安藤喜久雄・児玉幹夫編「人生の社会学」学文社               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 ●第4章 思春期の悩み ●第1節 若者たちにとっての学校 ●(1) 学校教育への恨み  本章と次章においては、私の授業のなかでの学生の書いた「出席ペーパー」をなるべくたくさん紹介しながら考えていきたい。ここでいう「出席ペーパー」とは、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くものであり、それに対する私のコメントは翌週の授業の冒頭に行われる。  また、ここに挙げた「S大・S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事の課程を学ぶ大学生と短大生であり、「T大T部・U部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の1部学生と社会人入学者を含む2部学生である。そして、mito以下の内容は、それぞれの出席ペーパーについて私(自称mito)がコメントするために、授業までに準備しておいたメモである。 S短大教育社会学  今までの高校教育がどうだったか話し合ってください、ということを先生が言ったのですが、私にとってはあんまり意味がなかったような生活でして、象っていうのは、とっても合っていると思います(筆者注 高校のイメージについて、あるグループから、象であるという発表があった)。 S短大教育社会学  高校のとき、職員室や体育教官室etcの生ゴミ片付けと食器洗いが嫌いだった!何で先生たちの出した生ゴミを私たちが片付けるのー?くさいポリバケツを洗ったり、お弁当箱を洗わされたこともあった。 S短大教育社会学  私にとっての学校教育。プレッシャーは、先生の差別、テストの敵がい心、おしつけ。学校教育のなかで一番いやだったのが、比較されることだった。幼稚園2年、小学校6年、中学校3年、高校3年、そして大学、の合計15年も、いやなのに通い続けている私は何なのでしょうか。 T大2部社会教育概論  最近、ふと思うことがある。私は大学に何をしに来たのか、と。たしかに教員の資格を取得すれば、職場での私の立場は有利になる。しかし、私が本当に知りたかったことは、教師が生徒にどこまで干渉していいのか、教師が自分の尺度で生徒を評価していいのか、などであった。  たとえば、入試を例にとっても、学力が基準に達していない、生活面に問題がある、などの理由で合否を決定する。もしかしたら、この合否で、その人の人生が左右されるかもしれないのに、わりと簡単に合否を分けていく。そして、その責任は、すべて受験生にある。合否を決定する側の権利(ちょっと大げさ)とは、何なのだろうか。同じ人間なのに、切り捨てる側と切り捨てられる側の差があるのは、なぜなのだろうか。  また、生活指導という名のもと、言いたくもない小言を生徒に言わなければならない。その基準は自分の考えている「社会一般で言われていること」である。時には、きついこと、自分が言われたら自分でもかなり傷つくだろうと思われる言葉で叱りつけてみたりする。このようなことを教師は生徒にしてよいのだろうか。  それらの答えは未だに見つからない。  このように、自らの受けてきた学校教育への怨恨には大きなものがある。しかし、それが本人の深みに昇華されているかというと、残念ながらそうとばかりはいえない。反面教師だけでは、人間は成長できないということであろう。オープン・エデュケーションなどによって、オルターナティブな(別の)教育も存在しうるのだということを認識できるチャンスを提供しないと、本人は、制度化されたものへの単純な全否定や敗北主義からいつまでたっても抜け出せないことになる。  もちろん、つぎのような気づきもある。 S短大教育社会学  教育実習に行って、2週間を「先生」と呼ばれてすごしたわけですが、自分が中学生だった頃と、「先生」と呼ばれた2週間とでは、学校の見える部分が違って、毎日が新鮮でした。  たとえば、先生方が生徒のことを一人ひとり、本当に真剣に考えた上で行動していることがわかりました。自分が中学時代に誤解していた先生の本当の姿が見えたときには(その先生はもう実習校にはいませんでしたが)、自分のおろかさと先生への申しわけなさに涙が出ました。それから、人に物を教えるということを通して、新たな自分の欠点なども見えてきて、自分を見つめなおすいいチャンスになりました。  しかし、たとえばオルターナティブとしてのオープン・エデュケーションが形式的に実施されただけでは問題が解決されるわけではない。 S大教育社会学  私の出身校は、今までの日本の学校にありがちだった四角い教室を連結しただけのタイプから、変化を持たせようとして、オープンスペースやベンチを配置したり、テラスに水を通して下に花を植えたり、プールに噴水を合体させたりした公立のモデル校でした。しかし、教室で机にすわっていると、突然テラスから水が出てビショぬれになったり、プールで泳いでいると、急に噴水に切り替わり、空高く吹き上げられてしまったりと、問題が多く、結局、皆、教室から一歩も出なくなってしまい、何のためのモデル校だかわからなくなりました。視聴覚機器も最先端の物をそろえていたようですが、使える先生がおらず、ソフトもあまり充実していなかったため、視聴覚教室は裏ビデオの鑑賞室となりました。  そこで、もっと本質に迫って考えるためには、次のような素材が有益である。それは、登校拒否(学校不登校)に関するとらえ方である。登校拒否をする子どもたちについて、思春期を経験した若者たちは、どうとらえているのだろうか。そこには、その若者自身にとって学校教育が何だったのかがよく表れてくる。 T大2部社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)なぜ、学校を休んではいけないのだろうか。大人が会社を休む時、会社をやめる時、または転職する時、説明ができますか。それなのに、ただ「休みたいから」では、学校は休めないのです。 T大2部社会教育概論  (登校拒否に関するルポ番組を見て)私は登校拒否の人たちの理由を聞いていると、とても嫌な思いがする。「私のこと、誰もわかってくれないっ」なんて言って。しかも、自分は絶対正しいといった顔でテレビカメラに向かってまくしたてる。私は言いたい。ふざけんな。校則が嫌いだの、学力が追いつかないだの、校風が合わないだの、もうー。 ●(2) 勤勉主義のごまかし  「がんばれ」とか「がんばって」という言葉は、私にはどうしてもひっかかる。不合理な精神主義の臭いを感じるからである。しかし、私がそう言うと、反発する学生も多い。 T大U部社会教育概論  前回と今回、「頑張る」という言葉について(あまりよい言葉でないと)話していましたね。けれども、私は頑張るという姿勢は好きです。その言葉のもたらす意味はどうなのかわからないけど、頑張りぬいていく姿勢はすごいと思う。木に例えるなら、秋田杉のように空に向かってまっすぐに育っていく。そんなふうに頑張って頑張って生きていく、頑張りやさん。両親や友人や周囲の人たちに愛されて、自分自身もせいいっぱいの真心を返す努力をする。そんな頑張りやさんに私はひかれています。 mito 本人が頑張っているときは、それでよい。でも、たとえば登校拒否や拒食症の人は、頑張りたくても、つまり、学校に行きたくても、食べたくても、それができないのだ。そういう人に対して「頑張る」は禁句である。この言葉には「共感」がないのである。  「頑張ってください」という言葉は、あまり目上の人には言わない言葉である。また、少なくとも、頑張ろうとしても頑張れない精神的な問題をもつ人に「頑張って」という言葉は禁句である。なぜなら、そう言われた人は「やっぱりわかってもらえなかった」という気持ちをもってしまうからである。私は、そもそも、「頑張る」という言葉に嘘があると考えている。「頑張る」という言葉は、オルターナティブ(もうひとつの)な価値を無理に否定して、自分が自分をだまして突き進もうとする言葉だと思うのである。日本語にはもっと素直な言葉、一所懸命や一生懸命などがあるはずだ。  もちろん、運動会で頑張って走れている人に向かって「頑張れ」と応援することは、とくに問題にはならない。問題になるのは、何か深刻な葛藤があった場合に、本人または関係者がその問題と対面することを避けようとしてこの言葉が使われるときである。 T大U部社会教育概論  ”頑張れ”という言葉に、自分自身に、そしてその言葉を私に投げかけてくれる人たちに、とても怒りを感じたことがある。ナースの仕事をしていて、以前、よく、治療や痛みで苦しんでいる患者さんに「頑張ってくださいね」などと声をかけていた自分がとても情けなかった。  私が患者になって感じたこと、頑張ってね!という声を感じ、辛く苦しい時に思ったこと、それは、「私だって頑張って病気を治せるものなら治したいわよ。だけど、今は何をどうやって頑張っていいのかわからない。簡単に、頑張れ!っていうけれど、できないことだってあるのよっ」ということ。そして、もしかしたら、”頑張れ”という言葉には、”がまんしてね”っていう意味が含まれるのかもしれない・・・、そう思った。  今回の授業の中でも、頑張りたくても頑張れない人のそのつらい気持ちに共感することが大切、という意味の言葉があったが、人の心に触れ共感することで、きっと自分自身の心の成長にもつながり、言葉もたんなる言葉で終わるのではなく、意味のあるいきいきしたものへと変わっていくのかもしれませんね。(全文) mito 「お大事に」といういい言葉があるのだ。そして、少しでも自分のしてあげられることがあるなら、という気持ちを他人に対して持っていさえすれば、「頑張れ」などと結論的なことを言う前に相手から聞くべきことはたくさんあるはずだ。 S短大教育社会学  「頑張れ」という言葉について、今日、先生が話していたこと、納得させられました。そんなささいな言葉なので、今まで深く考えたこともありませんでした。  私はちょっとしたことでも結構悩む方で(とくに人間関係など)、そのことをよく彼氏に話すんです。そうすると彼氏はよく「頑張れよ」と言うんです。”よく”というより、それしか言わないんです。私は、先生が言うように、突き放された感じて、すごくイヤな気分でした。  じつは、現代社会のなかで、頑張ることに最上の価値を置く勤勉主義の普及に貢献してきたもっとも大きな要素のひとつが学校教育だったといえるだろう。しかし、学校教育には、もうひとつの大切な役割があるはずである。個人の幸福追求への援助であり、幸福追求に不可欠な主体的な学習能力の育成である。第一、今まで人びとに勤勉さを要求してきた社会自体が、ガンバリズムによる大人たちの不幸(過労死、夫婦の不和)と子どもたちの不幸(受験競争、自殺)をどうにかしなければならないと気づき始めている時代なのである。  ところが、学校教育にマイナスイメージを抱いている学生までもが、勤勉主義のしがらみから抜け出せないでいる。もっと頑張らなくてはいけない、または、頑張れない自分が悪い、と自分に言い聞かせることによって、自らの主体的な思考で自らの問題について判断したり言葉や行動を選択したりすることから逃げようとしているのである。こんなことでは、自分をだましているとしか言いようがない。 ●第2節 真実の追求に対する敗北主義 ●(1) 学習に対する強迫観念  勤勉主義は、自分が学習したいから学習したいことを学習する、という主体的な態度にはむすびつかない。学習者、とくに学生や研修受講者などには、講義は黙って聞いているものという思い込みが強い。静かにすること自体は、それはそれでかまわないのだが、黙って聞いているだけでそのまま有益な学習になるという態度は、過度に(適度なら問題はない)依存的な学習態度としてとらえるべきであろう。  また、正答の与えられない問題を考えさせられたり、学習者の思考が混乱するような話題の展開をしたり、学習者側が何かを発表させられたりすることを、いやがったり、まともな講義(学習)ではないと批判したりする学習者もいる。  