「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その5)  −真実を追求する知的水平空間−                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(5)  −"Intellectual Horizontal Space" for the Truth− ※ 印刷にあたっての筆者からのお願い  文中のアタマのmitoという文字は、読みやすくするため、すべてゴチックにしてください。 1 今回の論文の位置づけ  前回は、教育評価への問題意識のもとに、「知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際」の概観を紹介した。そのときの筆者の計画では、すでに掲載した下記の2までを除き、3以降のテーマに沿って順次述べていく予定であった。  1今回の論文の位置づけ、2知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際、3教育「される」ことへの反発、4教師による学生批判、5楽園追放は受けとめるしかない、6批判は否定とは異なる、7批判は必ずそれなりの真実を表している、8真理には到達しえない、9批判の刃を自己にも向ける、10他者の存在が自我を深める、11自他批判を通して身を構え直す学習者たち。  しかし、例年と同じく、今年も本研究紀要への研究報告としてまとめたい「出席ペーパー」とそれへの筆者(mito)のレスポンスを中心とする事例が新たに多数発生したため、そういう今年の新しい事例を精選して紹介するということに変更したい。ただし、この研究にあたっての視点は、前回、「知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際」を考察したときに引き起こされた問題関心に基づくものであるから、「出席ペーパー」や「知的水平空間」などの意味については従来の拙論を参照していただきたい。  また、今回以降の掲載が予定されていた上記の3以下の記事と、今回の範疇のものでありながら掲載しきれなかった今年度の事例についてはすでに電子形態ではまとめてあるので、希望される人にはMSDOS標準テキストの形態で提供する。 2 「進路」という社会の事実と真実 (1) 大学生のための進路指導のあり方 (略) (2) 個人の素晴らしさと、社会にそれを認めさせることの違い (略) (3) どこまでも知りたい=事実よりも真実を追求する生涯学習 駒田信二『「藤野先生」における真実』(『ユリイカ』昭和五十一年四月号)より  今では(魯迅の)「藤野先生」にフィクションの部分の多いことは広く知られている事実である。  「わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった」。  「藤野先生」のはじめのこの部分の、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年の明治三十八年四月に開設されたということ、また、当時、仙台医学専門学校は第二高等学校と同じ構内にあり、その第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているということが、半沢正二郎氏を会長とする「魯迅の記録を調べる会」によって明らかにされている。  しかし、「藤野先生」に於て「・・・日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」と書いたこと、「中国の学生はまだ誰もいなかった」と書いたことは、事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。  幻燈事件も、事実としては「藤野先生」や『吶喊』の自序に書かれているとおりではなかったかもしれない。それを虚構と考えてみることは、尾崎氏のいうとおり、より深く当時の魯迅に迫る道の一つであろう。「藤野先生」の他の部分についても、同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。 mito 起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、「どこまでも知りたい」という自然発生的な欲求を生涯学習の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、その「どこまでも知りたい」という場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」であるということである。事実の積み重ねに終わるのでは、駒田のいう「深い感動」もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかでいわゆる「社会教育の知識」が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」というワンダーランドとしての学習が疎外されているからである。  もちろん、枠組みは変えないままその枠組みに知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じるという人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識が豊富になった人を見るときのような、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいと思うが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。  ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だって多いのだ。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。  魯迅の例でいえば、「日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」という言語表現には、「当時は日暮里駅などできていなかった」という事実しか見えない人のつまらない詮索を越えた魯迅の思考のなかにある真実が隠されているのである。すなわち、その真実とは、日本人から抑圧され日本で銃殺されようとしている中国人を、同じ抑圧を受けているはずの中国人がのんきに見物しているという場面を見つめる魯迅の思考のなかにある。ただし、これは虚偽に対置される虚構、すなわち「小説的真実」についての話ではある。  さて、さきに「大学生のための進路指導のあり方(その1)」において、ぼくは、「mito的授業は、本当の夢の方への支援だと思ってほしい。学生の就職活動に対する大学学生部の役割は求人情報の提供などにあると思うが、教育的専門職員である大学教員の役割は、就職活動のプロセスのなかでの自己確立への教育的援助にあると思う」と書いた。事実と真実は異なるという今回の視点から、これをもう少し深めてみたい。  事実は小説よりも奇なり、という。一生懸命、採用試験の勉強をして、合格する実力(真実)を身につけたとしても、そういう人が落ちて、入るはずのない人がたまたま受かってしまうこと(事実)だってありうる。しかし、自分は、どの瞬間に自分をほめてやるべきなのだろうか。それは、挑戦可能なチャンスを見つけてきて、一生懸命に採用試験の準備を重ね、試験当日は「もしかしたら落ちるかもしれない」という恐怖に打ち勝って試験場に行き、そして、最後の試験の最後のチャイムが鳴ったときなのではないか。けっして、試験終了後、しばらく過ぎてから、合格通知がきたときにほめ、不合格だった場合はほめないということではないと思う。合格、不合格は「小説よりも奇なり」の事実にすぎないからである。ここでも、ラッキー、アンラッキーという事実によって右往左往させられてしまう主観的な態度から、自分の人生のうち自己決定できる部分を自己決定して生きているのかという真実の部分を重視する客観的な態度に転換することが求められる。  つぎに、採用試験に合格する実力を身につけたかという真実に属する部分と、実際の合格、不合格の結果という事実に属する部分との関係について、つぎの4つのケースを想定してより具体的に考察してみたい。  真実        事実   (合格する実力)  (試験結果) T ○         ○ U ○         × V ×         ○ W ×         ×  Tについては問題ないだろう。Wについても、結果をみて初めて落胆する人もいるかもしれないが、それはその人にとっては社会のもつ「真実」の側面に関するよい学習機会になったということにすぎない。実際、「落ちるべくして落ちた」という場合には、「自分は敗北主義に逃げることなく与えられたチャンスに向かってチャレンジできた」という充実感が、満足と自信(個人が社会に生きるにあたって必要な厚かましさ)につながることが多いようだ。  Vについては最初はぼくは問題ないと思っていたのだが、S大の男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたので、ぼくも認識を新たにした。つまり、採用後にサービス対象や仕事仲間に迷惑をかけ続けることになり、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、この話をしたら、他の学生が、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達にもうしわけなくて会うことができなくなる」という。このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまったのだ。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決める非主体的な態度(敗北主義)としてぼくは批判していたが、どうもそれだけではなく、現代青年のもつそれなりの繊細な深みもあると思われた。  そこで、Vについてのぼくの意見をまとめておこう。もし採用試験に「はからずも」(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで「正当な劣等感や罪悪感」(真実)をもつことは本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた能力を発揮できるようになるかもしれない。生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習(リカレント)を社会的活動に入ってから継続できる人なのかどうかのほうが重要になるからである。思うに、これは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということの表れなのである。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その持ち味を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうる。  最後にUについてである。ここで、ぼくは、今まで述べてきた「真実=合格する実力」という図式を否定しなければならなくなる。