生涯学習時代における大学の役割  -平成6年度神奈川の大学における生涯学習関連事業実施状況調査結果から- 昭和音楽大学短期大学部 助教授(社会教育学)       西村美東士 はじめに  −現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として−  今回の調査結果全体からは、施設開放で66.7%、公開講座で74.6%、社会人入学特別選抜制度で39.7%、科目等履修生制度で73.0%、単位互換制度で50.8%、生涯学習推進組織で61.9%など、多くの大学(短大を含む)が生涯学習関連事業を実施していることがわかる(平成6年、図表1)。この調査結果からは、まずは、市民や学生の生涯学習への関心の高まりを大学側がかなりよく反映していると評価することができよう。 図表1 神奈川の大学における生涯学習関連事業(平成6年度実績)  市民や学生の大学への関心の1つには、社会人入学、科目等履修生制度、単位互換制度などに見られるように、大学卒業資格や単位を取得するための学習結果重視型のやや「きびしい生涯学習」を行なうことによって変化の激しい今日の社会を生き抜こうとするものがある。しかし、現代人の生涯学習欲求の高まりは、「厳しさ」だけに向けられているわけではない。2つには、公開講座など、どちらかというと学習過程重視型の「たのしい生涯学習」への欲求を満たすものがある。このような「厳しさ」と「楽しさ」の2つの側面からの両方の生涯学習への現代人の欲求に、多くの大学は応えようとしているといえる。  従来の高等教育(大学・短大)においては、学生の恒常化した私語によって授業が妨げられるなどのことから、いまや学生の学習意欲の存在そのものさえ疑う大学関係者もいるほどだ。こういう高等教育の「権威失墜」が生み出された社会的要因としては、--1.従来の「学歴偏重」(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を育てたり評価したりできないという社会的な認識が普及しつつあるため、2.逆に「学校歴偏重」(どこの大学のどの学部の卒業か)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしているため--という2つの理由があげられよう。だから、ごく一部の大学・学部の「自他ともに認めるエリート予備軍」を除いた大多数の学生が、「賢明にも」学士になるだけのための教育には、過大な期待や、その受け手としての自負をあまりもたなくなっているのだ。  そういう状況の一方で、現役学生を含めた多くの現代人のなかで、生きがい創出、自分さがしなどの自己実現や、職業、ボランティア活動などの社会的役割遂行のための切実な学習欲求が、急激な広がりと深まりを見せている。これらのニーズ全体が、生涯学習社会形成に向けた社会創造のパワーとしてふくらみ始めているのである。そのふくらみは、革新のない過去の高等教育が色あせていく道程(みちのり)と、あたかも反比例するかのような目覚ましさである。生涯学習関連事業の実施のなかでそういう人びとの猛烈な学習欲求に接している大学のほうも、新しい出会いと気づきの体験と自己革新をしている最中といえるだろう。  また、こういう大学の革新によってこそ、従来の学歴偏重社会の「エリート」を育てる方向ではなく、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」(学校教育法第52条「大学の目的」、短大は若干異なる)という方向での高等教育の根幹部分自体の進化・発展も可能になると考えられる。つまり、大学の枝葉の役割としての狭義の生涯学習関連事業だけでなく、高等教育全体のあり方が生涯学習社会の形成というフレームのなかで考え直されなければならない時期にきているのである。 [本論に掲載した図表(グラフ)に関する注意事項] @ 凡例の数字は大学と短大の合計である。 A 平成元年、2年については、大学の項目に単独大学院(総合研究大学院大学、東京工業大学大学院)  を含む。 B 施設開放及び公開講座の内訳数字は、複数回答のため、大学数とは一致しない。 C 「聴講生」及び「科目等履修生」の項目については、聴講生制度を科目等履修生制度に変更した大  学、聴講生制度及び科目等履修生制度併置大学、新たに科目等履修生制度を設置した大学があり、前  年度と単純に比較できない。 D 動向を把握するためにスムージング処理を施してある。 1 市民の多様化・高度化する学習ニーズへの対応を  生涯学習あるいは成人の学習の特徴として、自己管理型学習(self-directed learning)であるということがあげられる。すなわち、--みずからが学びたいと思うこと(欲求中心の自発的学習)や学ぶ必要があると思うこと(課題中心の問題解決型学習)を、学びたい手段で学ぼうとする--のである。