これらは、すべて「学習とはこうあるものだ」という思い込みを、本人が意識しないままに固定化させてしまった結果であると考えられる。そこでとらえられている学習の姿も、本人の主体的な思考作用をあまり重視しない受動的な行為としての「学習」である。  「学習とはこうあるものだ」という思い込みが、強迫観念のように本人の学習を縛っているのである。しかも、その思い込み自体が、根拠のない間違ったものである。なぜなら、本来、学習とは個人的事象だからである。 T大2部社会教育概論  定番化した授業に慣れきった自分としては、そのイメージを崩して、今日の授業(ハドリング=バズ討議のようなもの)のように、即席のグループの中で自分をさらけだして、自分に閉じ込もってもいられない事態となると、気分的に良くない状態になる。  ディベートやら、討論やら、アメリカから輸入した授業形態の効用は何なのでしょうか。沈黙は金なり、ということわざは、昔のことなのか。あえて自分をさらけだす必要はないのではないか。余計なことをべらべらしゃべるなんて・・・。 T大2部社会教育概論  (来学期の希望について)グループワーク型、大反対!他の授業でもやったことがあるが、とにかく、やる気のある者がバカをみる。やらない人間は、ずるがしこく点数や単位のみに重点をおいて、話し合いにも出てこない。やれと言われたこともやってこないのが、現代の若者の特徴である。 T大2部社会教育概論  (来学期の希望について)学生の自主性、主体的積極性を前提とするのは、避けた方がいいと思います。そんなものは、この教室の中にはありません。みんな、そろいもそろってマヌケです(半分くらいは?)。  (インタビュー・ダイアローグで)少なくとも僕は、遠くない将来には、こんな場合、しょーもないなあと思いつつも、先生につき合って質問の一つでもできる人間になりたい。 T大2部社会教育概論  後期もそろそろ終わろうとしている今日になっても、今まで自分は何を学んできたのか。というより、何も学べなかったのではないか、という気持ちの方が強いような。何を学ぼうとしていたのかが、よくわからず、ヘンな気持ち。ヘンな気持ちというのは、今の気持ちをうまく表現できないけど、すっきりはっきりしないという感じ。  今まで学校の授業といえば、講義形式か、テーマを与えられたグループワークということに慣れ親しんできた。大学に来る前の看護学校、助産婦学校では、どちらかというと、職業訓練的な色彩が強く、先輩から知識を与えられるって感じだった。それに、今までの大学の授業も先生が一方的に話し、私は聞く人だった。  こんな私にとって、西村先生の授業は、えっ!何!これ!って感じで、拒否的反応があったのかもしれません。私はステレオタイプな考え方が強いので、なかなか自分に受け入れられなくて、今に至っているようです(つらいけど、今後にはプラスになるかも)。  もっと早期に先生と話し合うチャンスを持っていたら、違う姿勢で授業に参加できたのに、と思います。 T大2部社会教育概論  この1年間、授業を受けていて感じたことは、はっきり言って時間の無駄な授業に感じた。本音で書いていますが、評価は下げないでください。まじめに授業を受けても、とくに頭の中に残っていることは、ほとんど何もなかったような気がします。しかし、逆の見方から考えてみると、まじめに勉学している人の場合、このような息抜きの授業も大切ではないかと思う。  情的にはとても深まったような気がします。しかし、知的には何も残らなかったような気がします。しかし、人間本来の情的な大切さをこれから知っていくためにも、この授業はよかったのかもしれない。  自己の依存的学習態度を見直す機会に接すれば、苦しみながらもそれなりに自らの認知構造を変容させる可能性をもっている。そのための機会が、一つには講義内容の改革でなければならないし、出席ペーパーなどのシステムの導入なのでもある。  本人の主体的な学習(全生活の中での)と成長なくしては、「個の深み」の獲得は期待できない。 T大2部社会教育概論  かつて私は○○(他大学の高名な教授)の講義にもぐりで行ったことがある。また、その○○が著する○○シリーズも何冊か読んでいる。そう、2年前のことである。あのころは熱狂的な○○ファンであったが、今は違う。彼の思想には限界がある。 T大2部社会教育概論  1年間ありがとうございました。テスト、テストで、悲しいかな訓練されてきた私にとって、先生の講義は、少しこわいナ、なんて思いながらの1年間でした。本当に悲しいかな、私の学校生活は、少なくとも高校までは、試される生活だったんだなあ、と思ってしまう。悲しい!人材として見られることを、甘んじて受け入れてきたんだなあ。でも、気づいた今は、改善していける。1人の人格として見られる私になろう!  先生の1年間の講義は、やっぱり私の受け入れ能力をオーバーしていた所がありましたが、選択することはできました。慣れるまで、やっぱり統一性を求めたりして、パニック起こしたりしたこともあったけど。  学生は、最初は、真実を追求したり、自分をよりよく変えたりしようとして、学習しているわけではないのである。これは、学校・家庭・社会によって思春期前後に形成された、学習への構えであるといえよう。しかし、学校教育や社会教育という同じ「教育」によって、その構えは、変わりうる。 ●(2) 学生の敗北主義に対する教師のエンカウンター  学生が学習に対して主体的になれない場合、社会や教育や他人のせいにするなどして、そういう自分の態度を認めることから逃避しようとしがちである。それに対して教師は真正面からぶつからなければならない。  ここでは、おもに、私の授業への評価としてCをつけた白紙の出席ペーパーを提出したケースと、3回で単位が取れるのだからもう出席しないと出席ペーパーで宣言したケースの2つを取り上げる。 T大U部社会教育概論  前回、この講義を聞かずに”C”の評価をつけた者です。Cをつけた理由は、「どうせ、こんな出席ペーパーなんて言ったところで、ろくに読みもしないんだろう」という考えにありました。軽い口調で学生に自分の授業への評価を求める・・・、いかにも今風のやり方になんとなく反発を覚えたのです。今まで、そういった人間、とくに教師にはろくな人間がいませんでしたから。  今回、「白紙でのC評価がくやしい」と言われて驚きました。そんなところまで見ていたなんて・・・。前回のC評価は撤回させていただきます。前回、僕はロクに講義を聞いていませんから。そういうのはアンフェアーですからね。次回からは、講義を聞いたときだけ評価することにします。今度は評価の理由も書きます。 mito 心を開いてストロークしてよかった。 T大U部社会教育概論  先生が一所懸命授業しているのは伝わります。しかし、少数意見はそれなりに大事にした方がいいと思います。私たち生徒は、単位のためには、好きじゃない教科や先生におべっかというか顔色をうかがうことは、正直言ってあると思います。だから、先生に対してプラスの評価をする人がかならずしもよい生徒だとはかぎりませんよね。先生ぐらいきちんとした人なら、あまりそのことにこだわるのはもったいないと思います。謙虚な気持ちを大切にした楽しい授業、期待してます。(評価はA) mito AかせいぜいBの上だと思っているから、これだけ学生にぶつけている。 S短大教育社会学  みとちゃんって自信過剰〜!と思いました。でも、その自信が良い方向で生かされているので良いと思った。Cの評価の話で、その学生がみとちゃんを解ってくれたことを話しているとき、みとちゃんがとてもうれしそうで、見ていてなんだかかわいかったです。 mito 教師は自分の授業を創る生産者であるとともに、「いい商品ですよ」と勧めるセールスマンでもあるべきだ。 T大U部社会教育概論  前回の授業の時、白紙のC評価に対して「僕はほとんどすべての学生からAをもらえる自信がある」ということを言われていましたね。私はその言葉にとてもがっかりしました。教師が自らの授業方針に対して自信をもって進めていくことは大切だと思いますし、教師が自信のない態度で授業に臨んだら、学生もきっと戸惑うことでしょう。しかし、先生自身が自分の授業に対しての評価をAだと口に出して言うのはおかしいと思いますし、おしつけとして感じます。  先生の授業の進め方が絶対的に正しく、学生にとって良いものだとは今は思いません・・・、と言うより、今の私にはわかりません。1年間授業を受け、最後に授業を受けた自分に対しての評価を出してみようと思っています。それが先生に対しての評価と一致するかどうかわかりませんが・・・。でも、毎回、この授業の中でハッとさせられたり、考えさせられたり、気づくことがあったりして、そういう意味では楽しみな授業です。 mito おしつけだったら授業評価など要求しない。学習者主体の評価が必要。そういう自分の考え方を明らかにしただけである。このようにすることによって、ほんとうは傲慢なことを考えているくせに、表面は変に謙遜ばかりしている教育者像というものを打破したい。 T大U部社会教育概論  先生には自分が共感できること以外は批判する傾向があるようですね。聞いててあまり良い気分じゃないです。別に何でもいいですけど。(中略)  悪影響を社会に及ぼすような性交、それにまつわる営業はキッパリとナイほうがいいと思う。私がどう言ったところで何も変わりませんが。そう思っている人は少なくないと思います。 mito いい気分にさせてあげるために教育があるのではない。学生が不快であったことなどは、僕の授業への批判にはならない。守られることを考えるのではなく、もっと対等に勝負してきてほしい。もちろん、受けて立つ。相談事業を行っているのではないのだ。 mito 別に何でもいいですけど、や、私がどう言ったところで何も変わりませんが、というのは敗北主義の表れだ。自分が思っていることが通らないからどうこうと言う前に、その自分の思っていることがそんなにたいしたことなのかどうか見つめた方がよい。 mito 私たちがすべきことは、これはないほうがいいとそれぞれが勝手に判断することではなくて、そういう現代社会の人間たちの生きる主体性の喪失という不幸とその自己解決への援助の方策の可能性を厳しく見つめることなのだ。 T大T部社会教育計画  今日でこの授業は3度目。これで先生は単位が取れるとおっしゃっているのですから、これからは多分出なくなると思います。  (差別の話・・・中略)ナチスドイツのヒットラーはユダヤ人を迫害したときにユダヤ人を下等な人種だという理由をつけていたが、もしかしたら差別をする人はそのような考えを持っているのだろうか。  さっき出なくなるだろうと書きましたが、この問題について先生もしくはS音大、T大の人はどう考えているのかを知りたいので、次回は出席しようと考えています。なるべく出ようと思っていますが、何かの理由で休んだらすいません。 mito 3回出たからもう出ない、と言われたのは3年目にして初めてである。でも、正直に書いてくれてよかった。すべての学生に意味ある言葉を発し続けられるのでは、という僕の自信または万能感が崩れし動揺もあったが、それを回復させるプロセスもあった。ほかの学生などにも僕の授業についての感想を聞いてまわったのだ。 mito もしかしたらこの学生は僕の授業をあまり聞いていないで発言したのかもしれないし、あるいは最初から僕なんかをはっきり超えた主体性をもった人間なのかもしれない。それはわからないが、自分の原初的な問題意識に対する反応を面識のない多数の学生に期待し、しかも「次回だけは」出席するという態度には、真実の追究に対する傲慢さを感じる。差別に関する考察も、本人の実存から発した深い訴えになっているとはいいがたい。もう少しじっくりとらえていくべきものではないか。 mito 差別を封建時代のたんなる残りかすとして片付けるわけにはいかない。差別には、制度的差別と心理的差別(偏見)の二つがあり、とくに後者は私たちの主体性の問題が問われていて、この授業と深く関わっている。それは、自己の内なる差別意識を問え、批判の刃(やいば)を自己に向けよ、ということであり、この人の話のさらに次の段階の授業を僕は進めているつもりだ。