はたして、合格する実力を身につけることは真実に属することがらなのであろうか。現在の採用試験の評価基準は、採用後の仕事に必要な資質と能力を客観的に測りうるものになっているのか。そうなっているといえる人は、企業の採用担当者であっても、まずいないであろう。企業としては本人の貢献能力を正当に評価するための必死の努力は行なっているだろうが、評価の適正化そのものが未知の課題なのである。しかしながら、就職するためには、そういう社会から自分に与えられた不十分なチャンスを自分としてはどう活かしきるか、戦術を立てて臨むしかないだろう。つまり、合格する実力を身につけること自体は、真実(就職による自己実現そのもの)に属することではなく、事実(就職のための作戦)に属することなのである。  この点について、もう少し端的にいえば、一つひとつの採用試験の合否の結果は、ちっぽけな事実にすぎないということである。もちろん、少なくとも本人の「実生活」(事実)に対してはかなりの影響を与えるものではあるが、その影響がプラスかマイナスかは、じつは断言できないものなのである。私たちは、いろいろな情報を得て「ここがいいだろう」と予測してそこを目指しているのにすぎないのである。「事実は小説よりも奇なり」であるから、親が、学校が、友達が、社会が、そして自分が「いい」と判断している就職先であっても、実際に入ってみたらつまらなかったなどという「事件」は当たり前のように世間で起こっている。たとえば、いい教育をやりたいという志から晴れて教員になり、初めて配置されたところの学校が、そういう教育をやらせてくれない所だったなどという「悲劇」はごく普通に起こっている。そうなる危険性を覚悟して、そのうえでどう自分の志を社会適応させた形で実現するかということが、大人になる、社会に出て働く、自己実現するということなのである。合否の事実がプラスになるかマイナスになるかは、わからないことだ。「人間万事塞翁が馬」(人の世は禍福の定めがなくて、災いが福に変わり、福が災いとなるものであるとのたとえ)なのであり、ラッキー、アンラッキーという事実に自分の内面まで振り回されている姿は、少し客観視してみれば滑稽なことがわかるだろう。それがわかっていても一喜一憂してしまう自分を、もう一人の自分がそれを見ていて嗤ってやるのが、この場合の自己の客観視(自己認知)なのである。  それでは、「受かるべくして落ちた人」の真実とは何だったのかについて、ぼくの考えを述べてみたい。自分が今は何を求めて生きているのか、これについて社会のさまざまな事実に惑わされない何か(主我)があるのなら、少なくとも今は自分がそれを求めていることだけは、自分にとっての真実として確信できるのではないかと思う。それが真実なのである。だから、「安定した生活を送るために大企業にぶら下がれればよいのだ」と思っているのなら、それもひとつの真実なのだろう。しかし、それだけでは不満を感じたり、潔く自己受容できないとしたら、それは社会が悪い、アンラッキーなどという問題なのではなく、自分が今は何を求めて生きているのか、本当の自分の欲求に気づいていないという自己認知の欠如の問題なのである。  「受かるべくして落ちた人」のほとんどは、合格する実力をそれだけ蓄えることのできたエネルギー源として、ある社会的な役割を遂行したいという欲求をもっているのだと思われる。じつは、その社会的役割遂行の欲求こそが、その人にとっての真実なのではないか。その人は、この欲求を自己認知する必要がある。それは本当の意味での自信(自分への信頼)をもつことともいえる。  たとえば、教師になりたいという人は、きっと「いい教育をしたい」という欲求があるのだろう。だから、「教育公務員特例法」に基づく給料をもらいながらその欲求を実現する方策として、教員採用試験を受けるのであろう。それは教師になることを第一希望にする根拠としてはかなり妥当であるといえる。ただし、「人間万事塞翁が馬」であることは受容しておいたほうがよい。教員が学校に配置されるにあたって、校長の指名などはできないのである。しかし、その人の第二希望、第三希望は、どうなっているのか。受験者側には受験の自由が与えられているけれど、反面、採用者側には選別の自由が与えられているのである。そうだとすれば、受験者側が自分の就職先を勝手に一つに絞りこんでしまうのは、社会のなかの自己の位置という事実を客観視(自己認知)していないことの表れであるといえる。教員採用試験に受かることなどというのが「本当の夢」などであるはずはない。それは「本当の夢」を実現するためのただの作戦の一つにすぎないのである。だから「数打ちゃ当たる」という実践的態度が必要になる。もちろん、幸いにも自分が就職浪人させてもらえる状況(ラッキーな事実)にあるのなら話は別だが。  たとえば、学習塾の講師になるのはどうだろうか。「学歴偏重社会の手先になるのはいやだ」という人もいるかもしれないが、そういう人は学校だって「学歴偏重社会の発生源」としての残りかすを引き継いでいるのだから、正規教員として採用されても、同じように「いやだ」といって、その不快な事実から逃げ出そうとするのではないかとぼくは思う。そういう場合は、非常勤採用をねらったほうが、自分の思う教育がやりやすいかもしれない。あるいは、まったく異分野の職業に就いておいて、あるいは、専業主婦、専業主夫になって、ヒエラルキーから管理されないところで、あるいは社会教育のような(少なくとも理念としては)活動する市民が主体として尊重される世界で、地域の子育てネットワークに関わってもよいだろう。現実社会においては、そちらのほうが実際にはあなたのせっかくの志が実現しやすいかもしれないのだ。