「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その4)  −出席ペーパーに表れた学習者からの教育批判と教育評価@−                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(4)  −The Criticism and Evaluation of Education by Learners appearing in Attendant-Papers@− ※ 印刷にあたっての筆者からのお願い  文中のアタマのmitoという文字は、読みやすくするため、すべてゴチックにしてください。 1 今回の論文の位置づけ  「個の深み」を鍵概念としたこれまでの一連の拙論の副題を挙げれば次のとおりである。その1(平成3年3月)−「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(副題なし)、その2(平成4年3月)−出席ペーパーに表れたその実態と可能性、その3(平成5年3月)−学習者の発言(ペーパー)に対する指導者の対応のあり方。  今回は、学生の出席ペーパーをもとにしながら、現代青年の批判精神の所在について明らかにしたい。そして、とくに「mito的授業」への学生からの実際の批評をとりあげることによって、大学運営の目下の課題のひとつである学習者自身による授業評価(社会教育でいえば事業評価)のあり方をより本質的にとらえるための一助ともしたい。ちなみに、教育評価に関する私の問題意識としては、次の3つがある。 @ その教育を支持する人が量的にどれぐらいいるかを気にするだけの評価ではなく、たとえ1%の学習者の批判であっても、それを教育に反映できる評価にしたい。 A 良いか悪いかの「程度」だけを気にする平板で固定的な評価ではなく、新しい教育の方向を探り出せるような個性と開発性の豊かな評価にしたい。 B 学習者が被調査者として固定されることなく、名実ともに評価主体として成長できるよう、教育側と学習側とがともに育つという教育的観点をとりいれた評価のあり方を明らかにしたい。  以上の教育評価の問題においても、そこで問われているのは、評価主体(ここでは学生)が真の意味での批判能力をどれだけもっているかということである。そのため、これらについてはかなりの分量の記述が必要になりそうである。簡単には語りつくせそうもない。そこで、下記の3以下に予定した内容については次回以降に譲ることにする。これに関わる出席ペーパーおよび私のコメントは事例としてはすでにまとめてあるので、それを希望される人にはMSDOS標準テキストの形態で提供する。  1 今回の論文の位置づけ  2 知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際  3 教育「される」ことへの反発  4 教師による学生批判  5 楽園追放は受けとめるしかない  6 批判は否定とは異なる  7 批判は必ずそれなりの真実を表している  8 真理には到達しえない  9 批判の刃を自己にも向ける 10 他者の存在が自我を深める 11 自他批判を通して身を構え直す学習者たち  なお、ここで紹介した「出席ペーパー」とは、学生が講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くものであり、それに対する私のコメントは翌週の授業の冒頭に行われる。また、ここに挙げた「S大・S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事の課程を学ぶ大学生と短大生であり、「T大T部・U部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の1部学生と社会人入学者を含む2部学生である。そして、mito以下のコメントは、それぞれの出席ペーパーについて私が授業までに準備しておいたメモである。 2 知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際(改訂後) 1992.12. 2. T大U部社会教育概論、男  何か最近、mitoさんの講義って、説教くさくてつまらない。4月、5月の頃は、毎週、来るのが楽しみでしたが、今ではそれほどではありません。(全文) mito 「説教くさい」というのは、ぼくにとって最大の批判に近い言葉だ。ちなみにぼくの授業に対する最大の批判は「退屈する」ということである。「説教」からは「反抗」が生まれるけれど、「退屈」からは「忍耐」ぐらいしか生まないからだ。幸い、「退屈」という批判は、今まで一回も受けたことがない。それにしても、ここまでものすごい言葉を使って批判するのなら、ぜひ、「どこが」説教くさいかということを付け加えてほしい。そうでないと、「学生からの批判(暴力は禁止)はすべて受けて立つ」と言っているぼくとしても、どう対応すればよいかわからなくて困ってしまうのだ。この状態のままだと、ぼくとしては、少なくともこの学生に対しては、「論争してぼくに負けるのが怖いから、理由は言って(書いて)こないのだろう」として片づけるしかなくなる。そして、社会的に見れば、批判をそのように片付けてしまったぼくのほうが正当だということになってしまう。そんなことでは、せっかくの批判が批判としての力を持たなくなってしまうのだ。もっと主体的な批評精神を身につけてほしい。 1992.12. 2. T大U部社会教育概論、女  ちょっと今日は疲れていて、聞くことに身が入りません。はじめのほうは(パフォーマンスタイムで配られた)アンケートに答えていたので、レジメは目を通しただけです。ちょっとアンケートをした人へのつっこみがこわかったなあ。先生の質問が社会的権威に満ちて聞こえたのは気のせいでしょうか。早口なところもよくないのかもしれないです。  自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです。  眠くってなんにも考えられません。(障害者のための絵画教室の)ビデオは悪くなかったと思うけど、素直に感動できませんでした。こういう人もいる。わたしはわたし。自分なりに生きていくしかない。それが全て。ネットワークはあれば素敵だし、なければ淋しい。でも、なくてもとりあえず困らないから。 mito まず、「自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです」という指摘については、ぼく自身、「これだったんだ」という感動をもった。授業の心構えまで「まとめ」に入ってしまったぼくを、的確に批判している。 mito 「アンケートをした人へのつっこみがこわかった」というが、なぜこのアンケートをしたいのかを調査者自身が明らかにすることは回答者に対する礼儀だとぼくは思っているから、アンケートの説明の終了の後、「このアンケートであなた自身は何を知りたいのかも言ってください」と要請しただけである。調査者に対するつっこみというよりは、むしろ支援であったはずだ。それを「つっこみ」としてとらえるのは、被害者意識なのではないか(早口はたしかによくないだろうが)。実際、アンケートをした本人は、「先生にめぐりあえて良かった。今の私の本心です」とまで言っているのである。 mito そもそも、この授業では、ビデオは「素直に感動する」ために視聴しているのではない。だから、この学生の「こういう人もいる。わたしはわたし」というとらえ方もありうるのだ。感動しても素晴らしいし、感動しなくても感動しない深みがありうる。どちらでもよいではないか。ただ、授業を行なうぼく自身としては、「共感的理解」や「メディアからの主体的摂取態度」を体得することをねらいとしているのは確かである。 mito ネットワークは「すでにあるもの」や「エスタブリッシュメント」ではない。ヒエラルキーに抵抗する「個」から生まれるものであり、それをほしいと思う者が「つくりだそうとするもの」である。そして、人間同士がヒエラルキーを離れて完全に相互信頼することは究極的には不可能だから、最後まで「完成しないもの」でもある。そこに感じる「淋しさ」は受容するしかない。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)久しぶりにこの授業に出た。言うこと、言うことに、からみついてくる生徒。それについて真剣に考える先生。生徒の書くペーパーやつっこみにドキドキしたり、訳わからない質問に困ったり。すばらしい先生だと思った。だけど、顔が笑ってても目が笑ってない。余計なお世話か・・・。今日の話、私はほとんど先生の意見に賛成だった。なんか先生が生徒で、生徒が先生みたい。そういうのも大切だと思う。 mito 「顔が笑ってても目が笑ってない」というのは、じつはぼくの限界性を鋭く突いたものだと思うが、こればかりはどうしようもない。「演じているぼく」のほうを評価してもらうしかない。しかし、「先生が生徒で、生徒が先生」とはいい言葉だ。ぼくが先生病にかかっていない証拠として、肯定的に受けとめておきたい。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (mitoが講師をしている青年教室の参加者がモグリで出席)みとさんの「すばらしい」という意味は? みとさんの考える自己実現の意味は(仕事は入らないのか)? 社会にgiveしないといけないのか?  何でも言える雰囲気とか、とってもよいと思う。でも、みとしさんは、今、何かにしばられていて、その中から声を出しているような気もする。(1時間目が)「まとめ」ということでなのかなあ? (ペーパーにあった)「説教」にはちょっと共感。なんとなく真剣になっていろいろな話ができる時間がもてるっていいな。 mito このペーパーを書いたこの人には、ぼくが1時間目に「自己表現できないことは不幸である」と言い切ってしまって、ある学生から批判を受けたことについて、2時間目の授業中、「みとしさんは本当に自己表現できないことは不幸だと思っているのですか」と指摘された。それは、ぼくが絶句してしまうほどの鋭い質問だった。「まとめなのだからある程度の言葉の捨象は仕方ない」と言って単純化して逃げようとしているぼくの首ねっこをつかまえられて引き戻されたような気がした。「何かにしばられていて、その中から声を出している」というのも、ぼくが教師という社会的役割を遂行している以上、仕方のないこととはいえ、もう少し発展して論ずれば、教師と学生との知的水平空間の質的深化の契機となりうるものであろう。 mito 社会にgiveしたくなければしなくてよいと思う。しかし、そのときは、人間の尊厳を守るための福祉的な意味以上の報酬や見返りを社会に期待することは筋違いであるということは知っておかなければならない。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (mitoが1時間目の授業である学生に「説教くさい」と書かれて興奮していたことについて)人にものを言われてカチンとくるというのは、その人がそのことを気にしているからなんだと思う。気にしていないことを人から言われてもあまりパッとしないし、それがとても第3者から見たらヒドイこと言われているとしても、本人は気にしないということは多くある。しかし、とても気にしていたり、相手に対してあまりいい思いを抱いていなかったりのどちらかが入ると、とても激しく怒る場合があると思う。  人と人というのはわかり合わなくてはならない。相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならないと思う。今日のmitochanにはそれがなかった状態だったから、私は(授業中のフリーディスカッションで)瞬間の幸福感の持続が人生なんだと言った。コロコロ変わる人間は一貫性がない。普段のなかから、哲学性のあるニュアンスの響きがあるほうが、ずっとすごいのにと思う。口調ややり方を変えるだけじゃなく、内容を変えられないからやり方を変えているように思った。素直な人間と人間のぶつかりって、本音で語ることが第一! mito たしかに「説教くさい」と評価されることは、ぼくが一番恐れていることだ。そうなりたくないと思って教師をやっているからだ。しかし、なぜ、それを学生から言われて動揺したらいけないのか。動揺して同然ではないか。あるいは、その動揺を口調ややり方に反映させてしまったからいけないのか。しかし、教師の口調のことなど、学生側は無視すればいいではないか。それこそ、授業内容が学習にとって有効だったかどうかこそを問えばよい。(もちろん、学生に対して「お前ら」とか「馬鹿野郎」とかの学生の人格を傷つける発言などがあれば糾弾されて当然だが、ぼくはそういうことは言わない)。  今回の授業内容に新しいものがあったかどうかはともかく、少なくともぼくはけっして「内容を変えられないからやり方を変えた」のではないことは明らかにしておきたい。「相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならない」というのは同感であり、興奮して共感的理解ができないでいるぼくの弱さを指摘したものとして謙虚に受けとめたい。しかし、興奮してしゃべっているぼくに対する「内容を変えられないからしゃべり方を変えたのだろう」という言葉は、「えっ、ぜんぜん違うよ」という感じであり、それこそ共感的理解をされないまま勝手に診断された感じで、とてもいやな言葉である。(しかし、ぼくが自分で「どんな批判でも受けて立つ」と言った以上、学生は何を書いてもよい。ぼくは受けて立たなければならない。受けて立った結果が、このぼくの文章である。)  ただ、教師自身の動揺(もちろん私生活のものでは論外だが)を口調ややり方に反映した(させてしまった)こと自体が不快に聞こえるというのなら、それはそうなのかもしれない。しかし、それはぼくの授業にとってはむしろ大切なことなのであり、ぼくの授業の個性だと思って受けとめてほしい。ぼくが言うこともコロコロ変わるかもしれないが、それに耐え勝ってほしい。profess というのは、公言する、(信仰を)告白するという意味なのである。学生はその「告白」から自分なりに学ぶ必要がある。ぼくの授業も、学生を気持ち良くさせるために行なっているのではない。そのときは教師も学生も苦しくていいから(つまらなければ困るが)、人間存在や幸福追求に関する真実に近づくために行なっているのだ。 mito 「人と人というのはわかり合わなくてはならない」というのは厳密に言うと間違いではないか。「わかり合うための有効な努力をしないまま不平を言ってはならない」というのが正しいのではないか。なぜなら、他者を完全に理解するというのは無理な話だし、また、「わかり合いたくない他者」がいる場合には、自分が不平さえ言わなければ、わかり合おうとする努力を放棄することがあってもかまわないからである(潔い撤退)。そして、その有効な努力とは、「相手の言うことの中に、実際に言葉にしていること以外に、本当は何が言いたいのかを引き出す」努力であると同時に、自分のほうは「自分が表現したいことを、きちんと言葉にして言う」努力なのである。教師にそういう努力の義務(社会的役割の遂行)があると同時に、学生にもその努力の仕方を学んで実践する「権利」(学習権)がある。権利だから放棄してもかまわないが、その場合はその学生は教師に抗議する権利も失う(潔い撤退)。全国的にも、学習者側から教育体制側に対して「学習権」が非主体的、体制依存的に叫ばれている実情が見られるが、本来の学習権とは、このように、厳しくさわやかなものであべきだと思う。 1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女  mito的授業を批評せよということですが、私が出ている講義の中では、1〜2番のおもしろ味があると思います。(学生による授業評価のビデオの)アンケートにもありましたが、やっぱり会話が成り立つとか、自分なりに考える機会を持たせてくれる授業が刺激があって好きです。授業の内容はだいたい肯定的に受け取っています。理解するのが難しい(共感できないという意味で)ことでも、自分なりに歩み寄って、肯定できない自分は偏った視点にいるのかも、と柔軟性を持っていこうと努めています。  以前に、頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ、というようなことを言っていましたが、これはかなりショックでした。話しかける勇気がなくて、仕方なく頬杖ついているしかない自分は、自分でも情けない姿でコンプレックスでもあるのですが、それは辛いことです。学生の核に迫っていこうという講義の中で、断定的な言動、姿勢はやや矛盾を感じます。出席ペーパーへのコメントにしても、反論的な意見に対し、どれだけやりこめられるかという対応をしているような感じを受けます。学生の意見に対して、先生の考えが変わること、影響を受けることがもっとあっても良いのではないかと思います。 mito 「頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ」は、厳密に言うと「相手がわかってくれないからといって、頬杖ついてその不平を相手に表そうとするぐらいなら、その相手に言葉で表現せよ」という意味である。「自分が言葉なんかに出さなくても、相手には自分の気持ちをわかってもらいたい」と愚痴をこぼす学生が多いので、この言葉を考え出したのだ。しかし、この言葉には、「その場しのぎのウソ」もたしかに混じっている。ごめんなさい。  このように、「断定的なレトリック」には必ず多少のウソが混じっている。だが、そうでない意味でのレトリック(「○○であることはないことはない」「こうでもあり、また、こうでもない」など)では、何も言っていないのと同じだ。後者のレトリックも、答申作成の最終段階などでは妥協の産物として仕方なくやることがあるが(社会的役割遂行)、できればやりたくないこと(自己実現の面からは)である。一番望ましいのは、ショックを受けてしまった学生が自分自身を罰するのではなく、この知的水平空間(この言葉も重要ではあるがレトリックだ)においては、ぼくの「断定的なレトリック」に対して、それが通用しない事実を挙げてぼくのレトリックを破綻させることなのである。そこまでされれば、ぼくはそのレトリックを修正するであろう。そのことによってのみ、真実により近い(それでも到達はしない)レトリックへの発展がある。 1992.12. 9. T大U部社会教育概論、男  mito先生の授業については、タメになって、また、型破りなところが良いと思っているが、どーも後期になって「mitoちゃん」から「先生」になってきているように感じている。先生だけが原因ではなく、われわれ学生側の態度にも問題があるのかもしれませんけど・・・(ぼくも今日、寝てしまいましたが)。 mito ぼくは学生を(退屈させて?)寝させてしまったなら、教師であるぼくのほうが悪いと思っている。なぜならば、授業は発表ではなくて教育(=学習者側の主体性の獲得)だからである。もちろん、疲れて寝てしまうぶんには、大きないびきをかかない限り、学生にも教師にも問題はない。しかし、そうではなくて退屈ならば、どこが退屈かを言ってほしい(われながらかなり無理な注文だとは思うが、あえて要請している)。後期になって、ぼくの授業は前より高等教育のあり方に近づいてきたとぼく自身は自負している。ぼくには、今のところ、先生病(自分は学生より立場が上で尊敬されるべき存在であると思い込む病気)にかかっている自覚症状はないのである(これが一番怖いのかも)。このペーパーのような学生側からの訴えは、具体的にどこがそうなのかは指摘してもらえないことが多く、ぼくのほうだって真綿で首をしめられているような焦燥感を感じるのだ。 1992.12.16. T大T部社会教育計画、男  私は自分自身で授業料を払っているわけではない。したがって、私は間接的消費者であって、直接的消費者ではないのである。もし、自分で働いて、そのお金を授業料に当てているのであれば、それなりに授業に関して主体的になりうると思う。このことはその他多くの学生についても言えることである。だから、西村先生の「学生=消費者論」(教育の消費者としての主体者意識をもてということ)には致命的欠陥が内在していると考えられる。つまり、間接的消費者としての学生の位置づけがなされていないのである。 mito 本来は授業料を自分で払ってでも良い授業を受けたいのだが、自分には経済的能力がまだないから保護者等に支払いを(さわやかに)依存しているという意識を学生がもてれば、それは「間接的消費者」としての主体性と言えるだろう。 1992.12.16. T大U部社会教育概論、女  (まとめの授業で)今回のテーマは「何で生きてるの?」ということですが、私はもう、何で生きているのか、はっきり目的もわかっているし、自分が、今、何をすべきなのかもよくわかっている。そして、実践しています。私は毎日幸せだし、目的を持って毎日行動しているから、やりがいがあるし忙しいです。  先生は、今の若い人はヤル気もなく、倦怠感で充満していて、何で生きてるの?と聞かれたら心のポカッとあいた部分を突かれたようになるという(ことを前提としたような)聞き方をいつもしてきますよね。「今の若い人は学歴がないと社会では通用しないから勉強している。そのほうがあとが得だから」と先生は考えているから、かわいそうだ、何とかしてやりたいっていう気持ちが強すぎて、なんだか生徒をバカにしてる気がします。今日のテーマははっきり言って頭にきました。「おまえたち、ヤル気をなくして、毎日かわいそうだなあ。むなしいだろうなあ」って先生が思っているように私には感じて、ほんとうに失礼だと思います。でも、この内容は、先生がちょうど私たちぐらいの年齢のときに感じられたことだと思いますし、もしかしたら先生自身が今でもそういう気持ちがふっきれないのではと私は思いました。  しかし、先生のことは尊敬しています。ただ今日は、このテーマに腹を立てただけです。たくさんの学生はそうなのかもしれませんが、私は目的を持って毎日過ごしていて幸せです。 mito ぼくが自分のことはさておいて、「今の若い人はかわいそうだ」という言い方をしたのなら謝りたい。その言葉を言ったのだとしたら、それは、ぼく自身に「自信がない」ところがあって、そういう非主体的な言葉が出てしまったのだろう。ぼく自身の「自信がある」部分でこのペーパーの訴えに応答するならば、この学生の察するとおりである。すなわち、ぼく自身が、「ヤル気をなくしたり」「倦怠感を感じたり」「心のポカッとあいた部分を持っていたり」「学歴に引きずられたり」「空しさを感じたり」する気持ちを「ふっきれていない」のである。そこからぼくの問題意識も生じているのだ。  しかし、そういう消極的な気持ちを感じたことのない人とはどういう人間なのだろうか。ぼくは地球上にそんな人はいないと思う。現代社会において、一定の個人だけは「解放」されていて、その人たちは「自分の生きる目的」「自分のすべきこと」に疑問や不幸を感じることがなく、「楽しい忙しさ」しか感じていないとすれば、その人たちはほかの誰かを抑圧するなり傷つけるなりして生きているのではないかと思う。そんな人たちの人生は、小説の主人公にはなりようのない「個の深み」のないつまらない人生だ。このペーパーを書いた学生は、きっとそうではないのだと思う。自分や社会にマイナスの部分がないのではなく、そこで痛みを受け、しかし、それを受容した上で「目的を持った生活」をしているのだろう。だとすれば、そのマイナスの部分の存在をはっきりと認識したほうが、より積極的で深い人生が送れると思う。 1992.12.16. T大U部社会教育概論、男  (新聞報道の形式で)どうした美東士!! おまえの授業はどこへ行った! 前期の勢いなく、mitoさんらしさの喪失か!!   T大U部水曜1限の時間が変わろうとしている。それは「社会教育概論」のmitoちゃんこと西村美東士氏に対し、学生からの不満が多発するということから始まった。前期に突然に行なった「ジェスチャーゲーム」などの勢いのある「恥ずかしい思いはするが、他の人と無邪気に騒げた」授業がなくなり、後期からONE WAY 的、または講義的授業が多くなったのは事実である。ここで学生の声を聞いてみよう。「今までのmitoちゃんの授業というのは、私語をする気が起こらなかったけど、これじゃあぼくの職場の年輩の先生と同じだから聴く耳がなくなっちゃいますね」「後期になってから、重苦しく息苦しい授業になっちゃったよね。失望しちゃいました」。どうやら『mito氏肯定派』と『mito氏否定派』とでは、後者の派閥のほうが多くなってきている模様。「白紙のC評価」という形の犯行声明(?)などが出ていることにより事態が緊迫化しているのは事実である。  (一口コラム)mitoちゃん、最近の授業は本当に一方通行になってきております。「白紙C評価」については複雑だと思いますが、冬期休暇中、どうかもっと自分を磨いて、前期でやったような「飾り気のない授業」をしてください。期待してます。  最近、mitoちゃんの授業に出ていて思うのは、「カッコつけ授業」をしているような気がします。出会ったばかりの授業では、飾り気のないナチュラルな授業(授業を感じさせない授業)をしていたのに、後期になってからは「大学の授業」になってしまっております。どうぞ、もっと「ジェスチャーゲーム」のようなTWO WAY の授業をしてください。私の友人に「あの人は偽善者だ!!」と言い放たれてしまいました。がんばれmitoちゃん、もっと自分をさらけ出せ! この際、この時間に討論会みたいなものをしたほうがよいのでは?  (P.S.)もしかしたらVTRを見ている途中に、先生が(学生の私語を)注意してしまったことが原因になっているのかもしれませんよ!! mito ぼくは、あのとき、私語を「注意した」のではない。人間のあんな場面において明るく私語ができるという鈍感さや人間性の欠如に対して「怒りを表した」のだ。 mito 「白紙C評価」と「友だちが偽善者だと言っていた」については、同様の問題であり、もう述べたとおりである。しかし、なぜ、ぼくの抗弁よりも、そういう無責任な発言のほうに、この学生までもが引きずられてしまうのか。ピア・コンセプトの恐ろしさを認識してほしい。 mito 「討論会」が効果的にできるのならやりたい。しかし、今の状況では、教師側がかなり工夫してうまくやらないと、「普通の(非主体的な)討論会」になってしまう。このように考えているぼくを学生のほうが失礼だと思うのなら、そう思った学生が授業中に例の「ちょっと待った」をやればいいじゃないか。ただ、今のぼくは、「結果を恐れるな」と学生には言いながら、自分自身は「結果を恐れている」のも事実である。 mito 「ジェスチャーゲーム」は、それを行なう時にもぼくがはっきりと言ったように、講義形態のこの授業においては本来的なものではなく、人の目に恐怖し、他人はいないほうがよいという一部の学生の危機的な状況を感じたからこその「緊急手段」だったのである。強烈な体験学習であるからこそ効果的である反面、一部の学生をいっそう傷つけてしまうものになる。実際、「もう絶対やらないでくれ」とか「こういうことをやるんだったらあらかじめ言っておいてくれ。そうしたら、欠席するから」という切実な訴えがあったのである。  それならば、教師はどうすべきか。講義ではそれをきっぱりと諦めて、演習という条件(小人数)のときにやるべきなのである。演習なら、教師は、ワークをリタイアする人に対する他の学習者の非難がましい目(ピア・コンセプト)から、その人を少しは守ることができるかもしれないからである。実際、ぼくは演習形式の授業では、もっと「つらい」(=楽しい)授業を行なっている。それに対して、講義に向かうぼくの姿勢は「講義方式からの逃避」ではなく、「講義方式に対する敗北主義の克服」である。『生涯学習か・く・ろ・ん』を読んで理解してほしい。 mito 最近は以前より「カッコつけ授業」になっているという批判については、ぼくは弁解できない。そうかもしれないが、それはなぜだろう。どこが「カッコつけ」なのだろう。わからない。学生が「飾り気のない授業」や「ナチュラルな授業」を求める気持ちはとてもよくわかるだけに(ぼくも学習者だったら指導者にそれを求めるから)、これからのぼくの課題として重く受けとめていきたい。そのことに関する具体的な問題点や克服のノウハウについて気づくことがあったら、ぜひ情報提供してもらいたい。指導者にとっては気づきづらいことなのである。 1992.12.16. T大U部社会教育計画、男  (「私の好きなこと」を全員がしゃべる授業で)今日の授業は美東士先生の授業らしくなかったような気がする。自己革命(?−mito)をめざす美東士先生は、学生には自発能動で授業に参加してもらうはずなのに、今日はやらされているような気がした。それがなぜだか自分でもわからない。昨年の美東士先生は、もっと楽しそうに授業をしていたように思える。自分らしさを取り戻してください。 mito 「カッコつけ授業」とは、このことかもしれない。つまり、教師自身が楽しんでいないということだ。ぼくの言いたいことが通じなければ通じなくてもいい、という自然な気持ちが欠けてきたのかもしれない。 1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男  先生は、最初の講義のとき、「ペーパーにはどんなことを書いてもかまわない」と言った。だから、私は、自分がその時々に書きたいことを書いた。授業批判とか授業のテーマに沿った内容のものは、ほとんど書いていない。「お前の気持ちのマスターベーションにすぎないじゃないか」と言われてしまえばそれまでだが。で、先生にお尋ねしたいのは、ペーパーを読むにあたって、その選考の基準、今回のまとめに載せるか否かの基準は、何を基準にして選んでいるのだろうか。結局のところ、mito批評、授業の内容にまつわるものの是非、この2点に基準が絞られている気がする。  人は人の考え、人の言葉、人の行動を見て、ひとつずつ、心の年輪を増やし、自分の根を張る。自分の葉を鮮やかにする。自分の存在と意志を主張していけるようになるのではないかと私は考える。生涯学習なんて大それた言葉を使うから、その言葉自身が偉そうに聞こえる気がする。人の話を聞くことは、人が生きていく中での学習と呼べないのだろうか。授業も大事だが、もっと一期一会を大事にし、ありとあらゆる人の言葉を聞ける、言える授業を期待していただけに、結局のところ自己中心的かつ画一的な授業になっていることに憤りを覚える。  追記 この授業批判めいたペーパーをまた読んで弁解したら、先生の負けだ。 mito 負けたかどうかは本人が自分で決めることだ。知的水平空間において、他人の勝ち負けを最終的に判断してやる権利や能力を持っている人など、どこにもいない。自分が自分の負けを認めたときに、自分の考え方を変えればよいのだ。「弁解したらおまえの負け」というのは、ぼくにはルール違反のレトリックのように感じられる。 mito この文中において、「マスターベーション」は、むしろmito的授業にむけられた言葉であろう。ぼく自身、多少はそう認めるところもある。しかし、「マスターベーション」がそんなにいけないことなのか。先入観を捨てて考えてみてほしい。 mito 「マスターベーション」というと言い過ぎになるかもしれないが、「自己中心的授業」以外に、教師は学生に対して、あるいは、あなたは学習者に対して、どんなよい授業や学習援助ができるというのだろうか。もちろん、改善できる点はあるかもしれない(もっと学習者自身の学習要求の水準に合わせるとかして)。しかし、それはテクニックの問題であって、本質的な問題ではない。学生のほうも自己中心的(自分の学習関心を大切にし、「自分はこの授業をそのためにどう役立たせるか」に学習の目標を集中する、そのためには学習する側の権利も主張する)になればいいではないか。「自分のために生きる」とは、そういうことである。  ただ、結局のところ、この学生に対しては効果的な学習援助にならなかったのならば、ぼくだけは授業で「自己実現」を味わっていたとしても、ぼくの教師として与えられた「社会的役割」は少なくともこの学生に対しては果たせなかったことになる(そうか、そういう意味で「弁解したら負け」と書いたのかもしれない)。「社会的役割の遂行」がうまくいかないということは、ぼく自身の「自己実現」の阻害要因でもある。そこで、この学生の枠組を変えるための契機には本当にならなかったのかどうか、ぜひ、この学生に聞きたいところである(もちろん、快、不快の快感原則からではなく)。まあ、ならなかったのかもしれない。しかし、ぼくはできるだけの努力をすればよいのであって、学生のほうはそれを待つのではなく、ぼくに逆提案を携えて要求すべきことなのである。それでもぼくが「聴く耳」を持っていなかったら、それこそ「学習権」を行使して、大学当局にぼくの罷免を要求すべきだろう(ちなみに、ぼくがその罷免に抵抗するかどうかは、ぼくが決めることだ)。 mito ぼくは出席ペーパーのことに関しては、ウソをついていないと思う。「学生は書きたいことを書く。教員に読ませたくないものは書かない。教員は読み上げたいものを読み上げる」という原則どおりである。それ以上の基準は設けていない。なぜ「採用基準」を明らかにしないかというと、そういう基準を設ける必要性を感じていないし、そもそも、授業は、その時その時に過ぎ去っていくものだからである。しかも、学生にとっても「比べられるためのものや選抜されるための文章作成」ではなく「自己管理としての文章作成」であるから、「公開」(「mitoがいやでも公開せよ」という意味)「非公開」「コメント希望」などのマークをつけることができる。ぼくはそのマークには忠実に対応してきたつもりだ。このような出席ペーパーのルールなどの大切な「学習情報」はきちんと把握しておいたほうがよい。ぼくはこのルールについては授業中、何回も説明しているはずだ。 mito 生涯学習という言葉を大それた言葉だと感じて反発し、人の話を聞くことなどの普段の「学習」こそ大切と考えるこの人の謙虚さには、ぼくは深みを感じる。ぼくは言葉をけっこう「便利に」使ってしまうクセがあるからである。たとえば、ぼくが「私は○○に関する学習を続けていきたい」と言ったとしても、ほかの人はその言葉はきっとウソではないと思うだろうが、他人に向かって「人間には生涯学習が必要です。みなさん、生涯学習しましょう」と言ったとしたら、ほかの人は「何でだろう、どうしてこの人は他人に生涯学習を呼びかけるのだろう。そのウラには何があるのだろう」と思ってしまうだろう。  しかし、ぼく自身はどんなペーパーでも翌週までには3回、繰り返して読んで、「一期一会」を味わっている。どんなペーパーにも、それなりの「普段の学習」はできるのだ。そこには深いものもたくさんある。もちろん、時間の関係もあって、授業をそういう「普段の学習」ばかりにするわけにはいかないから、ぼくのフィルターを通して集約して紹介している。(このように「弁解」することは、はたして「負け」になるのだろうか。) mito 「ありとあらゆる人の言葉を聞ける」という期待を裏切った点については、そういうわけなのだが(ちょっと逃げてる?)、「何でも言える授業」という期待についてはぼくは裏切っただろうか。少なくとも言葉のうえでは、つねに学生の発言を歓迎してきた。バフォーマンス・タイム、「ちょっと待った」方式、授業中の発問、そして出席ペーパー・・・。この学生がそれに応じなかっただけだ。教師が言葉で保証しただけではまだ足りないのか。「自分の発言が正しいこととして認められる」という確証が感じられないと、つまり教師がもっと「譲歩」して受容的雰囲気まで醸し出さないとしゃべれないということではないのか(まあ、それは人間としては当然の心理かもしれないが)。けれども、教師側が「何を言ってもいい」と言っているのに自分が言わないのは、「言わない自分にも問題がある」と考えることも必要だと思う。そのように自分をも「謙虚に」見つめるということが、この学生の言う「一期一会を大切にする」という言葉の持つ「謙虚な」意味合いであろう。馴れ合ってしまったうえでの「一期一会」なんておもしろくない。 mito 画一化については、ぼくもつねにその危機を感じながら授業を行なっている。今後、工夫していきたい。また、学生からの提案もつねに待ち続けたい。 1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男  この授業も残りわずかになって久々に出席した。この1年を振り返ってみると、初めの頃の「自主性をもつ」とか「自分を見つめ直す」という授業スタイルに、自分は「フムフム、こういう授業もあるのだなあ」などと意気込んでいたのだけれど、後期にはまったくと言っていいほど出席しなくなった。何か疲れるのです(これは身体的に疲れるというのではなく、授業スタイルに疲れるのです)。だって、この授業は「社会教育概論」でしょ。社会教育って何ぞやと思って「社会教育」を勉強したい人だっていることをお忘れでは。そもそも自主性とか、恥ずかしさをさらけ出すことを学ぼうみたいなものは、その人自身の日々の生活の中で学ぶものであり、体験することだと最近思っている。何も大学の授業で学ぶことではないのでは?とも思い始めた。だから授業に出なくなったのか。そもそも、私自身の気持ちの問題か。  はっきり言って、mito先生の授業は、社会教育概論であれ、社会教育計画であれ、心理学であれ、文学だって、経済学だって、課目名は何だっていいような気がしてなりません。水曜1限西村美東士だって通用するでしょう。私は保守的な面があるのかもしれないが、社会教育概論の授業というものもしてほしかった。  出席もしないで、ペーパーでの指摘もしないで、最後の最後にこんなことを言うのも卑怯な気もしますが。 mito ぼくの研究テーマは自主性の促進ではない。人間の生きる主体性の獲得への援助としての社会教育のあり方だ。「うちの子どもは自主的に学習するようになった」などと言う教育ママの言葉とは無縁なのである。それから、「恥ずかしさをさらけ出せ」などという言葉も言ってない。むしろ、「恥ずかしさをさらけ出させることが心を開かせることである」という指導者側の傲慢な思い込みに忠告を発し続けてきたはずである。その上で、「一人で恥ずかしいと思い込んでいることでも、本当は恥ずかしくないことが多い」「隠したいことは隠していても、心を開いた交流はできる」ということを学習したり体得したりしてきてもらっているのだ。 mito たしかに社会教育概論と社会教育計画を明確に分けて授業をすることはしてこなかった。それは、それぞれの授業が深い意味をもっていればそれでいいと思っているからだ。ただし、この点について、たとえば「社会教育計画の○○について授業をやってほしい」という学生の要請があれば、次の週にでも対応していただろう。そのことについてぼくからの呼びかけはしたが、学生側からの応答や合意形成がなかっただけの話である。 mito この授業が「社会教育概論」ではないという話だが、社会教育の世界でもっとも求められているとぼくが考える基礎的教養に絞って話を進めてきたつもりだ。だから、この学生が「社会教育とは何だろう」という関心をもっているなら、興味深かったはずだ。また、そういう関心を掘り起こすような授業にするための工夫をしてきた。さらに、「ひとくちミニ知識」の形で基本的概念の説明も簡単だが行なってきた。そこで学生の関心が触発されればそれで十分だと思っている。ぼく以外のもっと優秀な研究者がどのような学説を打ち出しているかを知りたいのなら、活字メディアから学ぶのが一番であるし、そのための参考文献の紹介だってしてきたのだ。もしこれ以上、この授業を「概論的」(?)にしたならば、高等教育としてのmito的授業の生命は失われてしまうと思う。 mito 「社会教育概論」と「社会教育計画」の違いについては、先に述べたとおりなのだが(ちょっと逃げてる?)、mito的授業が「心理学」「文学」「経済学」などの課目名だってつけられるという指摘は、ぼくにとってはむしろ批判ではなく、過分(実際にはそこまですごくはないと思っているから)な誉め言葉としてとらえられる。ここでやっているのは、選抜試験対策講座などではなく高等教育なのである。高等教育が今日の研究の最高の到達段階を究めようとすれば、学際的になるのは当然である。「水曜1限西村美東士」というのも、過分である。今日の学問は「一人一学説」の個別化の時代にある。「西村美東士説」でぼくのすべての授業時間を貫徹できれば、それも高等教育の理想である。だからそれを目指してはいるが、ぼくが能力以上の無理をして結果としてはヤブヘビになることがぼくには怖いのだ。  もっと本質的に論ずれば、「mito的授業がほかの課目名をつけても通用してしまう」ということを学生がマイナスに感じることのほうが、ぼくには深刻な問題だと思われる。この学生はそういう自分を「保守的な面があるのかもしれない」と言っているが、保守的であってもそうでなくてもどちらでもかまわないと思う。それよりも、問題は、「ほかの課目名をつけても通用してしまう」ことについて、この学生の主体的な選択行為として(従来の課目の概念を変えないこと、つまり保守的なほうにメリットを感じて)マイナスと判断したのかどうかである。もしかすると、この学生は、今まで社会やそこで行なわれてきた教育によって与えられた枠組に、自分は納得できないままに従ってしまって、その枠組を適用してぼくの授業に対してマイナスの判断をしているだけなのではないか。  じつは、ぼくはほかの学生に対してもひとつの不満を持っている。それは「講義要項に書いてあることと、授業でやっていることが違う」という学生からのクレームが一回もつかなかったことである。講義要項は教師が学生に対して教育内容を約束する「契約書」である。それを読んで学生は、「これなら受けてみたい」と判断するのが高等教育のあり方であろう。ぼくは講義要項での文章表現にかなりの苦心をしているが、それでも1年間の授業の内実を示すのは難しい。あとで講義要項を読み返してみるとヒヤヒヤする。(だから、本当は、クレームがつかなくて助かったという気持ちもある。)  しかし、本来は、講義要項はつぎのように使われなければならないだろう。講義要項を読んで期待をもった学生が、現実の授業とのギャップに異議を申し立てる。それを受けて、教師は弁明したり、授業を軌道修正したりする。そういう相互作用があって、初めて、授業内容が「今、この時」をもとにして講義要項から離れて流動的に展開されることが許されるのではないか。