狛プーはどうしてネオ・トラなのか 狛プー年間講師(昭和音楽大学短期大学部助教授)                  西村美東士 1 ネオ(新しい)でトラ(伝統的)な狛プー  先日、「二一世紀の青年事業を探る」という研究会が開かれた。それは、東京都青年の家の主催で、都内の青年事業担当者が集まって一泊二日で話し合いなどを行なうというものであった。わが「狛江ヤングプータロー教室」も、「ネオ・トラ部門」として事例発表を行なった。青年事業担当者のあいだでも、狛プーが注目されているのである。  事例発表を任されたぼくは、最初、恥ずかしながらネオ・トラという意味がわからなかった。研究会の担当の人に聞いてみると、新しいトラディッショナル(伝統的)という意味だそうである。ぼくはそれを聞いて、最初は「フーン」ぐらいにしか思っていなかったが、事例発表の準備を進めるにつれて、「そうか、狛プーは、ネオ・トラなんだ」と、妙に納得してしまった。ここでは、そのことについて説明してみたい。  ちなみに、当日の研究会には何人かの狛プーメンバーが参加してくれて、「ネオ・トラ部門」として与えられた発表時間のなかで、青年事業担当者の前で飛び入りで直接話しをしてくれた。それが、また、過去に体験したマルチ商法のなかの切ない仲間関係と、いま体験している狛プーの仲間関係との鮮やかな対照などが、彼ら自身の言葉で語られたものだから、聴く人たちの関心を呼び、研究会はますます盛り上がっていった。 2 アイデアばらばらなごった煮の年間計画  とりあえずは、この二年間の月別計画を見てみよう。 一九九二年度(初年度)  七月 おもしろいやつらがそろったぞ  八月 自然キャンプの計画・準備  九月 テニスへたどうし大会 一〇月 われら紙芝居軍団 一一月 在日外国人と鎌倉ツアーなど 一二月 ジャージで踊るジャズダンス教室(みんなノリノリXマスパーティー)  一月 新年会+温泉と自然を楽しむ会  二月 そっと教えます手品のタネ  三月 毎週連続お別れパーティー 一九九三年度(本年度)  六月 おもしろいやつらがそろったぞ  七月 青春の食卓(講師のいない料理教室)  八月 キャンプだほい!(自然キャンプの計画・準備)  九月 チャレンジ!ゲートボール(毎週土曜日午後) 一〇月 大道芸人養成講座 一一月 市民祭りの参加と茶道A・B・C 一二月 みんなノリノリXマスパーティー(盆踊り・ディスコ等)  一月 新年会+温泉と自然を楽しむ会+伝承遊び  二月 パフォーマンス練習だぁー(「公民館のつどい」で発表)  三月 毎週連続お別れパーティー  このアイデアばらばらのごった煮ぶりはなんということだろうか。しかし、これがまずトラディッショナルだとぼくには思えるのである。そもそも、社会教育の世界には、なんでもかんでも詰め込んでしまうごった煮のよさがあったのではないか。もちろん、ぼくは、演劇なり、英会話なりを、固定メンバーで、年間を通した系統的なカリキュラム(少なくとも依頼された講師の頭のなかには、それが存在すると思われる)によって深めたり高めたりしていく今日の社会教育、青年教育の傾向を否定しようとするものではないが、戦後、住民が公民館に集まってなんでもかんでもやってしまっていた頃の、いわば「B級グルメの面白さ」も捨てたものではないと思うのだ。 3 いかにもトラ(伝統)的な狛プー  もうひとつの社会教育の大きな伝統的特徴として、メンバーのあいだの相互関係や相互作用を重視し、尊重するということがあげられる。この伝統は、いまでも、全国のどこの社会教育現場においても大切にされていると思う。狛プーでも同様に、メンバー間の仲間関係が大切にされ、育まれてきた。その証拠に、この記録集にもあるように、おびただしい数の「番外編狛プー」が日毎夜毎に勝手に行われている。  ただ、狛プーでは、そういう仲間関係を、「自分らしさを見つけたい、発揮したい」という現代青年の願望と表裏一体のかたちで展開している。だれだって、自分にもっとも関係が深い人は自分であり、だから、自分がもっとも関心をもっているのは、自分や自分の生き方なのではないかと思うのだ。  しかし、そういう個人が自分に気づき、自分らしさを見つけるためには、「癒しの場」として「安心して開きたい心を開いて交流できるサンマ(時間・空間・仲間)」が必要になる。狛プーのメンバーは、これをみずから創り出してきたのである。ぼくは、彼らの行動を人間の意識的、主体的な営みとして評価している。なぜなら、サンマを求めてコミュニケーションしようとしても、もしかしたらそれによってかえって自分が傷つけられたり相手を傷つけたりしてしまうかもしれない。