対等な人間関係から逃げようとする権威主義への自分自身の依存を見つめてほしい。 T大T部社会教育計画  前回、「差別が・・・」というペーパーを出した者です。私のあんなひどいものに対して、先生が一生懸命にコメントしてくださっている姿に感動しました。これから地方公務員になり社会教育主事になろうと思っている人間(私のことです)がこんなことじゃだめですね。あんな教師批判のようなコメントを出したら、普通はにらまれるのに、怒りを抑え込んでコメントしてくれている姿に感動しました。ただ、自己弁護になるかもしれませんが、「3回出たら」という人は私の他にもいると思います。ただその人たちはそう書かないだけなのかもしれない、ということは言いたいと思います。  久しぶりに本当にためになる授業に出会えたような気がします。3回出たら、という言葉は取り消します。就職活動中ですが、できるだけこの授業は出ようと思います。こんな良い授業のある教育学科はうらやましいような感じもしました。  あの文章は、途中からかなり感情が入ってしまったので、あんなひどいものになってしまいました。「差別」という問題はかなり深いものがあると思うので、もう一度じっくり考えたいと思います。そして、これに対する考えがもう少し自分でまとまったら、また、ここに書きたいと思います。 T大T部社会教育計画  私を含めて、今の学生で大学の授業を能動的に受けている人はごくわずかだと思う。大学の授業に大きな期待をしていないのが本当ではないだろうか。大学に入るために勉強をし続けて、今やっと解放されたのに、また勉強をする気になどなれないし、自分から学ぶ姿勢というものも持っていないと思う。私たちの世代は、学歴社会という社会に勉強させられてきたように思われる。だから大学は、授業に参加する場ではなく、卒業に必要な単位だけとってあとは遊ぶ場としている人が大多数だと思う。それにカリキュラムが決まっていて、自分が興味がない授業でもとらなくてはならなかったり、とりたくてもとれなかったりして、つまらない授業でも1時間半、教室に座り続けなければならない。そんな時、頭の中では違うことを考えているんだと思う(私はそうだから)。  自分がきちんと聞いていないのもいけないが、先生によっては黙々と1人で話をしているだけの人もいる。大学は、学生と教師の距離が一番遠い所なのではないだろうか。mitoちゃんの授業は、その点、私たちとの距離が近くて教師の一方的なものではなく、私たちの意見に反応してくれている。でも、点を取るための詰め込み教育を受けてきた私たちの世代には、そういう授業への参加の仕方がわからないんだと思う。 mito 大学の授業に主体的に取り組めないという学生の気持ちは、僕も学生時代はそうだったから、すごくよくわかる。でも、自主ゼミを開いたり、よその授業にもぐったりすれば、その問題は自分の力で解決できるのではないか。 T大T部社会教育計画  美東さんは、僕が好きなタイプの一人です。教科書には書いていないような人生にとって大切なことを教えてくれるから・・・。でも、美東さんを見ていると、何か下心が感じられてしまうのです。学生に好かれたいという下心です。先生に挫折感を与えたその学生は、僕と同じように感じたのではないでしょうか。だから先生の心を試したのではないでしょうか。 mito 教師が学生により好かれたいと思うのは当然だと思うが、このペーパーが言いたいのは、僕が学生からのストロークを「卑屈に」求めているということか。何気ない仕草でそう感じられてしまうのだったら仕方ない。しかし、たとえば出席3回で単位を出すということに対してだったらそれは違う。授業を真剣勝負としてとらえる僕の考え方の表れなのだ。そして、そこではかならずしもいつも僕が勝つとはかぎらないというだけの話だ。 T大T部社会教育計画  いろいろと挑戦していつも前向きに生きている強烈な意志のようなものをmitoから感じます。それに比べて学生側はずっとだらけていると思います。私はできる限り真剣に聞いているつもりですが、時々、聞いていないこともあります。すみません。でも、ただ、座って時間のたつのを待っているだけの授業を、今まで20年間近く受け続けてきた人間にとって、積極的に授業に出ることは非常に難しいことだと思うのです。 mito そりゃあそうだ。すべての授業に集中し続ける、なんて無理な話だ。教える側が「有利」であるに決まっているのだ。教師はその自覚をもつ必要があるだろう。 T大U部社会教育概論  自己マン(自己満足)はつかれるのでやめてください。自己葛藤は人に話すものではないと思うのですが。 mito 不特定多数に言うべき言葉か、という問題はある。しかし、自分が自分の弱味をただ単にみんなにさらしただけだとは思わない。自己葛藤を含めた「強く闘う姿」の一つをみんなに提示したとは考えられないか。教師は、最後には、学生に乗り越えてもらえばよい立場なのだ。 mito 自己葛藤を話したのは「早くこの俺を乗り越えてみろよ」という意味があったのだと思う。それが自己満足かどうかなどと気にしていたら、コミュニケーションはできない。アヒルウサギの図を見て、ぼくがそれをアヒルだと言って「自己満足」しているとしたら、学生は「違う、ウサギだ」と批判してくれればよいのだ。むしろ、自分のことを「そもそも守られるべき存在なのに疲れてしまう」とか「他人から気持ちよくしてもらうべき存在なのにそうなっていない」とかしか言えない人こそ、自己満足的な生き方だとして批判されるべきではないか。 mito 僕を乗り越える事例としては、「先生はずるい。結局、考えれば当り前のことしか言わないのだから」と言って、恋や趣味に走っていった学生がいる。単位うんぬんとは決定的に違う生き方といえる。それまでは、くらいついてきてほしい。 T大U部社会教育概論  mitoちゃんは、自分はこういう人間なんだということを、みんなに同じように認めてほしいと思っていらっしゃるのでしょうか? そんな風に聞こえてしまいます。 mito 本人が自分の不幸に気づかないかぎり、その問題を他人が解決してあげることなどできない。 mito 過去と他人は変えられない。しかし、他者がみずから行う「人づくり」を支援することはできる。それが教育(社会教育)ではないか。 mito 教師として、みんなに認めてもらえるよう努力はしている。しかし、「同じように」認められるわけはないことはわかっている。それは当り前のことであって、ペーパーの意図がよくわからない。最初からふれあえないと判断して切ってしまった方がよい人もいる、ということだろうか。そうだとしたら、それは敗北主義であり、僕はいやだ。僕は、教師としての自分の方がすべての学生にわかってもらうための最大限の努力さえしていれば、それでよいと思っている。 ●第3節 恋愛・セックスに対する敗北主義 ●(1) 身勝手な恋愛観  今まで家庭や社会に守られることしかさせてもらえず、「自分は守られ続けなければいけない」という強迫観念に縛られている現代青少年にとって、もっとも大きな危機は恋愛である。なぜなら、相手もそう思っているからである。かといって、結婚はともかく、恋愛まで人生から放棄する気にはさすがになれないようだ。そこで、「世界一かわいい女の子」と「世界一かっこいい男の子」が社会から突出した形で交際するというファッショナブルで身勝手な恋愛観が作られる。 S短大教育社会学  私は男性について疑問がある。mitoちゃんは結婚していて、もう子どももいるそうですが、もちろん奥さんを愛していますよね? それなのに厚木駅あたりでS大の子をナンパしたり、ほかの女性を見て美しいと思ったりするんですか? 奥さんだけを「きれいだ、お前が日本一だ」なんて思わないんですか。  私には彼がいますが、私はやっぱり彼を日本一だと思うし、他の男性を見ても何とも思いません。私の友だちも、私と同じことを言っていました。  私は、彼女や奥さんという特定の女性がいても、他の女性となれなれしくしたり特定の関係になったりする男性の心がわかりません。やはり、男とはそういう生き物なんでしょうか。(全文) mito ナンパをしているのではない。予約した電車が来るまでの時間、通りがかりの知り合いの学生を誘ってお茶を飲んでいるだけだ。 mito ほかの女性を見て美しいと思ったらいけないのか。あなたにとって「いい男」とは彼しかいないのか。だったら、それはただの従属関係だ。自分がすべてを捧げているからといって、相手にもそれを強要するのは、相手にとっては迷惑でしかない。どんな相手にもその人の生き方に対して自分の期待を押し付けることはできないのだ。ありうるとすれば、せいぜい「ラストダンスは私と」という言葉ぐらいであろう。 mito 逆にもしあなたの前に、もっと素敵な彼氏が表れたら、平気で乗り移ってしまうつもりなのか。外見の上での美しいとかかっこいいとかいうのは、1週間であきてしまうはずだ。本当の恋愛はファッションではない。他人と比べてあの人がいいと言ってつきあうのは、エセ恋愛である。「いい男」は世の中にたくさんいる。けれども、二人のメモリー(プロセス)だけは二人だけのものだ。だからこそ、恋愛や結婚は、「この人だけ」なのだ。 T大T部社会教育計画  先生、(彼氏がいないので時々淋しさを感じるというペーパーに対しての)コメント、どうもありがとうございました。自分のが読まれるとは思いませんでした。というより、読まれるのが恥ずかしくて”コメント希望”なんて書いたことがなかったのですが、とても嬉しかったです。本当に泣けてきました。私にとっては意味のある価値ある言葉でした。「深い」って言ってもらえたことで、自分の自信が少し浮上しました。(中略)  今の私にはとても”いい男が恋人になる”なんて考えられませんけど、”いい女になりたい”とは思います。 mito ファッションとしての恋愛の流行を主体的に拒絶せよ。人間どうしが心を開いてつき合える時間と空間を創り出せ。 T大T部社会教育計画  先生は(彼氏がいないので時々淋しさを感じるというペーパーに対して)「たくさんの男と知り合っていい女になって、一番いい男を選べば良い」と言いますが、どういうことでしょうか。こういう悩みを持っている人は、「もっとたくさんの中から選びたい」と思っているから彼氏ができないのではないですか?  人間なんてどん欲になってしまったらキリがないと思うし、人間は妥協の産物であるとも思うのです。妥協の中だからこそ喜びも悲しみも生まれてくるのではないですか。人間は妥協する勇気を持つことが時には必要なのだと私は思います。(中略)  私は妥協の中でも十分幸せです。なぜなら私は勇気を持って妥協しているからです。 mito 妥協ではなく基本的信頼なのではないか。そしてそれは、「たくさんのいい男と知り合いになる」という僕の意見と同じではないか。問題は、その途中の「おたがいに心を開いて異性と交流する」という段階を、あなたが恋愛だとして自分をごまかそうとしているところにあるのではないか。そういう恋愛は、たんなるファッションであるし、幻想でもある。また、妥協の産物として恋人を選んでしまうのでは、相手の男にあまりにも失礼なのではないかと僕は思う。 T大T部社会教育計画  何といえばいいのかわからないけど、今日の話はあまり快くありません。(mitoの)ひとりよがりのような気がするんですけど。「一番美人」とか「一番かっこいい」っていうのは、その他大勢にとってじゃなくて、「自分にとっての」だと思う。先生の言葉には反対! mito では「自分にとって」もっとかっこいい男性が表れたらどうするつもりなんですか。「してもらうこと」しかしらない現代人の不幸を克服して、「してあげる」こともできる自立した「いい女」のさわやかな依存のしかたを身につけてほしい。  若者の身勝手な恋愛観は、仮説的ではあるが、自己実現を一度は求めたが挫折してあきらめたそのあとの敗北の見返りのようなつもりで信じ込まれているようだ。競争社会の悲しみを味わってしまったお姫様が、こんなにかわいそうな自分を守ってくれるすてきな王子様が白馬に乗って現れないわけがない、と無理に自分に言い聞かせているように思えるのである。 ●(2) 対等な人間関係の中での性的興奮や快感を受容できない  セクハラの問題は、対等な人間どうしという立場では人間関係をもてなくなった人が、地位や暴力を利用して性的関係を味わおうとする、現代人の一種のあがき、または、生きる主体性の喪失の象徴的事象として理解できる。そこまで論及しないで、性的興奮自体を悪いこととして排除しようとしたりする潔癖主義や、逆に仕方のないこととして黙認する反理性主義は、結局、敗北主義に陥るしかない。  セックスが対等で人間的なふれ合いのなかでのギブ・アンド・テイクの楽しい行為であることを、じつは、若者たちはなかなか認めようとしない。 S短大教育社会学  私は、先生が(街頭で若い女性のスカートが風でめくれた)パンツのお話をなさった時は、びっくりでした。なぜっていうと、先生はそういうことを考えないものだとも思わなかったのですが、なんかびっくりしました。先生は「やっぱり見たい」とかおっしゃっていましたが、女の私には本当に男性の気持ちはわかりません。女の私から言うのも変ですが、男の人は女の人のパンティーを見て何がうれしいのでしょうか? mito 男女における性的興奮の仕方は異なる。 S短大教育社会学  本音を言ってくれるmitoちゃんって、やっぱりGoodですネ。思わずうけてしまったけど、大切なことだと思います。 T大T部社会教育計画  先日の講義で、突然風が吹いて女性のスカートがめくれた時に、「それを見た奴はセクハラだ」とおっしゃっていましたが、私はその件に関して納得がいきませんでした。別に好きこのんで自分が優位に立ったわけでもないし、別に地位や権力を楯にそんなことをしたわけでもない。仮にそれを「ラッキー」と思った奴が「セクハラ」ならば、それを見ても何にも思わなかった人も「セクハラ」ではないのですか? でも、男の人だったら、やっぱり「ラッキー」と思うのでは? それを見なくて「ラッキー」と思ったという先生は、逆に自分を偽っているように私には思える。 mito 見なくて「ラッキー」なんて、言っていない。そんな内容のない話を、授業中、僕が喋るわけはないということを、いい加減に気づいてほしい。性的感情があるのに、女性がいやがっていることを感じて、無意識に目を伏せていた僕自身に対して良い感情を持った、ということなのだ。相手が困っているのにジロジロ見るとしたら、それはやっぱりセクハラだ。対等な人間関係、性関係を持てない人のやることだ。君自身、その場に立たされたら、ジロジロ見るなんてことはしないと思う。  「してもらう」経験しかない青年が交流するとき、「してあげる」「してもらう」ことのやりとりが、なかなかスムーズには交換されない。その理由のひとつが、自分が傷つきたくない、他人を傷つけたくない、という気持ちが強いあまり、「気をつかって」疲れてしまうということである。グループワークトレーニングの最大の効果のひとつは、「気をつかう」のではなく「気のきく人になる」ということによって、とても楽な気持ちになれるということを知ることである。 S短大社会教育特講  (グループワークゲームで)自分はできあがっても、同じチームの人たちがどうなっているか、自分はこれで正しいのか、など、最後まで気をつかってあげることを学んだような気がした。 mito まわりに気をつかってくれる人がいても、普通の人だったら嬉しくないと思う。対等な人間関係においては、気をつかう人の存在がうっとうしいからである。それを嬉しがるのは、権威主義的な人だろう。気をつかう人ではなく、気のきく人になることが大切なのだ。気がきく人というのは、別に犠牲になるという感じは持たないまま、みんなのためにお茶を出してくれたり、暑いときに窓を開けてくれたりする、そういう人だ。 S短大社会教育概論  (バスでお年寄りに席を譲れなかった体験などを挙げながら)自分でブルーになっちゃったまま、人にかまってもらおうとするのではなく、自分から心を開いてもっと楽しく生きていかなきゃ、幸せをつかむことができないし、(社会教育主事などとして)周りに幸せを配ることもできないですよね。 ●関連概念 ●社会的逸脱  逸脱とは、本筋からそれはずれることである。そこには、ある行動や態度を、社会的規範、つまり、道徳的な価値基準や常識(と思われていること)、社会のルールなどから見て「望ましくない」とする判断が含まれている。そこで、社会的逸脱とは、社会をスムーズに運営していく立場から見て「望ましくない」行動や態度をさすといえるだろう。青少年の問題で言えば、自殺、薬物依存、性非行、暴力、喫煙、飲酒などが挙げられる。  しかし、社会学の立場からは、社会的逸脱の現象を最初から忌み嫌うような先入観や偏見をいっさい捨てて、科学的、合理的にこれを究明しようとする。そのことによって、たとえば、社会や学校にうまく適応できない子どもたちがなぜ増えてしまうのかという問題について、ただ単に特定の子どもや親や教師のせいにするのではなく、社会が個人に求める適応が過大すぎること、個人が適応しようとしても社会の諸制度がそれにうまく対応していないこと、などを明らかにすることができる。  つまり、社会的逸脱行動に対して、感情的、観念的に反発したり同情したりするのではなく、社会科学の視点に基づいてそれを研究することによって、むしろ、個人は現代社会にどう対面すればよいのか、それぞれの個人にとって社会はどうあればよいか、などを私たちは学ぶことができるのだといえよう。 ●教育  教育とは、社会がその成員に対して今までの経験等の蓄積、すなわち、知識、技術、規範、信条、慣習などを伝達し、その社会に適応するよう働きかけるもっぱら意図的、組織的な営みを意味することが多い。このことは、国民が「自ら実際生活に即する文化的教養を高める」(社会教育法第3条)社会教育においてさえも、「学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動」(同法第2条)として定義されていることから、ほぼ同様だととらえられる。  しかし、社会化の視点からこれを考えると、その客体と主体が相互的であり双方向の過程としてみることができる。しつけや教育などにおいて、親や教師は子どもを社会化しようとするが、同時にそのなかで、自らを親や教師として社会化していく。この場合、子どもが親や教師を社会化しているとみることができるのである。(安藤喜久雄・児玉幹夫編『わかりやすい社会学』学文社)  教育は個人や社会による意図的、組織的な営みであるとするとしても、それが機械的な一方向のものではなく、おたがいにフィードバックのある相互作用としてとらえられることに留意したい。最近、教育を「ともに育つ」という意味から「共育」というキーワードでとらえる議論が盛んだが、これも以上の観点から理解することができよう。 ●第5章 青年文化とアイデンティティ ●第1節 対抗文化にならない理由−自信がない、他人の自信が嫌い ●(1) 教師や他人の自信を不快に思う敗北主義  自信とは、本来、他人より優れているということでも、絶対的に強い、正しいということでもない。むしろ、自己の弱さを受容し、そのうえで新しい知識や他者の言動なども参考にしながら、自分の核を変えていけることこそ、本当の自信といえるだろう。しかし、競争主義のなかで傷つき主体性が歪められた学生にとっては、他人の自信のある態度は不愉快なものとして映るのである。しかも、自分が授業料を払っている相手の教師に対してさえも、同じ反応を示す。そういう人たちは、今後、どのように成長し、自己を確立していこうというのだろう。  ここでは、私が学生の私語を間違って注意してしまった事件が中心になっている。人間が接すると傷つけあうこともある。そのとき、謝って許しあうということができないと人間関係はやっていけないのだろうが、一部の学生はいったん傷つけられたら謝られても自分の心の傷は回復できないと考えている。それまでの人生のなかで、守られることしか経験していないのだとすると、相手を傷つけないように、自分が傷つかないように、おそるおそる生きていくしかない。まさに、これは、「山アラシジレンマ」であり、自信(自分を信頼すること)と他信(他人を信頼すること)のない人生ということになる。 T大U部社会教育概論  (mitoの)ある程度の努力とそれに伴う自信に裏うちされる必要以上の思い込みに、私はある種のごうまんさを感じる今日この頃です。教職をめざす身の私にとって学ぶべき点は数多く、縁あってこの講義をとったわけですから、ずっと参加していこうとは思います。けれども、「ごうまんではない」と言い切ることそれ自体がすでにごうまんなのではないでしょうか。  日に日につのるこの感情を自分の中で消化しきれずにいるので、多少、時間はかかると思います。それでも、私は、自分と違うものを受け入れようとはしているつもりです。 mito 僕の授業は、僕にとっての勝負をかけている唯一の商品である。それを「素晴らしい品物ですよ」と言わずにどう言ってほしいのか。教師の授業に対する自信を不快がるのではなく、現実の授業(商品)が教師の公言するほどでもない部分があるならそれを指摘して批判すればよいではないか。僕は「受けて立つ」と公言しているのだから。それとも、教師が自分の授業を「つまらないだろうけど僕のために我慢してくれ」と言ったら、あなたは初めて満足するのか。だとすれば、あなたは(教育の)消費者としてもひどく主体性に欠けていると僕は思う。 mito 自信とは、欠点や弱点がないことではなく、それらを含めたありのままの自分をOKと受けとめ、必要に応じて自分を変化させることである。 mito 僕が「自分は傲慢ではない」と言ったのなら訂正する。しかし、そんなことは僕はふつうは言わないと思う。人間はアンビバレントな存在だから、僕自身も数%が傲慢で数%が傲慢ではない存在だと思っている。僕は自分のある行為に対して「傲慢(の表れ)ではない」と言ったのではないか。そういうことなら大いにありうる。それも否定して、すべての人間の行為を傲慢さと結びつけるのなら、それは敗北主義である。そういうふうにして、あなたは、結局、みずからの数%の傲慢さを黙認するつもりなのではないか。 mito 「ある程度の努力」という表現が、「自分が教師になったらもっと努力する」という意味のものだったら認めるが、きっとそういう意味ではないのだろう。むしろ、「努力」の効果への疑問視が最高位に置かれてしまうという敗北主義の特徴が表れた言葉だと思う。 S短大視聴覚教育  (私語を間違えて注意されて)今日はお友だちが傷つきました。あなたは自分に自信を持ちすぎていると思います。たしかにそれは大切だと思いますが、自信は人を傷つけることがあるのです。「口はわざわいのもと」です。気をつけてください。(全文) mito 「口はわざわいのもと」は自己表現に対する敗北主義である。 mito 暴力は知的水平空間にはなじまない。変にわかりあってしまうところがあるからである。だからこの授業では暴力は禁止している。僕が間違った自信をもっていると思うのなら、どこが間違っているか言ってほしい。そうでないなら、暴力を振るわれてもいないのに「傷ついた」と思ってしまう自分の弱さに気づいてほしい。 S短大視聴覚教育  あなたはいかにももっともらしいことを言いますね。さぞかしものわかりのよい教師なのでしょうね。教師の理想像ともいうべき人でしょう。私も見習ってそういう教師になりたいです。でも教師といえども人間だから人を傷つけることもあると思います。私は、とくにあなたみたいな性格の方に、一番そういうことが多いと思います。あなたは、自分に自信があるから、自分に意欲があるから、その分、絶対に、あなたが感じている以上に、人を傷つけていると思います。今回のラベリングのことを良い機会にして、少し気にかけてみてください。  ちなみに、先ほどのラベリングで、あなたはラベリングをしてしまった学生に謝っていたけれど、あれはその前にレッテルを貼られるような行為をしていた学生が悪いのであり、謝る必要はないと思います。  私はあなたの自信過剰があまり好きではない。  生徒の身分でえらそうなことを書いて申し訳ありません。(全文) mito ラベリングとは、相手の過去の行為が現在の判断に影響してしまうところに基本的な問題があるのだと思う。相手の今の行為については、むしろ、理由や気持ちなどをわかろうと分析する努力が大切だと思う。