生涯学習と文化の街づくり               岩淵英之編著『生涯学習と学校5日制』エイデル研究所                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 1 生涯学習社会のなかでの文化の位置 1−1 「私は音楽はだめです」と平然とは言えない文化風土を  昭和音楽大学では平成2年度から短期大学部にも社会教育主事課程を設けた。その年は、私がそこで教員として勤め始めた年でもある。音楽の良さがわかっていて、しかも、もっと広く人々が幸せになるためのお手伝いができる資質と能力をもったリーダーを、この社会教育主事課程からどんどん生み出していきたいと思っている。  新人の私に対して、この大学が発行している広報紙からの取材があった。本書で与えられたテーマに関係するので、その記事の一部を紹介したい。1)  西村さんは、以前に勤めていた国立社会教育研修所で、ある高名な指揮者から、教育関係者への苦言を聞いた。その指揮者が中学校に頼まれて演奏し、そのあと、校長室に迎えられた。そこでの雑談で、音楽に関わる話題を出そうとしたところ、そこの校長が、 「あっ、私は音楽はわかりませんから」  と、臆面もなく言ったというのである。自分が音楽がわからないということを、教育者でさえ平気で言ってしまえる今日の日本の文化風土を、その指揮者は憎んでいた。  西村さんは言う。その校長は、音楽を、とても難しいもの、専門家でなければ理解できないものと思い込んでいたのではないか。だが、本当は、音楽とは、生涯を通じてその人なりの人生を楽しんでいくためにすべての人に必要な教養の一つであり、それを「わからない」と平気で片付けてしまうことは、たとえば「私は文字がきらいなので、本や新聞はいっさい読みません」と言っていることと同じではないか。音楽への関心も、読み書きの能力も、いずれも人間が幸せに暮らすための不可欠の、そして楽しい生涯学習なのである。  西村さんの話を聞いていると、これからの生涯学習社会には、たくさんの人々が学校を卒業してからも生涯にわたって音楽に親しめるような環境づくりが求められているのだという確信がわいてくる。  もちろん、「音楽はわかりませんから」という言葉自体を責めるわけにはいかないだろう。じつは、筆者自身も音楽大学に在職しながらも、クラシックやモダンジャズなどについては、その魅力がなかなかわからないでいるのである。だから、人に聞かれた場合は正直にそう話すことにしている。しかし、そのときには、なにか自分の弱い部分をさらけだすときのような恥ずかしさと、自分自身が音楽の良さを十分には知らないことに対する淋しさや後悔の気持ちを感じざるをえない。  これからは生涯にわたってゆっくりと音楽に親しみたいと思う。これを生涯学習にならって「生涯音楽」と呼びたい。 1−2 好きだからこそ行う生涯学習・文化活動  これと同じ広報紙の同じ号の巻頭言で、漫画家の砂川しげひささんが次のような巧みな文章を寄せている。2)  ピアノを習ってて分かったのだけど、ピアノの先生ってあんまりクラシック聴いてませんね。ぼくの先生は某音大のお嬢さんだったのですけど、この人まるで音楽聴いていない。そりゃ、ショパンとかベートーヴェンのピアノ曲は自分が習ったから知っているけど、ベートーヴェンの「田園交響曲」すら聴いたことないのです。  どこかおかしいです。思うに、学校で絞られて、本来の音楽を聴く楽しみを放棄させられてしまっているのです。そんなの可哀相。できるならサッサと音大なんか止めて、家でありったけの時間を割いて、ベルリオーズやマーラーを聴きまくったほうがイイくらい。これは半分冗談だけど、半分は本当です。やっぱり音楽を勉強するにも、基本は音楽が好きでなくちゃ。学ぶ前にまず好きになることですよ。恋をする時だってまず相手を好きになるんでしょ? それからいろいろ付き合っていって細かいこと知っていくんでしょ?  音楽大学の広報紙の表紙を飾る文としてはずいぶん大胆な内容だが、しかし、文化享受のあり方を本質的に、かつ、端的に衝いていると思う。ここで繰り返すまでもなく、生涯学習とは、基本的には、個人がやりたい学習をやりたいように行うことである。だから、その原点は「好きである」ということになる。文化活動においては、その原則がよりいっそうはっきりしてくる。砂川しげひささんが苦言を呈しているように、文化を享受するときの本来の楽しみを放棄させられてしまうような教育だったら、生涯学習時代にはそぐわないのだといえよう。  そもそも、どういうジャンルの文化を好むかということなど、まったく個人の勝手である。しかし、人びとが希望すればさまざまな文化活動のメニューやチャンスと出会える環境になっているかどうかについては、生涯学習の援助者や文化行政がつねに目を配っていなければならない。