大学生のための進路指導のあり方 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(S短大社会教育概論、女)  社会教育主事課程は以前から取りたいとは思っていて、どんな内容の授業なのかと楽しみにしていました。けれど今までいくつかの講義を受けてみて少し不安になりました。人はこういうときどう感じるのかとか、このことについてどんなふうに考えるのかなどという抽象的な心理学のような授業を、どんなふうに吸収して学んでいけばよいのかわからないのです。予習・復習というような科目ではないし、やはり自分の考えをしっかり持っていることが大切だと思うのですが、いまいち授業の波に乗れません。堅く考えすぎなのかもしれませんが、今の正直な気持ちです。けれど先生の授業はなんだかとてもリラックスして受けることができます。 学生の出席ペーパーより((T大T部社会教育計画、女)  先生がもっとゆっくり話してくださればいいと思います。あまり早口でずっと話していると疲れるでしょう。私は他学科なので生涯教育については何も知識がないので、一般人にもわかりやすく教えてください。 mito 第1回の「オープニングセール」において、このmito的授業の目的について、一応は、「幸せになるために生きている」→「生きることを学ぶために学生をしている」→「だから、この授業では、幸せに生きるということを考える」→「幸せ(コミュニケーション)を相手に与えることができるから自分自身も幸せになる」→「そのために、他者の幸福追求の援助者(幸福配達人)としての社会教育主事の資質・能力を身につける」というオリエンテーションをしたと思う。しかし、ここでは、もう少し別の視点から説明してみよう。社会教育主事課程を学ぶということには、社会教育主事としての資質・能力を身につけるということと、採用試験に合格する力をつけることの2つの目的がありうるのだろう。人によって、そのどちらでもいいと、ぼくは考えている。  前者の社会教育主事としての資質・能力については、社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」(昭和61年10月)において、@ 学習課題の把握と企画立案の能力、A コミュニケーションの能力、B 組織化援助の能力、C 調整者としての能力、D 幅広い視野と探求心、の5つが挙げられている。これが現在のわが国の社教主事養成の基本指針である。mito的授業も、これらの資質・能力の獲得を目指したものと考えてもらってよい。そして、このような資質・能力は、学習者がたとえ社会教育主事にならなくても、この現代社会で、一度しか生きられない人生を大切にていねいに生きていくためには、いろいろと役に立つだろう。  しかし、後者の採用試験に合格する力については、前者の努力のほかに、ほかの努力も必要になる。この種の質問が多いので、ここでそれについて触れておこう。まず、5年間分くらいの「カコモン」(過去の問題)を解いて「傾向と対策」を把握することが必要だ。それは、今の自分のままでは、どこが採用側から切られる要因になるかを客観的に自己評価するために必要なことなのである。そのうえで、今の自分には足りない知識については、社会教育の基礎であれば『こ・こ・ろ生涯学習』の「ひとくちミニ知識」、生涯学習理念の関係であれば「生涯学習理念はなぜ新しいのか」、社会教育計画であれば『生涯学習か・く・ろ・ん』の「地方自治体における学習プログラム作成の視点」などによって、フォローするとよいだろう。そういうものは「書き言葉メディア」から学んだほうが、効率的だし、主体的な学習方法といえる。そして、ここに著者がいるのだから、声をかけてくれれば、(本心から)喜んで質問にも答えるし、ほかの参考書も紹介できる。  ただ、mito的授業自体も、社会教育主事採用試験に合格する力と無関係なわけではない。そもそも時代の流れは、mito的授業がキーコンセプト(鍵概念)にしている個の深みを重視するネットワーク型社会に向かっていると思われる。これからの採用試験には、それに近い事項の理解度を計るための出題が多くなるだろう。また、自己の思考を言語化して表わすトレーニングは、面接や小論文で自分の考え方を述べるときなどには、かなり役立つことと思う。  さらに、どうしても社会教育職員になりたければ、つぎのような就職活動が必要になる。mito的授業で身についたコミュニケーション能力、ネットワーク能力(ノウ・フウ)を生かして、全国の社会教育関係職員採用のチャンスを探し出し、手当たり次第に50箇所ぐらい受けるつもりになるのである。「数打ちゃ当たる」である。これが社会からあなたに与えられるチャンスをものにするコツである。これは、社会から許される範囲での賢い「厚かましさ」ともいえる。大切なときに厚かましくなれないと負け犬になってしまう。厚かましさもときには必要なのである。ネットワークも作らずにただチャンスを待っているだけのあなたをわざわざ誘ってくれる社会ではないからだ。社会があなたを選択する(切り捨てる)権限をもっていることをきちんと認識できて、はじめて、今度はあなたが社会から与えられた選択の自由を最大限に行使することができるのである。「落ちるのは劣等感を刺激されるから、合格する可能性の大きい選び抜いた所しか受けない」という姿勢で就職活動をする人がいるけれども、そういう敗北主義的な態度だと、社会教育主事という職業にかけるその人の情熱を社会が認めてくれるということは難しい。mito的授業における「人が生きること」(幸福追求)についての学習は、そういう敗北主義を克服して選択の自由の権利を行使するような実際の生きる力につなげることができるのではないか。余談になるが、社会教育を学んでいると演奏の力まで伸びるという今までの履修者の実績も、ひとつには、こういうところからきているのではないかとぼくは思っている。  mito的授業のもうひとつのポイントは、「夢(自分の生き方、自己の存在証明)を見つける」ということである。ここでいう「夢」とは、「社会教育主事採用試験に合格する」などというものではない。あなたの本当の夢は、「私だったらこういうふうに社会教育を進めていきたい」「聴衆を前にしてこの曲をこういうふうに演奏して感動を伝えたい」ということのはずである。今のところその夢を実現するために一番有利な近道だと思われるものが社会教育主事専門職やプロの演奏家として採用されることであるというだけの話なのである。社会教育の活動などは、極端にいえば、ボランティア活動であっても、その夢が実現できるかもしれない。実際にはどちらが有利かは、やってみないとわからないものだ。世間の物差しなど当てにならないものだ。大学だって合格したという事実だけで幸せな気分でいられたのは束の間であったことを思い出していただければ、そのことは理解されよう。「自分はどこに入るか」ではなく、「自分はどう生きるか」がまだはっきりしないから、高等教育のなかでそれを探し出すのである。これは、すなわち、生きることを学ぶということであり、自己を確立するということである。  mito的授業は、本当の夢の方への支援だと思ってほしい。学生の就職活動に対する大学学生部の役割は求人情報の提供などにあると思うが、教育的専門職員である大学教員の役割は、就職活動のプロセスのなかでの自己確立への教育的援助にあると思う。学生自らが「有利」になるために活動することはその人にとってはとても大切なことで悪いことではないが、特別な事情でもない限り、そんな個人的なことを教員として援助する気にはとうていなれない。ぼくが援助したいのは、自分の存在価値を求めて本当の夢を見つけようとする学生の自発的な営みである。ほかの教員だってそうであろう。これが高等教育における進路指導のあり方だと考える。そして、確かな夢をもっている人が必ずしも希望する会社や職種に就けるというわけではないというのも残念ながら現実だが、それでもかなりの人が結局は第2希望、第3希望ぐらいには入っていく。その学生の本当の夢を聞くことができれば、教員も精一杯応援する気にならざるをえないのだ。しかし、主体的な理念や考え方ももたずに社会的に有利だとされているところに入ろうと思う人がいても、これはまず間違いなく落とされるだろうということは、ほぼ確実にいえることなのである。社会は、そんな個人の勝手な都合などいちいち聞いてはくれないからである。  本人が本当の夢をはっきり認識できさえすれば、何らかの形でそれを実現することができるだろう。たとえば、ぼくの友だちは、「ユースワーカー」になりたくて、ぼくといっしょに就職活動をし、現在はY市ボランティア協会の職員をやっているが、彼は就職活動中、「就職がうまくいかなくても、ラーメン屋の屋台をやりながらでも、ユースワークはできる」と言っていた。今や図書館活動のメッカである日野市も、「リヤカー引っ張っても図書館だ」というたくましいやり方でスタートしたのである。このような意味から、mito的授業は、自分の現代社会との関わり方をあらためて考え直す機会としてとらえてほしい。 ● 個人の素晴らしさと、社会にそれを認めさせることの違い 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(S短大教育社会学、女)  初めてこの用紙に書きます。mitoちゃんの授業は、とても楽しいし、個性的だと思います。それで私が最近思うのは、他の大学では「教育社会学」という授業をどのようにやっているのかなということです。他の大学の教育社会学の授業でも、こういう内容をやっているのでしょうか。もし全然違う内容で、教員採用試験に出るようなことを毎週やっているとしたら、教員採用試験を受けようと思っている私にとって、とても心配です。私は教育社会学という授業はmitoちゃんの授業しか出ていませんから、今やっているこういう内容が教育社会学というものなんだと思っています。別にmitoちゃんの授業が不満なわけではありません。とても楽しいし、勉強になるし、これからも毎週出ようと思っています。ただ、ちょっと不安になったので書いてみました。 mito  mito的授業について「楽しいし、勉強になるし、これからも毎週出よう」と感じながらも、実際の教員採用試験を考えると不安になる気持ちは、ぼくにもよくわかるので、一般論にはなるかもしれないが、ていねいに答えてみたい。  教育社会学の「知識の量」を試す問題は、教員採用試験においてはあまり出題されない。社会学というものが、そもそも範囲が広すぎる学問だからということもあろう。教育社会学についても、教育が社会に及ぼす影響、社会が教育に及ぼす影響、そして教育のなかの社会など、その範囲はかなり幅広い。しいて言えば、「ピアグループ」の教育的機能と逆機能の理解などは押さえておいた方がよいかもしれない。そのほかの教員採用試験の「知識の量」を試す部分については、各自が「カコモン」(過去の問題)を解いて「傾向と対策」を把握することから始めなければならない。教育社会学では必須のデュルケームなどについては、「教育史」あたりの自己学習でカバーできるであろう。これらは、「話し言葉メディア」ではなく、「書き言葉メディア」(本)から効率的に学ばなければならない。  しかし、そういう自己学習を、問題関心なしに進めるのは至難の技である。「頑張ろう」という気持ちだけで頑張り続けられるものではない。学習はもともと関心があるからこそ行うものだから、ガンバリズムだけでは学習者は疎外感を感じてしまうのである。これが「受験地獄」と呼ばれる現象ではないか。ぼくの授業は、ひとつには、少しでも楽しく受験勉強をするために、そのことがらに対して問題意識をもつためのものととらえてほしい。  また、各地の教育委員会も、最近はとくに、表現力やコミュニケーション能力など、生涯学習時代の学校教育の役割(自己教育力の育成)を実現できる主体的な力量を、新規採用教師に求めるようになってきている。自分の頭で考えて、言語表現を使ってその思考を相手にもわかりやすく外在化させることができる力量を求めるようになってきているのだ。論文や面接などで、そういう力が試されることになる。そういうとき、ぼくの授業で、ああでもない、こうでもないと、自分の頭を使って考えた時間は、きっと役に立つと思う。自分のフィルターを通して、そのテーマについて話し、書くことができるようになるだろう。それができるようになれば、「自分は知っていると思う」「自分はこう思っていると思う」という状態から、自分が無知で非力であることや思考に欠陥があることを具体的に自覚したり、そのなかでも知っていること、思っていることを言語で表現したりできる状態に発展させることができるのである。しかも、授業で扱っているテーマは、身近なことばかりのようだが、じつは、学習者という個人と、ときには個人の個性を抑圧する親や教師や友達など(社会)との関係を、個人の学習援助としての教育という視点から追求しようとするものであり、教育社会学の本質的なテーマとも一致しているのである。あとのテーマの料理の仕方は、高等教育においては、教員一人ひとりによってまったく異なるものだ。今や学問は「一人一学説」の時代なのだから。  社会(ここでは新卒者を採用する人事窓口)は、個人に「素晴らしさ」そのものを要請しているのではないのではないか。なぜなら、そんなことをいえば、だれだってそれなりに素晴らしい存在だからである。それよりも、各人がさまざまにもっている素晴らしさを、社会に対してどう理解されるように表現し、実際にどう仕事に役立てることができるかを知りたいのである。これを学習者個人の立場からいえば、高等教育の授業を受ける場合、賢くなることとともに、その賢さを生きる力に結びつけることも自律的に考えておくことが必要といえるだろう。言い換えれば、頭がよくなる(知識を増やす)ことだけでなく、その頭を使えるようになることのふたつが必要なのである。「自分自身はわかっているんだけど」という状態から、「自分自身がわかっていないことをわかったからこそ、わかったことからいまの自分は始める」という状態に発展させるのである。これは、人間が生きていくための主体性とよんでいいだろう。 ● 社会的役割遂行としての教育の特殊性 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)  言いたい放題、書きたい放題のこのペーパーを実行しているmito先生は、それだけでも本当にすごい人です。この強さはどこからくるのですか。この説明をどのように表現したらわかってもらえるのか困っていますが、臆することもなく向かっていけるこのエネルギー(精神)はどこからくるのでしょうか。mito先生は、私にはしたくてもできないもっともしたくない方法ばかりとっています。すべて(注・アンビバレンツまたは1%の批判)を受け入れてしまえばOKよ、というだけの説明では納得しません。言いたい放題、書きたい放題で、皆が先生に甘えているように思えてならない。 mito  だれでも、給料付きの役割遂行であることを自覚し、少し自負をもっていれば、あとは「強さ」がなくても「元気」があればこのような程度にはやっていけると思う。それでも、なお、元気の源は、と問われれば、「ごはん、おふろ、ふとんの幸せ」と「癒しのサンマ」(フリースペース、狛プー)という答えになるであろうか。  出席ペーパーシステムは、学生の批評精神を支援しようとするものであり、心にもないことや根も葉もない誹謗中傷は別として、思ったことは何を書いてもよい。このシステムによって、ぼくは、批評精神の欠如という現代の主体性の喪失と信頼関係の崩壊の進行に異議申し立てをしようとしているのだ。批判は知的水平空間においては一種のストロークであり、それを受けて立つのは教師としてのぼくの社会的役割である。だから、もし、日常の社会の、ときには仮面をかぶらなければならない人間関係において、ぼくが同じようにあけすけな批判をされたら、「ぼくのことをわかりもしないのに、ほっといてくれよ」と怒りだすかもしれない。それはわからないし、ぼくがどうするかを責任をもって公言しなければならないことではない。 ● 学習者にとっての教師の不快な言葉と無益な言葉の違い 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(S大教育社会学、女)  先生の話しはクドくて生々しすぎて嫌です。性問題も大切だとは思いますが、すぐ恋愛やSEXに結び付けないでください。 mito  現代社会においては、たとえ恋愛やSEXという個人的なことがらであっても、それが「社会的問題」(ここでは性問題)として存在してしまうのである。ぼくは、これを「現代人の性の非主体性」(対等な人間関係のなかでの恋愛やSEXを味わえない問題など)という視点から考えている。その「現代人」には、ぼくもこのペーパーを書いた学生も入ってしまうのである。ただし、各人の主体(認知・行為・評価する我)によっては、その社会的影響を内面的にはかなり払拭できている人もいるかもしれない。程度の差はあるということは、ぼくも認めなければならないと思う。  それでも、ぼくは、このペーパーでそれ以上にどきっとしたのだ。それは、「クドくて生々しすぎる」という指摘に関してである。ぼくは、「『膣外射精による避妊の失敗』は、自分の性欲までコントロールできるという性に関する男の自信過剰と、女性にたいする生意気で傲慢な姿勢からくるものであり、性の非主体性を表わしているのではないか」と言った。そこまでは言ってもよいと今でも思っているが、相手に対する「してあげる」喜びとしてのSEXになっていないこと、それを女性がきちんと拒否できないことを批判するために、「顔面発射」という俗語まで持ち出して、「そんなことが女性にとって気持ちいいわけないですよね」と言ったのだ。「顔面発射」という俗語は、そのことをいうためには無益であり、女性にとっては不快な言葉であったと思う。そこまで言ってしまったのはなぜだろうか。「不快なこと、きわどいことを言って衝撃を与えたい」というセクハラの気持ち、意地悪な気持ちがぼくにあったのではないかと、このペーパーを読んで思ったのである。あるいは、性に関する現代人の不幸な状況を今すぐ変えたいという無茶な思いがあったのかもしれない。いずれにせよ、各人の思考における決断については各人に任せるという知的水平空間にはなじまない言葉であった。ぼくの言葉の被害にあった学生には申し訳なかった。  ただ、mito的授業において、現代社会における人びとの非主体性の本質という真実に迫るための言葉については、「クドくて生々しすぎて」も、あるいはクラく見えても、できるかぎり真正面から受けとめてほしい。