだちたい、楽しみたい気持ちとの葛藤がありました」などと感想を書いている。準備を重ねて、やっと迎えたフェスティバル本番では、照明係やレコード係をやっていて肝心の踊りを楽しむことができなかったし、食事や宿泊の心配などをしたりで地味な努力も多かったのである。しかし、それだけに「あたたかさ」、「仲間の良さ」への感動も別の大きなものがあった。ある実行委員は、一言だけ、「ひと・ものとのめぐりあい」と感想を書いてくれている。  自分たちで企画して、自分たちでつくりあげていくのである。企画を実際に実現しようとすると、ささいなことから大きなことまで、さまざまなものごとやできごとと出会う。たとえば、ディスコクィーン、ディスコキング(コンテスト優勝者)への投げテープの代わりにトイレットペーパーを使おうと彼らは企画したが、職員のぼくに「もったいない。トイレットペーパーを作っている人の気持ちを裏切ることになるのではないか」と止められてしまったことがある。  ものごととの出会いの中で、意見の違いも出てきた。仲間のいい性格も表れれば、あまり良くない性格も表れてしまう。けれども、そこに本当の「人とのめぐりあい」がある。「よそごと」「ひとごと」でない逃げのない人間関係、これが本当の「あたたかさ」につながるのだろう。  何かをいっしょにつくりあげるからこそ、ひととの本物の出会いがある。だから「いっしょにつくりあげること」は仲間づくりの最大の秘訣である。いっしょに酒を飲むのだって、いっしょに汗した仲間だから楽しいのだ。ディスコボーイのA君がステップ指導をする気になったのも、ただたんに参加者として楽しんだからではなく、実行委員としてみんなとやってきたからなのである。  何かいっしょにつくりあげようとするものをもつこと、そして、その何かをみんながつねに頭の中にはっきり描いていること、つまり「明確化」とある程度の「共有」をしていること、これこそが究極の仲間づくりの演出のねらいなのだ。これから述べるさまざまな演出も、すべてそのためにあるといっても言いすぎではないだろう。 ●(3) 安心してしゃべれる会議  まず、会議のもち方をもうひと工夫できないだろうか。アイデアを出すための会議であれば、「発想法」が役立つだろう。そこには、メンバー一人ひとりの主体的なアイデアを活かす技術がたくさん盛り込まれている。  そして、グループとしての意思決定の会議においても、意見をいえずに誰かが決めるのを待っている人に対して、安心して気楽にしゃべれるようにするための配慮が必要である。そのために、ひとつには、みんなの顔が見えるように座ることも必要である。むこうを向いている人にしゃべるのは、誰でも気がひける。したがって、円形に座ることなどが考えられる。ただし、何がなんでもいつも真正面に向き合うのが良いということではない。まだメンバーになっていない人が発言のためではなく会議の様子を見るために参加する時は、かえってややはずれた所に座ってもらうほうが本人にとっては気が楽だろう。会議ではなく、講義を聴くような時は、教室形式の方が良い場合もある。カウンセリングでは、相談する人と相談を受ける人とは、ややはすに向かって座ることが多いのだ。あんまり真正面だと息がつまる感じになってしまうからだろう。そんな細かい配慮も必要である。  二つめには、発言のない人に「どうでしょうか」と質問する、つまり水を差し向けることが必要である。まだグループになじんでいないメンバーには、「こんなことを言っていいのだろうか」という不安がつねにつきまとっているはずだ。「質問する」ということは、その不安に対して「あなたの意見も聞きたいのですよ」というグループの気持ちを表明することであり、そのメンバーにとってみれば「自分の存在が認められている」ことの確認にもなるものなのである。  ただし、これも「さあ、言え、何か言え」とか「時間がもったいないけどしかたないから」などという態度では、逆効果である。そのメンバーは「おしつけがましい」とか「形式的だ」と感じていやになってしまうだろう。  ふつうならそんな質問の仕方はしないと思う。しかし、無意識のうちに、あるいは演出技術の未熟のゆえに、それに近いことをしてしまうことはけっこう多いようだ。たとえば、新人にいきなり「今度のイベントに数人の高校生が参加したいといってきているのですが、あなたはどう思いますか」と質問してしまう。実は、その前の例会で、「夜の反省会でお酒を飲む予定だから、まずいのではないか」などの論議があって、他のメンバーは「どうすればいいか」とおおいに悩んでいる。そういう悩みや気持ちを表さずに、つまり自分たちの方の心は開かずに、新人の意見だけ聞いておこうとするならば、それは形式的質問であり、あとでその経緯を知った新人にとっては詐欺にあったような気分にもなりかねない。  それに対して、こちら側の心を開いた質問は、相手を安心させ、仲間意識を高めてくれる。経緯や悩みまで話して質問すれば、新人も「そんなに悩むぐらいなら、今回は思い切ってアルコール抜きの反省会にしたらどうですか」などという、みんなが思いもつかなかった(?)フレッシュマンらしい強烈な意見を出してくれるかもしれない。 ●(4) 仲間とゴハン・オフロ・フトンをする意味  バリバリ働いている中堅のサラリーマンが、夜遅く帰宅する。その時、彼が奥さんに発する言葉が三つ。メシ・フロ・ネル……。これでは、さびしい限りである。夫婦や家族の会話はもっと豊かでありたいものだ。仲間づくりを大切にするグループにおいても、その思いは当然、同じである。  けれども、このゴハン・オフロ・フトン自体は、正直にいって誰でもとっても気持ちよくうれしいひとときのはずだ。ホカホカあたたかくて、湯気のあがっているごはんを食べるとき、お風呂で「あーあ」と体を伸ばすとき、ふかふかしたふとんにもぐりこむとき、誰でも幸せを感じる。この楽しいひとときを仲間のみんなで共有しないという手はない。そういう楽しい時というのは、誰でもリラックスしてしみじみと語り合えるわけである。  「チカメシさん」という言葉がある。「近いうちにメシでも」と誘うだけの上司のことである。しかし、実際、上司・部下の間だけでなく、サラリーマンの社会ではメシはコミュニケーションのための演出手段として広く最大限に有効活用されている。グループの仲間づくりにとっても、それは大きな効果を発揮してくれるだろう。そして、ゴハンもオフロもフトンも、生活の臭いの強いことがらである。これを仲間といっしょにすることは、「生活をともにしている」という暖かい実感をもつことにつながる。  これらのゴハン・オフロ・フトンをいっぺんに行えるのが、合宿である。経験した人はわかると思うが、合宿の威力は大変なものだ。肩肘張った例会ばかりだったとしても、ある時に合宿をやると、次の例会では「やあ」、「よう」、「あれからどうしてた?」などの親しげな言葉がけのやりとりになるということは、よく経験することである。生活をともにするということが、何かをみんなに与えてくれるのである。  たとえば、合宿で夜寝るとき、和室であればふとんを放射線状に敷き直す。うつぶせになって、頬づえをついてみんなでぐるりと向かい合う。こういう「寄り合い」だと、なぜかもう誰でも初めっからなごやかにニコニコしてしまう。  なお、ゴハンはともかく、オフロとフトンは異性のいる場合、残念ながら限界がある。けれども、たとえば就寝時の「寄り合い」には浴衣やネグリジェなどではなくジャージで参加することに決めるなどの工夫をするだけでも、けっこう楽しくやっていけるものである。  だから、グループで仲間づくりを目指すのなら、その合宿ではゴハン・オフロ・フトンの時間を大切にして、ゆとりあるプログラムにする必要がある。大切な夜の時間まで研修のプログラムをびっしり詰め込んでしまったとしたら、外側からは「効率的に事が運ばれた」と見えるかもしれないが、じつは本来だったらその合宿でメンバーの内側にはかりしれない相互作用が行われたはずのものが、ないままに過ぎてしまうということになってしまう。  仲間づくりとは、このような生活の共有の中で、そしてプログラムしきれない所で、メンバーの一人ひとりがみずから自然に行うものであるという要素がとても強いのである。 ●(5) 自然に仲間づくりができるようにするための演出  一昔前なら、「青年のつどい」などと銘打っただけで、青年がたくさん集まってくれるという状況があった。ストレートに仲間を求めていたから、「青年のつどい」などという、まさに仲間づくりそのものを示すネーミングでも良かったわけである。  しかし、そんなテーマでは、今の青年は「わざとらしくていやだ」と思うだろう。今日、「つどい」を行うのなら、「○○が身につく」などのようにつどいの具体的な目標がはっきりわかるテーマにしなくてはならない。グループにおいても、「何かいっしょにつくりあげようとするもの」があるからこそグループをつくって活動するのだし、その活動があるからこそ自然に、メンバー自身の手で仲間づくりが進むものなのである。  だから、仲間づくりの演出で肝心なことは、「何かをいっしょにつくりあげる」活動の中に、メンバーの手によって自然に仲間づくりが行われるような時と場所を設定することなのである。グループで合宿をしたり、自由におしゃべりをするためのたまり場を設けたりするのも、そのような「プログラムしきれない」仲間づくりの環境を整えるためのだいじな演出方法なのだ。 ●(6) てれないで、ロールプレイング  ロールプレイング……、横文字だとrole playing、「役割を演ずる」という意味である。社会学や心理学でも使われている言葉だが、ここではグループ活動において普通に行うことができるやり方として紹介する。  これは、いわば模擬練習のようなものと考えられる。つまり、実際のある場面に遭遇する前や遭遇した後に、メンバーの数人がそこで登場するそれぞれの人になったつもりで劇を演ずるのである。「試しにやってみる」あるいは「再現フィルム」という感じだ。  こういうものには、妙なノリのようなものを感じてしまっててれくさい、引いてしまうという人も多いと思う。しかし、効果絶大なわけだから、あえてノリの精神で、遊び心で気楽に取り組んでもらいたいと思う。  ロールプレイングはたとえば次のように行う。もちろん、実際に行う時には順序を逆にしたり反復したり飛ばしたりして、臨機応変に行うことになる。 @ 問題の状況を共通理解するために、メンバーから当人への質問などを中心にして話し合う。 A 演者がその問題の場にいるつもりで、それぞれの立場を演ずる。「その人だったら、その場では、こう思って、こう言うだろう」と自分がその人になったつもりでアドリブで演ずる。とくに、出だしが難しいと思われる。照れくさくて、ついニタニタしたり吹き出したりしがちである。出だしの言葉だけは決めておくのもよいだろう。 B 演技が終わったら、演じた者が「この時、こんな気持ちがしました」などと、感想を披露する。 C 演じた者、見ていた者の両方が感想や意見を述べあう。 D もう一度、演技をやり直してみる(Aに戻る)。 ●(7) ロールプレイングによって実感をともなって見る  グループ活動の中ではさまざまな問題がおきる。人と出会うこととともに、ものごとやできごとと出会うこともグループ活動の特徴であり、長い眼ではむしろ問題と出会うことは活動の魅力とも見るべきだろう。たとえばある女性メンバーの悩み……。父親が、そのグループについて理解を示してくれていない、「例会の日は、いつも帰宅が遅くなる」と言って、それを理由にグループ活動をやめさせようとしているとする。  この問題について、グループで論議しようとしても、その前によくわからない所がある。その父親はどういう性格の人なのか、「父親の反対」といってもどの程度の反対なのかなど、言葉による説明だけでは伝わりきらない。また、それが伝わらないままで机上の議論をしても、事実誤認の上で論議が進んだり、「女性だけ先に帰るようにしたらどうか」、「いや、悪いことをやっているのではないのだし、男も女も遅くなってもゆっくり話す機会がほしい」などと、論議が空回りしたりしてしまう。  これに対してロールプレイングならどうだろうか。たとえば、とりあえず当人である彼女には横で見ていてもらって、他のある人が彼女の父親の役割、他のある人がグループの代表として理解を得るためにその父親に話しに行くという設定で役割を演じたとする。演技の途中で、彼女は「うちの父なら、そんな言い方はしないと思うわ」などと演技に注文をつけるようにする。そうすれば、演者も、見ているみんなも、彼女本人でさえも、だんだんその問題が実感を伴った事実として見えてくる。この「実感を伴って見る」ということが、ロールプレイングのだいじな所である。  なぜならば、第一に、実感を伴って見るということによって「模擬練習」としての効果を発揮する。もしロールプレイングをせずに抽象的に議論しただけで、具体的にどう言えばいいかはみんなにもわからないまま代表が実際に父親に説得に行くとしたら、代表になった人はかわいそうだ。彼女の父親を前にしてドギマギしてしまうだろう。いざしゃべる段でも、どう言っていいかわからない。ましてや、みんなで抽象的に議論したことを自分の言葉に反映するなどというのは至難のわざである。しかし、ロールプレイングで実感を伴った練習をしておけば、その代表はずいぶんやりやすくなる。また、みんなも、模擬的ではあっても、父親の反対という「ものごと」と出会い、リアクションとしての自分の気持ちも認識し表明することができる。そして、代表もそういうみんなの気持ちを実際の説得の言葉に反映しやすくなる。 ●(8) ロールプレイングによって「信頼感」を呼びおこす  第二に、他人や自分の気持ちがそれまでよりわかるようになる。人間には意識的に、あるいは無意識的に隠している自分の気持ちがあるし、いつもは気がついていない他者や自己がある。他人を演ずることや、その演技を見ることによって、「その人が実際にその場でどんな気持ちをもつのだろうか」ということを具体的に考えたり、自分の気持ちにハッと気づいたりする。つまり、「自己や他者と出会う」ことができるわけである。  たとえば、先の事例の父親には、実は私たちが学ぶべき「いい部分」があるのかもしれない。ロールプレイングでは、父親本人がその場にいなくても、みんなで話し合っていくうちに、そのことに自然に気づくことがけっこうあるのだ。もちろん、そのためにはみんなに気づこうとする態度が必要だけれども。  第三に、メンバーやグループ全体のコミュニケーション能力を高めることができる。ロールプレイングでは気持ちのいい言い方をめざして、「そこは、こう言ってみたら」などとみんなで自由に意見を出し合う。その話し合いに基づいて納得いくまで演技を繰り返す。  さらに、もっといい感じで言えたり、聞けたりするためには、次のようなことに心がけると、いっそう効果的だろう。  まず、共感をもって聞き合う。相手の気持ちと共感できる時は、あいづちをうったり、うなずいたり、「ええ、そうですね」と賛意を口に出したりして、できるだけ相手にその共感が伝わるようにする。  自己を開く。人目にふれたくない自分もあるだろうけれども、そういう欠点を含めたトータルな自分を自分として認め、相手にも開いていくことが必要である。自分を一人でしょいこまずに他者に開けば、意外に相手もそういうあなたを受け入れてくれるのではないだろうか。  そして、「さわやかな自己主張」を心がける。これは、とても難しいことである。だが、相手に対して何か主張したいことがある時、「自分ががまんすればいいのだから」とか「言っても聞いてくれないから」などと理由をこじつけて主張しないでおくということは、表情に出てしまったり、第三者に悪口を言ったり、いつか爆発して攻撃的になったりするなど、ますます不幸な結果になりがちである。相手の頑固さや自分の能力に勝手に絶望して口を閉ざすのではなく、自分の気持ちが受け入れられるであろうことを信頼して、けんかごしではなくさわやかに「私はこう思います」と言うトレーニングが求められているのである。  コミュニケーションが可能になるためには、「通じ合うだろう」という自信(自分への信頼)と他者への信頼が不可欠である。ロールプレイングとは、そういう信頼感を私たちに呼びおこしてくれるコミュニケーションのトレーニングそのものでもあるといえる。 ●2 授業の主体的な楽しみ方  ぼくは、社会学の若手研究者といっしょに「青少年研究会」というグループをつくって議論や交流をしている。これはぼくを支えてくれている仲間関係のひとつでもある。その会で、社会学のテキストを作成した。ぼくは「授業の楽しみ方」について執筆した。●(2)  その本は、大学生を主要なターゲットとした本である。しかし、高等教育については、前著『生涯学習か・く・ろ・ん』でも扱ったように、その現代的課題についての考察を深めれば深めるほど、高等教育の退廃に対する今日的な救世主は「生涯学習理念」そのものであるという確信を強めざるをえない。だから、マジメ主義を克服する「授業の楽しみ方」というものが、「生涯学習の”正しい”楽しみ方」にそのままつながると考えている。 ●(1) まじめな人の問題点  主体とは、「認識し、行為し、評価する我」である。このような主体性が、ぼくには、あなたには、十分に備わっているだろうか。なんだか心もとない。  ぼくは考える。「こうあるべき」という道徳律にきちんと従って生きているのは、外見からは主体性があるように見えるかもしれないけれど、必ずしも事実はそうではないのではないか。学生の分際なんだから、授業がつまらないと思っても教室でおとなしく座っているべきだ……、これって、ほんとに主体性なんだろうか。こうあるべき、と自らが認識したのならばそれでもよいだろう。でも、アバウトな言い方で恐縮だが、他者やメディアから長年のあいだに「認識」させられてしまっているだけの話なら、なんてつまらない人生なんだろう。根拠のない思い込みだと気づいたならば、そんな思い込みはやめようじゃないか。  こういうふうに書いていると、学生の読者はどう思ってこれを読んでいるのかな、と気になる。これも、ぼくに確固たる主体性がない証拠なのかもしれないが……。それはともかく、いわゆるまじめな学生は、きっと不愉快に思っている人が多いだろう。  現に、ぼくの授業も、まじめな学生から、「もっと体系的で役に立つ講義をしてくれ」とクレームがつくのである。ぼくの授業は、一人ひとりが悩んでしまうような正答のないテーマのものが多いので、それを好む人もいるが、「まじめに教師の話を聞くことが、学習であり、学生の生き方である」という価値観を大切にしている人は、とくに最初のうちはぼくの授業に反発するようである。  もう一つのタイプは、アルバイト・サークル・レジャー重視型だ。そういう人たちは、本人の意識に関わらず、それなりの体験学習をしてしまっているわけだから、「そうだ、そうだ。学生が成長するのは、授業だけじゃないぜ」と冒頭の文章をのんきに読んでいたのかもしれない。たしかに、人間は、あらゆる場面において、社会から学習する。正解だ。でも、ぼくは、そういう学生にも疑問をもっている。主体的にアルバイト、サークル、レジャーしている? そこから、ほんとに主体的に学習している? 認識や行為や評価を「してしまっている」あるいは「させられてしまっている」だけじゃないの?  たとえば、人間関係の技術を学習するには、サークルの運営に関わるとよいだろう。それ以上に対人恐怖が強い人は、ファースト・フードのアルバイトでもするとよい。対人恐怖のあなたでも、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」とか、場合によっては初対面のお客さんに会釈することさえできるようになるだろう。それは、漠とした精神論的な前提ではなく、サービス労働の部分に対してペイするという明瞭な前提が使用人側にあるので、あなたでも自然に役割演技できるようになるからなのだ。  そういうことが見えていないと、「うちのサークルの連中には責任感が足りない」とか「アルバイト先の店長が私の存在を認めてくれない」とかいって他人のせいにして悩んでいるだけで、自らの非主体的態度は変容されないままということになる。サークルは、部活動と違って、やりたい人がやりたいときにやりたいことをやる場である。むしろ、責任感を他人に要求せずに集団をうまく運営することを学ぶ場なのである。また、アルバイトは、経営ヒエラルキーの一番底辺にいて、底辺にいるからこそ見えるものをきちんと見ていく場である。サークルでもアルバイトでも、必要な演技をしながら、見るべきものを見ることのできる人は、どこにいても主体的な学習・発達・成長ができるのだ。  ついでに言いたい。金欠型だ。そういう学生は、したいこと(レジャーなど)が金がないからできない、という。ほんとうにそれがしたいの? やれたらいいな、と思い込まされているだけじゃないの? それから、ほんとうに金がないことが原因でできないの? 金がなくても、超一流のホテルのロビーは無料で使えるんだよ。