初めての人のための「狛プーとは何か」 はじめに  最近、狛プーの「名声」は、東京・神奈川を中心に、全国の青年行政担当者や青年活動関係者のあいだに(とは言っても、そのうちの一部の人にだが)知られるようになり、網走などの遠くの地からも含めて、見学や交流のために狛プー開催日の木曜日の夜に狛江においでになる人たちがでてきている。狛プーとしては大歓迎である。もともと狛プーは出入り自由のフリースペースとしての側面をもっているからでもあるが、それよりもなによりも、同時代を生きている人との「出会い」を楽しみたいからである。ふだんの狛プーなら、その日のプログラムに「出会い」を組み込んで柔軟に展開できるだろうし、また、プログラム自体は変えられないような日でも(狛プーでは、来訪者のために自分たちが「犠牲になって」プログラムを変更するようなことはしない)、その日のプログラムを楽しんでいただければ、きっと狛プーの受容的な雰囲気を味わうことができると思う。ひとことでいえば、「気軽においでください」ということになる。  そこで、この文章では、今まで述べた前提のもとに、初めての人のために、とくに青年行政担当者や青年活動関係者が関心をもつと思われる狛プーの特徴について、基本的なものをまとめておくことにしたい。より詳しくは、これまでの拙論や「いなほ」(青年教室活動記録)でのそれぞれのメンバーの文章をお読みいただきたい。 1 ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」  今日までの学校歴偏重社会では、人を上下に並べてひとつの物差しで比べる。それは、結局は、偏差値を代表とする画一化した価値のもとに、個性による「逸脱」を外からも内からも抑制する「同一化」の圧力として作用してきた。そして、この学校歴偏重の価値観と、その価値観を内面化してしまった私たちが、社会全体のヒエラルキー(階層)構造を支えてきた。それらすべてに共通する特徴は、上下関係による支配と服従、多様な異なる価値の排除と画一化などである。  これからの形成が期待される生涯学習社会においては、一人ひとりの異なる個性が認められ、歓迎されるはずだ。人間関係においても、ヒエラルキーの上下関係のなかでの地位・肩書きや制度上の権威などよりも、水平関係のなかでの異なる個性(「個の深み」とぼくはよびたい)との出会いが求められる。しかし、そういう生涯学習社会を気持ちよく生きるためには、私たち自身に、内なるヒエラルキーと闘い、「自由な遊び心」をみずから取り戻すことによって、無知で非力な自己を受容し、自己と異なる他者と共感することが求められる。狛プーがめざす「プータロー精神」とは、そういうことである。  初年度の狛プーのチラシの呼びかけ文はつぎのとおりである。  プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。  私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。  狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。  この呼びかけ文の第2段落は、ぼくとしては、ヒエラルキーの人間疎外について批判的に書いたつもりである。しかし、このぼくの思いは、いまだにメンバーから「共感できない」といわれることが多い。メンバーのなかには、仕事や学業だってそれなりに個性を発揮しながら楽しんでいきたいと考えている人が多いし、実際に、ヒエラルキーのなかでの「ゲーム」を「自由な遊び心」でそれなりにこなしてしまう人も多いのだ。あるいは、仕事や学業については、「自分の人生」そのものとは切り離して考えている人もいるかもしれない。その場合は、本人の自己認知の有無はともかく、「自分の人生」のうちで精神的に大切な部分は「ヒエラルキー以外のところで」と考えているのだろう。  後者だとしたら、社会と自己の関係のさらなる客観視という課題が、狛プーの今後の課題としてあげられるだろう。狛プーの番外編で、自発的で自然発生的な勉強会として「セカンドステージ」が運営されている。通常の狛プーのプログラムとは別に、メンバー同士でじっくりおしゃべりしてみたいというのである。これなどは、仕事や学業に対する他者の姿勢や意見に、自然なかたちでふれる機会として期待してよいだろう。  そこで重要なことは、公民館の職員や講師が直接には発問することがなくても、社会とそれぞれの自己との関係が受容的・共感的雰囲気のなかで語り合われているということである。「セカンドステージ」は、公民館の担当専門職員が夜間勤務のときの夜に不定期に行なわれている。そこでの職員の役割は、非指示的であり、不定形である。これは、学級・講座での司会業や講師代行業などと悪口をいわれるような、現代化しすぎて型にはまってしまった社会教育的支援を、もう一度、本来の人間的な「なまの営み」に戻すという意味ももっている。 2 自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定  自己の「仕事や学業」についての狛プーの認識の現段階は以上のとおりであるが、それよりもメンバーから今日まで強烈な支持を集め続けているのは、「かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きる」というフレーズである。