学生が授業内容に不満があれば、「先生はそんなことをおっしゃるけれども、講義要項にはこのように書いてあるじゃないですか」と教師に言えるのだから、講義要項は学生にとってはもっとも大切な授業評価の道具であるといえる。教師と学生とのあいだの社会的に位置づけされた「契約書」である。それを武器に授業を批評すればよいのだ。「保守的な面があるのかもしれない」などという「反省」(恥ずかしさ?)を「さらけ出す」必要は、(批判や要請のための戦略としては)このペーパーにおいてはなかったのだと思う。 mito 「主体性の獲得」「自分や他者に対する不合理な思い込みの克服」などのあり方を考えるためは、もちろん、この学生の言うように「その人自身の日々の生活の中で学び、体験したこと」が重要な基盤になる。しかし、それはレディネスの問題であり、その基盤の上で、それらの人間の内面的な営みや、その援助のための理論構築が学問には求められる。つまり、「大学の授業以外でも学ぶこと」であり、「大学の授業でも学ぶこと」なのである。  これらのことは言葉としては、授業中、かなり言ってきたつもりだ。しかし、この授業にもっと実質的な双方向性さえ保証されていれば、この学生のような疑問や反発は、教師と学生の意見交換によって即時に具体的な解決に向かっていたはずである。双方向の授業を形式だけでなく内実を伴って創り出すということは、教師にとってだけでなく、学生にとってもなかなか難しいことなのだと痛感する。ぼくは自分が教師として堂々回りに陥っているような無力感さえ感じるのだ。これは、「ぼくは主体性を獲得することができるのか、できないのか」という問題とともに、「ぼくは他人(学生)の主体性の獲得を援助することができるのか、できないのか」という教育学のアポリアでもある。できるともいえるし、できないともいえるのだろう。 1993. 1.16. S大教育社会学、女  (指導者は、まず、おこがましさを感ずべきという)今日の話はつまんない。言ってもわかんない人にはわかんないよ。よっぽど何か失敗しないと。おこがましいって人から思われたくないからおこがましくならないように気をつけるのって、みんなやりがちだけど、それって一番高ビー。本当におこがましくない人は、何かあって改心した人か、生まれつきか、だと思う。  先生ってある意味でさらしものだと思う。短大の時も、今年度も、美東士先生の授業をとったけど、2年間、先生の本性は授業中には見れなかったような気がする。たしかに他の先生とはタイプが違うというか、意識的に違えているけど、なんかそれ以上の魅力は全然感じなくなった。他のときはどうかわかんないけど、いつも予防線を感じてしまいます。 mito この学生の出席は、今年度は、なんと3回である。それで、「つきあった」といえるのだろうか。真実の追求に対する態度がゆるんでいるのではないか。 mito 教師は授業中、本性をさらけだすべきか、そうでないか、難しい問題だと思う。この学生の発言にも重いものを感じる。ただ、「全然」を丸で囲んで強調しているのだが、それがかえって説得力を弱めている。そして、学生が教師に本性をさらけだすよう求めることは、その学生にとって主体的なことなのかについては、やはりぼくには疑問である。 1993. 1.20. T大T部社会教育計画、男  (mitoが「どんな批判でもしてください」と言ったことについてか)mitoはリベラリストのおつもりですか? それとも独善者(注・ママ)? 御自身が御自身を、あるいはその講義を、どう性格づけ、または、(我々に対して)位置づけておられるかはわからないけど、私には空虚だった。今日も空虚だ。空虚からの返答を私は期待していない。得たところで、残るのは、ただ空虚のみだろう。そして、そのことを語る私の、私の言葉の、何と空虚なことよ! とは言いながら、何かを得たものと信じてみよう。そして、その「何か」が永遠に謎だとしたら、これは意外にも素晴らしい空虚かもしれない。ああ、何と無意味なつまらぬことを言っているのだろう。 mito この学生は、全部で27回の授業のうち、5回しか出席していないのだが、なんでここまで言い切れるのだろう。もしかすると、この学生は、自らが空虚に耐えようとせずに、「空虚でないもの」を受動的に求めているのではないか。 1992. 1.20. T大U部社会教育計画、女  (社会教育のコンセプトとしての)自主的に学習するということは、それなりのトレーニングが必要ですよね。今の大学生はあまりにもそれができていなさすぎる。ルールの説明だけでこの方法をとると、結局は、「できないやつはドロップアウトしろ」と言っているように思います。3回来ればいいわけだから、頭っからそれしか考えないと思う。それでいいですか? 私は能力が少ないからそういうやりかたにはとても淋しくなります。もっとおせっかいになってもいいと思いました。2年間、ありがとうございました。 1993. 4.24. S短大教育社会学、女  先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読んでほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな? mito そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということが問題である。実際、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分が自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。そのように潔くできるのならば、「匿名といえどもみんなの前で公開しないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。 1993. 5.12. T大T部社会教育計画、女  先生の授業は学生の興味を引く話もあって確かにおもしろい授業という気もするのですが、満足できません。何か雑談で授業が終わってしまうという感じがします。まだ3回しか授業が行なわれていないので、これから授業がどう進んでいくのか、はっきりつかめないせいもあるかもしれませんが。ある程度の知識は先生が学生に教えるという形で示した後で、はじめて学生が受身にならずに積極的に授業に参加する形の授業が成り立つのだと思います。これまでの先生の授業の方法だと、予備知識のまったくない私は、先生のおしゃべりに笑ったり、反感を持ったりと、その時はいろいろと考えて楽しいのですが、授業か終わると、何を学習したのかさっぱりわからないという状態なのです。とりあえず、これからの授業に期待して、評価はBにしました。 mito 高等教育のあり方を本質的に考えてほしい。教科書は書き言葉メディアであり、授業は話し言葉メディアである。話し言葉メディアには、体系的な知識の再構築よりも、それぞれの学習者が現在持っている枠組の揺り動かしの役割のほうが期待されるのではないか。  もちろん、授業の中で、学生をおもしろがらせたり、満足させたりすることも、どちらも成功すれば、それにこしたことはないが、それよりも授業の中で大切なことは、「毒か薬か」のどちらかになる強烈な言葉をぼくが発し続けることだと思う。その点では、「毒にも薬にもならない」という意味での「雑談」をぼくが一言でも発しただろうか?(もちろん、学食やロビーなどではなく、講義中に、である)。ぼく自身は気づかないまま「雑談」をしている場合もあるかもしれないから、それをこそ指摘してほしい。  また、このペーパーのように学習成果を確認しようとするまじめな人のためには、その回ごとの教育目標を提示するなど、手の内をさらしているのだから、それを最大限に活用して批判するなどの能動的な学習態度が、学習者側の方にこそ、求められているのではないか。学習者が受け身で構えていては、高等教育は成立しない。 1993. 6.16. T大T部社会教育計画、男  ぼくは、今日、この授業に出るつもりはなかった。今もない。諸事情により来てしまったのだ。だからこれから出ていく。ぼくは、今、自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくないのです。  ところで、この出席ペーパーは、ある意味でぼくらを試すものでもあるのだろう。それはたとえば、この講義の内容とか、mitoさんの発言についてとかに、ぼくらがどう思ったのかということを知るために、という意味でだ。  けれども同時に、これらの出席ペーパーを読んでコメントされるmitoさんは、ぼくらによって試されている。いや、こういう言い方は良くないな。むしろ、mitoさんはそこに自らを置いている(出席ペーパーにコメントをつけている)のだから。  ともあれ、ぼくは教室を出ます。 mito 「自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくない」という言葉は、基本的には潔い選択を表していると思う。ただ、「この講義のために」という言葉は、「もっといい講義ならよかったのに」とmitoのせいにする思考方法をやや感じさせるものでもある。実際にはどうなのかわからないが、もしこの授業に未練があるという理由で潔く撤退できないのだとしたら、撤退する前にもっと「自分の(学習する自由の行使の)ために」ぼくの講義を批判すべきである。  出席ペーパーについては、ぼくが繰り返し言明しているように、比べたり、序列化したりするためのものではない。学生は書きたいことを書き、ぼくは読み上げたいことを読み上げ、コメントしたいようにコメントするものであり、ぼくがそこに「身を置いている」のは、ぼく自身が学生からの社会的承認を得たいからにすぎない。その目的は、たがいが自己や他者の存在を知るということである。そういう意味では、この学生が書いた「試す」という言葉が、人間の基本的信頼関係に基づく肯定的なことがらではなく、「比べられる」と同義のマイナスの言葉のように感じられる点が気になる。 1993. 6.16. T大U部社会教育概論、女  (自己受容には1%のレイプの気持ちも含まれるというmitoの発言に対して)1%レイプしたい人は、どのようなsexをするのか。どのようなsexを相手、恋人、セックスフレンドに求めるのか。考えるとこわい。  誰をレイプするの。誰がレイプされるの。人殺しだ。暴力しか存在しない。形成された人格が無視された体面。いわゆる出会い。10の段階をふんだ人間と10の段階をふんだ人間が出会って、ひとつも知らない0と0の状態で暴力を介して対面する。  1%レイプしたいのが人間の本能なら、私は1%だけ、そんな人間は亡びてしまえと思う。ここでいう人間は、自分を含んだ人類のことだ。これは極端な考え方だとはわかっている。みとさんのいう敗北主義でしょうか。 mito 敗北主義は、男の1%のレイプの心を受容しようとしたぼくのほうだろう。その存在そのものは否定できないけれど、自己受容してはいけないものがやはりあるのだろう。ぼくは、それを男のレイプ願望を含めて、人間一般の「差別する心」として集約できると考えた。 1993. 7. 5. S大社会教育計画、男  先生は自分の講義で人を変えてやろうと思いすぎなのではないでしょうか。人を変えようとするのは大変なことだと思います。変えるとかよくするとかというよりは、自分の考え方や思いの中で同感する部分、自分と同じ考えをしているなどの共通するところを一つでも多く探すことができればいいのではないでしょうか? 人はそれぞれいろいろな考え方をしていると思います。違う部分というのは仕方がないことで、社会のモラルに反しない限りはあまり触れずに、共通する部分を、同感する部分を、講義で探せればそれでいいと思います。「私はこう思う」と、他の人に意見を言ってもらってもいいと思いますが、人間の本質はそう変わらないのではないでしょうか。 mito ぼくは他人を変えたいなどとは言っていない(自分の期待に沿って相手を変えたいと願ってしまう弱さは、たしかにぼくにもあるけれど)。自分が自分の枠組を自ら変えたいと思って変えることが本当の学習であり、その学習の援助が教育であり、その両者とも可能なのではないかと言っているだけなのである。「人を変えてやる」ことと「人が変わろうとするのを援助する」こととの間には、それほど大きな隔たりがある。あるいは本質的にはまったく逆のものといってもよい。  それよりも、あなた自身が「変わりたくない」と思っていることのほうが、あなたの学習や主体性の実現にとっての重要な問題なのではないか。「変わる」ということは、「自分の考え方や思いの中で同感する部分」や「自分と同じ考えをしているなどの共通するところ」を見つけるなどの些末なことだけでは実現できない。自分の枠組とは当然ながら異なる他者の枠組に逃げずに出会うこと、そしてそれを同感としてではなく、共感的に理解しようとすることが必要なのである。その場合、異なる枠組は「仕方がないこと」というマイナスのものではなく、「異なるからおもしろい」という意味で、あなたにとってもプラスのものである。それは、言いかえれば、他者の存在は邪魔なことなのではなく、素敵なことだと実感することでもある。そこから共感的理解に必要不可欠な自信と他信(自己と他者への基本的信頼)が生まれる。「ともに育つ」ことの本質は、そこにある。  知的水平空間においては、自らの意志を曲げてまで、実体のあいまいな「社会のモラル」というプレッシャーに順応して同質化や同一化をする必要はない。むしろ、たがいが異質だからこそ、その異質の交流によって、それぞれが変わり続けること、成長し続けることができるのである。これは、ネットワーク型社会における「異質の交流」あるいは「異文化理解」の考え方にもつながるものだと思う。 ●知的水平空間における学生からの教育批判とその対応(改訂前) 1992.12. 2. T大U部社会教育概論、男  何か最近、mitoさんの講義って、説教くさくてつまらない。4月、5月の頃は、毎週、来るのが楽しみでしたが、今ではそれほどではありません。(全文) mito 「説教くさい」というのは、僕にとって最大の批判に近い言葉だ。ちなみに僕の授業に対する最大の批判は「退屈する」ということである。「説教」からは「反抗」が生まれるけれど、「退屈」からは「忍耐」ぐらいしか生まないからだ。幸い、「退屈」という批判は、今まで一回も受けたことがない。それにしても、ここまでものすごい言葉を使って批判するのなら、ぜひ、「どこが」説教くさいかということを付け加えてほしい。そうでないと、「学生からの批判(暴力は禁止)はすべて受けて立つ」と言っている僕としても、どう対応すればよいかわからなくて困ってしまうのだ。この状態のままだと、僕としては、少なくともこの学生に対しては、「論争して僕に負けるのが怖いから、理由は言って(書いて)こないのだろう」として片付けるしかなくなる。そして、社会的に見れば、批判をそのように片付けてしまった僕のほうが正当だということになってしまう。そんなことでは、せっかくの批判が批判としての力を持たなくなってしまうのだ。もっと主体的な批評精神を身につけてほしい。 1992.12. 2. T大U部社会教育概論、女  ちょっと今日は疲れていて、聞くことに身が入りません。はじめのほうは(パフォーマンスタイムで配られた)アンケートに答えていたので、レジメは目を通しただけです。ちょっとアンケートをした人へのつっこみがこわかったなあ。先生の質問が社会的権威に満ちて聞こえたのは気のせいでしょうか。早口なところもよくないのかもしれないです。  自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです。  眠くってなんにも考えられません。(障害者のための絵画教室の)ビデオは悪くなかったと思うけど、素直に感動できませんでした。こういう人もいる。わたしはわたし。自分なりに生きていくしかない。それが全て。ネットワークはあれば素敵だし、なければ淋しい。でも、なくてもとりあえず困らないから。 mito まず、「自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです」という指摘については、僕自身、「これだったんだ」という感動をもった。授業の心構えまで「まとめ」に入ってしまった僕を、的確に批判している。 mito 「アンケートをした人へのつっこみがこわかった」というが、なぜこのアンケートをしたいのかを調査者自身が明らかにすることは回答者に対する礼儀だと僕は思っているから、アンケートの説明の終了の後、「このアンケートであなた自身は何を知りたいのかも言ってください」と要請しただけである。調査者に対するつっこみというよりは、むしろ援助であったはずだ。それを「つっこみ」としてとらえるのは、被害者意識なのではないか(早口はたしかによくないだろうが)。実際、アンケートをした本人は、「先生にめぐりあえて良かった。今の私の本心です」とまで言っているのである。 mito そもそも、この授業では、ビデオは「素直に感動する」ために視聴しているのではない。だから、この学生の「こういう人もいる。わたしはわたし」というとらえ方もありうるのだ。感動しても素晴らしいし、感動しなくても感動しない深みがありうる。どちらでもよいではないか。ただ、授業を行なう僕自身としては、「共感的理解」や「メディアからの主体的摂取態度」を体得することをねらいとしているのは確かである。 mito ネットワークは「すでにあるもの」や「エスタブリッシュメント」ではない。ヒエラルキーに抵抗する「個」から生まれるものであり、それをほしいと思う者が「つくりだそうとするもの」である。そして、人間同士がヒエラルキーを離れて完全に相互信頼することは究極的には不可能だから、最後まで「完成しないもの」でもある。そこに感じる「淋しさ」は受容するしかない。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)久しぶりにこの授業に出た。言うこと、言うことに、からみついてくる生徒。それについて真剣に考える先生。生徒の書くペーパーやつっこみにドキドキしたり、訳わからない質問に困ったり。すばらしい先生だと思った。だけど、顔が笑ってても目が笑ってない。余計なお世話か・・・。今日の話、私はほとんど先生の意見に賛成だった。なんか先生が生徒で、生徒が先生みたい。そういうのも大切だと思う。 mito 「顔が笑ってても目が笑ってない」というのは、じつは僕の限界性を鋭く突いたものだと思うが、こればかりはどうしようもない。「演じている僕」のほうを評価してもらうしかない。しかし、「先生が生徒で、生徒が先生」とはいい言葉だ。僕が先生病にかかっていない証拠として、肯定的に受けとめておきたい。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (mitoが講師をしている青年教室の参加者がモグリで出席)みとさんの「すばらしい」という意味は? みとさんの考える自己実現の意味は(仕事は入らないのか)? 社会にgiveしないといけないのか?  何でも言える雰囲気とか、とってもよいと思う。でも、みとしさんは、今、何かにしばられていて、その中から声を出しているような気もする。(1時間目が)「まとめ」ということでなのかなあ? (ペーパーにあった)「説教」にはちょっと共感。なんとなく真剣になっていろいろな話ができる時間がもてるっていいな。 mito このペーパーを書いたこの人には、僕が1時間目に「自己表現できないことは不幸である」と言い切ってしまって、ある学生から批判を受けたことについて、2時間目の授業中、「みとしさんは本当に自己表現できないことは不幸だと思っているのですか」と指摘された。それは、僕が絶句してしまうほどの鋭い質問だった。「まとめなのだからある程度の言葉の捨象は仕方ない」と言って単純化して逃げようとしている僕の首ねっこをつかまえられて引き戻されたような気がした。「何かにしばられていて、その中から声を出している」というのも、僕が教師という社会的役割を遂行している以上、仕方のないこととはいえ、もう少し発展して論ずれば、教師と学生との知的水平空間の質的深化の契機となりうるものであろう。 mito 社会にgiveしたくなければしなくてよいと思う。しかし、そのときは、人間の尊厳を守るための福祉的な意味以上の報酬や見返りを社会に期待することは筋違いであるということである。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)(このペーパーは、mitoが1時間目の授業である学生に「説教くさい」と書かれて興奮していたことについてだと思われる)人にものを言われてカチンとくるというのは、その人がそのことを気にしているからなんだと思う。気にしていないことを人から言われてもあまりパッとしないし、それがとても第3者から見たらヒドイこと言われているとしても、本人は気にしないということは多くある。しかし、とても気にしていたり、相手に対してあまりいい思いを抱いていなかったりのどちらかが入ると、とても激しく怒る場合があると思う。  人と人というのはわかり合わなくてはならない。相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならないと思う。今日のmitochanにはそれがなかった状態だったから、私は瞬間の幸福感の持続が人生なんだと言った。コロコロ変わる人間は一貫性がない。普段のなかから、哲学性のあるニュアンスの響きがあるほうが、ずっとすごいのにと思う。口調ややり方を変えるだけじゃなく、内容を変えられないからやり方を変えているように思った。素直な人間と人間のぶつかりって、本音で語ることが第1! mito たしかに「説教くさい」と評価されることは、僕が一番恐れていることだ。そうなりたくないと思って教師をやっているからだ。しかし、なぜ、それを学生から言われて動揺したらいけないのか。動揺して同然ではないか。あるいは、その動揺を口調ややり方に反映させてしまったからいけないのか。しかし、教師の口調のことなど、学生側は無視すればいいではないか。それこそ、授業内容が学習にとって有効だったかどうかこそを問えばよい。(もちろん、学生に対して「お前ら」とか「馬鹿野郎」とかの学生の人格を傷つける発言などがあれば糾弾されて当然だが、僕はそういうことは言わない)。  今回の授業内容に新しいものがあったかどうかはともかく、少なくとも僕はけっして「内容を変えられないからやり方を変えた」のではないことは明らかにしておきたい。「相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならない」というのは同感であり、興奮して共感的理解ができないでいる僕の弱さを指摘したものとして謙虚に受けとめたいと思うが、興奮してしゃべっている相手に「内容を変えられないからしゃべり方を変えたのだろう」という言葉は、「えっ、ぜんぜん違うよ」という感じであり、それこそ共感的理解をされないまま勝手に診断された感じで、とてもいやな言葉である。(しかし、僕が自分で「どんな批判でも受けて立つ」と言った以上、学生は何を書いてもよい。僕は受けて立たなければならない。受けて立った結果が、この僕の文章である。)  ただ、教師自身の動揺(もちろん私生活のものでは論外だが)を口調ややり方に反映した(させてしまった)こと自体が不快に聞こえるというのなら、それはそうなのかもしれない。しかし、それは僕の授業にとってはむしろ大切なことなのであり、僕の授業の個性だと思って受けとめてほしい。僕が言うこともコロコロ変わるかもしれないが、それに耐え勝ってほしい。profess というのは、公言する、(信仰を)告白するという意味なのである。学生はその「告白」から自分なりに学ぶ必要がある。僕の授業も、学生を気持ち良くさせるために行なっているのではない。そのときは教師も学生も苦しくていいから(つまらなければ困るが)、人間存在や幸福追求に関する真実に近づくために行なっているのだ。 mito 「人と人というのはわかり合わなくてはならない」というのは厳密に言うと間違いではないか。「わかり合うための有効な努力をせずに、不平を言ってはならない」というのが正しいのではないか。なぜなら、他者を完全に理解するというのは無理な話だし、また、「わかり合いたくない他者」がいる場合には、自分が不平さえ言わなければ、わかり合おうとする努力を放棄してもかまわないからである(潔い撤退)。そして、その有効な努力とは、「相手の言うことの中に、実際に言葉にしていること以外に、本当は何が言いたいのかを引き出す」努力であると同時に、自分のほうは「自分が言いたいことを、きちんと言葉にして言う」努力なのである。教師にそういう努力の義務(社会的役割の遂行)があると同時に、学生にもその努力の仕方を学んで実践する「権利」(学習権)がある。権利だから放棄してもかまわないが、その場合はその学生は教師に抗議する権利も失う(潔い撤退)。全国的にも、学習者側から教育体制側に対して「学習権」が非主体的、体制依存的に叫ばれている実情が見られるが、本来の学習権とは、このように、厳しくさわやかなものであべきだと思う。 1992.12. 7. S短大社会教育演習、女  (mito的授業の評価について)たしかに社教の基礎知識などは頭にまったくと言っていいほど入っていません。でも、この授業をやっていて、いろいろな考え方ができるようになったと思います。例えば登校拒否の人たちのこと。前までは、そういう人たちのことを考えるときに、「なんで自分の将来のためにならないことをするのかな」と思っていたと思います。結局、学歴意識だけの考え方ですよね。でも、今は、「自分(その人)が本当にやりたいことが見つかるのなら、たとえ回り道をしても無駄ではないことなのだ」と考えることができるようになりました。  先生は私たちが1年の4月に、このA202教室に入ってきたとき、私たちに2年間で何を教え、どういう力を身につけさせたい(身につけてほしい)と思いましたか? それとも、こういう力を身につけてほしいなんていうことは思わなかったのかな? 私は先生が学生に「基礎知識」を教えたい、身につけてほしいと思っていたら、なんとかしておもしろくそういう知識を身につけられるように考えるような気がするのです。でも、あえてそうしなかったのは、退屈させたくないという考えもあったのかもしれないけれども、でも、じつはもっとほかのことを身につけてほしいと思っていたからなのではないかと思ったのです。どうですか? mito 「一口ミニ知識」をやったりして、僕にも迷いはある。でも、学生のほうでこういうふうに言ってくれてよかった。 1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女  mito的授業を批評せよということですが、私が出ている講義の中では、1〜2番のおもしろ味があると思います。(学生による授業評価のビデオの)アンケートにもありましたが、やっぱり会話が成り立つとか、自分なりに考える機会を持たせてくれる授業が刺激があって好きです。授業の内容はだいたい肯定的に受け取っています。理解するのが難しい(共感できないという意味で)ことでも、自分なりに歩み寄って、肯定できない自分は偏った視点にいるのかも、と柔軟性を持っていこうと努めています。  以前に、頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ、というようなことを言っていましたが、これはかなりショックでした。話しかける勇気がなくて、仕方なく頬杖ついているしかない自分は、自分でも情けない姿でコンプレックスでもあるのですが、それは辛いことです。学生の核に迫っていこうという講義の中で、断定的な言動、姿勢はやや矛盾を感じます。出席ペーパーへのコメントにしても、反論的な意見に対し、どれだけやりこめられるかという対応をしているような感じを受けます。学生の意見に対して、先生の考えが変わること、影響を受けることがもっとあっても良いのではないかと思います。 mito 「頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ」は、厳密に言うと「相手がわかってくれないからといって、頬杖ついてその不平を相手に表そうとするぐらいなら、その相手に言葉で表現せよ」という意味である。「自分が言葉なんかに出さなくても、相手には自分の気持ちをわかってもらいたい」と愚痴をこぼす学生が多いので、この言葉を考え出したのだ。しかし、この言葉には、「その場しのぎのウソ」もたしかに混じっている。ごめんなさい。  このように、「断定的なレトリック」には必ず多少のウソが混じっている。だが、そうでない意味でのレトリック(「○○であることはないことはない」「こうでもあり、また、こうでもない」など)では、何も言っていないのと同じだ。後者のレトリックも、答申作成の最終段階などでは妥協の産物として仕方なくやることがあるが(社会的役割遂行)、できればやりたくないこと(自己実現の面からは)である。一番望ましいのは、ショックを受けてしまった学生が自分自身を罰するのではなく、この知的水平空間(この言葉も重要ではあるがレトリックだ)においては、僕の「断定的なレトリック」に対して、それが通用しない事実を挙げて僕のレトリックを破綻させることなのである。そこまでされれば、僕はそのレトリックを修正するであろう。そのことによってのみ、真実により近い(いつまでも到達はしない)レトリックへの発展がある。 1992.12. 9. T大T部社会教育計画、男  「3回出席すれば単位はもらえる」というのは魅力的である。年間約25回ある授業の中の3回である。ただAではなくCというのは残念である。もし、自分の授業が本当に学生を引きつける自信があるのなら、授業に出ない学生など考えられないのだろうから、どうどうと「Aを与える」と宣言すべきである。そうできないのは、やはり、自分の中で弱気が生じているのではないか。授業の開始時に「今年の学習者すべてに、3回以上出席したら単位(A)を与える」と言って、それでも参加者が多数出席するようなら、そこで初めてビートたけしに肩を並べると言えよう。それまでは、間違っても、ビートたけしに勝つなどと公言しないことである。 mito まいった。そのとおりである。この学生は、僕の授業で全出席に近い学生である。その上で、こういうことを言う。僕は彼に尊敬の気持ちをもつ。「出席を厳しく取ってくれれば、自分もちゃんとこの授業に出れたのに」と最後の授業あたりに書いてくる学生と彼とは、どうしてこんなに大きな違いが生ずるのだろう。  「ビートたけしに勝つ」と公言しているのは、じつは演出効果をねらったものである。少なくとも面白さの面では、僕の授業がたけしに勝っているとは僕自身は思っていない。僕の授業のオープニング・セールのためのウソがかなり混じっており、僕自身が授業に張り合いをもつための「負荷」を与えているにすぎないのである。Aを与えると言わずに、むしろ学生の評価を毎日コツコツとパソコンに入れているのは、そういうふうにしてA、B、C、Dの評価をすることが大切なことだと思っているからではさらさらなく、大学当局側から責められたときにきちんと弁解するためのものなのだ。僕に対して、「何かに縛られていて、その中から声を出している」という評価がほかにあったが、そのとおりである。しかし、誰だって縛られないで生きていける人はいないと思う。「縛り」のなかで何ができるかが個人の勝負どころである。本来あるべき評価についても、僕は出席ペーパーへのコメントの形で、僕にできる最大限の努力をしているではないか。少なくとも、Aを与えない理由が「自分の中で弱気が生じている」からではけっしてないことを弁明しておきたい(ちょっとは生じているけれど)。  それはそうと、「mitoちゃんはずるい。学生全員の出席ペーパーを読めるんだから、いい授業ができて当り前だもの」と僕に指摘(ひやかし?)した学生がいるけれど、そのとおりである。このようにとても価値のある出席ペーパーが、1回の授業でザクザク出てくる。僕はそれを楽しく読んで吸い上げればよいだけなのだ。僕のことをずるいと思う人は、自分も同じようなことをすればいい。 1992.12. 9. T大U部社会教育概論、男  mito先生の授業については、タメになって、また、型破りなところが良いと思っているが、どーも後期になって「mitoちゃん」から「先生」になってきているように感じている。先生だけが原因ではなく、われわれ学生側の態度にも問題があるのかもしれませんけど・・・(僕も今日、寝てしまいましたが)。 mito 僕は学生を(退屈させて?)寝させてしまったなら、教師である僕のほうが悪いと思っている。なぜならば、授業は発表ではなくて教育(=学習者側の主体性の獲得)だからである。もちろん、疲れて寝てしまうぶんには、大きないびきをかかない限り、学生にも教師にも問題はない。しかし、そうではなくて退屈ならば、どこが退屈かを言ってほしい(我ながらかなり無理な注文だとは思うが、あえて要請している)。後期になって、僕の授業は前より高等教育のあり方に近づいてきたと僕自身は自負している。僕には、今のところ、先生病(自分は学生より立場が上で尊敬されるべき存在であると思い込む病気)にかかっている自覚症状はないのである(これが一番怖いのかも)。このペーパーのような学生側からの訴えは、具体的にどこがそうなのかは指摘してもらえないことが多く、僕のほうだって真綿で首をしめられているような焦燥感を感じているのだ。 1992.12. 9. T大U部社会教育概論、女  mito氏の考え方が好きだからこの授業に出てくるのではなく、授業の仕方に興味があるからだ。おもしろくないと思えば、おもしろくないと言えるチャンスがあるからだと思う。 1992.12.16. T大T部社会教育計画、男  私は自分自身で授業料を払っているわけではない。したがって、私は間接的消費者であって、直接的消費者ではないのである。もし、自分で働いて、そのお金を授業料に当てているのであれば、それなりに授業に関して主体的になりうると思う。このことはその他多くの学生についても言えることである。だから、西村先生の「学生=消費者論」には致命的欠陥が内在していると考えられる。つまり、間接的消費者としての学生の位置づけがなされていないのである。 mito 学生が、本来は授業料を自分で払ってでも良い授業を受けたいのだが、自分には経済的能力がまだないから保護者等に支払いを(さわやかに)依存しているという自己意識を持てれば、それは「間接的消費者」としての主体性と言えるだろう。 1992.12.16. T大U部社会教育概論、女  (まとめの授業で)今回のテーマは「何で生きてるの?」ということですが、私はもう、何で生きているのか、はっきり目的もわかっているし、自分が、今、何をすべきなのかもよくわかっている。そして、実践しています。私は毎日幸せだし、目的を持って毎日行動しているから、やりがいがあるし忙しいです。  先生は、今の若い人はヤル気もなく、倦怠感で充満していて、何で生きてるの?と聞かれたら心のポカッとあいた部分を突かれたようになるという(ことを前提としたような)聞き方をいつもしてきますよね。「今の若い人は学歴がないと社会では通用しないから勉強している。そのほうがあとが得だから」と先生は考えているから、かわいそうだ、何とかしてやりたいっていう気持ちが強すぎて、なんだか生徒をバカにしてる気がします。今日のテーマははっきり言って頭にきました。「おまえたち、ヤル気をなくして、毎日かわいそうだなあ。むなしいだろうなあ」って先生が思っているように、私には感じて、ほんとうに失礼だと思います。でも、この内容は、先生がちょうど私たちぐらいの年齢のときに感じられたことだと思いますし、もしかしたら先生自身が今でもそういう気持ちがふっきれないのではと私は思いました。  しかし、先生のことは尊敬しています。ただ今日は、このテーマに腹を立てただけです。たくさんの学生はそうなのかもしれませんが、私は目的を持って毎日過ごしていて幸せです。 mito 僕が自分のことはさておいて、「今の若い人はかわいそうだ」という言い方をしたのなら謝りたい。その言葉を言ったのだとしたら、それは、僕自身に自信が「ない」ところがあって、そういう非主体的な言葉が出てしまったのだろう。僕自身の自信が「ある」部分でこのペーパーの訴えに応答するならば、この学生の察するとおりである。すなわち、僕自身が、「ヤル気をなくしたり」「倦怠感を感じたり」「心のポカッとあいた部分を持っていたり」「学歴に引きずられたり」「空しさを感じたり」する気持ちを「ふっきれていない」のである。そこから僕の問題意識も生じているのだ。  しかし、そういう消極的な気持ちを感じたことのない人とはどういう人間なのだろうか。僕は地球上にそんな人はいないと思う。現代社会において、一定の個人だけは「解放」されていて、その人たちは「自分の生きる目的」「自分のすべきこと」に疑問や不幸を感じることがなく、「楽しい忙しさ」しか感じていないとすれば、その人たちはほかの誰かを抑圧するなり傷つけるなりして生きていると思う。そんな人たちの人生は、小説の主人公にはなりようのない「個の深み」のないつまらない人生だ。このペーパーを書いた学生は、きっとそうではないのだと思う。自分や社会にマイナスの部分がないのではなく、そこで痛みを受け、しかし、それを受容した上で「目的を持った生活」をしているのだろう。だとすれば、そのマイナスの部分の存在をはっきりと認識したほうが、より積極的で深い人生が送れると思う。 1992.12.16. T大U部社会教育概論、男  (新聞報道の形式で)どうした美東士!! おまえの授業はどこへ行った! 前期の勢いなく、mitoさんらしさの喪失か!!   T大U部水曜1限の時間が変わろうとしている。それは「社会教育概論」のmitoちゃんこと西村美東士氏に対し、学生からの不満が多発するということから始まった。前期に突然に行なった「ジェスチャーゲーム」などの勢いのある「恥ずかしい思いはするが、他の人と無邪気に騒げた」授業がなくなり、後期からONE WAY 的、または講義的授業が多くなったのは事実である。ここで学生の声を聞いてみよう。「今までのmitoちゃんの授業というのは、私語をする気が起こらなかったけど、これじゃあ僕の職場の年輩の先生と同じだから聴く耳がなくなっちゃいますね」「後期になってから、重苦しく息苦しい授業になっちゃったよね。失望しちゃいました」。どうやら『mito氏肯定派』と『mito氏否定派』とでは、後者の派閥のほうが多くなってきている模様。「白紙のC評価」という形の犯行声明(?)などが出ていることにより事態が緊迫化しているのは事実である。  (一口コラム)mitoちゃん、最近の授業は本当に一方通行になってきております。「白紙C評価」については複雑だと思いますが、冬期休暇中、どうかもっと自分を磨いて、前期でやったような「飾り気のない授業」をしてください。期待してます。  最近、mitoちゃんの授業に出ていて思うのは、「カッコつけ授業」をしているような気がします。出会ったばかりの授業では、飾り気のないナチュラルな授業(授業を感じさせない授業)をしていたのに、後期になってからは「大学の授業」になってしまっております。どうぞ、もっと「ジェスチャーゲーム」のようなTWO WAY の授業をしてください。私の友人に「あの人は偽善者だ!!」と言い放たれてしまいました。がんばれmitoちゃん、もっと自分をさらけ出せ! この際、この時間に討論会みたいなものをしたほうがよいのでは?  (P.S.)もしかしたらVTRを見ている途中に、先生が(学生の私語を)注意してしまったことが原因になっているのかもしれませんよ!! mito 本当は、私語を「注意した」のではない。人間のあんな場面において、明るく私語ができるという鈍感さや人間性の欠如に「怒りをぶつけた」のだ。 mito 「白紙C評価」と「友だちが偽善者だと言っていた」については、同様の問題であり、もう述べたとおりである。しかし、なぜ、僕の抗弁よりも、そういう無責任な発言のほうに、この学生までもが引きずられてしまうのか。ピア・コンセプトの恐ろしさを認識してほしい。 mito 「討論会」が効果的にできるのならやりたい。しかし、今の状況では、教師側がかなり工夫してうまくやらないと、「普通の(非主体的な)討論会」になってしまう。このように考えている僕を、学生の側が失礼だと思うのなら、そう思った学生が授業中、例の「ちょっと待った」をやればいいじゃないか。だが、今の僕は「結果を恐れるな」と学生には言いながら、自分自身は「結果を恐れている」のはたしかである。 mito 「ジェスチャーゲーム」は、それを行なう時にも僕がはっきりと言ったように、講義形態のこの授業においては、本来的なものではなく、人の目に恐怖し、他人はいないほうがよいという一部の学生の危機的な状況を感じたからこその「緊急手段」だったのである。強烈な体験学習であるからこそ効果的である反面、一部の学生をいっそう傷つけてしまうものになる。実際、「もう絶対やらないでくれ」とか「こういうことをやるんだったら、あらかじめ言っておいてください。そうしたら、欠席できるから」という切実な訴えが、毎回、必ずあるのである。それならば、教師はどうすべきか。講義ではそれをきっぱりと諦めて、演習という条件(小人数)のときにやるべきなのである。演習なら、教師は、ワークをリタイアする人に対する他の学習者の非難がましい目(ピア・コンセプト)から、その人を少しは守ることができるからである。実際、僕は演習形式の授業では、もっと「つらい」(=楽しい)授業を行なっている。それに対して、講義に向かう僕の姿勢は「講義方式からの逃避」ではなく、「講義方式に対する敗北主義の克服」である。『生涯学習か・く・ろ・ん』を読んで理解してほしい。 mito 最近は以前より「カッコつけ授業」になっているという批判については、僕は弁解できない。そうかもしれない。なぜだろう。どこがいけないのだろう。わからない。学生が「飾り気のない授業」や「ナチュラルな授業」を求める気持ちはとてもよくわかるだけに(僕も学習者だったら指導者にそれを求めるから)、これからの僕の課題として重く受けとめていきたい。そのことに関する具体的な問題点や克服のノウハウについて気づくことがあったら、ぜひ情報提供してもらいたい。指導者には気づきづらいことなのである。 1992.12.16. T大U部社会教育計画、男  (「私の好きなこと」を全員がしゃべる授業で)今日の授業は美東士先生の授業らしくなかったような気がする。自己革命(?−mito)をめざす美東士先生は、学生には自発能動で授業に参加してもらうはずなのに、今日はやらされているような気がした。それがなぜだか自分でもわからない。昨年の美東士先生は、もっと楽しそうに授業をしていたように思える。自分らしさを取り戻してください。 mito 「カッコつけ授業」とは、このことかもしれない。