そこでゆっくり本を読んだり、エグゼクティブたちを観察したりするのもいいんじゃないか。もし、追い出されたら、それもいい経験だ。この際、「自分はつねにあたたかく守られていなければいけない」という思い込みは捨てた方がいい。あたたかさは、社会の機構にではなく、友人や恋人や家族に求めていこうじゃないか。  少し古い話になるが、若者の気質が「四畳半主義」だといわれていたことがあった。下宿先の四畳半の世界だけが幸せに満ちていればよい、社会で貧困が生じ戦争が起ころうとも、自分の四畳半に影響しない限りは関心がない、という意味だ。今なら、さしずめマンションの「ワンルーム主義」といえるだろうか。  ここで、金欠型の人から、クレームがつくかもしれない。「私たちは、ワンルームマンションなんか住めないんだ」と。しかし、四畳半だろうが、ワンルームだろうが、あなたの人間としての成長の面からは、あまり関係はない。問題は、その生活空間にあなたがきちんと対峙しているかどうかである。  四畳半だけがよければよい? それはけしからん。もっと社会を見つめなければだめだ……。そういう大人もいるだろう。いや、ぼくがもっと驚くのは、学生の中にそういうことをいう人がいるということだ。そういって主体的に社会と関わろうとしている学生もいるのだが、そうではなく、社会に責任をもつ「べき」といいながら、その強迫観念に悩み、自虐的、内向的になってしまっている学生も多い。自虐というのは、裏面では、他者や社会への責任転嫁や攻撃性を内包している。  主体性とは、べき論ではなく、自然体から発するものだと思う。四畳半主義でもいいじゃないか。そこにいる自分ともっとよくつきあってみたらどうか。たとえば、自己洞察なんていうのは少しでもできたとしたらすごいことで、学習成果の中でもかなり高度な部類に属するのだ。  話を「まじめな学生たち」のことに戻したい。ここで一つ、問題になるのは、「評価」だ。授業にまじめに出席してAをそろえることが、よい会社に就職することにつながると思い込んでいる。ほんとうにそれで就職が有利になるのなら、ぼくは何もいうつもりはない。実際、理工系の学生などは、あいも変わらず、そんな入社選考をされているのかもしれない。そういう状況では、作戦上、まじめなふりをしてAをそろえるように図ればよい。ただし、自己成長の機会がそれだけでは不十分になるのなら、別途、独学やダブルスクール、その他もろもろの人生経験などによってその機会を確保しなければならない。こういう柔らかでしたたかなやり方が、あなたの主体性を防衛してくれるだろう。  しかし、一般的には、「企業の求める人材の一つの大きな要素は、まじめ、ということである」というのは、たんなる思い込みにすぎないのではないか。もっと企業経営者向きの本を読んでもらいたいが、ヒエラルキーの中でおとなしくできる人などというのは、企業の革新的経営のためには何の役にも立たないのだ。  もちろん、ほんとうのまじめとは、ヒエラルキーの中でおとなしくしていることとは違うということはだれでもわかる。でも、まじめといわれている人の実態は、これに近いと感じる。つまり、権威主義的で、形式を重んじ、エスタブリッシュメントに対しては依存的にふるまいがちな人なのである。  今後の会社は、自分の個性と意見が強いためにヒエラルキーでおとなしくなんかしていられない人、水平なネットワークの中でこそいきいきと自分を発揮できる人を求めるようになるだろう。もちろん、同族会社などの中には、社長のいうことをよく聞くまじめな人がいい、などという所もあるかもしれないが、そもそもそんな会社は入社するあなたにとっては不幸だ。そういう会社の業績がこれから大幅にアップするとは、まあ考えられない。ただし、「革新的企業」の方も、組織である限り、多かれ少なかれヒエラルキーの中での役割遂行や退屈なルーティンワークは必要になるから、甘い幻想は抱かないように。演技し、別途、自己の主体性を育てようとする主体性は、いずれにせよ必要だ。 ●(2) 君の主体を問う  ここでは、自分への評価の実態を間違ってとらえている思い込みの例をあげたが、ほかにも、人間は根拠のない非主体的な思い込みのためにとても不幸になっている。本人も気づかないうちに、現代社会の一つの側面としての画一化や没個性の影響を受け、各人の認知構造が無自覚のうちに小さく固まってしまっているのだ。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義……。  そんな認知構造を変革するためには、主体性が必要だ。自己の主体性を社会や組織から自分で守り育てようとする主体性だから、ぼくはそれを「メタ主体性」と呼びたい。ついでにいうと、それによって生まれる一人ひとりの個性を、ぼくは「個の深み」と呼んでいる。「個の深み」とは、個人が組織や集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもって生きることである。また、個別化よりも積極的な価値づけをし、個人の神聖さと不可侵性を主張する言葉でもある。あなたに「個の深み」が潜在、顕在のかたちで存在しているからこそ、あなたはあなたが「個人として尊重される」(憲法13条)べきことを自己主張できるのではないか。このようにプライドをもって、あなたの学生生活を見つめなおしてみよう。  「授業の楽しみ方」の一つの結論は、他人からはまじめには見えないかもしれないけれどもじつは主体的であるという、そういう授業の受け方をすることである。それは、主体的選択をした結果として、授業に臨むということである。自分にとって、その授業を受けるよりも、ある映画を見る方が有益であると判断するのなら、授業の方は単位を落とさない程度にごまかして、映画を見に行けばよい。そういう自己管理的(self-directed )な生き方のほうが、自分自身の学生生活の物足りなさを、カリキュラム、評価などのシステムや教員という他人などのせいにしてうじうじ悩む依存的な生き方よりも、よっぽどさわやかである。あなたが成人になるにつれて自己管理的学習(self-directed learning)ができるようにならないと、とても困ったことになってしまうのだ。  それから、ごくまれに、大学当局や教員に自分の学習要求を訴えて、授業そのものを改善させようとする「超主体的」な学生もいる。教員が何のかんのいわなくても、そういう学生は、そういう行動の中で、いろいろなことを自ら学んでしまう。責任感だって、そういう人には、あとからだってついてくるものだ。  ただ、授業は、自分だけのためにあるのではなく、それぞれの学習者のさまざまな「自分」の総体のためにあり、プラスアルファ(教員の専門的・主体的判断および教育権の発動)によって構成されるということは、認識しておいた方がよい。自分の学習要求さえさわやかに自己主張できれば、あなたの学習者としての責任は果たしたことになるのであって、それが実際の授業の改善に結びつかなかったからといって敗北感にひたってしまうのは身勝手であろう。  しかし、このような「超主体的」な学習態度はともかく、フツーの主体的な学習態度、すなわち自己管理的学習重視の観点からいえば、あなたが教室で座っているのは、あなたが次のように判断したからなのだといえる。「今、ここで、この学習をしたいから、ここに座っているのだ」。やっぱり時間の無駄だったと、途中で後悔しはじめたら、さっさと、しかし一生懸命授業を聞いている人の迷惑にならないように静かに、退出すればよい。ほんとうは、こういう態度こそまじめな学習態度というべきなのだ。 ●(3) 知のヒエラルキー vs ネットワーク  「○○教員は、○○という問題については、たいした見解をもっていない」と、教員批判をする学生がいる。ぼくは思う、いいぞ、いいところまでいってる、と。ところが、そのあと、学生のタイプは二つに分かれてしまう。一つはグチをいっておしまいの人だ。せっかく、そこまできたのなら、もう一歩、踏み込んで行動につなげてみたらどうだろうか。その教員に議論をふっかける、それでもその教員が物足りないと思ったら、違う大学の教員の授業にモグる。これが二つめのタイプだ。  実際、ぼくも、何人かのモグリ学生を知っている。その一人は、勤労学生で、全国でも著名なある教授の数冊の本に傾倒して、半年ほどよその大学のその授業に出席していたが、今では、「ある教授には限界がある」といって聴講をやめてしまっている。もしかしたら、その教授はもっと深いものをもっているのかもしれない。それでもいいじゃないか。その学生が知の遍歴を一つ獲得したということが素晴らしいのである。  知の行動をしなければだめだ。何も出てこない。知は、ヒエラルキー的なところがあるから、それに反発する「生意気さ」も求められる。でも、他方で、知は水平なネットワーク的世界を有しているのだから、そこにきちんとアクセス(接近行動)してほしい。それは、あなたが自己管理できることであり、あなたの責任だ。  家族、学校、社会などのヒエラルキーによって、自分の主体性が根こそぎにされている、などということは、正答かもしれないけれど、それをいくら唱えてみたところで、あなたの主体性は回復できない。そのヒエラルキーを自分の目で見つめてみよう。そこからあなたが見いだしたものが、あなたにとっての真実なのだ。  「授業では、教師のいうことをおとなしく聞いていなければいけない。だって、それって当り前のことでしょ」、そう言って、じつは現在の授業や大学や社会に不満を抱えている人がいる。この人の不幸は、最初の認識の誤りから出発している。ヒエラルキーから自明だとされていることは、すべて疑ってかかるべきだ。「自明のことねえ……、それほんとう?」と疑う精神が必要だ。「そうされてしまっている」というふうに逃げないで、自分が主体的に判断したことを行動の根拠にすべきだ。そういうあなたなら、日本国憲法が援護してくれるだろう。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第19条)、「学問の自由は、これを保障する」(第23条)。  ぼくは、ネットワークの特性は自立と依存の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かといって「孤立」でもない。このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する依存関係に対しては自立が、従来の産業文明における個人の自立に対しては依存関係が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。  今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて、ということだとぼくは考える。  あなたの主体性は、生活や社会の一つひとつの場面で、抑圧されたり、表出したりすることになるだろう。その一つひとつがあなたにとっては重要だと感じられるのであろうが、じつは、そのとき抑圧されたことなどは大したことではない。だいいち、実際生活でいちいちくじけてはいられない。それよりも、主体性を自己管理するメタ主体性をあなたの内なる世界で育めるかどうかがポイントなのだ。ヒエラルキーがやること自体はあなたの責任ではない。あなたがヒエラルキーの逆機能の中でもネットワーク的に行動しようとできたかどうかが、あなたの責任なのである。  最後に、当り前だけれどもユニークな言葉を紹介しておきたい。それは、「過去と他人は変えられない」という言葉である。自分は、今の自分しか意識的には変えられないのだ。「昔、こうすればよかった」とか、「あの人がああいう人じゃなかったらよかったのに」とか、くよくよ思い悩んでもむだである。今、ここで、あなたがどう考えて、どう行動するか、が大切なのである。このことに関心がある人は、心理療法の一種である「交流分析」(TA=transactional analysis)を調べてみるとよい。 ●3 情報へのネットワーク型アクセス  「青少年研究会」で作成した社会学のテキストにもう一つ書いたのが、情報へのネットワーク型アクセスの方法である。●(3) 学習に情報収集は欠かせないものだが、そこでも、学習者の人生の構えが主体的であるか否か、あるいは、オープンマインドをもっているか否かが、重要な要素になる。 ●(1) 過去の知の重力圏からの脱出  大学において講義はどのように位置づけられているか。その現在の到達点として、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)があげられる。この本は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。  そこでは、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。  教室の座席におとなしく座っていれば体系的な知識が身につくというのは、大きな思い違いなのだ。しかし、ぼくは講義を話し言葉メディアとしてとらえる。この話し言葉メディアを通した講義は、学生個人の認知構造の方向性と違うベクトルからのショックを無理やりでも与えることができるから、他のメディアにはない役割をもちうる。ただし、こまごました知識や体系的な知識を覚え込むのには適していないのである。  書き言葉メディアのメリットとしては、その逆が成り立ちそうである。自分の好みにあった書物を、感情移入したり、筆者の理論構築に同化したりしながら読み進めていく。そうすると、自然に、自己の思想も理論武装されるし、深化していく。そして、気になる情報は繰り返し読んで(再生可能)覚えることもできるし、そうこうしているうちに、筆者の膨大で複雑な知識体系も自己の頭の中にコピーされていく。話し言葉メディアで、聴衆の一人ひとりの進度に対応してそんなことをしていたら、効率が悪すぎるのだ。  あなたが、本は読まずに講義ばかり聞いて楽しいと思っているのならかまわないが、そういう場合は、「いったい私に何が身についたんだろう」とは悩まないことだ。さまざまな教員の多種多様な考え方に接しているうちに、あなたの中にきっと知的柔軟性が育っていることだろう。それでよしとすべきであって、知識やその体系が身につかなかったからといって、それを教員の力量不足のせいにするのは、過度に依存的で身勝手である。学習効果は、利用するメディアのそれぞれの特性によって異なってくるのであるから。  このように考えると、書き言葉は話し言葉にはないメリットをもっていることがわかる。しかし、そのメリットは、裏返せば「危険性」にもなる。  その一つめの危険は、度量の狭い教条主義に陥る危険だ。自分の思考に都合のよい本しか読まなくてもすむから、極端な例では、「○○年から○○年までの○○さんの書いた本しか読まない」ということになる。筆者にとっては、いい迷惑である。筆者も成長しているのだ。懐古趣味的な読書は、知の発展の妨げになる。たとえ古典であっても、現代的な問題意識をもって読むことこそ、主体的な読み方といえる。現代の本であるなら、読者は、筆者との水平で同時代的な知的世界をつくりあげて、評論的に読まなければならない。  もちろん、この危険は、話し言葉メディアである講義にも、ときどき見られる。自己の堅固な理論に学生が盲信的に従属することを前提として教員が講義を進める場合と、学生がそういう講義を望んで勝手に教員をそういう偶像にしたてて奉ってしまう場合である。  本にせよ、講義にせよ、人間がつくりだしてきた知は、たとえそれがそのときは叡智だと思われても、過渡的なものであることには変わりない。信仰すべき神ではないのだ。この「信仰」が進むと、初版本を憧憬したりする傾向にまで至る。これでは完璧な「物神化」である。気持ちはわかるが、けっして他人に堂々と見せられるような姿ではないので注意したほうがいい。  とくに書き言葉を読むときは、なおさら自分好みのものにかたよりがちになる。拾い読みで、自分の好きな所だけ読むことだってできてしまうからだ。しかし、そういうことでは、自分の認知構造を変えるという主体的な学習の姿からは遠ざかってしまい、狭い考え方に固執する結果になる危険性が大きい。  二つめの危険は、小学校以来の試験対策型の読書態度だ。書き言葉が繰り返し可能で知識の記憶に向いているからこそ、本は暗記の道具として使われてきた。しかし、本来の知は、盲信的に覚え込むことではない。覚える以前に、あなた自身の納得というプロセスが大切なのだ。あなたの受験技術としての本の活用能力は、資格試験などでは、今後も発揮していただきたいが、大学生としての読書は、もっと自立した知的好奇心にあふれたものであってほしい。  そのためには、ぼくは次のように言いたい。記憶装置なんかになるな。記憶媒体の記憶量は、想像を絶するものだ。フロッピー、ハードディスク、そしてCD−ROM……。人間であるあなたに何が求められるかというと、それらと記憶能力を競うことではなく、それらを活用する能力である。リテラシーとは、読み書きの能力のことであるが、今はメディア・リテラシーが求められている。  ただし、あなたが記憶しておくべきこともある。それは、所在情報や情報源情報だ。あることについて、どの本を見れば、どのような側面から、知ることができるか。あるいは、どの本を見ればいいかさえわからない場合は、どういうことについては、どういう本、人、機関に問い合わせれば、情報のある所や本を教えてくれるのか。この二つである。  後者は、本でいえば、参考図書の一つということになる。学習参考書のことではない。参考図書とは図書館の用語だ。参考図書は第1に、内容面では、二次的な情報を記録している。オリジナリティを有する一次的(primary )な情報を加工ないし再編成しているのだ。第2に、形式面では、項目見出しを立て、それらを一定の配列方針にしたがって編成している。第3に、形態面では、冊子形態の図書であり、参照が容易である(後掲『情報と文献の探索』)。たとえば国語辞典なども参考図書の一つだ。参考図書は、探索のための道具(トゥール)として有効だから、活用能力を身につけておくとよい。  さらに凝り性の人は、長澤雅男『情報と文献の探索』(丸善)を読むとよい。「ルームクーラーが始めて売り出されたのは何年ごろか」などという質問の回答を、最適の参考図書を使って、システマティックに見いだすことができるようになる。図書館司書の秘術をちょっと分けてもらったような気分になることだろう。 ●(2) 本の私有と共有の方法  さて、つぎは、本の私有、つまり本を買うことについてだ。自分の研究に関わる本なら、高くても買うしかないだろう。専門書は発行部数が少ない。だから高い。しかも、古本屋などで見つけるのも難しい。いさぎよく新本で買うことだ。  私有ということは、自分のものになるということだから(当り前だが)、ラインを引いたり、疑問や触発されたアイデアをそのページの余白に書き込むことができる。それは、筆者とあなたのオリジナルな知的共同創造物だ。それがカッチリと一冊にまとまった本というのは、メディアとしての使いやすさの点からいって、けっこう理想に近い形態だと思う。形式的な卒業証書なんかよりよっぽど貴重なメモリアルにもなるだろう。  それから、私有したら、機会を見つけてその著者に実際に話しかけるといい。そして、一か所でいいから、自分が気に入った所、疑問に思った所を具体的に言ってあげる。すると、あなたより何十歳も上の人でもいっぺんに相好を崩してしまうことだろう。礼儀正しい挨拶や年賀状などより、よっぽど嬉しいものだ。そういうことからも、やっぱり知はヒエラルキーではなく水平なネットワークなんだな、とぼくは感じる。  もう一つの私有方法は、古本を買うことだ。とくに文庫本の中古は、この数十年、ものすごい安さではないか。三冊で百円なんていうのも珍しくない。しかも、そういう所に並んでいる本はよく売れた本が多いから、けっこうオーソドックスな所をおさえることができる。ざっと選んだとしても、新本では見逃していた自分のニーズにマッチした本が、十冊のうち一冊はあるだろうから、それだけでも大儲けだ。  昔の大学は巷にあった。そして、大学のまわりには安い飲み屋や喫茶店のほかに古本屋がいっぱいあった。しかし、今の大学はそういう環境にはない所が多いので残念に思う。自然環境なんかがよくても学生生活にはあまり関係ない。それよりも、何時間も粘って青臭い議論ができる飲食店や、活字の世界をこころゆくまで渡り歩くことのできる古本屋街こそ必要だ。  つぎに、本の共有については、何といっても図書館の利用だ。ぼくの知り合いのビジネスマンは、新居を決めるときにその近隣の公共図書館の蔵書数を調べていた。自分の業界に関連した本を数冊読めば一生それで足りる、なんていう昔の考え方では、仕事だっておもしろくない。自分が読みたくなった本をリアルタイムに提供してくれる頼もしい施設が図書館である。その設置と運営のためのお金は、あなたやあなたの保護者が払っているのだから、図書館の本はあなたを含めた人たちの共有物だ。  