そうでないと、人間の相互理解の難しさを一面的に強調する敗北主義に陥ると思う。 mito 自信過剰というが、資質・能力以上のホラを僕が吹いただろうか。このように考えている、努力している、と言っているだけではないか。 S短大視聴覚教育  今までにない楽しめる授業で良かったです。自分の過ちを認めて、生徒の前で頭を下げる先生なんて、そうざらにいないと思います。感動しちゃいました。しゃべったのは、私と○○さんです(この学生は僕のラベリングによって私語に関する2回目の注意を受けた学生の一列前に座っていて、その私語を僕が先ほどの学生のものと誤認したようである)。どうもすみませんでした。内容は○○さんのペーパーにちょっとmitochanのイラストを書いていて、そのことでしゃべってしまったのです。トレードマークにでも使ってちょうだい。・・・なんてずうずうしいんでしょう。 S短大視聴覚教育  一番印象に残ったこと、学んだこと、をいうと、mitoちゃんが話をしていた子をまちがえたでしょ? そのあとすぐあやまった。これってすごいと思った。普通のっていうか一般の教師というような人は絶対あやまらないと思う。だって教師っていうのは、生徒より立場が上だっ、みたいに考えているでしょ?  だから、教師って苦手だった。中学でも高校でも。何かしようとしても、それがちょっとまわりの人と違うことだと、上から圧力みたいのをかけるでしょ。そういう所とかがすごくイヤだった。  でも、mitoちゃん見て思った。「苦手」って決めつけていたからいけなかったのかナって。あたしがわかろうとしてなかったのかもナーって・・・。むこうもあたしのこと対等のものとして見てなかったのと同じように、あたしもむこうを対等のものとして見てなかったのかもしれない。 S大教育社会学  私は、そのペーパーの文章の中に、人間が本来もっている「いじわる」の気質がかくれているように感じました。もちろん、その人もそれだけのために書いたわけではなく、本当に思ったことを書いていたと思うけど、人間って少なからず「いじわる心」をもっていますよね。それって、弱い人がマトになることが多いけど、逆に自信があっていつも熱く燃えているはりきり屋さん(=mitoちゃん)に対しても、起こってしまう時があるみたいです。そのような人に対して、「自分はそこまでできない」「先を越された」というような”あせり”や”しっと心”が「なんだかちょっといじめたくなっちゃうなあ」という気持ちを生んでしまうときもあります。彼女のペーパーにはそんな気持ちがちょっと隠れていたような気がしました。でも、こういう私の考えもラベリングなのかなー?  最後の最後に思ったのですが、mito先生のことを「あなた」と書いた人たちは、ちょっと卑怯な人だと思う。mito先生を目の前にして口で言うならまだしも、顔がわからないから紙に書いて紙を仮面にしている。口にする方がイントネーションによって言いたいことももっと素直に伝わるのに、紙に書いて人を批判するのは卑怯だと思う。 mito 知的水平空間としての授業における出席ペーパーだからこそ、どんどん批判すればよいのである。そこで僕を練習台にして、きちんと相手を批判できる能力をだんだんと身につければよいのだ。だから、普通の友だちに対してやってはいけない。僕に対してならかまわないのは、教員としての僕は学生からの批判をまともに受けて立ってあげるために給料をもらっているようなものだからである。 mito 学生からのそれぞれの批判のなかには、かならず数%ずつの真実が含まれている。1%の真実が含まれているとすれば、それはすべての学生が1%ずつそういう気持ちをもっていると考えてもよいのだと思う。だから、その1%に対して教師はまともに答える必要がある。 S大教育社会学  私もmitochanのことを、ちょっと自信過剰だと思ったことはあります。なにか信念みたいなものがあるのか、自分の言っていることが一番正しいと思い込んでいるように見えたからです。  でも、mitochanは、学生から指摘されたことについて、ちゃんと答えてくれるし、弁明をしたり、必死で説得しようとしてくれます。  それで、”どうしてみんな自信過剰だと思うのか”ということについての私なりの解釈です。私たちは、たかがといえど20年以上生きているわけで、それなりの経験にもとづき考え悩んでいるのだから、それを指摘されたり変えろと言われたりしても、ムッとするというか、心をかき乱される気がして、いい気分ではなくなるからなのだと思います。 mito 本当の自信とは、もし自分が間違っているとわかった時には変えてもいいや、別に恥じではない、と思えることである。そのように思えるようになると、人生はとてもいい気分で、つまり自信に満ちてすごせる。 S大教育社会学  自信がなきゃ音楽を人前でできませんよね。うじうじ舞台に出て「どうしよー」なんて言いながら弾いたり歌ったりするのは、みっともない。ただし、油ぎったオジサンみたいに自信を公私にひけらかすのはアホです。私的にはひかえ、公的には胸をはる(逆をやるのもアホです)。  自信のない人が会社で立案できます? 自信のない人が「あのー、僕、こう考えてきたんですけどー」なんて言ってきたら一発でクビです、私が上司なら。でも、普段、控え目な人間が自信を前面に出してきた時ほど目を見張らせるものがあると思います。 mito 私的に控えるということは、さわやかに依存できることを意味していて、公的に胸を張るということは、そういう自立した人間が役割遂行することを意味しているのだととらえられるだろう。その逆をやる人も世の中にはたしかにいる。そういう人はCP(厳格な親の心)とAC(従順な子ども心)の傾向がともに大きい「権力に弱いタイプの人」といえる。 S短大社会教育概論  今日のみとchanは少しこわかったです。それはすっごく真剣に話していたからだと思うけれど、私は萎縮しちゃいました。  今日の話で学んだことが多くて、頭がこんがらかっていてうまくまとまりませんけど、「視聴覚教育事件」で私が思ったことは、いいとか悪いとかの前に、先生から授業中に指摘されることは本人には好ましく思えないっていうのか、何かスマートではない、かっこわるい、だから注意されるのは避けたいっていう、人間の中にある自分を守ってしまう作用が働くのだと思う。  みとちゃんが、今、何を考えているのかわからないけれど、みとちゃんは自分のことを非難した人に対してどういう感情を持っていますか? 私はみとちゃんを見ていて怖い気がしました。みとちゃんに注意された人の、現代人にしかわからないっていうのかな、気持ちをわかっていないのなら覚えてあげておいてほしいと思いました。  今、何を言っているのかわからないので、変な言い方をしてたらごめんなさい。傷つかないでください。ある面でみとちゃんの考えに賛成しているんです。 mito このペーパーを読んで、事件の当事者の痛みを少し再認識した。でも、結局は、その双方の痛みの積み重ねが授業なのであろう。 mito 教師が傷つかないように配慮する気持ちはやはりありがたいものだ。これは批判のしかたとしてもなかなかのものだ。 S短大社会教育概論  高校のときの先生が、言いたいことがあったら言え、と言ったので、実際に言いたいことを言ったらすっごく怒りまくられた。それ以来、卒業までの2年間、その先生には何も言えなくなったし、言わなかった。そして、卒業式の日にそのことに関して先生からあやまられてしまった。すごくショックだった。私も先生に対してラベルを貼ってたんだなあ、あの先生はイヤな奴だって(あんまり思い出したくなかったけど思い出してしまった)。  そのとき私が先生に言ったことで、先生はすごく傷ついてしまったらしい。言いたいこと言えないのもつらいけど、言ってしまうのも考えものだと思う。この人は絶対にそんなこと言わない人だと思っていた人にズバリ言われてしまったら、やっぱりショックだろうな。この前、先生に会ったけど、普通にしゃべれた。よかったと思う。 mito 自信をもっている人は、他人からどんなことを言われても、耐えられるはずである。その教師は、それができると思っていて実際にはできなかったのだから、これこそ「自信過剰」というべきであろう。そういう人に対しては攻撃的な言い方はしない方がよい。そういう場合は、人格に踏み込まないようにして、行為だけについて、「私は」という言い方で、迷惑な点などをわかってもらうようにするとよい。そして、基本的に信頼しているのだけれども、という、Yes,Butの言い方も有益である。なお、これらのテクニックは、アサーティブ・トレーニング(自己主張訓練)の基本的技法である。 T大T部社会教育計画  自信に満ちている感じがする。それは子どもの頃から優等生であったからだろう。劣等生の気持ちをもう一度考えてほしい。(全文) mito このペーパーの人は自分を「劣等生」としてラベリングしているのではないか。自分の主体性の獲得を阻害するようなそんな社会の物差は、自らが拒否せよ。教師の態度が自信に満ちていること自体だけをとりあげて批判するのは、たんなる負け犬根性の表れであり、知的水平空間における本来の批判にはとうていなりえない。 T大U部社会教育概論  私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのか、分かりません。  しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。  しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに「変に理解しあってしまう」という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです。(全文) mito この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて「真剣に」受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう。友だちにこの授業の録音を頼むなどしてもっと僕に食いついてくることを勧めたい。 mito たかだか2回目の受講だけで、年上の教師に対して実質的には「敵対語」ともいえる「あなた」という言葉を使っているが、それはあなたがその言葉を本当に主体的に選択した結果なのか。僕には理解しがたい。 mito 納得したのなら、自分を変えよ。納得しなかったなら、自分は変えるな。それだけの話だ。最初の授業で話したことだが、自分を変えることを学習というのだ。自分を変えることは初めはつらいだろう。つらいから、それをあなたは暴力と短絡させたのではないか。しかし、暴力は相手の納得に関わりなく行われる行為であり、自分が納得してしまうことを暴力と混同することは、学習に関する非主体性の表れというべきである。  相手に自信があふれているから自分は不快だ、というのでは、批判にも抵抗にもならない。ところが、そのうえ、自分に自信がないことを正当なことと本気で考えているような節さえある。「自分は守られなければいけない」という例の思い込みと通じている。  私は、若者文化の重大な危機を、ここにとらえる。 ●(2) 信用ではなく信頼を  自分や他人に対する基本的信頼とは何か。難しい課題である。しかし、次のような出席ペーパーから、私はひとつのヒントを得た。それは、「信用」と「信頼」の違いである。やはり、「信頼」という言葉は、産業社会やヒエラルキーのなかでの言葉ではなく、仮面を外した人間関係やネットワークのなかでの言葉といえるのである。 S短大社会教育演習  私もネットワーク型の社会というものが、これからは大切になってくると思います。そして、態度の変容のための学習にすごく重要さを感じました。  人とつき合っていく中で、自分を信用していなければよくないことは感じますが、まず他人を信用した上でつき合っていかなければならないのでしょうか。自分自身を本当に理解し信用している人ってわりと少ないような気もするんですが・・・。 mito 信用とは、確かだと信じることであり、そんなことをして金をどんどん貸していたらすぐに破産するだろう。