そういうニーズが多様化、高度化する現在、大学の生涯学習関連事業もそれに対応しなければならないのは当然である。  たとえば大学公開講座では、その生成期においては、「一般市民のために」という名目のもとに高等教育としてのレベルを根本からないがしろにしたり、「教員の公平な分担」という名目のもとに焦点化されていない総花的で非体系的なプログラムに陥ったりする傾向があったようである。しかし、最近の公開講座は、多様化し、高度化する市民の生涯学習ニーズに応えて、本来の高等教育機能の拡張としての公開講座を志向する大学が増えている。これは、最近の発展段階のひとつとして評価されよう。  神奈川県リカレント学習セミナー事業(平成6年度)では、「食品・栄養分野の新しい視点」(相模女子大)、「パソコン基礎知識と情報化社会へ向けて」(産能大)、「管理職を目指す女性のために」(フェリス女学院大)など、各大学の特性を生かして、ある程度焦点化され、系統化されたプログラムが実施されている。また、専修学校においても、「合唱指導法」(昭和音楽芸術学院)、「専門家のための造形講座」(早見芸術学院専門学校)などのプログラムが指導者や専門家のために特化したかたちで提供されている。全国的にも、文部省のまとめた国立大学の公開講座開設予定調査(平成6年度)によれば、「プロフェッショナルを目指す人のための経営の基礎」(福島大)、「教育実践研究講座」(愛媛大)などの専門的な講座が開かれている。  大学の生涯学習関連事業全体についても同様のことがいえるだろう。今後も、学習者層の拡大のためには、親しみやすい入門的で広い範囲の学習内容の提供が必要ではあろうが、大学側がそれだけに甘んじていて、市民の多様化、高度化する学習ニーズに対しては、「人がたくさんは集まらない」「手間がかかる」などの消極的な理由から対応できないままでいると、その事業を「大学が」行なっているからこその魅力を失い、よって、学問の深い意味での楽しさをも失って、いずれは市民から見離されることにもつながりかねないのだ。 図表2 公開講座実施大学数 2 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を  今回の調査によると、県内の3/4近くもの大学で公開講座が行なわれていることがわかる。しかし、その経年変化をみると、実施大学数としては、「県の委託」が減っている分、「市町村と」や「自主開設」が増えているだけで、全体の数は頭打ちになっている(図表2)。この背景には、地域に根ざした大学拡張や大学側の主体性の拡大を重視する県の方針があるのだと思われる。むしろそれは望ましい傾向として評価することができよう。ただし、実施大学数の増加が緊急課題であった段階はすでに過ぎ去りつつあることだけは確かなようである。  そうだとすると、県内の生成期の大学公開講座のままでは限界に達しており、今はそれを実施する大学を増やすことではなく、講座の質を進化させることが求められているといえるだろう。数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行なっているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題なのではないか。  先に述べた市民の多様化、高度化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。  さらに、そこで大学側が率先して主体性を発揮することが期待されるのは、学習内容の研究の側面はもちろんのこと、学習方法の開発の側面にまで及ぶ。たとえば、社会教育の世界では、すでに1971(昭和46)年に社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」において、「個人学習の促進」の重要性が指摘されている。これは、当初はおもに放送教育や通信教育が想定されていたが、その後は、学習情報提供や学習相談などの支援形態としても発展してきている。これらの動きは、社会教育というと学級・講座一辺倒のマス(集団)至上主義という昔からのイメージがあって、それが時代にそぐわなくなってきたため、集合学習(講演会、音楽会、映写会などの「集会学習」と、学級・講座、団体活動、宿泊訓練などの「集団学習」)への支援を、個人学習への支援と統合的にとらえて発展させようとするものとして評価することができよう。  また、高等教育の世界でも、たとえばロンドン大学では、「学習は個人的事象である」ことを基本テーゼとして、「多人数で行なう講義」については「教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離」などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」とし、そういう従来の「講義法」に「小集団討議法」「個別的・自主的教授法」などを対置させた教授法の手引きを、教員訓練研修プログラムのテキストとしている。