実際、望ましい意欲・資質・能力をもっていて、それを地域の子ども会活動の援助という形で活かしたいという住民が一人でもいるのなら、そういう人はあっという間に地域教育活動の主人公として、貴重なリーダーになりうるというのが残念ながら全国的な状況なのである。  これらの社会的役割遂行の豊かな可能性はすべて、自己の「社会的役割遂行の欲求」という真実の部分に本人が気づいたところから広がっている。事実(世間の物差し)ばかりに惑わされている人には気づけないことであろう。ぼくが「大学は学生が夢を見つけ出すためのところ」と考えているのも、そういう理由からである。また、生涯学習の「どこまでも知りたい」という欲求も、事実より真実こそを追求しようとする欲求なのだと思う。だからこそ、社会全体としても、そういう生涯学習の支援のための体系化をするのだと考えたい。人びとが自由に行なっているそれぞれの生涯学習の内容が、今の社会に直接的に還元するか否かを、公金を使って支援するかどうかの判断基準にすることには、ぼくは反対である。憲法第13条(個人の尊重)が「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という場合の「幸福追求」の権利とは、「社会に対して役割遂行しなければならない」という個人としてではなく、「自己実現したい」「役割遂行したい」という個人としての真実の追求の権利というべきである。 3 真実追求の辛さはどこにあるか (1) 社会的役割遂行としての教育の特殊性 (略) (2) 学習者にとっての教師の不快な言葉と無益な言葉の違い 1994. 5.14. S大教育社会学、女  先生の話しはクドくて生々しすぎて嫌です。性問題も大切だとは思いますが、すぐ恋愛やSEXに結び付けないでください。 mito 現代社会においては、たとえ恋愛やSEXという個人的なことがらであっても、それが「社会的問題」(ここでは性問題)として存在してしまうのである。ぼくは、これを「現代人の性の非主体性」(対等な人間関係のなかでの恋愛やSEXを味わえない問題など)という視点から考えている。その「現代人」には、ぼくもこのペーパーを書いた学生も入ってしまうのである。ただし、各人の主体(認知・行為・評価する我)によっては、その社会的影響を内面的にはかなり払拭できている人もいるかもしれない。程度の差はあるということは、ぼくも認めなければならないと思う。  それでも、ぼくは、このペーパーでそれ以上にどきっとしたのだ。それは、「クドくて生々しすぎる」という指摘に関してである。ぼくは、「『膣外射精による避妊の失敗』は、自分の性欲までコントロールできるという性に関する男の自信過剰と、女性に対する生意気で傲慢な姿勢からくるものであり、性の非主体性を表わしているのではないか」と言った。そこまでは言ってもよいと今でも思っているが、相手に対する「してあげる」喜びとしてのSEXになっていないこと、それを女性がきちんと拒否できないことを批判するために、「顔面発射」という俗語まで持ち出して、「そんなことが女性にとって気持ちいいわけないですよね」と言ったのだ。「顔面発射」という俗語は、そのことをいうためには無益であり、女性にとっては不快な言葉であったと思う。そこまで言ってしまったのはなぜだろうか。「不快なこと、きわどいことを言って衝撃を与えたい」というセクハラの気持ち、意地悪な気持ちがぼくにあったのではないかと、このペーパーを読んで思ったのである。あるいは、性に関する現代人の不幸な状況を今すぐ変えたいという無茶な思いがあったのかもしれない。いずれにせよ、各人の思考における決断については各人に任せるという知的水平空間にはなじまない言葉であった。ぼくの言葉の被害にあった学生には申し訳なかった。  ただ、mito的授業において、現代社会における人びとの非主体性の本質という真実に迫るための言葉については、「クドくて生々しすぎて」も、あるいはクラく見えても、できるかぎり真正面から受けとめてほしい。それは、個人と社会の関係を考えるためには、あるいは、他者の学習や幸福追求を援助しようとする教育や教育学を学ぶためには必要不可欠なことなのである。そして、学習者にとっては無益なぼくの屈折の授業における表れについては、きちんと自分なりに見分けて、これからも批判し、批評し続けてほしい。 (3) 「ただのろくでなし」と「ましなろくでなし」 1994. 4.20. T大U部社会教育計画、女  神経症もちなので先週のゲームはけっこう辛かった。偶数日だけ出席しようかと思う。でも、講義を受けていても(中略)手は震えるし、思考力もものすごく鈍っている。きたない字ですが、本人はものすごくゆっくりていねいに書いているつもり。耳をとがらせてでもよく聴いて、いろんな情報を聞いたり考えたりしたいと思っています。本当は奇数日も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか。 mito ぼくは、この学生の真摯な態度に敬意の念を感じる。ぼくの授業では無理をしないようにしてもらいたい。すでに公言してあるとおり、出席、入退室はすべて自由であり、ぼくにはきがねなく自己決定してほしい。  mito的授業、とくにこの授業のような態度変容をねらいとする体験学習においては、次のような参加の仕方が考えられる。これらを、自分で選択して行動するということが大切である。@欠席する(授業より有意義なことをする、ボーッとしているなど。その時間の使い方を総括するレポートが翌週に提出されれば出席扱い)、A出席するけれど、出ていきたくなったら出ていく(出席扱い)、B参加したくなかったら、どいてしまって、授業を観察している(高見の見物)、C参加するけれど、発言したくないときはパスする(しゃべりたくないことはしゃべらない権利の行使)、Dバカになって参加する(非力の自覚)、E批評的に参加しつつ、あとで批判する。