人間はむしろ信用できない不確かな存在なのである。しかし、そういう自分や相手に対しても、基本的にはいい人間だ、わかりあえる、と感じることはあるだろう。これは、信用ではなく信頼である。信頼とは信じて頼ることである。金は貸さなくても、さわやかに依存しあうことはできるのだ。 ●第2節 アイデンティティ確立への願望と挫折 ●(1) 強力な幸福願望と自分の幸せについての懐疑  欲求段階説でいう低いレベルの欲求については満たされている場合、幸福の実現に関する本人の自己評価の基準は、かなり高いところにおかれることになる。とくに女性の場合は、幸福に対する強い憧れと、それに伴う現状否定の傾向が顕著である。  第1に、個人は集団の中で平均的な成員であればよいという過去の社会システムを克服して、個人に「個の深み」を求めようとする観点からは、この自己評価基準の高度化は歓迎すべきことである。  しかし、第2に、本人の主体的力量が、そのレベルや不成功の体験に耐えられるまでに至っていない場合は、結果的にはかえって疎外的状況を生み出してしまうことがある。  第3に、欲求段階説を機械的には当てはめることのできない状況が生まれている。すなわち、モノの豊かな今日にあっても、なお、親の責任による栄養不良症状の子どもがいるわけだが、そういう人にとって、まず食料を、ではなく、まず家族の愛情や自己の社会的認知を、というように高度な欲求の方が切実になっているのである。  第3の視点からいえば、本人の強力な幸福願望や自己の幸せについての懐疑は、恵まれているから、などと他者が本人を評論できる状況ではなく、むしろ、各人の主体性が奪われて、人々が愛情の享受や存在確認をしずらい不幸な状況になっていることの証しともいえる。あるいは、それとの葛藤のプロセスからこそ現代的な「個の深み」が本人に生まれる、という人間の可能性に全面的な信頼を寄せる観点から、援助のあり方も考えるべきなのかもしれない。 S短大教育社会学  私は幸せです。両親もいるし、兄弟もいるし、友だちいるし、彼氏いるし、でも、私の幸せは表面だけかもしれない。もちろん、友だちの目からは、明るくておもしろい人みたいに思われているだろうけど、ちがう・・・。  私は海が好きです。ダイビングとか、ウインドサーフィン、サーフボードとかやっているときが、幸せかなってかんじ。  だんだん何を書いているのかわからなくなってきた。 T大2部社会教育概論  幸せには2通りあるように思う。1つは、お風呂のように、手近で現実になる可能性がとても高いものかしら。でも、お風呂で「ああー、幸せ!」とは思ってみても、私が私の人生に求める本当の幸せってほかにあると思う。それは、もっと大きくて遠く、現実性はお風呂よりぐっと低い。ふつう人々の言う”幸せ”とは、この2つめのもので、それは崇高でもっと理想的なものだって思いたい、という気持ちが我々の中にあるのではないか。 T大2部社会教育概論  この講義でよく「幸せ」ということが出てきますが、個人的にはあまり話題にしてほしくないと思っています。幸せの定義(?)は人によって違うものだし、どんな定義をもっていても自由だというのが私の考えです。  余談ですが、私は今までに自分で幸せだと感じたことがありません。幸せになりたいとも、あまり思いません。(でも、きっと、心のどこかで幸せになりたいと思っているのでしょうね。矛盾!) T大2部社会教育概論  最近、仕事の変化、人間関係のつまずきがあり、苦しくて自然に涙が出そうになりました。泣くことを昔に置いてきた私は、泣きたい時に泣く場所がないことに気づき、ぼう然としてしまいました。結局、お風呂場で泣いてしまいましたが。  その後、また1回、泣いてしまったのですが、その理由がつきあっている人から電話がこなかったということ。同じ涙を流すことでも、まったく意味が違い、私にとって後者の方が健全でいいな、と思いました。 ●(2) アイデンティティの喪失  子どもの頃のいわば仮りのアイデンティティがいったん崩れていく過程を経なければ、その後のアイデンティティの確立はおぼつかないということは、いうまでもない。しかし、そうは言っても、その過程のジグザクの振幅があまりに大きいと、指導者側としては、つい、その揺れをおせっかいにも小さくしてあげようとしてしまいがちである。それを禁欲し、本人が「個の深み」を獲得する方向で、本人のMAZE(拙著「生涯学習か・く・ろ・ん」学文社、参照)につきあうことは、われわれにとって大変難しいことではあるけれども、心がけなければならないことなのである。  また、現代社会においては、成人期以降の人間でさえ、アイデンティティが弱体である場合が多い。それについても、その確立にあわてて取り組むというのではなく、自己のアイデンティティを簡単には認められない個人の深さに着目し、本人の「個の深み」が自覚化されるような支援を考えなければならない。  出席ペーパーによって、本人に自己のアイデンティティの喪失状況を確認してもらうことは、そういう意味をもっている。 S短大教育社会学  きのう、何カ月ぶりかでエンエン泣きました。ふだんでもけっこう涙は出てしまう方なのだけど、きのうは自分でもおどろくぐらい泣けてしまいました。短大1年をなんとなく過ごして、で、2年になってもう進路を決めなければならない。今、どうしたらいいのか、何がしたいのか、すべてわからなくなってしまいました。 T大2部社会教育概論  先生、私、死にたい。ううん、違う。そんなに積極的でなく、とにかく、世の中からいなくなりたい。でも現実的な私が、明日はゼミがある、とか、バイト行かなきゃ、とか、教育実習の手続きしないと、とか、ちゃんと思ってる。あー、でも、やだ。 T大2部社会教育概論  自分にしかないものなど、ほとんどないと思う。あるとすれば、何らかのものを発明した人、あるいはその世界(100 m走など、誰が見ても差がわかること)でトップになることぐらいしかありえないのではないか。なぜなら、人は、何らかの集団に属しながら生きていくからだ。つまり、すべてが同じ環境ではないが、部分的にはさまざまな人と同じ環境をいやでも共有してしまうことになるからだ。  だから、自分にしかないものなど、一般論ではありえないはずだ。私には、そんなことより、「オレはこれが好きだ」というものがはっきりと言えることの方がずっと大切だ。 T大2部社会教育概論  いったい自分はどんなことをやりたいのだろうか。もしかしたら、これからずっとやりたい仕事など見つからなくて、それほどやりたくないことを我慢しながらずっとやって生きていくのか、と思うと、どうしようもなく不安になってしまいます。 ●(3) 今の自分や他人を判断したくない気持ち  交流分析のエゴグラムを紹介したりすると、人間の言動をあまりにも直接的に扱うことになるからか、強い抵抗を受けるときがある。「決めつけられるものではない」ということで逃げてきたレベルに引き戻され、自分や他人が理想的な存在ではなくアンビバレンツな存在であることを思い知らされることになるからである。もちろん、人間存在は結局は「決めつけられるものではない」のだが、それは真実に鋭く迫ったあとに知るべきことなのである。  他方では心理テストブームのなか、こういった実証主義的な科学までゲーム感覚で取り込んでしまう学生も多い。両者の根源に流れる問題は同じなのであろう。それは、人間存在が弱い部分や醜い部分をもっていることを受容し、発達・成長する可能性に基本的信頼をおく、ということができないでいる現代社会の人間全般の問題である。 S大教育社会学  先生は、毎回、出席ペーパーを読んで、その人の書いたことに対して、「この人は○○のほうですね」とか、「この考え方は”支持”だ」とか、形づけをしますね。まあ、それが、この社会教育学の授業の重点ともいえますが、いちいち、人の感情や考えを、形式の中に結びつけて、「○○だ!」と振り分けてしまうのは、なんか、違うと思う。  うまく言えないけど、人間って無限の感情があると思います。だから、CPだのNPだのに、たとえ勉強だからと言っても、分けるべきではないと思う。  私は大学に入ってからいろんな面で成長していると思います。高校のときとは正反対の性格もでてきました。これからもどんどんいい方向に変えていこうと思っています。成長し変化するのが人間なんだから、それを形づけてしまうと、人間の変化を少なからず否定することになると思います。  だから、mito先生は形式だてて人間を見ていくのかもしれないけど、私は相手を型にはめずに、あらゆる可能性を期待してみていきたいと思う。(全文) mito この主張については、僕もまったく同感である。ただし、それは、自分を含めた人間の主体性のありかを分析することから逃げることではなく、むしろその結果を恐れずに受けとめていこうとすることにつながるはずだ。 T大U部社会教育概論  (エゴグラムについて)あまりこういったものは興味を持たない。血液型といっしょで、話のネタにはなるが、それ以上のものをこの内容で判断されるのは、人間性の深さを甘く見ていると言わざるを得ない。 mito 交流分析のエゴグラムは自我状態のその時のバランスを表しているものであって、人のタイプを決めつけたりするものではない。また、すでに決定的に破綻してしまっている「血液型心理学」などと比べられるものではない。 T大U部社会教育概論  よく考えて○△×を決めると、知らずと×が多くなってしまった。「責任感を強く人に要求しますか」とかいう質問などは、まちがっても○になんかできない。だってそうでしょ、そんなこと要求するには、まず自分がしっかりとした責任感を持っていなきゃいけないんだから。こういうとこを○にできる人ってすごいなあと思いますね。  あと私はFCのところは5だった。少ない得点だと思う。でも、自分で思うには「自由な子ども心」というのは私はわりと持っている方だと思う。このFCグループの質問はちょっと変てこりんなんじゃないかなと思った。こんなので人の「自由な子ども心」の持ちようが少しでもわかるのでしょうか。こんなの20点の人がいるなら、ただのわがままか、ただただ感情的な人なんだと思う。 mito どちらもちゃんといる。当然、どこかだけが満点などの極端な人は、バランス上から問題があるかもしれないけれど、他人がとやかく言うことではない。それよりも、自分の中の数%の問題に対して批判の刃(やいば)を向けよ。 T大U部社会教育概論  FCが20点の人が信じられないと(ペーパーでは)言っている人がいたが、そういう人がいるんですよ。しかもNPが低い。これはもうわがまま以外の何者でもないですよ。まわりのことをあまり考えていないし、ときどきとっぴょうしもないことをする。だけど、協調性がないというわけではないし、人のことも考えて行動します。  まあ、そういう奴もいるということを知っておいてほしいですね。ちなみにそういう奴とは自分のことですけど。 S大教育社会学  私はとても不思議です。先生は人間の性格というものを学問的に分けたりするけれど、いろんな人がいろんな角度から行動することを分析することはいけないことだと思います。その傾向はたしかにあるかもしれないけれど、そんなふうには分けられないと思うからです。  たとえば、私は、自分がどのたぐいに属するのかわかりませんが、私は私だということに自信をもっています。まだ人生経験はたったの20年ぽっちで全然ありませんが、音楽人は自由です。たえず、いろんなことに興味があって、いろんな行動を起こしているものです。もしかしたら、ロビーで歌っていることも、他の大学ではきっかいな行為かもしれません。私は自由が好きです。何をしてもいい。束縛はないけれど、でも、他人から問われても絶対後ろめたさを感じているなんて答えないと思います。時にはウソをつくことも大人としては必要だけど、でも心は正直です。(全文) mito 悩みやいやな気持ちで過ごしている人のためのアドバイスだととらえてほしい。このように「自信をもっている人」が、ことさら自分を分析する必要などないと思うが、「自信がある」と片付けてしまわないで、自分を逃げずに見つめることも必要かと思う。 mito 僕はロビーの件をそんなふうにしゃべったことはない。まったくの濡衣(ぬれぎぬ)である。