( ロンドン大学教授法研究部、喜多村和之他訳『大学教授法入門−大学教育の原理と方法』玉川大学出版部、1982年)  学習内容の工夫だけでなく、大学公開講座の受講という学習プロセスのなかで学習者がよりいっそう主体性を獲得できるような学習方法をこのように講ずることによってこそ、自己の潜在的学習欲求に学習者みずからが気づき、それを顕在的学習欲求に転化させることができるのである。少なくとも「一斉承り型学習」と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが、今後の大学公開講座の運営には求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。 3 高等教育の制度等の柔軟化と個性化を  つぎに、従来から行なわれてきた高等教育自体の制度等が、生涯学習の観点のもとにどのように再編されつつあるのかをみてみたい。今回の調査によると、社会人入学特別選抜制度、科目等履修生制度、単位互換制度などが、それぞれ急速に整備されつつある(図表3)。たとえば、科目等履修生制度は、制度化している大学、在籍者がいる大学ともに、直線的な伸びを示しており、従来からの聴講生制度の後退を補って余りあるものがある。 図表3 制度等の整備大学数  過去の学歴偏重社会においては、固定的な年代や時期の、固定的な一定期間の、固定的な場で行なわれる高等教育に重きがおかれ、それ以外の学習や卒業後の学習には比較的、関心が払われてこなかった。しかし、今後の生涯学習社会においては、社会の変化や進展に応じて、卒業後も繰り返し教育の場に立ち返って学習(リカレント学習)を進めることが求められていることから、大学の側もそういうニーズにいっそう柔軟に対応していく必要がある。  このことに関連して、2つの重要な生涯学習の観点を述べておきたい。それは、--1.人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、なるべくその時期を逸しないようにして、それぞれの時期の課題に適した学習を行なうことが望まれるという観点、2.人間は一生のあいだ、さまざまなかたちでつねに変化・発達を続けることが可能な存在であるのだから、生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができるという観点--である。従来、とくにあらたまった論議などでは、ややもすると1ばかりが強調され、生涯の各時期における「教育目標」が固定的に受けとめられてきてしまった傾向があったのではないか。大学の側が本音のところではそういう前者の考え方だけに固執しているのだとすれば、せっかく大学の扉をたたいてくれている社会人や大学既卒業者は救われない思いになるだろう。「思い立ったが吉日」「人生のすべてが勉強」などのごくあたりまえの庶民感覚を大学も大切にしなければならない。  さらにいえば、これらの制度が柔軟になり、学ぶ人やときや機会に関して融通がきくようになるということは、もうひとつの側面からいえば、それぞれの大学の場で提供されるカリキュラム自体は個性的で独自なものであるということが前提となる。つまり、その大学のカリキュラムが社会のなかで自立的価値をもっていることが自他ともに認識されているからこそ、他大学、職域、地域や社会で広く行なわれている学習の機会に対しても、自大学とは異なる価値を寛容に認めることができ、依存すべき点はさわやかに依存することができ、連携を考える精神的ゆとりもできてくるのである。また、これらの制度の柔軟化によって、大学が他の学習機会との互換性をよくしたり、外からの風を呼び込んだりすることは、その大学にもいきいきとした個性とさわやかな自信を与えてくれるだろう。  このような「自立と依存の統合的発展」ともよぶべき現象は、じつはネットワークの特性そのものを表わしている。県内の多くの大学が先に述べたような制度の柔軟化を図っているということは、大学ネットワークや生涯学習ネットワークの形成につながるのだ。 4 市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を  1988年に開設され、社会人が入学できる大学や大学院の募集状況や試験科目を紹介している民間団体「大学入学情報図書館RENA」は、「社会人に開かれた大学展」を開催して約40の大学・短大が社会人入学や公開講座、通信教育の情報を公開している。