つまり、自分が楽しんで授業をやればよい、あるいは、僕の言いたいことが通じなければ通じなくてもいい、という自然な気持ちが欠けてきたのかもしれない。 1992.12.16. T大U部社会教育計画、女  (「私の好きなこと」を全員がしゃべる授業で)今日は気分が暗い。だから、あまり発表は気が進まない。−発表したらなんとなく気分が明るくなった。なんとなく教室の雰囲気がなごやかになったよーな。不思議だな。−みんなの好きなものがバラバラ。十人十色。そうですよね。みんな違うんだ。よかった。今日の授業に出て。 mito こういうペーパーを読むと、「やっぱり、明るい展望のもてる授業で通したほうがいいのかな」と思ってしまう。しかし、違う形態を希望している学生もいる。僕はどうしたらよいんだろう。 1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男  先生は、最初の講義のとき、「ペーパーにはどんなことを書いても構わない」と言った。だから、私は、自分がその時々に書きたいことを書いた。授業批判とか授業のテーマに沿った内容のものは、ほとんど書いていない。「お前の気持ちのマスターベーションにすぎないじゃないか」と言われてしまえばそれまでだが。で、先生にお尋ねしたいのは、ペーパーを読むにあたって、その選考の基準、今回のまとめに載せるか否かの基準は、何を基準にして選んでいるのだろうか。結局のところ、mito批評、授業の内容にまつわるものの是非、この2点に基準が絞られている気がする。  人は人の考え、人の言葉、人の行動を見て、ひとつずつ、心の年輪を増やし、自分の根を張る。自分の葉を鮮やかにする。自分の存在と意志を主張していけるようになるのではないかと私は考える。生涯学習なんて大それた言葉を使うから、その言葉自身が偉そうに聞こえる気がする。人の話を聞くことは、人が生きていく中での学習と呼べないのだろうか。授業も大事だが、もっと一期一会を大事にし、ありとあらゆる人の言葉を聞ける、言える授業を期待していただけに、結局のところ自己中心的かつ画一的な授業になっていることに憤りを覚える。  追記 この授業批判めいたペーパーをまた読んで弁解したら、先生の負けだ。 mito 負けたかどうかは本人が自分で決めることだ。知的水平空間において、他人の勝ち負けを最終的に判断してやる権利や能力を持っている人など、どこにもいない。自分が負けを認めたときに、自分が自分の考え方を変えればよいのだ。「弁解したらおまえの負け」というのは、僕としてはルール違反のレトリックのように感じる。 mito この文中において、「マスターベーション」は、むしろmito的授業にむけられた言葉であろう。僕自身、多少はそう認めるところもある。しかし、「マスターベーション」はそんなにいけないことなのか。本質的に考えてみてほしい。 mito 「マスターベーション」というと言い過ぎになるかもしれないが、「自己中心的授業」以外に、教師は学生に対して、あるいは、あなたは学習者に対して、どんなよい授業や学習援助ができるというのだろうか。もちろん、改善できる点はあるかもしれない(もっと学習者自身の学習要求の水準に合わせるとかして)。しかし、それはテクニックの問題であって、本質的な問題ではない。学生のほうも自己中心的(自分の学習関心を大切にし、「自分はこの授業をそのためにどう役立たせるか」に学習の目標を集中する、そのためには学習する側の権利も主張する)になればいいではないか。「自分のために生きる」とは、そういうことである。  ただ、結局のところ、この学生に対しては効果的な学習援助にならなかったのならば、僕だけは授業で「自己実現」を味わっていたとしても、僕の教師として与えられた「社会的役割」は少なくともこの学生に対しては果たせなかったことになる(そうか、そういう意味で「弁解したら負け」と書いたのかもしれない)。「社会的役割の遂行」がうまくいかないということは、僕自身の「自己実現」の阻害要因にもなりうる。そこで、この学生の枠組を変えるための契機には本当にならなかったのかどうか、ぜひ、この学生に聞きたいところである(もちろん、快、不快の快感原則からではなく)。まあ、ならなかったのかもしれない。しかし、それは僕ができるだけの努力をすべきことであって、学生のほうは、それを待つのではなく、逆提案を携えて僕に要求すべきことなのである。それでも僕が「聴く耳」を持っていなかったら、それこそ「学習権」を行使して、大学当局に僕の罷免を要求すべきだろう(僕がその罷免に抵抗するかどうかは、僕が決めることだ)。 mito 僕は出席ペーパーのことに関しては、ウソをついていないと思う。「学生は書きたいことを書く。教員に読ませたくないものは書かない。教員は読み上げたいものを読み上げる」という原則どおりである。それ以上の基準は設けていない。なぜ「採用基準」を明らかにしないかというと、そういう基準を設ける必要性を感じていないし、そもそも、授業は、その時、その時に過ぎ去っていくものだからである。しかも、学生にとっても「比べられるためのものや選抜されるための文章作成」ではなく「自己管理としての文章作成」であるから、「公開」(「mitoがいやでも公開せよ」という意味)「非公開」「コメント希望」などのマークをつけることができる。僕はそのマークには忠実に対応してきたつもりだ。このような出席ペーパーのルールなどの大切な「学習情報」はきちんと把握しておいたほうがよい。僕はこのルールについては授業中、何回も説明しているのだ。 mito 生涯学習という言葉を大それた言葉だと感じて反発し、人の話を聞くことなどの普段の「学習」こそ大切と考えるこの人の謙虚さには、僕は深みを感じる。僕は言葉をけっこう「便利に」使ってしまうクセがあるからである。たとえば、僕が「私は○○に関する学習を続けていきたい」と言ったとしても、ほかの人はその言葉はきっとウソではないと思うだろうが、他人に向かって「人間には生涯学習が必要です。みなさん、生涯学習しましょう」と言ったとしたら、ほかの人は「何でだろう、どうしてこの人は他人に生涯学習を呼びかけるのだろう。そのウラには何があるのだろう」と思ってしまうだろう。ただし、僕自身はどんなペーパーでも翌週までには3回、繰り返して読んで、「一期一会」を味わっている。どんなペーパーにも、それなりの「普段の学習」はできるのだ。そこには深いものもたくさんある。ただし、時間の関係もあって、授業をそういう「普段の学習」ばかりにするわけにはいかない。僕のフィルターを通して集約して紹介しているのだ。(このように「弁解」することが「負け」になるのだろうか。) mito 「ありとあらゆる人の言葉を聞ける」という期待を裏切った点については、そういうわけなのだが(ちょっと逃げてる?)、「何でも言える授業」という期待については僕は裏切っただろうか。少なくとも言葉の上では、つねに学生の発言を歓迎してきた。バフォーマンス・タイム、「ちょっと待った」方式、授業中の発問、そして出席ペーパー・・・。この学生はそれに応じなかっただけだ。教師が言葉で保証しただけでは、まだ、足りないのか。「自分の発言が正しいこととして認められる」という確証が感じられないと、つまり教師がもっと「譲歩」して受容的雰囲気まで醸し出さないとしゃべれないのか(まあ、それは人間としては当然の心理かもしれないが)。けれども、教師側が「何を言ってもいい」と言っているのに自分が言わないのは、、「言わない自分にも問題がある」と考えることが必要だと思う。そのように自分をも「謙虚に」見つめるということが、この学生の言う「一期一会を大切にする」という言葉の持つ「謙虚な」意味合いであろう。馴れ合ってしまったら「一期一会」なんかおもしろくない。 mito 画一化については、僕もつねにその危機を感じながら授業を行なっている。今後、工夫していきたい。また、学生からの提案もつねに待ち続けたい。 1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男  この授業も残りわずかになって久々に出席した。この1年を振り返ってみると、初めの頃の「自主性をもつ」とか「自分を見つめ直す」という授業スタイルに、自分は「フムフム、こういう授業もあるのだなあ」などと意気込んでいたのだけれど、後期にはまったくと言っていいほど出席しなくなった。何か疲れるのです(これは身体的に疲れるというのではなく、授業スタイルに疲れるのです)。だって、この授業は「社会教育概論」でしょ。社会教育って何ぞやと思って「社会教育」を勉強したい人だっていることをお忘れでは。そもそも自主性とか、恥ずかしさをさらけ出すことを学ぼうみたいなものは、その人自身の日々の生活の中で学ぶものであり、体験することだと最近思っている。何も大学の授業で学ぶことではないのでは?とも思い始めた。だから授業に出なくなったのか。そもそも、私自身の気持ちの問題か。  はっきり言って、mito先生の授業は、社会教育概論であれ、社会教育計画であれ、心理学であれ、文学だって、経済学だって、課目名は何だっていいような気がしてなりません。水曜1限西村美東士だって通用するでしょう。私は保守的な面があるのかもしれないが、社会教育概論の授業というものもしてほしかった。  出席もしないで、ペーパーでの指摘もしないで、最後の最後にこんなことを言うのも卑怯な気もしますが。 mito 僕の研究テーマは自主性の促進ではない。人間の生きる主体性の獲得への援助としての社会教育のあり方だ。「うちの子どもは自主的に学習するようになった」などと言う教育ママの言葉とは無縁なのである。それから、「恥ずかしさをさらけ出せ」などという言葉も言ってない。むしろ、「恥ずかしさをさらけ出させることが心を開かせることである」という教育側の傲慢な思い込みに忠告を発し続けてきたはずである。その上で、「一人で恥ずかしいと思い込んでいることでも、本当は恥ずかしくないことが多い」「隠したいことは隠していても、心を開いた交流はできる」ということを学習したり体得したりしてきてもらっているのだ。 mito たしかに社会教育概論と社会教育計画を明確に分けて授業をすることはしてこなかった。それは、それぞれの授業が深い意味をもっていればそれでいいと思っているからだ。ただし、この点について、たとえば「社会教育計画の○○について授業をやってほしい」という学生の要請があれば、次の週にでも対応していただろう。そのことについて僕からの呼びかけはしたが、学生側からの応答や合意形成がなかっただけの話である。 mito この授業が「社会教育概論」ではないという話だが、社会教育の世界でもっとも求められていると僕が考える基礎的教養に絞って話を進めてきたつもりだ。だから、この学生が「社会教育って何ぞや」という関心をもっているなら、興味深かったはずだ。また、そういう関心を掘り起こすような授業にするための工夫をしてきた。さらに、「ひとくちミニ知識」の形で基本的概念の説明も簡単だが行なってきた。そこで学生の関心が触発されればそれで十分だと思っている。僕以外のもっと優秀な研究者がどのような学説を打ち出しているかを知りたいのなら、活字メディアから学ぶのが一番であるし、そのための参考文献の紹介だってしてきたのだ。もしこれ以上、この授業を「概論的」(?)にしたならば、高等教育としてのmito的授業の生命は失われてしまうと思う。 mito 「社会教育概論」と「社会教育計画」の違いについては、先に述べたとおりなのだが(ちょっと逃げてる?)、mito的授業が「心理学」「文学」「経済学」などの課目名だってつけられるという指摘は、僕にとってはむしろ批判ではなく、過分(実際にはそこまですごくはないと思っているから)な誉め言葉としてとらえられる。ここでやっているのは、選抜試験対策講座などではなく、高等教育なのである。高等教育が今日の研究の最高の到達段階を究めようとすれば、学際的になるのは当然である。「水曜1限西村美東士」というのも、過分である。今日の学問は「一人一学説」の個別化の時代にある。「西村美東士説」で僕のすべての授業時間を貫徹できれば、それに越したことはない。だからそれを目指してはいるが、僕が能力以上の無理をして結果としてはヤブヘビになることが僕には怖いのだ。  もっと本質的に論ずれば、「mito的授業がほかの課目名をつけても通用してしまう」ということを学生がマイナスに感じること自体、僕には重要な問題だと思われる。この学生はそういう自分を「保守的な面があるのかもしれない」と言っているが、保守的であってもそうでなくてもどちらでもかまわないと思う。それよりも、問題は、「ほかの課目名をつけても通用してしまう」ことについて、この学生の主体的な選択行為として(従来の課目の概念を変えないこと、つまり保守的なほうにメリットを感じて)マイナスと判断したのかどうかである。もしかすると、この学生は、今まで社会やそこで行なわれてきた教育によって与えられた枠組に、自分は納得できないままに従ってしまって、その枠組を適用して僕の授業に対してマイナスの判断をしているだけなのではないか。  じつは、僕はほかの学生に対してもひとつの不満を持っている。それは「講義要項に書いてあることと、授業でやっていることが違う」という学生からのクレームが一回もつかなかったことである。講義要項は教師が学生に対して教育内容を約束する「契約書」である。それを読んで学生は、「これなら受けてみたい」と判断するのが高等教育の理想であろう。僕は講義要項での文章表現にかなりの苦心をしているが、それでも1年間の授業の内実を示すのは難しい。あとで講義要項を読み返してみるとヒヤヒヤする。(だから、本当は、クレームがつかなくて助かったという気持ちもある。)  しかし、本来は、講義要項はつぎのように使われなければならないだろう。講義要項を読んで期待をもった学生が、現実の授業とのギャップに異議を申し立てる。それを受けて、教師は弁明したり、授業を軌道修正したりする。そういう相互作用があって、初めて、授業内容が「今、この時」をもとにして流動的に展開されることが許されるのではないか。学生が授業内容に不満があれば、「先生はそんなことをおっしゃるけれども、講義要項にはこのように書いてあるじゃないですか」と教師に言えるのだから、講義要項は学生にとってはもっとも大切な授業評価の道具である。教師と学生との社会的に位置づけされた「契約書」である。それを武器に授業を批評すればよいのだ。「保守的な面があるのかもしれない」などという「反省」(恥ずかしさ?)を「さらけ出す」必要は、(批判や要請のための戦略としては)このペーパーにおいてはなかったのだと思う。 mito 「主体性の獲得」「自分や他者に対する不合理な思い込みの克服」などのあり方を考えるためは、もちろん、この学生の言うように「その人自身の日々の生活の中で学び、体験したこと」が重要な基盤になる。しかし、それはレディネスの問題であり、その基盤の上で、それらの人間の内面的な営みや、その援助のための理論構築が学問には求められる。「大学の授業以外でも学ぶこと」であり、「大学の授業でも学ぶこと」なのである。  これらのことは言葉としては、授業中、かなり言ってきたつもりだ。しかし、この授業にもっと実質的な双方向性さえ保証されていれば、この学生のような疑問や反発は、教師と学生の意見交換によって即時に具体的な解決に向かっていたはずである。双方向の授業を形式だけでなく内実を伴って創り出すということは、教師にとってだけでなく、学生にとってもなかなか難しいことなのだと痛感する。僕は自分が教師として堂々回りに陥っているような無力感さえ感じるのだ。これは、「僕は主体性を獲得することができるのか、できないのか」という問題とともに、「僕は他人の主体性の獲得を援助することができるのか、できないのか」という教育学のアポリアでもある。できるとも言えるし、できないとも言えるのだろう。 1993. 1.16. S大教育社会学、女  今日の話はつまんない。言ってもわかんない人にはわかんないよ。よっぽど何か失敗しないと。おこがましいって人から思われたくないからおこがましくならないように気をつけるのって、みんなやりがちだけど、それって一番高ビー。本当におこがましくない人は、何かあって改心した人か、生まれつきか、だと思う。  先生ってある意味でさらしものだと思う。短大の時も、今年度も、美東士先生の授業をとったけど、2年間、先生の本性は授業中には見れなかったような気がする。たしかに他の先生とはタイプが違うというか、意識的に違えているけど、なんかそれ以上の魅力は全然感じなくなった。他のときはどうかわかんないけど、いつも予防線を感じてしまいます。 mito この学生の今年度の出席は、なんと3回目である。それで、「つきあった」といえるのだろうか。真実の追求に対する態度がゆるんでいるのではないか。 mito 教師は授業中、本性をさらけだすべきか、そうでないか、難しく思う。しかし、この学生の発言は重いものを感じる。ただ、「全然」を丸で囲んで強調しているのだが、それがかえって説得力を弱めている。それから、学生が教師に本性をさらけだすよう求めることは、主体的なことなのかについては、ぼくは疑問がある。 1993. 1.20. T大T部社会教育計画、男  (mitoが「どんな批判でもしてください」と言ったことについてか)mitoはリベラリストのおつもりですか? それとも独善者(注・ママ)? 御自身が御自身を、あるいはその講義を、どう性格づけ、または、(我々に対して)位置づけておられるかはわからないけど、私には空虚だった。今日も空虚だ。空虚からの返答を私は期待していない。得たところで、残るのは、ただ空虚のみだろう。そして、そのことを語る私の、私の言葉の、何と空虚なことよ! とは言いながら、何かを得たものと信じてみよう。そして、その「何か」が永遠に謎だとしたら、これは意外にも素晴らしい空虚かもしれない。ああ、何と無意味なつまらぬことを言っているのだろう。 mito この学生は、全部で27回の授業のうち、5回しか出席していないのだが、なんでここまで言い切れるのだろう。もしかすると、この学生は、自らが空虚に耐えようとせずに、「空虚でないもの」を受動的に求めているのではないか。 1992. 1.20. T大U部社会教育概論、男  出席ペーパーを前回の授業で配りましたよね。あれはすごくいいですね。正直言って感動しました。本になって出版されたらいいと本気で思っています(中略)。普通こういう形で先生に提出するものって、嘘ばっかり書くでしょ。明らかにくだらねえ話してんのに、「先生の言葉に感動した」だの「この言葉に考えさせられた」での、心にもないことばっかり言って。かといって、本当のことを書いたら単位が取れなかったりしますからね。そんな大学において、これほどのレベルの授業の感想を書くなんて。素晴らしい。一昔前の伝言ダイアルみたいで。 1992. 1.20. T大U部社会教育概論、男  mito氏のいつもどおりの過去の対応にはびっくりする。履修要覧をここまで引きずってくれる先生なんかほかにいない。その点でもmito氏は自分のすべてに責任をもち、すべての面倒をみるというすごさがある。これらが、私が大学に来て初めて体験するものだったし、その時間のかけ方に感謝したい。mito氏にとっては当り前だろうが、私には暖かく感じられる。  私には先生の顔色をうかがう癖がついているのかもしれない。しかし、それが私には自然だ。だから私が批判する先生は、よほど合わないか、本当に間違っている先生だろうと自分では考える。 1992. 1.20. T大U部社会教育概論、女  自然体授業って、どんなものかなあと思って来てみました(中略)。何か言いたいような気もするのに、正直、身がすくんでいます(中略)。しかし、出席ペーパーであれだけいろいろなことを書いている学生が、この場で発言しないっていうのは、歯がゆいっていうか、逆に面白いっていうか。みんなが私と同じように思っているわけではないと思うので、聞いてみれば面白いだろうなあって思いました。 1992. 1.20. T大U部社会教育計画、女  (社会教育のコンセプトとしての)自主的に学習するということは、それなりのトレーニングが必要ですよね。今の大学生はあまりにもそれができていなさすぎる。ルールの説明だけでこの方法をとると、結局は、「できないやつはドロップアウトしろ」と言っているように思います。3回来ればいいわけだから、頭っからそれしか考えないと思う。それでいいですか? 私は能力が少ないからそーいうやりかたにはとても淋しくなります。もっとおせっかいになってもいいと思いました。2年間、ありがとうございました。 1992. 1.20. T大U部社会教育計画、女  (久しぶりにモグリで出席して)mitoが押しつけがましいのは今さら始まったことじゃない。最初の年がいちばんすごかった。だからね、そんなにストイックにならないで。まあ、大きなお世話だけどね。なんか今日のmito、こわいよー。なにそんなにイライラしてるんだよー。まっ、たまにはそんなmitoもシブくていっか。険しい顔もステキよ。Pretty mitoと名づけましょう。 1993. 4.15. S短大社会教育概論、女  mitoちゃんと私とは、ちょっとちがいすぎるから、私に社会教育は向いているかなー?なんて心配になっています。いくらmitoちゃんが比べるための授業ではないって言っても、頭のどこかにひっかかっているような気がします。 1993. 4.19. S大社会教育計画、男  人に何かを教授するとき、ぼくは「めだかの学校」か「すずめの学校」か、今どちらの方が大切なのか、はっきりさせるべきだと思います。その方が能率がよいと思う。「めだかの学校」はだれが生徒か先生かと歌われるように、生徒と先生がいっしょにまざって授業している様子。「すずめの学校」はムチをふりふりチーパッパと歌われるように、先生が授業を進めていく様子。  先生は「めだかの学校」にしたいと思っているように感じるんですが、聞いていると「すずめの学校」のように感じてしまいます。自由にするとか言っていますが、その自由にするということについて90分まるまるしゃべってしまうのは、もったいないのではないでしょうか?  そのたび、そのたび、授業をしていき、生徒が先生から教わらず、自然に「この先生の授業は自由なんだ」とわかれば、そしてわからせるようなしゃべりをすれば(授業をすれば)いいことだと思います。  先生のような授業は初めてなので期待しています。1年間よろしくお願いします。 mito 1を聞いて10を知るような教え方になっていなかったと反省している。 1993. 4.26. S短大社会教育計画、女 −めだかの学校−  さあー、みなさん。人生は○○ヨオー。今日も○○を学びましょうね。私語はゼッタイダメヨ。 (マインドコントロールのなかで) めだか1:センセーの言うことはぜったいヨ。 めだか2:ハーイ。 (マインドコントロールのそとで) めだか3:ねえー、すずめさんの方がいいわよね。 めだか4:そうね。すずめの学校は楽しそうヨ・・・。すずめになりましょうヨ。 めだかは無言・・・。 −すずめの学校− 学習−ピーチクパーチク 1を言います。10を知ります。 すずめセンコー:今日はこのテーマについて言ってみたいんだけど、何かあったらみんな意見を言ってくれヨ。 すずめガキ1:あのね、あのね、私はね・・・。 すずめガキ2:あっ、そう? ぼくはこうよ・・・。(おかま?) すずめセンコー:おおゥ、ワンダフォー、なるほどね。今日は君はぼくに気づかせてくれた!(愛を・・・?) ある意味での先生さっ。ぼくらは知ることをしあう仲間なのさっ。 すずめおじょう:わたくしも世界が広まりましたわ。 すずめっこ1、2:わたしたちは、口で言うのはまだできないから、ペーパーでねー。 1993. 4.24. S短大教育社会学、女  先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読んでほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな? mito そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということが問題である。実際、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分が自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。そのように潔くできるのならば、「匿名といえどもみんなの前で公開しないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。 1993. 5.12. T大T部社会教育計画、女  先生の授業は学生の興味を引く話もあって確かにおもしろい授業という気もするのですが、満足できません。何か雑談で授業が終わってしまうという感じがします。まだ3回しか授業が行なわれていないので、これから授業がどう進んでいくのか、はっきりつかめないせいもあるかもしれませんが。ある程度の知識は先生が学生に教えるという形で示した後で、はじめて学生が受身にならずに積極的に授業に参加する形の授業が成り立つのだと思います。これまでの先生の授業の方法だと、予備知識のまったくない私は、先生のおしゃべりに笑ったり、反感を持ったりと、その時はいろいろと考えて楽しいのですが、授業か終わると、何を学習したのかさっぱりわからないという状態なのです。とりあえず、これからの授業に期待して、評価はBにしました。 mito 高等教育のあり方を本質的に考えてほしい。教科書は書き言葉メディアであり、授業は話し言葉メディアである。話し言葉メディアには、体系的な知識の再構築よりも、それぞれの学習者が現在持っている枠組の揺り動かしの役割のほうが期待されるのではないか。  もちろん、授業の中で、学生をおもしろがらせたり、満足させたりすることも、どちらも成功すれば、それにこしたことはないが、それよりも授業の中で大切なことは、「毒か薬か」のどちらかになる強烈な言葉をぼくが発し続けることだと思う。その点では、「毒にも薬にもならない」という意味での「雑談」をぼくが一言でも発しただろうか?(もちろん、学食やロビーなどではなく、講義中に、である)。ぼく自身は気づかないまま「雑談」をしている場合もあるかもしれないから、それをこそ指摘してほしい。  また、このペーパーのように学習成果を確認しようとするまじめな人のためには、その回ごとの教育目標を提示するなど、手の内をさらしているのだから、それを最大限に活用して批判するなどの能動的な学習態度が、学習者側の方にこそ、求められているのではないか。学習者が受け身で構えていては、高等教育は成立しない。 1993. 6.16. T大T部社会教育計画、男  ぼくは、今日、この授業に出るつもりはなかった。今もない。諸事情により来てしまったのだ。だからこれから出ていく。ぼくは、今、自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくないのです。  ところで、この出席ペーパーは、ある意味でぼくらを試すものでもあるのだろう。それはたとえば、この講義の内容とか、mitoさんの発言についてとかに、ぼくらがどう思ったのかということを知るために、という意味でだ。  けれども同時に、これらの出席ペーパーを読んでコメントされるmitoさんは、ぼくらによって試されている。いや、こういう言い方は良くないな。むしろ、mitoさんはそこに自らを置いている(出席ペーパーにコメントをつけている)のだから。  ともあれ、ぼくは教室を出ます。 mito 「自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくない」という言葉は、基本的には潔い選択を表していると思う。ただ、「この講義のために」という言葉は、「もっといい講義ならよかったのに」とmitoのせいにする思考方法をやや感じさせるものでもある。実際にはどうなのかわからないが、もしこの授業に未練があるという理由で潔く撤退できないのだとしたら、撤退する前にもっと「自分の(学習する自由の行使の)ために」ぼくの講義を批判すべきである。  出席ペーパーについては、ぼくが繰り返し言明しているように、比べたり、序列化したりするためのものではない。学生は書きたいことを書き、ぼくは読み上げたいことを読み上げ、コメントしたいようにコメントするものであり、ぼくがそこに「身を置いている」のは、学生からの社会的承認を得たいからにすぎない。その目的は、お互いが自分や他者の存在を知るということである。この学生が書いた「試す」という言葉が、人間の基本的信頼関係に基づく肯定的なことがらではなく、「比べられる」と同義のマイナスの言葉のように感じられる点が気になる。 1993. 6.16. T大U部社会教育概論、女  (自己受容には1%のレイプの気持ちも含まれるというmitoの発言に対して)1%レイプしたい人は、どのようなsexをするのか。どのようなsexを相手、恋人、セックスフレンドに求めるのか。考えるとこわい。  誰をレイプするの。誰がレイプされるの。人殺しだ。暴力しか存在しない。形成された人格が無視された体面。いわゆる出会い。10の段階をふんだ人間と10の段階をふんだ人間が出会って、ひとつも知らない0と0の状態で暴力を介して対面する。  1%レイプしたいのが人間の本能なら、私は1%だけ、そんな人間は亡びてしまえと思う。ここでいう人間は、自分を含んだ人類のことだ。これは極端な考え方だとはわかっている。みとさんのいう敗北主義でしょうか。 mito 敗北主義は、男の1%のレイプの心を受容しようとしたぼくのほうだろう。その存在そのものは否定できないけれど、自己受容してはいけないものがやはりあるのだろう。ぼくは、それを男のレイプ願望を含めて、人間一般の「差別する心」として集約できると考えた。ちなみに、自己嫌悪とは、差別したり、差別を受容したりしているときに、あるいはそれに気づいたときに、起こるものなのだと思う。 ● 教育「される」ことへの反発 1992.10.12. S短大社会教育演習、女  この間、ある人と話をしていて、ちょっとしたことで、社会教育の授業の話になったんです。「最近あまりこないネ。また、みんなで話そうよ」って言ったら、「うん。最近、社教にギゼンを感じてしまって・・・」って言うんです。思い切って話してくれたのだけど、バスに乗っていて他の誰かが社教のことを話していたらしいんです。その話を聞いて以来、そういう感じになってしまったそうです。話の内容とかくわしくは知りませんが、けっこう考えてしまっている様子でした。「ギゼン」って何でしょう。私も少し考えてしまいました。 mito 僕が偽善的だという批評は、かなりよく聞くことがある。しかし、残念ながら、それはすべて「友だちがそう言っていた」という形で間接的にしか聞くことができない。直接訴えてくれないということは、「どんな批評をしてもよい」と言っている僕にとってはとてもつらくて腹立たしいことだ。この気持ちは、学生でも僕の立場になって考えてくれればわかってもらえると思う。ある人になんとなく偽善を感じるから、そこから逃げ出すというのでは、その人はこれから社会でどのように生きていこうというのだろうか。しかし、人生の中で逃げ出したくなることはいくらでもあるだろうから、僕の授業から逃げ出すことはあってもかまわないけれど、その場合は、僕や大学制度や社会やそのヒエラルキーのせいにしないで自分のせいにしてほしい。 1992.11. 4. T大U部社会教育概論、女  私は、この講義は生きていく上での考え方や、本当はとても大切なのに気づかずにいることを意識するきっかけとして、自分にとってとても大事な講義だと思っています。mitoさんの「知的水平空間」という考え方、とてもすばらしいと思った。何度も何度もそれに触れるmitoさんは、教壇に立つ人としては稀だと思います。  生涯学習が息づく中で、この水平的考え方はとても重要だと思っています。あらゆる場面で、自分の位置をほかの人より高く意識するのではなく、同じ高さを意識することが大切だと思いますし、それが学習しやすい場をつくることになり、また、共有することにもつながるのではないかと思います。 mito ベタボメで照れくさいが嬉しい。なぜ僕が嬉しいかというと、「先生」つまり「教師という役割が偉い」というほめ方ではなく、「mitoさん」つまり僕自身の考え方や存在がこの人の役に立っているという強烈なプラスのストローク、社会的承認をこのペーパーからもらえたからであろう。 1992.11.30. S短大社会教育演習、女  ミト先生の授業は、いつでも、「給料を取れるだけの講義をしている」という自信があって、「みんなからお金を払ってもらってやってるのだから、それなりの講義をする」というような姿勢があるのが、私はすごく好きです。というのは、本来はそれが当り前だと思うのに、世の先生方は「自分を何様だと思ってるの!」と言いたくなるようなバカ者どもが多すぎるからです。私は、日頃、このことにひじょーに頭にきています。「先生はなあー」とか「おまえらなあ」とか言っちゃって「単位ならくれてやるから、やる気なきゃ帰れ」とか言う先生を見ながら、私はいつも「私はあなたにお前呼ばわりされる覚えも、先生と認めた覚えも全然ありません」「給料なら払ってやるから、このくだらない授業、やめろ。恥ずかしくないのか、こんな授業して。お金払ってるのは私たちなんだ」と思っているのでした。だから、ミト先生のいつも変わらぬこの姿勢を見るたびに安心するのでした。 1992.12. 5. S短大社会教育概論、女  (mito的授業の評価について)先生は良きにつけ悪しきにつけ、自己主張が強いような気がします。だから、話を聞いていて、どうしてこんなにこだわるのかなあ(ちょっと言葉が違うかも)、とか思う時があります。でも、私からすると、皆が普段思っていることや悩んでいることについて話してくれて助かります。 1992.12. 5. S短大社会教育概論、女  (mito的授業の評価について)ある出席ペーパーの中に、mitoちゃんの授業をおしつけというように感じている人がいるという話を聞いて、私自身、自我が強い性格で、すぐに自分の考えを人におしつけてしまう所があるので、私の場合は、その逆に、mitoちゃんに私の考えをおしつけてしまうこともあったと思いますが、mitoちゃんの授業でおしつけと感じたことはありません。今までmitoちゃんの授業を受けてきて、私自身なかなか改善されない主観的なものの考え方だったのが、もっともっと広い視点から物事を見ることが少しずつですができるようになってきた気がします。mitoちゃんの授業を受けていると、自分で言うのもてれますが、少しずつ心の豊かな人間になっていっているような気がします。私は、mitoちゃんの授業を受けることで、すぐに落ち込んでしまう自分を変えていけているようでとてもうれしいです。 1992.12. 5. S短大社会教育概論、女  (mito的授業の評価について)先生は「共感する」ことも大切なことですと言われました。私も大切なことだと思います。もしかしたら、この気持ちが強いために、数人の人が授業に不快感をもったりするのではないかと思う。多分、こういうのは、意識していなくても、先生の心のどこかにあるのでは・・・。ちがっていたらごめんなさい。 mito まったく教師である僕には思いもつかなかった観点である。僕の授業では、僕から共感を求められている感じがして、それをおしつけと感じるのかもしれない。僕はたしかに共感してもらいたいと思って僕の意見をしゃべっている。それはきっとかまわないことなのだろう。しかし、学生にとっては、僕の意見に対して共感などはしてもしなくてもよいのであり、それは学習者側の自由であるということを認識してもらわなければいけないのだろう。 1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女  授業方法に関してどうこう考えるよりも、先生の場合は、先生の思想が強く出る授業であると思う。先生の強い意見の中に、反感を持つときもあるが。VTRを使うのみで、あとの時間はすべて先生の考えによる講義である。こんなものは他にないが、私はわりと好きです。姿勢を正して堪える授業はつらいが、この授業はVTRや先生の一言で、自分の中のいろいろな考えがポンポンと出てくる。他の授業では、このようなことも抑圧されてしまうものもある。だから、水曜は、この4限しかなくても、往復3時間かかっても来ようと思う。はりつめた雰囲気の授業のほうが、かえっていねむりしてしまう。この時間はなぜかいねむりしないのです。 1993. 1. 9. S短大社会教育概論、女  先生の授業は、考えさせられることや重いものがある気はする。そして、もしそれで先生が悩んでいるのならば、私の思ったことを先生にアドバイスすると・・・。今の時期はみんなが悩んでいる時期だから、たまたまそういう話題に触れられたとき、先生を批判的に感じている人は、触れられたくないというだけで、それを防ぐためにうまく表現できなくて、そういう状況になっちゃうんじゃないかなあと思う。  あと、口に出して言わなくても、一人で解決できる力を身につけないといけないと思う。だから、他人には(こういう言い方は失礼だけど、みとちゃんに対して他人と思っていると思うから)口をはさまれたくないんだと思うんだけど・・・。何かイミわかんなかったらごめんなさい。私は幸せでーす。でも、悩みはあるけど・・・。やっぱり、それは気の許せる人にしか言わないし、これでふつうなんだと思う。 mito たしかに自分の悩みをすべて他人に言うわけにはいかないだろう。僕もそれでよいと思う。しかし、この授業では人間の幸福の「追求について追求」しているのだから、僕からの話題提供としては触れざるをえない。「幸せの価値観は一人ひとり違うのだから、授業では扱わないでほしい」という学生もいたけれど、それでは真実は追求できないし、本当に必要な社会教育のあり方も明らかにできないのだと思う。  しかし、このペーパーを書いた学生はmito的授業の「否定派」ではないと思われるが、その人たちの心情を非常に共感的に理解しているように思う。このペーパーを読んで、とくに僕がハッとしたのは、「一人で解決できる力を持たなければと思っていることがらに対しては、口をはさまれたくないのだと思う」ということについてである。そうだとしたら、そのときの嫌な気持ちはすごくよくわかる。「否定派」の人たちが、こういう理由を今まで僕に申し立てしてこなかったのが不思議なくらいだ。  僕の授業が一部の学生にとって不快なのは、「価値観が違うから」ではなくて、「本当は自分で解決したいことだから」なのではないか。それは、つまり、似ている価値観から「答え」を言われてしまったからではないか。これからやろうと思っていたことを、先に他人からやれといわれてしまうと誰でも嫌なものである。それと同じように、自らの思考がすぐ近くまできていたのに、先に答えを言われた感じだったのではないか。そして、そういうとき、嫌な気持ちをもつ「従順でない」「素直でない」人間だからこそ、自己変容もあり、自己解決に向かうこともできる。もちろん、それは、自分でも考えつくような意見を教師から言われたから不快であるということに限るのであって、自分が思いもつかなかったような意見を言われて不快になるということとはまったく逆のことがらである。要は、本来の解答者は学生であって、教師は問題提起者であるということだ。  僕はいつのまにか学生自身が答えるべき問題まで学生の前で解いてしまっていたのではないか。これをやり続けると、学生は、自分の考えを教師の考えに合わせるようになってしまうし、そのほかの場面では、自分の考え方を肯定してくれるものばかり求めるようになる。そうなった学生は、結局は、いっそう自信をなくして、真実から遠ざかっていく。さらには、その学生が考えもつかなかったような枠組が提示されることに対しては、「私の価値観とは違うから」「私は好きじゃないから」不愉快だという理由をどうどうと主張して、知的議論などの水平的空間においてもその中止と自分への「保護」をどうどうと要求するようになってしまう。学問を追求する者として、それはとても情けない姿だ。僕だって、異なる枠組と接してどうしても不快感を禁じえず、しかも真正面からぶつかる元気が出ないことがある。そういうとき、僕だったらコソコソとその場から逃げ出す。それが普通の神経の持主ではないか。  以上の考察からは、僕の授業の改善すべき点も示されていると思う。つまり、学生がすぐに考えつくようなことしか教師として提示できないのだったら(そういうことはいくらでもありうることだ)、その話題について教師自身の意見を開陳することは潔くやめてしまったほうがよいということだ。もっと端的に言えば、「教師は当り前のことは言うな」ということである。答えが当り前の場合は、教師はその話題だけ提供して、あとは学生の独習、自己教育、相互教育による問題解決を待てばよいではないか。学習援助(授業)の眼目は学習者の自己変革なのだから。「先生の考え方を全面的に支持しています」と学生に言わせてしまうような授業だったら、それは学生の主体性を損なっているといえる。むしろ、授業は、「えっ、なに、それ」と思わせるような「概念崩し」の連続であることが理想なのだ。その点では、僕の授業も「ゆるんでいた」のかもしれない。もちろん、学習者のレディネスからあまりにも飛び離れていて、学生がまったく興味の持てないような枠組を提示するのでは、意味がない。その点では、学習ニーズの把握等が必要である。  教師は学生とともに育つものである。だから、教師と異なる思考方法等の枠組をもつ学生の意見を歓迎して尊重することは教師としては当然の行為である。出席ペーパーへの僕の対応はその表れと言ってもよいだろう。教師自身も自分のために学んでいるのである。ただし、学生としては、教師の枠組とは異なる枠組を自分からつねに提示し続けることは「義務」ではない。異なった枠組から自分が学ぶことさえできれば、たとえ傍観者として学習していてもそれはそれでかまわないからである。しかし、教師は、学生の枠組とは異なる枠組をつねに提示し続けるよう努力する「義務」がある。教育という社会的役割の遂行が期待されているからである。教師や社会教育指導者は、学習者と「ともに学び」ながら、しかも、「ワン・オブ・ゼム」(学習者のうちの一人)になってはいけないということが、このことからも論証できるのだと思う。 1992. 1.20. T大U部社会教育概論、女  先生という仕事をしている人は、自分が絶対と思っている傾向が強く、先生が間違っていてもごまかしたり、逆に生徒のあらを見つけて転嫁したりする人もみられます。mito先生の素直で寛大な心にふれたときは、なんだか胸がつまる思いがしました。また、私が就職活動中にスーツで先生の授業を受けたとき、「忙しいのに僕の授業を受けに来てくれてありがとう」と言葉をかけてくださいました。