最後のEは、体験学習においてはそれを体験してからの話である。そうでないと批判にならない。また、@からCまでの行動は、ネットワーク型社会において求められる「潔い撤退」である可能性がある。  ここで困るのは、撤退をしながら撤退仲間(ピア)とこの授業の陰口を言い合って満足している態度である。ぼくは、それを「ただのろくでなしの行為」とよんでいる。撤退は自由なのだが、残留者は残留者で自分にとっての意味を見つけてこの授業に参加しているのである。残留者のことがどうしても気になるのなら、その残留者と率直に意見を闘わせればよいではないか。以前、6月中旬という時期に「私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのかわかりません。しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに『変に理解しあってしまう』という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです」と書いてきた学生がいた。個人の事情で欠席していたことはかまわないのだ。しかし、「真剣に」「興味深く」参加している他者について勝手に推測したりする権利にはつながらないはずだ。ぼくは、「この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて『真剣に』受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう」とコメントした。こういう学生の行為を、「潔くない撤退」、または、「ただのろくでなし」とよぶことができるとぼくは考えている。社会教育団体においても、撤退したはずのメンバーや元リーダーのような人が、いつまでも「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみついて、現在の団体運営に干渉をして団体の自主性を損なっている例があるが、これなども「潔くない撤退」なのである。  「ただのろくでなし」には、もうひとつのタイプがある。途中退出が認められ、実際に何人かがそうしている状況のなかで、また、せっかく授業を聴くのを楽しみにしているのに私語がうるさくて聞きずらいという学生のペーパーを読み上げているのに、なおかつ、おしゃべりばかりしていて退出してくれない学生がいるのだ。あるいは、熱心に受講している学生を冷やかに笑っていてくれればよいのに、それさえもできない。これは、まわりの人への迷惑よりおしゃべり仲間との「つながり」を優先するピアコンセプトの表れであり、かといって、他の学生に迷惑をかけてでもそういう学生の学習から落ちこぼれたくないから退出しておしゃべりを続けることもできないという、非常に惨めで情けない破廉恥なピアコンセプトの表れなのだと考えられる。  このように考えると、「本当は奇数日(体験学習の日)も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか」と言う学生の言動との質の違いは明白である。人間は、ピアコンセプト(仲間意識)などの自己の内面的要因や現代管理社会による外部からの抑圧などのなかで、他者の目におびえ、潔く参加や撤退ができない「弱い存在」である。すなわち、「ろくでなし」である。しかし、それは、まだましな「ろくでなし」なのであって、そこで葛藤して自己解決に向かう姿は、「ただのろくでなし」とはずいぶん違うのだと思う。「ただのろくでなし」の存在は事実であってもくだらなすぎて小説のネタにもならないが、「ましなろくでなし」の葛藤は小説でも追求しているメインテーマなのであり、人間的真実そのものなのである。 1994. 4.27. T大U部社会教育概論、男  私語の話はやめにしていただきたい。せっかく仕事を終えてメシも食わずに教室に駆け込んでくるのに、何回も私語の話などというクダラナイ話で時間を潰している。こんな話で時間を拘束されるのであれば、「これから20分、私語の話をしまーす」と宣言してほしい。その間、寝るなり、学食へ行くなり、有効に時間を使えるではないか。 mito ぼく流に、この学生の言いたいことを翻訳すれば、「ただのろくでなしのことなど、そもそも関心がない。そんなやつらのことなどほっておいて、もっと本質に迫る話をしろ」ということだと思う。主体的な学習者の態度として、これでよいと思う(こんな評価は、彼にとっては余計なお世話かもしれないが)。学習者は本質的に「自分のために学習する」のである。自分の学習のために無益であると思えば、彼のように教育側を批判することによって、「メシも食わずに教室に駆け込んできた」自らの学習権を行使すべきである。なお、いずれにせよ、私語の話はmito的授業の初期のころにする話であり、中盤以降はほとんど話題にならないから安心してほしい。  ほくが私語の話をするのは、ひとつには、おしゃべりする学生の自由を認めたうえで(退出して廊下などでおしゃべりをしてよいことになっている)、自由を欲していて、しかもその自由を認められている自分こそが、他者の自由(学習したい者の学習権)を侵害しているのだという事実を知らせ、「相手が悪い(授業がつまらない)からそのせいでしゃべっているのではなく、おしゃべりしている自分がろくでなしなのだ」という真実に気づかせ、他者や社会のせいにできない状態に追い込むことによって、「ただのろくでなし」の状態でいる人に「自由の恐怖」を味あう機会を提供し、自由の行使の大切さを認識させるためである。  それでは、ほかの「ましなろくでなし」である人たちにとって、私語に関する話は無益であろうか。