このような団体やイベントが民間ベースで運営されるようになってきたことは、それだけ大学に関する情報への人びとの関心が高まっていることを示している。  このような情報ニーズの高まりに大学側が応えようとする場合、つぎの2つを考えなければならないだろう。--1.パブリシティ(広告・宣伝)として、2.情報提供として--である。1については、従来の入学募集案内の枠を越えた、人びとの生涯学習への関心を掘り起こすようなメッセージ性のあるものをめざす必要がある。  また、とくに2については、学習者の側が知りたい情報が的確に掲載されていて、なおかつ、なるべくたくさんの網羅的な大学の情報を学習者が比較・検討できるようなサービスが求められている。これについては、全国で公的に整備が進められている生涯学習情報提供システムと連動させるかたちで対応することが考えられるのではないか。 図表4 施設開放実施大学数  たとえば、神奈川県生涯学習推進協議会は、平成元年9月、「神奈川におけるリカレント学習システムの整備について」を提言し、その後、「リカレント学習推進専門部会」で、「神奈川におけるリカレント学習機会に関する情報の整備・提供」と、その情報提供に相談・助言のサービスを加えた「コーディネート機能」を検討事項の柱に掲げて議論を進めているところである。さらには、「生涯大学システム企画専門部会」では、大学を含めた生涯学習の推進に関わるさまざまな県内の機関が提供する学習機会を体系的・総合的な学習機会として県民にわかりやすく提供する「生涯大学システム」を構想しようとしている。大学と県とがたがいに主体性を発揮しながら、このような生涯学習の統合的情報の提供のために有機的な連携を図ることが望まれよう。とくに後者の情報提供にあたって重要なことは、学習者主体の情報提供によって学習者自身の自己決定を促すという触発の姿勢とともに、「(情報を)こちらから届ける」というサービスの姿勢である。  生涯学習関連事業においては、こういう学習者中心のサービス姿勢を、情報提供においてのみならず、施設開放や公開講座の実施においても徹底することが今後の重要な課題となろう。いまや2/3の大学が施設開放を行なっており(図表4)、大学の市民への開放性の高まりを感じさせるが、その「開放性」がどれだけ市民の実際のニーズとマッチしているかについては、まだまだ覚束ない大学のほうが多いのではないだろうか。「大学教育に支障のない限り、自由にご利用ください」という姿勢も発展のひとつだろうが、生涯学習の時代はそのつぎの段階への発展を大学に求めているのである。それは、先の大学情報のように「届ける」「触発する」という姿勢である。  まさか校舎や体育館やグランドなどの施設は「届ける」というわけにはいかないが、大学を訪れたいと思った市民が「どれだけ容易に目的地に到達できるか」(アクセシビリティ)を配慮する精神が求められる。車のない人はどうか、お年寄りはどうか。また、車椅子でも、大学の玄関から2階の開放している図書館に昇れるだろうか。さらには、バス停を降りてから大学の玄関までの歩道はどうなっているか。居合わせた自校の学生は、お手伝いするだろうか。こういう心配りをすることをオープンマインド(開かれた心)というのである。  平成6年10月、横浜市立大学は街づくりが進むヨコハマポートサイド地区ビル内に「よこはまアーバンカレッジ」を開設した。これは、リカレント講座などを開催するための会場として、研修室、セミナールーム、ラウンジなどを備えたもので、同大学としては、この会場を市内や県内の他の大学にも開放し、共同講義の開催も手がけたいということである。全国的にも「エクステンションセンター」の名称などで、それを大学の立地とは別に街中に設置する同様の動きが見られるが、最大限のアクセシビリティとして評価できる。そして、これらの動きこそ、公開講座の「デタッチドワーク」(Detached Work)の萌芽といってよいだろう。  「デタッチドワーク」とは、英国で行なわれているユースワークの形態のひとつである。それは、「施設を基盤としないユースワークという程度の意味であり、適切な日本語の訳はない。これは、ユースセンターやユースクラブなどの施設に青少年を集めてユースワークを行なうのではなしに、青少年が正に生活している街角、喫茶店、パブなどにユースワーカーの方が出かけて行き、青少年に関わろうとするものである。これは先に述べたように、従来のユースサービスに参加してこない層にアプローチする方法として実施されているものである」(田中治彦『学校外教育論』学陽書房)。  大学が施設を開放する。つぎには、公開講座などによって機能(教員の教育機能等)を開放する。さらには、「よこはまアーバンカレッジ」のように市民のアクセシビリティ優先の拠点を配置する。このような施設開放と機能開放の進化の方向の先には、街のいたるところに大学のポスターが貼られ、街じゅうのさまざまな生涯学習の場で大学の教員が活躍する「デタッチドワーク」の姿が見え始めているのだ。 