今まで生きてきて、学校の先生という人にそんなことを言われたのは初めてでした。大変感激しました。  mito先生のことをおごっているという学生がいますが、私はそうは思いません。先生は謙虚な方だと私は感じています。それに、自分の授業に自信がないような教師の授業は、受けたくないと思っている学生が多いと思います。今後も、学生の主体性を大事にするユニークな授業の展開に期待します。 1993. 5.26. T大T部社会教育計画、女  (性教育の)VTRは興味深かったが、なぜこの授業でとりあげるのかわからない。もしかして私たち「教育」されているのかな? 確かに勉強にはなりました。 mito 誰も他人を変えることはてきないけど、ぼくは、自己変革の援助としての教育は成り立つという方向で、その実現のための授業をしようと心がけている。ただし、押しつけがましくて反面教師にしかなれないようなセンスのない教育だけはしたくない。ぼくの考える学習援助としての「教育」は、むしろ強力に進めていきたい。 1993. 5.26. T大T部社会教育計画、男  生きているということを無条件で是認できたらなあと思うことがある。しばしばある。もう、しょっちゅうというほどある。あるけれど、そんなことをmitoさんに言ってみたところで何も解決しやしないのであろう。  誰も誰かを理解することなんてできやしないということは、体験的に知っている(といっても、たかだか20年そこそこしか生活していないので、その程度は大したものではないけれど)。  相手を理解しようなどというのは、キレイゴトとしか思っていないのだ。その代価として、自分を理解されたいと思っているのだしね。もう、うんざりしてしまうよ!(ああ、文章がまとまらないなあ。これで文学部の学生とは聞いて呆れるぜ)  ヤレヤレ、ぼくもそのうち、社会に従順に生きていくことになるんだろうなあ。何しに生きていくんだろう? mito ぼくたちの問題解決型学習の学習課題は、楽園追放のその後の生き方ということになろう。そこで大切なことは、「疑り深く信頼せよ」という態度を、自己や他者にも向けていくことだと思う。それは学問をする姿勢とも共通している。 1993. 5.26. T大T部社会教育計画、男  (授業中の私語を注意されて)100%の私語だったら謝りたいが、エゴグラムという私にとっての未知のものを彼は先生より詳しく教えてくれていたので、その瞬間は先生よりも有意義であった。静かな教室で目立ってしまったので注意を受けた、つまり交通事故のようなものだと思っています。先生の話で考えたことを、(mitoが勧めているように)いちいち教室の外に出て話し合うなんて馬鹿々々しい。第一、隣の席でコンパの話に盛り上がっていた者たちが指摘されなかったのがくやしい。 mito 私語に対してどう対処するかは本当に難しいと思う。ぼくは、話し手としてのぼく自身の都合にあわせて対応するしかないと考えている。私語が気になって話しにくく感じたら、注意するということだ。さらに、授業で触発されて生ずるこのような一応の「プラス方向」の私語については、5秒ルールを自主的に適用してもらうこととした。しかし、「その瞬間は先生よりも有意義であった」とこの学生は言うが、そんな事態なら、ほかにもいくらでも考えられる。その場合は、ほかの人の学習の自由を損なわずに自らの学習の自由を行使することが、他者と共存して生きるための最低のルールだと思う。また、彼の友だちの説明が本当に「先生よりも有意義」と思っても、それを一人で聞いているのは、他人に迷惑をかけても自分さえよければよいという自分の姿勢の証明になってしまうではないか。こういう場合は、ぜひ、ぼくの授業に「ちょっと待った」をかけて、ほかの人たちにも問題提起して、その友だちの説明を聞かせてやってほしい。 1993. 5.26. T大U部社会教育概論、女  今日の授業は何とも形容しがたいものでした。鳥肌が立つ「ことば」が次から次へと。先生の熱弁の姿とともに記憶に残るように思われました。時間をかけてこだわって考えていきたい。「宝物」をいただきました。  (次の回の授業で)前回の授業に感動したのはわたくしだけではなく、友人も同じでした。素晴らしい映画を観たあとに何も話せないのに似て、帰りの駅へ向かう道すがら、ようやく互いに口にできました。 mito ここまで強烈な支持的感情をぼくの授業に感じたのはごく少数の学生ではあろうが、それにしても、波長がぴったりあって知的共感の理想的な時間と空間を共有することができたのだと感じられて嬉しい。それらは、集合学習のなかでは、1%の批判と同様に、少数ながら重要な意味をもっている。願わくば、もっときちんと理由をつけて支持し、評価してもらいたい。 1993. 6.16. T大T部社会教育計画、男  これを読んで喜ばないでください。  この授業は、前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのか、ぐるぐるまわっているのか、よくわからない。この授業に出席すると、どうしても気持ち悪くなる。「私の授業は(または私たちが受けている授業は)、従来からある講義と比して、特異でポジティブで有効でetc・・・である」という気持ちは、そろそろ捨てたほうがよいのでは? いい(悪い)授業であるとか、自分はいい(悪い)授業をしているとかいうことは、自分で感じればよいわけで、いちいち毎日聞かされるのは、また、そのことについて意見するのは、時間の無駄だし、くだらない。非常にくだらん。授業方法に自信を持つのは勝手だが、それをあからさまにするのは、たとえ本当に良い授業であったとしても不快である。先生の顔や声自体がそんな感じで、先生の考えを素直に受けとめられない。一種の生理的拒絶反応をきたす。  性を楽しむとは何か? たのしい性? まったくわからない。 mito 授業が相対的に特異であることなどで、ぼくが満足できるわけがない。あなたがそう聞こえただけなのではないか。ぼくが関心があり、学習者側に授業評価を求めているのは、個人個人の学習(=自己変容)にとってこの授業が「有効」であるかどうかなのだ。また、ぼくは自意識過剰気味かもしれないということは認めるが、「自信をあからさまに」した覚えなどはまったくない。むしろ自分の授業方法に不安を感じるからこそ、学習者側に率直にそれを問いかけているのではないか。あなたのほうが、そのぼくの態度を「自信の表れ」として勝手に裏読みしたり推測したりして、不快を感じているだけの話なのではないか。  ぼくは少なくとも「暴力以外はなんでも受けて立つ」と約束しているのだから、「不快である」と泣き言をいうより、どこどこが間違っていると批判したほうがよい。実際に、ぼくを批判した学生のほうがぼくに勝った(ぼくが訂正した)例など、たくさんある(ぼくの自慢にはならないが)。教師を批判する場合は、「たとえ本当に良い授業であったとしても」などという本当は肯定なのか否定なのかわからないような社交儀礼は必要ない。そもそも、「教師の考えを素直に受けとめられるようになること」など、自分のために学ぶ高等教育の場合は考える必要のないことなのだ。ぼくを疑い深く信頼してほしい。ぼくはそれを「知的水平空間における批評的ストローク」とよんでいる。 1993. 6.23. T大T部社会教育計画、女  mitoちゃんの授業はとても疲れる。特に今日はそう思った。これだけ人間がいるのだから、いろんな意見があっても不思議じゃないのに、mitoちゃんはそれを自分の観点で切っていく。私はひとつの問題にいくつもの意見が頭の中をかけまわっていて、すごく考えたのに結局、答えが見つからないことがある。だから、この授業が終わると、いつも頭の中がゴチャゴチャになって、それを整理するのに疲れる。  それに、mitoちゃんがいつも自信満々でしゃべっているから、それを聞くのが疲れるのかもしれない。太陽がサンサンと照っている下で、水分を吸収される土のような気分になる。もう少しmitoちゃんには客観性をもってもらいたいなあ。あと、同じ調子でダーッと話すんじゃなくて、強弱をつけてもらいたいなあ。あと、もう少し興味のもてる題材を選んで(または、学生に選ばせて)もらいたいなあ。 mito 真実の追求とは、疲れて時間がかかるものだと思う。答えがわからなくなったり、見つからなかったりということがあっても当然である。そのこと自体を楽しく思えるようになるしか、主体的学習を獲得する方法はないのではないか。「水分を吸収される土のような気分」とあるが、スポンジだって、今まで溜め込んできた古い水分を絞らないと、栄養を新たに吸うことはできないのである。  話に強弱をつけなかったことについては、今後改善の努力をしたい。しかし、題材については、学生が興味のもてるものをぼくなりに選んできたつもりだし、また、学生は出席ペーパーなどでテーマについての要望を出すことができるのだ。ただし、たとえば、そのようにして学生の関心が強いと思われる海外旅行について話すとすれば、免税店やホテルのプライベートビーチを喜ぶ日本人の非主体性などについて批判的に話すことになるだろう。それは、ぼくの授業には、当然ながらぼくの授業なりの教育目的や教育目標があるからである。しかし、それらは、あなたと離れたところにあるものではなく、あなたが潜在的にもっていると思われる学習関心を掘り起こそうとして設定されたものである。 ● 教師による学生批判 1992.11.11. T大U部社会教育概論、男  (成人ぜんそくのビデオを見ていて)私語はやはり気になる。頭にくるのは私だけではないと思います。先生の注意の後から、やっと静かになりました。 mito 僕にしては、私語を注意することはよくやることではないのだが、今回は怒ってビデオを一時停止してしまった。mito的授業の支持者の中からも、「ビデオを止めて注意をしたのはよくない」という批評があったが、今回はこんなに重い内容のビデオの途中なのにぺちゃくちゃ楽しそうにおしゃべりをしている学生を見て、僕は「こいつら、コンクリート詰め殺人でも平気でできる人間なのではないか」と感じてしまったのだ。あるいは、「こいつらが『ぼくは人生のなかで悲しい体験を引きずっているんです』なんて言ったら、絶対許さないぞ」とも思った。しかし、怒りを表したことはよかったと思っている。じつは、あとで知ったのだが、学生のなかには、あの内容のビデオなのに私語をしている人間を見て、「怖い」と思ってしまった学生がいたのである。これには僕も考え込んでしまった。「怖い」という感情には、「やっぱり人間はわかりあえない」という敗北感が漂っている。やはり、非人間的な行為には怒りを表すほうが、コミュニケーションに対して積極的なやり方だと思う。 mito 私語の扱いは注意を要する。1つは、教師の怠慢によるつまらない授業のせいで私語が出る場合がある。その際、叱られるべき教師が叱るのでは、筋道が逆である。2つは、授業の内容が学生にとってつらいときや、恥ずかしいときなどに、そこからの無意識の逃避行動として私語をする場合がある。これがあまりひどい場合は、教師は、「この授業とまともに対面している学生もいるのだから」と諭してパスする(席を外すなど)よう促さなければならない。3つは、まったく私語のない授業があるとすれば、それはよい授業などではなく、「死んだ授業である」ということである。むしろ、教室全体がざわめきたつような瞬間をどう創り出すかが、教師の勝負どころなのである。 1992.11.11. T大U部社会教育概論、男  私は大学が嫌いです。高校の頃、大学っていうのは、高校までとは違って、数学や英語といった嫌いなものを勉強せずに済む、自分のやりたい勉強をする所と思っちゃったんですね。もちろん、卒業するために取得しなければならないものがあることも知っていました。しかし、大学で学ぶということに、何かワクワクするものを感じていたわけです。そして、今、どーして私は大学なんかに通っているのかなって思っているわけです。勉強に対して集中力がないんです。たとえば人口問題について考える時、1.53ショックだとか、中国の一人っ子政策だとか、「なるほど、ああ、そうなのか」というふうに興味はわくんですが、どうしてか、もっと深く知ろう、自分の力で新しい知識を身につけようと思って実行に移すことが、まず、ないんです。勉強は社会に出てからじゃ、そうそうできないから、とにかく学生のうちにしておきなさいなどと、よく親から言われたものですが、積極的な意欲が未だにないんですね。  で、最近、大学についてひとつの解答が出たわけです。とにかく単位だけいただいて、大卒という資格だけいただこう、と。いい生き方だなとは思いませんが、そういうふうに大学を割り切って受け止めている私です。 mito それは、学校教育や家庭教育によって学ぶ主体性を奪われてきたからなのだ。「1.53ショック」などの外から与えられた教材すべてに自分自身が興味を感じなければいけないと思い込んでいるところに、むしろ、この人の依存的な学習態度が表れている。卒業できるように振舞うことも生きる力のひとつであるが、もうひとつの生きる力、すなわち「学びたいことを学ぶ」という学習の自由から逃げ出さずにそれを駆使することが大切だ。それは、「いい生き方だな」と自分が思うための重要な戦略でもある。 1992.11.11. T大U部社会教育概論、女  この社会教育概論の授業は、2週に1回ぐらいの割合でしか出席していません。けれど、来るたびに思うことがあります。それは、この講義を「私たちに何か求めているモノ」に感じるのです。うまく文章にまとめることはできませんが、いつも同じ印象を受けるのです。  さらに私は自分の考えや意見はあまりペーパーに真剣に書かないほうです。この間などは、何となく憲法第11条を書いてしまいました。でも、文章を書くことが嫌いなわけではないのです。逆に好きなほうだと思います。けれど、このペーパーに授業に対する何かを書くことを苦痛に感じるのです。いつも先生は前の週のペーパーを読んでくださいますが、それを聞く限り、みんな持論をうまく展開しているように思えます。それに対して、先生がコメントをするたび、なんだかそういう取り上げやすいモノを要求されている気がして、反対に、授業に対するコメントを何もつけずにペーパーを出してしまうのです。  別にみんなの前でペーパーが読まれるのが嫌なわけでもありません。どちらかというと、私はすすんでみんなの前に立つほうだと思うし、周囲の人たちからもそう言われます。先生は何を書いてもかまわないと言っていましたが・・・。先生のことは好きだし、この講義は真剣に聞いていればおもしろいと思います。先生は一生懸命に講義をしてくれますが、何か参加しにくいような・・・。この私の独り言に関してのコメントがほしいなんて思ったりもします。でも、来週は来れないので無理ですね。 mito 複雑だが深い訴えになっている。しかし、いつも言っているように、学生は書きたいことを書く、教師は読みたいものを読むでは、なぜいけないのか。憲法第11条のペーパーも覚えているが、あれがなぜ悪いのか。自由に書くことを受け入れたくない自分自身をもう少し見つめ直してほしい。  もしかすると、「書かされている」という教育の被害者の立場に固執する気持ちが奥底にあるのではないか。被害者を演じていれば、それ以上、敗北を味わうことはない。敗北の痛みから逃げようとするところに敗北主義の特徴があるのだ。たとえば、その延長線上では、「持論をうまく展開しているみんなは、じつは教師の取り上げやすいモノを書いている」という身勝手な論理も成立しかねない。  実際、出席ペーパーに関して、「ほかの人は文章がうまい」という学生が新学期の頃はものすごく多い。これは意地悪く考えれば、「自分の考え方は本当は深くてそれなりに正しいのだけれど、文章として表したり、言葉として表したりすることについてはヘタである」と自己弁護していることにほかならないのではないか。しかし、論理は言語によって検証される。あるいは、論理は言語そのものである。敗北を恐れていては、論理構築に対する内なる敗北主義を克服することはできない。あるいは、どんな考え方を秘めていても自由だが、言語として外在化させないことを選ぶとすれば、その考え方が論理として社会的な意味をもちえないことについては容認するしかない。それを容認しているならば、それはそれで潔い態度だと思う。また、この人は「すすんでみんなの前に立つほう」なのだから、授業中の「パフォーマンスタイム」や「ちょっと待った」での口頭表現に力を傾けたっていいだろう。その場合は、ペーパーでの文章表現を放棄したってかまわないではないか。  しかし、そもそも、僕が一生懸命に講義をしているからといって、別に無理して出席ペーパーを通した能動的な「参加」によってそれに応えようとする義務はこの学生にはない。僕が一生懸命に講義をするのは、教師の役割として当然のことだ。学習者としては、自らが「傍聴することにしよう」と決めて、意識的かつ積極的に「傍聴」することだって、ひとつの主体的な学習方法なのだ。また、次回出席できないのだったら、友だちに講義を録音してもらえばよい。僕は前から録音を許可しているのだが、学生がそうしようとしないのは不思議だ。著作権者である僕のほうが録音を勧めるなんて妙な話だが。  そして、「学生に何かを求めること」は、僕としてはごく当然の行為である。なぜなら、現代社会における僕を含めた人間の主体性喪失の不幸な状況に対する挑発作用として、この授業を機能させたいと僕は希望しているからである。しかし、この挑発に応じるか応じないかは、学習主体である学生が各人で決定すべきことである。 1992.11.18. T大U部社会教育概論、男  今日のレジメはなんか色々と書いてあり、うんすごいなと思ってしまったのでした。でも、まてよ。Two wayの原則になっていないぞと思ってしまったのでした。ペーパーとのTwo wayというのは、と思ってしまうのは私だけでしょうか。先週、mitoがビデオを止めて怒ったとのこと。そんなことしなくてもいいのに。学習者どうしの主体性(うるさいから学生同士で注意するようなこと)を待ちきれなかったのでしょうか。なんか先生が止めちゃうと、「私はこうだ」というのを押しつけてしまっているようで・・・。なんか違う(私はいませんでしたので、これぐらいしか)と思うのです。  あと、今日のmitoのレジメのなかで、何からでも学ぶ人生と、何からも学ばない人生の二つがあるとありますけど、何からも学ばない人生ってなんでしょう。それは非主体的に学習してきた人の人生のことでしょうか。でも、そんな人はいないと思うのですが・・・と言ってしまう私は、主体的な学習ができているのかなと考えてしまうのです。本当の学習とはいったいなんでしょうか、生涯学習とはなんでしょうか、と考えてしまうのです(卒論の関係もあるのですが)。一般的に考えている生涯学習とは、なんかちがって。一般的なのは、絶対生涯学習しなきゃという感じで・・・。でも、違う。私は私の生涯学習というものを考えていきたいです。 mito 考えさせてほしい。しかし、「何からも学ばない人生」というのはないのかもしれないけれど、つまり「学んでしまう」のだけれど、そのようにして「学んでしまう」ことを受容できていない人はいるのではないか。そして、その非主体的な傾向は、私たち自身が多かれ少なかれ持っているのではないか。ただ、それにしても、「何からも学ばない人生」という言葉は「何からも学ぼうとしない人生」に書き換えるべきなのだろう。 1992.12. 2. T大T部社会教育計画、男  (初めて授業に出席して)ひとことで言うなら「理論と実践」の講義というのが第一印象(感想)である。ビデオを見て、障害者についての自己意識の確認をして(正しいか、誤っているかではない)、実際、自分がその立場(障害者側とボランティア側)になったら、その確認した時の態度と変化があるかどうか考えてみることで疑似実践を体験しているようだ。この講義を好んで出席している人びとは、講義担当者からカウンセリングを受けているような気持ちになっているのではないだろうかと思った。(ネガティブな意味ではない。) mito 客観的な授業評価になっている。ただ、「気づいていない深い自分に気づく」という意味ではこの授業はカウンセリング的であると思うが、その手法はむしろ教育的であり、すなわち、カウンセリングというよりもエンカウンター的であると僕は思っている。そして、どのようにカウンセリング的にしようかと探っているところでもある。この学生が僕の授業をネガティブではなく受けとめたのなら、「この講義を好んで出席している人びと」に対してレッテルを貼ることよりも、この授業が自分自身に得るところがないかどうか確認することに力を注いでもらいたい。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、男  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)めったに授業に出てこないくせに、どうこう言える立場ではないと思えるが、言おうと思う。ぼくは前期は比較的、先生の授業に出ていた。毎回、行くごとに、ものすごい自分への問いを発することができたし、先生の一言一言がズドンと胸にくる感じがあった。すごく楽しみにして授業に行っていた。しかし、最近、来るたびに、ものすごい疎外感にかられて、しばらく行きたくなくなるのである。1時間目も2時間目もである。ぼくは自分でバカだと思わないし、授業に対する自分の態度がいいかげんだとも決して思わない。ところが、ばぁーと話しまくる先生についていけないのである。必死になって先生の言うことを理解しようとしているうちに、ドキドキしてくるのである。なんか、一部の人だけを対象としているような疎外感を、いやがおうでも感じるのである。それなのにペーパーで自分を表現しなければならないのがすごくつらいのである。  ぼくは先生のする授業形態は好きではあるが、最近の先生は自分の中でたたかっているのが、ぼくにはみょうにカリカリしているように感じて、前ほど安心して自分の心の中のたたかいに挑むことができないのである。先生は自分の自己実現のために授業をしているというふうに強く感じ、ぼくらに問いを提供するという前のようなすごい力がないように感じる。ぼくのような学生もいることを知ってほしい。これはぼくが社会学の生徒だからだろうか? (主体的な学習を援助する教授法を実践した)○○君はわかっていても、僕にはわからない。おもしろくなかった。 mito ツー・ウエイになっていないということだろう。そして、このペーパーの指摘はそのことをとくに強烈に訴えるものになっている。僕としても、重く受けとめたい。考えさせてもらいたい。しかし、ひとつだけ問題提起をしておきたい。広告の戦略では、「みなさん」と呼びかけるのではなく、「あなた」と呼びかける。広告の対象とする個人は受動的であることが前提だからである。しかし、「あなた」は、この授業においても本当に「あなた」と呼びかけられたいだろうか。現象的には一部の人が「陪審員」になっていたっていいじゃないか。「傍観者」のほうは「傍観者」なりに巻き込まれないがために「見える」ものがあるかもしれない。たとえば「自分の自己実現のためのカリカリした授業」をさらしている僕を見て、いろいろなことが学べるのではないか。「陪審員」になるか、「傍観者」になるかは自分が選択すればよい。そして、もし、「陪審員」になりたいのに教師がそうさせないのだったら、あなたは授業料を払っている学習主体なのだから、その権利を行使してこのペーパーのようにして僕に抗議すべきだ。 1992.12. 5. S短大社会教育概論、女  (授業評価のビデオに出てきた)大学教師たちの中に、学生のことを「あんな連中」と書いている教師がいました。たしかに今の学生は遊ぶために大学に来ているとも言われています。でも、そんな言い方をされると悲しくなってしまいました。mitoちゃんの授業を受けると、自分らしくいられるような気がします。私にとってそれがmitoちゃんの授業の魅力です。 1992.12. 9. T大U部社会教育概論、女  みとさんの授業は80%以上出席しています。毎回みんなのペーパーを楽しみにしているし、みとさんのレジュメ&授業の雰囲気も好きなので、単位を取る、取らないで来ているわけではないのです。で、みとさんは、説教くさい、社会的権威うんぬん、早口、とか書かれて考えているようですが、私は(2限の)主体的学習の授業の感想で「参加者側も、ためいきや恥ずかしいなどの声に出さずに、盛り上がらなきゃいけない」とペーパーに書いたら、みとさんが青年の家の国旗掲揚問題(朝のつどいに出る、出ないという事柄は「管理」であって、国旗に敬意を払うことが重要かどうかを教育系職員とつどいに出てこない青年とが水平に議論することが「教育」であるという意見)にまで話を発展させられました。私の考えがそこまでつながるのが、私にとっては理解できませんでした。私のペーパーに書いた考え方を、すべては生き方に反映はしていないのに。自分の言いたいことをみとさんのものさしの中で、勝手に解釈され、それをみんなの前で喋られると、自己表現がうまくできない人にとってはどんなもんなのでしょう。  みとさんは、他の意見を殺すような攻撃性を感じるときがあります。でもそれは私のことだとも思います。だけど、みとさんの授業は興味があるので、出るし、批評するにはそれなりの情報を持たなければと思うし、おもしろいし、出席しています。みとさんの本も買いたいので、くわしく授業で言ってください。 mito 出版がそうなのだが、書いたものというのは、自分のコントロールを離れて一人歩きするのだ。それがいやだったら、それはプライバシーなのだから自分で守れば良い(非公開)。出版しなければいい。出版とはそういう「潔いもの」だと思っている。ただ、出席ペーパーの場合は少し性格を異にする。ペーパーは双方向授業の一環だからである。しかし、双方向というのは、学生側の意見がそのまま通用するということではない。その意見が公開された上でなら、教師はその意見をたくさんの学生の面前で「殺しても」よいのだ。しかし、それを殺そうとした教師の意見が、学生の批判によって殺され返すこともありうる。そういうほうが緊張感があっておもしろいじゃないか。これこそ知的刺激というべきである。ただし、そのためには、自分が負けたときには負けたと認めるゲーム感覚の潔さが教師にも必要であろう。一部の学生は大学教員には(本人と同じように)この潔さがないと思い込んでいるから、高等教育の授業そのものに不信感を持ってしまうのである。「自分は子どもが好きだから教師になりたい」と考えている教育系の学生の場合は、とくにこのことを考えておいてもらいたい。 1992.12. 9. T大U部社会教育計画、女  (mito的授業の評価で)自分が疲れているとき、授業についていくのが大変なときもある。しかし、逃げ場があるので救われる。つまり、自分を第3者に置いておけるのである。皆の意見や美東先生のやりとりが、自分の鏡として存在する。その反面、自分自身に対しての葛藤も投げかけてくる。生の授業で、美東先生の自己表現が素直に出ている時と、葛藤している姿(だめな部分)が伝わってくる。おしきせの時代遅れの授業よりも、美東士先生や皆の現場の声があって私にとってはプラスになったと思う。 1992.12.16. T大T部社会教育計画、男  (mitoもクビにならない程度に成績評価に関する妥協などはしていると言ったことについて)そんな妥協をするようなことでは、主体性がない。自分がやっていることが正しいと思うのなら、クビを覚悟でやったらいいし、学生の人気とりだけだったら、そもそもやらないほうがよいと思う。 mito この学生は、僕が何回クビになったら僕に主体性があると認めるつもりなのだろうか。自分の敗北の経験を忘れ、弱い部分、恥ずかしい部分を許してしまった上で他人を批評すると、こういうことになる。自分の考えと社会とが折り合いがつかないとき、自分だったらどうするか、自分は今までどうしてきたかを考えればすぐわかることだ。「学生の人気とり」云々については論外で、そんな発想が、この授業の単位認定に関する僕の説明を聞いたあとで出てくるはずがない。本人が自分の頭で考えたことを書いたわけではなく、これで何かを言ったことになるだろうと本人だけが勝手に思い込んでいるフレーズを常套句のように無意識に使ってしまったのだと思う。 1992.12.16. T大T部社会教育計画、男  私は、この授業があまり好きになれなかったので、初めのほう、1、2回しか出席しないで、この授業を切ってしまおうと思っていました。でも、ずるいかもしれませんが、やっぱり単位はほしいので3回は出席します。今日の授業は「授業評価」だそうですが、美東ちゃんの授業を一言で言い表すとすれば、生徒とのなれ合いのような気がします。学生と仲良いほうがおたがいにやりやすいとは思いますが、それでは授業内容に重みが打ち消されてしまうような気がしてなりません。なるほど、こういう講義は、私たちにとって、簡単に単位が取れるし、教える側にとっても気が楽ですし、気をつかわなくてもよいかもしれません。しかし、これは、西村先生の責任逃れであって、私たちのためにならないと思います。やはり、講義にはある程度の緊張が必要だし、無理にでも出席すれば血になり、肉になるでしょう。私には、こんなことを言う資格はないと思いますが・・・。でも、みと先生のヤル気、熱意にはいつもながら感心させられます。努力していらっしゃると思います。 mito この授業では、教師と学生の双方が「何でもあり」でリラックスしているのにもかかわらず、「ある程度の緊張」どころかものすごい知的プレッシャーを学生も教師自身も感じるような内容をそれなりに実現しているつもりだ。そういう意味では、何も楽しいことばかりが学習ではない。3回の出席については、なるべく初期の頃に3回出てほしかった。そうすれば、「3度目の正直」で、僕の授業が「好き」になっていたかもしれないからだ。3回も出ないでおいて、この授業を「あまり好きになれない」と勝手に判断してしまうのは、「3回出てから自分にとって必要かどうかを判断してください」と公言して授業に勝負を賭けている僕に対して失礼だと思う。  それにしても、学生自身が「無理にでも出席すれば血になり、肉になる」のだと思うのだったら、そうすればいいではないか。この学生も言うように、僕は自分に与えられた社会的責任(良い授業を創る努力をすること)からは逃れていないと思う。「教師が無理にでも出席させてくれないと、結果として私たちのためにならない」という言葉のほうが、学習者側の依存的姿勢を表しており、学習主体としての「責任逃れ」の言葉である。そして、この考え方のまま教師になると、学習者の依存的態度(または教師への無用な反発)を増大させる教師になってしまうのではないかと危惧される。 ● 楽園追放は受けとめるしかない 1992. 9.30. T大U部社会教育概論、女  今日は病み上がりなのでけっこう疲れています。ビデオを見ながら「うんうん、そうなんだよね」って思ったところがありました。前半、つどいで話し合っている場面。なんで自分がこうなったのかわからない、とか、どんどん自分を責めて追いつめてしまうというところなんかがそうです。  また、後半、さいごに家族で助け合い涙ぐんでいた場面。これを見たとき、うらやましいという気分を通り越して、バカヤローという気分だった。やっぱり世の中、こんな家族もちゃんとあるんだなあーと思った。自分がこんな気持ちになるなんて・・・。なかなか超えられないぶ厚いものがまだまだ目の前にはだかっているのを感じたと同時に、ちょっと情けない気持ちかな。 mito 生育歴の問題は、本人がそれに気づくこと以外に解決に向かう方法はない。 1992.10.12. S大社会教育演習、女  自分で決めるっていうことがどんなに難しいことか、22歳にもなって未だに悩んでいます。来年の就職のことなんですが、3つぐらいの道は考えているんだけど、どれにするかなかなか決断できません。友だちや親に相談しても、結局決めるのは自分になってしまうのです。昨日、テレビで大橋巨泉も言ってたけど、自分で決めることができるようになるということは、本当の大人になったということなのかなと思います。誰のせいにもできないで自分に責任をもつということはこわいことだし大変なことだと思うけど、逆に言うと、人生を充実して満足して生きている(おおげさかな?)ということになるんじゃないかと思います。 mito 就職には2方向の選択がある。一つは自分が会社を選ぶことで、もう一つは会社から人間が選ばれることである。その2つの事実を受容しなければならない。僕だって、いくつかの選択で落とされ続けてきている。たとえば、僕自身は総理大臣をやってみたいのに、今のところはやらせてもらえていない。 1992.10.15. S短大視聴覚教育、女  半年前に彼と別れて、お互いのことを考えてみることにしました。私は彼のことを半年間、今も、好きで好きでたまらなかったのに、彼を忘れるために違う男の人とつき合ってしまったり、今もおじさん(親類ではない)などに遊びを誘われると断れず遊びに行ってしまいます。最近、彼に会うことができましたが、好きで好きで他の男の人を好きになれないのに、「私は遊び人だから、もうふさわしくないよ」と言ってしまい、連絡もしないと言ってしまいました。彼は以上のことをまったく知らないのでつらいのです。友だちに相談したところ、強がらないで思いを伝えた方がいいと言ってくれました。今朝、彼に電話をしてみました。彼とつき合い直すのには、おじさんと遊びに行くのはやめたほうがいいですよね。おこづかいももらっています。 mito 両方を選ぶことはできないだろうから、自分でどちらかを選択するしかないだろう。要は、この学生自身がどのように生きたいのかということだ。でも、この学生はちゃんと自己解決に向かっているのではないか。ただ、現代社会は少女の性がなんの努力もなしに商品になるという社会であることを少女自身が客観的に認識しておかないと(妊娠中絶をする少女の相手の大半は社会人である)、その少女は(安売りをしてしまうことになるということを含めて)大変な損をすることになるということを覚えておいた方がよいと思う。 1992.10.24. S大教育社会学、女  先生は人間が向上心を持って生きていくための言葉の引出しをたくさん持っていらっしゃると思いました。私は今日初めて授業に出席しましたが、何というか、先生の授業は安心できるような気がします(変な言い方ですね)。何となく話を聞きながらでも、自分のことについて人間のことについて考えることができました。  私は高校生の頃は考えたこともなかったけれど、最近はとても人間が好きなんだなあと思うようになりました。人間の感性って人それぞれだからこそ面白いものなのだなあと思います。でも、大学に入ってから割り切って人とつき合っていたような・・・。割り切って接することが認めること(美徳のような)と思っていたこともありました。今の私はその頃の私をさみしく思えます。もっともっと人間の研究をしてみたい。だから先生の講義は私の探求心を満たしてくれている気がします。私は片道2時間以上かけてここまで来ているのですが、今日は来たかいがあったと思いました。 mito 親から一方的に保護を受ける乳幼児期をすぎて、人間は楽園から追放されて(学校や友だち関係などの)社会に出ていく。そのときの痛みは誰にでもあるものだろう。パワフルな人というのは、その痛みがなかった人ではなく、その痛みを受容できている人だ。僕は、このような言葉は持っていても、内面的にはまだそこには至っていない。それを了解しておいてほしい。この人が「人間の感性って人それぞれだからこそ面白い」と思えていることは、自分や他人に対するOKマインドということであり、それは枠組が違う他人の存在やそういう文化との交流を歓迎するネットワークマインドにつながっている。しかし、自分と違う他人の存在がつらい人もいる。僕自身にもそういう傾向が見え隠れするときがある。そういう人にとっては、僕の授業もつらいのだろう。これは僕の授業の課題といえよう。 1992.11. 7. S大教育社会学、女  (自分が好きな)彼の(電話での)話で、ショックなことがありました。今の彼女(自分とは違う)とつき合う前に彼には彼女がいたそうで、その別れた理由が、違う女の人と大人の関係をつくってしまったからだそうです。くわしくは聞きませんでしたが、もし、遊びだと考えると・・・。でも、どうみても、その人は遊びでそんなことをするようには見えないし・・・。お互いに好きな人同士でするものなのじゃないのかな・・・? mito 男女の性欲の違いを認識しておいた方がよいと思う。その上でも、人間としての共通な感覚を追求することはできるのだ。 1992.11. 9. S短大社会教育計画、女  愛とは何か考えています。私は許すことだと思っています。見返りなど期待しないもの、与えるものだと思います。でも、愛されたいです。愛している人から愛されたいです。私は家族には愛に包まれています。母からも父からも私は愛を感じます。私も両親を愛しています。忍耐と愛が大切だと思うんです。でも、足りないのでしょうか。伝わらないこともあるんでしょうか。 mito 愛は言葉にしないと伝わらない。その言葉は見返りを期待して発してよいのだと思う。精神的な見返り、つまり愛がむくわれることを期待してよいということである。「愛している人から愛されたい」という感情はやましいものではないからである。そして、相手が自分を愛するようになるかどうかは相手の自由だが、少なくとも自分の気持ちは伝わるだろうと、自分と相手を信頼して言葉を発することが、見返りを期待することの意味である。 1992.11.21. S大教育社会学、女  先生が詩(ゲシュタルトの祈り)のことを言っていますが、「仕方ないじゃないか」なんてきれいごとだ。人間にはエゴがある。そのどろどろしたものを無視して芸術はありえない!! mito 「ゲシュタルトの祈り」は、他人に自分の期待に沿った人生を送らせようとすることのくだらなさ、ばかばかしさ(仕方なさ)を指摘したものだ。そのくだらなさに気づいていないレベルの人間の葛藤を表現しても、あまり面白い芸術にはならないのではないか。なぜなら、それは、たんなる「わがままなことによるコミュニケーションの不能」あるいは「無知による不幸」を表現するにすぎないことになるからである。それよりも、その「くだらなさ」「ばかばかしさ」を認めつつも、なお、その上で「どろどろ」してしまう人間のエゴを表現することのほうが、レベルの高い芸術表現につながると思う。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)今回はなかなか考えさせられる部分があった。「自己表現できないのは不幸だ」(というmitoの問題発言)を考えた場合、自分を守ることからくるものなのか、反発も出てくる。自分自身の表と裏が見えてくる。自己認知している自分に気づいた。  役割遂行と自己実現の関係も、なるほどと納得した。私もその間の葛藤でストレスがたまり、かなり苦しんだ過去があった。今もまだ少し残っているかもしれない。ただ、私自身は幸福だと思っている。瞬間、瞬間に驚きを感じる自分がそこにあり、役割遂行に割り切っている自分と、自己実現を追求する自分とがある。何もかも見えている中で、ストレスを感じないでひたっている雰囲気がそこにある。これは自分を守るためなのかもしれない。でも、そんな自分を許している自分がある。それでいいんだと思う。いつもおだやかな中にもキラキラしたものを持っていたいと思う。 1992.12. 5. S大教育社会学、女  (不登校の理由のビデオを見て)登校拒否の話ですが、私も決められた枠組で生きることに疑問を感じて、3年間、いわゆる浪人生活をしました。登校拒否をしていながら学籍が抜けない人っていうのは、心の中で学歴とかにすごく執着している部分と、それに適応していけない部分の間で苦しんじゃっているんじゃないかな。「自由」に対するイメージを持たず、「束縛」から逃れたいとばかり思ってもうまくいかないですよね。 mito なんということだ、こんなに「超主体的」な学生がいる。彼女の場合、どこが主体的かというと、学籍を自らが抜いたかどうかということではなく、「自由に対するイメージを持たずに束縛から逃れたいとばかり思ってもうまくいかない」という自分の外の世界の環境をきちんと(僕にはそう思える)体得した上で生きてきていることだ。 1992.12. 9. T大U部社会教育概論、女  授業の中で学生の受ける痛みについて、もっと共感的に話したいとmitoちゃんは言っていたけど、私個人としては痛みは痛みでいいんじゃないかと思う。私もこの授業で痛みを受けることがある。でも、そのとき、痛みを受けるのは嫌だというのではなく、その痛みを自分なりに私は考えてしまう。この痛みはどこからくるんだろう。私の何が痛みを感じさせるのか。この授業だけではなく、職場でも何か嫌なことがあったとき、痛みを感じたとき、必ず考えるようにしている。考えてみると、今いる自分がけっこう見えてくる。そういう状況にいるときのほうが、自分が見えてくるような気がする。考えてみると、だいたいの場合、自分のわがままとか自分の未熟さが、もとにあるように思う。それで自分を見直すことができるので、その人個人のうけとめ方しだいじゃないかなと思う。 mito これは重要な自己解決能力なのだろう。 1992.12. 9. T大U部社会教育計画、女  しばらく出席していたが、出席ペーパーは書かずに帰っていた。何かまとまらないことを考えていた。いつも授業で、枠組の中で考えることを変えてみる、自分を見つめ直す、等々、最初フムフムと思っていた。そういうことで悩んでいる人はいる。でも、実際、それは先生の悩みそのもののような気がする。授業の底辺には「人間は絶対暗く迷っている動物」みたいなものを感じるようになった。だから、それに同感する人たちには楽しいもので、明石家さんまさんみたいに、人生楽しくて自分のことが大好きな人たちには、重く感じるかもしれない。最近、仕事の関係で全部は出席していないけど、その中で何度か感じたのは、私は普通だ、私は今の自分に別に不満はないと思っている人が、「よく胸に手を当てて考えてみよう。暗く悩んでいる部分があるだろう」と迫られているような感じがあった。これを説教的だと思った人もいるかもしれない。先生の中で何か悩んでいるもの、きついかもしれないけれど先生の中の病理を基本にして授業をしているような気がする。 mito 現代社会において、自分の今の枠組から自分を解放している人や100%自己肯定できている人など、本当にいるのだろうか。僕は、そんな人は地球上に一人もいないと思う。この学生は自分のことではなく「明石家さんま」という他人を例に挙げているが、そのことは、自分はそんなに明るいところばかりではないけれど、(真実を知らないことによって)明るいだけの人もいるのだからその人たちは真実を提起しないほうがよいということになる。