図書館のことで、多くの人が知らない大切なことの一つとして、「選書」がある。もちろん、国内のすべての刊行物を購入するのが理想かもしれないが、そんなことはスペース的にも予算的にもできない。どうするかというと、本の専門家である図書館司書が、「いい本」を選び抜いて購入するのである。だから、逆にいうと、一定のテーマについては一定の水準以上の本を揃えている。しかも、基本的には、右から左までのそれぞれの立場の代表的なものを選ぶのである。図書館の選書結果をあまり信じすぎるのも問題だが、参考にはなる。少なくとも「普通の役人が買う本を決めているのかな」とか「よく売れている本を選んでいるのかな」というような誤解はなくしておいたほうがよい。  それから、図書館にはレファレンスサービスというものがある。これは、「何らかの情報あるいは情報源を求めている利用者に対して行われる、図書館員による人的援助およびそれに直接関わりのある諸業務」である(前掲『情報と文献の探索』)。さきほどの探索トゥールなどを知り抜いた図書館司書が、あなた個人の情報要求に対応してくれるのである。  レファレンスサービスは図書館の基本的機能の一つである。あなたと、あなたが望む資料とを、図書館が結んでくれるのだ。学校などで一つの宿題が出ると子どもたちの同じ質問が近くの公共図書館にどっと押し寄せるが、司書はそれでもにこやかに対応している。でも、あなたは、できるだけ自分で調べた上で、どうしてもわからないことを焦点化して司書に質問してみてほしい。そのほうがあなたの知的主体性のためにもよいし、司書のレファレンス能力も十分に発揮してもらえるのである。  また、最近では、図書館ネットワークが一段と強調されるようになってきた。これは、コンピュータや配送車を利用して、どこの図書館に行っても、他の図書館の本の所在を調べたり取り寄せてもらったりすることができるシステムだ。どうしても本がなければ、基本的には、国立国会図書館にまでその所在を調べてもらうことができる(図書館法第3条の4)。  ところが、あなたの家の近くの図書館が、こういう状態にはなっていない可能性もある。司書がいない館だってある。ぼくも、近くの図書館で、「うちは人員が少ないためレファレンスサービスはやっていません」と言われて驚いたことがある。あなたは、今はまだ、近くの図書館がそのどちらであるかもわかっていないかもしれない。そうであれば、ぜひ、調べてみてほしい。そして、あなたがそこに不備を感じたならば、それなりの蔵書構成、館内サービス、ネットワークサービスなどを要求しておいてほしい。それは、知のネットワーカーの最低限の義務である。その地域での住民のための知的拠り所自体が貧困であるなどということはとても恐ろしいことだと感じることのできるセンスがあなたに求められている。 ●(3) 電子化された情報・映像化された情報  活字のつぎは、電子化された文字情報だ。ここで、パソコン通信の意義について強調しておきたい。  ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ」という趣旨の発言をしている。たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって単純にパソコン通信の可能性を軽視する考え方には、異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に逆戻りさせるのでは、いかにも退嬰的である。  情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、書き言葉文化の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない知的試練としてとらえるべきである。学生の知的主体性による書き言葉文化の盛り上りを期待する次第だ。  パソコン通信によるコミュニケーションの特徴を表す言葉として、ぼくはMAZE(迷路)というキーワードをつくっている。このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。  パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の可能性が生まれつつある。  情報は、もともとMAZEだ。誰かがあなたのためにきちんと整理された情報を持ってきてくれるわけではない。たとえそんな整えられた情報があるとしても、それは、えてして古くさい役立たずの情報である。そして、情報は、GIVE(発信)するからこそTAKE(受信)できる。ネットワークの精神そのものである。情報のネットワークはあなたに主体性を求めている。  しかし、映像情報のほうも、これからの若い世代は研究のための有効活用ができるようになるかもしれない。ビデオテープの利用なら手慣れたものであろうし、さらに、レーザーディスクをコンピュータと組み合わせて、必要な場面にリアルタイムにアクセスできるようにする(インタラクティブ・ビデオ)などということも考えられる。  社会学研究の観点からの映像資料の課題としては、第1に、消え去っていくものを早急に記録することと、つくられた映像記録をその場限りのものとしないことである。社会学的に関心のある社会事象も、その場限りで消え去っていく。映像の場合、記録するのはその時しかない。また、放送などによる映像も、放映後では、放送局でさえきちんと保管していないことが多い。  第2に、映像のもつ特性に応じた整理をすることである。主要な画面の指定をどのように行うか。複数の映像をどのような共通フォーマットで総合的に把握するか。映像の画像は見る側の視点によって意味が異なる総合的な情報であって、しかもその画像が時間の流れを伴っているので、これらの問題は単純ではない。  第3には、映像には複雑な著作権がからむので、それにきちんと対応するということである。映像は、映画製作者の権利だけではなく、言語、実演、音楽、写真、絵画、図形、他の映画、コンピュータプログラムなどに関わる多くの著作権を発生させうる。ところが、実際には、映画製作者名のクレジットさえ画面に出てこない放送番組なども多く、対処に困ることがある。 ●(4) 情報とストロークの発信  本節の最後に、社会学の情報、しかも、あなたがもっともほしい情報を得るためにはどうすればよいか、私見を述べたい。それは、know-what よりもknow-howを、そして、know-howよりも、know-whoをということである。  公式やデータを暗記するようなことは、高等教育(大学)になったらもうほとんどないと思ったほうがよい。それよりも、真実をどうとらえるかについて、さまざまな情報と接することによってあなた自身の目を養わなければならない。それが、know-howだ。さらに、そこでつまずくこともある。そのとき、頼りになるのは他人の意見、批判、アイデアだ。どの人がどういうことを言ってくれるか。その他人とのコミュニケーションの力を含めて、know-whoだ。レポートなどでは、まだ世の中では書かれていない情報をこそ得たいと思うだろうから、そういうときはknow-whoが最後の武器になる。  このknow-whoの能力は、ネットワーク社会でもっとも求められるものでありながら、現代学生がかなり不得意としているところなのではないか。know-whoには、知的主体性を含めた人間としての全面的な主体性が必要とされるのだ。自らも情報を発信しなければならないし、それ以前に、ストロークを相手に与えられなければ人間関係もつくることができない。  ストロークとは、「交流分析」(TA=transactional analysis)の言葉である。相手をほめる言葉や、スキンシップ、まなざし、うなずき、傾聴などによって、相手の存在や価値を認めるようなすべての働きかけをストロークと呼ぶ。ストロークには法則がある。それは、「貧しい者はさらに貧しくなり、富める者はますます富をます」という法則である。あいさつをしようと思っても、もしかするとそっぽを向かれて自分のほうが傷つくかもしれないことを恐れて他者にストロークを与えない人には、いつまでも愛が貯まらない。その上、自分が人間交流から疎外されていることを周りのせいにして恨んだり、自分や他人を信頼できないままに人生を過ごしていったりすることになる。  しかし、ここに一つの明るい展望がある。すべての人間が、心の底ではあくまでもストロークを求め続ける存在であるということである。この願望は、その人にとっては、そのときはつらく作用することもあるだろうが、その問題の自己解決のためには、内なる確かなエネルギー源になる。そもそも、情報発信、ストロークなど、心底からしたくないという根っからの精神的ケチなどはいないのではないか。  問題は、情報やストロークの出し方を知らないだけ、受容された経験がないだけなのではないか。そういういわば「コミュニケーション技術の学習」は、残念ながらあまり経験がなかった。情報を一方的に与えられること、それを型に当てはめて処理することはあっても、自分から自分らしい情報を発信する技術の学習は、あまりしてこなかったのである。そうならば、これからそういう経験をすればよい。ただし、ヒエラルキーの中での役割遂行としての情報発信やストロークだけでは、主体的な活動にはならない。各人が水平なネットワークの中で、自己と他者への基本的信頼に基づいて、あるがままに自己を発信すること、そしてそれが他者から受容される経験をもつことが、情報発信能力や主体性を獲得する手段なのである。  このような情報やストロークの発信ができるようになれば、know-whoがあなたの身につき、know-howやknow-what もそれにしたがって豊かなものになってくるだろう。しかし、繰り返すが、それは待ち望んでいるだけではやってこない。情報ネットワークは、あなた自身の主体性の発揮をきびしく要請するのである。 第2部・注− (1) 西村美東士「団体・グループの仲間づくりの演出」「ロール・プレイングの活用」、福留強・平野仁・生涯学遊研究会編『生涯学遊ネットワーク−学校・地域・サークル行事の企画と展開−』日常出版、一九八九年一〇月 (2) 西村美東士「授業の楽しみ方−自明性にちょっとまった−」、川崎賢一・藤村正之編『社会学の宇宙』恒星社厚生閣、一九九二年一一月 (3) 西村美東士「新しい情報収集へのステップ−ネットワーク型のすすめ−」、前掲『社会学の宇宙』 ●第3部 主体的学習へのいざない方 ●1 学習相談がめざすもの  人びとの主体的な学習を援助する姿勢としては、上から説教しようとするのではなく、たとえば学習情報を提供するなどの側面的援助者としての精神が求められる。現在では、社会教育や生涯学習に関わる行政も、そういうサービスマインドを持とうと努力しているところである。  しかし、教育とは、教育者または学習援助者が、何らかの関わりをもつことによって他人の主体性の獲得を援助しようという「大それた」行為である。無色透明で無機質の学習情報提供(本当はそうでもないが)だけで事足りるものではない。情報提供の枠を越えて相手の主体性獲得を援助するなどという大それた行為が、いかにしたら相手から許され、しかも、効果を発揮するのか。この難問を解き明かす糸口として、『現代生涯学習推進実務選書』(ぎょうせい)に寄せた拙論●(1) をもとに、「学習相談」について考えてみたい。 ●(1) 学習相談は、従来の日常的相談でも、現在の学習情報提供でもない ●(1)−1 従来の日常的相談の焼き直しではない  生涯学習の援助者にとっては、学習相談よりも学習情報の収集・整理のほうが地味で根気のいる作業である。せっかく集めた情報も有効なものばかりとはかぎらないし、何らかの事情であまり勧めたくない学習情報でも、提供はしなければならない。また、情報提供をきっかけとして、学習者がすばらしい成長を得たとしても、援助者側がその成果を見届けることはあまりできない。このようなことから、人間交流や社会教育の暖かさ、楽しさを知っているベテランの社会教育主事などの職員ほど、学習情報提供の仕事をいやがる傾向が強い。ベテランとしてのプライドが傷つけられるような感じがするのだろう。  ところが、学習相談なら、ベテランの職員としては、自分の頭の中にある豊かな情報を有効に活用することができるし、有益であると確信できる情報だけを提供すればよいし、そういう相談を日常的、継続的に行うとすれば、その成果も見届けることができる、などと思っているから受け入れやすい。学習情報のシステム化には消極的であっても、学習相談については、「やりましょう」とか、「そんなことなら、今までも日常的にやっていますよ」とかの答えが返ってくることが多いのは、そういう理由からであろう。  しかし、いま新しく生涯学習の援助者に求められている相談は、従来から日常的に行われてきたそれらの相談とは別のものなのである。もちろん、社会教育が築き上げた遺産のうちには継承すべき点も多々あるのだが、そういうものとは別に、社会教育を革新するインパクトとして新しい学習相談が生まれているのである。  憲法学者の松下圭一が、「国民主権の主体である成人市民が、国民主権による『信託』をうけているにすぎない道具としての政府ないし行政によって、なぜ『オシエ・ソダテ』られなければならないのか」●(2) として、その著『社会教育の終焉』で社会教育行政の存在に異議を唱えたのは一九八六年のことである。この書は、社会教育行政の安上がり化などのマイナスの影響も与えたが、並行してプラスの影響も大いに与えてくれた。社会教育行政がいつのまにか、しかし、歴史的に身につけてきた啓発主義的な姿勢を、社会教育行政みずからが改めるいくつかのきっかけのひとつになったのである。人間をマス(集団)としてしか扱わず、そのマスに「啓発」を振りまくような社会教育ならば、たしかに「終焉」を迎えたほうがよい。  しかし、じつは、松下の指摘よりずっと前から、個人学習援助の重視が提唱され(昭和四六年社会教育審議会答申)、また、松下の指摘と前後して、先進地では学習情報提供事業が誕生していた。学習情報提供事業は、学習のチャンスを学習者みずからが選択する幅をより広くするために、そして、松下のいう「国民主権の主体である成人市民」としての自発性を損なうことなく学習の主体性をよりいっそう深めるために、おもに個人に対して、「オシエ」るのではなくサービスする姿勢で行われるものである。今日の学習相談も、そういう社会教育の革新の中で意義が認知され始めたものであって、過去の社会教育を単純に延長したものではありえない。(もちろん、過去の蓄積から学ぶべき点も多いのだが、その論及は本論の趣旨ではない。それについては、拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』を参照されたい)。●(3) ●(1)−2 学習情報提供と同じではない  一方、学習相談を学習情報提供と実質的には変わりないものであるかのように扱う傾向も見られる。しかし、それは、今日、社会教育事業全体の中で固まりつつある学習情報提供の評価に、ただ迎合しているだけの結果のようにぼくには思える。たとえば、とにかく相談員をおいて求められた情報を提供すればよい、といったような無批判的、非主体的、消極的な姿勢の「学習相談」も見られるのである。  このように、学習情報センターに訪ねてきたり電話をかけてきたりした人に学習情報を提供することそのものをもって学習相談とよぶならば、学習情報提供のうちでも個人に対するものは、すべて学習相談であるということになってしまう。そんな程度の認識で学習相談を行うならば、しばらくすれば、利用効率が悪いなどの理由から、せっかくの相談員の人員も財政当局から削減されたりするのがオチであろう。  学習情報提供と学習相談とはともに社会教育や生涯教育の革新の姿として現代的意義をもつものであるが、そのふたつの意義はむしろ両極に分かれて対峙しているのだと思う。学習情報提供が第一の革新だとすれば、その不備を衝いて第二の革新をめざしているのが学習相談なのである。学習情報提供の革新が、個人の主体性の発揮への援助だとすれば、学習相談が提起する第二の革新とは、個人の主体性の獲得への援助である●(図3−1)。学習情報提供のほうに振れた振子が学習相談によって揺り戻しを受けているのだが、それは在来型の社会教育に戻ったのではなく、学習情報提供が提起した課題を学習相談によって昇華させて、一段階高次なレベルに発展させたものととらえるべきである。その発展は螺旋状のものであり、新しい学習相談は、「相談業務なら今まで公民館などでふだんやってきている」というときの相談とは内実がまったく別のものである。  本論のもっとも重要な問題意識は、ここにある。「やっていることは学習情報提供であっても、相談員を介しさえすれば、それは学習相談だ」あるいは「日常業務のうちの相談的なものに学習相談の名称をかぶせればよい」といった安易な認識が流布しているようにぼくは思えてしかたがない。学習情報提供と学習相談とは、あるいは、今までの相談と新しい学習相談とは、どこが一致していて、どこが違うかを、あいまいにしてしまうそのような思考方法は、学習者主体の学習援助形態としての学習相談がもつ深い意味を見過ごす結果になるばかりでなく、学習情報提供によってせっかく確立されようとしている学習者主体の学習を尊重する思想まで軽視して、過去の援助形態に後戻りさせることにもなる恐れがある。 ●(2) 学習相談とは何か ●(2)−1 学習相談の定義  それでは、私たちは、学習相談というものをどう定義づければよいのだろうか。その定義は、すでに述べたように、学習情報提供が指し示す新しい生涯学習の理念を発展的に継承するものでなくてはならないだろう。すなわち、個人の学習への学習者主体の考え方にもとづいたサービスという意味では「継承」であり、個人の主体性への理念としての尊重(学習情報提供)から、個人の主体性の獲得への実質的な援助(学習相談)へ、という意味では「発展」である。そこで、ぼくは、学習相談を次のように定義したい。  「学習相談とは、個人(または援助者)の求めに応じ、学習環境等の客観的条件や、精神的・身体的な問題等の主体的条件などの、その個人特有のそれぞれの条件にもとづいて情報提供、助言、対話等を行うことにより、学習情報の収集・選択や学習の意欲・能力の獲得などを支援する教育(学習援助)サービスである」。  しかし、この定義を採用するとしても、「学習相談」の名のもとに現実にはいくつかの事業がすでに行われている。そのサービス内容は、次の3つに分類できるようである。 @ 学習情報の提供が中心になるもの。すなわち、学習者(または援助者)が学習機会、施設、団体、人材(指導者)、教材(学習材)などを効果的に選択できるよう、おもに学習情報の提供を行うもの。 A 目標設定から学習評価までを一貫して学習者側と相互的に行うもの。 B 心理的な学習阻害要因の克服をおもな目的として治療的に行うもの。  ここで、Aについては、アメリカの「学習契約」などの事例があり●(4) 、わが国でもいくつかの市町村で「学習メニュー方式」などの実践の中にその萌芽が見いだされる。また、Bについては、たとえば「埼玉県県民活動総合センター」では、県民活動相談事業のために、カウンセリングの研鑽と実践の経験を長年積み重ねてきた専任相談員を配置して、心理的な相談にも対応している。●(5) そこでは、実際、地域団体の役員などから、神経症的な問題の相談をいくつか受けている。団体役員の中には、まじめでぎりぎりまで頑張ってしまう性格だからこそ、リーダーにも推され、断りきれなくて就任した人も多い。そういう人たちが、グループ内の人間関係やリーダーとしての悩みとともにそれらと分けることのできない自分の個人的な悩みによって、神経症状を引き起こしているのである。地域の生涯学習のリーダーとして活躍しているこのような個人に、心理的な援助の手をさしのべることの意義は大きい。  これらの事例からわかるように、AもBも深い現代的意義をもつものではあるが、われわれがもっとも問題にしなければいけないものは、@の「学習情報の提供を中心とするサービス」だといえるのではないか。なぜなら、学習情報提供の必要性が関係者の認識するところになり、それとともに@の学習相談の事業が全国で展開されようとしている現状がありながら、その現状の中に、過去の集団的・啓発主義的な学習援助からの意識変革をともなわずにその事業が行われようとしている危険な状況が見受けられるからである。  たとえば、学習相談の名のもとに行政機関の関連事業だけを紹介・宣伝する、従来から関連行政が依頼していた講師陣をリスト化するだけでそれを指導者バンクと称する、そのバンクも実際には行政関係者の企画・立案のためにしか利用されない、そのことによってそれぞれの行政セクションによる企画・立案がかえって創意と独自性に欠けるものになるなど、枚挙に暇がないほど数多くの生涯学習の理念以前の前近代的行為も行われているのである。