普通なら無益なのかもしれない。たった一度しかない人生を、つまらない人の生き方やつまらないことがらとつきあってわざわざ無駄にすることはないからである。しかし、この授業は「教育学」の一環なのである。現代人の主体性獲得への援助者としての力量を身につけるためには、この「ただのろくでなし」の問題を本質的にどうとらえ、どう対処すべきかということが重要になる。援助者にとって大切なのは、「ただのろくでなし」に対する「否定」ではなく、「共感的理解」である(ちなみにけっして同感したり同情したりする必要はない)。「ただの」か「ましな」かは違っても、同じ「ろくでなし」の部分を共有しているのだから、理論的には共感は可能なのである。とくに、自らの「個の深み」や主体性を発揮するときの阻害要因としてのピアコンセプトについては、「ましなろくでなし」の人にとっても思い当たる節が多いのではないだろうか。 (4) 社会人入学の本質的な意味 1994. 4.20. T大U部社会教育概論、女  大学生活3年目にして異質の先生に出会い、教室の雰囲気と学生のレポート(出席ペーパー)の内容にカルチャーショックを受け、後席の若い子に「反応の鈍い私はついてゆけそうにない」と話しました。事実、呆然自失の状態でした。その子は、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれました。  私の年代の人間は、全力投球型の馬車馬的タイプが多いのかもしれません。そして、あらためて生涯学習とは何なのか、大学に何を求めているのかを考えさせられました。歳をとると頑固になるといいますが、気づかずに私は自分で垣根を作り、囲いのなかで自分の殻に閉じこもっていたのですね。  学ぶということは、新しい自分を発見することにほかならないことで、異質と感じる心は動脈硬化の始まりであることをあらためて知らされました。若々しい空気、自由な雰囲気に触れることで、私のなかの何かが変わればと思います。私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せです。  お願いがあります。もう少しゆっくりお話ししていただきたいことと、英語より日本語を少し多めに使っていただけたらありがたいのですが。(以下略) mito これは自宅で書かれて翌週にマル秘で提出されたペーパーを、ぼくが本人に頼んで紹介させてもらったものである。まず、早口であることと専門用語の濫用についておわびしたい。これは、ぼくのある意味での「詰め込み主義」と、「わかりやすい言葉で説明できない力量不足」のせいである。ほかの学生からもそういう苦情は受けており、改善の努力をしたい。  そして、この社会人入学の学生の不安に対して、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれた学生にもお礼を言いたい。ぼくも心からこの人にそうお願いしたい。そして、早口などについて謝りたい。「呆然自失の状態」から「私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せ」と書いてくださっていることにぼくは救われた思いである。一人ひとりが「学習しなければならない」から「〜を学習したい」という本当の学習主体に内面から変わっていくことこそ、学歴偏重社会から生涯学習社会への変革の真のエネルギーになるのであろう。  企業研修を受け入れている大学のある教育系の教授に、ぼくは、「企業のほうが大学より教育ノウハウをもっていると思うんですけど、なぜそういう企業が教育学を学ばせるためにわざわざ社員を大学に派遣するんでしょうね」という失礼な質問をしたことがある。その教授は、「哲学を学ぶためでしょう」と即答した。社会人入学の本質的な意味は、そこにあるのではないか。そして、そういう大学で学ぶべき「哲学」とは、けっして実社会からかけ離れたものではなく、むしろ現代社会が切実に求めている学問といえるのである。 (5) mitoという呼称について (略) (6) スクエアヘッドを乗り越えて、いい加減さとMAZEの知的水平空間を (略) (7) 幸福追求の援助者としての幸福追求 1994. 6. 6. T大U部社会教育概論、女  私は高校生のときに妊娠をしました。相手は、私のクラスの担任でした。しかも、その人は奥さんがいる人でした。それでも私たちはたがいへの想いをおさえることができませんでした。  私たちが肉体的関係をもったのは、今日ビデオで流れたような「無理矢理に」や「戸惑い(ながらも男の欲求に屈して)」ということではありませんでしたが、やはり私自身は受け身であったような気がします。正直、このとき、私は奥さんに勝ったつもりでいました。しかし、私の妊娠がわかり、2人で話し合った結果、人工中絶をし、私たちは別れました。結局、相手はもとのサヤにおさまり、私は身も心も傷つくというお定まりの経験をしました。  恋人と別れたという事実は、時がたち新しい人が現れれば、私のなかから消えると思いましたが、1つの命を殺した事実はこれからの人生から決して消すことができません。街や近所などで、よく幼児をみかけます。そのたびに胸が苦しくなります。将来、子どもができたら、私ができる限りの愛情をその子に与えてやりたいと思っています。そして、自分の子どもが性にめざめたら、私のこの事実を話してやり、同じあやまちを繰り返させないつもりです。 mito 「奥さんに勝ったつもりでいた」過去の自分をきちんと客観視しているこの出席ペーパーを高く評価したい。  この種の問題に対して、「教師は道徳的であれ」というべきであろうか。ぼくはそうではないと思う。