そういう内なる恐怖と闘いながら、そして相手から断られるかもしれない、裏切られるかもしれないというリスクを背負いながら、あえて行われてきた行為だからである。また、たとえば、サンマ創出のためには、「一人でだらしなくしてるときの自分もだいじなんだ」というように、いまの自分を認めてあげることによって、仲間関係から自分を守ることが大切なときもある。自分の思いどおりになってくれない相手の存在を認める潔さも要請される。だから、おたがいを認めあわなければならないということなど人間として当然のこととはいえ、あるいは、社会教育としてはあたりまえのトラ(伝統)とはいえ、それを実際に行動に移し、サンマを創り出してきた狛プーのメンバーは、なかなかたいしたものだと思うのだ。  たとえば紙芝居をやったとき、もちろん、じょうずな人とそうでない人とがいた。でも、うまい具合いに、どんな人でも一人ひとりの持ち味がなぜかしみじみと伝わってくるのである。そのとき、中央公民館の一室には、それぞれの人が、おたがいの持ち味を認めあう受容的な雰囲気があふれていた。仲間は大切である。しかし、仲間を大切にするということは、自分が仲間と同一化することではない。むしろ、みずからの「自分らしさ」と相手の「自分らしさ」の違いを喜んで味わうことなのだといえよう。 4 狛プーのネオ(新しさ)は、どこにある?  それにしても、社会教育の関係者からいろいろなところで「ところで、狛プーのどこが斬新なんですか」とあらためて聞かれると、ぼくもわからなくなる。べつに狛プーのどこが特別ということはないのではないか、どこの公民館でもこんなことはやっているのではないかという気もする。  しかし、その質問にあえて答えるとすると、それは「恐れを知らないいい加減さ」ではないかと思う。普通の青年教育であれば、「健全青少年育成」ということで、人間のもっている毒々しい部分はなるべく切り捨てて「善なるもの」をめざしたり、あるいは「善でない自己」への反省を促すことが多いのかもしれない。ところが、事実は、人間には毒があるのだ。また、ホンモノにも毒がある。たとえば、教育紙芝居でない過去の本当の紙芝居にはかなりの毒がある。狛プーは、面白そうならばなんでもやってみるという「恐れを知らないいい加減さ」をもっている。おとなのほうで薬になる部分だけ精選して提供するなどというおせっかいなことはしない。その毒を受け入れるか、薬を受け入れるかは、各自が決めればいいことなのだ。  また、それと関連して、「プータローの自由の精神」があげられるかもしれない。狛プーのプーは、プータローのプーである。プータローは、現代社会のヒエラルキー(階層制度)によって自分の個性や自分らしさが奪われることに抵抗している姿であるととらえられる。プータローではない私たちにとって、学校や職業を放棄してしまうことなどできないけれど、みずからの内面まで、そのヒエラルキーに従属するのはいやなものである。それに気づいてしまった「いい子ちゃん」が、今までのいい子の自分をけとばす場、いい子でいるのをやめてひかれたレールから降りる場が狛プーなのだともいえよう。  「いい子ちゃん」は、目上の人や権威あるものの支配を自己の内面にまで受け入れ、自由を売り払うという見返りに、じつは、それによって自分の存在を認められたい、愛されたい、手厚く保護されるのが当然だという依存的な期待を秘めていることが多いのではないか。そういう期待は、当然、現実の他者や社会から裏切られることになる。赤ん坊のときのなんでもしてもらえる「楽園」から、能動的に働きかけないとどうにもならない「社会」へと放り出されるのである。このように楽園から追放された青年は、どうしても他者や社会の秩序に対して不安をもったり、被害者意識をもったりして生きていくことになってしまうだろう。そういうとき、「自分はゴタクを並べていただけなんだ」と気づき、「いい子」でいようとする自分と決別して、社会のなかで自分で自分の人生を決めて生きていく自由を行使できる力を取り戻すことが必要になる。そのためには、おとなが「善なるもの」だけを与えてますます「いい子」にしようとしていたのでは援助にならない。ホンモノの毒のある人間と社会のなかで自分の判断で飛び回る自由を与えなければならない。そういう場のひとつが狛プーなのである。 5 これからのネットワーク社会を担う人間の育ち方  狛プーの自由とは、たとえば参入と撤退の自由である。狛プーでは、毎月、毎回、新規募集を繰り返しているし、「一年に一回来るだけの人もメンバーだ!」ということで撤退の自由も保障している。また、何かやりたいことがあるのなら言い出しっぺになればいい。その言い出しっぺがそれをやればいいのだ。