これは大衆蔑視の「寝た子を起こすな」説や愚民化政策にもつながる。迷っていることや暗く悩んでいることが、たとえ、その教員の病理だとしても、教員は自己のその病理、すなわち教員自身が悩んでいることを基本にして授業を進める以外に真実を追求する方法はないのだ。「知的水平空間」とはそういうことである。もうひとつ言えば、逆説的だが、たとえ1%でも迷っている自分や暗く悩んでいる自分を認めたくないということのほうが深刻な病理と呼ぶのにふさわしいのだと思う。 1992.12.16. T大U部社会教育概論、女  叱るということ自体、「引き合い叱り」だと思う。言葉には出さなくても叱るということは「弟はできるのに」「よその子はみんなちゃんとやっているのに」というような言葉を省略しただけのものであり、何かと比較してそのワクからハミ出した場合に叱るのが一般的ではないだろうか。それはどんなときに叱るのかということを考えればわかるはずである。 mito 親自身にも枠組があって(人間は枠組から逃げられない)、その枠組から叱っているということを親が意識していれば、そしてその枠組を自分にも子どもにもごまかそうとせずオープンにすれば、その枠組から叱ることはまったくかまわないし、それ以外の方法はないであろう。問題は、親自身が本来持っていた枠組が他の事情(世間体や愛情喪失など)によって「汚染」された枠組になっている場合なのではないか。 1993. 5.15. S短大教育社会学、女  私がmitoちゃん先生の言葉の中で好きなものの一つに、「過去と他人は変えられない」があります。私は去年の社会教育で初めてこの言葉を耳にしたとき、「ハッ!」として、今までの自分を変えていく材料の一つになりそうでうれしかったのを覚えています。なかには、「さめた考えだ」と言う人がいます。(私は社会教育の営業ウーマンなので、みんなに宣伝しまくっているとき、こう言った人がいました。)でも、私はとても積極的な言葉だと思います。過去と他人は変えられない、「じゃあ、ダメだ」ではなくて、「それなら・・・、そう、自分を変えていけばよいのだ!」だと思います。潔く生きることともつながっていると思います。 mito 「過去と他人は変えられない」という言葉は、人間についてあまりまともに考えたことなくてぼんやりと過ごしている人にとっては、すぐには理解できないし、かえって「自分にとって不都合で不愉快な言葉」と感じられて、即座に排除しようという気持ちが働くのだろう。 1993. 6.12. S大教育社会学、女  高校を卒業して初めて行ったバイト先で、同じバイト先の人(大学生)に、とてもひどいことを言われたんです。「進学するの?」って聞かれたので、「音大に行く」って答えたら、「音大行って何するの? アイドル歌手にでもなるの?」って言われました。ムッとしたけど「教師になりたいの」と答えました。そうしたら、その人は「あんた世間なめてんじゃない?」って言ったんです。きっとその人は、音大という所は遊んでいても卒業できると思っているんでしょう。それで私が教師になりたいなんて言ったから、そういうことを言ったんでしょうね。でも、私は、小学校からの夢をそんなふうに言われて、とてもくやしかったし、悲しくて涙が出そうになりました。  この人の他にも、やっぱり、「音大に何しに行くの? アイドル歌手になるの?」って言われます、ちょっとバカにしたみたいに。  一生懸命頑張って入った学校なのに、なんかそういうふうにしか言われないなんて淋しいです。だけど、音大がどういう所か知らないから仕方がないですよね。人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば、それでいいと思います。 mito そのバイト先の大学生のように、相手に言えないはずのことを言う人が、社会にはスパイのように配置されている。さわやかでない、攻撃的な自己主張しかできないタイプの人である。「私は(世間がつらい)」と主張できずに、「あなたは(世間をなめている)」と相手の人格を見抜いたふりのようなことしかできないのである。そういうスパイみたいな人のつらさを共感的に理解して受容できるようなものすごいレベルに到達するまでは、なるべくそういう人には巻き込まれないようにしたほうがよい。  ただ、もう一方で、「人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば」という願望を実現することも、人間にとっては残念ながら困難である。人間は自己実現だけでなく社会的承認も得て、初めて自己を確立できるからである。そのためには、音楽を志す自分の生き方を支持してくれる他者を見つける必要がある。 1993. 6.16. T大U部社会教育概論、男  ストロークの話はうなずけました。周りが敵意に満ちている場合、「自分がフランクにつき合えば、周りもなごみ、軟化してくる」というのはウソですよね。周りから嫌われている人が正直に自分をさらけだしたら、そこをつけこんでさらに攻め込まれてしまうというのは、ある意味では当然の反応ともいえましょう。  「とにかく誰に対してでも、そしていかなる状況下でも、自分を出して、友だちをたくさんつくろう」ということを小学校の低学年で教えられ、愚直にもそれを実行していやな目に遭った子どもたちは少なくないのではないでしょうか。時として、自分を隠して人とつき合うことも必要なのでしょうね。「友だちをたくさんつくろう」というスローガンにしても、「なぜ」友だちをつくらなければならないのか、また、「なぜ、たくさん」つくらなければならないのかということにも疑問はありますが、「つねに自分をさらけだそう」というスローガンには、最近になって疑問を持つようになっていましたので大変にうなずけました。  「周りが非友好的な雰囲気のときは、非積極的に振舞おう」という考え方は、時として、不健康な考え方として捉えられることもありますから、はっきりと先生がこのことを口にされた時は少々驚きました。 mito そのとおりだと思う。ストロークの法則を確認して、その力量を高めていってほしい。なお、別に、ゼミで上級生から批判された仲間のレポートを本当は私たちは評価していたというペーパーがあったが、そういう場合は、逆に、「支持をするのなら、なるべくその場で口に出して表す」ということがあえて必要になる。 1993. 6.16. T大U部社会教育概論、女  大人たちも悲しい性を生きているという現状について・・・。mitoさんは「夫婦のあいだは安らぎじゃなくて、ある種の闘いなんだ」とおっしゃっていましたね。「いかに自らが自分の考えを口にしないで、自分の都合に沿うようにキモチよくなるか」を、私を含めて大人たちはsexというコミュニケーションに求めているのかもしれません。だから安らぎなんか得られない「闘い」なのかもしれませんね。でも、本当は心が通じ合うためのコミュニケーションのいちばんいい手段がsexなのだと思う。楽しまなくちゃ、やっぱり。そのためには、ふたりで徹底的にsexについて話し合わなくちゃ。「いかに言葉にせずに」じゃなくて、「どう言葉で伝えるか」ですよね。なんてエラソーなこと言って、なかなか難しいんだな、コレが。 mito 「言葉にせずに」コミュニケーションできると嬉しいけれど、実際にはそれだけではうまくいかない。「どう言葉で伝えるか」を模索することになる。だから夫婦の関係は、緊張関係でもあり、闘いにもなるのであろう。その現実は受けとめるしかない。それは、「楽園追放後の生き方」ともいえる。その現実に潔くなれない姿として、マザコンをとらえることができるだろう。 1993. 6.23. T大T部社会教育計画、男  先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的と言われたと思いますが、私は司書さんが言ったことがわかるような気がします。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思います。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。どう考えればよいのでしょうか。 mito ボランティアの活用は住民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。そうでないと思うなら、そう批判すればよい。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは御都合主義といわざるをえない。  専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で「代行」できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。「現在の」その仕事は、ボランティア養成・研修やその他、より専門的な仕事に「純化」すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は「当局側」の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずだったのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。だとすれば、幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。  幸福とは達成されるものではない。社会教育職員の場合も、人の幸福追求の援助のなかで、自らの幸福も確認できる。それは、社会的役割遂行のなかで自己実現が可能であるということでもある。そのためには、自己の保護や安定だけ求めるのではなく、自分が働いている意味(働きがい)を自負(プライド)できる自律的な精神が求められる。 1993. 6.28. S短大社会教育概論、女  社会教育概論の授業は今日で何回目かな? 私はこの授業で人づきあいについて(完全ではないが)たくさんの見方を学んだと思う。大学という今までとは違う環境で、初めてさまざまな場所から来た知らない人びとと、大人のつき合いというものになった。たくさんの考えの人がいて、もちろん好きな人ばかりではないので、五月病にもなったけれど、この授業のあとは少し晴れやかな気分になって頑張ってきた。私は人見知りというのか、外見で相手を枠にはめ、「こうだから、こうなはず」と思い込んでしまいがちで、自分の範囲をつねに狭くしてしまう。でも、自信をもつこと、自己主張などを少し実行してみたら、被害妄想が結構あったことに気づいた。最近は少ししっかりしてきたのかな? mito 自分の不幸な状況を他人や社会のせいにする被害妄想の人は、その人が主観的に思っているよりも深い意味では、やはり本当に被害者なのかもしれない。それは、差別と序列付けの社会の価値観に染められてしまっていて、本当の自信をもったり、さわやかな自己主張をしたりすることなどができないという点で。しかし、それは、この学生のように教育という側面的援助によって自己解決に向かうことができるのである。 ● 批判は否定とは異なる 1992.10.19. S大社会教育演習、女  先生は絶対に生徒の意見を否定したりしませんよね。半年ちょっと授業を受けてみて、そう感じました。今まで頭ごなしに「ちがうー」と言われ続けてきたからでしょうか、こうなってしまったのは。それとも私が子どもなのでしょうか。それから、発言した後に「ありがとう」と言ってくださいますよね。それが、私自身とっても楽になれます。肩の力がスーッと抜けるみたいに・・・。少しずつ自信がもてるようになってきたような気がします。 mito 楽になることは大切だ。そもそも、ある人の意見を頭ごなしに否定する気になれない。誰でも他人の発言を全否定などできるわけがないのではないか。僕が学生と異なった意見を持っている場合は、それをぶつけることはする。全否定はしないし、できない。それでも傷ついてしまう学生もいるが、僕はこの出席ペーパーを読んで、それは傷ついてしまうほうが悪いのではないかと思った。 1992.10.22. S短大視聴覚教育、女  先生の考え方は納得できるなあと思ったが、「それは違うと思います」とか、授業の中ではっきり言われていたのは、その内容を書いた人は大変傷ついていると思います。なんとなく言えているとは思っても、少し先生の気持ちの押し付けのような印象を持ちました(でも、授業ってそういうものかなあ・・・)。 1992.10.28. T大T部社会教育計画、女  ボランティア活動に対して見方が変わりました。でも、私にできるかというとわかりません。私は思うのですが、自分よりも不利な状況、環境にあると考えている人たちに対して、(ボランティアをする人たちの中に)自分がある種の優越感を、そしてそう感じるうしろめたさを、感じることはないのでしょうか。でも、もしかしたら、活動を行っていくうちに、そういう感情が間違っていると実感し、わかるのでしょうか。そして、自分も成長するのでしょうか。そうだとしたら、ボランティア活動はすばらしいことですね。 mito 優越感があっても、それにうしろめたさを感じる人ならボランティア活動できるのではないか。 1992.10.28. T大U部社会教育概論、男  諦めてしまうのは敗北主義だという考え方はありますが(そして諦めきれずにネチネチしている70年代の考え方です)、きっぱり諦めてしまって先に進もうという考え方もあります(80年代の考え方です)。これは前者のそれより敗北主義に見えるといった思いから出てきたものです。こう考えてみると、何を敗北主義と見るか分かりにくいですね。  90年代は「肯定」の時代になるそうです。70年代が「否定」で、80年代が「批判」の時代だったのですが、この2つは何も生まなかった上に、現在誰もが誰かに批判されることを恐れているからだそうです。僕はこの考え方が好きです。たとえばそれが敗北主義的な生き方であっても、誰もがギリギリ踏んばって、時々負けながら生きているのだから、それはそれでいいじゃないかと。生きていることを喜び合えればそれでいいじゃないかと。  こんなこと書いてケンカ売ってるわけじゃないです。コメントはしなくていいです。僕は前期に何度も読んでいただいたので。他の人のを読んでください。 mito 学生は書きたいことを書く。教師は読みたいものを読む。コメントしたいことをコメントする。それでいいと思う。 mito 知的水平空間やネットワークにおいては、批判者の心を開いた批判はディベートと違ってプラスのストロークだと思う。少なくとも僕はそう感じる。 1992.11. 4. T大T部社会教育計画、男  今日は「潔く生きよ」の説明で登場した女性への雑誌の人生相談の答やmitoちゃんの解説がとくに印象に残りました。人生は選択の連続である、そこで自分が一番目の選択の条件にした以外のことには目をつぶることが大切だということは忘れがたいことです。私は、結婚ということが、自分を縛る行為だと思っているところがあり、実際に結婚して相手の嫌なところがわかったときのよい納得の仕方を知った気がします。しかし、mitoちゃんはそう言わないでしょうね。結婚は相手との長い対話だと言っていたこともありましたもんね。その長い対話も人生の一つの学習なのかもしれません。 mito 「よい納得の仕方を知った気がした」のは、正しいのでも間違っているのでもなく、この人にとっての真実なのである。僕が言おうとしたことなどどうでもよい。 mito 相手の嫌なところがわかったときは、相手の人格を受容して、その行為を否定すればよい。しかも、その「否定」とは自分の人格の範囲内でのものであることを認識しておく必要がある。 1992.11. 4. T大U部社会教育計画、女  私は自信をあまりもっていない人間だと思う。他信もあまりしない。いつも「私らしさって何か」「私って何か」なんて考えてる。失敗しても最初は自分で失敗したとは思っていなくて、他人に言われて初めて気づく。で、自己嫌悪に陥って、気をつけようって思う。それでまた気づかないうちに失敗して、その繰り返し。同じ失敗ばかり。自分には学習機能がないのかななんて思ったりする。  mitoちゃんの授業に来てるのは、こんな自分を認めてくれる受容的な雰囲気で、新しい発見がたくさんできるから。ここに来ると、自分もやっぱり学習してるんだって思う。失敗することで、いろいろ感じることがあるし、たとえまた同じ失敗をしても、忘れていたことを思い出すからいいのかもしれない。  例の(雑誌の人生相談の)K子さんのことだけど、相手(夫)を理解していない、理解しようとしてない。「つまんない男」と決めつけて、良さを見つけようとしてない。それと同時に、自分で何かしようとしていないと思う。たとえば外出するときに、靴をはかせてもらっていながら、「自分に合わない」と言って「他の自分に合う靴をはかせてくれる」男を探している。ピッタリの靴を男の人にはかせてもらうんじゃなくて、合う靴を自分で探せばいいんだと思う。 mito この人は自分は自信がないと思っているようだが、僕の自信と同じ程度の自信なら持っているように感じる。この人が僕と違うのは、何度失敗しても繰り返してしまうとか、他人から言われて初めて気がつくなどの自分自身に対して嫌悪を感じてしまうという点だけだろう。僕は「そんなことはよくあることさ」と思って自分自身を許している。しかし、そんな僕でも、ほかのある場面では(二日酔いの朝など)、だらしない自分自身のことを「バカヤロウ」とか「アホ」とか言って責めることがある。 1992.11.14. S大教育社会学、女  (会話術のビデオを見て)私は他人と会話するとき、聞く側にまわることが多く、話すことが苦手だ。また、自分にとって苦しいこと、都合の悪いことを指摘されると、そこからどうしても逃げようとしてしまう。それが自分の大きな欠点であると自覚している。私の欠点の指摘も素直に受け入れられるようになったら、私も相手と良い関係で誤解のない会話ができるようになるのかもしれない。 mito 友だちとの気持ちよい会話は、自己受容、他者受容のやりとりであって、勝ち負けではない。「欠点の指摘を素直に受け入れる」のも受容である。ついでながら、真実の追求のための論理構築には勝ち負けがある場合がある。しかし、その場合でも、負けてダメージを受けるわけではない。自信があれば、つまり自己受容さえできていれば、自分の論理の負けを認め、新しい枠組を身につけることによって充実した気持ち、学習に対するワクワクした気持ちをいっそう高めることができる。 1992.11.21. S短大社会教育特講、女  (自己受容トレーニングで)今日のトレーニングはまたまたつらかったです。今までなんとなくでごまかしていたような気がします。内心ではいくつか思っていたことも、口に出すことはできなかった。口に出す前に「本当にこんなこと言ってしまってバカにされないかな」なんて考えてから言っていた。言ってしまったあとも、ちょっと考えてしまった。自分は○○だから自分が好きだ、と言い切ってしまう自信がないみたい。悪い所はいくつも見つかるのに。本当は、自分は○○だから好きだという自信がないから、自分自身に受け入れることを避けていたのかもしれない。自分が好きな部分を認めていないのかなあ。今日のトレーニングでKちゃんに感動してしまいました。Kちゃんは自分自身をものすごく受け入れているんだなあと思いました。口に出して言っているときも、すごく楽しそうだったし、本当に自分が好きなんだなあと思ってうらやましかった。一度、Kちゃんの心の構造をみてみたい、なんて思いました。 mito ここの場では「バカにされること」はないということを、これから何回も体験して学び取ろう。また、友だちの行動からもいろいろ学べる。どちらも、自分が学びたいと思うことだけ学び取ればよい。 1992.11.21. S短大社会教育特講、女  今日は、自分のこんなところが好きだと言うトレーニングをやったけれど、日頃あまり好きではない自分を見つめることはあっても、好きな自分を見つめることはあまりなく、あらためて好きな自分を考えてみた時に、自分はうそを言っているのかもしれないという不安があったりして、話すときにてれてしまいました。みんなが自分の好きなところを順番に話していったけれど、私がその人について、こんな所が好ましいなあ、私にもあったら良いのになあ、と思っていることについても、その人が自分自身を見つめて話している姿勢にあらためて良いなという感じを受けました。 mito この学生は、「こんな所が好ましい」と他者を受容的に見る眼をもっているのだろう。尊敬に値する。 1992.12. 2. T大U部社会教育概論、女  私は、現在、昼間は仕事、夜は大学という生活をしている。仕事中は自分でもなんでこんなにがんばるのだろうと思う時があるほどがんばってしまう。就職して3年目にもなると、後輩が入ってくる。私は指導的立場になるのだが、その子が積極的には仕事を覚えないということもあるが、ややこしい仕事が出てくると、教えるより先に自分でやってしまう。そのほうが仕事も早く片付くし、面倒くさくない。そんなわけで、忙しい思いを私だけがしているのかもしれない。もちろん、後輩にとっては、ためになっていないのはわかっている。この授業を受けてあらためてわかったのだが、私は単にがんばり屋なのではなく、依存の仕方がへたなのだと思う。 mito 自分が全部やってしまうというのは、僕がよく言う「先生病」の変形パターンだと思う。 1992.12. 5. S大教育社会学、女  (不登校の理由のビデオを見て)私も中学から高校まで、親に言われることすべてが、何と言っていいのかうまく言えないけど、自分が非難されているように聞こえた。それで私は「じゃあ、私が悪いんだ。でも、どうすればいいのか」ということがさっぱりわからなくなってしまうことがあった。今、親と離れて生活し、ある程度当時の自分が遠く感じられるようになって、あの時の自分が、他人の言うことすべてを受け入れられず、かつ、それらが私に対する批判に聞こえたのは、自分自身が干渉されたくなかったのと、言いたいことが自分でもわからなくて殻にとじこもっていた時期だったんだと思う。今はそんなことはないけれども、ビデオに出てきた17歳の少女は、私の昔の部分、部分に当てはまっているように思えた。 1992.12. 7. S大社会教育演習、女  (mito的授業の評価について)「批判する人」というのは怖い存在だけれども、批判する人がいなくなることのほうがもっと怖いことなのかもしれないと思った。それは、自分の存在があるから批判してくれるのだと思うからです。存在が認められていると感じることができる気がします。 mito そうだ! これは、僕が2年前に授業を始めたときの初心だった。 1992. 1.13. T大T部社会教育計画、女  「言葉で議論して負けたほうが自分を変えればいい」というのには抵抗を感じます。(○○カウンセリングに関する訪問販売の中年女性が進めていることは)私もカウンセリングとは思わないけど、その人が信じていて幸せになれるのなら、いいと思います。西村先生がしたことは、その人の信じるものを否定したわけですよね。頭ごなしに否定する権利(といっていいのか?)みたいなものがあるんですか? もしかしたらその人だって、偶像崇拝にすぎないってどこかで気づいているのかもしれない。でも、苦しいとき、どうしようもないとき、何かにすがってしまうこと、ありませんか? 私の苦しさは微々たるものかもしれないけれど、人間の苦しさから宗教って生まれたんじゃないですか? そうやって、自己分析して、立派に人を批判する西村先生は、失礼ですけど、本当につらいことにあったことあるんですか? 自分を冷静に見れるうちは、まだ感情が生きているんじゃないですか?(意味がちょっとわからない。辛くて感情が「死んでしまう」ようなことさえあるという意味か?<mito) 講義してるんだから、冷静なのかもしれないけど。  私は、言葉ではなくても伝わるものってあると思うし、言葉だけでは伝えきれないものってあると思います。理屈や論理だてた考え方も大切なのでしょうが、それだけじゃないと思います。私は、つらいこと、不安なことはあまり人に見せたくないし、見せるものではないと思います。何ていえばいいのかうまくまとまらないけど、自分をかわいがって、優しくして、元気になって、それで人にも優しくできればいいと思っています。 mito こういう人にこそ、僕の授業にもっと出席していてほしかった。僕はこのペーパーのような自分や他人に対する「ニセのやさしさ」をどう克服するかということに、かなり授業時間を割いてきたのに・・・。その僕の動機は、僕自身にそういう「ニセのやさしさ」(つまり、これが偽善である)を感じるときがあるからである。そして、自分のもっている「ニセのやさしさ」に気づいていない人が、僕の僕自身の関心を中心にして進めている授業を「自己中心的」だとして嫌っているのだろう。僕の授業の総まとめとして、このペーパーへの僕の「批判」(「批判」は「否定」ではない。なぜなら、このペーパーのおかげで、僕の考え方を整理することができるからである)を展開したい。 mito 社会教育行政やコミュニティ政策が、もし住民が互いに批判しあわないような集団形成を目指しているなら、これはたんなる「愚民化政策」にすぎない。社会教育で目指すべき集団風土とは(学校教育でも)、「支持的風土」である。そこでは、一人ひとりの「個の深み」を尊重し、枠組の違いを歓迎する(異質だからこそ交流しようとするネットワーク・マインド)。それゆえに、「触らぬ神に崇りなし」という敗北主義、すなわち、「自分も傷つきたくないし、相手も傷つけたくない。だから、交流できない」という人間関係の疎外状況(山アラシジレンマ)を乗り越えて、同調できないときには「自分は同調できない」ということをさわやかに言い合える社会の形成が不可欠である。相手もそれを平静心で受けとめるのである。  さらに、その基盤としては、「自分と相手の枠組は違っても、双方とも基本的にはOKの存在である」という基本的信頼が必要である。これが、「支持的」という言葉の本当の意味である。人間が完全な基本的信頼に到達することは不可能だが、そのことを不満に思っているだけでは、支持的風土は創り出せない。自分が創り出す以外には、与えてくれる人はだれもいないし、だれも相手にしてくれないのである(ネットワーク型社会におけるギブ・アンド・テイクの厳しさ=自立的価値・主体性の要請)。基本的信頼に近づくためには、100%ではありえないアンビバレンツな存在としての自分や他者の存在を受容できなければならないし、しかも、それが相互教育(「ともに育つ」)の実現にまでつながらなければ「気をつかう」ばかりの「辛い人生」しか味わえない。 mito この学生が「私もカウンセリングとは思わない」のなら、どうして「その人が信じていて幸せになれるのならいい」「批判はしない」につながるのか。どうして「私はこう思う」というメッセージをさわやかに発することができないのか。他人の行為を許す、許さないの判断を自分でしてしまって、相手との議論によって自分の相手への批判を検証しようとしない人は、自分に対して神のような「全能感」をどこかで持っているのではないか。自分の批判を相手に対して明らかにすることもなく同情や憐れみをもってしまう場合の他者理解とは、同情や同感のレベルの理解であって、やっかいなコミュニケーションのあとで得られる共感的理解とは異なると思う。他人を勝手に推測している自分に傲慢さを感じることはないのか。「さわやかな自己主張」における「私メッセージ」とは、わがままなものではなくて、謙虚なものである。 mito 僕は訪問販売の人を否定していない。僕が「あなたは偽善者だ」とか「依存的だ」とかその人に言って、その人の人格そのものを批判したのなら、否定につながるだろう。僕はそんなことはしていない。なぜなら、人格までとやかく言う必要も能力も僕にはないのである。その人のそこでの行為や言動を「過度に依存的」(適度なら問題はない)、「偶像崇拝」の表れだとして「批判」したのである。「批判」がなぜ「否定」につながるのか。絶対的な神が存在するなら、その神による「批判」だけは即「否定」になるだろう。しかし、私たち人間の中にはそんな真実を知りつくした神などはいないはずだ。人を否定できる(してしまう)人がいるとしたら、それは本人が自分に対してだけであろう。Self-Directed とは、そういうことだ。 mito 不合理だとわかっていても何かに「すがる」・・・、まさにこれは「過度の依存」を指している。僕もそういうふうに「すがる」ことがある。あるというよりも、そういう依存傾向が強すぎると思っている。意志が弱いのである。けれども、そんな自分を正当化しようとはまったく思わない。そんなことは、他人に「販売」できるような商品にはなりえないはずだ。「私ってかわいそう」と思ってしまうことや「自分さえ幸せになれればよいから、何かにすがりたい」と思ってしまうことは、僕だけでなく、だれにでもあるだろう。しかし、それを他人にどうどうと売り込もうとするだろうか。僕だったら、何かにすがるときは、コソコソとすがる。同様に、この学生は「つらいこと、不安なことはあまり人に見せたくないし、見せるものではない」と言っているが、もしかすると、「つらいこと、不安なときに、不合理だとわかっていても何かに依存している、すがっている、そんな自分の姿は、人に見せたくないし、見せるものではない」という意味なのかもしれない。それだったら話はわかる。 mito 自己分析できる人、人をきちんと批判できる人(僕は本当はそんなに立派ではないと思う)を見たときに、「本当につらいことがなかったから、自己分析とか他者批判とかができるのでは」というふうに、相手の触れられたくない部分(プライバシー)にまで立ち入ってくる批判の仕方はフェアーではない。僕は僕が開こうと思った部分を開いているのだから、その開かれた部分を批判すべきである。また、相手の過去を勝手に推測する権利はだれにもないはずである。過去のことを批判されても、僕にとっては改善のしようがない。過去は変えられないのだから。「今、ここで」の僕を批判してほしい。  じつは、講義中、何回か僕の痛みの体験を学生に披露したことがある。それは、僕がそのとき自分を開いてみたい気分になったからであるが、授業の本道とは外れるとは思っていた。事実、その日の授業では、学生からは、共感の言葉とともに、「授業中に学生という不特定多数に話すようなことではない」という批判もあった。  人間は、親に全面的に依存できる時期を過ぎて、現実原則を働かさなければいけない「社会」に出ていく。それを「楽園追放」という。そのときに、すでに、「痛み」は不可避的に生じるのである。「痛み」を経験していない人はいない。気づかないようにしている人は、たくさんいる。しかし、そういう「痛み」をつらくて乗り越えられないでいる人が、「深み」をもっていることを証明された人間のようにほかの人を見下し、結局は、なんだかかえって威張っているような状況に、僕は異議を申し立てたい。「個の深み」とは、「痛み」の大きさなのではなく、その人がその「痛み」(だけではないが)とどれだけ深く対面できているかなのである。 mito 以上のようなことは、僕が「自己中心的だ」「社会教育の授業ではない」と批判されながらも、僕のこだわりのもとに随分と時間をかけてしゃべってきたことである。それなのに、このペーパーを書いた学生のような人があまり出席してくれていなかったのは悔やまれてならない。  とりわけ、言葉によるコミュニケーションについてのこの学生の意見を読んだときに、僕の残念さは最大限に達する。「言葉ではなくても伝わるものってある」と「言葉だけでは伝えきれないものってある」とがふたつ並べて書かれてあるが、そんなことはわかっている。そのうえで、僕は、「愛(ストローク)は言葉にしないと伝わらない」と「さわやかな自己主張の方法」とについて、何コマも使って追求してきたのである。ちなみに、「さわやかな自己主張」の原則は、自分がどうしたいのかの認識を持つ、相手の反応を先取りしたり勝手に予測したりしない、自分の言い分を自分勝手だと思い込まない、結果を恐れない、相手を攻撃しない、などであり、なぜそういう自己主張が必要かというと、主張しない人は、仕草に出てしまう(頬杖、眼の光)、第3者に言ってしまう(陰口)、我慢できなくなったとき攻撃的になってしまう(爆発)などの結果になりがちだからである。言葉に対して無力感を感じているのだったら、ぜひ、これからでも参考文献を読んでほしい。  そして、「言葉ではなくても伝わるものがある」ということについても、言葉を使って学生とずっと検討してきた。そのとき、なぜ言葉を使ったかというと、恥ずかしながらこの授業はそれなりに学問だからである。VTRの視聴と、個々の学生によるその映像評論や評価を交流することによる映像リテラシーの追求などは、そのよい例であろう。言葉のもつ難しさに恐怖して言語表現から逃避している所には学問はない。第一、「言葉ではなくても伝わるものがある」ということを、この学生は言葉で表現しているではないか。「言葉ではなくても伝わるもの」を言葉で検討することも、人間の幸福追求に関わる立派な学問である(オープニング・セールから言い続けてきたとおり、すべての学習内容は人間の存在や幸福追求と深く関わっている)。  それにしても、この学生の心やさしい素晴らしいNP(保護的な親心)を、僕は感じないではいられない。過ぎ去ってしまった1年間の授業の中で、この人の心と触れ合うことができなかったこと、人間としての痛みを分かち合うことができなかったのが、とても残念なのだ。「学習もひとつの選択行為である」、「僕はよい授業をして、学生から選択されるよう努力していればそれでよい。あとは、出席したい学生が出席すればよい」、さらには、「過去と他人は変えられない」。これらのことを言ってきた僕が、最終回になってこんなことを言い出すのは奇妙に、あるいは不当に聞こえるかもしれない。けれども僕は本当は未練がましい人間なのだ。しかし、僕は当分、この調子でやっていくことになるだろう。以上の問題を一言でまとめるなら、「学習者の自発性に待つということは、指導者にとっていかにつらいことか」ということである。学生のほうは、「なんだ、そんなことは、自分が指導者だったらこういうふうに解決する」と思えるような何かを持っていさえすればよい。 1993. 6.19. S短大教育社会学、女  私は人と喋るのがこわい時があります。というのは、自分で思うに、自分が頭が悪いから、何か難しいこと言われて答えられなかったら恥ずかしいとか考えてしまうからだと思うのです。別に恥じをかいてもいいじゃないとか思っても、こわいと思ってしまいます。また、自分のことも自分でよくわかりません。だから自分の意志があまり言えないし、自信かもてないのです。そんな自分がきらいです。 mito この人の「自己嫌悪」のおおもとは、「恥じをかいたらいやだ」という気持ちを受容できないところにあるのではないか。しかし、誰だって恥じはかきたくないのである。その恐怖を禁じようとするよりも、こういうことをしても恥じをかかないのだ、ばかにされないのだという支持的風土のサンマを見つけ、そこで受容される体験を重ねることのほうが大切である。 ● 批判は必ずそれなりの真実を表している 1992.10.28. T大U部社会教育概論、男  (障害者の夫婦のビデオを見て)何か感動しろ、感動しろ、と言われているみたいで、いいかげんにしろという感じ。障害者のことは障害者にしか理解できないはずなのに、分かったように意見を言っている人間の神経はどうなっているのだろう? mito それなら、障害者にとっては、共感しあう健常者の存在などは不要ということになるのだろうか。障害者であろうと健常者であろうと、一人ひとりの枠組が違う。しかし、共感的理解はそれなりにできるのである。ただし、映像のもつ限界性はあるかもしれない。 1992.10.24. S大教育社会学、女  今日、mito先生は、人を傷つけるのは誰でも同じだと言って、「もし、それで相手が怒ったら謝ればいいと思っている」って言ってたけど、そうやって怒ってくる人を傷つけて問題が済めばいいけど(?)、もしそんな風に怒ってこれない人だったらどーするの? 自分の心の中だけで悩んで苦しんでしまう人だったらどーするの? そういう感情を表に出せない人にでも、先生は謝れるんですか? 少し違うと思う。謝ってすむ問題じゃないこともあるでしょ。その人は許してくれても、その人の心の中に一生残る傷って、誰にでもあると思う。私自身もそういう思いをしたことがあるし、他の人も同じだと思う。深い傷じゃなくても、ときどきフッと思い出すいやなことってあると思う。それとも、先生はそういう思いをしたことがないんですか? 別に私は善人ぶっているわけじゃないです。先生の言っていることもわからないでもないです、正直言って・・・。でも、先生みたいに「あやまればいい」の一言で済ませてしまうのはどうかと思う。 mito 僕が「あやまりさえすればいい」という言葉をその一言だけで言ったとしたら、僕の明らかな間違いだから訂正したい。僕が言いたいのは、傷つけ合うことを恐れて山アラシジレンマに陥るような閉塞状況を打破し、傷つけられたらそれを相手に伝え、傷つけてしまったらそれを相手に謝るような主体的な人間関係を創り出そうということだ。そのときに、もう一つ重要なことは、相手の痛みを共感的に理解する力である。 1992.11. 4. T大T部社会教育計画、女  先生のおっしゃった「自信のある人、自信のない人」のとらえ方は、今までの私の思っていたこととは異なっていたので、とても興味深かったです。先生は「自信のある人」は、学習によって自分の準拠枠を変えていくことができる人だとおっしゃっていました。ネットワーク社会では撤退の自由があるのだから、だめだったらやめるという勇気を持って、そこに入っていけばよいということでした。サークルが嫌だったらそこに我慢している必要はなく、やめればいい、いやいやそこにいるのは自分にとってもサークルにとっても良くないことだから、とおっしゃいました。  現在は転職する人も多く、嫌なところに我慢していることはないという考えが強まってきていると思います。自分にとっても相手にとってもマイナスになる所にとどまる必要はないと私も思います。「辞める勇気」も評価します。でも、少しでも嫌な部分が見えたから辞めてしまうというのは、どうかなと思います。辞める勇気よりも続ける勇気を維持することのほうが、より大きなパワーが必要な時もあると思います。自分が何か一つのことを続けることができたということも、その人にとっての自信につながるものではないでしょうか。  私が保守的で何かをやめたりする勇気のない自分を正当化しようとしているだけかもしれません。先生のおっしゃっている「自信のある人」というお話から少しずれてしまった気もしますが、思ったことを書かせていただきました。 mito 過去や他人のせいにして被害者を演じるということさえなければ、撤退しようが、そこで頑張ろうが、どちらでもかまわないのかもしれない。 1992.11. 4. T大U部社会教育計画、女  (雑誌の人生相談の回答について)人を好きになるのは自由。精神は目に見えないけれど、時間を考えればダラダラと同じことを思っているのはつまらないと思う。肉体的なことよりも、精神的なことの方が尾を引くのではないだろうか。人を好きになるのは、その人の人生そのものが好きになると思うので、mitoちゃんの言う「(結婚とは)縛りあうこと」だとは思っていない。逆に、そのような価値観の人とでは、いくら好きでもやっていけないと思う。生き方(価値観)の方向性が同じ人と結婚したいと思う。結婚してから気づいて嘆くのではなく、長い目でつき合える人に決めたいと思う。気長に・・・。 mito 僕の言う「縛りあうこと」の意味は、とくに「夫婦がおたがいに他の人と異性としての関係を持たない」という意味である。他の異性に好感をもたないようにするということではない。 1992.11. 7. S短大教育社会学、女  今の世の中は、情報がありすぎて夢がないと思います。もちろん、現実を教えること、知ることは大切です。でも、知識がない幼児や小学生(低学年)に本当のことを言うことは過激ではないかと思います。脳に刺激を与えて、今まで何とも思わなかった子が目覚めてしまうかも、と恐ろしい気がします。もし小学生が本当のことをそこらじゅうでしゃべっていたら、私は気味が悪い。はっきり言って、私は小学生高学年でもSEXのやり方を教えるのには反対です。大人の楽しみ(?)を、なぜ考えがしっかりしていない小学生に教えるのかがわかりません。 mito このペーパーは「寝た子を起こすな」説といえるだろう。この説をどうとらえるかは、教育を考えるにあたって非常に重要な問題である。 mito 大人だって情報過多のために、結局、本来のSEXの楽しみを失っているのだから(「嫌われたくないからさせてあげる」など)、SEX情報のもつ問題性は子どもにも大人にも同じようにあるのではないか。大切なのは「本当のことを教えること」と「あとは、本人の自主的な判断や選択に任せること」という教育の大原則なのではないか。 1992.11.11. T大T部社会教育計画、男  そうか、生涯学習とは本当に自由な飾り気のない自分を出せるものなのか。でも、生涯学習体系には、当然、企業内教育も入ってくるはずである。各企業は利益を目指して活動しているわけで、そこでは当然、個人の行動もかなりの程度縛られるのではないだろうか。「仮面をかぶって行動すればいい」という(mitoの)考えを以前に講義で聞いたことがあるが、もし企業内教育において自分がいやだなあと思う場面で仮面をかぶっていたら、それは生涯学習で仮面をかぶることに他ならないのではないか。それとも企業内における教育活動は生涯学習に入らないのか。 mito 生涯学習と呼ぶ人はいるかもしれないが、本当の学習とはいえないということである。学習の本質は自己教育だからである。しかし、企業内教育においても本人が納得して内面に取り入れれば、それは自己教育である。「利益を目指して活動すること」を、このペーパーが言うようにそんなに悪いものとしてとらえなくてもよいのではないか。それよりも、企業内教育であろうと、公教育であろうと、教え込もうとしたり、他者の内面まで支配しようとしたりすることのバカバカしさを理解してほしい。 1992.11.11. T大U部社会教育概論、男  (成人ぜんそくのビデオで)Aさんは実際に独白したわけですが、TVカメラや照明、局の人間などがいるなかで独白が行われていることでしょう。そうなっちゃうと、Aさんの集中力もちょっと散ってしまうのではないだろうか。それにTV局が入り込んでいると、やらせっぽい感じもするし。 mito 映像に共感する場合は、映像に対するこのような批評精神がとても重要である。それは、メディアリテラシーやメディアに対する自己の主体性の不可欠の要素だ。 