教師が本来は尊敬語である「先生」であることを自他ともに認めてしまうことから、すべての矛盾が始まっているのだと思う。「教師は先生であるべき」などという無茶なことを考えるから、それが「がんばる」「無理をする」というプレッシャーになり、このペーパーのようなことが起こってしまうのではないか。この教師は、生徒を全面的にしょいこむような「熱血先生」だったのかもしれない。けれども、フツウの勤め人だったら、商品やお客さんに手をつけるだろうか(そういう人もいるけれど)。フツウの人のフツウの社会的役割遂行の意識さえあれば、こんなことはおこらなかったのだと思う。相手の将来のことを考えて、せめて避妊ぐらいはするだろう。教師の社会的役割とは、学習者の幸福追求の援助なのではないか。道徳的であろうとすることよりも、「お客さんには手を出さない」という援助者としてのフツウの感覚さえもっていれば、こんな不幸は起らなかったのだと思う。  学習援助者としての幸福とは、援助活動のなかで自分や他者と出会うことができるという幸福である。ところが、教師のなかには、自分が学び変化するということの喜びを感じることのできない人がいる。生涯学習時代に不適応を起こしている人たちである。こういう人たちが教師をしているということは、本人にとっても、学習者にとっても不幸なことである。 4 知的水平空間における感情表出と「求め学ぶ」学習態度 1994. 6. 6. S短大社会教育特講、男  ペーパーがストロークの一手段であるとするならば、ある意味においてこの講義の時間は同時に演習であるともいえる。  人が人の心に思う本当のかたちの在り方を情報として提供し、又、提供される。私が今これに思うことは、決して「提供される」といった他者(mito、社会、親、年長者、会社、学校)からの手助け、ないし使役の形を伴った行動学習の在り方ではなく、私たち学生は自ら提供を受け入れる存在であるべきたることである。すなわち、主体性を体得することにほかならない。それなくして批評精神など至らぬ。  プリントで様々なペーパーを通読した。成程、啓発を促すための所作のひとつとして「刺激」もしくは「毒」を多方面に渡ってなげかけて居られるようだ。授業計画の記述に、ペーパーは、これを学生が書くことによって知的に自己客観視を含め、人間社会生活の行動学を認識するのに役立つ、らしき内容をみた。文章という媒体(メディア)も使い方により誤りも生じ、多数のペーパーの傾向を追うに、講師との密な個人的係わり色濃いものが多く、それは断ち切らなくてはならないのではあるまいかと切に思う。教師との信頼も、それが過密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに停滞しているどころではない。  幸い、出席ペーパーは(あるいは幸か不幸か)感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える。それに安心するのは、ストローク(人は信頼し得るものだという試み)に於いては有効であろうが、求め学んでゆく学生の時機に休息の糧を得て、本当に先々個人という主義を担って生きていかれようかと危惧の念を抱くのである。 1994. 6.29. T大U部社会教育概論、男  「出席ペーパーは感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える」という(注・S大男子学生の出席ペーパーでの)意見があったが、授業で紹介される出席ペーパーはむやみやたらと感情を出しているだろうか。紹介されるペーパーは少なくとも、それを読む他者、聞く人々という対象を意識して書いているように思えるし、自分のためだけに書いた日記調のものではないと思う。(注・ペーパーを読まれるということは、むしろ)さながら、ラジオの深夜放送で読まれているのに近い感じだと思う。  さらに、このことについて、僕の個人的意見を述べさせてもらうなら、ある程度の感情をはき出す必要があると思う。感情とは、本音であるところのもっとも原始的なところではないか。むしろ、こういった本音の感情をはき出すことは歓迎すべきことだ。なぜなら、現代社会においては、タテマエと本音を使い分けて生きていかなければならない局面が多々あるからだ。このことは、ともすると、本音(感情)をごまかすということになる。つまり、ある意味で自分を殺すということだ。これはだれもが程度の差こそあれ経験していることだと思う。本音で感じていることと、口で言葉にすることが、ぜんぜん違っているということが。もちろん、この本音とタテマエはある程度必要だが(mitoちゃんはヒエラルキーの中で仮面をかぶるという)、その許容範囲を越える事態(注・個に対する社会的抑圧の、あるいは自己抑圧の、過剰の意味か?)が生まれている。現に、神経科、精神科の病院が大はやりだ。そこで、会社のような利害責任を問われない大学(授業)、教室という空間においては、本音の感情をぶつけあうことが行われていいと思う。僕は大賛成だ。とかく、感情(本音)を出して表現できる空間あるいは仲間が少ないだけに。 mito mito的授業のなかで学生が出席ペーパーを通して感情を表出することは、知的水平空間を維持し、発展させるという観点からは、プラスなのか、マイナスなのか。なかなか微妙で興味深い問題である。たしかに、感情の交流は、「知的発達」よりも「癒し」や「信頼」の、ストロークに傾いた行為であるといえそうだ。だから、従来の教育においてはそういうものが排除され、「自分の言い分は本当に自分勝手ではないかを考えてみよ」と親や教師からいわれて、「知育」の名のもとに、もっと一般的、普遍的な言い方をするように求められてきたのだと思う。  