それは、個人と社会の関係を考えるためには、あるいは、他者の学習や幸福追求を援助しようとする教育や教育学を学ぶためには必要不可欠なことなのである。そして、学習者にとっては無益なぼくの屈折の授業における表れについては、きちんと自分なりに見分けて、これからも批判、批評し続けてほしい。 ● 見返りの期待を相手に押し付けるな、見返りが期待できるような行為をせよ 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(S短大教育社会学、女)  気をつかうということは、今の自分に無理をしている状態で、気がきく人とは、つねにいいことをしてあげようとしていて、人に与えることができる人なんですね。今、私は彼に与えることをしていないような気がします。でも、自分がこの人に何かをしてあげるんだ、なんて思ってしまうと、なんだか見返りを求めてしまいそうです。よくわからない文章になってしまいましたが、コメントください。 mito  ストロークの基本は、自分と相手を基本的に信頼することである。たとえば、このペーパーの言葉を使えば、「いいことをしてあげよう」としている今の自分の気持ちはけっして非常識ではないというように自分を信頼(自信)し、そういう自分の好意を相手は受け入れる力をもっているだろうというように相手を信頼(他信)することである。だから、相手のためにしてあげるある重大な行為について、受け入れてもらえるという自信や他信がまだもてないときに、「自分がこの人に何かをしてあげるんだ」と頑張って無理にその行為をしてしまうことはたいへん危険だと思う。まだ不安な場合は、相手に「どう?」と聞いてみればよいではないか。聞いてみることも信頼に基づくストロークのひとつなのである。あるいは、小さなプレゼントをたびたびあげるなどして、少しずつ信頼関係をつくりあげていく手もある。ディスコミュニケーションの現代社会においては、「気がきく」というのは、自分勝手に判断することではなく、相手に聞けることであり、信頼関係が最初からあることではなく、少しずつつくりだせることなのである。  さて、「見返り」についてであるが、以上の趣旨から、「見返りを期待しない一方的な好意と行為」こそが、コミュニケーションのない自分勝手な思い込みに陥る危険性をもっているということが理解されよう。ここで「見返り」とは、打算的、実利主義的なものとは違い、もっと精神的で微妙な見返りである。これは、最近、ボランティア活動の魅力についてもそういわれているところである。しかし、もう一方で、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない、あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という人間関係の真実がある。「自分のために自分の人生を生きている」といえることと、自分の期待を相手に押し付けないことの両方が必要なのである。そこで、ぼくは、このようにまとめておきたい。「見返りの期待を相手に押し付けることはできない。しかし、好意をもつ相手からの見返りが期待できるような行為をすることは、自分の責任においてできることである」。 ● 「ただのろくでなし」と「ましなろくでなし」 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)  神経症もちなので先週のゲームはけっこう辛かった。偶数日だけ出席しようかと思う。でも、講義を受けていても(中略)手は震えるし、思考力もものすごく鈍っている。きたない字ですが、本人はものすごくゆっくりていねいに書いているつもり。耳をとがらせてでもよく聴いて、いろんな情報を聞いたり考えたりしたいと思っています。本当は奇数日も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか。 mito  ぼくは、この学生の真摯な態度に敬意の念を感じる。ぼくの授業では無理をしないようにしてもらいたい。すでに公言してあるとおり、出席、入退室はすべて自由であり、ぼくにはきがねなく自己決定してほしい。  mito的授業、とくにこの授業のような態度変容をねらいとする体験学習においては、次のような参加の仕方が考えられる。これらを、自分で選択して行動するということが大切である。@欠席する(授業より有意義なことをする、ボーッとしているなど。その時間の使い方を総括するレポートが翌週に提出されれば出席扱い)、A出席するけれど、出ていきたくなったら出ていく(出席扱い)、B参加したくなかったら、どいてしまって、授業を観察している(高見の見物)、C参加するけれど、発言したくないときはパスする(しゃべりたくないことはしゃべらない権利の行使)、Dバカになって参加する(非力の自覚)、E批評的に参加しつつ、あとで批判する。最後のEは、体験学習においてはそれを体験してからの話である。そうでないと批判にならない。また、@からCまでの行動は、ネットワーク型社会において求められる「潔い撤退」である可能性がある。  ここで困るのは、撤退をしながら撤退仲間(ピア)とこの授業の陰口を言い合って満足している態度である。ぼくは、それを「ただのろくでなしの行為」とよんでいる。撤退は自由なのだが、残留者は残留者で自分にとっての意味を見つけてこの授業に参加しているのである。残留者のことがどうしても気になるのなら、その残留者と率直に意見を闘わせればよいではないか。以前、6月中旬という時期に「私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのかわかりません。しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに『変に理解しあってしまう』という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです」と書いてきた学生がいた。個人の事情で欠席していたことはかまわないのだ。しかし、「真剣に」「興味深く」参加している他者について勝手に推測したりする権利にはつながらないはずだ。ぼくは、「この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて『真剣に』受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう」とコメントした。こういう学生の行為を、「潔くない撤退」、または、「ただのろくでなし」とよぶことができるとぼくは考えている。社会教育団体においても、撤退したはずのメンバーや元リーダーのような人が、いつまでも「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみついて、現在の団体運営に干渉をして団体の自主性を損なっている例があるが、これなども「潔くない撤退」なのである。  「ただのろくでなし」には、もうひとつのタイプがある。途中退出が認められ、実際に何人かがそうしている状況のなかで、また、せっかく授業を聴くのを楽しみにしているのに私語がうるさくて聞きずらいという学生のペーパーを読み上げているのに、なおかつ、おしゃべりばかりしていて退出してくれない学生がいるのだ。あるいは、熱心に受講している学生を冷やかに笑っていてくれればよいのに、それさえもできない。これは、まわりの人への迷惑よりおしゃべり仲間との「つながり」を優先するピアコンセプトの表れであり、かといって、他の学生に迷惑をかけてでもそういう学生の学習から落ちこぼれたくないから退出しておしゃべりを続けることもできないという、非常に惨めで情けない破廉恥なピアコンセプトの表れなのだと考えられる。  このように考えると、「本当は奇数日(体験学習の日)も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか」と言う学生の言動との質の違いは明白である。人間は、ピアコンセプト(仲間意識)などの自己の内面的要因や現代管理社会による外部からの抑圧などのなかで、他者の目におびえ、潔く参加や撤退ができない「弱い存在」である。すなわち、「ろくでなし」である。しかし、それは、まだましな「ろくでなし」なのであって、そこで葛藤して自己解決に向かう姿は、「ただのろくでなし」とはずいぶん違うのだと思う。「ただのろくでなし」の存在は事実であってもくだらなすぎて小説のネタにもならないが、「ましなろくでなし」の葛藤は小説でも追求しているメインテーマなのであり、人間的真実そのものなのである。 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、男)  私語の話はやめにしていただきたい。せっかく仕事を終えてメシも食わずに教室に駆け込んでくるのに、何回も私語の話などというクダラナイ話で時間を潰している。こんな話で時間を拘束されるのであれば、「これから20分、私語の話をしまーす」と宣言してほしい。その間、寝るなり、学食へ行くなり、有効に時間を使えるではないか。 mito  ぼく流に、この学生の言いたいことを翻訳すれば、「ただのろくでなしのことなど、そもそも関心がない。そんなやつらのことなどほっておいて、もっと本質に迫る話をしろ」ということだと思う。主体的な学習者の態度として、これでよいと思う(こんな評価は、彼にとっては余計なお世話かもしれないが)。学習者は本質的に「自分のために学習する」のである。自分の学習のために無益であると思えば、彼のように教育側を批判することによって、「メシも食わずに教室に駆け込んできた」自らの学習権を行使すべきである。なお、いずれにせよ、私語の話はmito的授業の初期のころにする話であり、中盤以降はほとんど話題にならないから安心してほしい。  ほくが私語の話をするのは、ひとつには、おしゃべりする学生の自由を認めたうえで(退出して廊下などでおしゃべりをしてよいことになっている)、自由を欲していて、しかもその自由を認められている自分こそが、他者の自由(学習したい者の学習権)を侵害しているのだという事実を知らせ、「相手が悪い(授業がつまらない)からそのせいでしゃべっているのではなく、おしゃべりしている自分がろくでなしなのだ」という真実に気づかせ、他者や社会のせいにできない状態に追い込むことによって、「ただのろくでなし」の状態でいる人に「自由の恐怖」を味あう機会を提供し、自由の行使の大切さを認識させるためである。  それでは、ほかの「ましなろくでなし」である人たちにとって、私語に関する話は無益であろうか。普通なら無益なのかもしれない。たった一度しかない人生を、つまらない人の生き方やつまらないことがらとつきあってわざわざ無駄にすることはないからである。しかし、この授業は「教育学」の一環なのである。現代人の主体性獲得への援助者としての力量を身につけるためには、この「ただのろくでなし」の問題を本質的にどうとらえ、どう対処すべきかということが重要になる。援助者にとって大切なのは、「ただのろくでなし」に対する「否定」ではなく、「共感的理解」である(ちなみにけっして同感したり同情したりする必要はない)。「ただの」か「ましな」かは違っても、同じ「ろくでなし」の部分を共有しているのだから、理論的には共感は可能なのである。とくに、自らの「個の深み」や主体性を発揮するときの阻害要因としてのピアコンセプトについては、「ましなろくでなし」の人にとっても思い当たる節が多いのではないだろうか。 ● 社会人入学の本質的な意味 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)  大学生活3年目にして異質の先生に出会い、教室の雰囲気と学生のレポート(出席ペーパー)の内容にカルチャーショックを受け、後席の若い子に「反応の鈍い私はついてゆけそうにない」と話しました。事実、呆然自失の状態でした。その子は、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれました。  私の年代の人間は、全力投球型の馬車馬的タイプが多いのかもしれません。そして、あらためて生涯学習とは何なのか、大学に何を求めているのかを考えさせられました。歳をとると頑固になるといいますが、気づかずに私は自分で垣根を作り、囲いのなかで自分の殻に閉じこもっていたのですね。  学ぶということは、新しい自分を発見することにほかならないことで、異質と感じる心は動脈硬化の始まりであることをあらためて知らされました。若々しい空気、自由な雰囲気に触れることで、私のなかの何かが変わればと思います。私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せです。  お願いがあります。もう少しゆっくりお話ししていただきたいことと、英語より日本語を少し多めに使っていただけたらありがたいのですが。(以下略) mito  これは自宅で書かれて翌週にマル秘で提出されたペーパーを、ぼくが本人に頼んで紹介させてもらったものである。まず、早口であることと専門用語の濫用についておわびしたい。これは、ぼくのある意味での「詰め込み主義」と、「わかりやすい言葉で説明できない力量不足」のせいである。ほかの学生からもそういう苦情は受けており、改善の努力をしたい。  そして、この社会人入学の学生の不安に対して、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれた学生にもお礼を言いたい。ぼくも心からこの人にそうお願いしたい。そして、早口などについて謝りたい。「呆然自失の状態」から「私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せ」と書いてくださっていることにぼくは救われた思いである。一人ひとりが「学習しなければならない」から「〜を学習したい」という本当の学習主体に内面から変わっていくことこそ、学歴偏重社会から生涯学習社会への変革の真のエネルギーになるのであろう。  企業研修を受け入れている大学のある教育系の教授に、ぼくは、「企業のほうが大学より教育ノウハウをもっていると思うんですけど、なぜそういう企業が教育学を学ばせるためにわざわざ社員を大学に派遣するんでしょうね」という失礼な質問をしたことがある。その教授は、「哲学を学ぶためでしょう」と即答した。社会人入学の本質的な意味は、そこにあるのではないか。そして、そういう大学で学ぶべき「哲学」とは、けっして実社会からかけ離れたものではなく、むしろ現代社会が切実に求めている学問といえるのである。 ● スクエアヘッドを乗り越えて、いい加減さとMAZEの知的水平空間を 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)  先生は出席ペーパーの批判に丁寧に答えていますが、そのなかに偽善はありませんか。こういう考え方もできるし、あれもいいんじゃないですか、こういうのもいいんじゃないですか、と話す。一体全体何が本当に先生自身はいいと思っているんですか。mito的授業といいながら、形式はそうですが、内容が本当に先生らしいのでしょうか。先生は何か私たちに訴えていますか。まだ私には何も伝わってきません。 mito  ぼくは、この世の中に「間違っている人」というのはいないのではないかと思っている。今まで、たくさんの出席ペーパーを読んできて、「あっ、とにかくこれは間違っているぞ」と思ったことがないのだ。もちろん、違う枠組みもありうるではないかという「批評」や「批判」はぼくの思考のなかにも起こるし、それは授業でもぶつけているはずだ(エンカウンターと呼ぶことができる)。しかし、同時に、相手には相手がそう考える根拠や相手なりの事情と理由があるのだと思ってしまう。その事情と理由の具体的な内容はわからないけれど、「何かがある」ということは確かに感じるのだ。根拠も何もなしに非常識なことを考えている人などいないのではないか。そう思うと、「この人の言っていることは、きっとこういうことなのかな」という気持ちが自然に芽生えてくる。そして、その人の文章から、その人の思考の真実のうちのごく限られた一部の断片が見えてくる。問題は、その人がまるっきり根拠のない心にもないウソ(虚偽)を書いている場合であろうが、4年間のすべてのペーパーのなかで、まったくのウソだと感じたものは一枚もないのだ(まったくのウソであった場合は、逆の真実が読み取れるかもしれない)。  つぎに、「ぼくが訴えたいことは何か」ということについてであるが、このペーパーに対してであれば、「いい加減はよい加減」と「MAZE」ということになる。熱い風呂や水風呂の良さを主張する人がいてもよいけれど、そのどちらでもなく「よい加減」を見分ける力量も今後の多様でファジーな価値の交錯する社会においては必要である。一所懸命になりすぎて一つの所にはまり込んで結局は自らが閉塞してしまうのではなく、「いい加減」に渡り歩く力が必要なのである。MAZEとは、ミスマッチでアバウトでジグザクでイージーゴーイングな知の迷路をさまようことの楽しさを表わすぼくの造語だが、これについては「生涯学習か・く・ろ・ん」に書いたとおりである。そして、「こ・こ・ろ生涯学習」では、L.ベラックの言葉を引き、物事の白黒をはっきりさせないとイライラする権威主義的な「スクエアヘッド」から、曖昧さに対する許容度が大きい柔軟思考の「エッグヘッド」への転換を主張している。これも参考にしていただきたい。 ● 知的水平空間と貧富の差 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、男)  今までの授業を聴いて、たしかに先生の授業は面白いというか、興味がわくというか、まあ印象はよいようです。でも、結局、何が残るのかよくわかりません。今回はけっこう良かったと思っても、そのうち、あれっ、何をやったのかと、引き潮のように忘れてしまうタイプの授業だと思えてきました。でも、そのうち、出席していれば何かは身につくでしょう。とりあえず来週は出席します。でも、てきとうにサボタージュもする予定。五月病がはやるこの季節ですから。  なんでTEXTは自著でありながら買わせるのでしょうか。そんなに印税がほしい? 私たちは一授業に数万円払っているのに、TEXTを持っているほうがトクな授業をするのはやめてほしい。この授業だけではないけれど。 