この言葉は、コマーシャルなどのふつうの世の中の感覚では当たり前すぎて青年にとってのインパクトなどないと思うが、青年活動や青少年教育・青少年行政の世界ではけっこう目新しいことといえよう。今でも、何人かの他の自治体の関係者は、この呼びかけ文を読んで、狛プーの限界として「ミーイズム(自分主義)」を指摘するかもしれない。  しかし、ぼくはつぎのようにいいたい。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」と思うことがミーイズムだとしたら、ミーイズムのどこが悪いのか。狛プー=ミーイズムでけっこうではないか。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」からこそ、学習する、仲間を見つける、社会参加する、社会変革をめざすなどに、自発的に発展するのであって、参加した一人ひとりが、そのどこに向かって発展しようとかまわないではないか。リーダーやボランティアだって、これからの時代は、「自分のためにやっている」といえることがさわやかさの条件なのである。  あるいは、占星術や新・新宗教、偏狭な自己啓発セミナーなどにはまってしまう人もいるかもしれない。それだって、本人の自己決定の一環として行なわれるのであれば、援助者側がその結果に「責任を感じてしまう」のは、むしろ傲慢なことではないか。あとで「自分の人生をていねいに大切に生きる」ということにつながらないと本人が考えるようになるのだったら、そう考え直したときに本人が軌道修正を自己決定するだろう。  何がよくて、何が悪いのかなど、具体的に教えられるものではない。私たちができることは、本人みずからの気づきのためのチャンスをふんだんに提供することだけなのだ。これに比べて、従来の多くの青年活動や青少年教育・青少年行政においては、援助者としてのその潔い自覚(「非力の自覚」または禁欲)が欠けていたのではないか。 3 善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心  狛プーにはこれといったスローガンがない。先日、狛プーでキャンプに行くとき、担当者が子どもの野外活動向けの他事業の文書を活かしながらしおりを作ってくれた。そこには「来たときよりも美しく」というキャンプ生活のうえでのスローガンが書かれていて、それを読んだぼくらはいっせいに吹き出してしまったのを覚えている。いつもの狛プーの風土からは、そういうスローガンはかなりミスマッチなのだ。  狛プーのいつものペースだと、つぎのようになるだろう。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。気の利かない幾人かの者(ぼくなど)は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べて「ふとん干し」をしている者さえいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかで感動する。ただ、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。  つまり、狛プーというところは、「善導」とかスローガンとかの言葉とは無縁の空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーでの大切な言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そして、そのアンビバレンツななまの言葉を受け取る相手にとっては、薬にもなり、毒にもなる。薬にするか、毒として飲むかは、聞く側の自由であり責任である。  では、なぜ、そういう人間存在の真実を狛プーのメンバーが共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(先述のミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自分を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が「自分を写し出す鏡」になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることは魅力的なのである。  2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組みが、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これが、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間の根源的な欲求である。  3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さ(私は私、あなたはあなた)が、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかでの「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると解釈することができるのである。 