5 市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を  生涯学習の要点のひとつに「自己管理型学習」があるということはすでに述べたとおりである。ゆえに、学習の評価については本人の「自己評価」がもっとも重要である。しかし、一方で、学歴偏重社会から生涯学習社会への転換にあたって、本人の「学校歴」に偏らない「学習歴」などに対する「社会的評価」の適正化が重要な課題になる。その場合、とくに「きびしい生涯学習」については、どうしても高等教育の過去のイメージを引きずってしまい、市民側も大学側もともに、教える側の制度化された「権威」が至上のものになりがちである。そして、「学びたいから学びたいことを学んでいる」という自己責任の原則が忘れ去られ、学習態度を依存的なものにしてしまうのである。これでは、生涯学習も、過去の教授者主体の「一斉承り学習」とあまり変わらない結果になってしまう。  もちろん、大学卒業資格や単位の取得という学習結果の存在意義を全否定することはだれにもできないだろう。しかし、生涯学習社会への転換において大切なことは、そういう資格・単位の認定に関わる制度的な改善をも含めた「評価の適正化」である。「学校歴」に偏ることなく、「学習歴」を問わなければならないし、また、単位や資格の取得を争う大人どうしの受験地獄にしないためには、学習結果としての「学習歴」に偏ることなく、一人ひとりの多様な個性と持ち味のある学習経過をも尊重しなければならない。  さらには、学習成果の評価についてのより本質的で積極的な意義としては、何よりも学習者本人がつぎの学習行動を主体的に決定するために不可欠であるということがあげられる。それゆえ、適正な評価のためには、ガイダンスやコンサルティングなど、学習者と援助者との相互的な営みが必要になる。したがって、生涯学習関連事業においてなされるべき学習成果の評価のあり方を検討することは、--従来の高等教育が学生の主体的な学習能力の向上を本当に評価できていたのか、社会教育が市民みずからのもっていた学習目標の講座修了時の到達の成否に関心をもっていたのか--というように、今までの教育への鋭い問い直しにもなるのだ。  以上に述べた「学習成果の評価」にならんで、「大学教育への評価」も重要である。今まで学習者側から批評を受けることなく過ごしてきた高等教育にとって、学習者主体の生涯学習とその支援の理念は、自己評価の充実の面でも大きな契機となるだろう。18歳人口の激減を目の前にして、多くの大学で「サバイバル」をめざして「自己点検・自己評価活動」の取り組みが行なわれ始めている。しかし、もし18歳人口が減る見込みがなかったら、そういう活動をしなかったのか。しかも、「大学の自治」の名のもとに。「大学の自治」とは、ときの権力の干渉を許さず、しかし、学習者や世間の評価も参考にして、教員が厳しく「自己点検・自己評価」を行なうという前提があるからこそ成り立つことではないか。  昭和音楽大学生涯学習センターでは、リカレント学習推進モデル事業として、アート・マネジメントに関する講座を開いている。そのアンケートを見ると、受講者の評判はおおよそ良好といえるが、そんなことは当たり前のことであって、「自己点検・自己評価」をするためにはそれで安心してしまってはいけない。とくに自由記述の項目では、「新鮮であった」「鼓舞された」などの肯定的評価とともに、「だいたいは知っていた」「定刻に終了せよ」「テ−マと内容が少し違う」「もう少しちゃんと知りたかった」「いささか平凡であった」「もう少し実例を立てて、現状を踏まえて」などの批判のほか、「○○先生はやめたほうがよい」というものまである。こういう指摘が事業者側の「自己点検・自己評価」に役立つのである。  もちろん、「○○先生はやめたほうがよい」と一人に書かかれたからといって、かならずしも、次の事業からはその○○先生を依頼しないようにするということではない。学習者からのこういう事業評価に対して事業者は、「少なくとも、この回答者はそう感じた」という事実を逃げずにありのままに受けとめ(受容)、そのうえで主体的に判断すべきなのである。とくに、大学の授業を学生に評価させる場合などに教員の抵抗が強いのは、相手からの評価のこういう受けとめ方について、まだ理解が十分には広まっていないからなのではないか。教育側と学習側の相互の批評は、否定ではなく批判であり、主体的な両者の基本的信頼にもとづく協働の「共生活動」なのである。市民や学生からの評価を率直に受けとめてこそ、大学みずからも主体的に自己評価することができるのだ。  昭和音楽大学では、リカレント学習推進事業の自己評価や、そこでの厳しく熱意ある社会人からの指摘も参考のひとつにして、平成6年度に、4年制大学としてはわが国では初めて、音楽芸術運営(アート・マネジメント)学科を開設した。