mito  この人が「書き言葉メディア」としての本からは学ぶものがないと考えていて教科書を読まないのなら、それはこの人の自由な個人的判断に基づくものであり、ぼくの「話し言葉メディア」としての授業から学べるものを学びとればよいだけのことである。教科書をもっている人がトクをするからといって文句をいう筋合いのものでもないだろう。ぼくのほうも、どうしても買ってほしいと懇願したり、買わないと単位を出さないなどと脅迫したりするつもりはさらさらない。  問題は、この人がお金に余裕がないために教科書を買いたくても買えないという場合である。知的水平空間も、現代社会の貧富の格差の影響を受けるのである。そのことについて、ぼくは、「教科書をもっていない人のために、ぼくは実物投影機やパソコンで必要箇所を映し出したりするけれど、そういうサービスには(見ずらいなどの)限界がある。しかし、学生が教科書を買えないことは、教師のぼくの責任ではない。余計なお世話かもしれないが、できれば、無理して教科書を買うか、先輩から安く譲ってもらうか、それができなければ、授業の終了後に書店で立ち読みするなど、『書き言葉メディア』でのフォローを、『話し言葉メディア』の授業に対してしておいたほうがよい。それは、より効果的な学習をしたほうが学習者にとってトクだからである」といったのである。教科書による学習の相乗効果が大きい場合、授業料や受講に費やすお金や時間を考えれば、教科書購入に関わる出費は各人が何とかしたほうがよい課題だと思われる。実際、「引き潮のように忘れてしまうタイプ」というのは、この人にとって、mito的授業の特徴であると同時に、「書き言葉メディア」でのフォローをしないこの人の学習方法自体の特徴でもあるのではないか。そういう学習方法を自らが選んだのなら、逆に、「引き潮のように忘れてしまう」のもよしとする潔さが必要なのではないか。  なお、なぜ「自著でありながら」教科書に指定したかという問いには、「自著であるからこそ」教科書に指定したと答えておきたい。高等教育においての教授活動とは、教員の自己の研究の現在の到達段階の告白(profess )だからである。 ● 知的水平空間のつくり方 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、女)  今日の授業はこじつけでした。御自身でもそうおっしゃっていたようですが。夫婦や性のVTRが、どう大人の指導につながるのでしょう。まず、(mito注・今回の教育目標の)(3)大人に「幸福を配る」とは何ですか。自分の勝手な思いあがりを見つけるんじゃなかったんですか。先生の授業は社会教育のために私たちに自己発見させようとするものだと解釈していましたが、最近わかりません。今日の夫婦のVTRの「相手」と「自分」を大人という共通点で学習者にあてはめるんでしょうか。大人に「幸福を配る」自分とは、その人たちにとって子どもととらえられてしまう自分なのですか。どこに社会教育としての自分の存在を位置するかわからなくなります。それくらい考えるべきですか。いや、先生がヘタです。学生にわかりやすい材料を使っているつもりかもしれないけど、ただ先生が使いたかっただけ。性のビデオとか、先生は何を使ってもいい権利をもっているわけですから。使ってみてから批判されるまで。少なくとも、社会教育としてのVTRとのとっかかりくらい説明してみなさい。VTRの内容だけやりたいのではと言われたくないのなら。それは個人によって得るものが別、などと逃げるな。  少なくとも私は、社会教育の知識をこの授業で得ることを要求している。方法の自由が、先生には与えられているのですよ。私だって、先生の授業において、余談のような、人生について考えられる話は面白く聞いている。しかし、それは「得した」という程度のものだ。もしかして、VTRと社会教育とは、ひと〜〜つも関りがなかったのかしら。もしそうなら、「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。  ヒハンする前に、先生の答を正答としてしまう人もいる。先生は問題を提起した以上、答える義務はあるのでしょうが、それを選ぶかどうかは、その人次第ですものね。私は先生にも変わってほしい。その押しつけがましさから抜け出したいと感じてしまうときもある。影響を与える人ならば、影響を与えられる人になれ。そのためのペーパーだとも思い、感心もしますが(いや、自分のやりたいこと[意図すること]のためということもあるでしょう)、そのすべてに答えようとする姿勢は、悩んでしまう人と共通するものがあるのでしょうか。先生は悩みそうもない。それで、悩む人にはカリスマならぬ変なカリスマ(妥当な言葉が見つからない)になるおそれだってあると思うよ。気になる所だけふれられ、ふれたくない所はふれない人になれば楽でしょうが、そんな人間は人生の発達・成長において困るし・・・。  まとまらないけれど、わかりますか、伝えたいこと。また書きます。  (mito注・授業で)読んでも(mito注・読み上げても)いいけど、勝手に(mito注・実物投影機で)人の字を出さないでください(mito注・「人の字=名前と同じ」という注釈あり)。6/15によく考えて読んでください。  先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は。 mito  このペーパーは、毒にも薬にもならない社交的な仮面の会話を捨てて、mito的授業の本質を否定的側面からずばりと突いたものだと思う。それだけに、ぼくはかなり動揺してしまった。このペーパーの出たその日のすぐあとの授業で、ほかの学生からさっそく「早く内部葛藤を解決して、いつもの自信にあふれた授業に戻ってください」と注文を受けたり、あるいは、数日後のS大の授業で話題にしたときも、「今日、出席ペーパーのことを話してるみとちゃん、すごいこわいとか思っちゃった。それじゃあ、受けて立ってるんじゃなくて、ただその女の人に文句を言ってるだけだよ。それじゃあ、みとちゃんのこと、よくわかんないと思うよ」と書かれたりしてしまった。かなり冷静を装おうと努力はしたのだが、ぼくの内部の自信喪失がマイナスに反映してはいけない授業という公的な場面で、実際にはかなり反映してしまったのだ。そのことで、そのときの授業を受けた学生にも不快な感情を与えてしまったと思う。しかし、それより、「教師というのは、劣等感を刺激される職業である」と聞いたことがあるが、「ああ、このことなのかもしれない」という気づきがぼく自身には大きかった。こういう場面では、教師は、学生と対等な立場なのではなく、学生の踏み台として利用されるべき立場なのである。「他人が入り込むべきじゃない所までペーパー書いた人が入り込んじゃっているから、途中から読むのがいやになってしまった」というS大学生のペーパーもあったとおり、たしかに、ふつうの対等な人間関係であったら「あなたとは出会わなかったことにしよう」とぼくはこの人にいってもよいのだろう。そして、自己抑制がきかずにこのようにしてすぐ葛藤してしまうぼくが、「暴力とセックス以外の申し入れはすべて受けて立つ」と宣言していること自体、無謀な話なのかもしれない。  しかし、この学生は「また書きます」といってくれている。これは、ぼくにとっては、細いけれども一本の糸がまだつながっているのだという救いを感じさせてくれる文章であった。知的水平空間における批判は相手への基本的信頼に基づく肯定的ストロークの一種だ、とぼくは前からいっているが、それはぼくの強がりにしかすぎないのかなとも思うときもあるが、やはり知的水平空間における他者批判は、相手の存在の否定とは異なる大きな可能性をもっていると思う。また、批判の刃(やいば)はそれが研ぎ澄まされれば、自然に自己にも向いていくものなのである。ペーパーによるこれらの批判をきちんと受けとめることによって(当然、それは批判に無原則的に同調することではない)、「本人の主体性の獲得を他者が援助できるのか」という教育の本質的難問(アポリア)に挑んでいくのもなかなか意味のあることではないかとも思う。  S大の男子学生が、この批判のペーパーやその他のmito的授業への共感や批判のペーパーとぼくのコメントを読んで、「教師との信頼関係も、それが濃密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに拘泥しているどころではない」とし、出席ペーパーシステムに対しても、「出席ペーパーは感想であってもよいことになっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達のために感情を吐き出すためのものではないと考える。感情の吐露に安寧するのは、ストローク(人は信頼しうるものだとする試み)においては有効であろうが、自らが求め学んでいく学生の時期に休息を得てしまって、本当に先々個人という主義を担って生きていかれるのかと危惧の念を抱く」と書いてきた。授業への共感を書くことも、批判を書くことも、ともに感情を表現することにつながっており、それは依存を助長し、主体的な学習をむしろ阻害してしまうのではないか、ということであろう。教育のアポリアとはこのことである。しかし、ぼくは、こう考える。たとえばこの批判のペーパーを書いた学生は、これを書いたことによって今までの彼女の主体性を減ずることになっただろうか。そんなことはないだろう。ゼロかプラスのどちらかであろう。また、批判のペーパーのやりとりを見守っているほかの学生の学習にとっては、「漁夫の利」もあるだろう。それなら教師は教育のアポリアにチャレンジしてもよいのではないか。そして、このアポリアにおいて重要とされる現代社会における個人の主体性の獲得のためにもっとも必要でかつ今は欠けていることとして、ぼくは、他者への関心と、自己と他者への基本的信頼と、他者への共感的理解の3つを考えているのである(これは、他者との同一化や協調とは異なる。むしろ、それらとはまったく逆といっていい)。  それでは、彼女の批判にひとつずつ対応していきたい。  ぼくが自分で「こじつけ」といったのは、むしろ「社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識」についてである。ぼくにとっての本命はあくまでもVTR「教えます、心を伝える会話術」である。上映時間は15分であった。夫に自分の心を伝えられなかった妻や、妻を「おのれの妻」としか認知していなかった夫が、地域活動や社会教育(父親学級)での対等な人間関係のなかで業務連絡ではない「夫婦の会話」ができるようになったという映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。しかし、そういうふうには学ばないという学生がいてもかまわない。「得したという程度のもの」でも、それを意味あるものと受けとめる学生がいたっていいだろう。  この批判のペーパーを読んで、4年越しにぼくの授業に出席しているT大のある女子学生が次のように書いてきた。「mitoちゃんの持ってくるVTRはかならずしもわかりやすいものではないと思う。むしろむずかしいのではないかと思うこともある。(中略)VTRのなかの主体性をなくしてしまっている(そうでない場合もあるけれど)人の状況を見ながら、どんなことが契機になって主体性をとりもどすことができるのかということを考えることも意義があると思っている。VTRのなかの人びとが自分とはまったく考え方が違うとしたら、私はこの人たちの考え方のどの部分は共感ができて、どの部分に反発を感じるのかと考えることによって、いまの自分自身がどんな価値観をもっているのかを知る機会にもなると思う。他人の主体性獲得を援助するためには、援助する側の主体性も大切なのはもちろんのことだと思うし、いろんな人のいろんな事情やちょっとした弱さをそっとわかってあげる(変な言い方)やさしさ(?)も大切ではないかなと思う」。  これに対して、ミニ知識のほうは、このときは「ペダゴジーとアンドラゴジーとの違い」についてであり、これは、ぼくでなくても、他の研究者も注目しているところである。むしろ、これを深く研究している研究者の書いた本を読んだほうがよいだろう。ミニ知識は、学生が教科書を出発点とするなどして書き言葉メディアから学べばよいことであり、ぼくがしゃべらなくてもよいことかもしれない。ただ、彼女に限らず、「社会教育の知識を学びたい」という学生も多いので、折り合いをつける形で、さらっと、ただしぼくの評論をまじえて説明しただけなのである。だから、時間がない場合は、ミニ知識の解説を省略して項目の紹介だけにとどめることもぼくの授業では多い。  「大人に幸福を配る」ためには、「自分の勝手な思いあがりを見つけること」(ぼくの言葉でいうと「援助者側の無知と非力の自覚」)が最低必要条件になる。「大人に幸福を配るとき」も「子どもに幸福を配るとき」も、同様に援助者が「上位の大人でありたい」、「上位の大人でなければならない」という「思いあがり」を捨てることが必要になると思う。それが、社会教育(の援助者)の存在位置である。なお、このペーパーを読んで、ひとつ、ぼくの説明もれに気づいた。「配る」という言葉は、役所や社会教育施設に座り込んでしまって学習者を待っている社会教育職員の受動的な姿勢にたいするぼくなりの批判を表わしている。このあたりは、今までずっと説明を忘れていたぼくのミスである。ぼくがそれに気づいたのは、この批判のペーパーのおかげであり、また、他の学生にとっては「漁夫の利」といったところであろう。  性のビデオなど、ぼくは何を使ってもいい権利(教育権)をもっているわけだが、それを行使するにあたって、ぼく自身が教師としての自分に与えられた役割と自分なりの教育意図を確認するとともに、「批判されるまでは、使ってみる」という姿勢も学生に示している。また、学生から批判されても、ぼく自身がそのVTRを使う自分の教育意図を肯定できるのなら、使い続けることだってあるだろう。しかし、教師が「学生からの批判を受けて立つ」以上に学生(不快を感じている数%の学生)に「配慮」をするとしたら、いったい何を配慮しろというのか。「社会教育としてのVTRとのとっかかり」を説明することの要求はわからなくはないが、彼女はそれに「少なくとも」という言葉をつけているのである。また、「社会教育にどう関りがあるか」ということについても、ぼくが説明したほうがよい範疇もあるし、学生が自分で考えたほうがよい範疇もある。そして、「個人によって得るものが別」というのは、ぼくが逃げのために使う言葉でもあるかもしれないが、事実を表わした言葉でもある。援助者側の価値観とは違う多様な受けとめ方が学習者側に存在してよいではないか。ぼくは「VTRの内容だけやりたいのでは」といわれたっていいのである。なぜなら、そういいたい人は、「出席ペーパー」や「ちょっと待った」や「パフォーマンスタイム」でそういう批判を行う自由をぼくは保障しているからである。今回だって、そういわれたから、このVTRを選択した教育意図を(再度)説明したではないか。学生からの批判や質問にきちんと答えていく双方向性の確保さえ行なえれば、教師はそんなに完璧な計画を立てたり説明をしたりしなくても、あるいは完璧であったかどうか非生産的にくよくよしなくても、高等教育や社会教育ではそれなりに役割が果たせるのだと思う。知的水平空間は、援助者と学習者の協働によってつくりだされるものなのである。  教育学には人文系としての側面があると思う。「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである。だとすれば、mito的授業という知的水平空間などを利用しながら、学習者が主体的に学習するしかない。  ぼくだけが、「大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場」ではない。げんに彼女もこのように問題を提起しているし、そのほか、パフォーマンスタイムを使って(その使用時間についてはぼくと相談のうえだが)、学生は個人の自分なりの問題を提起することだってできるのだ。ぼくの問題選択に不満な人がいるのなら、その人は、ぼくの「立場」に期待するのではなく、自分に与えられた批判の自由をこそ使いこなしてほしい。  mito的授業について「人を崩していくやり方」と書かれているが、崩れるのを恐れなければいけないほどの素晴らしい枠組みをすでに備えてしまっている人などいるのだろうか。また、ぼくは、教育の役割は概念崩しであるとする論にはやや疑問も表明している。どちらかというと、ぼくの表現は、学習者本人の枠組みの変化への「援助」である。  ぼくの授業がつらいという人はたしかにいる。ぼくはそういう人には「無理しないで元気になったらおいでよ」といっている。それ以上のことをいおうとしたら、相手の人生をぼくが背負込んでしまおうとすることと同じになってしまう。学習者が、自分ではなく、ほかの学習者のなかから、「ヒハンができなくて崩れていってしまう人」や「落ちる人」や「教師に信頼度が高くなる人」や「そーだんにきたりする人」や「教師の答を正答としてしまう人」が生まれることを心配することも、同様の「背負込み」の行為だと考える。当の学生にとっては余計なお世話なのではないか。たとえばだれかに相談するという行為は、その人にとっては問題解決に向かう主体的な姿である場合だって多い。「自分のために学ぶ」のであるから、一般化して論じようとせずに、自分の主体的な学習にとってぼくの授業がどう無益であるかを訴えたほうがいいと思う。  「先生にも変わってほしい」とあるが、ぼくがどう変わるかは、ぼくが決めることだ。そして、学習者がどう変わるかは、学習者が決めることだ。たしかにぼくは、「影響を与える人」としての教師の立場にいると思う。しかし、情報化社会において情報に対する主体性としての情報リテラシーが求められるように、マスプロの大衆化した高等教育を受けている学生には、「主体的な授業の受け方」が求められているのである。  出席ペーパーには、「比べられるために書く」ことばかりの被抑圧体験から、「書きたいことを書く」という解放体験への転換という「教育意図」が明確に存在している。しかし、彼女の「自分のやりたいこと、意図することのため」というぼくへの分析には、そのことへの不快感が表明されているのであろう。現代学生には、どうも教師の学生に対する「教育意図」が存在すること自体に抵抗感があるようだ。そういう抵抗感も大切だろうが、それを「教育意図」の内容に対する抵抗感に止揚することが必要なのではないか。