1992.11.11. T大U部社会教育計画、女  結婚うんぬんの悩み相談に関するペーパーで、主体性がないんじゃないかっていう言葉がたくさん出てきた。私も先週、もしかしたらそんなこと書いたり言ったりしているのかもしれないので、あまり大声では言えないけれど、なんかイヤだなと思う。もし、相談した人の立場でその言葉を聞いていたとしたら、どんなに参考になるアドバイスでも「主体性がない」なんて言われたとたんにぷんぷん怒りたくなってしまうかもしれない。「主体性がないよ」というセリフの影には、「もっとしっかりしなよ」などの思いがあるんだということはなんとなくわかる。だから、なおさら、プンプン! 影のいろんな言葉に置き換えることができるいろんな気持ちがあってアドバイスしてくれるのなら、そのままの言葉で聞きたいと思う(なんだか、わからなくなってしまいそうだな)。主体性という言葉自体に含まれる意味があるのだと思うから、他者の行動に対してそう簡単に使えるものではないような気がすると、それだけのことでした。 mito このペーパーは、僕の思考回路に対しても鋭い批評になっている。とくに、「主体性という言葉自体に含まれる意味」こそ、教育が学習者とともに解明していく学習テーマなのだということは、「主体性」という便利な言葉を使って、すぐ「まとめ」に入ろうとする教師の独善を的確に戒めてくれている。 1992.11.14. S大教育社会学、男  (会話術のビデオを見て)はたして言葉でのコミュニケーションはそんなに大事なのだろうか。もちろん、大切かつ重要な一手段ではあると思うが、僕は言葉を用いないでコミュニケーションを図れるほうがはるかにすばらしいことだと考える。ビデオに出てきた「夫婦の会話」ではないが、本当に心が通じていれば、言葉はさほど重要な手段ではないのではないだろうか。目を見て、雰囲気を感じとって、気持ちが通じあえたら、そっちのほうがずっと良いだろう。 mito 残念ながら、愛は言葉にしなければ伝わらないことが実際には多いと思う。なぜなら、現代社会の中で私たちは人間交流の力を損なわれているからだ。ただし、自分自身は、相手が言葉にしなくても相手の自分に対する愛を感じとる努力をしたほうがよいだろう。そうしたほうが、コミュニケーションはうまくいく。しかし、その逆に、相手にそれを要求することはやめたほうがよい。だいたいうまくいかなくなって、「なんで私のことをわかってくれないんだろう」とますます暗い顔をして頬杖をつく例の「魔術的な思い込み」にかかる危険性が大きいからである。 1992.11.18. T大T部社会教育計画、男  「自分のために生きる」ことは大切であると思うが、それでは利己主義社会を肯定しているととらえかねない。「人のために生きる」なんてきれいごとだと思うが、「自分だけよければ」ととらえると、「自分のために生きる」ことにもあまり同意できない。 mito 「自分だけよければ」というのは、本当にいけないことなのだろうか。自分が幸せになるため以外の努力って本当にあるのだろうか。大切なことは、どうすれば「自分が本当によくなるか」を探ることではないか。「いけない」ととらえるからいけないのであって、「自分だけよければ」などという「馬鹿なまね」はなるべくしないようにしようととらえればよいのではないか。「見返りを期待して行動せよ」というのは、そういう意味である。このペーパーでは、現在の社会を「利己主義社会」と規定して批判しようとしているが、「自分さえよければ」という利己的な行動をとる人が今の社会でけっこう挫折して不幸な人生を送っているのを見ると、今の社会も捨てたものではないと僕は思う。そして、社会は、現象的にはともかく、本質的には「共生」の志向をもっているのではないかと思う。 1992.11.18. T大T部社会教育計画、女  幸福の追求には「自分のために生きる」ということが重要なテーマだとおっしゃっています。確かに私もそう思うのだけど、最近、私自身が友だちや他の人に行なっている行為は、結局は自分の損得を考えてから行なっている。どちらかというと得だけ考えている自分に気がついています。自分のために生きるのも必要だけど、ほかのことにも目を配らないと・・・。 mito 「気がついてしまうと得でなくなるもの」は、もともと得ではないのだ。S大の授業の帰りの電車の中で、S大の男子学生から、S大の女子学生たちは人間や社会のことをあまりよく知らないがゆえに本人たちは幸せだと思っているのだから、mito的授業によって真実を知らせてわざわざ不幸にすることはないのではないかと言われたことがある。いわゆる「寝た子を起こすな」説である。僕は、「私は人間に関する本当のことなど知らなくてよい」などという人間が一人でもいるのだろうかと反論した。もし、そんな人がいるのだったら、彼の言うことも一理あることになる。しかし、教育において大切なことは、顕在的学習要求に応えることだけでなく、潜在的な学習要求を引き出すための的確な援助を与えることだと思う。それは、すべての人間の成長の可能性を信頼するという教育学の基本的テーマにつながることでもある。 1992.11.18. T大U部社会教育概論、女  (「学習とは自分が自分を変えること」というまとめの授業で)今日は聞いていて少し辛い話です。敗北主義が基本的信頼と対をなすことや、負け犬という表現が、自分が人間として最悪だと言われているような気もします。でも、本当にはめげないでいます。そういう意味では、自分の枠組というのがかなり固定化した石頭人間なのかもしれません。本来、わたしは非常に依存度の高い人間で、他人の言動に左右されやすいのです。それは自分の枠組をきちんと持てないでいたために、他人と迎合することで、自分の存在を守っていたのではないかと思います。他人の気持ちを理解して意に沿うように行動することが、自分を認めてもらう唯一の方法だと思っていたのです。「他人をその人の枠組ごと理解する」という本来の意味を歪めて、他人に依存していたのだと思います。でも、それは結局、自分で自分の首を締めることにほかならないとわかったので(きっかけについては触れません)、やめるように心がけています。  まず、今の自分を自分で認めてあげることをしました。他人からどう見られるかということを気にしないということが、今は他人をシャットアウトするという形になって出てきています。うわべの理解(あるいは思い込んだ勝手な理解)に頭が慣れてしまっているので、とりあえず距離をおかないことには他人の感情に巻き込まれてしまうからです。  一人の人間ですら、そのすべてを理解することは不可能だし、すべての人間を理解するのは到底不可能です。「共感的理解」ができることは幸せなことだと思いますけど、至上主義では疲れてしまうし、シャットアウトしてもいいんじゃないかと思っています。「何からでも学ぶ、誰からでも学ぶ」というスローガンは、わたしには疲れます。学ぼうと思えば何処にでも素材があることは頭のスミに置きつつ、自分の中に学習意欲がわくまで待っているつもりです。  話を聞きながらコメントを書くのは難しくて、文脈がめちゃくちゃになってしまうし、気がつくと話題はすっかり変わってて困ってしまいます。  学習意欲ってないはずないんでしょうか? 何かに抑圧されているということなんでしょうか? うーん、よくわかりません。今のわたしの目的は、お金をためて実家を出て、独り暮しをすることです。学習という言葉がつくるイメージとのギャップですか? とりあえず何か意欲があれば、それでいいと思っています。さらに、なんにも意欲がない時があってもいいと思います。ずっとない状態では人間は生きていけませんが、時にはなんにも考えずにぼーっとする期間はわたしには必要です。(多分、先生はそれを否定しているわけじゃないのでしょうけど、なんとなく言いたかったです。)  非公開と書きましたが、こんな文でも使えれば使ってもかまいません。でも、文章には自信はない。(全文) mito すべてをよくわかっている人だ。この文章には哲学の匂いさえする。ただひとつ弁解させてもらうとすれば、今回の授業は「まとめ」に入っており、レジメも口述も、かなりのことを捨象しているから、そのなかの言葉には「その場しのぎのウソ」(スローガン)が混じってしまっているのだ。 1992.11.30. S短大社会教育概論、女  (「熱血先生」の授業のビデオを見て)シンセサイザーの音がすばらしくよかった。この先生自身が音に入り込んでいて、この先生の信念が感じられた。でも、先生の生徒に対する思い入れというか、気持ちがとても強くて、見ていて圧力を感じてしまいました。この先生から「ものすごい熱心さ」が感じられた。 mito このように学習者を「引かせてしまった」場合には、教師はその「引いてしまった」学習者を責めるのではなく、教師自身のいっそうの自己変革に努めなければならないと思う。 1992.12. 2. T大T部社会教育計画、男  (障害者のための絵画教室のビデオを見て)人間の自分を表現することへの欲求は、あんなに強烈な形を取り得るのかと驚いた。そのエネルギーには圧倒されるものがあった。しかし、映像を見ていて気持ちが悪くなったりもした。それが差別であるとわかってはいるが、その感情を抑えることができなかった。(障害者の娘が冗談を言って家族を笑わせたりするので我が家の福の神であるという)母親の言葉を耳にして、一瞬、偽善を感じてしまった。いくら愛情があっても、あの状況なら、疲れやときには疎ましさを感じるのが普通ではないかと思った。 mito 「差別であるとわかる」というA(客観的に判断する心)を大切にして、自らの差別意識を鋭く問うてほしい。このように文章にして外在化することは、そのためにも有効であろう。そのことこそがもっとも重要な差別との戦いなのである。 mito 我が子というのは、親にとって「福の神」であると同時に「疎ましい」存在である。その点では、この学生の指摘は真実に迫るためのものとして評価できる。ただし、それは「健常児」であっても同様のことが言えるのである。 1992.12. 2. T大T部社会教育計画、男  (障害者のための絵画教室のビデオを見て)現在、モラトリアム期間として学生生活を送っている私が自覚的に所有しているのは、中途半端な退屈とバクゼンとした将来への希望・絶望のみである。今日は重大な警鐘として観賞した。  「江戸時代の人たちは過労死もなく楽しく暮らしていた」? どういう文脈上の発言かを伺っていないので、たいしたことは言えないが、少なくともこれだけの内容で判断するなら、無知と想像力の無さをわざわざさらけだしているようなものです。 mito 「江戸時代の人たち、たとえば職人は過労死もなく楽しく暮らしていた」というのは、僕が伝聞したものだ。僕も、この意見をある日本文学者から聞いて、最初は信じなかったが、その人に質問してある程度は納得した。つまり、僕は自分の枠組を少し変えたのだ。  私たちは学校教育で、文明化、産業化、民主化によって人間は以前(封建時代)よりは解放されて幸せになったと教え込まれているが、それを鵜のみにすることのほうが、「無知と想像力の無さ」をさらけだすことになると思う。与えられた程度の内容で判断することには、この学生のようにそれを断っておきさえすれば、全然問題がないと思う。それより、他者の発言に対して、その発言の内容そのものを批判することなしに、発言全体や発言者のことを「無知」だとか「想像力の欠如」だとか診断するのは、やめておいたほうがよいと思う。 1992.12. 2. T大U部社会教育概論、男  気をつかわない人は、裏を返せば、自分勝手な人だと私は思う。人間関係を円滑にして生活していくためには、気をつかうだろう。例えば、その人が暑いと思っても、周りの人は暑くないかもしれない。そういったときに窓を開けるということは、自分勝手な行為であると思う。ただ、私自身も他の人に気をつかって接してほしくない。だからといって、まったく気をつかわない人がいいかというと、そうも思わない。だから、ある程度気をつかうということが、他人と接するときには必要ではないかと思う。 mito 理屈で考えるとたしかにそうなのかもしれない。しかし、僕は、気をつかいあって交流できない今の閉塞状況をこそ問題にしたい。みんなが暑いと思っていても、気をつかってしまって、それを心に秘めているだけなので、結局、窓は開けられないままなのである。その反対に、もし窓を開けようとしても、実際に寒くて困る人がいれば、その存在を知って閉め直すなどの結果に落ち着くのではないか。 1992.12. 5. S短大社会教育概論、女  (mito的授業の評価について)99%と1%の話は、本当にそうだなあって思っちゃいました。自分と人とそれぞれ価値観も考え方も違うので、人から批判されてもそんなに気にすることもないと思うし、それに、その批判されたことを自分の頭のかたすみに置いておくだけで、自分自身もずいぶん変わっていくのではないかと思います。(でも、これって、気にしていることになるのかな??) 1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女  今日のビデオは、評価についてのものでしたが、あまり興味がわきませんでした。私は評価するということがあまり好きではありません。人が人を評価することは、時には必要でしょうが、今、評価(良い・悪い)ということに重点をおきすぎているように思う。 mito この学生は(たとえば)教員になったらどうするのか。本来の他者評価は「良い・悪い」を判断することではない。究極的には自己評価のための援助にすぎない。選抜試験での「評価」は、むしろ例外である。ただし、評価のメタ評価においては、「良い・悪い」があるかもしれない。「自分が好きではないから」と言って、望ましい他者評価のあり方を追求しないのでは、教員になったとき、結局は、子ども自身には役に立たない「悪い」評価しかできない教員になってしまう。しかし、この学生の言いたいことは、今の社会の現実の評価が望ましいものになっていないということなのかもしれない。だとすれば、評価は、「時には必要」なのではなく、つねに必要だが現在の評価は間違っているということを指摘しなければいけない。  しかし、もう一歩深く考えてみよう。「人が人を評価すること」がそもそも可能なのかということである。これを拒否して、「人それぞれが自然体で生きたいように生きればよい」という思想にまで徹するなら、評価否定論も成り立つと思う。それは、「人の主体性の獲得を他人が援助する」(評価は学習援助の一形態であるから)ことをめざす教育そのものに対する根底的な懐疑であり、難問(アポリア=ある命題に二つの対立した結論があること)とも言える。これは、向上心や生産性などの概念そのものがクサイという、道家(どうか=老壮派の虚無・恬淡・無為の説を奉じた学者の総称)の思想にもつながるのだろう(老壮思想のことはよく知らないが)。この学生にはそういう思いがあったのかもしれない。そうならば、本人がそのことを意識さえしていれば、「好きではないけど、時には必要」と書かずに、他者評価の意義そのものを否定した文章を書いたほうが時代批評としてはよい批評になるのである。 (だけど、そうか、この「批評」自体が不要だという論も成り立つのか。一人ひとりが「好きかどうか」のほうが価値として大切なのか。そうなってくると、僕にもわからなくなってきた。MAZEだ・・・。) 1993. 4.21. T大T部社会教育計画、女  ミトチャンという呼び名はどうも業界人ぽくてなじめないので美東士さんと呼ばせていただきます。今日の講義で美東士さんと私とは異人種なんだなァと強く感じました。私は、今でこそ、社会教育主事でもとろうかな、と文学部の授業をわざわざとっていますが、本当は社会教育のサークルに所属し、1年から何のかんのと勉強してきましたので、今、周りに座っている人を見回しては「どうせ資格目当てだろう」と小バカにしている非常にゴーマンな人間です。  しかし、3年、4年と資格取得のための社会教育の授業を受けるうちに、自分がだんだん、小難しいが内容を何も理解していないただのイヤな奴に思えてきています。初めに「美東士さんと私とは異人種」と書きましたが、たとえばすべての学習者に学習機会を、とか、国民のニーズを知ることが大切とか、もっともなことをエラそうに言う私と、雄弁をふるって楽しそうに講義する美東士さんとはやはり完全に違う。もちろん、美東士さんがうらやましくてそう思うのです。いわば理論のみでガチガチの全共闘カタギの学生が、オールラウンドサークルで楽しそうにしている人たちをうらやむのと一緒かも。  今、就職活動をしていますが、企業は個性的、自由な発想、明るい性格を人材としてほしがっています。ハタと気づくと私にはないものばかりだなァと途方にくれる今日この頃です。美東士さんのような人を認める時がきたなァと、今ぼんやり考えています。昨年の私だったら、「アンタなんか大キライ」と思ったかも。1年間楽しみたいと思いますので、よろしくお願いします。 mito 本当の「闘士」とは何か(ぼくは闘士ではないけれど)。 1993. 4.21. T大T部社会教育計画、男  たとえば中学や高校の頃、授業の初日で、担任が「いいか、何か悩みごとがあったら、オレんとこにじゃんじゃん相談しに来い!」てなことを言ったりする。兄貴カゼをふかせる輩だ。ぼくはこういう輩が嫌いである。  履修要覧に載っているこの授業のコメントを読んだとき、ぼくはあからさまに言うと、「うー、胡散臭え」と思った。思ったが、実際にこの目で見てみなければ何とも言えんなーと思って出てきた。  慌ただしい・・・。  ぼくがこの紙に何やら書いているのは、もしもぼくが教壇に立つ側だとしたら、やっぱり聴いている側の人間の反応を知りたいと思うからだった。うーむ、まとまらん。時間がない。また来ます。 mito 「生まれちゃったから生きている」への批判については、若干反省して修正を加えている。 1993. 4.26. S短大社会教育概論、女  生命をうけたら・・・。いっしょうけんめい生きる。「しょうがないから生きてる」なんて思ったことない、私は。だって、母さんのおなかから出た時、泣いたからねえ。  しょうがないから生きてる人だって、きっとおいしい物たべれば「おいしい」と思うし、キレイな物を見れば「キレイ」だと思うし、それがあたり前だとは思わないけど、でも、息してるし、体を動かすし、ボーッとするし、泣くし、楽しいし、うれしいし、悲しいし・・・。だから生きてるし。  生きてるって思えることじたいスゴイ。植物人間の人はどうだろうッ。しようがないから生きてる人なのかも、考えられないのだろうか。生きてるって思えるのかなあ。どうだろう。  木がはえてるのと同じ。私もはえているのである。植物の芽が出たのと同じ。私も出たのである。木ははえちゃったなんて思わないと思う。芽は出ちゃったなんて思わないと思う。でも、木の気持ちはわからない。芽の気持ちはわからない。 ● 真理には到達しえない 1992. 9.16. T大U部社会教育計画、女  (金魚鉢トレーニングで)今日のものは会議術とはちょっと違った方法のように思います。ただ話し合ったというだけだと井戸端会議的になってしまいます。やはりリーダー役がないと会議としては発展していかないと思います。会議というからには目的があり、その意図がはっきりしないと今日のような具合になると思います。 mito 会議術よりもおしゃべりサロンの教育的効果があったと思う。 1992.10.22. S短大視聴覚教育、女  学生のスルドイ考え方や質問に対して、いちいちりくつで答えられるmitoちゃんはスゴいと思う。また、りくつっぽいとも思う。私の場合、自分が「絶対こうだ」と思っていても、そのことについて納得いくような他人(この「他人」は先生や年上の人など、目上の人にほとんど限定される)の意見を聞くと、すぐに自分の意見がその他人によってせんのうされてしまう。タダの単純なのか、意志が弱いのか。しっかりした意見を持ちたいが、なかなか難しい。mitoちゃんの授業でも、たった2回だけだが、かなりmitoちゃんの言葉に洗脳された。なるほどと思うとすぐにそっちに傾く。でも、そういう意見を持っている人はウラヤマシイ。そんな私でも、他人に結構えらそうな口をたたいたりする。人生は矛盾が多い。つかれる。 1992.10.28. T大U部社会教育概論、女  よく障害者を通じて仕事をしている人たちは、「教えられることが多い」とか言うけれども、一体、何を得られるのでしょうか。漠然とは私にもわかりますが、いつも「何を」得られるのか疑問に思います。みとちゃんはどう思いますか。 mito 生涯学習とは、何からでも誰からでも学びたいことを学ぶことである。 1992.11. 4. T大U部社会教育概論、女  共感的理解について思うこと。私の仕事(看護)は、共感的理解なしにはやっていけない。そして、看護学生は同感しなければ看護できないと言ってくる場合が多い。たとえば、手術を受ける患者さんの心理を理解できない。では、自分自身が手術を受けなければ良い看護ができないかというとそうではない。私が実習担当している産科の分野では、とくに、「自分は子どもを産んでいないから、産婦さんの気持ちがわからない」とよく言う。しかし、私は、実際に自分が出産体験をしている助産婦さんから以下のようなことを聞いたことがある。「自分の分娩体験ばかりを強調してしまっていることがあるの。たとえば、自分の陣痛の時はこうだったから、と助産婦さんに押し付けてしまっていることが多いのよ。だから、産婦さんの本当の気持ちを理解しないで押し付けの看護をしていることもあったのよ」。  体験していることは同じであっても、分娩経験が何回あっても、その人のその時の感じ方、状況によっても違ってくる。その時、その時、その人を理解しようとする気持ちが大切だと思う。最後に「ターミナル・ケアは、死んでみないとわからない看護ではない」と話すと、学生は納得した表情を示す。(同感は客観性を欠いてしまうこともあり、看護の判断を鈍くすることもある。) 1992.11.18. T大T部社会教育計画、女  社会教育の授業は、その時その時はすごくおもしろくて、自分なりに納得して「勉強した」という気になるのですが、あとで思い返してみると、なんだかよくわからなくなってしまうことがよくあります。漠然としすぎていて、奥深くて、難しいなあと思いました。全授業が終わったとき、何か心に残るようなものがつかめたらいいなと思います。 mito 教師としては、学習者を「納得して勉強したという気になった」で終わらせたらいけないのではないか。いったんは納得しても、「やっぱりアレッ」と思うことが大切だ。そうでなければ、教師の手の平の上で学生は学習するということになってしまう。僕の授業は、自分自身では、むしろその問題点をもっていると感じるときがある。学習者に、自分がわかっていないということを認識させることは、「個の深み」の深化のためにとても重要であり、授業という「話し言葉メディア」においてはそこが勝負どころになると思う。「勉強したという気に」させるためには活字メディアだけでも十分なのである。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、男  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)先生の授業を聞いて、自信という言葉の意味や、指導や教育にあたるときのオープンマインドというか、自分のわからないことや迷いを表しながらの接し方に学ぶところがありました。自分を見つめるということはなかなか難しいことだと思いますが、あわただしい日常の中で自分を見つめることの少なくなっている自分に気づかされました。授業はおもしろかったと思います。 mito 教師がわからないとき、迷ったときは、「その場しのぎのウソ」だけはついてはいけない。あとは、その教師の個性でどうにでもなるものだ。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、男  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)mitoさん、なんか頭の中でぐるぐる回ってません? でも、いいな。ぐるぐるしちゃうときってあるし、それを素直に自己表現できているのかな?(どうなのかは意見が分かれるところでしょうけど)。私もいっしょに回ってしまうのでありました。しゃべっていない人がいますよね。その人たちの自己表現は表面的には見えないですよね(見えないようにしか見ていないのか)。でも、自己表現はそういう問題じゃないような気がします。黙っていても自己表現できるようなことではないかなという気がしております。それは何なのかわかりませんが、でもなんかわかったような、という気持ちです。今日はおもしろかったというか、mitoさんもこういう授業が必要であると思います。mitoさんが心を開くというのか、mitoさんとみんなのTwo Way なのかな。投げかけ方がmitoさんの実存から出てるのかなという気がします。 mito 「自己表現できないのは不幸だ」と僕が言い切ったことがなぜ間違っているのか、このペーパーはその本質に迫ろうとする内容だと思う。そして、私たちがめざすべきTwo Way の授業とは、ただ単に全員がしゃべったかどうかを問うような戦後民主主義の形式的な「会議術」を超えたこのような次元にあるのだと思う。 1992.12. 9. T大U部社会教育計画、男  (mito的授業の評価で)今日のペーパーで言っていましたが、先生の授業で何を習っているのか説明できないとありましたが、私も、どんな授業なの?と聞かれたら明確には言い表せないです。しかし、私は、自分に対して考え悩むことが、ほとんど毎回の授業中にあると思う。ということは、つまり、そういう授業なんですね。 1992.12.16. T大U部社会教育計画、女  (「私の好きなこと」をしゃべる授業で)自分を表現することがとても苦手で、誤解されることが多いと思っていたけれど、「1」を表現することの下手さがそういう結果を招いていたのかなって、今日の授業で感じました。表現することの大切さを少し知りました。 mito 10を知ってもらう必要はない。1を話せば、相手が勝手に10を知ってくれる。これを歓迎することは教授法のポイントでもある。ただし、その場合、自分が伝えようとした10とは違う10になりうる。それは相手の側の枠組が影響するからである。しかし、そのことは、自分の思い通りになる10よりも、本来、よっぽど楽しいことなのではないか。 ● 批判の刃を自己にも向ける 1992. 9.12. S短大社会教育特講、女  (金魚鉢トレーニングで)めちゃくちゃ緊張した。いつも人の目を気にする方なんだけど、こうも「見てます」というふうな状況におかれることは全然なかったので、ほんと、疲れた。 mito 思い切ってまともに対面してしまうのがエンカウンターの特徴である。それは「普段でもいつもそうするとよい」という意味ではない。 1992. 9.16. T大T部社会教育計画、男  VTRに関してだが、見ていてなんだか見にくかった。見にくかったというのは、画像が悪くて見にくかったという面もあるが、自分の弱い部分を見せつけられているようで、多少つらかったという面もある。フリースペースに集まっていた若者たちは決して特異な存在ではないように思えた。私たち、平均的な普通の人といわれている者の中にも同じような心理的葛藤は少なからずあるだろう。人間の誰にでもあるような弱い部分が、たまたま社会的、対人的影響を受ける過程で顕著化したのが、引きこもる若者たちのような気がした。 mito 現代社会の私たちの問題は、同じ穴のムジナと言うべきなのだろう。 1992. 9.30. T大U部社会教育概論、男  どんな理由にせよ、学校をやめていった人が学校を批判しないでほしい。そういうことは、学校にちゃんと行っている人が言うべきだと思います。 mito これを言い過ぎと感じる人も多いだろう。しかし、僕は、この人がこの言葉を自分自身に対して言う分にはとてもいいことだと思う。つまり、良い批判者であるためには自分に厳しくあれ、ということである。 1992.11. 4. T大U部社会教育概論、男  とくに私の興味を引いたのは(2)の教育目標(自らの内なる差別と偏見を克服して、主体性を主体的に自己管理できるようになる=メタ主体性)なんですが、やっぱり自分の内世界に差別、偏見を見いだすことが少なくなっているような気がしているんです。なぜかというと、自分の基準だけで物事や人の人格を見ようとする人が増えているように感じられるからです。私自身も、時々、自分自身の個の部分(自主的、主体的に自主性について考える時)でさえ、自分中心主義になってしまうことがあるんですよ、残念ながら。  自分自身のコントロールや自分の内世界をストイックかつアクティブに表現したり、また、自分自身の内世界に多くの基礎的な方向指示機をもつことによって内世界の幅を拡大しようとしたりすることで、今まで自分自身ですら気がつかないロジックなどを見いだすことができるようになればいいんでしょうけれど、それまでには、いろいろなことを学んだり、よい遊び友だちをつくったりしないと、自分自身と違う基準や対応方法などがあること自体を理解できなくなってしまうと思えてならないんですよね。言い替えれば「よく遊び、よく学べ」ってことではないかと私は考えています。  みとさんの生涯学習論(自分を変え続けること)については、私も同感です。ちょっと私も自信過剰なほうだと友人によく言われます。ただ、それは自分に自信があるからではなく、自分のやりたいことが自分自身でまだまだ「漠然」としているからなんですよね、私の場合。それと、まだまだ自分自身、知りたいことが山ほどあるんですよ。なんせまだ私は23年間しか生きていないのですから。まだまだ多くを学び取りたいと思っています。「私自身、自分自身でありたいからどん欲に」ってことですかね。 mito この人の「よく遊び、よく学べ」の解釈には鋭いものがある。自分の枠組を変える覚悟ができているのだろう。それはつまり自信があるのだといえる。「それなりに20年近く生きてきて価値観を築き上げてきたのに、それを崩されるようなことを言われるのはつらい」と僕の授業で感じてしまう学生もいる。このような所で、それぞれの人びとの自らの成長に関する要求水準の差が表れてしまうのだろう。 1992.11.11. T大U部社会教育概論、男  「FCを取り戻そう」というのは、とても大事なことだと思う。たとえば、歳をとっておじいさんになっているのに、バイクに乗り回したり、世界一周を企てたりするのは、本当に素晴らしいことだろう。ただ、歳をとっていてFCの強い人は、日本のようなムラ的意識の強い社会では「変人扱い」されるきらいがある。口に出して言わなくても、どこかで社会的集団から一線を引かれてしまうのである。「人がどう思っていようと勝手にしろ!」と開き直ってしまえばいいのかもしれないが、やはりそれではさびしいだろう。  とにかく日本は異質なものを区別しすぎだと思う。アメリカのような多民族多価値の国では、さまざまな考え方を認め合う動きがみられる(もっとも同様に差別もあるが)。日本人一人ひとりがさまざまな個性を受容できるようにならない限り、個人がFCを取り戻しても孤独になってしまうのではないか。 mito 本当に私たちの問題ではなくて社会の問題なのだろうか。もちろん、たとえばNPが極端に低いなど、バランスが悪いと孤立してしまうかもしれないが、社会の実際の場面でこのことを考えてみよう。会社で人間関係をうまくやっていける人は、目上の人ばかりにヘエコラしていて部下には口うるさいCPとACの強い人よりも、のびのびしていて誰にも親切で独創性のある人ではないか。夫婦関係でも、ただ厳格か(CP)従順な(AC)だけで自分らしい楽しみ(FC)をもっていない伴侶だったら、いっぺんにいやになってしまうだろう。むしろ、自分自身の内面に社会に対する過剰適応の傾向がないか、点検することが大切だと思う。 1992.11.11. T大U部社会教育概論、女  先生がよく口にする「さわやかな自己主張」に関して、この言葉のもつ意味の奥深さや広さを考えたら、よくここまで簡潔に言葉として表現できたものだと感心します。(封建的な会社で上司に自己主張して)結局、私は自己主張したがゆえに1つの社会から排除されて「The end」となったわけです。一時は自分の無力さと、とても立ち向かうことのできない世の中の大きな壁、矛盾を感じても日本の社会制度の中で生きていくには自己を押し殺していかなければやっていかれないことなど・・・、いろいろなことに悩み苦しみました。  そんなある日、ふっと頭の中に1つの言葉が浮かびました。「私はベルリンの壁の前の1匹のノミなのだ」。決して崩壊されることはないと言われていたあの大きな壁も撤去され、はや3年・・・。そして、どんな小さなノミだって、一生懸命にジャンプすればいつかは大きな壁でも越えられるかもしれないし、たとえ越えられなくても、小さな壁のすき間から向こう側へ行かれるかもしれない。だから、どんなに眼の前の壁が厚くても、決してあきらめずに、つねに前向きに自分の信じた道を歩んでいこうと思いました。他人の意見の大切さと、受け入れることの重要さをふまえた上で自分の考えを出す。これはとても難しいことだと思いますが、いつどんな時でも「さわやかな自己主張」ができる自分を求めて、これが今後の私の課題です。 mito もし、個の存立を許さない社会の側の問題があったとしても、個のほうに主体性が備わっていれば、それに適応するのではなく、このように自己解決に向かうことができるのであろう。僕自身はこの人の境地にまでは至っていないが。 1992.11.16. S短大社会教育概論、女  先週の(成人ぜんそくの)ビデオは結構つらかったです。私はどうしてあの場面をテレビに映してしまったのかと思いました。誰も悪くはありません。でも、一度出た怒りや憎しみはなかなかおさまりません。主張することによって相手にそれをわかってもらったらぜんそくも治るかもしれません。しかし、「私はあの人に傷つけられた」と、人はみんな「私は、私は」と思います。それぞれみんなつらいことはあります。自分がつらい時は自分のつらさの大きさしかわかりません。あのビデオを例にとって説明するとしたら、「お父さんはお父さんなりにつらかった」、「息子はお父さんから苦悩を与えられた」、この事実しかビデオではわからなかったけれども、もしかしたら、あのぜんそくになった男の人も、また、家族に、他の人に、悩ませる要因をつくっているかもしれません。(中略)(自分の体験によって)私がつらかった要因から影響を受けてつらい思いをした人もいたことに気づきました。だから、私だけがとはもう思えません。(中略)(主張しても受容されなかったさらに悲しい体験があったが)悲しいのはそのままとっておきます。 mito 「さわやかな自己主張」の本質は理念あるいはレトリックであって、実体ではないのかもしれない。実体のほうを描ききれれば良質の小説が書けるであろう。しかし、実生活の上では、主張のあとで、相互受容つまり「許し合い」があって初めて問題は解決されるのである。その場合の「許し」とは、「悲しいのはそのままとっておきます」というこの人の言葉に近いのかもしれないが、僕にはこの言葉を完全に理解する力はまだない。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で、mitoの授業が説教くさいということなどについて)こちらの未熟さによる不快といったところでしょうか。美東士先生は反面教師ではなく(私にとっては)、私がついていけないだけ・・・。それを何とも思わなくなりつつある今の状態は、私にとっての危機で。先生はそのままでどうぞ。 1992. 1.20. T大U部社会教育概論、男  私はこの講義の本質、先生の言いたいことを理解せずに終わってしまった。私がこの講義を取って得たものといえば「むなしさ」のみであった。自分という人間があまりにもつまらなくちっぽけな人間でしかないこと。何のために大学に来ているのか、入学当初の気持ちはどこへ行ってしまったのか。なぜ、この人は「出席ペーパーを3回出せば単位をやる」と言ったのか。その言葉に甘え切って自分にプラスになったことは? また、マイナスになったことは? 次から次へと自分の1年間の行動に嫌気がさすことばかりになってしまう。 1993. 4.17. S短大教育社会学、女  久しぶりです。去年の視聴覚教育の時間以来ですね。あの時、私はミトちゃんにラベリングという行為を受けて泣いたことのある者です。あの時は本当にむかついてミトちゃんの言うことすべてに反抗的になってしまい、こ・こ・ろ生涯学習P93にのっていることを書きました。あれから1年近くたって、落ち着いて考えてみると、あの時の私の怒りはうまく言えないけれど、自分に対する負い目があったからのように思います。レッテルを貼られるような行為をした自分に自己嫌悪に陥ってしまいました。そのうえに素直に謝られてしまい、その時は、良い先生ぶっているようにしか思えなかったのです。  短大2年になって、「教育社会学」の講師が「西村美東士」なのを見て、ああやっぱりって思いました。去年のことを思い出してしまい、嫌な気分にもなっていました。ただ、今思っていることは、去年の思いは捨てて、新しい始めての先生として接していこうということです。ミトちゃんの去年のイメージを真っ白にして、好意的になりたいと思っています。ミトちゃんのことを好意的に思っている子が、自然に「ミトちゃん」と呼んでいるように、私もすらすらと「ミトちゃん」と呼べたらいい。とりあえず、去年から昨日までは、私はミトちゃんのことを「あいつ」と呼んでいました。とにかく、ゼロから、ミトちゃんの授業や考え、言わんとしていることを見直したいと思っています。  少しひねくれている自分の性格を直すためにも。  これから私の考えがどう変わっていくかはわかりませんが、今はこう思っています。続くかぎりよろしくお願いします。 1993. 5.26. T大U部社会教育概論、男  (学園祭でアダルトビデオ女優の水着姿を見て)僕を含めて、なぜ、飯島愛のようなスタイル(ふんいき)の女性に目がギラギラして下半身がうずくのであろうか。それは本能であろう。たぶん本能ではあるのだが、どういった本能なのか。また飯島愛のふんいきといったが、それはどんなふんいきなのか。彼女のしぐさなのか、トローンとした目なのか、言葉では表現できないあのなんともいえない足のラインなのか。あるいはそれらの全体的バランスか、目に見えないフェロモン、オーラを発しているのか。  仕事がバリバリできて、ものごとをはっきり言えて、具体例を出すなら土井たか子さんのようなタイプの女性より、飯島愛のようなセックスアピールいっぱいの女性に、世の多くの男性は下半身を熱くしてしまう。なぜだろう。  (授業で視聴した性教育の)ビデオで、河野さん(産婦人科の女医)がいまのポルノの氾濫について、次のようなことを言っていた。「どの雑誌を見ても、女性をレイプするといったシーンが多く、女性をモノとして見ているようだ」。僕もふくめて世の男性は女性を見る心をマインドコントロールされてしまっているのだろうか。また、なぜ、女性をモノとして見るような雑誌が多く売られているのか。それは、僕たちがそれを求めるからなのか。そうではない気がする。 mito 先生ヅラしていない発言である。ただ、ぼくたちが異性をモノとして求めるように仕向けられているのだとしても、モノとして実際に求めている主体はぼくたち自身である。状況のせいにするのではなく、自分や他者を信頼するとともに、自分や他者の主体を問うこともときには必要である。 1993. 6.12. S大教育社会学、女  自分を変えることって、とても難しいことだと思います。できることかもしれないけれど、勇気のいることだし、口で言うほど簡単じゃないと思う。自分を変えるというのは表面的なことではなくて、心の中を変えるということでもあると思う。私も自分のいやな部分を自分で発見することができて、「直さなくては」と思い、まあ固く言ってしまえば、「自分を変えようとする気持ち」がわくのですが、とても難しい自分に対する課題で、ある意味で今まで自分の持っていた性格、自分の財産みたいなものを捨てなければならないことでもあると思う。自分のいやな部分を発見しても、高校の頃は「それでも私なんだ」と思って強がっていましたが、それって自分へのごまかしだし、逃げていることなんだなあと、最近よく思います。だから、時間はかかっても、自分と自分が向い合う必要があると思います。 mito 学習とは今までの自分の知識や態度の枠組を変えることである。しかし、「自分のいやな部分」と言うが、ほかの人から見ると、あなたが思っているほどにはあなたは「いやなやつ」ではないのである。逆に、ほんとうに「いやなやつ」とは、自分の「いやな部分」に対してそのように気づいたり、悩んだりしない人間である(ぼくには少しそういう傾向がありそうだ)。「自分のいやな部分」に気づいたうえで、「自分を変える」主体的な学習と、自己受容や自己信頼(自信)の両方が、統一的に成り立つのである。 1993. 6.28. S短大社会教育計画、女  今日のmitoちゃんの話の中で、批判してくれた人への信頼が持てるかどうかという問題について、無意識のうちに自分はすばらしい人間だという意識がどこかにあるから、その部分が傷つけられたような気がして信頼を妨げると、そして、ありのままの自分を認める心の強さが大切だと言っていました。私は、この話を聞いて、私自身、何かに傷ついたときに、いつもそのような弱い気持ちがあったような気がしてドキッとしました。でも、この社会教育課程の授業の中で、批判することと批判を受けることの意味が少しわかったような気がしました。 mito 支持的風土における批判のあり方は、自他の存在の否定ではなく肯定のうえに成り立っている。批判は否定の逆なのである。また、相手への批判の刃(やいば)は、自己にも向けられるものである。そして、そういう批判の根底には、自己・他者受容と共感的理解が息づいている。 ● 他者の存在が自我を深める 1992.10.28. T大T部社会教育計画、女  私は最近ほとんど学校に来ていません。やりたいことがあったはずなのに、どうでもよくなってしまい、専門の授業は苦痛でしかなくなってしまいました。そのかわりに一生の仕事にしたいというものを見つけて、そっちのほうの勉強はしっかりとやっています。結局、学科、大学とはまるで関係のないほうに進もうとしているわけで、親に言わせれば「何のために大学に」ということになってしまいますが、大学に来たからいろいろなことを考え迷い、「自分」を保ち続けていられるようになったんだと思います。  今、出席ペーパーの中身を聞いていて、なんだかわけのわからない気分になりました。言葉にすると変なふうになってしまうけれど、言葉にならない言葉が心の中で叫んでるって、そんな感じです。(文になってなくてすみません。)  