学習情報提供と学習相談の同一視なども、同様な問題のひとつであろう。そこで、ここでは、学習相談の「多数派」として一般化する一方でこのように多くの問題を抱えている@に絞って議論を進めたい。もちろん、@のあり方を考えるためには、AやBが私たちに投げかけている問題提起も真摯に受けとめ、活かさなければならないことはいうまでもない。 ●(2)−2 学習相談の特徴  学習相談に関する先述の定義は、学習相談の特徴を次のように想定していることにもとづいている。  1つは、「個別性」である。学習者の個別な条件の差異によって対応が変化する。広報においては、マス(集団)に対して均一の情報を提供しようとするし、学習情報提供においては、個人が求める情報を誰でも個人の必要に応じて同じ情報源から平等に自由に選択できるようにしようとする。これに対して、学習相談では、相談員が個々の学習者のニーズやその他の状況を勘案した上で、対応の仕方を逐一、判断する。  2つは、「双方向性(プロセス重視)」である。対話などの双方向の交流をともなう。相談の「相」は「互いに」「ともに」という意味である。それは、いいかえれば、学習者の意思決定のための相談員からのアドバイスにとどまらず、学習者の意思決定や問題解決のプロセスの中に相談員が飛び込んでいって双方向の「つきあい」をするということである。  3つは、「援助性」である。学習相談は、生涯学習の援助活動の一環として行われる。直接、個人の生涯学習を援助することを目的とするものであり、援助者側の行う事業や保有施設を宣伝するなどして生涯学習全体の推進を図るものではない。また、その行為はあくまでも個人の生涯学習の援助であるから、他の行政目的などから生ずる目標への誘導や指導を紛れ込ませることは許されない。  4つは、「教育性」である。一般行政の相談が行政、法律、医学などの特定事項の専門性にもとづいて行われるのに対して、学習相談は教育的専門性にもとづいて行われる。この場合、教育的専門性のはっきりした規定は困難だが、少なくとも先述の松下のいう「オシエ・ソダテ」ることとは意味が異なる。たとえば「その場合はこうですよ」と「教える」ような場面は、むしろ一般行政の相談に頻発するのであって、学習相談においては、「こういうこともありますが」とニーズに的確に応える情報を提示しつつ、情報の選択は学習者の主体的判断に任せることになるだろう。それは、学習者の学習主体としての成長を第一義に考える教育的観点があるからである。  また、同じ社会教育の専門職である図書館司書が行うレファレンスサービスとも異なる。レファレンスサービスでは、直接の答えを教えることよりも、「人と本をむすぶ」という観点から情報源としての図書資料の所在を伝えることを大切にする。その態度は、学習相談においても学ぶべきだが、しかし、学習相談ではそういう情報源の紹介さえもかならずしも必要とはかぎらない。極端な例だが、学習者がグチをいい続け、そんなことに対して直接役に立つ学習情報など思いつかないだろうから、相談員はそのグチを聞くだけに終わったとする。それは、レファレンスサービスとしては成り立たなくても、学習相談としてなら成り立つのだと考えられる。なぜなら、学習者が悩みを言葉にして表現することは、学習者自身の気づきや成長につながる大きな可能性を秘めているからである。このような立場も人間の可塑性を信じる教育的観点からのものである。  5つは、「自由性」である。「求めに応じて行う」ということである。相談を望まない人にまで相談を呼びかける必要はない。本人が自分で「相談したい」と思うようになるまで待たなければならない。逆に、相談に訪れてくれた人に対しては、「相談に来た」という行為自体をその人の主体性の表れとしてとらえて最大限の敬意を払うべきである。「相談する」ということも、情報収集のための主体的な行動、すなわち生涯学習活動のひとつなのである。  なお、「自由性」は「教育性」に矛盾するという反論もあるかもしれない。しかし、その反論は古い教育観に立脚しているのだと思う。実際、教育サービスを自ら進んで受けようとする人は今や世の中にたくさんいるのだ。その反面、むしろ大学生などの「学習専業者」の中に、「教育というものは必然的に強制をともなうものだ」と思い込んでいる人がたくさんいる。子どもの教育についてそう思っているだけではなく、みずからも「授業への出席をもっと厳しくとってくれないと、ついさぼってしまう」とぼくに訴える学生さえいる。さぼるならさぼってもよいのだから、他人のせいにしないで、もっと自信をもってさぼってもらいたいものだ。大学生になったのにまだ主体的な学習態度を身につけられず、「自由から逃走」しようとするそういう学生の姿を見ると、この問題の根は深いと思わざるをえない。  話をもとに戻すが、相談員のほうも、「こういうときにはこう答える」という制約をほとんど受けない。ひとつのケースに対しても相談員によってさまざまな対応がありうるが、それは個性的であってよい(「こう答えてはいけない」という制約は、相談員の内発的動機からなら無数にあるだろうが)。このことは完璧なマニュアルはありえないということでもあり、それをいやがる相談員もいるかもしれないが、そういう人は相談員には向いていない。相談員とは、学習者の主体性の獲得を援助する活動の中で、自分もみずから育とうとする人たちなのである。  これについても、教育に確実性や普遍性を求める人からの反論があるかもしれない。しかし、「教育職という立場上、自分はつねに正しい言動だけをしなければならない」という思い込みの強い人は、そもそも教育職には一番向いていない人なのだとぼくは思う。自分自身をつねに変えていき学習者とともに成長できる人こそ、望ましい教育職員像なのではないか。教育は、他人の学習を強制によって完全にコントロールしたり、完全無欠の指導を行ったりすべきであるということなど、どこにも書いていないし、そもそも、やろうと思ってもできることではないのだ。  再び話を戻して、学習相談の特徴をまとめるならば、「学習者の意志にもとづき、個々のケースに応じて、学習者の意思決定のプロセスに双方向的かつ教育的に関わりつつ行われる」ということになる。この「特徴」は先述の「定義」とも軌を一にするものである。 ●(3) コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性 ●(3)−1 コンピュータの効果的活用  先述の@の学習相談においては、適切な学習情報を提供することがもっとも重要であるから、それをいかに効果的に検索するかということがひとつのポイントになる。そのため、コンピュータによる学習情報データベースの活用を考えなくてはならない。なぜなら、データベースは、大量のデータを記憶してそれを必要に応じて必要なものだけ引き出す、という優れた機能をもっているからである。  そしてコンピュータをうまく扱うことのできない学習者、たとえばメカニックなものに恐怖感を抱いている高齢者などには、相談員がコンピュータ操作の手伝いをする必要がある。これも、学習相談による個人の主体性(ここではコンピュータ・リテラシー)の獲得への援助のひとつということができる。  もっとも、市民の中には、コンピュータ操作の研修を少しばかり受けた職員などよりよっぽど操作に慣れている人もたくさんいるのだから、なにがなんでも相談員を介さなければならない、というのも本末顛倒の話である。たとえば、子どもや青年たちの中には、キーボードアレルギーどころか、キーを見ればとにかく押してしまうような能動的な人も多い。そういう人には端末機に自由にさわってもらえばよい。いちいち担当者の手をわずらわせることなく、気軽に心ゆくまで求める情報を検索できるというメリットは、コンピュータの魅力のひとつなのである。  「プライバシー侵害などの問題が起こるから」などの理由であくまでも職員だけが端末を操作するという所もあるが、それは「依らしむべし、知らしむべからず」という態度であるといわざるをえない。一定の項目を表示しないようにすること(マスキング)など、コンピュータなら簡単に設定できるのだから、そういう工夫によってシステムをなるべくオープンなものにすることは援助者側の義務である。こうした努力をせずに、情報提供システムを行政の側に一律に囲い込んでおいて、しかもそれに「相談員を介しているから」という理由で「学習相談」という名称をかぶせることなどは、行政の怠慢としかいいようがない。  市民に開かれた情報システムの運営の事例として、「横浜女性フォーラム」を挙げたい。この館の正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできる「フォーラメディア」が設置されている。●(6) 近くの子どもたちも喜んでさわりにくるのだが、それを婦人問題に関する利用ではないから目的外利用だと批判する声に対して、館長は、「男女平等に関する情報にたまたま接する機会になるかもしれないし、そもそも、将来の社会を担う子どもたちがコンピュータに触れるということ自体が意味のあることです」と言っている。  学習情報提供にも学習相談にも、そのぐらい柔軟で積極的な発想が求められる。教育側が予想したとおりに突き進む教育コースにそのまま乗りたいと思う人など、いまやどこにもいないだろう。教育側には、「偶発的学習(インシデンタル・ラーニング)」を待つ、歓迎する、あるいは仕掛ける姿勢こそ求められているのである。相談員も、すべての人のすべての学習の面倒を見よう、というようなよけいな気負いは捨てたほうがよい。そんなことはできるものではない。教育側が不要な構えを捨てたとき、MAZE(迷路)●(7) のような個人の成長に対応してコンピュータの柔軟性をうまく発揮することができるのである。  さらに、コンピュータ活用は相談の第一義の目的ではないという、もうひとつのあたりまえのことを忘れないようにする必要がある。行政の中でシステムが運用されているあいだに、そのことが意外に忘れ去られ、コンピュータシステムだけが一人歩きをしてしまいがちなのである。NTTの電話番号案内は、コンピュータ検索だからこそ速くて便利なのだが、一方、活字媒体である電話帳も、一覧性をもっているので、望む情報を手に入れるためのメリットが別の意味で大きい。情報が並んで提示されているから、他の周辺情報などに気づくことができるのである。データベースはかなり大きくなければコンピュータ活用のメリットは出てこないのだから、比較するデータが少ない場合は、冊子(レファレンスブック)からのほうがスムーズであるし、付加価値も期待できる。 ●(3)−2 コンピュータ利用の成熟化と人間の介在の意味  コンピュータやニューメディアの利用は、今や成熟しつつあるといえる。成長時代の人たちがブランドやハイテクなどの「モノ」をステータスシンボルとして扱ったのとは対照的に、成熟時代の人たちは、モノをそのように溺愛したりしないで、自分で実際に試してみて、よいものだと思ったら、その人なりにそれを使いこなしていく。  たとえば、パソコン通信についていえば、それは、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したモノから成り立っており、それらのモノの集まりが、多量の情報を高速にやりとりするパソコン通信の物質的基盤になっている。しかし、パソコンネットワーカーたちにとって、そんな素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を大切にする。さまざまな機器の助けを借りていることを忘れてしまうこと、つまり機器が「透明」になることを評価するのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。  機器が「透明」になるということは、優れていてあたりまえのメディアと情報技術(技術者の方々には恐縮な表現だが)を価値判断から捨象するということである。そうすると何が残るか。コミュニケーションの中身であり、自己と他者の存在そのものである。メディア機器が「透明」になればなるほど、自分と他人の中身がはっきりと向き合う。そこでは、より豊かな人間存在と人間関係の追求そのものが最高の価値として認められるのである。  これは生涯学習全般についても同じことがいえる。そこでは、自己の人間存在そのものに一番大きな関心が払われる。たとえば、コンピュータ学習についても、機器の操作技術を身につけたかどうかよりも、学習によって自分の考え方の枠組(認知構造)がどう変わったか、今後どう変えることができるか、ということこそが主要な関心ごとになるはずである。コンピュータを使って学習情報をうまく引き出せない学習者への援助も学習相談の機能である、と先に述べたが、学習相談の意義はけっしてその程度で留まるものではない。学習者の人間存在そのものの表れ、すなわち存在証明としての生涯学習を、相談員といういわば他人の介在を通してどのように援助するのか、ということこそが、学習相談の本質的な課題なのである。  コンピュータそれ自体はたんなる道具、たんなるハコにすぎない。人間以外のものは、たとえ人間存在のための優れた手段にはなりえても、けっして人間存在に関する主体にはなりえない。学習相談においての本来の学習主体は学習者であり、本来の援助主体は相談員なのである●(図3−2)。  ぼくは、このような「本来の援助主体としての相談員」を「学習情報ワーカー」として位置づけたい。ここで「ワーカー」という言葉は、ケースワーカーのように当事者(学習者)のケースに個々に対応する仕事と、ネットワーカーのように情報や人びとをつなげる仕事の、ふたつの仕事(ワーク)が遂行されることへの期待を意味している。「相談員」という言葉があまりにも意味中立的なために「与えられた職務だから役割を遂行する」という冷淡なニュアンスを与えかねないことに比べて、「学習情報ワーカー」という言葉は期待の込められたきわめて意味的な言葉であるといえる。  ワーカーはネットワーク的な援助を行うことになる。ネットワークとは、自発的意思にもとづく水平なギブ・アンド・テイクの交流であり、そのためには互いが異質の価値(自立的価値)をもっていることが条件になる。また、ぼくは、ネットワークを「自立と依存の統一」としてもとらえている。●(8)  しかし、情報や人間をつなぐために人間が介在することが必要だとしても、人間によるその援助が、なぜ、どのように、ネットワーク的でなければならないかということについては、もっと深い議論が必要だと思われる。どのように水平なのか、どのように異なった価値をもっているのか、あるいは、どのように学習者がワーカーにギブしろというのか、ワーカーの側まで何をテイクしようというのか、などの異議や疑問が考えられるのである。そこで、ここからは、カウンセリングマインドという切り口から、人間存在への援助としての学習相談の内実にいっそう深く踏み込んで述べることによって、それらの問題について考えてみたい。 ●(4) 生涯学習の主体としての自立への援助 ●(4)−1 求められるカウンセリングマインド  ここでは前述のとおり@の学習相談を考える。Bならば、カウンセリングマインドの発揮どころかカウンセリングそのものとして行われなければならないのは自明のことであるが、ここで提唱したいのは、@の学習相談であってもカウンセリングマインドが必要であるということである。これは、学習相談がたんなる学習情報提供にはとどまらないためのもっとも大切な要素になるだろう。また、コンピュータ自体はカウンセリングマインドをもちえないのであるから、ワーカーの存在意義を示すものでもある。  ちなみに、学習相談を学習カウンセリングと称するケースを見かけることがある。これはBであるのならその名称は実体をよく表すものということができるが、@のような場合には問題があると思う。臨床心理におけるカウンセリングの現代的意義を認めるならば、むしろ、@のような場合に「カウンセリング」という言葉を使うことははばかられて当然であろう。その場合は、学習者の意思決定や問題解決のプロセスにていねいにつきあうという意味から、「学習コンサルティング」ぐらいの表現が妥当だと思われる。ここで主張したいのは、学習相談をカウンセリングではなくコンサルティングと呼んだとしても、そこには情報提供だけではなくカウンセリングマインドの発揮が求められているということである。  なぜ、学習情報提供のサービスだけでは不足して学習相談が必要になってきたのか。それは、急激に変化する現代社会の中で、生涯学習を行うための主体性そのものを人びとが失いつつあるからである。では、なぜ、カウンセリングマインドにもとづく対応が、学習情報提供だけではできなかった主体性の獲得そのものへの援助になるかというと、それは、カウンセリングが学習者の自己への「気づき」を促す側面をもっているからである。あとに述べるように、自分のすべてが受容される雰囲気のもとで学習に関する自分の期待などについてしゃべることは、学習者自身が今まで気づかなかった自分に気づくことにもつながるし、そういう自分をオープンにしても受容されるのだ、という安心や自信にもつながる。情報の羅列を外から与えられるだけでは、都合のよい情報だけ選択して自分の今の枠組をさらに強化することはできても、自分のもっている劣等感や敗北感などの不幸な思い込みの枠組自体を変えていくことはできないのである。  生涯学習の理念が自発的意思にもとづいてみずから選んだ手段・方法で行うことであっても、本人が自分自身を見つめていないとしたら、その「自発的意思」も生まれようがなく、したがってその理念の実現は望めない。しかし、そのように自分の深みまで知るということ、すなわち自己洞察は、じつはだれにとっても容易なことではない。つまり、「自分に気づく」ということは、生涯学習を行うために不可欠の課題でありながら、それを完全に実現することは困難な課題なのである。  それらの自分への「気づき」の中でも、学習相談においてもっとも決定的なことは、生涯学習を行う自己の主体性の欠損への気づきだと、ぼくは思う。たとえば、「他人の期待に沿うために」とか「勤勉でなければならない」とかいったような不合理な思い込みが、生涯学習の自発的意思を内からねじ曲げる結果になっている。不合理な思い込みから解放されるためには、まず、そういう思い込みをしている自分の現在と過去に気づかなければならない。問題の本当の所在さえ明らかになれば、あとはそれを自分で解決する能力を人間はもっている。  このような「自己解決能力」への信頼も、カウンセリングマインドにもとづくものである。明治以来の教育が一定の教育水準まで集団全体をしゃにむに押し上げていこうとするプッシュ型だったことに対して、これからの教育は一人ひとりの個性や関心を引き出そうとするプル型に転換されなければならないということが生涯学習の議論の中で言われている。カウンセリングマインドにもとづく学習相談は、まさにこのようなプル型の教育作用といえるのである。 ●(4)−2 共感・傾聴・ストローク、そしてエンカウンター  カウンセリングマインドの基本の1つめは、「共感的理解」である。  共感は、同感や同情とは違う。共感的理解とは、自分の枠組ではなく、相手の枠組にもとづいて相手を理解することである。一人ひとりの枠組(フレーム・オブ・レファレンス)がすべて違うのだから、ワーカーはそのいずれの枠組をも理解し対応できるように努めなければならない。共感的理解を示すワーカーが対応することによって、学習者は安心してしゃべることができる。共感的理解こそが、ワーカーと相談者との心のふれあいのあり方なのである。●(9)  共感的理解のために大切なことは、傾聴である。傾聴とは心を傾けて相談者の話を聴くことである。「早く本題に入って、どんな情報がほしいか言ってほしい」などの態度がワーカー側にちらつくと、相談者は安心してしゃべれなくなる。じつは、カウンセリングマインドにもとづいた学習相談の本旨は、学習情報の検索の代行などではなく、学習者が生涯学習に関するみずからの動機や希望、阻害要因などに気づくよう援助することなのである。また、毒にも薬にもならない無駄口が相談者に目立つ場合には、ワーカーがその人の発言を抑止することもあるかもしれないが、その時でさえも、無駄口をたたかざるをえない相談者の気持ちを察するように努めなければならない。このように、ワーカーには、相手の話を傾聴する自己の役割への自覚が強く求められる。  傾聴のための技法としては、受容、繰り返し、明確化、支持、質問などが挙げられる。●(10)  「受容」とは、相手を共感的に理解し、あいづちやうなずきなどによって、その共感を相手に示すことである。「こうすれば」「ああすれば」などの診断的な言葉をなるべく言わないようにして、まずは、相手の話に関心をもって耳を傾けなければならない。相談者の話も終わらないうちから、「ああ、それならこういう講座が開かれていますよ」などと言うのでは、ワーカーとしては失格である。  「繰り返し」とは、相手の話をよく聴いた上で、「こういうことですね」と確認することである。