また、大学教員には研究という役割もあり、ペーパーを研究成果に結びつけるというほかの「意図」もぼくにはある。しかし、そうだとしても、学生がそれに目くじらをたてることもないだろうと思うのだが、どうだろうか。  彼女がほかの一部の学生を「悩んでしまう人」とレッテルを貼っていることに対しては異議を申し立てておきたい。彼女はそういうレッテルを貼って、「悩んでしまう人」と共感的な出会いをもつことから逃避しようとしているといえるのではないか。「先生は悩みそうもない」という言葉に対しては、「ぼくはそのことについては今は話したくない」という応じ方がぼくにできる最善の対応であると考えたが、どうだろうか。  カリスマ性については、ぼくは、「授業で退屈させる教師」のつぎに悪い教師像として、「学習者の依存的学習を増大させる教師」という規定をしてきただけに、かなり考え込んでしまった。そこで、自信の回復方法として、「信頼している人たちに聞いてまわる」という手段があるのだが、それを実行した。フリースペースで学生にこのことを聞いてみたのだ。すると、「カリスマ性がたしかにある」というのである。「でも、尊敬を感じてしまうのだから、いい意味でのカリスマじゃないですか」という。ちょっと面映かったが、それどころの話ではない。理論的には、教育のアポリアのうちの否定的側面の証明になってしまうではないか。尊敬されているから嬉しいと教師には感じられも、学習者にとっては主体性の獲得の阻害要因になってしまう。しかし、もう一人の学生がこういった。「mitoちゃんにはたしかにカリスマ性を感じるけど、依存させてくれないカリスマだよね」。これを聞いて、「そうだ、大丈夫だ」とぼくは再確認できた。  たとえば、今まででもぼくは、学生が「そーだんにきたり」しても、「ぼくはカウンセラーとしての専門性をもっているわけではないんだから、カウンセリングはできないよ」と「自制」を表明している。そして、「社交的な会話ではない真実の話を聴けることは、ぼくにとっても興味深いから、ぼくのために聴いている」という姿勢を示しているし、学生とは異なるぼくの枠組みを伝えたいとぼく自身が思ったときは、遠慮なくエンカウンターしている。そういうとき、ぼくはとても充実している。ぼくにとっては、学生の相談に乗ることは、水平な出会いの至福が感じられるかなり大きな楽しみなのである。だいたいは、「ああ、この人もこの人なりの理由と事情をもって生きているんだなあ」という実感をしみじみと味わう結果になる。だから、カリスマなのではなく、「相互依存」に近いのかもしれない。一回限りの人生のなかで、人と人とが立場や身分を越えて「同じ人間」という感覚を確かめながら、本当の気持ちが出会うことなど、何回あるのだろうか。また、ぼくは、ほかの学生をシャットアウトして個人の相談にのるということは原則的にはしていない。フリースペースなどで相談を受け、そこにいる人たちで話に加わりたい人がいれば自由に加わるという社会教育的な方式なのである。そして、ぼくが専門性をいかして行なっている相談者に役立つための社会教育的な情報提供としては、「おたがいのあるがままを尊重しあって、開きたい心を安心して開くことができ、いつ行っても自分を両手を広げて歓迎してくれるサンマ」(フリースペースや青年学級)の意義と所在の紹介が多い。  教師は、このようにして、カリスマにならないままで学習者からの信頼を獲得するということができるのではないか。だとすれば、教育のアポリアは肯定的な解決の方向に一歩近づいたと解釈できるのである。  実物投影機で人の字を出すのは、ほかの学生の学習の便宜のためである。「人の字=名前と同じ」というのは、ここでそんなに一般化して断じるほどのことでもないだろう。彼女が「私は自分の名前がほかの学生に知られてしまう危険を感じるので映さないでください」と書いておけばいいだけの話なのである。いや、投影拒否の理由さえもほんとうは書かなくてもよい。堂々と「禁投影」というマークをつけておけばよいのだ。逆に「自分に著作権があるのだから氏名を公表せよ」(著作権の一部としての「氏名表示権」)と要請する人がいてもよいだろう。「非公開」でもかまわない。自分の著作物に限っては、すべて自分の管理下に置いていいのである。なお、投稿などの場合には、「自分の文章の改竄はするな」とはいえるが、「自分の文章を必ず公開(採用)せよ」とはいえない。しかし、mito的授業においては、「公開せよ」と書いてよい。さらに、それに、「禁コメント」とつけ加えてもよい。これらは知的水平空間を実現するためという特殊な事情によるものである。  「6/15によく考えて読んでください」の期日指定の部分については、ぼくの事情からいえば、授業準備の能率化のためには少し困るところがあるが(即決主義)、このペーパーの場合は、内容が重大であるだけに、ぼくはその要請を受け入れる必要があるだろう。しかし、「よく考えて」という言葉は筆者として読者に直接的にいえる言葉ではないと思う。人との対等な関り合いのなかでは、「余計なお世話」に類する言葉であろう。筆者は自分の説が「よく考えて」受けとめられるように自らが一生懸命書くということ以上のことはできないはずである。実際には、ぼくは、この批判のペーパーを数十回繰り返し読んでいるが、それは、ぼくが何回も読んでよく考えたい内容だったからであり、「よく考えて読んでください」といわれたからではない。何を書くかは彼女の自由だし、それを読んでよく考えるかどうかはぼくの自由だ。  「先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は」というのは、「こんな批判は数多く受けているはずなのに、そういう批判を聞いているのにも関わらず続ける根拠は」という意味だと思う。ぼくは、いまの教育に欠けていることは、学習者に管理や保護を与えることではなく、自由を与えてそれに恐怖する機会を提供することだと考えている。そのことから(批判の)自由を行使する主体性が学習者自身のなかに育つだろう。たとえば、自分が批判したからといって社会がそれにあわせて変わってくれるとは限らないのだ。批判の自由が保障されて、保護され管理されてきた自分にはその自由がなかなかやっかいなものだという現実をまのあたりにして戸惑い、そこから気を取り直して、その自由を使って他者に通じるように自己の思考を表現できるようになることこそ、今後のネットワーク型社会が現代人に求めている主体性なのだと思う。しかし、彼女のこの言葉を受けて、ぼくのこの問題に対する昨年までの到達点を紹介したいという気になった。そこで、このあと、紙量が膨大になるが、それを再掲載する。  こういうペーパーに葛藤しながらなんとか対応しようと燃えている自分に気づくとき、ぼくはぼくの自我がなんとかかんとかして拡大しつつあるのを実感することができる(枠組みが変わらないまま関係性をその枠組みのなかに詰め込む自己肥大かもしれないという危険は感じるが)。批判的ペーパーとの出会いは、ぼくにとって意味ある他者との意味ある出会いの重要なひとつなのであろう。そういう意味では、最大の「漁夫の利」を得たのはぼく自身なのかもしれない。 ● どこまでも知りたい=事実よりも真実を追求する生涯学習 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 駒田信二『「藤野先生」における真実』(『ユリイカ』昭和五十一年四月号)より  今では(魯迅の)「藤野先生」にフィクションの部分の多いことは広く知られている事実である。  わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。  「藤野先生」のはじめのこの部分の、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年の明治三十八年四月に開設されたということ、また、当時、仙台医学専門学校は第二高等学校と同じ構内にあり、その第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているということが、半沢正二郎氏を会長とする「魯迅の記録を調べる会」によって明らかにされている。  しかし、「藤野先生」に於て「・・・日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」と書いたこと、「中国の学生はまだ誰もいなかった」と書いたことは、事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。  幻燈事件も、事実としては「藤野先生」や『吶喊』の自序に書かれているとおりではなかったかもしれない。それを虚構と考えてみることは、尾崎氏のいうとおり、より深く当時の魯迅に迫る道の一つであろう。「藤野先生」の他の部分についても、同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。 mito  起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして-練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、「どこまでも知りたい」という自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、その「どこまでも知りたい」という場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」であるということである。事実の積み重ねに終わるのでは、駒田のいう「深い感動」もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかでいわゆる「社会教育の知識」が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」というワンダーランドとしての学習が疎外されているからである。  もちろん、枠組みは変えないままその枠組みに知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じるという人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識が豊富になった人を見るときのような、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいと思うが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。  ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だって多いのだ。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。  魯迅の例でいえば、「日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」という言語表現には、「当時は日暮里駅などできていなかった」という事実しか見えない人のつまらない詮索を越えた魯迅の思考のなかにある真実が隠されているのである。すなわち、その真実とは、日本人から抑圧され日本で銃殺されようとしている中国人を、同じ抑圧を受けているはずの中国人がのんきに見物しているという場面を見つめる魯迅の思考のなかにある。ただし、これは虚偽に対置される虚構、すなわち「小説的真実」についての話ではある。  さて、さきに「大学生のための進路指導のあり方(その1)」において、ぼくは、「mito的授業は、本当の夢の方への支援だと思ってほしい。学生の就職活動に対する大学学生部の役割は求人情報の提供などにあると思うが、教育的専門職員である大学教員の役割は、就職活動のプロセスのなかでの自己確立への教育的援助にあると思う」と書いた。事実と真実は異なるという今回の視点から、これをもう少し深めてみたい。  事実は小説よりも奇なり、という。一生懸命、採用試験の勉強をして、合格する実力(真実)を身につけたとしても、そういう人が落ちて、入るはずのない人がたまたま受かってしまうこと(事実)だってありうる。しかし、自分は、どの瞬間に自分をほめてやるべきなのだろうか。それは、挑戦可能なチャンスを見つけてきて、一生懸命に採用試験の準備を重ね、試験当日は「もしかしたら落ちるかもしれない」という恐怖に打ち勝って試験場に行き、そして、最後の試験の最後のチャイムが鳴ったときなのではないか。けっして、試験終了後、しばらく過ぎてから、合格通知がきたときにほめ、不合格だった場合はほめないということではないと思う。合格、不合格は「小説よりも奇なり」の事実にすぎないからである。ここでも、ラッキー、アンラッキーという事実によって右往左往させられてしまう主観的な態度から、自分の人生のうち自己決定できる部分を自己決定して生きているのかという真実の部分を重視する客観的な態度に転換することが求められる。  つぎに、採用試験に合格する実力を身につけたかという真実に属する部分と、実際の合格、不合格の結果という事実に属する部分との関係について、つぎの4つのケースを想定してより具体的に考察してみたい。  真実        事実   (合格する実力)  (試験結果) T ○         ○ U ○         × V ×         ○ W ×         ×  Tについては問題ないだろう。Wについても、結果をみて初めて落胆する人もいるかもしれないが、それはその人にとっては社会のもつ「真実」の側面に関するよい学習機会になったということにすぎない。実際、「落ちるべくして落ちた」という場合には、「自分は敗北主義に逃げることなく与えられたチャンスに向かってチャレンジできた」という充実感が、満足と自信(個人が社会に生きるにあたって必要な厚かましさ)につながることが多いようだ。  Vについては最初はぼくは問題ないと思っていたのだが、S大の男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたので、ぼくも認識を新たにした。つまり、採用後にサービス対象や仕事仲間に迷惑をかけ続けることになり、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、この話をしたら、他の学生が、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達にもうしわけなくて会うことができなくなる」という。このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまったのだ。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決める非主体的な態度(敗北主義)としてぼくは批判していたが、どうもそれだけではなく、現代青年のもつそれなりの繊細な深みもあると思われた。  そこで、Vについてのぼくの意見をまとめておこう。もし採用試験に「はからずも」(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで「正当な劣等感や罪悪感」(真実)をもつことは本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた能力を発揮できるようになるかもしれない。生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習(リカレント)を社会的活動に入ってから継続できる人なのかどうかのほうが重要になるからである。思うに、これは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということの表れなのである。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その持ち味を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうる。  最後にUについてである。ここで、ぼくは、今まで述べてきた「真実=合格する実力」という図式を否定しなければならなくなる。はたして、合格する実力を身につけることは真実に属することがらなのであろうか。現在の採用試験の評価基準は、採用後の仕事に必要な資質と能力を客観的に測りうるものになっているのか。そうなっているといえる人は、企業の採用担当者であっても、まずいないであろう。企業としては本人の貢献能力を正当に評価するための必死の努力は行なっているだろうが、評価の適正化そのものが未知の課題なのである。しかしながら、就職するためには、そういう社会から自分に与えられた不十分なチャンスを自分としてはどう活かしきるか、戦術を立てて臨むしかないだろう。つまり、合格する実力を身につけること自体は、真実(就職による自己実現そのもの)に属することではなく、事実(就職のための作戦)に属することなのである。  この点について、もう少し端的にいえば、一つひとつの採用試験の合否の結果は、ちっぽけな事実にすぎないということである。もちろん、少なくとも本人の「実生活」(事実)に対してはかなりの影響を与えるものではあるが、その影響がプラスかマイナスかは、じつは断言できないものなのである。私たちは、いろいろな情報を得て「ここがいいだろう」と予測してそこを目指しているのにすぎないのである。「事実は小説よりも奇なり」であるから、親が、学校が、友達が、社会が、そして自分が「いい」と判断している就職先であっても、実際に入ってみたらつまらなかったなどという「事件」は当たり前のように世間で起こっている。たとえば、いい教育をやりたいという志から晴れて教員になり、初めて配置されたところの学校が、そういう教育をやらせてくれない所だったなどという「悲劇」はごく普通に起こっている。そうなる危険性を覚悟して、そのうえでどう自分の志を社会適応させた形で実現するかということが、大人になる、社会に出て働く、自己実現するということなのである。合否の事実がプラスになるかマイナスになるかは、わからないことだ。「人間万事塞翁が馬」(人の世は禍福の定めがなくて、災いが福に変わり、福が災いとなるものであるとのたとえ)なのであり、ラッキー、アンラッキーという事実に自分の内面まで振り回されている姿は、少し客観視してみれば滑稽なことがわかるだろう。