そうでなければ、「人生のなかで出会うべき恋人(文化)と出会えなかった」という不幸な人生をつくりだす危険性さえあるのである。 1−3 それぞれの文化活動の価値には序列がつけられない  私が東京都青年の家の職員だったころ、主催事業としてディスコダンスの合宿をやっていた。当時は社会教育の場でそんな前例はどこにもなかったが、実行委員の青年たちが踊り方をどこからか仕入れてきて、みんなに教えた。時にはディスコの店長を招いて教えてもらったこともある。この事業に対する私の自己評価はつぎのとおりである。3)  青年たちの感想は「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」とか、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」などであった。「ヒトに教えるなどとんでもない。人の前でカッコ良く踊るのが生きがい」という様子のディスコボーイが次第に実行委員会にのめりこみ、三年目のフェスティバルでは、スッと前に進み出てマイクを握り、一歩一歩そのステップを説明してくれた時は、私も他の実行委員の連中も大喜びした。  ディスコで汗をかくと、とにかく身も心もすっきりする。しかし、今も昔もお店のディスコでは青年は意外にひとりぼっち。相手がかわいい女の子でもない限り、踊れないで隅にいる他人を、じょうずな者が教えるなどといったことはありえない。その点、社会教育や青年団体活動の場では、もっと「あたたかい」ディスコができるのだと思う。  現在では、社会教育施設でもディスコなんかふつうに行われているようだ。だが、十数年も前としてはかなりの冒険だったといえる。しかし、その当時でも現在でも、ディスコの音楽をたとえばクラシックの音楽と比べて価値の序列づけをしようとすることなどは無意味であろう。そういう価値判断は個人の勝手に任せればよいことである。  それよりも、文化事業の評価の視点は、まず第一に人びとのニーズにマッチしていたかどうかである。そして、教育事業としては、どれだけ学習効果があがったか、という視点も大切である。マイクを持ってステップ指導してくれたディスコボーイは、実行委員などの仲間との3年間にわたるつきあいのなかで自己変容したのである。  私は、学習とはみずからがみずからを変えることだと考えている。ある盲目の詩人が、テレビのインタビューで、「私はたまたま良い詩と出会っただけなんです。ほかのひとは、絵でもいいんです。音楽でもいいんです。そこでより深い自分と出会い、自分の人生をていねいに生きていくことが大切なんです」と答えていた。学問でも、詩でも、絵でも、お茶でも、お華でも、何でもよい。自分の好きな文化やそれにともなう新しい空間、時間、仲間に出会うことで、いろいろなことに気づきながら人生を大切に生きていくことが、生涯学習であり、文化の意味なのでもあろう。 2 文化の街づくりの構想 2−1 「個の深み」を歓迎する文化の街づくりをめざして  文化の街づくりをめざした生涯学習の公的援助の具体的な姿としては、市民のための文化施設・文化拠点の整備充実(空間づくり)、市民がいっそう文化に親しめるようになるためのさまざまな文化的事業の推進(時間づくり)、文化団体への援助や指導者・ボランティアの養成(仲間づくり)の3つがあげられよう。この3つの間(これをサンマと称する)をどのようにつくりだしていくかが重要である。  また、当然、それらの根底には、市民文化の担い手は市民自身であり、行政は市民文化の内容にまで介入しようとするのではなく、条件整備に努めるべきであるという考え方がなければならない。しかし、それにしても、公的援助であるかぎり、条件整備にもおのずから限界がある。すべての要求に行政が対応するということはできない。プライオリティー(優先度)が問題になる。ところが、すでに述べたように、それぞれの文化を行政が価値序列づけするわけにもいかない。それより、ふつうは公共性の大小などがその重要な要素になる。それでよいと私も思う。  しかし問題は、何が公共性か、いまはどんな文化支援活動のしかたが公共的なのか、ということであろう。予想される答えは、「多くの人びとが享受できるもの」「集団的に取り組まれるもの」などであり、それもそれなりの指標にはなるかもしれないが、私は、それが個人や少数者の文化を公共的でないと短絡させる原因になりかねないことに対して大いに危険性を感じる。そういうマス(多数、集団)中心の考え方とは異なって、私は、文化の街づくりの新しいあり方について、基本的にはつぎのように考える。  1つは、文化が個人に特有に深まることを歓迎し、しかもそれをコミュニティ形成に活かそうとすることである。そういう個人の深まりを私は「個の深み」と呼んでいる。