私は自分が何なのか、どーゆー人間なのかよくわかっていません。わかることを拒否しているのかもしれない。でも自分で立ちつづけたい。自分で在りつづけたい。そう思います。そのためには何をすべきか、何をしたいのか。それを自分の中で探しながら生きていくのは大変だし辛かったりもするけど、やっぱり自分で在りたい。だから何とか生きていけてるような気がします。  今までほとんど出たことがなかったけど、”大学”に来てから今まででいちばん真面目に受けた授業のような気がします。関係ないことですみません。 1992.11.11. T大T部社会教育計画、女  やめるときより、続けるときのほうが勇気がいる、というペーパーにはうなづけます。私が1年生のときは、すべての授業に出ていて、休むことができませんでした。みんなは出なくていい授業には出ないことができるのに、私にはできなかった。高校の頃の延長なのかどうか、とにかく全出席していました。それが2年になり、3年になって、どんどんと出席する授業の数が減っていきました。出なくてもいい授業には出ないことを始めたら、自由な時間がたくさんできて、ずっと生活がラクになったのです。そして、自由な時間にはバイトをしたり、趣味のことをしたり、ゆっくり眠ったりして、今までになくゆったりとした生活を送っています。しかし、よく考えてみると、これが学生のすることなのでしょうか。授業に出なくなることは、慣れてしまえば簡単でした。でも、誰も出ない授業に一人だけで出席することは? きっと今の私には難しいでしょう。ちょっとニュアンスが違ったかもしれないけれど、やめるにしても、続けるにしても、人と違うことをするのは大変なことです。 mito 自分の「実存」が何を学習することを欲しているかを探ることが学習にとって重要なのである。生涯学習で「学びたいことを学ぶ」とは、そういうことである。 1992.11.18. T大U部社会教育概論、女  まとめに入り、「自分のために生きよ」「潔く生きよ」に関しては、とてもウンウンと納得することができた。自分自身、それらの目標に向かって生きていけるように、と思っていた。しかし、最後の「さわやかに依存する」だけは、自分には、頭ではわかっていても、たぶん自分自身できないだろうなと思っていた。依存は、自分自身に対する「負け」だと感じていたからである。  しかし、突然、降って湧いたように結婚することが決まり、やっと、この「さわやかに依存」することの心地よさがわかってきた。今まで「私が、私が!!」という頑張りだけだったが、少し肩の力が抜けて楽に生きていけるような気がしている。お互いにじょうずに依存しあって生きていける社会になればいいなァと・・・。 1992.11.21. S短大社会教育特講、女  (自己受容トレーニングで)私が「自分が自分を好きなところ」を言うのも、友だちのを聞くのも、楽しかったと思えたのは−、そうです、わかりました! この時間・空間・仲間だから、そう感じることができたのです。mitoちゃん先生や社教の友だちに対して「ありのままの私を受けとめてくれるだろう」という信頼があるから、私はわりと気軽に、自分の中では楽しく過ごせたのではないかと思います。  1%でも「そうじゃない」と考えると、言ったら嘘を言うような気が前はしていたけれど、それって違いますよね。私は社教によって感化されている自分が好きです。自分や他人を、そのまま受け入れることの幸せや嬉しさを感じられるようになりつつあることが、楽しくて、ラクで、mitoちゃん先生と社教の仲間に感謝しています。  今、なんだか真面目な気分。「何か、もうちょっと深くみんなでor1人で考えたい」という感じです。そういうときの自分も好き。社教の授業も好き。そして、授業が終わったあとの(毎回違った)こういう不思議な気持ちになるのも好き! 今、私の周りの人、環境、ぜんぶ、すきっ! 1992.12. 2. T大T部社会教育計画、女  (障害者のための絵画教室のビデオを見て)自分が恥ずかしくなってしまいました。障害をもって、でも、あんなにいっしょうけんめいに生きている人もいるというのに、私は何をしているというのでしょう。いかにラクに生きるか、うまく生きていくかを考えていた今日この頃の私の甘えた考え方を思うと、つくづくイヤになりました。障害者を差別するとかしないとか、そんなことより、みんな同じ人間で同じように生きているのだ、いいえ、健常者以上にいっしょうけんめいに生きているのだということを強く感じました。ともすれば、生きていても死んでいてもたいして変わらないやと思いながら生活している私にとって、このビデオは何かを、まだ何だとはっきり言えないけれど、確かに与えてくれたものがあると思いました。自分の気持ちを表現するのは、障害者の人でなくてもたいへんだと思います。もっともっと、誰もが自分を表現して、それを認めあえる社会になってほしいな、と思いました。  潜在的学習要求について。すべての人にあるとは思えません。本人が知りたくないと思うならば、それは知らせるべきではないと思うのです。それを知って、その時はショックを受けても、乗り越えられる人ならいい。でも、乗り越えられないから、自分にその力はないということが、なんとなくでもわかっているから、知ろうとしていない人たちだって多くいるのではないでしょうか? すべての人が知りたいと思っているとはとても思えません。たとえばmitoさんがチラッとおっしゃった「生まれたから生きているだけ」の人たちにとって、多くを知ろうという気があるのかどうか。どう思われますか? 「まとめ」の授業だったけど、(前回は「新しいこと(もの)にあまり出会えず、ちょっとものたりない気もする」と書いたが)今日の授業はけっこう考える所があって良かったと思います。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、男  役割遂行から給料という話だが、当り前でつまらなかった。他の人(生徒)が興味をもっているのが(意見しているのを見て)不思議だった。先生にあわせようとしているのでは?! 当然のことで、話題にするまでのものではないと思う。3回出席したら単位はくれるんですよね。あと1回で3回です。 mito 僕の言ったのはこういうことである。素晴らしい人間であるからといって、その分の給料がもらえるわけではない。その素晴らしさを社会に出した分だけ、社会から還元されるだけの話だ。「こんな素晴らしい自分がなぜむくわれないのか」などと愚痴をこぼして社会のせいにするのはやめたほうがよい。自分がどれだけ社会に対して役割遂行しているか、役割遂行できるようになるか、その役割遂行に対してきちんと見返りがあるだろうか、ということを悩んだほうがよい。そして、自己実現は自己実現で潔く「自分のために」追求すべきだ。つまり、役割遂行と自己実現は異なるものなのだ。  たしかに僕はこの話をするとき、「当り前すぎて学生にとってはつまらないかな」という不安をもち、それを実際、話の途中で何回も口に出して学生に聞いたのを覚えている。なぜなら、僕自身がこの自分の話を素直に受け入れられるほど「潔く」ないために、つい社会に対して不満を持ってしまう人間だから、この話にこだわりをもっているだけで、もしこういう僕を超えたレベルの学生がいた場合、そんな当り前の話はつまらないのではないかと心配になったからである。だが、この話に噛みついてくる学生がいたので、やっぱり問題提起してよかったと安心した。  そう思っていたところに、このペーパーである。「先生にあわせようとしているのではないか」・・・、他者に対するこの傲慢な不信感はどこからきているのだろう。なぜ、「ほかの仲間がこんなことで興味をもっているということは、もしかすると、自分のほうが無知なだけなのではないか」と考えないのだろう。なぜ、「こういう授業にずっと出席しなくて(できなくて)人生の大きな損失だったかもしれない。それを取り戻せないか」というように考えないのだろう。ぼくが「当り前すぎて、つまらないかもしれない」と心配したのは、この学生の言う「当り前」とは違うレベルにおいてである。  皮肉な言い方に聞こえるかもしれないが、僕はこの学生を気の毒に思う。「個の深み」を楽しみ、人生をていねいに生きる力をかなり失ってしまっているのではないか。単位取得などの「社会的制度」を完全に人格の中にまで受け入れてしまっていて、憲法で自分に保障されているはずの幸福追求の権利を忘れ去ってしまっている。  と、僕自身を中心に考えるとこうなるが、しかし、客観的には、僕の授業が少なくとも一部の学生にはツー・ウエイでなくなっていることへの訴えととらえることも必要かもしれない。また、もっと冷めた目で、このように教師と「そりが合わない」学生は必ずいるのだから、そしてそれはどちらが悪いということではないのだから、「3回出席単位認定制度」はそういう意味でも有益である、ととらえておいてよいのかもしれない。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  今日は授業(先生と一部の生徒とのやりとり)を聴いているのみでした。役割遂行は自己実現とは違うことなど、身近なテーマからの問題(?)でしたが、みなさんの発言のレベルが、私の考えつく内容とはかなり違っていたため、自分がとまどってしまいました。違う視点から1つの観点について論じるとおもしろい見解があるんだなーと思いました。教え、指導する側としての美東ちゃん、個人としての美東ちゃん、何を話すにしても、話すときの立場を問われ、難しいですね。私も教職をとっているのですが、ちょっと考えさせられました。 mito 自分とは違う枠組の他者がいるから、人間やその世界はおもしろいということであろう。 1992.12. 9. T大U部社会教育概論、女  mito先生の授業の評価の例にあるように、1つのことが、A学生には○印(良い点)に見え、B学生には×に見える両面があるわけです。理屈ではわかっていたのですが、mito先生のこの例で具体的になりました。 mito 人間存在だけでなく、その授業もアンビバレンツなのだろう。だとすると、教師も学生もアンビバレンツを克服するのではなく、アンビバレンツとともにやっていける力が必要なのかもしれない。 1992.12. 9. T大U部社会教育計画、女  出席ペーパーから、mito先生の評価を、先生自身が細かい分析をされました。その熱心さに心をうたれ、うなずかされた授業でした。珍しい教授の一人です。しかし、学生の皆さんのコメントのすばらしさに感心させられ、自分の愚かさに気づかされました。もっともっと洞察力を身につけねばとあらためて思った次第です。「自分」という存在をよくよく見つめ、ほんとうの自分を早く見つけ納得させたいのです。ついつい自分でない自分を演じてしまっていることの多い今日この頃です。mito先生の講義になると、いろいろ考えさせられます。普段、職場でも、学生仲間でも語ることのできない分野の講義です。このスタイルの講義方法に賛成です。主体性がだんだんと身につけさせられていくように思います。 1993. 4.24. S大教育社会学、女  よく「自由になりたい」とかって言うけど、自由って一番自分に責任のかかること、じゃないでしょうか。自由にやれ!と言われると、しっかりしなきゃ、と思ってしまう。今日、講義中に、私のななめ後ろの人が競馬新聞を広げて大声で話していたけど、いったい自由って何なの?と思ってしまった。でも、私たちは学生だし、選んでこの講義を取っているんだから、もっと自分に責任をもって行動していくべきだと思う。 mito その人が競馬新聞を読んでいたって、別にかまわないのではないか。後ろの人が黒板が見えなくなるような新聞の広げ方をしてさえいなければ。もしかすると、その人にとっては、ぼくの授業を聴いているよりも、競馬に詳しくなるほうがこれからの世の中では出世につながるかもしれない。あなた自身が、「今、ここで、自分で選んで、自分のために学んでいる」という原点を確認してほしい。だとすれば、ほかの人が「競馬新聞を読んでいること」を気にするのではなく、「大声で話していること」に焦点を絞ってその人が自分にかけている迷惑を糾弾すべきなのである。  ぼくの授業中、競馬新聞を読んでいたってかまわない。面白いと思った所だけ聴いてくれれば、ぼくにとっては十分だ。だが、このペーパーを書いたような人の人生を邪魔してはいけない。自分が授業に興味が感じられないからといって、大声で話して、ぼくの授業を静かに聴いていたいという人たちの邪魔をするのは、潔くない生き方だ。そういう潔くない人には、いつか、人生の中で挫折を感じてほしいとぼくは思う。さぼったってかまわないから、自分の人生を潔く生きてほしい。ぼくの授業がつまらならないのなら、「ちょっと待った」をかけるか、レッドカードを出すか、文句を書くか、あるいは、静かに退出すればよいのだ。暴力とセックス以外のすべての自由が、この授業では保障されているのだから。授業中に競馬新聞を読める人のFC(フリーチャイルド)は評価したいが、そのFCが潔くないほかの自分によって汚染されないよう進言したい。 1993. 6.23. T大U部社会教育計画、女  人それぞれの幸せの瞬間があるんだなと思った。十人十色、百人百色、まさに個人、個人、それぞれの考え、生き方はさまざまなんだなと思いました。共感できても、やっぱり、その心の根本は違うのではないかなと思いました。それは、それまでのその人の人生が、発言した「幸せの瞬間」の中に凝縮されているように感じたからです。ブレスト−幸せの瞬間−は、皆が「幸せ」について考え、共感していたので、教室にいるのがとても楽でした。 mito その人の人生が凝縮されたもの、それがまさに「準拠枠」なのだろう。そして、共感とは、本質的にはその他者の枠組ごと他者を理解することなのだろう。その完全な理解は不可能だが、どこまでも近付いていくことはできるのである。 1993. 7. 7. T大T部社会教育計画、男  久しぶりにこの講義に出た。過労死のビデオを観た。ぼくの知らない人間、ぼくが「関係ない」とそう判断している人間たちが100人死のうと1000人殺されようと、そんなことはぼくにとってどうでもいいことだ。ぼくの知らない女の学生さんが強姦されたところで、ぼくの知ったことではないのだ。実際、ぼくが誰かに殺されたところで、mitoさんがこれといって何も感じないように。ぼくはmitoさんを知っている。しかし、mitoさんはぼくを知らないのだからね。ぼくが知っている人間が過労死なんぞというつまらない死に方、殺され方をしたら困るなあ、と思っただけであった。 mito 「関係ないと判断している」と言うが、そこで自己との関係が見えないのは、社会のなかでの自己の位置の客観視ができてないからという厳しい見方もできる。自分や人間や自然を客観視するために、そもそも学問があるのではないかということである。しかし、このペーパーを、人間が宿命的にもっている無常観がしっかりと表現されているという点で評価することも、あるいはできるかもしれない。 ● 自他批判を通して身を構え直す学習者たち 1992. 9.16. T大U部社会教育概論、女  今まで決して遊び感覚のつもりで大学に通っていたつもりはありませんが(私はガリ勉タイプでもありません)、大学に来て勉強できるということが、今とってもうれしく幸せに感じます。まるで小学生が遠足を待っているような感じです。5月からの入院生活が長びき、まだまったく退院の見込みはないのですが・・・。  入院中のベッドの中でいろいろ考え、本を読んだりして、私にとって大学で学ぶというのは、いったいどんな意味があるのだろう、本当に私は何を学びたいのだろう、など、考え、自分なりに答えがつかめました。病院から大学に通学するなんて無理だとは思っていましたが、自分の今の気持ちを担当医に一生懸命伝えたところ、体調の良いときは少しくらいなら行ってもよいということで許可を得て、今日、授業に出席することができました。病気や治療はいやなものですが、今あらためて学ぶことに対してこのような新鮮な気持ちや喜びを感じることができたことを私はとても幸せに感じます。 mito このような意味ある学習者のためだったら、それがたとえ一人だけでも、その人に喜んでもらえるような授業を行えることは教師の冥利に尽きる。こういう学習者は、ある面で僕を完全に越えており、僕にとっての「意味ある他者」なのである。 1992. 9.28. S大社会教育演習、女  社会教育の勉強はとても頭を使うし、また、いろいろな方面からものを考えなければならないんだなと思った。つねにテーマについて話し合ったり、考えたり、計画を立てたりと、私にとっては一番苦手なことばかりのような気がします。大変そうだけど、やっていけるか心配です。 mito その大変さは、仕事や生きていくことの大変さと同じではないかな。 1992.10. 7. T大U部社会教育計画、女  「主体的な学習を援助する教授法」は、かなり難しいテーマだと思った。私は小学校の頃から、ずっと「与えられる課題」だけをこなしてきた。自ら率先して勉強するなどということはまったくなかったのだ。大学に入学してからも同様で、教授から出される問題に対し、答えを見つけるだけで精いっぱいだった。正直言って「主体的に」学習するということがどういうことなのか理解できない。「主体的」という言葉にさえ抵抗がある。なぜならすべて自分が発見(開拓)していかなければならないのでしょう? それに加え、それを援助するなんてできるのかな? 人の何かを助けるということは、自分がその何かについて深く知らなければなかなか難しいことだと思う。今後、この講義で「主体性」の「しゅ」だけでもわかればなあと考えている。 1992.10.12. S短大社会教育演習、女  (主体的な学習を援助する教授法で)本当にこういう学習ができる機会はこれから先、ないんだろうと思うのですが、だれか一人がやり始めれば次々と皆やり始めると思います。キッカケがないんだと思います。皆、難しく考えすぎていると思います。誰か一人がやれば、「こういう風にやればいいんだ」と理解できると思います。しかし・・・。私がその最初の一人になるのも抵抗があるのです。矛盾かな? 皆が新鮮な驚きをする学習ができれば良いのですがね・・・。 mito 最初の一人になる人は、とりあえずは一人いればよい。それを、キーパーソンまたはネットワーク型リーダーというのだろう。全員がそうならなくてもよい。キーパーソンをサポートするメンバーにだって主体性が必要なのだ。 1992.10.12. S短大社会教育演習、女  (主体的な学習を援助する教授法を)私以外の人は、まだ準備ができそうにないようですが、私もなぜこんなにやりたい気が起こっているのか不思議です。とりあえずテーマが決まればできるのではないかと思います。 1992.11.11. T大U部社会教育概論、女  (成人ぜんそくのビデオを見て)さわやかな自己主張って何なのだろう。自己主張の苦手な私も、きっと誰かにわかってもらいたくて、泣くのかもしれない。なぜ、私はすぐに泣いてしまうのか、少しわかった気がした。今日は眠くてこのビデオの半分もまともに見ていなかったけれど、私の涙は(成人ぜんそくの)彼の咳と同じなんだって思った。泣き虫なのは私の個性だと思っていたけど、確かにイライラした時、わあーっと泣けばスッキリしたけど、泣く前に言葉で伝えるようにしていこうと思った。そう簡単にはなおらないと思うけど。泣いたって私の主張がすべて相手に伝わるわけじゃないんだし、人前で泣くなんて、いい年してみっともないから。それと、人間誰でも自分が思ったことを100%他人に伝えることはできないんだ。会話は、全部言おうと思っていてはひとりよがりになって、相手もうんざりしてしまう。潔くなろう。100%言わなくってもいいんだ。  さいごに、いつも前向きな私になれるんだけど、また普段のネガティブな私にすぐに戻ってしまう。・・・どうにかしたい。 (休み時間による中断のあと)さっき屋上に行ってきました。ボイラーのゴオーッという音に紛れてしまうのをいいことに、大声で歌ってきました。そして、満月と東京の夜景に心が洗われた気がしました。私も自分自身の立ち直りの早さにびっくりしています。泣いたっていいじゃないって思うようになった。何がいい自己表現の方法かわからない。でも、それを探しながら生きるのもいいんじゃないかって思えてきた。潔くない自分も自分なんだ。くよくよしている自分も、泣いている自分も、自分の一部なんだ。少し自分がいとおしく思えてきた。東京も捨てたもんじゃない。私も捨てたもんじゃない。訳がわからなくなったので、ここまで。 mito 女の涙は男にとってふたとおりあると思う。ひとつは、「こんな不幸な私をどうしてくれるのよ」と訴える被害者面をした涙だ。ふつうの神経をもった男なら、その涙を見ただけで、その女の人生までしょいこまされる感じになってうんざりしてしまうだろう。もうひとつは、男がひかれる「いい女の涙」だ。この人の場合は、僕は後者だと感じた。つねに元気なことが人間として素晴らしいのではない。いい女とは、気持ちがネガティブになっているときは教室の隅で静かに微笑んでいる、そんな女ではないか。 1992.12.16. T大U部社会教育計画、女  私がペーパーに(他の意見を殺すようなmitoの攻撃性を)「でもそれは私のことだとも思います」と書いたのは、自分が思っていることをmitoさんに意見されて、それに対して自分が受容(「そういう考えもあるんだ」みたいな)できなかったからです。それと、私は、昔、教師に攻撃性のことで同じことを言われ、妥協するのも必要と言われたことがあったからです。いままで、そういう考えのキャッチボール、ぶつかりあいはしたことがなかったし、避けてきたし、そんな環境もなかったのです。でも、ペーパーの形で書くことにより、他人の考えと自分の考えの違いにも気づくことができ、ぶつかりあいができて、楽しかったです。書いては意見を聞き、悩み、また、書いてはそれを繰り返すことによって、お互い成長できるのだと思い、やっぱり大学って社会に出る前の大切な場所なんだと思います。 mito 他人の考えが自分の考えと違うことを楽しいと感じる、つまり他者の枠組を受容できるということは、高等教育の知的訓練としては非常に似つかわしいと思う。僕もそうなりたいと思っている。 1993. 5.17. S短大社会教育計画、女  父兄会連合会と銘打った手紙は先生のところにも行きましたか? 手紙の内容はともかく、書き方に私は怒りをおぼえました。「教授という重要な立場にいる者が」と書いてありました。(実際は「大学教育上大変重要な地位にまで昇進している」という書き方である) だったら、講師ならば罪は軽くなるのでしょうか。職業上えらい立場にいる人がかならずしも人間的にほかの人よりもえらいということはないんじゃないかと思います。 mito このペーパーを書いた学生は、1年間以上社会教育を学んできた人である。人間存在に関して、このような本質的な見方ができていることに、ぼくは大きな喜びを感じる。何人かの学生は、このペーパーとはまったく逆に、身元を明らかにしないこの種の「謀略文書」に動揺し、右往左往しているのだ。そして、その動揺をぼくが批判し、メディア・リテラシーの重要性を訴えたところ、「火のない所に煙は立たぬ」と反論してきた学生もいた。ぼくには、それが現代人の非主体性の表れととらえられるし、流言蜚語に惑わされて他民族を差別・虐殺する人間の残酷さとも通じると感じられる。情報や状況を冷静、公平に判断するA(大人心)も、大切な人間性の一つといえるだろう。 1993. 6.12. S大教育社会学、女  今、自分が何をしたいのか、わからなくなっている。今まで、私は、音楽とは「人間の生活」または「人間そのもの」を表現するものだと思っていた。かつてバーンスタインが「私は人間が好きです。とても興味があります」というようなことを言っていた。私も前述のように思っていたので、バーンスタインの言葉は当然だと思った。しかし、今は、彼はもっと深い意味で言ったのではと感じ始めている。  今、私は、音楽とは、人間探求、人間追求ではないのかと思う。哲学や心理学と同じなのではないか。芸術といわれているものは、みな同じなのではないか。自分を省みたとき、自分で把握できない自分が存在している。それでも知りたいと思う欲求がある。どんなに科学が進んでも、人間あるいはこの世界を、理論ですべて説明することは不可能だろう。しかし、わからないということは、不安を引き起こす。昔の人は、ヘビやトラなどの人間より強い生物に不安を抱くとともに、あこがれを持っていたのだろう。そういうものに畏敬の念を抱いたらしい。人間も含め、すべてを超越したものを欲する気持ちから生まれたものが神だろう。しかし、それは自然あるいは宇宙と言いかえられるかもしれない。  私自身が私のことを知りたいように、わからないとはわかっていても、それでも知りたいという欲求が人間にはあるのではないか。哲学や心理学、芸術などは、ある意味で神に挑戦しているのではないか。これは人間のエゴかもしれない。うまく言えないが、音楽は音楽そのものが目的ではなく、あくまでも手段であり、音楽という手段を使って、人生観、人間観、あるいはその人の価値観を表現したいのではないかと思い始めたのだ。  私は今まで、この大学から技術を習うのだとわりきって考えていたのですが、それすらわからなくなってきたのです。音楽をやるうえでの技術、感情表現、理論などの当然わかっておくべきものと、上に書いたこととの接点を見つけるには、私にはあまりにその基盤がないのではないか。今、私が一番欲しているもの、知りたいと思っているものは何なのか、わからなくなってしまったのです。 mito アンビバレンツが人間存在の真実であるのだから、そのアンビバレンツを音楽的に表現できなければ、本当の人間表現とはいえないのだろう。たとえば、明るい音楽には、そのなかに人間存在の根源的な暗さが前提として秘められていなければ高度な芸術にはなりえない。  高等教育はたんに「技術を習う」だけの場ではない。「人生観、人間観、あるいはその人の価値観を表現」するという高度な音楽表現に接近するための知的訓練の場である。そこで大切なことは、あなたのように「わからなくなる」ことである。そこから「どこまでも知りたい」という学芸追求への欲求が生ずる。そこでの「基盤」としては、あなたはすでに「自分のなかの真実」をもっている。大切なことは、その存在に気づくことである。その真実は、音楽的真実ともよぶことができよう。 1993. 6.16. T大U部社会教育概論、男  「やさしい人だね」とよく耳にする。この「やさしさ」というのは、その人が本来、親切にしてあげようと思ってしているのか。逆に、やさしい人といわれたいからやさしくしている、いわゆる偽善者なのか。ある友だちは「ほとんどは偽善者だ」と言っていたが、私は正直言ってわからない。でも、たとえ偽善者でも、やさしくしてあげることは必要だと思う。やらないよりも偽善者と呼ばれたほうがいいと思う。先生はどう思いますか? mito 「人からよく思われたい」という気持ちを自己否定せずに、当然の気持ちとして受容せよ。これを偽善として否定している人たちの多くは、「自分はよく思われようと努力しなくても、他人からはよく思われて当然のはずの人間だ」という無茶な思い込みをもっている。そういう人たちが、実際にはそううまくいかない社会の現実に直面して感じる劣等感などの生産的でない感情に、あなたまで巻き込まれる必要はない。 1993. 6.28. S短大社会教育計画、女  (あるボランティア養成講座に参加して)午後はエコ・ディスカバリーをしました。変な話ですが、私、虫がきらいなんです。くもの巣が張っていたり、木にびっちりついたうじゃうじゃした虫や葉っぱや虫のたまごや幼虫なんて、とてもとても。きらいなもの、きたないものがさわれない、というのは土曜日までの話。なぜ、きたないもの、と思っていたのか不思議です。「目かくしトレイル」や「カモフラージュ」というゲームをしていて、どんどん森の中に入っていって、どんなものでもさわれる自分に初めて会いました。靴下のまま草や土の上も歩けたし、虫がたかっていても手でつかんだり、虫がいっぱいいる木に抱きついたり、さわりまくったり。土がついた食器で物を食べようなんてこと、今までは絶対できなかったのに、食べられちゃったり。  母にこのことを報告すると驚いていました。そして、「私、自分が怖がりだから、あなたが小さいころ、何もさせなかったのに」と一言。なるほどアスレチックもやったことないし、ジェットコースターは心臓が弱いからとかなんとか言われて、乗れなかったし、自転車でどこかに行くのも制限されていた。その割には、怒ると、私のことを暗い部屋に入れてしまう。こんなことをずっとしていて、いつしか、先端、閉所、高所の三大恐怖症(?)になっていました。挑戦と我慢の心を幼少時代に養うことができなかったと気づきました。でも、きのう、「よし、いくぞ」と思ったあの瞬間の気持ちはとても貴重なものだったと思っています。達成感も味わえたし。やっぱり、行ってよかった。 mito 今まで自分を育ててくれた親に感謝しつつも、自立の過程では、その生育歴の中の断ち切りたい過去が人間にはある。そういう過去を断ち切るためには、いままで気づかなかったその過去に、この学生のように真正面から気づくことが必要である。そこからしか自己変容は始まらない。本来の教育とは、この体験学習のように、気づきのための有効な契機を提供することなどによって、その自己変容を援助することである。 ●  旧版 「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その4)  −出席ペーパーに表れた学習者からの教育批判と教育評価@−                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(4)  −The Criticism and Evaluation of Education by Learners appearing in Attendant-Papers@− 1 今回の論文の位置づけ  「個の深み」を鍵概念としたこれまでの一連の拙論の副題を挙げれば次のとおりである。その1(平成3年3月)−「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(副題なし)、その2(平成4年3月)−出席ペーパーに表れたその実態と可能性、その3(平成5年3月)−学習者の発言(ペーパー)に対する指導者の対応のあり方。  今回は、学生の出席ペーパーをもとにしながら、現代青年の批判精神の所在について明らかにしたい。そして、とくに「mito的授業」への学生からの実際の批評をとりあげることによって、大学運営の目下の課題のひとつである学習者自身による授業評価(社会教育でいえば事業評価)のあり方をより本質的にとらえるための一助ともしたい。ちなみに、教育評価に関する私の問題意識としては、次の3つがある。 @ その教育を支持する人が量的にどれぐらいいるかを気にするだけの評価ではなく、たとえ1%の学習者の批判であっても、それを教育に反映できる評価にしたい。 A 良いか悪いかの「程度」だけを気にする平板で固定的な評価ではなく、新しい教育の方向を探り出せるような個性と開発性の豊かな評価にしたい。 B 学習者が被調査者として固定されることなく、名実ともに評価主体として成長できるよう、教育側と学習側とがともに育つという教育的観点をとりいれた評価のあり方を明らかにしたい。  以上の教育評価の問題においても、そこで問われているのは、評価主体(ここでは学生)が真の意味での批判能力をどれだけもっているかということである。そのため、これらについてはかなりの分量の記述が必要になりそうである。簡単には語りつくせそうもない。そこで、下記の3以下に予定した内容については次回以降に譲ることにする。これに関わる出席ペーパーおよび私のコメントは事例としてはすでにまとめてあるので、それを希望される人にはMSDOS標準テキストの形態で提供する。  1 今回の論文の位置づけ  2 知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際  3 教育「される」ことへの反発  4 教師による学生批判  5 楽園追放は受けとめるしかない  6 批判は否定とは異なる  7 批判は必ずそれなりの真実を表している  8 真理には到達しえない  9 批判の刃を自己にも向ける 10 他者の存在が自我を深める 11 自他批判を通して身を構え直す学習者たち  なお、ここで紹介した「出席ペーパー」とは、学生が講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くものであり、それに対する私のコメントは翌週の授業の冒頭に行われる。また、ここに挙げた「S大・S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事の課程を学ぶ大学生と短大生であり、「T大T部・U部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の1部学生と社会人入学者を含む2部学生である。そして、mito以下のコメントは、それぞれの出席ペーパーについて私が授業までに準備しておいたメモである。 2 知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際 1992.12. 2. T大U部社会教育概論、男  何か最近、mitoさんの講義って、説教くさくてつまらない。4月、5月の頃は、毎週、来るのが楽しみでしたが、今ではそれほどではありません。(全文) mito 「説教くさい」というのは、ぼくにとって最大の批判に近い言葉だ。ちなみにぼくの授業に対する最大の批判は「退屈する」ということである。「説教」からは「反抗」が生まれるけれど、「退屈」は「忍耐」ぐらいしか生まないからだ。幸い、「退屈」という批判は、今まで一回も受けたことがない。それにしても、ここまでものすごい言葉を使って批判するのなら、ぜひ、「どこが」説教くさいかということを付け加えてほしい。そうでないと、「学生からの批判(暴力は禁止)はすべて受けて立つ」と言っているぼくとしても、どう対応すればよいかわからなくて困ってしまうのだ。この状態のままだと、ぼくとしては、少なくともこの学生に対しては、「論争してぼくに負けるのが怖いから、理由は言って(書いて)こないのだろう」として片づけるしかなくなる。そして、社会的に見れば、批判をそのように片付けてしまったぼくのほうが正当だということになってしまう。そんなことでは、せっかくの批判が批判としての力を持たなくなってしまうのだ。もっと主体的な批評精神を身につけてほしい。 1992.12. 2. T大U部社会教育概論、女  ちょっと今日は疲れていて、聞くことに身が入りません。はじめのほうは(パフォーマンスタイムで配られた)アンケートに答えていたので、レジメは目を通しただけです。ちょっとアンケートをした人へのつっこみがこわかったなあ。先生の質問が社会的権威に満ちて聞こえたのは気のせいでしょうか。早口なところもよくないのかもしれないです。  自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです。  眠くってなんにも考えられません。(障害者のための絵画教室の)ビデオは悪くなかったと思うけど、素直に感動できませんでした。こういう人もいる。わたしはわたし。自分なりに生きていくしかない。それが全て。ネットワークはあれば素敵だし、なければ淋しい。でも、なくてもとりあえず困らないから。 mito まず、「自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです」という指摘については、ぼく自身、「これだったんだ」という感動をもった。授業の心構えまで「まとめ」に入ってしまったぼくを、的確に批判している。 mito 「アンケートをした人へのつっこみがこわかった」というが、なぜこのアンケートをしたいのかを調査者自身が明らかにすることは回答者に対する礼儀だとぼくは思っているから、アンケートの説明の終了の後、「このアンケートであなた自身は何を知りたいのかも言ってください」と要請しただけである。調査者に対するつっこみというよりは、むしろ支援であったはずだ。それを「つっこみ」としてとらえるのは、被害者意識なのではないか(早口はたしかによくないだろうが)。実際、アンケートをした本人は、「先生にめぐりあえて良かった。今の私の本心です」とまで言っているのである。 mito そもそも、この授業では、ビデオは「素直に感動する」ために視聴しているのではない。だから、この学生の「こういう人もいる。わたしはわたし」というとらえ方もありうるのだ。感動しても素晴らしいし、感動しなくても感動しない深みがありうる。どちらでもよいではないか。ただ、授業を行なうぼく自身としては、「共感的理解」や「メディアからの主体的摂取態度」を体得することをねらいとしているのは確かである。 mito ネットワークは「すでにあるもの」や「エスタブリッシュメント」ではない。ヒエラルキーに抵抗する「個」から生まれるものであり、それをほしいと思う者が「つくりだそうとするもの」である。そして、人間同士がヒエラルキーを離れて完全に相互信頼することは究極的には不可能だから、最後まで「完成しないもの」でもある。そこに感じる「淋しさ」は受容するしかない。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)久しぶりにこの授業に出た。言うこと、言うことに、からみついてくる生徒。それについて真剣に考える先生。生徒の書くペーパーやつっこみにドキドキしたり、訳のわからない質問に困ったり、すばらしい先生だと思った。だけど、顔が笑ってても目が笑ってない。余計なお世話か・・・。今日の話、私はほとんど先生の意見に賛成だった。なんか先生が生徒で、生徒が先生みたい。そういうのも大切だと思う。 mito 「顔が笑ってても目が笑ってない」というのは、じつはぼくの限界性を鋭く突いたものだと思うが、こればかりはどうしようもない。「演じているぼく」のほうを評価してもらうしかない。しかし、「先生が生徒で、生徒が先生」とはいい言葉だ。ぼくが先生病にかかっていない証拠として、肯定的に受けとめておきたい。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (mitoが講師をしている青年教室の参加者がモグリで出席)みとさんの「すばらしい」という意味は? みとさんの考える自己実現の意味は(仕事は入らないのか)? 社会にgiveしないといけないのか?  何でも言える雰囲気とか、とってもよいと思う。でも、みとしさんは、今、何かにしばられていて、その中から声を出しているような気もする。(1時間目が)「まとめ」ということでなのかなあ? (ペーパーにあった)「説教」にはちょっと共感。なんとなく真剣になっていろいろな話ができる時間がもてるっていいな。 mito このペーパーを書いたこの人には、ぼくが1時間目に「自己表現できないことは不幸である」と言い切ってしまって、ある学生から批判を受けたことについて、2時間目の授業中、「みとしさんは本当に自己表現できないことは不幸だと思っているのですか」と指摘された。それは、ぼくが絶句してしまうほどの鋭い質問だった。「まとめなのだからある程度の言葉の捨象は仕方ない」と言って単純化して逃げようとしているぼくの首ねっこをつかまえられて引き戻されたような気がした。「何かにしばられていて、その中から声を出している」というのも、ぼくが教師という社会的役割を遂行している以上、仕方のないこととはいえ、もう少し発展して論ずれば、教師と学生との知的水平空間の質的深化の契機となりうるものであろう。 mito 社会にgiveしたくなければしなくてよいと思う。しかし、そのときは、人間の尊厳を守るための福祉的な意味以上の報酬や見返りを社会に期待することは筋違いであるということは知っておかなければならない。 1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女  (mitoが1時間目の授業である学生に「説教くさい」と書かれて興奮していたことについて)人にものを言われてカチンとくるというのは、その人がそのことを気にしているからなんだと思う。気にしていないことを人から言われてもあまりパッとしないし、それがとても第三者から見たらヒドイこと言われているとしても、本人は気にしないということは多くある。しかし、とても気にしていたり、相手に対してあまりいい思いを抱いていなかったりのどちらかが入ると、とても激しく怒る場合があると思う。  人と人というのはわかり合わなくてはならない。相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならないと思う。今日のmitochanにはそれがなかった状態だったから、私は(授業中のフリーディスカッションで)瞬間の幸福感の持続が人生なんだと言った。コロコロ変わる人間は一貫性がない。普段のなかから、哲学性のあるニュアンスの響きがあるほうが、ずっとすごいのにと思う。口調ややり方を変えるだけじゃなく、内容を変えられないからやり方を変えているように思った。素直な人間と人間のぶつかりって、本音で語ることが第一! mito たしかに「説教くさい」と評価されることは、ぼくが一番恐れていることだ。そうなりたくないと思って教師をやっているからだ。しかし、なぜ、それを学生から言われて動揺したらいけないのか。動揺して当然ではないか。あるいは、その動揺を口調ややり方に反映させてしまったからいけないのか。しかし、教師の口調のことなど、学生側は無視すればいいではないか。それこそ、授業内容が学習にとって有効だったかどうかこそを問えばよい。(もちろん、学生に対して「お前ら」とか「馬鹿野郎」とかの学生の人格を傷つける発言などがあれば糾弾されて当然だが、ぼくはそういうことは言わない)。  今回の授業内容に新しいものがあったかどうかはともかく、少なくともぼくはけっして「内容を変えられないからやり方を変えた」のではないことは明らかにしておきたい。「相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならない」というのは同感であり、興奮して共感的理解ができないでいるぼくの弱さを指摘したものとして謙虚に受けとめたい。しかし、興奮してしゃべっているぼくに対する「内容を変えられないからしゃべり方を変えたのだろう」という言葉は、「えっ、ぜんぜん違うよ」という感じであり、それこそ共感的理解をされないまま勝手に診断された感じで、とてもいやな言葉である。(しかし、ぼくが自分で「どんな批判でも受けて立つ」と言った以上、学生は何を書いてもよい。