しかも、言い出しっぺをやる人はころころ変わる。これを称して「流動的リーダーシップ」と呼ぶことができる。それもネットワークの特徴のひとつだ。  市民の感覚のなかには、行政の行う事業に参加してやっているのだから楽しませろ、自分の言うことを聞け、協力してあげてるのだから特別扱いせよ、見返りをよこせという行政依存的な側面もあると思う。市民のそういう腐敗構造を突き崩して、人間が主体的に水平に対面するネットワーク型社会を創出するために狛プーも一役買っているといえよう。  つぎに、その「狛プーの自由」を実現するために年間講師としてのぼくはどんな役割を果たしているのかということが問題になる。さきほど述べたように新規参入がたびたび起こりうるので、狛プーには「あらためて自己紹介」という機会が多い。ぼくはそのたびに、「年間講師のmitoちゃんです。どこが講師なんだかわかりませんが」とやや卑屈になって自己紹介しているし、また、そのたびにメンバーたちから「そうだ、そうだ」といわんばかりに笑われる。実際、ぼくは料理教室でも不器用だし、紙芝居の練習も一番へたなほうだ。でも、それだけではちょっとくやしいので、ここで年間講師としてのぼくの役割について述べてみたい。  その役割とは、狛プーのなかに社会のヒエラルキーのサブシステムとしてのミニ・ヒエラルキーが形成されることを阻止することなのではないか。とくに、人間はだれでもちょっと慣れてくると、先輩ヅラ、指導者ヅラ、先生ヅラをしたくなるものだと思う。狛プーの集団風土のなかにそういう傾向が表われたとき、それをどう排除するかということが重要である。  そのために、ぼくは、具体的にはつぎのようなことを心がけている。 @ ニューカマー(新規参加者)をさっそく主役にする。 A もうすでに歩いている人よりも、これから足をおずおずと踏み出そうとしている人の「初めの一歩」を支援し、評価し、気を楽にさせる。 B 撤退を望む人には、さわやかに潔く撤退できるように仕向ける。  実際にこれらの役割をぼくがうまく果たしているかどうかは、もちろん、わからない。 6 狛プーはノリのよい狛江だけでしかできないものか?  他市区の青年事業担当者から「狛プーのような青年事業は、ノリがよいという狛江の地域性があるからこそできたもので、一般的にはいまの青年にそんなノリは望めないし、そもそも集まってくれないのではないか」と言われることがある。これだけは反論しておきたい。  狛プーも、一年目は、常識的なものさしからいえば悲惨な状況もあった。今でも思い出すのだが、紙芝居のとき、4人ということがあった。紙芝居の先生と、担当職員と、ぼくと、そして青年の4人である。ほかのメンバーの残業などの事情が重なってしまったのだろう。でも、4人でけっこう楽しくサンマを味わいながら紙芝居を練習したのを覚えている。だから、ほんとうは悲惨でもなんでもなかったのである(担当職員は胃が痛くなったと思うが)。評論家になって「いまどきの青年はこういう事業に参加する積極性を失っている」といってあきらめてしまうのではなく、意義深いサンマを実際につくりだしていくことこそが私たち青年事業担当者に求められている。そうしていれば、そのサンマの匂いを嗅ぎつけて、青年たちは自分の意志で集まってくる。ちなみに、行政当局は、参加者数のことで頭や胃を痛める管下職員をむしろ支援しなければならない。  狛プーのひとりが、飲み会のとき、新規参加した初日の様子を話してくれた。公民館の玄関先まできたのだけれど、やっぱりいったん引き返して、また公民館に戻ってきて狛プーに参加したというのである。この人を、はたして、「積極性が足りない」と批評してよいのだろうか。青年に限らず、私たち現代人一般は、サンマをあがき求めながらも、そのプロセスのなかで傷ついたりおびえたりして生きている。そういう心の傷を引きずっていない「健全青年」ばかりの町なんて、そもそも存在しないのではないか。だから、狛プーにおずおずと集まってくる青年たちこそが一般的なのだといえよう。  現代社会教育は、生涯にわたる発達の場であるとともに、「癒しのサンマ」でもなければならないと考えられる。青年教育が「出会いの場」であることは従来からいわれてきたことだが、ぼくは、これからの青年教育は「いい男といい女が出会う場」でなければならないと思う。ここで、いい男とかいい女とかいうのは、家族や学校や職場や社会のコミュニケーションのなかで痛みや悲しみは当然だれにでもあっただろうが、その痛みや悲しみをその人なりに受けとめてきた彼と彼女という意味である。そういういい男やいい女は、狛江市内だけでなく、ほかの市町村にも存在しているはずだ。