しかし、「アサーティブトレーニング(さわやかな自己主張訓練)」においては、「自分の言い分は本当に自分勝手なのかを考えてみよ」が引っ込み思案の人たちへの重要なアドバイスの一つになっている。ぼくは、前者の訓示にはむしろ虚偽を感じ、後者のアドバイスに人間の真実を感じるのだ。自分勝手で不当な感情をもつことも人間だからときにはあるかもしれないが、それよりも、誰でも一回しか生きられない自分の人生に関心をもっているということから発するやむにやまれぬさまざまな感情は、何らかの深い「人間的真実」に基づいている場合が多いのではないか。むしろ、個人の感情を「自分勝手だ」と自他が決めつけてしまって、最初からしかめつらをした「一般論」で論じようとすることのほうに、真実の追求からの逃避の匂いをぼくは嗅ぎとってしまうのである(前者のペーパーの書き手に対してではない)。自らの深い「人間的真実」に主体的に迫ってこそ、深いところで他者と認識を共有することができるのだと思う。  学問とは「世渡り術を習うこと」ではないのだから、授業では学生は自分の感情をペーパーや口頭や頭のなかで言語表現することによって自己の客観視に接近することのほうが重要なのではないか。ぼくは学生に「mito的授業においては、あなた自身があなたにとっての最適の教材である」と宣言している。それは、「自分に出会い、自分のもっている無限の可能性に少しでも気づくこと」と言い換えてもよいだろう。これは人間の学習活動の大きな意義なのだ。ぼくが生涯学習活動において、「開きたい心を安心して開いて交流できる時間・空間・仲間のサンマ」を重視するのも、そういう理由からである。「アサーティブトレーニング」の効果の一つとして、「安心して自分を開くことができる。したがって、自己洞察の機会も広がる」が挙げられているのも同様の意味であろう。  ぼくは、前者のペーパーが「むやみやたらと伝達の為に感情をはき出して、それに安心して、求め学んで行く学生の時機に休息の糧を得てしまう」と指摘しているその鋭さに、敬意さえ抱くものである。しかし、そこで表明された「危惧の念」は、実際には、むしろ逆のことに対して表明されるべきだったのではないかとも思う。すなわち、自己の感情や思考方法を言語表現することを避けて、もうすでに権威化された一般論しか述べずにいて、それで「学んでいる」と安心してしまっている姿に対してこそ、「求め学ぶ」学生の姿ではないというべきではなかったのか。  ぼくは「生涯学習はドキドキワクワクのワンダーランドであるべきだ」といっているが、じつは、自己の感情や思考を表現することは、しばしば、心を平安にしてくれずに、むしろ自己の思考を波立たせていっとき不安定にさせる作用を及ぼすと感じている。だから、その「ドキドキ」がつらいという人だっているだろう。それでは、そういう人に対して「危惧の念」を表明すべきだろうか。ぼくとしては、大人の学習は本質的に「問題解決型学習」であると考えているから、「そんなことで苦しんでまで学習したくない」という人がもしいるのならば、そういう人はさしあたって生活に必要な知識だけ身につけておけば当面はよいのではないかと思う。別に無理して教育を受けたり、学問をしたりしなくてもよいのではないか。生涯学習の原則は、「学びたいことを学びたい手段で」なのだ。リカレント学習の考え方でいえば、その人は学びたくなるときまで待ってから学んだほうがよいということだ。  しかし、実際には、ペーパーで自己を開くことによって、「休息の糧」を得るどころか、あえて自分を辛辣に表現する学生が多い。たとえば、高校時代の自分が担任の教師の「不倫相手」や「恋愛対象」になったとき、「先生の奥さんに勝った」とか「先生のファンである同級生たちに勝った」と思っていたことを、きちんと文章として外在化させる学生もいるのだ。こうした自己への気づきは、出席ペーパーというチャンスがなければありえなかったのではないか。それは、自分という人間の滑稽さを客観的に認識するということであり(自己洞察)、自分も愚かな存在の一員であることを知ることである(無知の自覚)。このことによってこそ、自己受容ができ、その後の自己変容の主体になりうるのである。ぼくは、それを称して「個人の内側にさわやかな風が吹いている状態」と呼んでいる(さわやかな風)。  また、このような出席ペーパーは、他の学生にとっても興味深いもののはずである。他者の感情表現のなかにある真実を垣間見ることができるからである。他者は自己の鏡である。狛プーのある女性メンバーが記録集に、こう書いている。「私もみんなの心の中を写し出す鏡です。いろいろな自分を知りたい人は、どうぞ姿を写しにきてくださいな。もっとも、この鏡はナマモノなもんでねえ。いつでも等身大にきれいに写るかどうかはわからないよお」。  川喜田二郎は、自らが開発したKJ法という発想法を解説した『続・発想法』(中公新書)の「情念の情報キャッチと理性の確認」という項目のなかで、科学や学問や問題解決などの発想について、「情念がとらえ、理性がこれについで確認する」と表現している。それにも関わらず、私たちは、理性の確認のあとにできあがった完成品としての学問の姿ばかり習ってきたのではないか。「学ぶ」という言葉は「まねぶ」(まねをする)という語義をもつ。ぼくは、『生涯学習か・く・ろ・ん』では、この言葉を消極的、受動的だとしてやや批判的に解説したが、今は、「まねぶ」こと自体は学習にとって非常に重要なことなのだと思う。ただし、それが、学問生成の初期形態としての「情念がとらえる」部分からも学ぶことになるのでなければ、やはり「求め学ぶ」積極性にはつながらないといわざるをえない。そうでなければ、つまり、完成品としての学問だけしか与えられないのであれば、一人一学説といわれる現代という時代においてさえ、私たちはいつまでたっても学問を創造する側にはなれないのである。