僕は自由なロビーワークを重視し主張している人間なのだ。それから、僕は他大学の教師ではない。なんだか僕が人文系だからという理由だけで、音楽をやっている人たちだけが人間らしいと思っている人から、不当に中傷されているような気分である。もっと科学的に思考してもらいたい。 T大T部社会教育計画  この講義で先生が個人を尊重し、自分を自由に開放し、個人の性格、性質を差別なく、万人を認める構えで、というより実際に認めて、一つひとつコメントしていて、私も同じ様な人間観を持っているので共感するのですが・・・。ただ、コメントするときも、こうしたら良いのではとかこれはよくないのではとか言い切らないところはさすがだと思いますが、そういう話題のことを言うこと自体どうなのだろうかと考えてしまいました。  先生は講義する立場なので理論づけみたいなものを言わなければならないのでしかたがないのですが、私のように聞いているだけの立場としては、人間を理論づける枠みたいなものはまったくないんじゃないか、なんて思います。 mito 真実(ここでは完全な人間理解)には到達しえないかもしれないが、限りなくそこに近づこうとしているだけである。むしろ、個人の性格についてテーマを絞って授業をしてきたわけではないのに、なぜ学生たちがそこにだけこだわりを見せるのか、ということにこそ問題を感じる。そもそも、今まで君たちが学習してきた科学や思想は、君たちにとって何の意味を持っていたのか。真実を追究して人生をより深く生きるためのものではなかったのか。そうでなかったとすれば、自分の生き方から離れてしまった学問にこそ抗議すべきであって、僕の授業の意味を疑問視するのはお門違いである。僕の授業は、完璧な正解こそひとつも与えられなかったかもしれないけれど、それは各自が探すものだ。そのためのヒントは、この授業の中でいやというほど提供してきたはずだ。そこで学生自身が恐怖して逃げてしまったのでは何にもならないが、それは僕の責任ではない。  哲学的意味を持たないレベルの低い不可知論に逃げ込めば、それ以上の自己変革は望めなくなる。現代青年は、つねに自己の逃走の衝動と闘いながら生きていくことになるのであろう。 ●第3節 コミュニケーションを求めておののく若者たち ●(1) 他人の「聞く耳」がこわい  出席ペーパーは、それぞれの学生の完全な自己コントロールのもとにおかれている。しかし、彼らが今までの人生のなかでものを書くときには、他者と比較されるためでしかなかったとすると、出席ペーパーを書くという初めての体験には戸惑いが生ずる。見知らぬ他人にわざわざ自分から情報を発信するという意義も必要性も見いだせないのである。  この問題を克服することなしには、現代社会のなかで人間的なネットワークを創り出すことは不可能だということになる。 T大U部社会教育概論  (彼氏がスキンをつけてくれるけれども、それは愛情の表れと言えるのか、という出席ペーパーに対して)彼氏の「当然だよ。ボクは責任とれないから」というのは正しいのでは? ”責任とる”なんて簡単に言い切れるものではないと思います。”出来る限りのことをする”以上のことは言えないと思います。彼氏の言葉を取り違えたのでは? T大U部社会教育概論  不思議なんですが、なんで受講生はこの出席ペーパーに、他人にはほとんど口に出して言えないようなことを書くのでしょうか。けっして恥をかくことのできないマニュアル世代の現代の若者が、何であんなことを書くんでしょう。”A”を評価で欲しいから? それとも自己顕示欲? 何でなんでしょう。(伝言ダイアルについて、略)  何でこのような言葉を、こういった「匿名の場所」で叫ぶのでしょうか。「ヤマアラシ・ジレンマ」と関係あるのでしょうか。この疑問はマジです。なぜに、普段けっして語られることのない言葉を叫ぶのか、答が与えられるなんて決まってないのに。不思議です。とても不思議です。 mito 自己顕示というよりも自己解決の姿への自負だと考えられないか。 T大U部社会教育概論  白紙で出すことの方がおりこうなのでしょうか。私はけっしてそうは思わないつもりでした。しかし、「何でも書いていい」を素直にとりすぎた結果が、他人の聞く耳と自分の愚かさに気がついたことだったのです。誰にもあたしが書いたなんてバレないだろうけど、でもやっぱりああいうザワメキを聞くとつらくなる。 mito 自分が他者に影響を与えてしまうことを受容せよ。ただし、あなたの発信は、あなたがコントロールするしかない。「非公開」「秘密」などの著作者の意思表示をつけ加えたってよいのだ。 T大U部社会教育概論  「なぜけっして語られることのない言葉を」と書いた者です。どうもどなたかを傷つけたようですね。僕はそういう意図で書いた訳ではないんですが・・・。文章能力がおそまつなのが悪いのね。  ブルーハーツの”人に優しく”で、「叫ばなければ、やりきれない思いを。ああ大切に、捨てないで」という詞があります。僕はブルーハーツが大好きです。僕自身、明日にはつぶれそうなのをギリギリで生活してます。軟弱です。なんとか生きている。とりあえず生きている。時々、負けながら。今、生きていることを喜び合いましょう。  PS ジェスチャーゲームやっても、自由な心は回復できないと思うよ。だって、恥ずかしいことをする時、いや、まったく普通の生活をしている時でも、現在、人は完璧に心を”演技”して生きているんですから。それに、大学生くらいになると、その演技も高度なものになっているから。 mito 仮面や演技は必要だ。意識して演技すればよい。それだったら、主体的なコントロールといえるだろう。  たしかに、次のような「厳しい他人」も存在する。 S短大視聴覚教育  普通、人が思っていても言わないようなことを先生が授業の始めに言ったので、少し驚いたけれど、そんな考え方を社会に全面的に押し出してしまったならば、社会生活に適応できない。実際、西村先生はきちんと社会という枠組の中にいる。言ってはいけないことは、胸の奥の奥にしまいこんだりして、他人にあわせなければいけないと思う。  それから、出席ペーパーなんて、先生の思い上がりだと思う。「悩む」ということは個々でするべきであり、書いて自分を知ることができるとしても、書いたものは人に見せるべきではない。自分の考えを人に知ってほしいならば、口頭で言うべきだ。(全文) mito たとえば僕がネクタイを締めているのは、ある意味では服従を演じているのである。前にそのことを言ったら、「mitoが自分の意思に反してネクタイを締めているのは、自信のない証拠だ」とペーパーに書いた学生がいたけれど、そんな戦術上のことで本当の自分が失われるとは思えない。 mito この人は、きっと相談のなかに表れる過度に依存的な態度に嫌悪を感じているのだろう。しかし、悩みごとの相談に限らず、他者が自分とは異なる枠組を持っていることを喜ぶようにしたい、というのが僕の基本的な考え方だ。これからのペーパーへの僕のコメントの仕方を聞いてみてほしい。  しかし、その本人自身が次のように悩みを経てきているのである。 S短大視聴覚教育  (前回、「悩む」ということは個々でするべきと書いた人)先生、親、だれもが体験した悩み苦しむ時期。私自身、だれにも相談せずに、また、周囲の人びとからも見てみぬふりをされた。要するに、「よけいなことを考えるな、勉強しろ」である。そのため、私のその時期の先生は本であった。あとは助言もされず、自分の中で考えるだけだった。そのため、今日見たビデオの子どもたちのように、学校や社会に疑問を持ち、嫌悪感を持った。だから、西村先生の存在に驚きとまどった。しかし、私は登校拒否にはならなかった。だれのお蔭でもない、私自身の自己解決である。その結果、私は強い人間になった。本当に強い意志を持てるようになった。要は自分自身である。18年間の私の人生で西村先生が、初めて私の人格の中核にふれた人。参考になったのは事実。けれども私は自己解決主義者。授業で恋の相談なんてやめてほしい。(全文) ●(2) 人間不信の深み  本来の厳しさとは、自分にも向けるべきものである。自分や他人に基本的信頼を寄せることが教育の営みの根底を築くが、他方では、人間には醜い部分や弱い部分があるのも、もうひとつの真実である。そこから目をそらさないで自己の人間不信を自ら問い詰めていく姿はまさに「個の深み」と呼ぶにふさわしいものであろう。  ただし、現代青年にとって、責任を転嫁しないで真実を探求しようとすることは容易なことではない。それは、保護や管理ばかり与えて、自由への恐怖を与えてこなかった社会や教育の問題でもある。 T大U部社会教育概論  子供は嫌いだ。自分は子供を作りたくない。子供は怪物だ。エゴが服を着て歩いているようなものだ。子供を甘やかすと際限なくつけあがる。子供に人権などない。  mitoさん、聞いている側まで恥じいるような、歯の浮くような言葉を濫発しないでください。レトリックを用いた表現よりも、本当に意味のある言葉を期待しております。(全文) mito このペーパーはフェアであるし、教師にきちんと食いついてきている。この1%の反対者は、支持者の中の1%の気持ちを表明してくれる貴重な存在である。僕は、I am OK. You are OK. の人生の構えを提案した。しかし、この人が You are not OK.だけでなく、I am not OK.という姿勢を貫けるのなら、苦しい生き方にはなるだろうけれども、たとえば良い小説が書けるような人間になれると思う。人間の醜さを逃げずに真正面からとらえるということである。それは、レトリックと批判された「批判の刃(やいば)を自己にも向けよ」ということでもある。この人の「個の深み」に期待したい。 mito ただ、ひとつ言えば、ここで「人権」という言葉だけは実存から発しておらず、その言葉だけが文章全体から浮いてしまっている。 T大U部社会教育概論  エゴが服を着て歩いている、とは!?(「子供が嫌いだ」と言った人へ)  嫌いだと言っているあなたは自分が嫌いですか。そんなことを言っているあなたを見たら僕もきっと「エゴが服を着て歩いている」と口走ってしまうかもしれない。どうだろう? 僕も「エゴが服を着て歩いている」ものなのか。mitoさんの答を聞いてみたい。 mito 彼はハングリーなのである。CP(厳しい親の心)が強い人は、普通は自分をも厳しく責めていると思う。そうでなければただのろくでなしだ。人間にエゴと自他への信頼のどちらかということはない。その%が人によって違うだけだ。 T大U部社会教育概論  (エゴが服を着て歩いている、と書いたが)自分は他人や友人の人格の中核を、悪気はないのだが、つい傷つけてしまうことがたびたびある。その反面、自分が傷つくことには常にびくびくしている。他人を傷つけても、自分が傷つくことには慣れていないのだ。そして、そんな自分を嫌っている自分に気づくのである。我ながら度し難いとは思うが、mitoさん、なにか良い治療法を御存知でしたら御教授ください。 mito 深い意味でのCPが表現されている。もっときちんと「自分のために」生きればよいのである。それが中途半端だと、自分や他人を傷つけることになる。たとえば、醜い自分を受容し、他人から受容される体験が必要である。料理やボランティア活動などがそうである。”自分さがし”のためにボランティア活動をやっている人はたくさんいるし、その人たちがなかなかいい実践をしている。 ●(3) 保護や管理から自立して自由に恐怖せよ ●@ 自分は求めるけれど、人にはあげられない  人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。このような行為を「交流分析」では「ストローク」とよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。  しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとるのである。ストロークを出す本人にとって、その発信はリスク(危険)のかたまりなのだ。  今日の若者たちは、自分からストロークをうまく出すことは得意ではない。経験不足なのである。