それがわかっていても一喜一憂してしまう自分を、もう一人の自分がそれを見ていて嗤ってやるのが、この場合の自己の客観視(自己認知)なのである。  それでは、「受かるべくして落ちた人」の真実とは何だったのかについて、ぼくの考えを述べてみたい。自分が今は何を求めて生きているのか、これについて社会のさまざまな事実に惑わされない何か(主我)があるのなら、少なくとも今は自分がそれを求めていることだけは、自分にとっての真実として確信できるのではないかと思う。それが真実なのである。だから、「安定した生活を送るために大企業にぶら下がれればよいのだ」と思っているのなら、それもひとつの真実なのだろう。しかし、それだけでは不満を感じたり、潔く自己受容できないとしたら、それは社会が悪い、アンラッキーなどという問題なのではなく、自分が今は何を求めて生きているのか、本当の自分の欲求に気づいていないという自己認知の欠如の問題なのである。  「受かるべくして落ちた人」のほとんどは、合格する実力をそれだけ蓄えることのできたエネルギー源として、ある社会的な役割を遂行したいという欲求をもっているのだと思われる。じつは、その社会的役割遂行の欲求こそが、その人にとっての真実なのではないか。その人は、この欲求を自己認知する必要がある。それは本当の意味での自信(自分への信頼)をもつことともいえる。  たとえば、教師になりたいという人は、きっと「いい教育をしたい」という欲求があるのだろう。だから、「教育公務員特例法」に基づく給料をもらいながらその欲求を実現する方策として、教員採用試験を受けるのであろう。それは教師になることを第一希望にする根拠としてはかなり妥当であるといえる。ただし、「人間万事塞翁が馬」であることは受容しておいたほうがよい。教員が学校に配置されるにあたって、校長の指名などはできないのである。しかし、その人の第二希望、第三希望は、どうなっているのか。受験者側には受験の自由が与えられているけれど、反面、採用者側には選別の自由が与えられているのである。そうだとすれば、受験者側が自分の就職先を勝手に一つに絞りこんでしまうのは、社会のなかの自己の位置という事実を客観視(自己認知)していないことの表れであるといえる。教員採用試験に受かることなどというのが「本当の夢」などであるはずはない。それは「本当の夢」を実現するためのただの作戦の一つにすぎないのである。だから「数打ちゃ当たる」という実践的態度が必要になる。もちろん、幸いにも自分が就職浪人させてもらえる状況(ラッキーな事実)にあるのなら話は別だが。  たとえば、学習塾の講師になるのはどうだろうか。「学歴偏重社会の手先になるのはいやだ」という人もいるかもしれないが、そういう人は学校だって「学歴偏重社会の発生源」としての残りかすを引き継いでいるのだから、正規教員として採用されても、同じように「いやだ」といって、その不快な事実から逃げ出そうとするのではないかとぼくは思う。そういう場合は、非常勤採用をねらったほうが、自分の思う教育がやりやすいかもしれない。あるいは、まったく異分野の職業に就いておいて、あるいは、専業主婦、専業主夫になって、ヒエラルキーから管理されないところで、あるいは社会教育のような(少なくとも理念としては)活動する市民が主体として尊重される世界で、地域の子育てネットワークに関わってもよいだろう。現実社会においては、そちらのほうが実際にはあなたのせっかくの志が実現しやすいかもしれないのだ。実際、望ましい意欲・資質・能力をもっていて、それを地域の子ども会活動の援助という形で活かしたいという住民が一人でもいるのなら、そういう人はあっという間に地域教育活動の主人公として、貴重なリーダーになりうるというのが残念ながら全国的な状況なのである。  これらの社会的役割遂行の豊かな可能性はすべて、自己の「社会的役割遂行の欲求」という真実の部分に本人が気づいたところから広がっている。事実(世間の物差し)ばかりに惑わされている人には気づけないことであろう。ぼくが「大学は学生が夢を見つけ出すためのところ」と考えているのも、そういう理由からである。また、生涯学習の「どこまでも知りたい」という欲求も、事実より真実こそを追求しようとする欲求なのだと思う。だからこそ、社会全体としても、そういう生涯学習の支援のための体系化をするのだと考えたい。人びとが自由に行なっているそれぞれの生涯学習の内容が、今の社会に直接的に還元するか否かを、公金を使って支援するかどうかの判断基準にすることには、ぼくは反対である。憲法第13条(個人の尊重)が「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という場合の「幸福追求」の権利とは、「社会に対して役割遂行しなければならない」という個人としてではなく、「自己実現したい」「役割遂行したい」という個人としての真実の追求の権利というべきである。 ● 知的水平空間における感情表出と「求め学ぶ」学習態度 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(S短大社会教育特講、男)  ペーパーがストロークの一手段であるとするならば、ある意味においてこの講義の時間は同時に演習であるとも云える。  人が人の心に思う本当のかたちの在り方を情報として提供し、又、提供される。私が今これに思うことは、決して「提供される」といった他者(mito、社会、親、年長者、会社、学校)からの手助け、ないし使役の形を伴った行動学習の在り方ではなく、私たち学生は自ら提供を受け入れる存在であるべきたることである。すなわち、主体性を体得することにほかならない。それなくして批評精神など至らぬ。  プリントで様々なペーパーを通読した。成程、啓発を促すための所作のひとつとして「刺激」もしくは「毒」を多方面に渡ってなげかけて居られるようだ。授業計画の記述に、ペーパーは、これを学生が書くことによって知的に自己客観視を含め、人間社会生活の行動学を認識するのに役立つ、らしき内容をみた。文章という媒体(メディア)も使い方により誤りも生じ、多数のペーパーの傾向を追うに、講師との密な個人的係わり色濃いものが多く、それは断ち切らなくてはならないのではあるまいかと切に思う。教師との信頼も、それが過密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性と云うことばに停滞しているどころではない。  幸い、出席ペーパーは(あるいは幸か不幸か)感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える。それに安心するのは、ストローク(人は信頼し得るものだと云う試み)に於いては有効であろうが、求め学んで行く学生の時機に休息の糧を得て、本当に先々個人という主義を担って生きて行かれようかと危惧の念を抱くのである。 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、男)  「出席ペーパーは感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える。」という(注・S大男子学生の出席ペーパーでの)意見があったが、授業で紹介される出席ペーパーはむやみやたらと感情を出しているだろうか。紹介されるペーパーは少なくとも、それを読む他者、聞く人々という対象を意識して書いているように思えるし、自分のためだけに書いた日記調のものではないと思う。(注・ペーパーを読まれるということは、むしろ)さながら、ラジオの深夜放送で読まれているのに近い感じだと思う。  さらに、このことについて、僕の個人的意見を述べさせてもらうなら、ある程度の感情をはき出す必要があると思う。感情とは、本音であるところのもっとも原始的なところではないか。むしろ、こういった本音の感情をはき出すことは歓迎すべきことだ。なぜなら、現代社会においては、タテマエと本音を使い分けて生きていかなければならない局面が多々あるからだ。このことは、ともすると、本音(感情)をごまかすということになる。つまり、ある意味で自分を殺すということだ。これはだれもが程度の差こそあれ経験していることだと思う。本音で感じていることと、口で言葉にすることが、ぜんぜん違っているということが。もちろん、この本音とタテマエはある程度必要だが(mitoちゃんはヒエラルキーの中で仮面をかぶるという)、その許容範囲を越える事態(注・個に対する社会的抑圧の、あるいは自己抑圧の、過剰の意味か?)が生まれている。現に、神経科、精神科の病院が大はやりだ。そこで、会社のような利害責任を問われない大学(授業)、教室という空間においては、本音の感情をぶつけあうことが行われていいと思う。僕は大賛成だ。とかく、感情(本音)を出して表現できる空間あるいは仲間が少ないだけに。 mito  mito的授業のなかで学生が出席ペーパーを通して感情を表出することは、知的水平空間を維持し、発展させるという観点からは、プラスなのか、マイナスなのか。なかなか微妙で興味深い問題である。たしかに、感情の交流は、「知的発達」よりも「癒し」や「信頼」の、ストロークに傾いた行為であるといえそうだ。だから、従来の教育においてはそういうものが排除され、「自分の言い分は本当に自分勝手ではないかを考えてみよ」と親や教師からいわれて、「知育」の名のもとに、もっと一般的、普遍的な言い方をするように求められてきたのだと思う。  しかし、「アサーティブトレーニング(さわやかな自己主張訓練)」においては、「自分の言い分は本当に自分勝手なのかを考えてみよ」が引っ込み思案の人たちへの重要なアドバイスの一つになっている。ぼくは、前者の訓示にはむしろ虚偽を感じ、後者のアドバイスに人間の真実を感じるのだ。自分勝手で不当な感情をもつことも人間だからときにはあるかもしれないが、それよりも、誰でも一回しか生きられない自分の人生に関心をもっているということから発するやむにやまれぬさまざまな感情は、何らかの深い「人間的真実」に基づいている場合が多いのではないか。むしろ、個人の感情を「自分勝手だ」と自他が決めつけてしまって、最初からしかめつらをした「一般論」で論じようとすることのほうに、真実の追求からの逃避の匂いをぼくは嗅ぎとってしまうのである(前者のペーパーの書き手に対してではない)。自らの深い「人間的真実」に主体的に迫ってこそ、深いところで他者と認識を共有することができるのだと思う。  学問とは「世渡り術を習うこと」ではないのだから、授業では学生は自分の感情をペーパーや口頭や頭のなかで言語表現することによって自己の客観視に接近することのほうが重要なのではないか。ぼくは学生に「mito的授業においては、あなた自身があなたにとっての最適の教材である」と宣言している。それは、「自分に出会い、自分のもっている無限の可能性に少しでも気づくこと」と言い換えてもよいだろう。これは人間の学習活動の大きな意義なのだ。ぼくが生涯学習活動において、「開きたい心を安心して開いて交流できる時間・空間・仲間のサンマ」を重視するのも、そういう理由からである。「アサーティブトレーニング」の効果の一つとして、「安心して自分を開くことができる。したがって、自己洞察の機会も広がる」が挙げられているのも同様の意味であろう。  ぼくは、前者のペーパーが「むやみやたらと伝達の為に感情をはき出して、それに安心して、求め学んで行く学生の時機に休息の糧を得てしまう」と指摘しているその鋭さに、敬意さえ抱くものである。しかし、そこで表明された「危惧の念」は、実際には、むしろ逆のことに対して表明されるべきだったのではないかとも思う。すなわち、自己の感情や思考方法を言語表現することを避けて、もうすでに権威化された一般論しか述べずにいて、それで「学んでいる」と安心してしまっている姿に対してこそ、「求め学ぶ」学生の姿ではないというべきではなかったのか。  ぼくは「生涯学習はドキドキワクワクのワンダーランドであるべきだ」といっているが、じつは、自己の感情や思考を表現することは、しばしば、心を平安にしてくれずに、むしろ自己の思考を波立たせていっとき不安定にさせる作用を及ぼすと感じている。だから、その「ドキドキ」がつらいという人だっているだろう。それでは、そういう人に対して「危惧の念」を表明すべきだろうか。ぼくとしては、大人の学習は本質的に「問題解決型学習」であると考えているから、「そんなことで苦しんでまで学習したくない」という人がもしいるのならば、そういう人はさしあたって生活に必要な知識だけ身につけておけば当面はよいのではないかと思う。別に無理して教育を受けたり、学問をしたりしなくてもよいのではないか。生涯学習の原則は、「学びたいことを学びたい手段で」なのだ。リカレント学習の考え方でいえば、その人は学びたくなるときまで待ってから学んだほうがよいということだ。  しかし、実際には、ペーパーで自己を開くことによって、「休息の糧」を得るどころか、あえて自分を辛辣に表現する学生が多い。たとえば、高校時代の自分が担任の教師の「不倫相手」や「恋愛対象」になったとき、「先生の奥さんに勝った」とか「先生のファンである同級生たちに勝った」と思っていたことを、きちんと文章として外在化させる学生もいるのだ。こうした自己への気づきは、出席ペーパーというチャンスがなければありえなかったのではないか。それは、自分という人間の滑稽さを客観的に認識するということであり(自己洞察)、自分も愚かな存在の一員であることを知ることである(無知の自覚)。このことによってこそ、自己受容ができ、その後の自己変容の主体になりうるのである。ぼくは、それを称して「個人の内側にさわやかな風が吹いている状態」と呼んでいる(さわやかな風)。  また、このような出席ペーパーは、他の学生にとっても興味深いもののはずである。他者の感情表現のなかにある真実を垣間見ることができるからである。他者は自己の鏡である。狛プーのある女性メンバーが記録集に、こう書いている。「私もみんなの心の中を写し出す鏡です。いろいろな自分を知りたい人は、どうぞ姿を写しにきてくださいな。もっとも、この鏡はナマモノなもんでねえ。いつでも等身大にきれいに写るかどうかはわからないよお」。  川喜田二郎は、自らが開発したKJ法という発想法を解説した『続・発想法』(中公新書)の「情念の情報キャッチと理性の確認」という項目のなかで、科学や学問や問題解決などの発想について、「情念がとらえ、理性がこれについで確認する」と表現している。それにも関わらず、私たちは、理性の確認のあとにできあがった完成品としての学問の姿ばかり習ってきたのではないか。「学ぶ」という言葉は「まねぶ」(まねをする)という語義をもつ。ぼくは、『生涯学習か・く・ろ・ん』では、この言葉を消極的、受動的だとしてやや批判的に説明したが、今は、「まねぶ」こと自体は学習にとって非常に重要なことなのだと思う。ただし、それが、学問生成の初期形態としての「情念がとらえる」部分からも学ぶことになるのでなければ、やはり「求め学ぶ」積極性にはつながらないといわざるをえない。そうでなければ、つまり、完成品としての学問だけしか与えられないのであれば、一人一学説といわれる現代という時代においてさえ、私たちはいつまでたっても学問を創造する側にはなれないのである。 ● 2つの積極と2つの消極(生涯学習とは何か) 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)  積極的積極性(以下4パターン)の話はとても面白かったです。このように4パターンに整理した話は初めて聞きました。似たような話としては、一生懸命ボーッとしたいという話を友達としたことがあります。 mito  偶発的学習も生涯学習の一環として考えようというのが、ぼくの主張である。そうしないと、生涯学習実態調査などで、「継続的・計画的学習」をしている人たちだけをとらえて「わが町で生涯学習をしている人は何%、生涯学習していない人は何%」などという忌まわしい言い方が、いつまでもなくなりそうにないからである。  しかし、各市の委員会などの場で、社会教育や生涯学習の関係者の前で、ぼくが「勝手に散歩でもしていて、でもそこで感動して何らかの自己変容があれば、それはその人にとっては大切な生涯学習だ」と発言すると、必ずといっていいほどひんしゅくを買うことになる。関係者から、「それじゃあ、人間のすべての行動が生涯学習だということになってしまうではないですか」といわれるのである。ぼくは人間のすべての行動に生涯学習としての側面があるととらえるのならば、それはそれでもよいと思っている。市の道路行政による散歩道の保守管理が生涯学習支援の側面からもとらえられるようになることこそ、「行政の生涯学習化」といえると思うからである。だが、ひんしゅくを買いっぱなしでいるのもどうかと思い、人間の活動のなかに生涯学習と呼べない活動があるとしたら何なのかを考えた結果が、この「2つの積極と2つの消極」論である。  練馬区の生涯学習推進懇談会の答申の作成に関わって懇談会委員同士で議論を重ねることによって、ぼくは、生涯学習が「どこまでも知りたい・上手になりたい(発達・成長したい)」と「癒されたい・安らぎたい」の2つの欲望から発すると考えると、とても自然な理解ができることに気づかされた。「教育」という名がつく世界にいるうちに、「人間はつねに発達していくべき存在」という考えを知らず知らずのうちに身に付けていたぼくが、日本文学専攻のある委員から「西村さんは、何かにとらわれているのではないか」と指摘されたことから、その議論は始まった。そして、とうとうも、「人間はつねに発達していくべき」すなわち「学習すべき」という姿勢を払拭した画期的なものになった。  この「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに自らの欲望を充足しようとする自己の意思から発した積極性の発現としてとらえることができる。論をつぎに進める前にここでとくに留意しておきたいことは、「癒されたい」という欲望から発する行動も、ここでは「消極」ではなく「積極」としてとらえているということである。なぜなら、人が癒されるためには、他者からのストロークが必要であり、ストロークをうまくもらうためには、相手にうまくストロークを出したり、開きたい心を安心して開いて交流できる水平なネットワークを見つけ出したり創り出したりする積極性が必要になるからである。「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに積極的な行為につながらざるをえないのである。  