これは、各地で増加しつつある文化会館やホールにアート・マネジメントの資質・能力をもつ人材があまり配置されていないために適切な運営がされていないという全国的な文化状況を打開しようとするものである。  学習側が教育側を批評するということは、自己管理型の生涯学習にとって重要なことである。学習者が事業評価や授業評価をするということは、学習者が学習者としての責任を果たすということである。かれらの否定ではない批判は、主体的な学習態度の一環であり、ともに生きる(共生)ための信頼と共感にたどりつくまでのプロセスである。その批評を誠実に積み重ねることによって、学習者の主体性もいっそう確かなものに育っていく。つまり、事業・授業評価は、大学と市民・学生がともに育つための「共育活動」の一環なのである。 6 学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を  神奈川県生涯学習推進協議会は、平成6年2月、「神奈川における生涯学習ネットワーク整備に係る方策について」を提言し、「各個別の機関における生涯学習担当組織の整備・充実」について、つぎのように述べている。  「生涯学習ネットワークを推進するためには、各生涯学習関係機関に社会人一般の学習ニーズに対応するための受け皿となる窓口を整備することが必要である。例えば、大学・短期大学にあっては、近年、学内組織として『生涯学習センター』あるいは『エクステンションセンター』等を設置する動きが県内でも増しつつある。ただ、必ずしもこうした大がかりな組織の整備に限らず、各大学・短期大学や地域実情に応じて、学内に『生涯学習(あるいはリカレント学習)担当』として業務に当たる者を特定するなど、他機関とのネットワーク窓口機能を整備することが望まれる」(下線は筆者)。 図表5 生涯学習推進組織をもつ大学数 (後方のグラフは全大学数の経緯)  実際に、今回の調査では、何らかの生涯学習推進組織をもつ大学がこの2年間で大きく増えたことが明らかになっている(図表5)。しかし、つぎの段階の課題は、本提言もいうように「必ずしも大がかりな組織の整備」をすることではなく、推進組織を大学経営全体から位置づけるという質的課題であると思われる。提言では、その窓口の意味を「他機関とのネットワーク窓口」としているが、筆者としては、「大学全体の総合的な生涯学習推進のための学内窓口」という役割を付け加えたい。そうだとすると、たとえば窓口が教務部の下に置かれてそのラインのもとに入るのでは、総務部、学生部としての取り組みがその分、弱くなって、学内全体の取り組みにはなりえない恐れがある。推進組織自体は大がかりでなくてもよいが、大学の総合的な経営のひとつとして専門的に関われる位置づけをする必要があるのだ。企画や調整というラインのひとつとしてか、あるいは、いずれかのセクションの下に置くのであれば、そのラインからやや外れて独自の実行機能をもち、ほかのセクションに対しても調整力を行使しうるスタッフ機能として位置づけたほうがよいと考えられる。  現在、生涯学習推進行政の体系化にあたって、各地の自治体で生涯学習推進のための中核セクションをどこに置くかが問題となっている。具体的にどこに置くかは、大学の推進窓口の設置と同様に、それぞれの組織体の実情に応じて判断すべきことであり、ひとつの決まった答えがあるわけではないが、たとえば教育委員会のなかで学校教育課等と並列に置かれてしまっては困るのである。なぜなら、生涯学習時代においては、学校教育も大きく生涯学習推進施策の一環として他の推進機能と統合的に展開される必要があるし、そればかりか、他の一般行政部局にも生涯学習理念の貫徹が必要になるからである。そのためには、ピラミッド型の権力的な作用としてではなく、ネットワーク型の生涯学習的な作用としてだが、どこのセクションとも対等な連絡調整機能が発揮できるように位置づけておかなければならない。たとえば、文部省では生涯学習局が昭和63年7月に誕生したが、従来の筆頭局の初等中等教育局に代わって、生涯学習局が筆頭局として位置づけられいてる。  これは大学においても同様である。学内の生涯学習推進組織または窓口をどう整備するかということは、来たるべき生涯学習社会に向かっての大学経営全体の基本的・総合的理念を表すものであり、企業のCIに匹敵するほどの大学のアイデンティティそのものに関わる重要なことがらなのである。 