また、その援助の特徴はMAZE(迷路)型ということになる。2つは、個人の自発的意思から「異質」の他者(個人)と自由に水平に交流しようとするネットワーク・マインドを基調とするということである。パーティー型ということにもなる。3つは、文化の享受主体としての市民だけでなく、文化創造主体としての「突出的」市民をも支援対象として十分に認識することである。  以上の3つについては、さらに詳しくは拙著「生涯学習か・く・ろ・ん」の全体の論調を参考にしていただくことにして、ここでは簡単にではあるが文化の街づくりのあり方を具体的に考えていきたい。 2−2 文化の空間づくり  市民が文化を身近なものとして楽しめるようにするためには、まず、芸術・芸能のための大・小ホールや、美術、工芸などのプロ・アマを問わない作品の発表のための美術館、展示スペースの設置などが必要である。また、市民の知的生産のための書斎や芸術創造のためのスタジオ、アトリエの機能も求められている。そこでは、グループ活動のためばかりでなく個人の研究や文化創造のためにも、スペース、必要な道具、資料・情報などを提供し、あわせてその成果の交流と発展の機会を用意しておく。このようにして、個の文化的深まりを今後の社会が求めるものとして歓迎しつつ、本人の自発的意思のもとでその成果が社会に発揮されるような条件を整えるべきなのである。  これらの空間は、1つには、メディアそのものとしての機能を発揮する場であると思う。質の高い文化や市民の手作りの文化など、いわばほんもののなまの文化を直接発信するとともに、異種メディアを縦横無尽に駆使して文化情報を提供する。それらは、古くさい啓蒙主義とは異なって、どう受けとめてどのように自己変容に発展させるかは市民一人ひとりが決める、という姿勢の表れである。しかし、文化の空間は、そういう市民の自己変容に役立つメッセージや情報を媒介することによって、文化のメディアとして機能するのである。そのためには、感度のよいアンテナが張りめぐらされ、研ぎ澄まされた文化情報がその空間に集積されていなければならない。これは、今日の支配的なメディアが文化に関する人間の主体性をややもすると阻害しがちな傾向に対して、対抗文化としての意味をもつことになる。  2つには、新しい文化を研究・創造・開発する場である。大学が教育機能だけでなく研究機能をも不可欠としていることを考えるならば、一般の文化施設においても既成の文化を後追いしているだけでは魅力ある空間にはならないことが推測できよう。そのために、第1に、文化に関わる市民・団体のネットワークセンターとしての機能を発揮すべきである。そこには、プロ・アマ問わず気楽に水平に集えるたまり場があり、それぞれの個性ある発言の交流がある。第2に、その研究・開発の成果は積極的な広報・広聴活動とリンクすべきである。第3に市の内外で広く行われている文化創造や研究・開発を、積極的に支援し組織化するセンターとしての機能を発揮すべきである。  3つには、広域の文化拠点として機能を発揮する場であるべきだ。行政による地域区分は文化にとっては大きな意味をもたない。それぞれの文化の空間が、それぞれの種類の文化のパイオニアとしての独自の役割をもつのであって、それらは全体として相互補完や相乗作用を及ぼすのである。市外の人びとの希望に対しても分け隔てなくその参加を歓迎するネットワーク的な精神が大切である。そのため、たとえば、文化の空間が発信する情報(広報)は近隣市町村や首都圏、そして全国に向けたものでありたい。そのほか、すでに述べたネットワークセンターとしての役割は、該当する文化に関連する全国の人びとの心の支えにもなるべきものである。文化の空間の役割は、行政のたてわりの意思決定、意思伝達システムから離れて自立し、それを用意した自治体の固定的なエリアを越え、異質の交流を重視する水平なネットワークへと向かうのである。 2−3 文化の時間づくり  生涯学習の議論のなかに、統計的には学歴の高い人ほど引き続き学習行動を行っている割合が高いことから、生涯学習の推進は人間のあいだの格差をかえって広げてしまうのではないか、というものがある。たしかに、公的役割としては、今まで文化や学習から疎外されてきた「学習・文化の底辺層の人びと」にほど手厚く条件を整えていく必要があるだろう。しかし、それが、いつまでも入門編にとどまるような講座を開いていたり、低いレベルの文化・芸術を交換するだけのものであったりすることならば、それは肝心の「底辺層」からさえ見向きもされなくなるだろう。  実際、公的学習事業に対して「安かろう、悪かろう」という先入観が市民のあいだにあるのは、一部のそういう貧弱な公的事業の結果の表れといえる。人を小馬鹿にしたような事業の「恩恵」を心から喜んで受け入れる従順な「大衆」など、もはや存在しないと思ったほうがよい。