これを前述の「人間のすべての行動が生涯学習ということになってしまう」という反論への反・反論として活かすならば、次のようになる。「そうではない。どこまでも知りたい、癒されたい、などの欲望から発する積極的な行為だけが生涯学習なのであって、テレビも見ずに自分の部屋でボーッとしているなどの消極的な行為は生涯学習とは呼ばない」。そして、こう付け加えるべきだ。「生涯学習活動や積極的行為だけがすばらしいということをいいたいのではない。ボーッとしている時間(無為)もその人にとっては大切なのだ。それは、つまらない欲望を捨てた潔い消極性というべきであろう」。  今回提示した「2つの積極と2つの消極」論は、以上の議論の経緯のうえに立ち、それを発展させたものである。生涯学習においては自分の欲望や意思に基づく「自己決定」という要素が重要である。結果的、外見的には同じ積極性であっても、それが本来の自己決定でなければ、従来の学校歴偏重社会における受験勉強(これもまた、単純にけなすことはできないが)と生涯学習活動とは、変わりないものということになってしまう。ここで「自己の欲望に基づく本来の自己決定」とは、すなわち、社会や人のせいにしていない、すなわち「自分のため」に、主体的にやっているということである。ちなみに、生涯学習活動だけでなく、ボランティア活動にとっても、この「自己決定」は重要である。そこで、同じ積極性でも、同じ消極性でも、それぞれをはっきり別のものとして考えるために、次の4タイプを整理して提示したのが今回のぼくの議論である。   主体  結果・外見 T 積極的 積極性  自己決定         (生涯学習) U 消極的 積極性  仮面・戦術         (受験勉強) V 消極的 消極性  敗北主義         (被害者意識) W 積極的 消極性  自己決定         (無為・潔い撤退)  ぼくは、あとから、この4パターンがぼくが予期した以上になかなか有益な分類であることに気づいた。たとえば、生涯学習活動や地域活動やボランティア活動をしている人のなかにも、その活動をしていない人に対して「けしからん」「〜すべき」といういい方をする人がいる。そういう人は、いわば「過去と他人は変えられない」という厳然たる事実にイライラしているのである。潔くなれないのであろう。じつはこの人たちは、本来の「自己決定」の生涯学習としてのTの状態にあるのではなく、「不幸の手紙」をもらった人のようにUの状態にあるのではないか。もし、Tだったら、「この活動はとても魅力的だよ、素敵だよ」「いつでもおいでよ、歓迎するよ」と言うことはあっても、そういう活動をしない人を見て責任を追及する欲求に駆られてイライラするなどという不幸には陥らないと思われるのである。Tの人は、むしろWの人と連帯しやすいのではないかと思う。どちらも「自己決定」であり、「潔さ」が共通しているからである。  しかし、Uの状態も、ヒエラルキー社会においては、残念ながら、完全には回避することはできないだろう。仮面や戦術を使わなければ、あっという間に世間から干されてしまうからである。Uについては、回避が不利になるのならば、これを無理に避けるのではなく、むしろ、仮面・戦術としてきちんと意識してこれを選び(これもひとつの自己決定である)、仮面・戦術であることをつねに思い出しながら「頑張る」のがよいと思う。そうすれば、「頑張らなくちゃいけない」などという不合理な思い込みから自由になることができる。また、ときには、その活動の意義に気づいたり、うまく楽しむ方法を発見したりして、途中でTに切り替わるような幸運も訪れるかもしれない。  Vの状態の人は、本人にとっても社会にとっても最悪であろう。そうはわかっていても、自分の消極性を「過去と他人のせいにして、空しい自己満足と安定を図ろうとする」弱さは誰でももっている。もっているからこそ、こういう4パターン分類法の活用による「客観視」が有益であるということができるだろう。TからWの分類は、さまざまな人間がこの4つに分けられるというよりは、一人の人間のなかに4パターンの状態が混在しており、それを整理して判断基準とするために有益であるととらえてほしい。つまり、「よし、今回はわたしはこれでいこう」という、客観視と主体的納得を伴う自己決定のために活用できると思うのだ。  Wの状態というのは、これはもうすごいとしかいいようがない。広大な時空における自己の小ささを穏やかに受け止め、ときの権力や価値観に惑わされず自己に与えられた人生のひとときを静かに味わう。ぼくはその潔さにあこがれや尊敬さえ感じるのだがどうだろうか。社会にとっては直接的利益にはつながらないかもしれないけれど、「立つ鳥、あとを濁さず」「潔い撤退」などのさわやかさは、今後のネットワーク型社会の創造にとってはむしろ重要な要素のひとつというべきであろう。そういう「潔い撤退」などのWの状態なら、ぼくたちでもそれなりに実現できる状態であろう。  生涯学習は「学びたいことを学びたい手段で学ぶこと」であり、「自己管理型学習」であることから、本質的にはTの状態のものといえよう。Tの状態としての規定は、先に述べた「生涯学習は積極的な行為」という規定よりは的確であり、Uの状態での従来の「させられている学習」などとの違いをより明確に位置づけることのできる規定としても、なかなか有益であるとぼく自身は考えている。 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)  (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定、潔さが持てるのだと思います。 mito  ぼくが言ったのは、Tの人はUの人にではなく、Wの人に連帯感を感じるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは連動関係にあるということなのだろう。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということである。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人が「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がないのであり、それより「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会における自己決定のあり方を探るということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。 ● 空しさに耐える自己管理型体験学習-結果を恐れるな 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)  (奇数日の)ゲ-ムの日に出席しないのは、多分に私のワガママです。性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからないという・・・。グル-プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ-ムをやるときのメンバ-がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ-ムを「こなす」という感じで終わってしまうんですよね。それはけっこうみんなそうじゃないのかなあ? で、そういう「中途半端な」楽しさは、すぐに空しさ(寂しさ)に変わってしまうから、それが嫌なんですよ。そういうわけで、ゲ-ムの日は完全にパスさせてもらっています。 mito  ぼくは、授業自体も、生涯学習の「学びたいから学びたい手段で学ぶ」という「自己管理型」で行なおうとしているから、このような「潔い撤退」に類した例はたくさん経験している。「こ・こ・ろ生涯学習」にも書いたとおり、基本的には「元気になったら出ておいでよ」という対応でいいのだと思っていた。しかし、今回のこのペ-パ-は、体験学習による擬似的時空の空虚さを鋭くついたものであり、そういうペ-パ-に対しては、「無理して出席しなくてもいいんだよ」とぼくが対応することは、教師としての責任逃れにもつながりかねないと思われる。そこで、少し立ち入って考えてみたい。  このペ-パ-は、じつは4枚にわたる長編(?)で、先に引用した部分は、その追記である。本文では、偶数日の「講義型学習」を含めて「あまり得るものがない」、他の学生の出席ペ-パ-も「面白そうだね」というものはあるが、「まあ、時間に余裕があれば」という程度で、それよりは、この授業をパスして他の授業で出された課題などをこなすことが多い、などという自己の状況を述べたうえで、「(そういうふうにパスすることも)美東士先生の方針ではOKになるんだと思いますが、それで一年間終わってしまったら、何のために『社会教育計画』の講義を取ったのか、何も残らないと思いませんか?」と穏やかな口調ながら、ぼくを厳しく突きつめている。  しかし、これだけであれば、ぼくは、「履修要覧やテキストを読んで、ぼくやぼくの授業が自分にとって必要かどうかを判断して、出席するかどうかを自己決定せよ」と答えればよいだけだと考えている。ところが、この学生はどちらも読んでいるという。また、最初の3回目の授業までは、きちんと出席している。「まずはぼくの授業の様子を探ってくれ」というぼくの要請に応じてくれている。彼は次のように書いている。「(高等教育においては)基本的にはどの科目を取るか、それを決めるのは学生側の『権利』として与えられているわけですよね。そして、判断のための情報として、『履修要覧』があり『お試し期間』があり、それでも足りなければ、直接、担当の先生のところへ質問しにいくことだってできるわけです。それだけのものを与えられていながら、あとから文句を言うような選択しかできないというのでは、学生側がなかば選択権を放棄しているようなものだと思うわけです。たしかに、私も選択したあとで、『あっ、これはハズレだったな』と思ったものもありました。でも、そういうときでも、せっかく高いお金を払って買ったんだから、テキストだけは一通り読んでみようとか、講義の『おいしいところ』だけはある程度頂戴しておいて、そこから『独自路線』を展開しようとか考える。そうして、それなりに、この講義を取ってよかったなというものを作ってきました」。ところが、彼は、ぼくの授業だけは、履修要覧や教科書からは「見えない」「読み切れない」というのである。  ぼくは、いつも、授業のシラバスを、大学当局から与えられた字数制限いっぱいに書いて提出している(内容はともかく)。ボリュ-ムばかり多くて「ひんしゅくもの」ではないかと不安を感じるぐらいだ。授業スケジュ-ルなどは、一字も余らせないなどのノイロ-ゼ的なまでの記述をしている。ただ、T大学の場合は、授業スケジュ-ルの欄の字数が非常に少ないので、この学生がほかで指摘しているように、よくわからない代物になっているとも考えられる。これについては、来年度からは、もっと詳しいシラバスを、初回の授業に別途配ることにしたい。  それにしても、このペ-パ-の主張は、その程度のことでは本質的には解決し得ない深い問題を提起している。この学生のように主体的に自己決定をした場合であっても、「学びたいから学ぶ」という自己管理型学習がうまくいかないことがあるということを示しているのだ。それは、「書き言葉メディア」とは異なる「話し言葉メディア」としての授業(ぼくは、mito的授業がそれをねらったものであることを公言している)の特殊性の表れであるともいえよう。「話し言葉メディア」としての授業は、学習者側としては、「書き言葉メディア」である履修要覧やテキストを読んでも、最初からは自分にとっての授業の意義が「読み切れない」のである。だから、「先生のいうことにはしたがっていればよい」というような教師への無条件的信用(基本的信頼ではない!)をしないこの学生に代表される「正しい学習態度」の主体的学習者にとっては、かえってその学習結果が恐ろしくて、「話し言葉メディア」としての授業には踏み込みずらいということになる。  それが、態度変容を意図した体験学習の「奇数日」になると、その状況はますます決定的である。体験学習の場合は、よく吟味したうえで「よし、参加しよう」と自己決定した場合であっても、「出なければよかった」と後悔することが多々あるだろうからである。この学生のいうような「中途半端な楽しさが、すぐに空しさに変わってしまう」などという事態は、日常茶飯事でさえある。「結果が恐ろしい」どころか、「恐ろしい結果」(空しさの逆襲など)をすでに何回か味わっているのである。  しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。この学生は次のように書いている。「性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからない」、「グル-プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ-ムをやるときのメンバ-がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ-ムを『こなす』という感じで終わってしまう」。その気持ちはよくわかるが、現代社会のヤマアラシジレンマに立ち向かうためには、その空しさはあえて受け入れなければならないのではないか。「祭りのあとの空しさ」というではないか。祭りを楽しんだとしたなら、祭りが終わったあとは、その空しさをじっと受けとめなければならない。それが祭りの定めであり、人間関係の宿命なのだ。そこから逃避しようとして「いつも同じメンバ-」に固執したとしても、そこで感じるだろう空しさは、これと同質、または、それ以上のものかもしれない。  また、社会教育の援助者に求められるコミュニケ-ションや組織化のための資質・能力についても、今後重要になるのは、特定の住民とべったりつきあったり、「教祖様」になったりすることなく、ときには、情報提供や一過性の学習者へのサ-ビスなどの「ちょっと間をおいた」、あるいは間接的な援助をしなやかに行なえることである。そういう仕事の仕方では、従来の社会教育の直接的援助や指導の魅力に固執する援助者の目には、まさに「虚業=空しい仕事」に映り、不満を感じるかもしれない。だが、こういう仕事を「自分(の気づきや出会い)のためにやっています」とさわやかに言える「発想の転換」がこれからの援助職員に求められるのである。そのためには、人間関係のための洗練されたセンスが必要になる。  それゆえ、自己管理型学習、とりわけ自己管理型体験学習には、「空しさへの予感や恐怖に耐える力」が必要とされているといえるのではないか。このペ-パ-の学生のような、かなりの自己管理ができている学習者に限っては、ぼくは「潔い撤退」への肯定的態度を変えてみたい。「いや、だまされたつもりでもいいから、とにかく出てみたらどうだろうか」といおうと思うのである。そういう自己管理型の人にとっては、他の「自己管理ができている」ほかの授業への出席や宿題をさぼってでも、mito的授業のような「自己管理のしずらい」授業に参加することのほうが、自己成長にとって有益だと考えられるからである。そうでないと、せっかくの自己管理型学習であっても、「書き言葉メディア」による自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組みを変化させる本来の意味での学習、または革新型学習につながらなくなる恐れがある。ちょっと「余計なお世話」かもしれないが。(もちろん、単位を出さないなどの強制につながる行為をするつもりはない。学習の自己管理の原則はあくまでも貫かれなければならない)。  そこで、つぎに、同日に提出されたほかの人のペ-パ-を、もうひとつ紹介しておく。ここには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表わされている。 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)  (前回のパズルゲ-ム-スクエアゲ-ムについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲ-ムでは、カ-ドを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャ-したりしてはならないということだったけれども、たかがカ-ドの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。  (体験学習を行なうということに定められている)奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲ-ムを始める前、このゲ-ムでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグル-プになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。  7月ぐらいまでは、ゲ-ムに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。  この前のパズルゲ-ムのときと、その前のゲ-ムのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。 mito  エンカウンタ-グル-プは、日常の人間関係とは離れた「文化的孤島」で行なわれなければならない。奇数日の授業も、これに似た意義(「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」)があるのだろう。また、引っ込み思案の克服方法のポイントのひとつは、「結果を恐れるな」(自他への不信から結果を先回りして勝手に決めつけるな)である。この言葉も参考になると思う。 ● 自己受容と自己変容-自己の枠組み自体が変化する生涯学習 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 mito  ぼくは、今まで、枠組み自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組みを変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。