繰り返しが的確であれば、相手からの信頼も得ることができる。その場合、的確であるということは、最後の結論だけを繰り返すことを意味しているのではない。たとえば、相手が、職場で英会話の勉強が必要になった経緯をしばらくしゃべったとしたら、「英会話の教室を探しているのですね」ではなく、「仕事の上で必要だから英会話を習いたいということなんですね」と繰り返さなくてはならない。このように「仕事の上で必要なのかどうか」を確認することはとても大切なことである。なぜなら、それを確認しておけば、もし仕事のほかにも英会話を活かそうとする期待が本人にあった場合、本人もあらたにそれに気づくことができるかもしれないし、ワーカーもその人のより深い本音を知ることができるからである。  「明確化」とは、相手が遠慮などによってまだ言葉には出していない気持ちまで、ワーカーが言葉にして相手に示してみることである。そのためには、ワーカーは人間に関して敏感でなければならない。たとえば、「ここの学習相談は、あくまでも学習に関する相談を受け付けているんですよね」と聞かれたら、「はい、そうです」で終わらせてしまうのではなく、「そうですが、何かほかのことでご相談なさりたいことがおありならおっしゃってください」と対応する。相手は本当はそれを聞きたいのに、遠慮している恐れがあるからである。そういう積極的な傾聴によって、いろいろな相談を埋もれさせずに、その学習的側面を引き出したり、他の相談機関を紹介したりすることもできるのである。  「支持」とは、相談者の言葉に賛意を感じたら、「それは当然ですよね」などと支持する言葉を口に出すことである。形だけの肯定ではなく、二人が心から共有できる空間を作り出すように努める。たとえば、通信教育の勉強の途中で挫折した人が相談に来たら、「もっと頑張って」ではなく、「一人だけで勉強するのは、とても大変だったでしょうねえ」と応ずる。そのことによって、相談者はほっとできるし、通信教育に復帰したり集合学習に転換したりする気持ちにもなるのである。  「質問」は、情報提供のためのたんなる下調べや情報収集のためだけのものではなく、傾聴のための技法としても重要である。よい質問は、相手への関心を示し、より深い共感的理解にもつながる。その場合、取り調べではないのだから、イエス・ノーでは答えられない質問が望ましい。そのことによって、結論だけではなくプロセスが浮かび上がるし、より正確に相手を理解することができる。たとえば、「公民館ではなく、民間の教室を希望されているのですか」という質問なら「はい」という答えだけで終わってしまう場合でも、「公民館でもそういう講座が開かれているのですが、それについてはどのように思われますか」と質問すれば、相談者の学習に関するニーズがより積極的に明らかにできるのである。  カウンセリングマインドの基本の2つめとして、「ストローク」を挙げたい。  人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。「交流分析」ではこのような行為をストロークとよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。  しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとる。このように、ストロークを出す本人にとって、その発信はリスク(危険)のかたまりなのである。  一方、最近の生涯学習の学習内容の傾向のひとつとして、こころへの関心が指摘できる。生涯学習に向かう要因としても、それを阻害する要因としても、こころの問題は大きい。豊かなこころは、豊かな対人関係、つまりは豊かなストロークに支えられる。そういう意味から、学習情報ワーカーはストロークの達人であってほしい。そのことによって、生涯学習に向かおうとする学習者にエールを送ることができる。  また、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークを得るためには、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。その意味では、ワーカーは相談業務の中で、相手のストローク発信を励ますとともに、みずからのストロークの発信能力を豊かにすることが必要である。  カウンセリングマインドの基本の3つめとして、「エンカウンター」を挙げたい。  日常の対人関係にはいわゆる「仮面」がつきものであるが、エンカウンターでは、それを脱ぎ捨てて本音と本音をぶつけあう。対立することも多い。このようなエンカウンターは、通常、グループワーク(エンカウンターグループ)として行われるが、学習相談においてもエンカウンターの精神が求められていると考えられるのである。なぜなら、学習相談は、社交儀礼がやりとりされる場ではなく、幸福追求の一環としての自分なりの生涯学習を模索する生身の人間(相談者)に対する生身の人間(ワーカー)からの援助が行われる場だからである。  カウンセリングマインドにもとづく学習相談において、生涯学習に関する相手の枠組をワーカーが理解すること、すなわち共感的理解は重要であるが、それは、ワーカーがその人と同じ枠組になる、すなわち同化するということではけっしてない。逆に、相談者とは異なったワーカーの好みや感情、考え方を率直に表明することも効果を及ぼす場面がありうる。カウンセリングのように精神的な治療を必要とする人を相手にしているわけではないのだから、対等な基本的信頼の関係のもとでは、異なった価値観や考え方の提示はむしろ有益な場合が多いであろう。また、対立までには至らないまでも、生涯学習の方法論に関する専門的・技術的な助言なども、ワーカーだからこそできる「異なった立場からの援助」のひとつとして重要である。  しかし、それらをエンカウンターすれば、極端な場合には、コンフロンテーション(向き合うこと、対決)につながることもありうるが、必要なときにはいつでもそれを受けて立つ自信がワーカーには求められる。なぜなら、学習者ととことん向き合おうとすれば、学習者の人間存在により深く関わることになり、また、自分自身の問題にも対面せざるをえないからである。実際の学習相談の場面では、社交儀礼の挨拶なども交わすことになるだろうが、機を見て相談者の懐に飛び込むなど、人間の生き方に対する真摯な姿勢がワーカーには必要である。なお、この場合にワーカーに必要な自信とは、自己をあるがままに認めることであって、自分が相手よりも相対的に優位であることを誇示したり、優位な立場から相手に何かを押しつけたりすることではない。  エンカウンターグループは日常生活から離れた所で期間を区切って実施される。それは文化的孤島と呼ばれる。しかし、その目的は、日常生活で具体的な行動を起こす力にまでむすびつけることである。このような点でも、学習相談がエンカウンターから学ぶべきことは多いと考えられる。なぜなら、学習相談も一時的な「孤島」であり、現実社会に戻ったあとの本人の実際の生涯学習に役立たなければ意味がないからである。  とくに、セパレーション(分離)のあり方については重要である。エンカウンターグループにおいては、解散のときに泣いてばかりいて分離がスムーズにいかないのは、けっして連帯感の高まりとしては評価されない。むしろ、分離不安の表れとされ、過去志向的で自立がうまくいかなかったと見なされるのである。学習相談のワーカーは、この厳格なエンカウンターの姿勢に見習わなければならない。学習者から受ける相談への過度の愛着は自慢にはならない。学習者の現実復帰、つまり理想的な学習社会にはなっていない実際の娑婆で学習するための主体性の獲得をこそ、ワーカーは援助しなければならないのである。 ●(5) ネットワークの中でともに育つ  学習相談は、ネットワークの営みである●(図3−3)。情報と情報をつなぎ、学習者と情報とをつなぎ、さらには、学習者と学習者とをつなぐ。そこでのワーカーと相談者の関係は、今まで述べたとおり、異質な者どうしの水平なギブ・アンド・テイクである。あくまでも学習者の自発的意思にもとづくものであり、そのつながりはゆるやかで、参入と撤退、出会いと別れを自由に繰り返すものである。  このようなネットワークであるためには、それぞれが自立的価値(個性)をもっていることが条件になる。そうでなければ、ヒエラルキーなどとしてのシステムではありえても、ネットワークとしてのシステムにはなりえない。そして、自立したパソコン(スタンド・アローン)がパソコン通信によってネットワークされるように、自立的価値をもつ個人や機関や情報が学習相談によって相互に連携(依存)する。ネットワークが自立と依存の統一である、というのはそういう意味である。  ぼくはこれらを貫く鍵概念として「個の深み」という言葉を提起したい。●(11)人間がなぜ生きているのか、といえば、究極的には自己実現によって「個の深み」という高次な幸福を獲得するためであり、その人間がなぜ社会の一員として生きるのかといえば、究極的にはコミュニケーションによって他者の「個の深み」を味わいつつ自己の「個の深み」の形成にも活かすためだとぼくは考える。  ネットワークのこころさえ失わなければ、学習相談の事業は、学習者の「個の深み」とたえまなく接し続けることができるだろう。それは、たとえば一般行政の相談では、「本務ではない」などの理由から相談員は禁欲しなければならなかったことである。しかし、学習相談においては、ワーカーの主体的な判断力とモラルを前提とすれば、むしろ「本務」として勧められるべき行為である。学習相談事業の中でつねに変わることや育つことがもっとも望まれるのは、組織としてはその事業を行う機関であり、人間としてはその事業を担当する学習情報ワーカーなのである。だから、みずから学び育ちたいという気持ちがあるかぎり、学習相談という仕事は至上の喜びをもたらしてくれるはずである。  生涯学習推進のために、あるいは、住民のために、犠牲的精神で学習相談活動を行っているなどというような人がいたとしたら、その言葉はウソであろう。中身のない虚ろな言葉だ。ともに育つ学習相談の中では、援助者側の人間は自分のために研鑽を深め、自分のために業務に携わっているはずだ。それは、教育の仕事全般にもいえることである。本当の「自分のために」ということは、自分自身がつねに変わり成長することであり、その姿勢は他者の主体性の獲得とはまったく矛盾しないばかりか、援助者、教育者であるためのもっとも大切な資格要件ともいえるのである。 ●2 保護や管理ではなく自由への恐怖を与える  ぼくは、コミュニケーションを心の底では求めながらも、それによって傷つきたくないとおののいている若者たちの状況とその問題解決の道筋について、『週刊教育資料』という雑誌で簡単に論じたことがある。●(12)それにもとづいて、主体的学習を誘う(いざなう)という教育の「大それた」営みのあり方を、本質的な事項に絞ってごく簡単に述べておきたい。  ここでのキー・コンセプトをさらに簡単に一言で述べれば、「保護や管理ではなく自由への恐怖を与える」ということである。これを学習者の立場からいえば、「みずからの主体性のなさを他人や社会の保護や管理が至らなかったせいにするのではなく、自由の恐怖を受容して楽しみに転化する」ということになる。 ●(1) 自分は求めるけれど、人にはあげられない  今日の若者たちは、自分からストロークをうまく出すことは得意ではない。経験不足なのである。そのうえセンシティブだから、相手からのストロークの裏にある不純さや、その「罠」に反応することの危険を嗅ぎとることにはとても優れている。だから、相手からのストロークに答えることもできない。  そのため、大人たちが懸命になって「心と心のふれ合いをせよ」「人間はわかりあえるものだ」などと若者たちに上から号令をかけても何の効果も及ぼさない。学生の出席ペーパーから、ひとつ紹介する。  「ゼミを自己変革の場に、と先生は望んでいるようですが、私にはゼミの場が自己変革の場にはなりません。自分が何を言っても、何を思っても、大丈夫、守られている、というふうには感じられないので、つまり受容されるようには感じられないので、自己開示できません。だから、ゼミは自己変革の場にはなりえません」。  この学生の場合は、人間関係のことをよくわかっているのだ。そして、自分が受容される特別な場を他の所で見いだしてさえいるのである。だからこそ、簡単には心を開かない。ぼくは、その態度を立派だと思う。 ●(2) 現実原則の中でのストロークの自己管理を  しかし、問題は、受容されるとはかぎらない日常生活の「現実原則」(快感原則では充足されない社会の現実に適応する心の働き)の中で、ストローク発信の自己管理(場合によっては発信しないことを含めて)をどう行うか、ということではないか。  いっぽう、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークをもらいたいのなら、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。  そして、もうひとつには、ストロークを出して傷ついた場合、そこから逃げずに、どのような形でその体験を自己に内面化するかということが問題になる。自分が傷ついた事実をあるがままに認識し受けとめることができれば、時と場合と相手に応じて出したり出さなかったりすることができるようになるだろう。ストロークを出せないということと、ストロークを出そうと思えば出せるけれども出さないということとは、表面的には同じように見えても、内面的には正反対のことなのである。  一番すじの通らない生き方が、自分はカプセルの中に閉じこもってしまっているのに、それでいて、ストロークがもらえないと嘆き、いつまでもカプセルの中で他人からのストロークを待っている姿である。それは、閉じこもっている自分の姿が見えていないだけのことなのだが、そういう若者もたくさんいる。  ぼくは、学生にこう言っている。「今は閉じこもらないではいられない自分の姿をこそよく見つめて、将来まで、そういう人間の悲しみの深さをよく覚えておいてほしい。そうしたら、少なくとも、今年の新入社員は心を開いてこない、と不満をいう物わかりの悪い上司や、今の子どもたちは消極的で困る、と子どものせいにする権威主義的な教師にはならないですむはずである。なぜなら、いま悲しみを感じているあなたは、消極的にならざるをえない部下や子どもの心を共感的に理解できる心をもっているはずだからである。あなた自身は心を開かないでおいて、社会的役割が外からあなたに与えられたとたん、相手に心を開くように求めるとしたら、それは最悪である」。 ●(3) コミュニケーションの成熟化と無力化  今日、コミュニケーションの手段は大いに発達している。電話なら、いちいち会いに行かなくてもすむ。マスメディアからの情報を受けるだけなら、自分が傷つくことを恐れなくてもすむ。映像であれば、人間の情念などでさえ伝わってくる。  このような技術発展はうまく利用するのが賢いやり方である。しかし、コミュニケーションのツール(道具)は発達していてあたりまえであり、重要なことはコミュニケーションそのものである。パソコン通信では、機械などは透明(トランスペアレンシー)のものに感じて、通信そのものに没頭できる感覚こそ尊ばれる。さらに、ぼくは、パソコン通信そのものには飽きてしまってパソコン通信をきっかけとしたミーティングや宴会のほうに熱心になってしまうバーンアウト(燃え尽き)現象も成熟化のひとつとしてとらえている(拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』参照)。使っているツールが大切なのではなくて、コミュニケーションするということ自体が大切なのだ。これをコミュニケーションの成熟化とよぶことができる。  しかし、成熟化とは、ある面では、活力を失うことでもある。フェース・ツー・フェースではないメディアや一方通行の音楽・映像メディアによって、自分は傷つかないままにコミュニケーションを享受しているうちに、互いの存在を認め合うストロークのやりとりのチャンスまでも失いつつある。傷つく恐れのないコミュニケーションは、ストロークではない。そういう音楽や映像のメッセージが、カプセルの中の自分に個別に与えられたような錯覚のもとに受け入れられて、親和欲求を少しだけ満たしている。つまり、エセ・ストロークとしても機能している。  先日、授業で傾聴のトレーニングをした。この授業の受講者は自己表現の一つである音楽を専攻しているからであろうか、「受容」はスムーズにできた(表面的には支持的だった)。どのペアも話がはなやかに盛り上がっている気配だった。ところが、「繰り返し」になると、とたんにできなくなった。聞き役が要約を繰り返すことによって話し手への理解を確認させようとしたのだが、そのことに反発さえ起こったのである。特徴的なことは、傾聴される話し手側からの反発が強かったということである。出席ペーパーには、「せっかくの話をさえぎられる感じ」「うざったい」とある。実際、繰り返されることなど邪魔になるほど、相互確認のないまま、人をひきつけるおもしろいおしゃべりができる若者がいるのである。彼らにとっては、うなずきとあいづちさえあればよい。  おしゃべり(双方向)も華やかに上手にできるようになってきた。雑誌「教育」(国土社)が「おしゃべり症候群」を特集してその空疎を衝いたのは一九八五年だが、いまや「双方向の一方通行」ともいうべき恐るべき軽やかなコミュニケーションが成熟しつつある。言葉は交わされているが、気持ちは交流できない(しようとしていない)のである。「それがおしゃれだし楽しいのだから」と若者は言うのであろう。 ●(4) 管理や保護よりも自由を  若者に与えられるべきコミュニケーション教育の要点は、いまや、指導者が若者を管理することでも保護することでもない。管理や保護があると、それが現実原則の対象にされてしまい、若者自身のストロークの非力もそのせいにされてしまう。  ストロークを自由にやりとりさせる機会を提供することが必要である。管理したり保護したりしてはいけない。また、自由といっても、与えられた目標に自発的に追いつこうとさせるためのものでもない。強制されたり守られたりした中での自主性だけでは、傷つく自分を受容するレベルまでには到達しえない。  どんなストロークも自分の判断で出せるという自由の場に彼らを引きずりこんでこそ、自分がストロークを本当は求めながらも、それを出すことによって傷つくことを恐怖している、という自分に気づくだろう。もし、それでも、自分がストロークを出したいのに出せない理由を他人のせいにしようとする者がいたら、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない。あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という言葉を問題提起として投げかけたらどうだろうか。  このように誰のせいにもできない状況では、その人のすべてのストローク発信をその人の責任にすることができる。そこでどうするか、ということこそが、本来の現実原則の学習につながる。自由への恐怖を味わうことなしには、何も始まらないのである。 第3部・注− (1) 西村美東士「学習相談の意義・方法・課題」、『現代生涯学習推進実務選書第九巻』ぎょうせい、一九九三年二月 (2) 松下圭一『社会教育の終焉』筑摩書房、一九八六年、三頁 (3) 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、一九九一年、一五頁〜二七頁 (4) 三浦清一郎『比較生涯教育』全日本社会教育連合会、一九八八年、三九頁 (5) 西村美東士「生涯学習を援助する相談事業」、日本教育新聞社『週刊教育資料』第二六三号、一九九一年八月 (6) 前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、五一頁 (7) MAZEについては前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに五三頁及び一五二頁 (8) ネットワークについては前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに一二九頁 (9) カウンセリングについては、とくに平木典子『カウンセリングの話(増補)』朝日新聞社、一九八九年 (10)傾聴の技法とエンカウンターについては、とくに国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房、一九八一年 (11)「個の深み」については前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに二頁〜四頁 (12)西村美東士「コミュニケーションを求めておののく若者たち」、日本教育新聞社『週刊教育資料』第二八一号、一九九二年一月 巻末資料 ●1 ひとくちミニ知識 Q1 認知構造とは何ですか。 