7 他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を  学都復活へかける京都市では、平成5年3月に「大学のまち21プラン」をまとめ、これを受けて7月には、京都府下42(市内39)の大学が参加して、履修単位の互換、共同講義の開催、大学経営の共同研究、図書館等の施設の相互利用、文化施設の割引等の特典を備える学生共通カードの発行、リカレント教育等の生涯学習プログラムの開発・開講などに取り組む全国初の大学連合組織「大学センター」の準備組織が発足した。また、その京都市が呼びかけて大学の集積度の高い9市が全国から集まって「大学都市連合」が発足し、同年9月には「地域における生涯学習と大学」というテーマで「大学都市会議」が開かれた。そこでは、「開かれた大学の実現は地域社会との連携や支援から」、「大学は貴重な都市資源」という論調のもとに議論が進められた。ほかにも「大学の街」の構想としては、西宮市の「カレッジタウン西宮」(期間を定めての全大学開放等)、八王子市の「学園都市づくり」(市民との交流センター計画等)、福岡市の「福岡研究学園都市」(アジアの交流拠点づくり等)などがあげられる。  このように、大学どうしで、あるいは行政等の他機関と、さらには地域社会全体と、ネットワークを形成することが生涯学習推進事業を行なおうとする大学には必要である。まずは、さしあたり、他大学、放送大学や専修学校との単位互換を考えるべきであろうし、研究や生涯学習推進の面などでの企業との連携も考えられよう。そもそも大学が市民にも目を向けるということは、基本的にはこのような他大学、他機関、地域社会に対して自信にあふれたネットワークマインドをもっているからこそのことである。  ネットワークの特性のひとつは、すでに述べたように、「自立と依存の統合的発展」であると思われる。大学としての独自の存在意義をもっているからこそ、異なる自立的価値をもつ他者と対等に連携することができる。また、そういうネットワークにおいては一方的な関係ではなく、相互のギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。たとえば、大学は行政や地域に対して「有益な都市資源」としての存在価値を発揮し、行政や地域はそういう大学を信頼し支えようとするのである。このような対等で相互に主体的な協働の関係が、大学の生涯学習ネットワークには求められている。  神奈川県生涯学習審議会は、平成6年5月、「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」を答申した。そこでは、行政と民間等の関係について、「協働」という言葉がキーワードになっている。これは、--1.「役割」の違いをふまえた上で施策や事業の推進を協力しあうという「役割関係」の重視、2.県民を客体(対象)としてとらえるのではなく、県民の「主体的参加」の重視--の2点を強調しようとする言葉であるという。答申もまさにネットワーク型の関係を志向しているといえる。  本答申は、リカレント学習の総合的展開を含めた県の生涯学習振興の基本的方策を示したものである。この種の答申が最終的にめざすものは、地域や社会全体における生涯学習推進計画の樹立であるといえよう。この計画の一番の担い手は誰か。それは市民自身である。しかし、社会は、学習を望む者が「学びたいことを学びたい手段で学べる」条件を整備することによって、その学習を支援しようとする。こういう社会を生涯学習社会と呼ぶことができる。生涯学習社会は、当然ながら、行政の力だけで実現するものではない。関係諸機関や地域全体という支え手が必要になる。それゆえ、生涯学習時代を迎えるにあたって、大学も、地域や社会の生涯学習推進計画の重要な支え手としての自意識をもつことが期待されるのである。 おわりに  −生涯学習理念にもとづく大学の自己革新をー  今まで述べてきたことをもとにして、「生涯学習時代における大学の役割」を筆者流に簡潔にまとめていうとすれば、つぎの3点になると思う。 (1) 生涯学習社会を担う学生を養成する役割−学内で生涯学習を  現代青年としての学生は、生きる主体性の喪失の危機に瀕している。「保護と管理」ばかりを学校、家庭、社会から与えられ続けてきたことによって、学習やコミュニケーションなどにおける自己決定、自己管理、自己責任の能力がかなり損なわれているのだ。大学が生涯学習の観点に立って学生の主体的学習を支援し、自己管理能力の向上を促すことによって、かれらを今後の生涯学習社会を担う人材として養成することが求められている。 (2) 社会の変化を先取りし、リードする役割−学内の高等教育を学外に  急激に変化する現代社会は、つねに自己革新を続けて時代を先取りするリーダーとしての役割を大学等に求めている。とくに職業人は、知識・技術等の急激で高度な発展のなかで、学校卒業後も繰り返し教育を受けて今日の到達点を学び直す「リフレッシュ学習」の必要を感じている。また、高等教育とは別の形態としての生涯学習関連事業においても、時代のつぎの方向を示す役割が大学に求められている。 (3) 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割−学外の生涯学習を学内でも  成熟化する現代社会においては、人びとの関心はモノからココロに移りつつある。そして、「(地位や財産を)もつための学習」(have)より「(人間らしく)あるための学習」(be)に価値がおかれる。そこでは「癒しと発達」の両方が求められる。その学習は、生涯にわたって行なわれる「リカレント学習」である。これに対する大学の支援が大いに期待されるとともに、その出会いは大学にとっても「生涯学習の新しい風」として重要である。  今回の調査では、多くの大学で生涯学習関連事業が積極的に取り組まれつつあるということが明らかになったといえる。しかし、その努力が、迫りくる18歳人口の激減に対しての「大学サバイバル」のための延命策としてだけに終わってしまう大学があるとすれば、それはたんなる「サバイバル・ノイローゼ」の一過性の症状でしかなく、生産的な結果にはつながらないことが容易に想像できるし、また、第一、あまりにも切ない「わが身かわいさ」の御都合主義でもある。もっと、何のための大学か、何のための大学拡張なのかという本筋から事業を発想する必要があるだろう。  ゆえに、大学の「生涯学習化」(生涯学習理念にもとづく自己革新)の成否は、学内の教員と職員の意識変革にかかっているといってもよいと思う。「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的な守りの大学経営から、「学習者の支援という大学の社会的な役割をより時代にあったかたちで遂行し、みずからもそれを味わい、喜ぶ」という積極的な攻めの大学経営に転換する必要があるのだ。これは大学に求められている「経営革新」であるといえよう。  最近のちょっとした企業は、収益を上げるだけでなく、その他の社会貢献活動や文化支援活動などにもまともに取り組むようになりつつある。しかし、大学においては、教育(学習援助)をとおした社会貢献や文化支援という活動はそもそも本来の責務である。だからこそ、私学に対しても、やや貧弱とはいえ、国民の税金が支出されるのであろう。ただし、そういう大学の新しい責務の遂行とそのための革新は大学の自己決定によるべきものであり、また、惨めな「サバイバル・ノイローゼ」などとは異なる自信に満ちた「楽しい」営みでもあるはずだ。  ひとは自己と他者への受容(無知と非力の自他をあるがままに受け入れ、なおかつ、そういう自他への基本的信頼感をもつこと)ができてこそ、自己変容に向かうことができる。そこでの変容とは、固定化した枠組みをそのままにして知識や技術などを詰め込むことではなく、外界の異なる枠組みを取り入れて自己の枠組み全体を変化させることである。大学が生涯学習関連事業などに取り組み、生涯学習支援のネットワークを形成することによってみずからの「生涯学習化」を進めていくことは、過去の学歴偏重社会につくられた大学の枠組みを自己変容させることにほかならない。そして、そういう大学の変容は、個人のレベルでの学習行為と本質的にはまったく同じ経緯をたどるものであり、自己管理型の生涯学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくできる世界)と出会うのと同様に、大学も自己管理型の「生涯学習化」のなかで自己変容という学習の楽しみと出会うことができるのである。 参考文献(拙著) 『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社 『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』 学文社 著者紹介  昭和音楽大学短期大学部助教授。社会教育主事課程担当。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。  生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報提供、パソコン通信、パソコン活用などを研究中。神奈川県、県内各市町村の生涯学習関連委員、神奈川県青少年協会中長期計画策定委員のほか、総務庁、文部省、第二国立劇場、千葉県などの情報システム関連委員、東京都、佐野市、桶川市、葛飾区、中野区、練馬区、大和市などの生涯学習関連委員、全日本社会教育連合会月刊誌「社会教育」の編集委員などを務める。また、狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師など、社会教育現場でも頻繁に活動している。 問い合わせ先 〒243 神奈川県厚木市関口808 昭和音楽大学 PHONE 0462−45−1055 -2-