その(認知説に?)偏った考え方には変わりがない。急速に発展・変化する生涯学習社会において、枠組みを変えないまま、固定化した枠組みのなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと思うからだ。  しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、ぼくのこの「学習論」への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。ぼくにとっては、それが逆に不思議だった。そこで、ぼくは「じゃあ、ぼくは自分を変化させたいと思うか」と自問自答してみようとした。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。  もともと、ぼく自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での学習をしたい)というとき、楽しいイメ-ジとして「変化したい」という言葉を使っていた。ぼ-っと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人と出会ったとき、その人の枠組みのよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときは「至福」ともいうべき自己充実感を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「自分をどんどん変えたい」という程度の軽い気持ちなのだ。例の「どこまでも知りたい」(練馬区生涯学習推進構想)という生涯学習の原始的欲望の一種と考えてもよい。  ところが、ちょっとマイナ-な気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみたのだが、とてもみじめな感じになることに気づいた。そりゃあそうだろう。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを権力側(この場合は教師)から「自分を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうが健康的である。  「自分を変えたい」という欲求は、じつは、2つに分類できるのではないか。 T 自己否定としての変身欲求-今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。 U 自己受容による学習欲求 -今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。  ぼくが今まで提唱し続けてきた「枠組み自体を変化させる生涯学習」というのは、当然、Uということになる。最近の臨床心理関係者の話(嗜僻、依存症など)を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラ-が、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ることと自分を大切にすることは重要である」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたはぼくの胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。ぼくの言葉で言い直せば、「客観視」と「自分のために生きる」ことの大切さということになろうか。Tだけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組みのまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍になるような生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容につながるのである。  「自己の枠組み自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。でも、わくわくすること(ワンダ-ランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということであり、その援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「こんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。 ● 自罰のデリケ-ト、他罰のデリケ-ト (加害者の被害者ヅラ、淋しがり屋のタカビ-) 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、男)  このところ、この授業に出るのが嫌になって、あまり出ていませんでした。それは、授業のなかでもふれられていたように、授業のなかで出てきたことに突きつけられて、これまでの自分のまちがっていることを認めるのが嫌だったからだと思います。そこへきて、自分の自罰的傾向(「ちゃんと現実を見すえなくてはいけない」「逃げてはいけない」)や自信のなさ(「自分にはこの授業を受けるだけの包容力や人間性が欠けているのではないか」「他の受講者が自己変容しているあいだに、自分は低いところで堂々めぐりをしているのではないか」)があるものだから、事態は深刻だったといえましょう。  しかし、今日、ある意味ではたまたま、この授業に出て、本当によかったと思います。もともと自分は、社会教育主事資格ほしさとはいえ、好きで(=主体的に?)この授業をとったのでした。ならば、そういう自分を受容して、そして自分を変えていけばよい(どこまで変われるかは別として)わけです。だから、今後は、もっと積極的に出席して、自己変容や自己管理につなげていければと思います。自罰しすぎないように、自分に自信をもてるように(しかし、肩で風を切ったりうぬぼれない程度に)していければと思います。 mito  この学生のようなデリケ-トさ(本人は自罰傾向と分析しているが)は、本人の個の深みのひとつであり、そういうデリケ-トさが欠けていると自覚するぼくは尊敬する。彼は人生を真剣に生きている、あるいは、自己評価の水準のレベルが高いと思うのである。そんなぼくがかれらに何かいえるとしたら、つぎのようなことである。「批判は歓迎せよ、否定は受け流せ」。本来の批判は基本的信頼にもとづくものである。自分にも刃(やいば)を突きつけながら、なおかつ、そんな非力な自分と相手を受け入れているからこそ、批判ができるのである。「非力でない場合だけ(自他を)信頼できる」という人がいるとしたら、その人のいっている「信頼」は本来の信頼ではない。ただの「信用」である。信用に値するような完璧な「先生」や「人格者」など、この世に一人もいないはずだ。「信用される人間」になろうとする態度は、じつは、競争主義の学歴偏重社会に過剰適応しようとしている無茶なガンバリズムであり、不合理な思い込みにすぎないのである。だれかがそんな競争主義にもとづいてあなたを「否定」(批判ではなく)したとしても、そんな否定は受け流すにこしたことはない。あるいは、そういう「否定」は、その人自らの不安の表明にすぎないのだから、自分を否定しようとする他者の「弱さ」を共感的に理解して処理することができればベストである。学歴偏重のヒエラルキ-的価値観を内面化しているかぎり、その人は他者を否定しかできないのであるから(その弱さは、多かれ少なかれすべての現代人がもっているだろうが)。  さて、ここで、最近ぼくが気になっているもうひとつのデリケ-トの傾向について述べておきたい。それは、自罰傾向のデリケ-トに鮮やかに対比される他罰傾向のデリケ-トである。たとえば、恋愛問題にしても、自分だけを相手が愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないというのである。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際しようとしている。だが、そこまではいいのだ。見方によっては、そういう生き方も本人がそれで納得して生きているならたくましくていいじゃないかとも思う。別に他人であるぼくが気にかける必要はない。ところが、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。デリケ-トなのである。もちろん、真剣に相手のことを怒っている場合もあれば、「悲しいけれど事実として受けとめる」という場合もある。しかし、いずれにせよ、自分自身については甘やかしておきながら、相手を罰していることにはかわりない。現代社会において、幸福追求の援助者として教育が存在しようとするのならば、こういう場合はどうすればよいのか。これは、すなわち、他罰のデリケ-トに対する援助のあり方の問題である。  授業中の私語の問題は、今や当たり前すぎて陳腐な話題だとぼくは思っている。授業中の「感動の私語」はむしろ歓迎し、これを積極的に組織化すること(その端的な表れは「ちょっと待った方式」)、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は双方の自由を保障するために、おしゃべりをするための中途退室と入室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、おしゃべりをやめさせるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。先日、50人くらいが受講する授業で、男性2人だけが小声でひそひそしゃべっていて気になってしかたがないことがあったが、しばらく我慢しているとその人たちは荷物を置いたまま自発的に退室してくれたのだ。もちろん、あとで戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。  しかし、そううまくはいかない場合も多い。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば、その授業とは無縁の「余計な私語」はそういうほかの学生に迷惑をかけていることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ(ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の学生は、その人の学習の自由を保障するために、退室しないままの余計な私語を禁欲せよ」という考え方である。念のため)。人間は何か迷惑行動を起こすときでも、自分の心の中ではなんらかの形でその行為を「正当化」しているはずだ。私語学生はどのように自らの退室しないままの私語を正当化しているのだろうか。  ここに、「他罰のデリケ-ト」のロジック(レトリック?)が適用できるのではないか。「ほかの人は、私みたいな(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな授業をまじめに聴いていられるのよ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、自分を許して他者を罰しているのではないか。つまり、自分が傷つくことばかりに対してデリケ-トだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向やピア・コンセプト(仲間意識)の表れにすぎないのだが、それを、「おしゃべり仲間をちゃんと大切にしている友達を大切にしている自分」として逆に正当化してしまっている。この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピアが介在していて、個人の個の発現を抑圧しているのは社会そのものではなく、じつはピアであり、すなわち、その人自身の内なる認識なのである。  電車の中で迷惑行動をしている人の顔つきを見ても、かれらはけっして楽しそうな顔をしていない。股を大きく開いて3人分ぐらいの席を占有している人も、「3人分の着席の幸せ」を奪っているのにけっして幸せそうではなく、むしろ疲れた辛そうな表情をしている。社会や他者に対して、何か不愉快なことがあるのだろう。これをぼくは「加害者の被害者ヅラ」と呼んでいる。そういう例は、いやというほど周辺で見受けられるだろう。だが、よく考えてみれば、そういう加害者たちが幸せになれるのだったら、本当の被害者たちにとってはたまったものではない。水平なネットワ-ク社会(ぼくはそれを学歴社会に対する生涯学習社会だと考えている)における「してあげる、してもらう」のストロ-ク交流の関係しか、自分自身も幸せになれる方法はないのだという「嬉しい確認」ができたと考えればよいのだ。  ただ、そうはいっても、援助者としての社会的役割の遂行が期待されている人は、そういう「他罰のデリケ-ト」の自己変容に対する援助のあり方を考えなければならないだろう。そこで、デリケ-トの種類を次の2つに分類して整理してみたい(本当はそのどちらでもない個の深みそのものともいうべき「デリケ-ト」を入れて3つだと思う)。 「種類」-「不安の動機」-「関係性の悩みの内容」 T自罰的デリケ-ト-相手を傷つけたのではないか。-自分は他者を愛せない。 U他罰的デリケ-ト-相手から傷つけられた。-他者が自分を愛してくれない。  もちろん、私語程度の「何気ない迷惑行動」と「確信犯的な迷惑行動」を同一に論ずることには危険性がある。ここでは、程度の差はあれ、アンビバレンツな人間存在としては、すべての人が、「自罰・他罰」「デリケ-ト・たくましさ」「大・小」のどちらの要素ももっているという前提で論を進めたい。  ここで問題にしたいのは、Uである。社会的に客観視した場合は論ずるまでもなく「不当な態度」として処理すればよいのだろうが、その人は主観的には「本当に悩んでいる」のである。すなわち「問題があることを自覚している」のである。学習は問題の自己解決の行為(問題解決型学習)の一環だとして、教育はそのための援助だとすると、本人が主観的には問題をかかえているということ自体は、援助の唯一の拠り所として非常に重要なポイントなのである。  ぼくは「淋しがり屋のタカビ-」という言葉をつくった。タカビ-とは高飛車な人のことを指す流行語である。相手の人生を、自分の都合にあわせて影響させたり、支配したりするようなことが多い「迷惑な人」のことである。しかし、そうい人のなかに、じつは「淋しがり屋」が多いのだと思われる。「淋しがり屋」と「タカビ-」の素質は、そういう人のなかでは、悪循環を繰り返しているのだ。愛されないからますます淋しくなり、だからこそ、ますますタカビ-になる。さて、ここまで論じてきて、ひとつ重大なことに気づかないだろうか。すなわち、「そんなことだったら、自分にだってある」「そんなことだったら、わかる」ということである。この「そんなことだったら」が重要である。援助者だって同じ人間なのだから、「淋しがり屋のタカビ-」や「他罰的デリケ-ト」の行為に対して、そんなに苦労しなくても、ごく当たり前に共感ができるのである。これをぼくは「教育的可能性」のひとつととらえる。  つぎに、これと関連して、「援助者としての責任と無責任」について考えてみたい。授業中に登校拒否(不登校)や拒食症(摂食障害)のビデオを共感的に理解することをねらいとして視聴しても、なおかつ、一部の学生から「共感できない」「かれらは甘えている」というペ-パ-が出されるmito的授業の実情について、「援助者としては不適応症状の人を共感的に理解してあげなければいけないのではないか」、それなのに「十分に症状を理解できるだけの情報を与えないまま、VTRで不十分な情報を流して、共感的理解ができない結果を生み出すのは、教師として無責任なのではないか」という、深く鋭く指摘するペ-パ-があったのだ(「非公開希望」なので全文の紹介はできない)。  まず、言明しておかなければならないことは、ぼくの勉強不足におおもとの原因があることは明らかである。ただし、ぼくの学習援助者としてのスタンスは、「ぼくが、いま、与えられた学習課題に関連してもっとも関心をもっていることを伝える」ということである。そこさえ責任をもって役割遂行すれば、あとは学習者がそれをどう受け取って取捨選択するかについてはぼくの援助者としての責任の範疇ではないと考えている。そんなことは学習者の自己責任でないか。たとえ、学習者側のなかに、その問題に関してぼくよりすぐれた知識・見識をもっている人がいても、ぼくは平気でそのテ-マについて「教授」するだろう。あとは、ぼくは、批判を「受けて立つ」、指摘を「受け入れる」という覚悟さえ決めておけばよいのだ。 ● 援助者としての責任と無責任(共感的理解をめぐって) 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055  不登校事例に対する一部の学生の「かれらは甘えている」という発言は、たしかに他罰的な傾向を秘めていると思われる。そこで、このことについて考えてみることにする。  第1に、学生の「(不適応の人たちは)甘えている」という判断は「1%の真実」を表わしている。「甘えている」と書いた学生たちはただ単純に「甘えている」と書いているのではない。かれらがこれまでのみずからの人生を生きていくなかで、@社会やひとに甘えてはいけない、それが自立だ、A家族やまわりのひとが自分にしてくれたことに感謝したい、あるいはそういう人たちの期待に沿いたい、Bいやなことでも頑張ってやっていかなくてはこの世ではうまく生きていけない、などの価値観を身につけ、自分とは異なる不適応の人たちを「甘えている」と判断すること(他罰)を選択することによって、今までそういうふうにがんばってきた自分の生き方を否定しなくてもすんでいるのである。  つまり、不適応を起こして「本当の自分を大切にする」というだれにとっても「それなりに魅力的な生き方」のその魅力に打ち勝つためには、不適応行動を「甘えている」と切り捨てることを選ぶしかないのである。不適応が現代社会における自己保存の「ぎりぎりの選択行為」だとすれば、そういう人たちを「甘えている」と切り捨てることも、現代社会においてはそれなりに「ぎりぎりの選択行為」なのである。その証拠に、かれらは「(不適応に対して)共感『できない』」「共感『したくない』」と書いてくる。