ぼくは受けて立たなければならない。受けて立った結果が、このぼくの文章である。)  ただ、教師自身の動揺(もちろん私生活のものでは論外だが)を口調ややり方に反映した(させてしまった)こと自体が不快に聞こえるというのなら、それはそうなのかもしれない。しかし、それはぼくの授業にとってはむしろ大切なことなのであり、ぼくの授業の個性だと思って受けとめてほしい。ぼくが言うこともコロコロ変わるかもしれないが、それに耐え勝ってほしい。profess というのは、公言する、(信仰を)告白するという意味なのである。学生はその「告白」から自分なりに学ぶ必要がある。ぼくの授業も、学生を気持ち良くさせるために行なっているのではない。そのときは教師も学生も苦しくていいから(つまらなければ困るが)、人間存在や幸福追求に関する真実に近づくために行なっているのだ。 mito 「人と人というのはわかり合わなくてはならない」というのは厳密に言うと間違いではないか。「わかり合うための有効な努力をしないまま不平を言ってはならない」というのが正しいのではないか。なぜなら、他者を完全に理解するというのは無理な話だし、また、「わかり合いたくない他者」がいる場合には、自分が不平さえ言わなければ、わかり合おうとする努力を放棄することがあってもかまわないからである(潔い撤退)。そして、その有効な努力とは、「相手の言うことの中に、実際に言葉にしていること以外に、本当は何が言いたいのかを引き出す」努力であると同時に、自分のほうは「自分が表現したいことを、きちんと言葉にして言う」努力なのである。教師にそういう努力の義務(社会的役割の遂行)があると同時に、学生にもその努力の仕方を学んで実践する「権利」(学習権)がある。権利だから放棄してもかまわないが、その場合はその学生は教師に抗議する権利も失う(潔い撤退)。全国的にも、学習者側から教育体制側に対して「学習権」が非主体的、体制依存的に叫ばれている実情が見られるが、本来の学習権とは、このように、厳しくさわやかなものであるべきだと思う。 1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女  mito的授業を批評せよということですが、私が出ている講義の中では、1〜2番のおもしろ味があると思います。(学生による授業評価のビデオの)アンケートにもありましたが、やっぱり会話が成り立つとか、自分なりに考える機会を持たせてくれる授業が刺激があって好きです。授業の内容はだいたい肯定的に受け取っています。理解するのが難しい(共感できないという意味で)ことでも、自分なりに歩み寄って、肯定できない自分は偏った視点にいるのかも、と柔軟性を持っていこうと努めています。  以前に、頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ、というようなことを言っていましたが、これはかなりショックでした。話しかける勇気がなくて、仕方なく頬杖ついているしかない自分は、自分でも情けない姿でコンプレックスでもあるのですが、それは辛いことです。学生の核に迫っていこうという講義の中で、断定的な言動、姿勢はやや矛盾を感じます。出席ペーパーへのコメントにしても、反論的な意見に対し、どれだけやりこめられるかという対応をしているような感じを受けます。学生の意見に対して、先生の考えが変わること、影響を受けることがもっとあっても良いのではないかと思います。 mito 「頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ」は、厳密に言うと「相手がわかってくれないからといって、頬杖ついてその不平を相手に表そうとするぐらいなら、その相手に言葉で表現せよ」という意味である。「自分が言葉なんかに出さなくても、相手には自分の気持ちをわかってもらいたい」と愚痴をこぼす学生が多いので、この言葉を考え出したのだ。しかし、この言葉には、「その場しのぎのウソ」もたしかに混じっている。ごめんなさい。  このように、「断定的なレトリック」には必ず多少のウソが混じっている。だが、そうでない意味でのレトリック(「○○であることはないことはない」「こうでもあり、また、こうでもない」など)では、何も言っていないのと同じだ。後者のレトリックも、答申作成の最終段階などでは妥協の産物として仕方なくやることがあるが(社会的役割遂行)、できればやりたくないこと(自己実現の面からは)である。一番望ましいのは、ショックを受けてしまった学生が自分自身を罰するのではなく、この知的水平空間(この言葉も重要ではあるがレトリックだ)においては、ぼくの「断定的なレトリック」に対して、それが通用しない事実を挙げてぼくのレトリックを破綻させることなのである。そこまでされれば、ぼくはそのレトリックを修正するであろう。そのことによってのみ、真実により近い(それでも到達はしない)レトリックへの発展がある。 1992.12. 9. T大U部社会教育概論、男  mito先生の授業については、タメになって、また、型破りなところが良いと思っているが、どーも後期になって「mitoちゃん」から「先生」になってきているように感じている。先生だけが原因ではなく、われわれ学生側の態度にも問題があるのかもしれませんけど・・・(ぼくも今日、寝てしまいましたが)。 mito ぼくは学生を(退屈させて?)寝させてしまったなら、教師であるぼくのほうが悪いと思っている。なぜならば、授業は発表ではなくて教育(=学習者側の主体性の獲得)だからである。もちろん、疲れて寝てしまうぶんには、大きないびきをかかない限り、学生にも教師にも問題はない。しかし、そうではなくて退屈ならば、どこが退屈かを言ってほしい(われながらかなり無理な注文だとは思うが、あえて要請している)。後期になって、ぼくの授業は前より高等教育のあり方に近づいてきたとぼく自身は自負している。ぼくには、今のところ、先生病(自分は学生より立場が上で尊敬されるべき存在であると思い込む病気)にかかっている自覚症状はないのである(これが一番怖いのかも)。このペーパーのような学生側からの訴えは、具体的にどこがそうなのかは指摘してもらえないことが多く、ぼくのほうだって真綿で首をしめられているような焦燥感を感じるのだ。 1992.12.16. T大T部社会教育計画、男  私は自分自身で授業料を払っているわけではない。したがって、私は間接的消費者であって、直接的消費者ではないのである。もし、自分で働いて、そのお金を授業料に当てているのであれば、それなりに授業に関して主体的になりうると思う。このことはその他多くの学生についても言えることである。だから、西村先生の「学生=消費者論」(教育の消費者としての主体者意識をもてということ)には致命的欠陥が内在していると考えられる。つまり、間接的消費者としての学生の位置づけがなされていないのである。 mito 本来は授業料を自分で払ってでも良い授業を受けたいのだが、自分には経済的能力がまだないから保護者等に支払いを(さわやかに)依存しているという意識を学生がもてれば、それは「間接的消費者」としての主体性と言えるだろう。 1992.12.16. T大U部社会教育概論、女  (まとめの授業で)今回のテーマは「何で生きてるの?」ということですが、私はもう、何で生きているのか、はっきり目的もわかっているし、自分が、今、何をすべきなのかもよくわかっている。そして、実践しています。私は毎日幸せだし、目的を持って毎日行動しているから、やりがいがあるし忙しいです。  先生は、今の若い人はヤル気もなく、倦怠感で充満していて、何で生きてるの? と聞かれたら心のポカッとあいた部分を突かれたようになるという(ことを前提としたような)聞き方をいつもしてきますよね。「今の若い人は学歴がないと社会では通用しないから勉強している。そのほうがあとが得だから」と先生は考えているから、かわいそうだ、何とかしてやりたいっていう気持ちが強すぎて、なんだか生徒をバカにしてる気がします。今日のテーマははっきり言って頭にきました。「おまえたち、ヤル気をなくして、毎日かわいそうだなあ。むなしいだろうなあ」って先生が思っているように私には感じて、ほんとうに失礼だと思います。でも、この内容は、先生がちょうど私たちぐらいの年齢のときに感じられたことだと思いますし、もしかしたら先生自身が今でもそういう気持ちがふっきれないのではと私は思いました。  しかし、先生のことは尊敬しています。ただ今日は、このテーマに腹を立てただけです。たくさんの学生はそうなのかもしれませんが、私は目的を持って毎日過ごしていて幸せです。 mito ぼくが自分のことはさておいて、「今の若い人はかわいそうだ」という言い方をしたのなら謝りたい。その言葉を言ったのだとしたら、それは、ぼく自身に「自信がない」ところがあって、そういう非主体的な言葉が出てしまったのだろう。ぼく自身の「自信がある」部分でこのペーパーの訴えに応答するならば、この学生の察するとおりである。すなわち、ぼく自身が、「ヤル気をなくしたり」「倦怠感を感じたり」「心のポカッとあいた部分を持っていたり」「学歴に引きずられたり」「空しさを感じたり」する気持ちを「ふっきれていない」のである。そこからぼくの問題意識も生じているのだ。  しかし、そういう消極的な気持ちを感じたことのない人とはどういう人間なのだろうか。ぼくは地球上にそんな人はいないと思う。現代社会において、一定の個人だけは「解放」されていて、その人たちは「自分の生きる目的」「自分のすべきこと」に疑問や不幸を感じることがなく、「楽しい忙しさ」しか感じていないとすれば、その人たちはほかの誰かを抑圧するなり傷つけるなりして生きているのではないかと思う。そんな人たちの人生は、小説の主人公にはなりようのない「個の深み」のないつまらない人生だ。このペーパーを書いた学生は、きっとそうではないのだと思う。自分や社会にマイナスの部分がないのではなく、そこで痛みを受け、しかし、それを受容した上で「目的を持った生活」をしているのだろう。だとすれば、そのマイナスの部分の存在をはっきりと認識したほうが、より積極的で深い人生が送れると思う。 1992.12.16. T大U部社会教育概論、男  (新聞報道の形式で)どうした美東士!! おまえの授業はどこへ行った! 前期の勢いなく、mitoさんらしさの喪失か!!   T大U部水曜1限の時間が変わろうとしている。それは「社会教育概論」のmitoちゃんこと西村美東士氏に対し、学生からの不満が多発するということから始まった。前期に突然に行なった「ジェスチャーゲーム」などの勢いのある「恥ずかしい思いはするが、他の人と無邪気に騒げた」授業がなくなり、後期からONE WAY 的、または講義的授業が多くなったのは事実である。ここで学生の声を聞いてみよう。「今までのmitoちゃんの授業というのは、私語をする気が起こらなかったけど、これじゃあぼくの職場の年輩の先生と同じだから聴く耳がなくなっちゃいますね」「後期になってから、重苦しく息苦しい授業になっちゃったよね。失望しちゃいました」。どうやら『mito氏肯定派』と『mito氏否定派』とでは、後者の派閥のほうが多くなってきている模様。「白紙のC評価」という形の犯行声明(?)などが出ていることにより事態が緊迫化しているのは事実である。  (一口コラム)mitoちゃん、最近の授業は本当に一方通行になってきております。「白紙C評価」については複雑だと思いますが、冬期休暇中、どうかもっと自分を磨いて、前期でやったような「飾り気のない授業」をしてください。期待してます。  最近、mitoちゃんの授業に出ていて思うのは、「カッコつけ授業」をしているような気がします。出会ったばかりの授業では、飾り気のないナチュラルな授業(授業を感じさせない授業)をしていたのに、後期になってからは「大学の授業」になってしまっております。どうぞ、もっと「ジェスチャーゲーム」のようなTWO WAY の授業をしてください。私の友人に「あの人は偽善者だ!!」と言い放たれてしまいました。がんばれmitoちゃん、もっと自分をさらけ出せ! この際、この時間に討論会みたいなものをしたほうがよいのでは?  (P.S.)もしかしたらVTRを見ている途中に、先生が(学生の私語を)注意してしまったことが原因になっているのかもしれませんよ!! mito ぼくは、あのとき、私語を「注意した」のではない。人間のあんな場面において明るく私語ができるという鈍感さや人間性の欠如に対して「怒りを表した」のだ。 mito 「白紙C評価」と「友だちが偽善者だと言っていた」については、同様の問題であり、もう述べたとおりである。しかし、なぜ、ぼくの抗弁よりも、そういう無責任な発言のほうに、この学生までもが引きずられてしまうのか。ピア・コンセプトの恐ろしさを認識してほしい。 mito 「討論会」が効果的にできるのならやりたい。しかし、今の状況では、教師側がかなり工夫してうまくやらないと、「普通の(非主体的な)討論会」になってしまう。このように考えているぼくを学生のほうが失礼だと思うのなら、そう思った学生が授業中に例の「ちょっと待った」をやればいいじゃないか。ただ、今のぼくは、「結果を恐れるな」と学生には言いながら、自分自身は「結果を恐れている」のも事実である。 mito 「ジェスチャーゲーム」は、それを行なう時にもぼくがはっきりと言ったように、講義形態のこの授業においては本来的なものではなく、人の目に恐怖し、他人はいないほうがよいという一部の学生の危機的な状況を感じたからこその「緊急手段」だったのである。強烈な体験学習であるからこそ効果的である反面、一部の学生をいっそう傷つけてしまうものになる。実際、「もう絶対やらないでくれ」とか「こういうことをやるんだったらあらかじめ言っておいてくれ。そうしたら、欠席するから」という切実な訴えがあったのである。  それならば、教師はどうすべきか。講義ではそれをきっぱりと諦めて、演習という条件(小人数)のときにやるべきなのである。演習なら、教師は、ワークをリタイアする人に対する他の学習者の非難がましい目(ピア・コンセプト)から、その人を少しは守ることができるかもしれないからである。実際、ぼくは演習形式の授業では、もっと「つらい」(=楽しい)授業を行なっている。それに対して、講義に向かうぼくの姿勢は「講義方式からの逃避」ではなく、「講義方式に対する敗北主義の克服」である。『生涯学習か・く・ろ・ん』を読んで理解してほしい。 mito 最近は以前より「カッコつけ授業」になっているという批判については、ぼくは弁解できない。そうかもしれないが、それはなぜだろう。どこが「カッコつけ」なのだろう。わからない。学生が「飾り気のない授業」や「ナチュラルな授業」を求める気持ちはとてもよくわかるだけに(ぼくも学習者だったら指導者にそれを求めるから)、これからのぼくの課題として重く受けとめていきたい。そのことに関する具体的な問題点や克服のノウハウについて気づくことがあったら、ぜひ情報提供してもらいたい。指導者にとっては気づきずらいことなのである。 1992.12.16. T大U部社会教育計画、男  (「私の好きなこと」を全員がしゃべる授業で)今日の授業は美東士先生の授業らしくなかったような気がする。自己革命(?−mito)をめざす美東士先生は、学生には自発能動で授業に参加してもらうはずなのに、今日はやらされているような気がした。それがなぜだか自分でもわからない。昨年の美東士先生は、もっと楽しそうに授業をしていたように思える。自分らしさを取り戻してください。 mito 「カッコつけ授業」とは、このことかもしれない。つまり、教師自身が楽しんでいないということだ。ぼくの言いたいことが通じなければ通じなくてもいい、という自然な気持ちが欠けてきたのかもしれない。 1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男  先生は、最初の講義のとき、「ペーパーにはどんなことを書いてもかまわない」と言った。だから、私は、自分がその時々に書きたいことを書いた。授業批判とか授業のテーマに沿った内容のものは、ほとんど書いていない。「お前の気持ちのマスターベーションにすぎないじゃないか」と言われてしまえばそれまでだが。で、先生にお尋ねしたいのは、ペーパーを読むにあたって、その選考の基準、今回のまとめに載せるか否かの基準は、何を基準にして選んでいるのだろうか。結局のところ、mito批評、授業の内容にまつわるものの是非、この2点に基準が絞られている気がする。  人は人の考え、人の言葉、人の行動を見て、ひとつずつ、心の年輪を増やし、自分の根を張る、自分の葉を鮮やかにする、自分の存在と意志を主張していけるようになるのではないかと私は考える。生涯学習なんて大それた言葉を使うから、その言葉自身が偉そうに聞こえる気がする。人の話を聞くことは、人が生きていく中での学習と呼べないのだろうか。授業も大事だが、もっと一期一会を大事にし、ありとあらゆる人の言葉を聞ける、言える授業を期待していただけに、結局のところ自己中心的かつ画一的な授業になっていることに憤りを覚える。  追記 この授業批判めいたペーパーをまた読んで弁解したら、先生の負けだ。 mito 負けたかどうかは本人が自分で決めることだ。知的水平空間において、他人の勝ち負けを最終的に判断してやる権利や能力を持っている人など、どこにもいない。自分が自分の負けを認めたときに、自分の考え方を変えればよいのだ。「弁解したらおまえの負け」というのは、ぼくにはルール違反のレトリックのように感じられる。 mito この文中において、「マスターベーション」は、むしろmito的授業にむけられた言葉であろう。ぼく自身、多少はそう認めるところもある。しかし、「マスターベーション」がそんなにいけないことなのか。先入観を捨てて考えてみてほしい。 mito 「マスターベーション」というと言い過ぎになるかもしれないが、「自己中心的授業」以外に、教師は学生に対して、あるいは、あなたは学習者に対して、どんなよい授業や学習援助ができるというのだろうか。もちろん、改善できる点はあるかもしれない(もっと学習者自身の学習要求の水準に合わせるとかして)。しかし、それはテクニックの問題であって、本質的な問題ではない。学生のほうも自己中心的(自分の学習関心を大切にし、「自分はこの授業をそのためにどう役立たせるか」に学習の目標を集中する、そのためには学習する側の権利も主張する)になればいいではないか。「自分のために生きる」とは、そういうことである。  ただ、結局のところ、この学生に対しては効果的な学習援助にならなかったのならば、ぼくだけは授業で「自己実現」を味わっていたとしても、ぼくの教師として与えられた「社会的役割」は少なくともこの学生に対しては果たせなかったことになる(そうか、そういう意味で「弁解したら負け」と書いたのかもしれない)。「社会的役割の遂行」がうまくいかないということは、ぼく自身の「自己実現」の阻害要因でもある。そこで、この学生の枠組を変えるための契機には本当にならなかったのかどうか、ぜひ、この学生に聞きたいところである(もちろん、快、不快の快感原則からではなく)。まあ、ならなかったのかもしれない。しかし、ぼくはできるだけの努力をすればよいのであって、学生のほうはそれを待つのではなく、ぼくに逆提案を携えて要求すべきことなのである。それでもぼくが「聴く耳」を持っていなかったら、それこそ「学習権」を行使して、大学当局にぼくの罷免を要求すべきだろう(ちなみに、ぼくがその罷免に抵抗するかどうかは、ぼくが決めることだ)。 mito ぼくは出席ペーパーのことに関しては、ウソをついていないと思う。「学生は書きたいことを書く。教員に読ませたくないものは書かない。教員は読み上げたいものを読み上げる」という原則どおりである。それ以上の基準は設けていない。なぜ「採用基準」を明らかにしないかというと、そういう基準を設ける必要性を感じていないし、そもそも、授業は、その時その時に過ぎ去っていくものだからである。しかも、学生にとっても「比べられるためのものや選抜されるための文章作成」ではなく「自己管理としての文章作成」であるから、「公開」(「mitoがいやでも公開せよ」という意味)「非公開」「コメント希望」などのマークをつけることができる。ぼくはそのマークには忠実に対応してきたつもりだ。このような出席ペーパーのルールなどの大切な「学習情報」はきちんと把握しておいたほうがよい。ぼくはこのルールについては授業中、何回も説明しているはずだ。 mito 生涯学習という言葉を大それた言葉だと感じて反発し、人の話を聞くことなどの普段の「学習」こそ大切と考えるこの人の謙虚さには、ぼくは深みを感じる。ぼくは言葉をけっこう「便利に」使ってしまうクセがあるからである。たとえば、ぼくが「私は○○に関する学習を続けていきたい」と言ったとしても、ほかの人はその言葉はきっとウソではないと思うだろうが、他人に向かって「人間には生涯学習が必要です。みなさん、生涯学習しましょう」と言ったとしたら、ほかの人は「何でだろう、どうしてこの人は他人に生涯学習を呼びかけるのだろう。そのウラには何があるのだろう」と思ってしまうだろう。  しかし、ぼく自身はどんなペーパーでも翌週までには3回、繰り返して読んで、「一期一会」を味わっている。どんなペーパーでも、それなりの「普段の学習」はできるのだ。そこには深いものもたくさんある。もちろん、時間の関係もあって、授業をそういう「普段の学習」ばかりにするわけにはいかないから、ぼくのフィルターを通して集約して紹介している。(このように「弁解」することは、はたして「負け」になるのだろうか。) mito 「ありとあらゆる人の言葉を聞ける」という期待を裏切った点については、そういうわけなのだが(ちょっと逃げてる?)、「何でも言える授業」という期待についてはぼくは裏切っただろうか。少なくとも言葉のうえでは、つねに学生の発言を歓迎してきた。パフォーマンス・タイム、「ちょっと待った」方式、授業中の発問、そして出席ペーパー・・・。この学生がそれに応じなかっただけだ。教師が言葉で保証しただけではまだ足りないのか。「自分の発言が正しいこととして認められる」という確証が感じられないと、つまり教師がもっと「譲歩」して受容的雰囲気まで醸し出さないとしゃべれないということではないのか(まあ、それは人間としては当然の心理かもしれないが)。けれども、教師側が「何を言ってもいい」と言っているのに自分が言わないのは、「言わない自分にも問題がある」と考えることも必要だと思う。そのように自分をも「謙虚に」見つめるということが、この学生の言う「一期一会を大切にする」という言葉の持つ「謙虚な」意味合いであろう。馴れ合ってしまったうえでの「一期一会」なんておもしろくない。 mito 画一化については、ぼくもつねにその危機を感じながら授業を行なっている。今後、工夫していきたい。また、学生からの提案もつねに待ち続けたい。 1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男  この授業も残りわずかになって久々に出席した。この1年を振り返ってみると、初めの頃の「自主性をもつ」とか「自分を見つめ直す」という授業スタイルに、自分は「フムフム、こういう授業もあるのだなあ」などと意気込んでいたのだけれど、後期にはまったくと言っていいほど出席しなくなった。何か疲れるのです(これは身体的に疲れるというのではなく、授業スタイルに疲れるのです)。だって、この授業は「社会教育概論」でしょ。社会教育って何ぞやと思って「社会教育」を勉強したい人だっていることをお忘れでは。そもそも自主性とか、恥ずかしさをさらけ出すことを学ぼうみたいなものは、その人自身の日々の生活の中で学ぶものであり、体験することだと最近思っている。何も大学の授業で学ぶことではないのでは?とも思い始めた。だから授業に出なくなったのか。そもそも、私自身の気持ちの問題か。  はっきり言って、mito先生の授業は、社会教育概論であれ、社会教育計画であれ、心理学であれ、文学だって、経済学だって、課目名は何だっていいような気がしてなりません。水曜1限西村美東士だって通用するでしょう。私は保守的な面があるのかもしれないが、社会教育概論の授業というものもしてほしかった。  出席もしないで、ペーパーでの指摘もしないで、最後の最後にこんなことを言うのも卑怯な気もしますが。 mito ぼくの研究テーマは自主性の促進ではない。人間の生きる主体性の獲得への援助としての社会教育のあり方だ。「うちの子どもは自主的に学習するようになった」などと言う教育ママの言葉とは無縁なのである。それから、「恥ずかしさをさらけ出せ」などという言葉も言ってない。むしろ、「恥ずかしさをさらけ出させることが心を開かせることである」という指導者側の傲慢な思い込みに忠告を発し続けてきたはずである。その上で、「一人で恥ずかしいと思い込んでいることでも、本当は恥ずかしくないことが多い」「隠したいことは隠していても、心を開いた交流はできる」ということを学習したり体得したりしてきてもらっているのだ。 mito たしかに社会教育概論と社会教育計画を明確に分けて授業をすることはしてこなかった。それは、それぞれの授業が深い意味をもっていればそれでいいと思っているからだ。ただし、この点について、たとえば「社会教育計画の○○について授業をやってほしい」という学生の要請があれば、次の週にでも対応していただろう。そのことについてぼくからの呼びかけはしたが、学生側からの応答や合意形成がなかっただけの話である。 mito この授業が「社会教育概論」ではないという話だが、社会教育の世界でもっとも求められているとぼくが考える基礎的教養に絞って話を進めてきたつもりだ。だから、この学生が「社会教育とは何だろう」という関心をもっているなら、興味深かったはずだ。また、そういう関心を掘り起こすような授業にするための工夫をしてきた。さらに、「ひとくちミニ知識」の形で基本的概念の説明も簡単だが行なってきた。そこで学生の関心が触発されればそれで十分だと思っている。ぼく以外のもっと優秀な研究者がどのような学説を打ち出しているかを知りたいのなら、活字メディアから学ぶのが一番であるし、そのための参考文献の紹介だってしてきたのだ。もしこれ以上、この授業を「概論的」(?)にしたならば、高等教育としてのmito的授業の生命は失われてしまうと思う。 mito 「社会教育概論」と「社会教育計画」の違いについては、先に述べたとおりなのだが(ちょっと逃げてる?)、mito的授業が「心理学」「文学」「経済学」などの課目名だってつけられるという指摘は、ぼくにとってはむしろ批判ではなく、過分(実際にはそこまですごくはないと思っているから)な誉め言葉としてとらえられる。ここでやっているのは、選抜試験対策講座などではなく高等教育なのである。高等教育が今日の研究の最高の到達段階を究めようとすれば、学際的になるのは当然である。「水曜1限西村美東士」というのも、過分である。今日の学問は「一人一学説」の個別化の時代にある。「西村美東士説」でぼくのすべての授業時間を貫徹できれば、それも高等教育の理想である。だからそれを目指してはいるが、ぼくが能力以上の無理をして結果としてはヤブヘビになることがぼくには怖いのだ。  もっと本質的に論ずれば、「mito的授業がほかの課目名をつけても通用してしまう」ということを学生がマイナスに感じることのほうが、ぼくには深刻な問題だと思われる。この学生はそういう自分を「保守的な面があるのかもしれない」と言っているが、保守的であってもそうでなくてもどちらでもかまわないと思う。それよりも、問題は、「ほかの課目名をつけても通用してしまう」ことについて、この学生の主体的な選択行為として(従来の課目の概念を変えないこと、つまり保守的なほうにメリットを感じて)マイナスと判断したのかどうかである。もしかすると、この学生は、今まで社会やそこで行なわれてきた教育によって与えられた枠組に、自分は納得できないままに従ってしまって、その枠組を適用してぼくの授業に対してマイナスの判断をしているだけなのではないか。  じつは、ぼくはほかの学生に対してもひとつの不満を持っている。それは「講義要項に書いてあることと、授業でやっていることが違う」という学生からのクレームが一回もつかなかったことである。講義要項は教師が学生に対して教育内容を約束する「契約書」である。それを読んで学生は、「これなら受けてみたい」と判断するのが高等教育のあり方であろう。ぼくは講義要項での文章表現にかなりの苦心をしているが、それでも1年間の授業の内実を示すのは難しい。あとで講義要項を読み返してみるとヒヤヒヤする。(だから、本当は、クレームがつかなくて助かったという気持ちもある。)  しかし、本来は、講義要項はつぎのように使われなければならないだろう。講義要項を読んで期待をもった学生が、現実の授業とのギャップに異議を申し立てる。それを受けて、教師は弁明したり、授業を軌道修正したりする。そういう相互作用があって、初めて、授業内容が「今、ここで」をもとにして講義要項から離れて流動的に展開されることが許されるのではないか。学生が授業内容に不満があれば、「先生はそんなことをおっしゃるけれども、講義要項にはこのように書いてあるじゃないですか」と教師に言えるのだから、講義要項は学生にとってはもっとも大切な授業評価の道具であるといえる。教師と学生とのあいだの社会的に位置づけされた「契約書」である。それを武器に授業を批評すればよいのだ。「保守的な面があるのかもしれない」などという「反省」(恥ずかしさ?)を「さらけ出す」必要は、(批判や要請のための戦略としては)このペーパーにおいてはなかったのだと思う。 mito 「主体性の獲得」「自分や他者に対する不合理な思い込みの克服」などのあり方を考えるためは、もちろん、この学生の言うように「その人自身の日々の生活の中で学び、体験したこと」が重要な基盤になる。しかし、それはレディネスの問題であり、その基盤の上で、それらの人間の内面的な営みや、その援助のための理論構築が学問には求められる。つまり、「大学の授業以外でも学ぶこと」であり、「大学の授業でも学ぶこと」なのである。  これらのことは言葉としては、授業中、かなり言ってきたつもりだ。しかし、この授業にもっと実質的な双方向性さえ保証されていれば、この学生のような疑問や反発は、教師と学生の意見交換によって即時に具体的な解決に向かっていたはずである。双方向の授業を形式だけでなく内実を伴って創り出すということは、教師にとってだけでなく、学生にとってもなかなか難しいことなのだと痛感する。ぼくは自分が教師として堂々回りに陥っているような無力感さえ感じるのだ。これは、「ぼくは主体性を獲得することができるのか、できないのか」という問題とともに、「ぼくは他人(学生)の主体性の獲得を援助することができるのか、できないのか」という教育学のアポリアでもある。できるともいえるし、できないともいえるのだろう。 1993. 1.16. S大教育社会学、女  (指導者は、まず、おこがましさを感ずべきという)今日の話はつまんない。言ってもわかんない人にはわかんないよ。よっぽど何か失敗しないと。おこがましいって人から思われたくないからおこがましくならないように気をつけるのって、みんなやりがちだけど、それって一番高ビー。本当におこがましくない人は、何かあって改心した人か、生まれつきか、だと思う。  先生ってある意味でさらしものだと思う。短大の時も、今年度も、美東士先生の授業をとったけど、2年間、先生の本性は授業中には見れなかったような気がする。たしかに他の先生とはタイプが違うというか、意識的に違えているけど、なんかそれ以上の魅力は全然感じなくなった。他のときはどうかわかんないけど、いつも予防線を感じてしまいます。 mito この学生の出席は、今年度は、なんと3回である。それで、「つきあった」といえるのだろうか。真実の追求に対する態度がゆるんでいるのではないか。 mito 教師は授業中、本性をさらけだすべきか、そうでないか、難しい問題だと思う。この学生の発言にも重いものを感じる。ただ、「全然」を丸で囲んで強調しているのだが、それがかえって説得力を弱めている。そして、学生が教師に本性をさらけだすよう求めることは、その学生にとって主体的なことなのかについては、やはりぼくには疑問である。 1993. 1.20. T大T部社会教育計画、男  (mitoが「どんな批判でもしてください」と言ったことについてか)mitoはリベラリストのおつもりですか? それとも独善者(注・ママ)? 御自身が御自身を、あるいはその講義を、どう性格づけ、または、(我々に対して)位置づけておられるかはわからないけど、私には空虚だった。今日も空虚だ。空虚からの返答を私は期待していない。得たところで、残るのは、ただ空虚のみだろう。そして、そのことを語る私の、私の言葉の、何と空虚なことよ! とは言いながら、何かを得たものと信じてみよう。そして、その「何か」が永遠に謎だとしたら、これは意外にも素晴らしい空虚かもしれない。ああ、何と無意味なつまらぬことを言っているのだろう。 mito この学生は、全部で27回の授業のうち、5回しか出席していないのだが、なんでここまで言い切れるのだろう。もしかすると、この学生は、自らが空虚に耐えようとせずに、「空虚でないもの」を受動的に求めているのではないか。 1992. 1.20. T大U部社会教育計画、女  (社会教育のコンセプトとしての)自主的に学習するということは、それなりのトレーニングが必要ですよね。今の大学生はあまりにもそれができていなさすぎる。ルールの説明だけでこの方法をとると、結局は、「できないやつはドロップアウトしろ」と言っているように思います。3回来ればいいわけだから、頭っからそれしか考えないと思う。それでいいですか? 私は能力が少ないからそういうやりかたにはとても淋しくなります。もっとおせっかいになってもいいと思いました。2年間、ありがとうございました。 1993. 4.24. S短大教育社会学、女  先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読んでほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな? mito そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということが問題である。実際、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分が自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。そのように潔くできるのならば、「匿名といえどもみんなの前で公開しないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。 1993. 5.12. T大T部社会教育計画、女  先生の授業は学生の興味を引く話もあって確かにおもしろい授業という気もするのですが、満足できません。何か雑談で授業が終わってしまうという感じがします。まだ3回しか授業が行なわれていないので、これから授業がどう進んでいくのか、はっきりつかめないせいもあるかもしれませんが。ある程度の知識は先生が学生に教えるという形で示した後で、はじめて学生が受身にならずに積極的に授業に参加する形の授業が成り立つのだと思います。これまでの先生の授業の方法だと、予備知識のまったくない私は、先生のおしゃべりに笑ったり、反感を持ったりと、その時はいろいろと考えて楽しいのですが、授業か終わると、何を学習したのかさっぱりわからないという状態なのです。とりあえず、これからの授業に期待して、評価はBにしました。 mito 高等教育のあり方を本質的に考えてほしい。教科書は書き言葉メディアであり、授業は話し言葉メディアである。話し言葉メディアには、体系的な知識の再構築よりも、それぞれの学習者が現在持っている枠組の揺り動かしの役割のほうが期待されるのではないか。  もちろん、授業の中で、学生をおもしろがらせたり、満足させたりすることも、どちらも成功すれば、それにこしたことはないが、それよりも授業の中で大切なことは、「毒か薬か」のどちらかになる強烈な言葉をぼくが発し続けることだと思う。その点では、「毒にも薬にもならない」という意味での「雑談」をぼくが一言でも発しただろうか?(もちろん、学食やロビーなどではなく、講義中に、である)。ぼく自身は気づかないまま「雑談」をしている場合もあるかもしれないから、それをこそ指摘してほしい。  また、このペーパーのように学習成果を確認しようとするまじめな人のためには、その回ごとの教育目標を提示するなど、手の内をさらしているのだから、それを最大限に活用して批判するなどの能動的な学習態度が、学習者側の方にこそ、求められているのではないか。学習者が受け身で構えていては、高等教育は成立しない。 1993. 6.16. T大T部社会教育計画、男  ぼくは、今日、この授業に出るつもりはなかった。今もない。諸事情により来てしまったのだ。だからこれから出ていく。ぼくは、今、自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくないのです。  ところで、この出席ペーパーは、ある意味でぼくらを試すものでもあるのだろう。それはたとえば、この講義の内容とか、mitoさんの発言についてとかに、ぼくらがどう思ったのかということを知るために、という意味でだ。  けれども同時に、これらの出席ペーパーを読んでコメントされるmitoさんは、ぼくらによって試されている。いや、こういう言い方は良くないな。むしろ、mitoさんはそこに自らを置いている(出席ペーパーにコメントをつけている)のだから。  ともあれ、ぼくは教室を出ます。 mito 「自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくない」という言葉は、基本的には潔い選択を表していると思う。ただ、「この講義のために」という言葉は、「もっといい講義ならよかったのに」とmitoのせいにする思考方法をやや感じさせるものでもある。実際にはどうなのかわからないが、もしこの授業に未練があるという理由で潔く撤退できないのだとしたら、撤退する前にもっと「自分の(学習する自由の行使の)ために」ぼくの講義を批判すべきである。  出席ペーパーについては、ぼくが繰り返し言明しているように、比べたり、序列化したりするためのものではない。学生は書きたいことを書き、ぼくは読み上げたいことを読み上げ、コメントしたいようにコメントするものであり、ぼくがそこに「身を置いている」のは、ぼく自身が学生からの社会的承認を得たいからにすぎない。その目的は、たがいが自己や他者の存在を知るということである。そういう意味では、この学生が書いた「試す」という言葉が、人間の基本的信頼関係に基づく肯定的なことがらではなく、「比べられる」と同義のマイナスの言葉のように感じられる点が気になる。 1993. 6.16. T大U部社会教育概論、女  (自己受容には1%のレイプの気持ちも含まれるというmitoの発言に対して)1%レイプしたい人は、どのようなsexをするのか。どのようなsexを相手、恋人、セックスフレンドに求めるのか。考えるとこわい。  誰をレイプするの。誰がレイプされるの。人殺しだ。暴力しか存在しない。形成された人格が無視された体面。いわゆる出会い。10の段階をふんだ人間と10の段階をふんだ人間が出会って、ひとつも知らない0と0の状態で暴力を介して対面する。  1%レイプしたいのが人間の本能なら、私は1%だけ、そんな人間は亡びてしまえと思う。ここでいう人間は、自分を含んだ人類のことだ。これは極端な考え方だとはわかっている。みとさんのいう敗北主義でしょうか。 mito 敗北主義は、男の1%のレイプの心を受容しようとしたぼくのほうだろう。その存在そのものは否定できないけれど、自己受容してはいけないものがやはりあるのだろう。ぼくは、それを男のレイプ願望を含めて、人間一般の「差別する心」として集約できると考えた。 1993. 7. 5. S大社会教育計画、男  先生は自分の講義で人を変えてやろうと思いすぎなのではないでしょうか。人を変えようとするのは大変なことだと思います。変えるとかよくするとかというよりは、自分の考え方や思いの中で同感する部分、自分と同じ考えをしているなどの共通するところを一つでも多く探すことができればいいのではないでしょうか? 人はそれぞれいろいろな考え方をしていると思います。違う部分というのは仕方がないことで、社会のモラルに反しない限りはあまり触れずに、共通する部分を、同感する部分を、講義で探せればそれでいいと思います。「私はこう思う」と、他の人に意見を言ってもらってもいいと思いますが、人間の本質はそう変わらないのではないでしょうか。 mito ぼくは他人を変えたいなどとは言っていない(自分の期待に沿って相手を変えたいと願ってしまう弱さは、たしかにぼくにもあるけれど)。自分が自分の枠組を自ら変えたいと思って変えることが本当の学習であり、その学習の援助が教育であり、その両者とも可能なのではないかと言っているだけなのである。「人を変えてやる」ことと「人が変わろうとするのを援助する」こととの間には、それほど大きな隔たりがある。あるいは本質的にはまったく逆のものといってもよい。  それよりも、あなた自身が「変わりたくない」と思っていることのほうが、あなたの学習や主体性の実現にとっての重要な問題なのではないか。「変わる」ということは、「自分の考え方や思いの中で同感する部分」や「自分と同じ考えをしているなどの共通するところ」を見つけるなどの些末なことだけでは実現できない。自分の枠組とは当然ながら異なる他者の枠組に逃げずに出会うこと、そしてそれを同感としてではなく、共感的に理解しようとすることが必要なのである。その場合、異なる枠組は「仕方がないこと」というマイナスのものではなく、「異なるからおもしろい」という意味で、あなたにとってもプラスのものである。それは、言いかえれば、他者の存在は邪魔なことなのではなく、素敵なことだと実感することでもある。そこから共感的理解に必要不可欠な自信と他信(自己と他者への基本的信頼)が生まれる。「ともに育つ」ことの本質は、そこにある。  知的水平空間においては、自らの意志を曲げてまで、実体のあいまいな「社会のモラル」というプレッシャーに順応して同質化や同一化をする必要はない。むしろ、たがいが異質だからこそ、その異質の交流によって、それぞれが変わり続けること、成長し続けることができるのである。これは、ネットワーク型社会における「異質の交流」あるいは「異文化理解」の考え方にもつながるものだと思う。