4 共生社会創造のための公的サービス  狛プーは狛江市中央公民館の青年教室事業として、つまり、公式の青年教育の一環として行なわれているものである。そういう場合、主催者側は、公金を支出したり専門職員等を配置したりして参加者を援助する根拠をきちんと示せるようにしなければならない。社会教育活動自体の主人公は住民の側にあり、その自由は最大限に保障されなければならないのだが、社会教育行政の側には、公金を支出してその事業を行なう意味を明らかにする義務がある。  青年教育の場合、青年期特有の課題として、望ましい恋愛や結婚の相手を見つけるということが重視される。そのための援助サービスも、かならずしも一概に「税金の無駄遣い」と非難することはできないだろう。これによって、個人の幸福追求などに資することができるだろうからである。しかし、青年教育が「結婚相談所」やたんなる「お見合いパーティー」の場になってしまっていいのかという疑問は残る。個人レベルの問題解決にはとどまらず、社会創造としての意義にまで発展するからこそ、青年教育はほかの民間サービスとは異なる独自の教育的役割を発揮できるのではないか。  狛プーの場合にも、メンバーのあいだに恋愛関係が生まれることがある。しかし、そのとたんに二人は狛プーの活動から遠ざかってしまうなどという、よく見られる「つまらないミーイズム」の現象はまったく起こらない。むしろ、その二人がますます「番外編」の仕掛け人として活発に活動している。二人だけで過ごす時間も大切にするけれども、「癒しのサンマ」(前掲拙論参照)のなかでの二人の存在も大切にするのである。みんなと過ごす時間も、二人にとってはそれはそれで充実していて楽しいからだろう。ぼくは、これこそ「ミーイズムの功績」だと思っている。そもそも、狛プーには若い主婦だって参加している。「主婦業に埋没するのはいやだ。癒しのサンマのなかで、たくさんのいい仲間たちと出会っていきたい」という彼女の願いは、きっとよい妻や、よい主婦業の遂行者としての自己成長という望ましい結果につながるだろう。つまり、それは、会社人間であった男たちの最近の変化としての「自分探し」と同様の意義をもっているのだ。  今日の社会においては、恋愛や結婚は、基本的には二人だけの幸せや不幸せの問題として閉塞してしまいがちである。ところが、狛プーにおいては、二人が仲間のなかで愛を育み、仲間が二人の愛を応援するのである(反面、「恋のさやあて」も起こりうるが、それは仕方ないとぼくは思う)。この「仲間」を「社会」に置き換えて考えてみれば、狛プーの場の提供という公的サービスが、ほかの行政分野では困難な役割を果たしていることが理解されよう(なにも恋愛や結婚に限ったことばかりではないが)。すなわち、ともに生きる社会(共生社会)やコミュニティの創造の一端を担っているといえる。  また、このようにここちよい人間関係を実際にこの現代社会において創り出しているということは、現状否定や告発だけに終始するような受動的な運動とは異なり、競争一辺倒の学校歴偏重社会から、異なる他者をたがいに受容しあってともに生きようとする生涯学習社会に転換するという社会的課題を、実質的に達成していくという提案型の能動的な営みであるということができるのだ。 5 いい男、いい女の支援さえすればよい  それにしても、恋愛問題をはじめとして、このように「いい男といい女」が期せずして狛プーに集まっているのはなぜだろうか。その積極的原因としては、狛プーが最初に述べたような「自分の人生をていねいに大切に生きたい」という彼らの心に呼びかけ続けていることと、彼らが「自由への恐怖」を突きつけられるなかで、みずからの内なる差別意識や被害者意識と闘い、たくましく自己成長し続けてきたことがあげられる。そして、本節ではつぎのことをいいたいのだが、消極的原因としては、いい男やいい女ではない人、あるいはそうであろうとして努力する気がまだわいていない人がいるとしたら、そういう人は狛プーから自然に「排除」されていくということなのである。  たとえば、今の世の中の風潮では、「人を傷つけてもいいから、自分の傷を癒したい」という不幸な認識をもっている人たち(「イヤなヤツ」)は残念ながら多いだろう。現実社会では、そういう人が幅をきかせたりしている。たとえば、相手の女性が傷ついてでも、自分のナンパが成功すればよいなどという男性は、たくさんいる。しかし、そういう現代社会の人間関係がいやで狛プーにきている人たちにとっては、狛プーに「イヤなヤツ」が入ってきては困るのである。ただし、狛プーは出入りの自由を原則としている。新規参入も自由なのである。そこで、担当の職員や講師のぼくに、そういう人の排除を頼む人もいる。しかし、その排除行為をぼくらが請け負ってしまったら、狛プーの存在価値はなくなるとぼくは思っている。ネットワークではなく、ファシズムになってしまうからである。  やはり、望ましいのは、「いやだ」と思った人が「あなたの○○という行為は、私はいやだ」とさわやかに自己主張することなのだ。その人から電話がかかってくるのがいやだったら、「あなたからの電話はほしくない」ときちんというべきなのだ。ちゃんとそういうふうに主張できる人も狛プーにはいる。そのことによって、いい男いい女になる気のない人は狛プーから自然に排除されていく。