無価値的に「共感『しない』」とは書いてこないのである。他者を共感的に理解したいという要求は潜在的にはだれにでもあるのではないか。ただ、それと自己保存本能とが、現代学歴偏重競争社会の疎外状況においては対立してしまうのである。  このように考えると、不適応を「甘えている」といって切り捨てて現代社会で生きていこうとする「戦術」は、だれにとっても、まったく意味のないこととはいえないだろう。同時代の他の99%のそれぞれの人が少なくとも1%ぐらいずつは共感できる「1%の真実」を表わした生き方のひとつなのではないか。問題は、シロかクロかではなく、シロ何%かクロ何%かなのであり、出席ペ-パ-の場合は、もっと根本的には、「どれだけシロの深みを表わしているか」、「どれだけクロの深みを表わしているか」なのである。  第2に言いたいことは、援助者側は、「他者を共感的に理解できるようになることが、どれだけすてきなことなのか」ということを、その方法論とともに提案する責任はあると思うが、自分にできる範囲で一生懸命にそれを提案した結果、学習者側がそれを受け入れなかったとしても、そこには何の問題もないということである。人それぞれなのである。教育目標を学習者に提示し、その目標に沿って授業を進めても、なおかつ、相手が自分の思うように変化してくれなくても、それはそれでよいのだ。援助者側にも学習者側にも問題はない。援助者側が「学習者を変えられない」という問題に固執するとすれば、それは相手の人生をしょいこもうとする「熱血先生」の傲慢さとさえいえるのではないか。ぼくは、共生の要素を@共有(価値や文化の共通点を探ったり創ったりすること)とA共存(価値や文化の異なりを受容しあうこと)の2つだと考えている。「相手の人生をしょいこまない態度」は、この場合のAに当たるのである。  ただし、これは原則論であって、ぼくの場合は、その学生の指摘するとおり、教材研究をもっとしっかりやっておけばさらによかったのではないかとは思う。つまり、それは、ぼくが「自分にできる範囲」にまで到達していなかったということであり、その面では、十分には責任を果たしていなかったというべきである。自分がいま関心をもっていることについては、いっそう深く考えていきたいと思っていることをここで表明しておく。  第3には、「(不適応について)共感的に理解しなければいけない」ということを最優先する立場は、ぼくはとっていないということである。ぼくは「共感的に理解できたらいいね」といっているのである。「共感しなければいけない」といわれたのでは、なんだかそれまでの自分が共感的理解能力に欠けた冷血人間としての烙印を押されたようで消極的ないやな気分しか残らないではないか。ぼくは「人間をよりいっそう共感的に理解できるような自分でありたい」というみずからの動機を自分のなかに探りながら、授業を進めている。だから、学生に対しても、一人ひとりのなかに「他者を共感的に理解したい」という顕在的・潜在的欲求が存在するであろうことを基本的には信頼して、その欲求に訴える授業を組み立てようとしている。もちろん、共感的理解能力の発達は、信頼・共感・自立の人間関係の創出やその援助のためには不可欠な要素だと思っているからである。「〜しなければならない」ではなく、「〜するほうがすてきだ」という提案を行なうことこそ、ネットワ-ク型の水平社会における援助者としての個の発揮の有効な方法なのではないか。  援助者といえども、社会という幹に対する枝葉にすぎない。その枝葉が自己実現と社会的承認のために果たすべき責任とは、自分の考え方を押しつけたり、その結果、幹がそのとおりに変わってくれなかったからといって不平に思ったりすることではなく、自分の生きてきた範囲でできることを実際にどれだけ幹(この場合は学習者集団全体)に提言できたかを(たとえば「先週は授業で何回、どのように提言したか」などと)なるべく客観的に自己評価することなのである。 ● ぼくたちはいったい何のために学んでいるのか--学問とは何か、生涯学習とは何か 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 学生の出席ペーパーより(S大社会教育計画、女)  わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。  今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいって言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。  人には、その人に見合った世界があって、その世界の中での上を目指すことはかまわないけど、その上の世界を目指すのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。  私は、そんなものなの?、と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。 mito  そういう過去の遺物のような人間に対してのぼくの基本的なスタンスは、「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」である。だから、ペーパーの書き手に対するアドバイスとしては、ひとことでいえば、「ケッ」と言って笑い飛ばす能力が大切であるということになる。まあ、心配しなくても、その手の「アパルトヘイト」(南アフリカ共和国の1989年以前の人種隔離政策)みたいな、唯々諾々と「頑張ってきた」だけの人たちは、社会ではいずれ挫折するだろう。たまたま出世するかもしれないけれど(本当は管理職には適していないのだけど)、人間としての味が薄いため、他者からの信頼や愛情という人間の生活や仕事にとっての肝心の財産を獲得することができないまま生きていくことになるからである。  学生が一流企業をめざすこと自体は、けっして不合理なことではない。ぼくだって、「生活の安定をめざすならば、可能なら大企業にぶらさがれ」と学生に言っているぐらいだ。しかし、そういう自己保存のための「作戦」の部分だったはずのものが、たまたま「成就」した事実があったからといって、「本気」になって、「自分は上の世界の人だ」と思い込んでしまう人間がいるというのにはびっくりしてしまう。自己の合格・不合格などは、客観的にはちっぽけな事実にすぎないのに・・・。学校歴偏重社会の価値観の個人的な精神世界への侵略は、目に余るものがあるのだなあと思う。  例の友人は、AC(従順な子ども心)とCP(厳格な親心)ばかりで生きてきた人なのだろう。そういう人たちの幸せのためには、なるべく早いうちに挫折を自覚して、「ただのろくでなし」(平気で差別したり迷惑をかけたりする人たち。自称「成功者」たちの差別や、頑張って授業には出てきてしまう自称「被害者」たちの私語など)から「ましなろくでなし」(そのほかの、しかし「不完全」な私たち)として立ち直る機会が訪れるよう祈るばかりである。  ところでこのペーパーについてT大学でも簡単にコメントしたところ、次のようなレスポンスがあった。それによって、このトピックスに関する考察は、もう一段、ぐんと深まることになる。これだから出席ペーパーシステムはやめられない。 学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)  一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。「ケッ」と思う気持ちや、(注=彼らに対して)負け犬にならないということは大切ですが、いきなり「ばか」と切り捨ててしまうことの方が、ある意味では「負け犬」なのではないでしょうか。(注=合格・不合格の)つまらない事実であっても、わたしはその事実は事実として認めるべきだと思いますし、その人の努力の結果には敬意を表わしたいとも思います。その上で、自分は自分なりのものを作り上げ、それに自尊心をもてばいいと思うのですが。(あ、時間がない・・・。)  フリースペース、その時間、わたしは授業ですので、ちとキツイです。出たいとは思うのですが・・・。わたしも酒好きですし(笑)。 mito  ぼくは、「馬鹿という言葉は、少し違うなあ」とは感じながらコメントしていたのだ。しいていえば、「あほ」という言葉のほうが適切だったかもしれない。つまり、嗤う(ばかにしてわらう)という感じである。庶民が「ばか殿様」を笑い飛ばす、あの感じである。  さて、このペーパーによって、「その人の努力」に対する評価のあり方が問題として焦点化されてきた。これは、このペーパーの書き手一人にとどまらず、「心優しい」現代青年の普遍的な傾向であると思うのだが、「そんなこと言ったって、その人なりに努力してきたのだから」とか、「がんばってきたのだから」とかいって、客観的にはその「努力」が不当であることを感じながらも、個人の主観的なストーリーとしては容認してやろうとしてしまうのである。ぼくは、声を大にして言いたい。努力してればよいというものじゃないし、頑張っていればえらいというものじゃない。  例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる「人類の幸福追求の敵」としての役割を果たすからである。  このような客観的には「不当なこと」(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張った」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」が滑稽であることを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだといえよう。  それでは、なぜ、学習権がかなり保障されているはずの現代青年までもが、そういう「人類への裏切り者」を許そうとするのかというと、それはおたがいに「頑張らせられてきた」学校歴偏重社会の被害者としての仲間意識が根にあるのだとぼくは思う。これこそ、まさに、ピア・コンセプト(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)の逆機能といえよう。ヒエラルキー(階層制度)の上位にあって下位の自己を抑圧する相手に対してまで、「同じ苦労をしてきた」(ただし、相手は「成功」した!)という思いから、批判することを回避している。これは、自称「上の世界の人間」もそうでない人も、「(受験勉強はいやなのに)頑張らせられてきた」という意識・無意識の被害者意識を、社会変革主体としての「自尊心」に転化するに至らないまま、自身の根っこの問題として引きずっていることの表れといえるのではないか。つまり、端的にいえば、負け犬同士が傷をなめあっている姿ではないか。どちらの側も、学校歴偏重の上下競争の価値観を内面では蹴飛ばしきれていないからである。  さて、ぼく(mito)自身はどうなのか。「やっぱり負け犬の一種でしょうね。そりゃあ、こんな社会に生きていて、あるいは人間存在の空虚さという本質から、まったく敗北主義にならないというほうが、かえって不思議ですよ」。こういって、ぼくは、そういう自分の「ろくでなし」の部分を、「まあ、事情が事情なんだから、今までのことはしかたないよ」という感じで許してやっている。しかし、「せめてこれからは」という気持ちで打ち出しているのが、つぎの3つのテーゼである。  「今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて」(『こ・こ・ろ生涯学習-いばりたい人いりません-』p106より)。  ヒエラルキーのなかにあっても個人が意味をもって生きるためには、うえの3つとも必要であろう。しかし、学問とは、問うということを学ぶということでもある。不易の部分、本質の部分を求めて、「ぼくはいったい何のために学んでいるのか」と自問したとき、とくにこの3番目の、いわば「正義の行使の裏付け」ともいえる、自己にも批判の刃(やいば)を向ける真実の追求の重要性に思い当たるのである。  「ばか殿様」からも、それを反面教師とすることによって、学ぶことはできる。しかし、それよりも手っ取り早いのは、さわやかに生きていく力をもっている人、「ああ、この人って、いい生き方してるな」と自分までうきうきしてしまう人との出会いを多くすることである。そのことによって、自分も「さわやかに生きていく力」をもつことができる。「大人になりたくない」なんていう青少年が多いが、それは、たまたま、いいモデルとしての大人にめぐりあったことがないかから、あるいは、本人がそういう出会いから逃げようとしているからかのどちらかであろう。  ぼくがフリースペースを個人的にも楽しみにしているのは、「おお、いいなあ」と心からあこがれてしまうような他者の生き様と出会い、癒され、こちらまで元気が出るからである。相手は学生ではあるが、ぼくなんかよりよっぽどかっこいい潔い自己決定の生き方や、自分に厳しい深い生き方をしていて、教師のぼくが思わず尊敬してしまうような学生もごろごろいるのである。こういう人との出会いを避ける手はない。このペーパーの書き手にも勧めたい。フリースペースは、参入も撤退も自由のネットワークの場である。「1年に1回だけ来てもメンバーだ」。何回も来なくてもいいが、授業が休講のときなど、1回ぐらいは来る価値はあるだろう。  最後に、蛇足になるが、その自称「上の世界の人間」が実際に学生としてぼくに接してきたとしたら、ぼくは教師として「どう受けて立つか」を述べておきたい。教師は学習者の援助者であるから、今まで述べたようなことはそのままの形ではいわない。教育効果(変容)が期待薄だからである。今まで述べたことは、客観的には自分にも迷惑をかけている「ただのろくでなし」をさえ、「頑張っているんだから」といって認めてしまおうとする「心やさしい人びと」への忠告であったのだ。  自称「上の世界の人間」の本人に対しては、ぼくはあざ笑ったりすることなく、その人の過剰で屈折したACとCPの悲しい事実を探り出し、本人の目の前につきつけようとするだろう。そうすれば、遠い先にあった挫折の自覚が早く訪れる結果になってしまうかもしれないが、その場合の「挫折」は現実よりも本人の理性的認識によるシミュレーションに近いものであり、また、それゆえ本人の「自己決定」の要素が比較的大きいと思われるからである。個人の幸福追求への援助のためには、教育は本当はそうあらねばならないのではないだろうか。 学生の出席ペーパーより(S大教育社会学、女) (注=自分のことをワガママだと批判していた彼氏が、最近やけに自分にまとわりついたりプレゼントをしたりするので「あやしい」という前置きがあったあと)たぶんわたしの夜遊びのせいだと思う。わたしの夜遊びははんぱじゃなく、男友達5、6人とギャーギャーさわぐ。朝まで激論を交わすことも多い。激論のテーマは人種差別、宗教、音楽などだが、二日酔いをともなうとっても充実した朝を迎える。かれらは愛すべき Friendsである。わたしの友達はブラックが多いので、人種差別についてはすごくきびしく、わたしは日本代表としてせめられている。  それ(注=ほかの男友達との「夜遊び」)が彼には気に入らないらしく(わたしがそのことを楽しそうに話すらしい。だって、ほんとうに楽しいんだもん)、また、わたしがあんまり彼と遊ばなくなったので不安らしい。「おまえが離れていくような気がする」のだそうです。わたしはそうでなくても離れていくのよ、と思ったけどね。プレゼントがなんぼのものじゃい。アパルトヘイトを知らない彼にもっと勉強してもらいたいと思う。彼はマンデラがどこの国の人か知らなかった・・・。 mito  ほら、こんなに「雄々しい」いい女がやっぱりいるんだ。このペーパーには「雑談」という彼女なりのマークが付いていて、それにしてはこういう深い内容であり、そのことだけでも彼女のその「潔さ」にぼくはうれしくなってしまう。だけど、知らないということは仕方のないことだから許してほしい(マンデラはアフリカ民族会議(ANC)議長で、現在、南アフリカ共和国大統領)。問題は、差別やその他の社会の不当性、人間存在、芸術表現などの事実を知っているかどうかよりも、その本質(真実)の追求自体にそもそも関心があるかどうかだ。  ここからは、「彼」本人からの話を聞かないまま論を進めるので、実際の彼の姿を推測するものではないということをお断わりしておきます。  きっとあなたの今までの彼は、そういう関心そのものがまだ育ってないのではないか。世の中には、大人になってもそういう「ガキ」状態にとどまっている男が(女も!)かなりいる。社会や自己の姿をなるべく正確にとらえようとするA(大人心)を使い慣れていないのである。そういう人は、相手に「自分のために生きてほしい」と一方的に依存してくるし、自分勝手に独占的な愛を求めてくる。それは、他者(社会)との関係のなかでの自己を客観視できていないからであり、つまり、自立できていないということなのである。遊んでくれなくなると「離れていくような気がする」と相手に不安だけを訴える姿は、その淋しい気持ちもわからなくはないが、彼がまだ自己を主観だけでしかとらえられず、他者から見た自分の姿を推察する能力が育っていない証拠ともいえる。あなたのような大人の女には、そういう自立できていない男は残念ながら似合わないのだろう。  世の中には、あなたとの「激論」に耐えうる「いい男」がいっぱいいるのだから、いい女になりつつあるあなたが、過去のそんなつまらないつきあいにあまりとらわれすぎるのはもったいないことだと思う。ぼくはそんなに雄々しい男ではないけれど、そんなぼくだって、このペーパーを読んで、「ああ、彼女みたいな人と『激論』するのは楽しいだろうな」と思う。そうは思えずに、「社会や人間のことなんかことさら考えなくたって」と思う男は、同じように思っている女とつきあって満足していれば、それで世の中は安泰だろう。  「わがまま」には2つの種類があると思う。「わたしの人生はわたしが歩きたい」という「いいわがまま」と、「あなたの人生をわたしのために曲げて生きてほしい」という「悪いわがまま」の2つである。自分の力で自分の自立を実現して大人の「いい女」になるためには、前者のわがままであるのなら必要なことである(後者の「悪いわがまま」も愛にとっては不可避だが)。こういう「いい女」と「いい男」が居心地よく交流できるサンマ(時間・空間・仲間)を、ぼくはこの世の中にいっぱいつくりだしていきたい。 mito Lネット原稿 LNET9507.DOC 95/07/11 31