そのうえセンシティブだから、相手からのストロークの裏にある不純さや、その「罠」に反応することの危険を嗅ぎとることにはとても優れている。だから、相手からのストロークに答えることもできない。  そのため、大人たちが懸命になって「心と心のふれ合いをせよ」「人間はわかりあえるものだ」などと若者たちに上から号令をかけても何の効果も及ぼさない。学生の出席ペーパーから、ひとつ紹介する。  「ゼミを自己変革の場に、と先生は望んでいるようですが、私にはゼミの場が自己変革の場にはなりません。自分が何を言っても、何を思っても、大丈夫、守られている、というふうには感じられないので、つまり受容されるようには感じられないので、自己開示できません。だから、ゼミは自己変革の場にはなりえません」。  この学生の場合は、人間関係のことをよくわかっているのだ。そして、自分が受容される特別な場を他の所で見いだしてさえいるのである。だからこそ、簡単には心を開かない。私は、その態度を立派だと思う。 ●A 現実原則の中でのストロークの自己管理を  しかし、問題は、受容されるとはかぎらない日常生活の「現実原則」(快感原則では充足されない社会の現実に適応する心の働き)の中で、ストローク発信の自己管理(場合によっては発信しないことを含めて)をどう行うか、ということではないか。  いっぽう、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークをもらいたいのなら、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。  そして、もうひとつには、ストロークを出して傷ついた場合、そこから逃げずに、どのような形でその体験を自己に内面化するかということが問題になる。自分が傷ついた事実をあるがままに認識し受けとめることができれば、時と場合と相手に応じて出したり出さなかったりすることができるようになるだろう。ストロークを出せないということと、ストロークを出そうと思えば出せるけれども出さないということとは、表面は同じように見えても、内面的には正反対のことなのである。  一番すじが通らない生き方が、自分はカプセルの中に閉じこもってしまっているのに、それでいて、ストロークがもらえないと嘆き、いつまでもカプセルの中で他人からのストロークを待っている姿である。それは、閉じこもっている自分の姿が見えていないだけのことなのだが、そういう若者もたくさんいる。  わたしは、そういう学生に、こう言っている。「今は閉じこもらないではいられない自分の姿をこそよく見つめて、将来まで、そういう人間の悲しみの深さをよく覚えておいてほしい。そうしたら、少なくとも、今年の新入社員は心を開いてこない、と不満を言う物わかりの悪い上司や、今の子どもたちは消極的で困る、と子どものせいにする権威主義的な教師にはならないですむはずである。なぜなら、いま悩んでいるあなたは、消極的にならざるをえない部下や子どもの心を共感的に理解できる心をもっているはずだからである。あなた自身は心を開かないでおいて、社会的役割が与えられたとたん、相手に心を開くように求めるとしたら、それは最悪である」。 ●B コミュニケーションの成熟化と無力化  今日、コミュニケーションの手段は大いに発達している。電話なら、いちいち会いに行かなくてもすむ。マスメディアからの情報を受けるだけなら、自分が傷つくことを恐れなくてもすむ。映像であれば、人間の情念などでさえ伝わってくる。  このような技術発展はうまく利用するのが賢いやり方である。しかし、コミュニケーションのツール(道具)は発達していてあたりまえであり、重要なことはコミュニケーションそのものである。パソコン通信では、機械などは透明(トランスペアレンシー)のものに感じて、通信そのものに没頭できる感覚こそ尊ばれる。さらに、わたしは、パソコン通信そのものには飽きてしまってパソコン通信をきっかけとしたミーティングや宴会の方に熱心になってしまうバーンアウト(燃え尽き)現象も成熟化のひとつとしてとらえている(前掲拙著参照)。使っているツールが大切なのではなくて、コミュニケーションするということ自体が大切なのだ。これをコミュニケーションの成熟化とよぶことができる。  しかし、成熟化とは、ある面では、活力を失うことでもある。フェース・ツー・フェースではないメディアや一方通行の音楽・映像メディアによって、自分は傷つかないままにコミュニケーションを享受しているうちに、おたがいの存在を認め合うストロークのやりとりのチャンスまでも失いつつある。傷つく恐れのないコミュニケーションは、ストロークではない。そういう音楽や映像のメッセージが、カプセルの中の自分に個別に与えられたような錯覚のもとに受け入れられて、親和欲求を少しだけ満たしている。つまり、エセ・ストロークとしても機能している。  先日、授業で傾聴のトレーニングをした。この授業の受講者は自己表現の一つである音楽を専攻しており、しかも二十歳前でもあり傷ついた経験はそれだけ少ないからであろうか、「受容」はスムーズにできた(表面的には支持的だった)。どのペアも話がはなやかに盛り上がっている気配だった。ところが、「繰り返し」になると、とたんにできなくなった。聞き役が要約を繰り返すことによって話し手への理解を確認させようとしたのだが、そのことに反発さえ起こったのである。特徴的なことは、傾聴されるほうの話し手側からの反発が強かったということである。出席ペーパーには、「せっかくの話をさえぎられる感じ」「うざったい」とある。実際、繰り返されることなど邪魔になるほど、相互確認のないまま、人をひきつけるおもしろいおしゃべりが若者はできるのである。うなずきとあいづちさえあればよい。  おしゃべり(双方向)も華やかに上手にできるようになってきた。雑誌「教育」(国土社)が「おしゃべり症候群」を特集してその空疎を衝いたのは一九八五年だが、いまや「双方向の一方通行」ともいうべき恐るべき軽やかなコミュニケーションが成熟しつつある。言葉は交わされているが、気持ちは交流できない(しようとしていない)のである。「それがおしゃれだし楽しいのだから」と若者は言うのであろう。 ●C 管理や保護よりも自由を  若者に与えられるべきコミュニケーション教育の要点は、いまや、指導者が若者を管理することでも保護することでもない。管理や保護があると、それが現実原則の対象にされてしまい、若者自身のストロークの非力もそのせいにされてしまう。  ストロークを自由にやりとりさせる機会を提供することが必要である。管理したり保護したりしてはいけない。また、自由といっても、与えられた目標に自発的に追いつこうとさせるためのものでもない。強制されたり守られたりした中での自主性だけでは、傷つく自分を受容するレベルまでには到達しえない。  どんなストロークも自分の判断で出せるという自由の場に彼らを引きずりこんでこそ、自分がストロークを本当は求めながらも、それを出すことによって傷つくことを恐怖している、という自分に気づくだろう。もし、それでも、自分がストロークを出したいのに出せない理由を他人のせいにしようとする者がいたら、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない。あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という原則を確認させるとよい。  このように誰のせいにもできない状況では、その人のすべてのストローク発信をその人の責任とすることができる。そこでどうするか、ということこそが、本来の現実原則の学習につながる。 ●関連概念 ●アイデンティティ  エリクソン(Erikson,E.H,1902〜)のアイデンティティ論が、とくに有名である。「アイデンティティ」(identity、同一性)という言葉は、自己の内面的同一性と社会的同一性を示しており、エリクソンは、この両方をともに達成するための個人生育史と歴史社会との出会いの時期として青年期をとらえている。このようにして、青年は、自分とはいったい何なのか、自分が何者であるかという不変的な自己定義や、どんな他人とも取り替えることのできない自己の存在証明としてのアイデンティティを社会的背景のなかで確立しようとする。  ここで、とくに留意しておきたいことは、他者や社会からの自分への期待が、本人が好むと好まざるとにかかわらず、その人のアイデンティティの確立に多大な影響を与えるということである。なぜならば、その人は、自分が他者から認知され、自己像を他者と共有している確証の感覚を得ようとするからである。  また、自分の所属する企業と一体化してそこにアイデンティティを求めてきた会社人間、そういう夫から疎外された妻たち、核家族化の進行のなかでの高齢者などの姿を見ると、現代社会におけるアイデンティティの確立については、青年ばかりでなく、すべての世代にわたって重要な課題であると同時に、危機的な状況であるというべきであろう。 ●モラトリアム  エリクソンが、とくに青年のアイデンティティ形成期の特徴を心理・社会的に把握するために用いた言葉。もとは、債務支払いの猶予を意味する経済的な用語である。最終的な自己定義、社会的役割の決定、社会観、人生観の確立、人生の方向づけの決定など、青年期の課題は大きく、したがって危機も大きい。社会がそうした課題達成の時期として与えている特別な猶予期間が「心理・社会的モラトリアム」(psycho-social moratorium)であり、それは近代産業社会特有の現象である。モラトリアムは、自由な役割実験や社会的遊びによって、試行錯誤のなかで社会的自我を選択する期間であり、青年はその期間のなかでアイデンティティ形成の手がかりを見いだすことになる。  しかし、今日、アイデンティティ確立を延期し、一過性のモラトリアムに長く留まろうとする心理が一般化していることが小此木啓吾らによって指摘された。小此木は、その質的変化を次の6つにまとめている。@半人前意識から全能観へ、A禁欲から解放へ、B修行感覚から遊び感覚へ、C同一化(継承者)から隔たり(局外者)へ、D自己直視から自我分裂へ、E自立への渇望から無意欲、しらけへ、の6つである。この新しいモラトリアム心理は、元来、アイデンティティ拡散の病理としてとらえられるものである。  この問題の背景には、青年期が過渡期としての性格を失い、青年文化が成人文化に対して独自の存在権を主張するようになったこと、さらに大人社会の行動パターンが青年にとって魅力的なモデルとしての意味を失ってきていることなどがあげられる(安藤喜久雄・児玉幹夫編『社会学概論』学文社)。また、モノは豊かになっても、青年の自由な行動や挑戦が社会によって阻害され、他者や制度の管理下に置かれる状況のもとでは、モラトリアムが実態としては力を失ってしまうという現実も見逃してはならない。 ●対抗文化  社会の支配的な文化に対して、それを支えるのではないもうひとつの文化、対抗したり反逆したりする文化を対抗文化(counter culture )という。未開社会のように社会分化が十分に発達していない場合は、普遍的文化が圧倒的優位を占めることになるが、社会分化が進展するにしたがって、特殊的文化が増大する。現代のように流動的に変化している社会では、そのような任意的文化の割合が増大し、ときには社会の支配的文化に対抗する文化の様相を呈することもある。(安藤喜久雄・児玉幹夫編『わかりやすい社会学』学文社)  とくに青年文化(youth culture )については、1960年代末に先進諸国で起きた「青年の異議申し立て」など、おとな社会の支配的文化価値や規範を拒否して、対抗文化の性格をもつことが多く、それが新しい社会の創造につながるととらえられてきた。しかし、生きる主体性自体を管理社会のなかで失いつつある現代青年が、そういう対抗文化の発信者としてのパワーを持続し発揮し続けることができるのかどうかは今や疑問である。ただ、社会的逸脱を最初から忌み嫌うような先入観や偏見をもたない社会学の立場からは、普通なら軽視されるような非政治的、あるいは「低俗」とされる文化についても、それを対抗文化の萌芽として評価できる場合が大いにありうるのである。