文化事業は、親しみやすく、わかりやすく、なおかつ、こころざしが高くなければならない。  そういう事業の1つとして、先端的スクール事業が考えられる。身近な学習機会だけではあきたらないハイブロウ(教養人)の文化要求に応える講座・教室を打って出るのである。大学の公開講座が人気があるのは、高等教育を受けてみたいという市民の気持ちの表れでもあり、そういう高等教育機関との連携事業なども考えたい。  2つには、恒常的イベント事業が考えられる。いつでも、市民が気の向いたときにふらっと立ち寄ることのできる催しが開かれている必要がある。たまに家族がそろって夕食をすませたあと、急に思い立っても近くの街角でコンサートが聴けるようになっていれば文化の街づくりとしては理想的である。そのためには、民間団体の自発的なイベントなどに対しても、共催や広報活動などの援助をする必要がある。また、年度途中でもすみやかにそれらに対応して必要な事業を実施できる柔軟な経営が求められる。  3つには、メディア活用事業が考えられる。毎日のようにマス・メディアから提供される芸術・文化の番組をよく把握し、より詳しい知識や情報等を地域のフェイス・ツー・フェイスの場でのやりとりやパーソナル・メディアによってフォローする。そのことによって、身近なところで気軽に文化を享受できるマス・メディアの便利さを活かしながら、しかも、マス・メディアからの一方通行の情報だけでは実現できない文化主体としての市民の成長を促すことができるのである。 2−4 文化の仲間づくり  上に述べた空間と時間を実質的に創り出し、支えるのは人間や諸機関であるが、それらがおたがいに関係をもちながらそれぞれの個性を発揮するということになる。その関係は、上下の階層分化を基調としたヒエラルキー型ではなく、他者の異質の個性を歓迎するネットワーク型である。ここでは、ネットワーク型の文化の仲間づくりの特徴を考えてみたい。  1つは、個人や少数派を大切にするということである。文化がいきいきと育まれるためには、一人ひとりが心を開くことのできる仲間が必要だが、それはとにかく集団がありさえすればよいということではない。いつも援助対象を団体(マス)としてしかみないやり方だったら、その文化行政は団体のメンバーからさえも嫌われてしまう。だれだって自分のことをひとつの価値ある個性として認めてもらいたいのである。また、少数の人びとの文化もけっして特殊な事例としてかたづけられるものではなく、えてしてこれからの文化の先取りである場合が多い。少数派でも、社会的、文化的価値は大きいかもしれないのである。数を稼ごうとする「動員主義」は文化にはなじまない。  2つは、個人や機関の個別の価値を大切にするということである。むやみに同一化を求めようとすべきではない。ネットワークとは、自発的意思にもとづく水平なギブ・アンド・テイクの交流であり、そのつながりはゆるやかで、参入と撤退、出会いと別れを自由に繰り返す。そこでは、互いが異質の自立的価値をもっており、その価値が相互に連携する。それゆえ、特定の目的や形式にあまり執着せず、そのときどきにさまざまなプロジェクトが各自の自発的意思によって自由奔放に進められる。  3つは、ヘッドシップではなくリーダーシップが発揮されるということである。階層的上位者としての制度上の権威にもとづく指導性(ヘッドシップ)ではなく、指導者個人の魅力や能力(リーダーシップ)によってまわりの人びとの個性と自発性がいっそうのびのびと開花することこそ、文化活動における人間関係のあり方である。そのような姿勢にもとづいて、文化に関わる指導者、ボランティアの養成・研修やそのための援助が行われるべきである。  ここに提唱したネットワーク型の文化の街づくりを支えるための、行政にとってもっとも大切なコンセプトは、「対話」ではないだろうか。従来は、管理上の観点からはルールの押し付けが、また、文化的・教育的な空間でさえ上から下への一方的な情報伝達が行われがちであった。しかし、文化の街づくりに対して求められているのは、個人の自発的意思であり、自立的価値である。それは、対等な対話のなかで、おたがいが見つけ出していくものなのである。  そういう前提のもとであれば、文化政策の経営にはむしろ強力な個性が望まれる。そこには、行政側の個性が反映した強力なアピールがあって当然なのである。この「自治体行政の個性」は、文化活動の側面における市民の主体性の獲得をむしろ促す方向で作用するであろう。 1) 「人のある風景」、昭和音楽大学「ビバ・ラ・ムジカ」11号、1991.8. 2) 砂川しげひさ「クラシックほんとに好き?」、同上 3) 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん』、学文社、1991.4.