つまり、ここでの排除とは、規制や規則などによってではなく、個々人が内面的に排除することなのである。だから、逆にいえば、狛プーのメンバーがこの世の中でたくましく生き抜いていくためには、「イヤなヤツ」が(単純なナンパ目的などで)少しは入ってくれるのも、「人びとがいがみあう現実社会のなかでどう生きるか」の絶好のトレーニングの機会になるのだ。それに、さわやかな自己主張ができれば、それは基本的信頼を示す行為の一環でもあるのだから、もしかしたら、「イヤなヤツ」にとっては生まれて初めてのいい体験になり、「イヤなヤツ」から「いい男いい女」に自己変容する可能性さえなくはない。人間は無限の変容の可能性をもっているのだから。まあ、どちらにせよ、いい男といい女だけが狛プーに残るという同じ結果になる。  ここで、いい男いい女の定義は、まだしていない。前掲拙論に「家族や学校や職場や社会のコミュニケーションのなかで痛みや悲しみは当然だれにでもあっただろうが、その痛みや悲しみをその人なりに受けとめてきた人」と書いたことがあるが、「人に傷つけられることよりも、人を傷つけてしまうことを心配する人」、「被害者意識に陥らず、さわやかに主張できる人」、あるいは、「いやなときは、潔く撤退して静かに微笑んでいる人」などと定義ができるかもしれない。どの場合でも、もともと弱い存在としての人間が、それほどの徹底したいい男いい女になれるわけがないとも考えられる(人間はだれでも「ろくでなし」であることにはかわりない=他拙論参照)。だから、実際には、いい男いい女になりたいと思って生きている人たちのことを「いい男いい女」ということになるのかもしれない。  人が偏差値や学校歴などの画一的な物差しで比べられてきた学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、「人が個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、資格取得などによって他者を打ち負かすことを目的にした非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に沿うものとはいえないであろう。狛プーは、「イヤなヤツ」がおいしい目にあうのではなく、いい男やいい女こそが正当に評価される社会を創り出そうとする営みの一環といえるのである。  社会教育の全国的状況からみても、前節で述べた公的サービスの存在意義を考えると、よっぽどの人的・財的余裕のない限り、いい男いい女になりたいという意思のない「イヤなヤツ」に追従するようなサービスをする必要はないといえる。そんな余裕があるのなら、本来は社会からいい男いい女として評価されてよいはずの一部の青年たちが、現代社会では「癒しのサンマ」を味わうことなく疎外されて生きている現実を、関係者はもっと深刻にとらえて、せめて「何とかしたい」ぐらいには思ってもらいたい。もちろん、実際には、全国の青年教育の場で、いい男いい女が集まってくれているとは思う。ただ、行政側や担当者が、「公平の原則」を機械的に解釈してしまって、参加者が少ないなどの理由からその事業に消極的になったり、表層的な事業展開をしたりすることによって、そのせっかくのいい男いい女の参加をいかしきれていない結果に陥っていると思うのだ。 おわりに ー癒しと成長、受容と変容の循環ー  最後に、メンバー一人ひとりの自己成長の側面から狛プーの特徴をひとことで表わすならば、次のようなことになるだろう。それは、「癒しと成長」あるいは「受容と変容」ということである。しかも、それがよい意味での相互の循環効果を及ぼすのだ。  競争社会におけるキャッチアップ型(追い付け、追い越せ)の教育は、学習者の成長・発達だけを重視してきた。しかし、本人が個人として生きているときの意味としては、癒し・安らぎという要素も重要なのである。生涯学習時代の社会からの援助は、これを重視して行なう必要がある。癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向にも望ましく作用する。言葉をかえれば、受容と変容は循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組みを自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善する(変容)勇気をもつことができるのだ(ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容はかならずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う)。  開きたい心を安心して開くことのできる狛プーのサンマ(時間・空間・仲間)は、癒しと受容を創り出し、そのことによって、成長と変容を実現する新しい援助形態として現代学歴社会に抗して存立しているのである。 (注)狛プーとは、狛江市中央公民館で行われている青年教室「狛江プータロー教室」の愛称である。 西村美東士・昭和音楽大学短期大学部助教授 狛プー年間講師 狛江市中央公民館(担当岩崎) VOICE 03(3488)4411 mito 原稿 コマプ全社.DOC 95/02/20 4 -Page 4 / 4-