A その前に次のパズルをやってみましょう。  下図●(図4−1)の9つの点のすべてを、一筆書き(直線)で結びなさい。ただし、直線は、3回しか折り曲げてはいけません。  ヒント・・・自分の認知構造(=枠組)を「突き破って」みてください。(解答は次ページにあります)  学習の成立とは、適応のために、新しい行動の仕方が成立することである。その成立について、「条件づけ」という考え方と、「認知構造の変化」という考え方に大別される。条件づけとは、特定の条件のもとで特定の反応がつくられることである。特定の反応がつくられるということが、学習の成立ということになるのである。  学習の成立について、条件づけという考え方と対立的とされている「認知構造の変化」という考え方がある。客観的には同じ環境であっても、その環境をどのように受けとめるか、については、人によりさまざまな差異を生じることがある。どのように認知するかという認知の仕方には、その人なりの特徴があり、その人なりの構造があるので、認知の仕方は「認知構造」と呼ばれている。  強化説というのは、条件づけに代表されるいわゆる「S−R理論」であり、欲求の充足による強化に学習成立の根拠を求める。それに対して、認知説は「S−S理論」とも呼ばれ、認知構造の変化に学習の成立する根拠を求める。       (出典 小口忠彦『学習心理学−学習理論の基礎−』放送大学テキスト) Q2 フレーム・オブ・レファレンスとはどういうことですか。 A カウンセラーの平木典子さんは、つぎのように説いています。 「準拠枠(問題枠)」というのは、少々わかりにくい言葉である。英語のframe of referenceという言葉を訳したものだが人間理解の基本となるので、この考え方の内容を理解してもらうため、あえて使うことにした。人間は、言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情などを表現することができるが、それらのことを表現したり、お互いに理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。(中略)例えば、同じ「悲しい」という言葉を使って話をしていても、突きつめていくと自分の「悲しい」と相手の「悲しい」が違うということに気づくことがある。私たちの日常生活は厳密にいうと、実はそのようなことのくり返しだといっても過言ではない。(以下略)               (出典 平木典子『カウンセリングの話』、朝日選書) Q3 子どもの教育とおとなの教育とは、どう違うのですか。 A ノールズによれば、次のとおりです。●(表4−1)  また、同様の観点から次のようにも述べられています。  子どもは教育の対象であり被教育者であるが、おとなは自らの教育の主体であり、成人教育はおとなの「自由な自己教育」であることに本質がある。(ラングラン)  子どもからおとなになると教育から自己形成に変わり、子どもは自分の受ける教育に責任はないが、おとなの場合は「自分自身が責任を負う自己形成」であるところに子どもの教育との本質的な差がある。(ランゲフェルト)                (参考文献 倉内史郎『社会教育の理論』第一法規) Q4 大学の教授法は、どのように改革されるべきでしょうか。 A ロンドン大学では、次のような考え方のもとに、教員の研修を行っています。 (冒頭の部分)学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくものである。(中略)……適切な教授法を決定する場合に、できるだけ柔軟なやり方をとろうとするであろう。こうした問題を考えるのは、明らかに思いきった試行であり、伝統的な大学教育の方法とは異質な技能の開発を必要とするであろう。 (講義法の部分)講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了時にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである(McLeish,1968)。(中略)ヘイル委員会報告書も論評するように、「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」である。 (出典 ロンドン大学教育研究所大学教授学研究部『大学教授法入門』玉川大学出版部) Q5 人間の発達の可能性に対して、どんな心で接すればよいのでしょうか。 A 次のピグマリオン効果についての記述が参考になるでしょう。  ローゼンソールらの『教室のピグマリオン』は、この予言の効果(予言による自己成就)をはっきり示した。ある小学校の子どもたちに一種の知能検査を行い、その結果に基づいた(と称して、じつはなんの根拠もない)「近々学力が伸びる生徒」のリストを教師に渡した。一年後の学業成績では、リストにあげられた生徒たちのほうが、選ばれなかった生徒たちより、成績を伸ばしていた。これは「近々伸びる生徒」と偽って示された生徒に対して、教師たちが期待を抱き、その期待が彼らの成績の向上を生んだ、と解される。この教師の期待から生まれた効果を「ピグマリオン効果」と呼ぶとした。  ピグマリオンとはギリシャ神話に現れる彫刻家である。彼は自作の彫刻と結婚したいと深く願ったところ、神がその彫刻に生命を吹きこみ、彼の願いを成就した、という。  このような「ピグマリオン効果」の中には、「嘘から出たまこと」以上のものが含まれている。すなわち、教師からの期待がこめられ、それに生徒たちが応じようとした点である。たんなる予言の自己成就を超えて、期待=応答のはずみが働いている。        (出典 片岡徳雄『学習と指導−教室の社会学−』放送大学テキスト) Q6 社会教育・生涯教育は、今日の社会の変化とどう関わっているのですか。 A 今や古典的な価値を持っているとさえいえる昭和四六年の社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」では、 @ 人口構造の変化(高齢化、余暇) A 家庭生活の変化(核家族化、家庭の教育機能の低下) B 都市化    (都市問題、非行化、郷土意識の欠如) C 高学歴化   (学習要求の高度化、不適応問題) D 工業化・情報化(人間疎外、情報過多、価値観の混乱) E 国際化    (ボーダーレス、国際交流) の6つの社会的変化をあげた上で(カッコ内のまとめはmitoによる)、「今日の激しい変化に対処するためにも、また、各人の個性や能力を最大限に啓発するためにも、ひとびとはあらゆる機会を利用してたえず学習する必要がある。とくに社会構造の変化の一面としての寿命の延長、余暇の増大などの条件を考えるなら、生涯にわたる学習の機会をできるだけ多く提供することが必要となっている。また変動する社会ではそれに適応できない人も多くなり、変動に伴って各種の緊張や問題が生じており、これらに伴い、ひとびとの教育的要求は多様化するとともに高度化しつつある。こうした状況に対処するため、生涯教育という観点に立って、教育全体の立場から配慮していく必要がある」と、述べている。 Q7 社会教育とは何ですか。 A 関連法規によると次のとおりです。 「教育基本法」 第7条(社会教育) @ 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。 A 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。 「社会教育法」 第3条(国及び地方公共団体の任務)  国及び地方公共団体は、この法律及び他の法令の定めるところにより、社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。 Q8 社会教育主事の仕事の内容と、それに求められる資質・能力は何ですか。 A 社会教育法第9条の3では、次のように定められています。  社会教育主事は、社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない。  また、社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」(昭和六一年一〇月)では、「社会教育主事に求められる資質・能力」について次の5つがあげられています。(カッコ内はmitoが要約したもの) @ 学習課題の把握と企画立案の能力  (社会教育計画の立案、社会教育指導者への指導・助言などのために)  (プランナー、プログラマー、プロデューサー、プロモーターとしての職務) A コミュニケーションの能力  (学習相談と学習情報提供のために) B 組織化援助の能力  (集団学習のオルガナイザーとしてのグループワーク等の知識) C 調整者としての能力  (他行政・民間との連絡・連携、家庭・学校・社会の協力・連携) D 幅広い視野と探求心  (幅広い視野と一般的な知識、様々な内容領域の基本的構造を読み取る方法論) Q9 公民館は何をめざして作られたのですか。 A 公民館は、戦後誕生しました。当時の文部省社会教育局社会教育課長、寺中作雄の公民館構想(「寺中構想」)は、昭和24年の社会教育法より早く、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実し、公民館の普及に大きな役割を果たしたのです。この通達では、公民館の運営上の方針として、次のような趣旨のことを述べています。(要約はmitoによる) (1) 公民館は、町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である。 (2) 公民館は、町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある。(堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所) (3) 公民館は、町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である。(町村内における政治、教育及産業関係の諸機関が一致協力) (4) 公民館は、町村民の民主主義的な訓練の実習場である。(性別や老若貧富で差別することなく、自由な討論と他人の意見への傾聴) (5) 公民館は、中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所。 (6) 公民館は、全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する。(とくに青年層こそ新日本建設の推進力であり、設置運営への青年層の積極的な参加が望ましい) (7) 公民館は、郷土振興の基礎を作る機関である。(郷土の実情や町村民の生活状態等に最も適合した弾力性のある運営がなされるべき) Q10 生涯学習と生涯教育とでは、どう違うのですか A 中央教育審議会答申「生涯教育について」(昭和56年)では次のとおりです。  今日、変化の激しい社会にあって、人々は、自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。この意味では、これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい。  この生涯学習のために、自ら学習する意欲と能力を養い、社会の様々な教育機能を相互の関連性を考慮しつつ総合的に整備・充実しようとするのが生涯教育の考え方である。言い替えれば、生涯教育とは、国民の一人一人が充実した人生を送ることを目指して生涯にわたって行う学習を助けるために、教育制度全体がその上に打ち立てられるべき基本的な理念である。 Q11 自分への信頼、他人への信頼とは何でしょうか。 A 「信頼」は「信用」とは違います。参考文献としては、たとえば河野貴代美『引っ込み思案をなおす本』(PHP文庫)がありますが、これは残念ながら絶版です。古本屋で見つけたら友だちにお金を借りてでも購入することをお勧めします。  そこで大切だとされていることのひとつは、自分への信頼(=自信)がくずれがちになるのは次のうちのBであるということをしっかりととらえることです。 @ 気がつかなかったか、深く考えずに過ごしてしまった出来事。 A あなたの核である感じ方、考え方などに、明確に入ってくるもの。 B あなたの人格にかかわるような内容が入っているもの。  河野さんは次のように述べています。  Bは、あなたの人格にかかわるような内容が入ってきたときです。たとえば私であれば 「あなた、それでよくカウンセラーをやっていかれますね」  などといわれたときでしょうか。いい方や状況によっても違うでしょうが、かなり私は動揺します。不安定になります。私は、そういった人に、もう少しくわしい説明(なぜそう思うのか)を求めるでしょう。そして、その内容を十分に検討してみるでしょう。できるだけ客観的に自分のことを考え、納得すれば、自分自身を修正します。納得しなければ、親友などにさらにたずねるかもしれません。一度は私は揺れ動き、不安になります。が、やがてそこから必要な滋養を取り入れて、私の核=私自身は再構築されていくということになります。 Q12 アサーティブ(アサーション)トレーニングとは何ですか。 A 攻撃的にならないさわやかな自己主張訓練のことです。  たとえばあなたが学生食堂で必死こいてレポートを書いているのに、友だちが話しかけてきたり、真夜中、眠くて仕方ないのに、友だちから電話がかかってきたりした場合、さわやかに断ることができますか。断りたいのに断れないのは自分や他者への基本的信頼が足りないからなのです。『引っ込み思案をなおす本』では次のとおりです。 トレーニングの効果  @ あたたかく自分が受け入れられていると感じることができる  A 安心して自分を開くことができる(自己洞察の機会も広がる)  B 自分を理解するとともに、他人をも理解することができるようになる  C お互いの連帯感を養える  D その人の身になって考えるが、どうすべきかは個人の自由であるから、自分らしさを養うことができる  E いつ、どのような時に主張的であるべきかの判断を養える(常に何に対しても主張的である必要はないし、それは不可能でもある) 自己主張の5つのポイント  @ 自分がどうしたいのかはっきり確認すること  A 相手の反応を先取りしたり、勝手に予測したりしないこと  B 自分のいい分は本当に自分勝手なのかを考えてみること  C 結果をおそれないこと  D 相手を攻撃しないこと(「自分に甘く、他人に厳しく」ならないこと) Q13 社会教育主事の専門性とは何でしょうか。 A ぼくは次のように説明しました。  社会教育行政が一般行政から区別される重要な要素の一つは、実体的には専門職員、とくにその代表格である社会教育主事の存在であるといえる。学校教育であれば教員という専門職員が置かれているわけだが、社会教育主事はそれに対応する。あるいは、教育公務員特例法で専門的教育職員として指導主事と社会教育主事が併記されていることから、指導主事の専門性と同列であるとも考えられる。  ところが、学校教育では、教員は児童・生徒の教育をつかさどると規定されているのに対して(学校教育法第28条)、社会教育では、行政は「すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように」(社会教育法第3条)努めるのであって、社会教育主事は国民の教育を直接つかさどる立場にはない。そこに社会教育主事の専門性を考えるにあたっての複雑さがある。  しかし、市町村の社会教育主事を、住民の自発的な学習を助成し、その地域における社会教育活動を推進するための実際的な世話役としてとらえ、都道府県の社会教育主事を、全県的な立場からの社会教育行政の推進や市町村教育委員会に対して助言・指導をする者としてとらえるならば(1971(昭和46)年社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」)、その専門的力量を高めることこそが、結果的には住民自らが行う学習を促進することにつながると考えられる。  社会教育主事の専門性の内実については、しばしば3P論、4P論と呼ばれる議論がなされている。いずれもPで始まるプランナー、プログラマー、プロデューサー、プロモーターとしての資質・能力が必要だというのである。  また、最近の到達点としては、一九八六(昭和六一年)一〇月の社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」が挙げられる。そこでは、学習課題の把握と企画立案の能力、コミュニケーションの能力、組織化援助の能力、調整者としての能力、そして、幅広い視野と探求心が社会教育主事に求められる、とされている。           (『現代学校教育大事典』「社会教育主事」の項、ぎょうせい) Q14 社会教育の方法はどのように分類されるのですか。 A 学習の形態から次のように分類することができます。●(図4−2)  集団学習では、ただ集まるだけでなく、学習者どうしの相互教育が期待されます。学級・講座がなぜ「集会学習」ではなく「集団学習」なのか考えてみましょう。 Q15 社会教育行政の存在意義はどこにあるのですか。 A 次のような法律の条文が参考になるでしょう。 「日本国憲法」 第13条(個人の尊重)  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 第26条(教育を受ける権利)  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。 「教育基本法」 第1条 (教育の目的)  教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。 第7条 (社会教育)−前掲 「社会教育法」 第3条 (国及び地方公共団体の任務)−前掲 Q16 少年期における社会教育のポイントは、何ですか。 A 拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』によれば、体験、参加・参画、地域活動、仲間集団、異年齢集団などのもつ「教育力」を生かすことです。  キーワードとして、つぎの言葉があげられます。 欠損体験、自治集団、地域の教育力、ピア・グループ、異年齢集団。 Q17 青年期の発達課題は何ですか。 A ハヴィガーストは一九五〇年前後に次のように指摘しています。 (1) 両性・同年齢の友人とのより成熟した新しい関係の達成 (2) 男性あるいは女性としての社会的役割の獲得 (3) 自己の身体の理解とその有効な活用 (4) 両親および他の大人からの情緒的独立 (5) 経済的独立への自信 (6) 職業の選択と準備 (7) 結婚と家庭生活への準備 (8) 市民生活に必要な知的能力の開発 (9) 社会的に責任ある行動の要求と達成 (10) 行動の指針としての価値・倫理体系の獲得  しかし、一九六〇年代のエリクソンは、青年期の発達課題をアイデンティティ(identity、同一性)の獲得とした。この言葉は、自己の内面的同一性と社会的同一性を示しており、エリクソンは、この両方をともに達成するための個人生育史と歴史社会との出会いの時期として青年期をとらえている。このようにして、青年は、自分とはいったい何なのか、自分が何者であるかという不変的な自己定義や、どんな他人とも取り替えることのできない自己の存在証明としてのアイデンティティを社会的背景のなかで確立しようとする。  ここで、とくに留意しておきたいことは、他者や社会からの自分への期待が、本人が好むと好まざるとにかかわらず、その人のアイデンティティの確立に多大な影響を与えるということである。なぜならば、その人は、自分が他者から認知され、自己像を他者と共有している確証の感覚を得ようとするからである。  また、自分の所属する企業と一体化してそこにアイデンティティを求めてきた会社人間、そういう夫から疎外された妻たち、核家族化の進行の中での高齢者などの姿を見ると、現代社会におけるアイデンティティの確立については、青年ばかりでなく、すべての世代にわたって重要な課題であると同時に、危機的な状況であるというべきであろう。 Q18 高齢者教育における学習課題はどうとらえればよいのですか。 A 拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』の 223ページ以降を参照してください。 (1) ジェネレーションとライフステージ ジェネレーション(世代)の観点とライフステージ(発達段階)の観点 暦年齢chronological ages、社会年齢social ages 、機能年齢functional ages (2) 個人的課題と社会的課題 「個人的課題」=「退職後の生活設計」「余暇活動」「老いの受容」「死の受容」 「社会的課題」=LESS DEPENDENCY EDUCATION (3) 学習課題の実際の領域  「高齢期の理解」(老化と円熟の認識など)、「高齢期の過ごし方」(高齢期の生活設計など)、「家族とともに生きること」(家族関係など)、「社会とともに生きること」(地域社会についての理解など)、「高齢者に関する法律・制度」(老人福祉など)。 Q19 ボランティアって何ですか。 A 日本生涯教育学会編『生涯学習事典』(東京書籍)によると次のとおりです。  ボランティアとはボランタリーな活動を行っている者を指す。そして、ボランティア活動とは、いろいろな言い方がなされているが「動機においては自発性を、活動資源(リソース)においては自前主義を、代価においては無報酬を、相手(ニード)との関係においては了解を原則とする篤志の活動」(大森彌『ボランティア活動と行政』)ととらえられているのが一般的である。  このことをもう少し分かりやすくいえば、ボランティア活動とは、@他から強制や拘束を受けて行うものではなく、自らの自主的、自発的な意思に基づいて行われるものであること。Aボランティア活動を行うことによって、金銭的、物的な代価を求めるようなことがあってはならないこと。Bボランティア活動は、私利私欲のために行うのではなく、あくまでも公共社会に対してなんらかの形で貢献するものであること。  このような自主性・自発性、無償性、公共性の三つが、ボランティア活動のいわゆる三原則といわれるものであり、ボランティア活動を進める上でのベースとなる。 ●2 自分を知ろう−エゴグラム  作成の方法  以下の質問に、はい ○ どちらともつかない △ いいえ × のようにお答えください。ただし、できるだけ△よりも○か×で答えるようにしてください。 [CPグループ] 1 人の言葉をさえぎって、自分の考えを述べることがありますか 2 他人をきびしく批判する方ですか 3 待ち合わせ時間を厳守しますか 4 理想を持って、その実現に努力しますか 5 社会の規則、倫理、道徳などを重視しますか 6 責任感を強く人に要求しますか 7 小さな不正でも、うやむやにしない方ですか 8 子どもや部下をきびしく教育しますか 9 権利を主張する前に義務を果たしますか 10 「・・すべきである」「・・せねばならない」という言い方をよくしますか [NPグループ] 1 他人に対して思いやりの気持ちが強い方ですか 2 義理と人情を重視しますか 3 相手の長所によく気がつく方ですか 4 他人から頼まれたらイヤとはいえない方ですか 5 子どもや他人の世話をするのが好きですか 6 融通がきく方ですか 7 子どもや部下の失敗に寛大ですか 8 相手の話に耳を傾け、共感する方ですか 9 料理、洗濯、掃除などが好きな方ですか 10 社会奉仕的な仕事に参加することが好きですか [A グループ] 1 自分の損得を考えて行動する方ですか 2 会話で感情的になることは少ないですか 3 ものごとを分析的によく考えてから決めますか 4 他人の意見は、賛否両論を聞き、参考にしますか 5 なにごとも事実に基づいて判断しますか 6 情緒的というより、むしろ理論的な方ですか 7 ものごとの判断を苦労せずに、すばやくできますか 8 能率的にテキパキと仕事をかたづけていく方ですか 9 先(将来)のことを冷静に予測して行動しますか 10 身体の調子の悪いときは、自重して無理を避けますか [FCグループ] 1 自分をわがままだと思いますか 2 好奇心が強い方ですか 3 娯楽、食べ物など満足するまで求めますか 4 言いたいことを遠慮なく言ってしまう方ですか 5 欲しいものは、手に入れないと気がすまない方ですか 6 ”わあ””すごい””へぇー”など感嘆詞をよく使いますか 7 直感で判断する方ですか 8 興にのると度をこし、はめをはずしてしまいますか 9 怒りっぽい方ですか 10 涙もろい方ですか [ACグループ] 1 思っていることを口に出せない性格ですか 2 人から気に入られたいと思いますか 3 遠慮がちで消極的な方ですか 4 自分の考えを通すより、妥協することが多いですか 5 他人の顔色や、言うことが気になりますか 6 つらい時にも、我慢してしまう方ですか 7 他人の期待に沿うよう過剰な努力をしますか 8 自分の感情を抑えてしまう方ですか 9 劣等感が強い方ですか 10 現在「自分らしい自分」「本当の自分」から離れているように思えますか  ○を2点、△を1点、×を0点として、それぞれの項目ごとに合計点を出し、●図4−3のグラフに折れ線グラフを書いてください。              (出典 杉田峰康『交流分析のすすめ』日本文化科学社) [説明]  人間の心の働きは●表4−2のように分けてとらえられます。 ●3 友だちとやってみよう−グループワーク その1 ジェスチャーゲーム(mitoオリジナルルール) (1) 出題に関する決まり ・出題は名詞。ただし固有名詞は除く。 ×タンザニア   ○思春期 ○気温 ・一般的でない用語は避ける。     ×スプロール現象 ○オゾン層 ・一般的でない言葉づかいは避ける。  ×卒業旅行    ○修学旅行 ・ボーダーライン(参考)       △焼肉定食    ×揚げ豆腐定食 (2) 表現に関する決まり ・声を出してはいけない。音はよい。  ○手をたたいて”パン” ×「難しいよ」 ・文字の形を指や手で示してはいけない。×Vサインで「AV機器」のVなど ・文字の数は指や手で示してもよい。  ○ハンドサインや指で文字数などを示す。 ・会場にある物などを指してもよい。  ○髪の毛を指して「苦労話」の”クロ”。 (3) 表現に関する技術 ・「おいといて」などを活用して多次元の表現を試みる。 ・近い解答に対してはその解答者に指をさして、復唱してもらい、仲間の確認を図る。 ・「予期しなかった有効な解答」のチャンスを見逃さず、指さし確認をして活用する。 (4) 解答に関する決まり ・出題されたテーマの内容を自分が知らない場合は他のテーマを要求できる。 ・出題されたテーマが自分の尊厳を傷つけると思われる場合(アダルトビデオなど)も同様。 ・表現者に何でも自由に聞くことができる。  ○「漢字で何文字?」など ・思いついた言葉をみさかいなく連発してもよい。(数打ちゃ当たる) (5) 出題側チームのヤジに関する決まり ・勝負とユーモアの世界であるから、そのセンに沿った野次はかまわない。  (解答側チームは敵チームの雑音に惑わされずに味方の表現に精神的集中をせよ) (6) その他(人数によっては、バトルロイヤル方式で行うこともできる) その2 銭まわし(mitoオリジナルルール) (1) 2チームが向い合って座ります。 (2) 回す側のチームは、先頭の人が十円玉を一個だけ両手で挟みます。隣の人は両手をその人の手の下にぴったりと当てがって、対面する相手チームから十円玉が見えないように受け取ります。 (3) このようにして、順にまわしていきます。その間、両チーム全員で「もしもしカメよ」を歌います。 (4) それだけなら、なんにも面白くありません。途中、誰かが十円玉を手の中に持っておきます。そのあとの人は、回していくふりをします。逆に、本当は隣の人にさっと回しておいて回っていないように見せかける高度技もあります。 (5) カチンと音が聞こえてしまったり、あるいは、十円玉を落としたりしてしまっても、逆戻しはできません。 (6) 最後の人までまわすふりが終わったら、「セーノッ」の合図でいっせいにこぶしを握って相手チームの目前に差し出します。 (7) 当てる側のチームは、十円玉が「入っていない」と思われるこぶしを「一つずつ」タッチしていきます。だれがタッチしてもかまいません。タッチされた人は、そのこぶしだけ開きます。 (8) 十円玉が入っていたらアウトです。それまでに開いたこぶしの数で勝負します。 [ポイント]  タッチの決定にはなるべく多くの仲間の支持を得ることも必要だが、結局は誰かが実行しなくてはならない。ヘッドを決めなくても、自分の判断で行動できる主体性とネットワークマインドが求められるのである。しかし、それは楽しいことである。 その3 拍手で合図 (1) 親を決め、親はその部屋から出ていってもらいます。 (2) 残った人たちで、親にどんなポーズをさせるか相談して決めます。 (3) ポーズが決まったら、親に部屋に入ってきてもらい、その他の人たちは輪になって座ります。 (4) 親がどれだけ早く決められたポーズをすることができるかで勝負が決まります。その際、親に何も教えてはいけません。しかし、ヒントは与えることができます。親がポーズに近い動きをしたとき、その動きの正しいことを拍手で知らせることができます。正しいポーズに近づけば近づくほど、拍手を大きくしてあげます。逆に、親が全然違ったポーズをした場合は、床を両足でバタバタとたたきます。             (参考 福留強ほか編『生涯学遊ネットワーク』日常出版) [バリエーション] (1) 出典ではチーム対抗の2人の親の同時進行になっているが、相手チームの出した課題を交互に挑戦するのも、共感的、支持的な観察ができておもしろい。 (2) 必然性のある連続動作(オセロを持ち出して白黒に並べるなど)も、けっこううまくできることがあっておもしろい。 (3) 両足バタバタの代わりに「ブーブー」と言っても、その口調に個性や感情が出たりしておもしろい。 その4 第一印象ゲーム  堅苦しい自己紹介なんかあとにして、自分は第一印象でどのように見られているか、他人に対する自分の第一印象はどのぐらい当たっているか、テストしてみましょう。あとで、それぞれの人が正解(自分の好み)を発表します。1つの正解で20点で、それぞれの人についての満点は百点になります。●(図4−4)            (出典 坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』日本生産性本部) [バリエーション] (1) たとえば問5のAさんの正解が「水色」で、自分の答えが「青色」だった場合、点数が欲しければAさんに尋ねて決めるのもおもしろいです。そのときの採点の権限は、本人のAさんにあるというわけです。 (2) 問いの内容は、どのようにでも考えられます。しかし、現在の「職業」や過去の「経歴」は、役割や過去に属することです。もっと、今のその人らしさに、関心を寄せるような態度を身につけたいものです(自己紹介のしかたも同様です)。 その5 ハンターゲーム (1) このゲームの目的は、標的を射撃して最高得点を獲得することです。 (2) 1回4発の射撃を4回、合計16発打ちます。 (3) 標的はタテ10、ヨコ10のマス目●(図4−5)の中にかくされています。標的になっているマス目の数は12です。そのつながり方はタテとヨコで、ななめにはなっていません。 (4) 標的のマス目には、それぞれ1点、3点、5点のいずれかの点数がついています。 (5) グループは「発射」を決定します。 (6) グループが決定した「発射」は、代表者によって、全員にも聞こえるように司会者に発表します。 (7) あらかじめ、全発射を発表する代表者を決めておきます。その代表者だけが発表できます。 (8) 代表者は、「Aの1、Fの5、Cの10、Iの3。」というように発表します。司会者は、その発射によって得られた得点をそのたびに発表します。 (9) 時間内に発射しきれなかった場合はその未発射分、過剰発射した場合はその過剰発射分、また、ルールに違反して発射をした場合も、それぞれ1発につき1点の減点となります。 (10) 同じマス目を連打することも認められます。打ち直しはできません。 (11) グループは自由に話し合うことができます。マス目用紙はどのように使ってもかまいません。 (12) ゲームの進行中は、司会者に質問することはできません。 (13) 必要なことは、すべてこの「ルール」に示されています。 (14) 制限時間は35分です。                   (出典 坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』) [ポイント]  他人のせいではない。自分が自分を縛っているのだ。 その6 スタンツ(寸劇) (1) 芸人、タレントなどのまねや替え歌、踊りなどでもいいが、 (2) 私たちの生活や学校の中でのできごとなどをとらえて、 (3) または、昔話やトレンディードラマなどを脚色して、 (4) 特別なものを使わずに、そこにある簡単な道具や持ち物を使い、 (5) 素朴に簡単な寸劇を即興で演ずることが理想です。 (6) 今回の準備はどこでやってもかまわない。 (7) この時間以降は準備の会合をもたない。あくまでも「即興劇」である。 (8) 今回の欠席者には、次回までに呼びかけておいて仲間に入れてもよい。 (9) 本番における1グループの持ち時間は1分から5分程度までとする。 (10) 次回の本番の途中、どこかでメンバー全員の氏名を発表してください。 [教育目標] (1) アマチュアリズムとしての文化活動の楽しさを実体験する。 (2) 他者が存在することが素敵なことだと思えるようになる。 (3) 他者の枠組が自分と異なっているからこそ面白いと思えるようになる。 (4) 集団運営能力を高める。 (5) 「見る・聞く」から、「話す・企画する・表現する」に飛躍する。 その7 お願いトレーニング  このエクササイズは、フラストレーションに耐えてあくまで自己主張を続ける訓練である。ロールプレイでも一度、厚かましさ・強引さを体験するとそれが自信になる。ちょっとしたことぐらいで負け犬にはならない、という自信がつく。方法はこうである。  二人一組をつくる。ジャンケンで勝った方が何でもよいから相手に「……してくれないか」と頼む。頼まれた方(ジャンケンで負けた方)は、理由をつけて断る。断られても、再度頼む。また断る。しかし5回目には、「よし、わかった。願い事を満たしてやろう」と言って、ロールプレイを成功体験で終わるようにする。(中略)  このエクササイズで、ただ「お願いします」「お願いします」と連呼するだけの自己主張しかできない人がいる。一方、「おれも……してやるから君も……してくれないか」とギブ・アンド・テイクで説得する人もいる。あるいは相手のプライドやナーシズムを持ち上げて(例、お世辞)お願いする人もいる。人に同じことを頼むのでも、さまざまな言い方がある。さまざまな自己主張法がある。そのことに気づけば、自分の今までの主張法を改善できる。      (出典 国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房) [ポイント]  断られて傷つくことを恐れて何もしないでいるなら、コミュニケーションは成立しない。 その8 自己受容トレーニング  5〜6人一組になり、順番に「私は自分が好きです。なぜならば女らしいからです」、「ぼくは自分が好きだ。なぜならば正義感があるからだ」という具合に、ポジティブな自己概念を仲間に語る。一回にひとつずつ、何回も順番が回ってくるたびに言うわけである。  ふつうわれわれの文化では、謙遜を美徳としているが、エンカウンター・グループではその逆をするのである。ホンネを表現し合うのである。自己礼賛を地でいくのである。自己弱小感のかたまりの人は、自分の好きな点がないという。しかし、ゲシュタルト・セラピイでは百%臆病なものもいないし、百%勇敢なものもいないと考える。もしどうしても自分は欠点のかたまりで好きなところがないという人がいたら、「欠点の逆を言え」と指示する。(中略)  暗示ではない。反動形成でもない。事実である。ケチといっても最低1%はケチでない面があるはずである。口下手といっても切符を買ったりラーメンを注文したりする瞬間は「雄弁」なのである。せめて1%は雄弁である。      (出典 国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房) [ポイント]  自分は完璧でなければならないという無茶な思い込みから決別すると肩の荷がおりたようにラクになる。その自然体の状態が「自信」である。本出典はほかにも実践的かつ本質的な内容を持っており参考になる。 その9 ブラインド・ウォーク  上田紀行『トランスフォーメーション・ワークブック』(別冊宝島一四〇)では、ウォーク、人間カメラ、木に抱きつく、宝物探しなどを、自然の中で行う設定になっていて興味深い。この本は基本的には一人で自己変容するためにとくに編集されたもので、その面ではとくに効果的な内容になっている。  ぼくとしては、ブラインド・ウォークによって、さわやかに依存することを体得したい。なぜなら、ネットワーク・マインドのキー・コンセプトは「依存と自立の統一」だととらえているからである。 ●4 mito的授業シラバス  最近は大学教員もおちおちしていられなくなった。学生に提示するための年間の授業のシラバス(摘要)の提出を求められるのである。ぼくの授業スケジュールはほぼ次のとおりである。蛇足になるが、夏休み、冬休み、試験休み、学園祭などのため、社会教育やカルチャーセンターの通年講座より、実質講義回数が極端に少ない(半分に近い)のは、社会教育の世界から初めて大学教員になったときのぼくの最大の驚きだった。もちろん、大学の講義の単位の計算の上では、学生がその講義のために予習、復習をしているという前提があり、それも勘案されているのだが、実態はどうなのであろうか。 [講義型の場合]   学習テーマと教育目標    視聴VTR(10分〜30分程度)のテーマ 1 本授業の特徴と意義     「オープンスクールのビデオ」     (オリエンテーション=オープニングセール) (1) 本授業の特徴を理解する。 (2) 自分のよけいな思い込みに気づく。 (3) 新しい形態の学習への意欲をもつ。 2 認知構造、私語問題     「詩の教室(十人十色の答え)のビデオ」 (1) 社会教育のもつ魅力との自分なりの出会いをもつ。 (2) 本授業を受講している他者の存在に気づく。 (3) 自分が枠組をもっていることに気づく。 (4) 本授業に対して各自が主体的な見通しをもつ。 (5) 私語問題をラディカル(本質的)に解決する。 3 上手な教え方と話し方    「夫婦・親子の会話術のビデオ」 (1) 成人に対して教えることとは、どういうことか考える。 (2) 学習への不合理な思い込みが、主体的学習をいかに阻害しているか、気づく。 (3) 教育者の勝手な思い込みの犯罪性に気づき、自己の教授への不安を克服する。 4 人間の交流と3つの心    「子ども心を呼び起こす歌のビデオ」 (1) 人間交流において3つの心が働いていることを理解する。 (2) 自分を客観視する力を身につける。 (3) 人間を幸せにできる教育とはどんな教育か、自分の考え方をもつ。 5 青少年の非行と社会     「十代の少女の妊娠中絶のビデオ」 (1) 性の問題から自分の幸福について考える。 (2) 社会の非幸福的状況について考える。 (3) 少年(少女)に「幸福を配る」方法について考える。 6 性に関する大人の非主体性  「中高年の夫婦の性の貧困のビデオ」 (1) 性の問題から自分の将来の幸福の求め方について気づく。 (2) 大人の不幸な状況を客観的に認識する。 (3) 大人に「幸福を配る」ことについて自分の見解をもつ。 7 幸福追求の性教育      「家庭における性教育のビデオ」 (1) 少年期・青年期の発達課題と、その現代社会における問題に気づく。 (2) 性教育のあり方と、人間が幸福に生きることとの関係を知る。 (3) 家庭教育はどうあればよいか考える。 8 社会教育がめざす人間関係  「登校拒否をする理由についてのビデオ」 (1) 社会教育活動の原点としての「共育」の意味を知る。 (2) なぜヘッドシップではなくリーダーシップなのかに気づく。 (3) 個人をいかす集団・組織の運営がやり方によっては可能であることを知る。 9 ジェスチャーから学ぶもの  「公民館活動のプロモーションビデオ」 (1) 引っ込み思案を克服して、自由な子ども心を回復する。 (2) 他者の表現をサポートできる資質と能力を養う。 (3) 一人ひとりの個性あるひらめきが、組織にとっても重要であることに気づく。 10 さわやか自己主張と本当の自立「過労死で残された妻たちのビデオ」 (1) 自分自身、さわやかな自己主張ができているかどうか考えてみる。 (2) 自分自身や他者への信頼感をとりもどして、引っ込み思案を克服する。 (3) 他者の自己主張や本当の自立を援助するための留意点を知る。 11 ともに育つこと       「自分のために学ぶ教員研修のビデオ」 (1) 自己・他者否定を克服して「OKマインド」で生きる態度を身につける。 (2) 学習援助者として、「ともに育つ」という姿勢をもつ。 (3) 自分のために生きれるということが素晴らしいことであることを理解する。 12 支持的風土の集団形成    「シンナー依存症のためのフリースペースのビデオ」 (1) 他者やものごとに対してじょうずにさわやかに依存することの意義を知る。 (2) 自分も他人も信頼できる集団のあり方について理解する。 (3) そういう支持的風土の集団の形成を側面から援助する方法について考える。 13 ネットワーク型の問題提起  「引きこもる若者たちのビデオ」 (1) ネットワークの特徴について理解する。 (2) ネットワークの教育力について理解する。 (3) 社会教育行政がネットワーク型の援助を行うことの是非について考える。 14 少年教育の課題       「登校拒否児の自己解決過程のビデオ」 (1) 少年期の発達課題と、その現代社会における問題に気づく。 (2) この問題について、自分はどうだったのかについて考える。 (3) 少年教育はどうあればよいか考える。 15 青年教育の課題       「十代の少女の拒食・過食症のビデオ」 (1) 青年期の発達課題について理解する。 (2) 青年教育の課題について理解する。 (3) 新しい青年教育のあり方について考える。 16 カウンセラーによるお話   「カウンセリングの実際を示すビデオ」 (1) 青年の自己解決能力について理解を深める。 17 青少年の健全育成の課題   「障害者のための絵画教室のビデオ」 (1) 教育における専門性について考える。 (2) 学習の援助者はワン・オブ・ゼムであってはいけないということを理解する。 (3) 学習援助者としてのネットワーク(リゾーム)的な態度を習得する。 18 婦人教育の課題       「職業と子育ての両立に関するビデオ」 (1) 対象別社会教育の根拠と問題点について自分の意見をもつ。 (2) 両親教育が必要か、不必要か、について自分の意見をもつ。 (3) 婦人の問題や家族の問題から自立と依存のあり方を理解する。 19 成人教育の課題       「企業の社会貢献やボランティア活動のビデオ」 (1) ボランティア活動の教育的意義について理解する。 (2) 企業の教育的機能について理解する。 (3) 成人教育の可能性について気づく。 20 高齢者教育の課題      「高齢者・障害者福祉に関わる夫婦のビデオ」 (1) 高齢期の特徴について理解する。 (2) 高齢期の学習課題について理解する。 (3) なぜ人生のベテランである高齢者の学習を私たちが援助できるのか、考える。 21 エイズ教育の課題      「エイズ防止キャンペーンビデオ」 (1) エイズから我が身を守る主体性を身につける。 (2) 自らの内なる差別と偏見を克服して、主体性を自己管理できるようになる。 (3) 共感的理解の重要性について理解する。 22 人間と学習情報       「学習情報システムのプロモーションビデオ」 (1) 生涯学習の内実をいっそう主体化するため学習情報提供のあり方を考える。 (2) 市民が学習情報を獲得するにあたっての不幸な認知構造の問題点を知る。 (3) これからの学習情報提供・相談のあり方を考える。 23 ネットワーク型の新しい知  「自己主張訓練による成人ぜんそくの克服のビデオ」 (1) 自立と依存の統一について理解する。 (2) ネットワークにおける個性の発揮の可能性とその支援方策について理解する。 (3) 社会教育活動が「個の深み」をどう援助すべきか、自分の考えをまとめる。 24 これ以降の数回はまとめにあてる。その間、「学校週5日制」「子ども主体の授業方法」「高校中退者のリカレント教育」「経営コンサルタントと現場教師の討論」などのビデオの視聴も行う。 最終回 自然体授業(mitoは何も準備せずテーマも設定しないで、学生の意見、感想、質問などの発言を待つ) ※ そのほか、各回の授業において、出席ペーパーの読み上げとコメントや「ひとくちミニ知識」の解説を行う。 [演習型の場合] 1 第一印象ゲーム 2 銭まわし 3 ハンターゲーム 4 スクエアゲーム 5 ジェスチャーゲーム 6 拍手で合図 7 金魚鉢トレーニング 8 お願いトレーニング 9 自己受容トレーニング 10 ブラインド・ウォーク 11 スタンツ(寸劇)大会準備 12 スタンツ(寸劇)大会 13 自然体授業(前期の振り返り) 14 これ以降の十数回は、次のような演習を行う。  ○ 主体性の獲得を援助する教授法の実習  ○ 学園祭の参加のための企画と準備の実習  ○ 傾聴トレーニング ※ 金魚鉢トレーニングは前掲国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房参照。そのほかは、本書にてすでに解説。 [レポート課題]  授業の評価は原則として平常点(出席率)によるが、救済措置としてつぎのレポートを課すときがある。 タイプ1 自己の偶発的学習への気づき (1) 最近の数年間で、学校の授業以外で自分の勉強になったことを列挙する。(そのすべてについて時期、場所、関係者・関係機関、方法、内容を思い出せるかぎり列挙すること) (2) そのことによって、自分がどう気づき、どう成長したか述べる。(どんなにささいなことでもよい。一つひとつのことについて、たくさんの気づきがあると思われる) (3) 以上のことを踏まえて、学校の授業以外のそれらのことがらがなぜ自分に対して影響を与えたのか、自分の考えをまとめる。(それらのことがら自体の特徴や、その時の自分の関心や心構えなどのさまざまな条件を述べればよい) (4) このレポートを書くことによって、自分にとってどのようなことがプラスになったか、感想を述べる。(レポートを作成した自分をも振り返ることになる) (5) 分量としては四百字詰め原稿用紙7枚以上なら何枚でも可。ワープロの場合は、字詰めは自由。字数は上に準ずる。規定の字数に達していないレポートは認めない。家族や友人との関係、映画鑑賞など人間は社会のさまざまな所で「学習」しているはずである。 (6) 催し物のチラシなどの参考資料を添付してもよい。ただし、それらの参考資料 はレポートの枚数としてはカウントしない。(表紙や目次も枚数にはカウントしない) (7) プライバシーに関することなどは、固有名詞を省略するなどして、本人等の差し障りのない範囲内で記述するなり、記述を避けるなりすること。 タイプ2 批評精神の喚起 (1) 現在、人間が主体性を失っている状況とその克服を援助する方策のあり方、あるいは、主体性を自ら育んでいる状況とその促進を援助する方策のあり方について論説する。 (2) その際、西村美東士のいくつかの主張を評論しながら、自分の考え方を述べる。 (3) このレポートを書くことによって、自分がどのような批評精神を働かせたか、あるいはどのように批評精神を身につけたかを自己分析する。 (4) 分量としては四百字詰め原稿用紙5枚以上なら何枚でも可。ワープロの場合は、字詰めは自由。字数は上に準ずる。 表紙 裏(横書き) 顔写真・・・若いころの?写真なのでカットするか、差し替えするか。 〈筆者のプロフィール〉 西村美東士(にしむらみとし) 徳島大学大学開放実践センター助教授。学生や市民、社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。 生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報、インターネット活用などを研究中。著書に『生涯学習か・く・ろ・ん』『癒しの生涯学習』(ともに学文社)。徳島学遊塾運動など、社会教育現場にも盛んに関わって活動している。 奥付 西村美東士(にしむら・みとし)  1953年生、男。  徳島大学大学開放実践センター助教授。  そのほか、徳島市学遊塾運動アドバイザー、東京都青少年センター運営委員会会長、港区生涯学習推進計画策定協議会副会長など。 略歴 1976年 3月 東京大学教育学部教育行政学科(社会教育)卒業 1976年 4月 勤労青少年指導者大学講座第一期生 1977年 4月 東京都教育委員会社会教育主事補       (府中青年の家、武蔵野青年の家、社会教育主事室、計画課) 1986年 4月 国立社会教育研修所専門職員 1990年 4月 昭和音楽大学短期大学部助教授 1998年 4月 徳島大学大学開放実践センター助教授 図表一覧(図1−2、2−1、2−2については場所指定はありません) 1992.12.現在 図1−1 「あひるうさぎの図」(オビ図1を利用) 図1−2 「ワンダーランドな学習」        (出席ペーパーの秀逸マンガ表現その1) 図2−1 「授業中の私語対策に関するぼくの理想」        (出席ペーパーの秀逸マンガ表現その2) 図2−2 「人間のほんとうの信頼関係」        (出席ペーパーの秀逸マンガ表現その3) 図3−1 「学習相談への発展」           ・・・・学習情報の判断者・・・ ・・・・・・援 助 目 的・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 従来の日常的相談 ・    援助者    ・ ・  集合学習への動機づけ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           ・     ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・        ・ 第1の革新・・・個 人 の 主 体 的 学 習 の 重 視 と 尊 重 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           ・     ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 学習情報提供   ・    学習者    ・ ・  個人の主体性の発揮 ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           ・     ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・        ・ 第2の革新・・・個 人 の 主 体 性 の 欠 損 へ の 気 づ き ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           ・     ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 学習相談     ・    学習者    ・ ・  個人の主体性の獲得 ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 図3−2 「コンピュータとワーカーの仕事との関係」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 学習情報データベース ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     ・ ・・・・・・・・・・・・・・ 学習情報提供・・・・・・ ・コンピュータ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 学 ・ ・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・   ・ 学習相談※1・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 習 ・ ・ 学 習 情 報 ワ ー カ ー ・ ・   ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・   ・学習相談※2 ・ 者 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・・・・・・  (※1 コンピュータ利用への援助)  (※2 ネットワーク的援助) 図3−3 「ネットワークとしての学習相談」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・        ・           ・・受容 ・        ・           ・・繰り返し ・        ・ ・・共感的理解・・傾聴・・・・明確化 ・  援助者 ……・ ・   ・・支持   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・        ・ ・   ・・質問 ・ 自分のため→ ・        ・ ・・ストローク ・ ・        ・ ・・エンカウンター ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・              ・・・ カウンセリングマインド ・・・・・ 援助者自身の成長 ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 異質の交流↓・        ・ マス(集団)   →個別  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 一方向      →双方向  ・ ・ ・  学習相談……・ 指導      →援助    ・ ・ と も に 育 つ ・   ・ 特定事項の専門性 →教育の専門性・ ・ ・        ・ 定型性      →自由性 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 異質の交流↑・ ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・   ・相互の自発的意思 ・              ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・参入と撤退の自由 ・              ・・・ ネットワーク的援助 ・・・・・・・・・水平なギブ&テイク・              ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・自立と依存の統一 ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・        ・ 自己の主体性の欠損への気づき ・ ・ ・    ↓ ・ 自立的価値→ ・  学習者 ……・ 問 題 の 自 己 解 決 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・    ↓ ・        ・ 「 個 の 深 み 」 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 図4−1 「認知構造のパズル」  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・ 図4−1 「認知構造のパズル」(正解)  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・ 表4−1 「ペダゴジーとアンドラゴジーの比較」(M.ノールズ「成人学習者」1973年)   [理論的前提]     {ペダゴジー} {アンドラゴジー}     ○自己概念      依存性     増大する自律性                 dependency   self-directiveness     ○経験        役立たない   豊かな学習資源である     ○レディネス     生物学的発達  社会的役割の発達課題                社会的圧力     ○時間的展望     待時性     即時性     ○学習への導入    科目中心    課題中心   [学習場面の構成]   {ペダゴジー} {アンドラゴジー}     ○学習環境      権威志向    相互協力                フォーマル   インフォーマル                競争的     共働的                        他を尊重     ○計画立案      教師による   相互的な立案     ○ニーズの診断    教師による   相互的な自己診断     ○目標設定      教師による   相互的な協議     ○学習様式      科目の論理   レディネスに対応                内容単元    問題単元     ○学習活動      伝達の技術   実験的方法(探求)     ○評価        教師による   相互的なニーズの再診断                        相互的なプログラム測定 図4−2 「社会教育の方法」           −集会学習   ……講演会、音楽会、映写会     −集合学習−           −集団学習   ……学級・講座、団体活動、宿泊訓練  学習−           −媒体利用学習 ……印刷媒体、放送、通信教育     −個人学習−−施設利用学習 ……図書館、博物館、社会教育施設           −相談利用学習 ……情報サービス、学習相談 図4−3 「エゴグラム」 [CP]   [NP]   [A]   [FC]   [AC] 20----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 18----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 16----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 14----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 12----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 10----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 8----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 6----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 4----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 2----・------------・------------・------------・------------・----   ・      ・      ・      ・      ・ 0----・------------・------------・------------・------------・---- 表4−2 「人間の心の働き」  [CP]   [NP]   [A]    [FC]    [AC]   クリティカル ペアレント ナーサリー ペアレント アダルト フリー チャイルド アダプティッド チャイルド   批判的な親心 保護的な親心 大人の理性  自由な子ども心 適応する子ども心   がんこ親父  マリアさま  コンピュータ 自由人     いい子ちゃん            (下段は、それぞれを象徴的に呼んだmitoの言葉である) 図4−4 「第一印象ゲーム」                 1  2  3  4  5  6  あ                                   な              氏                    た              名 問1 好きな季節    印象   イ 春   ロ 夏       本人   ハ 秋   ニ 冬 問2 好きなこと    印象   イ スポーツ  ロ 文化・芸術   本人 ハ 社交 ニ その他 問3 食べ物の好み   印象   イ 和食 ロ 中華料理    本人 ハ 洋食 ニ 好みはない 問4 行きたい外国   印象    (自由記述)     本人 問5 好きな色     印象    (自由記述)     本人           合計得点 図4−5 「ハンターゲームマス目用紙」    A B C D E F G H I J    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・