チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?  -新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス- 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?  悲観的な言い方をすれば、たしかに、現代は、学校も職場も家庭も社会も、そして、地域も病んでいるといえる。「地球規模の歪み」ということもできる。このような「社会の急激な変化」のなかでの社会性、公共性、現代性、緊急性に満ちた学習課題を、文部省生涯学習審議会「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)」(平成四年七月二九日)では「現代的課題」と呼んで、その学習を積極的に取り上げるよう提言している。  地域教育力の回復も、いうまでもなく現代的課題のひとつである。しかし、病んでいる学校、職場、家庭、社会が、みずからが病んだまま、地域にだけは救世主のような教育力を期待する姿はどうみても滑稽である。受験地獄といじめに窒息する学校があり、家族を省みさせない過労死の職場があり、不和と暴力の家庭があり、不信と争いに支配された社会がある。地域教育力の弱体化も、その現代社会の不幸の反映であるにすぎない。そのみずからの不幸には口を拭っておいて、青少年だけは地域のなかで幸せにさせてやろうとするのは、気持ちはわからないでもないが、そもそも虫が良すぎる話なのだ(逆に、現代社会にも当然ながら「幸福」の部分もあるだろうが、ここではふれない)。  大人たちが「自分はともかく、せめて青少年には幸せを」といって、自分たち自身の不幸で非主体的な状況には批判の刃(やいば)を向けないまま地域教育力に期待を寄せるとき、そこで想定される地域は「善」ばかりの現実感に欠ける空想の産物でしかありえない。そして、「地域教育力の回復」という言葉は、空しいスローガンになり、空念仏と化すのである。うそくさい空念仏をいったんやめにしてみないか。  それでは、そのとき、ぼくたちは地域をどうとらえればよいのか。ぼくは地域を「善と悪」や「毒と薬」の混じりあう「アンビバレンツ」(両面価値)の場としてとらえる。これが地域の現実であり、そこには現代人の生きざまの真実の姿が渦巻いている。地域には、現代社会のヒエラルキー(階層)による秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。だからこそ地域はおもしろい。そういうなまの水平な出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。  他者がきれいに整理した「事実」を自己の思考の枠組のなかにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達し得ないが、人間にはそれをどこまでも知ろうとする潜在的欲望がある。これが生涯学習の本当の姿であろう。「事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を」ということである。  この「どこまでも知りたい」という自然な人間の欲望が触発され、充足され、際限なく広がる場のひとつが、地域である。もちろん、学校、職場、家庭、社会のそれぞれにおいても、このようなワンダーランド(わくわくする世界)としての側面を強めていきたい。善だけ、薬だけの空念仏や、事実だけの一方的注入はもう飽き飽きした。そして、虚偽や上っ面を拒絶して、このように果てしない真実追究に向かう一貫した姿勢のもとに、地域教育力の回復もめざされるべきなのである。 若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか  ぼくは、狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(略称=狛プー)に年間を通して関わっている。狛プーでは、「プータローの自由な精神」をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。狛プーはぼくにとっても一週間に一度くる「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つのマ)」である。  そこには、東京、神奈川はもちろん、埼玉や千葉からも若者がやってくる。かれらは若い旅人である。よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる。余談だが、主催者側は、そういう旅人を、門前払いするようなもったいないまねを夢にもしてはならない。  その若い旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江って、いいところだよ」と、まんざらではなさそうだ。実際、なかには、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。  地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元せよ」という言い方である。相手の若者だって憲法で住居と移転の自由が保障されているはずなのに、視野の狭い地域主義にこり固まった大人の都合から若者の巣立ちを引きとめようとする。過保護・過干渉の教育ママみたいだ。これを「御都合主義」と呼ぶ。御都合主義からの言葉も、空念仏と同様、うそくさくて第三者には聞いていられない。  狛プーの活動も四年目に入り、キーパーソン(鍵になる人物)であった何人かが狛江から巣立っていった。T子は、ワーキングホリデーでニュージーランドの牧場に働きにいってしまった。公務員のN夫は、念願の社会教育職場に異動して忙しくなってからは、狛プーから足が遠のいている。保健婦のM子は、昇進試験に合格し、希望通り、かねてからあこがれていた小笠原に異動になった。残ったぼくらは淋しさを感じないわけではないが、会いたくなれば会いにいけばよいのだ。実際、会いにいったメンバーもいる。それでいい。少なくとも、彼女たちが「狛江を見限った」ことを責める若者はいない。そんなこと、当たり前のことのようだが、居住している地域で永続的に活動することを必然としてしまうような大人の「御都合主義」は、その逆のことをやっている。  若者にとって地域は巣立ちの場である。自分で空を飛べるようになるまで、いっとき、その地域という巣で、若い羽を育てたり傷を癒したりする。そういう若者が巣から飛び立つとき、大人のほうは定住型が多いので、空しさや淋しさを感じるのかもしれない。しかし、巣(地域)の維持のために鳥(人間)があるのではなく、鳥(人間)の自己成長のために巣(地域)があると考えたい。そこにずっととどまって癒され成長するのも良いが、飛び立っていくのも良し、なのである。地域自身が、若者の巣立ちの場としての自己の存在をあるがままに「良し」として受け入れることができるということが重要である。これこそ、ほんとうの地域のプライドのあり方だ。 新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス  先述の保健婦のM子は、仕事でアルコール依存症の家庭などを訪問した日の夜は、しばらく寝つかれないときがあると、ぼくにいったことがある。だから、狛プーでは、そういうことを忘れてのびのびと過ごしたいともいっていた。彼女は、自他の人間存在の真実の重さに向き合って生きているのである。また、それからいっとき逃れて、安心できる仲間のなかで癒されようとすることもある。彼女は一度しかない人生をあるがままに自然に生き、そして、大切にていねいに生きようとしているのだ。  彼女は、今までの青年活動のリーダー像とはかなり異なる。「団体活動のために」というお題目が彼女の内側にはまったくないといってよいだろう。そして、マス(人のかたまり)よりも一人ひとりの個とていねいに出会おうとする。また、その個に対しても、「活発に活動しているかどうか」より、個の姿そのもの(ぼくの言葉では「個の深み」)に関心をもつ。実際に提案することは軽やかで、花火大会見物など、自己の嗜好に基づいている。仕事の忙しさもあってか、狛プーへの出席率も皆勤というほどではない。しかし、そういう彼女こそ狛プーのキーパーソンのひとりであり、ほかのメンバーも、自然で自発的な支持を彼女に寄せているのである。  ぼくは、これを、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という従来型のリーダーシップとの対比から、「あなたはあなた、私は私」タイプの新型キーパーソンの登場とみている。「私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。私は、あなたの期待に沿うためにこの世に生きているのではない。あなたも、私の期待に沿うためにこの世に生きているのではない。あなたはあなた、私は私である。しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい。もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである」(パールズ「ゲシュタルトの祈り」)という詩があるが、彼女はまさにそれを地でいっているといえよう。  彼女の生き方は、人間関係疎外の現代社会において、自立した人間どうしが関係を回復するための大いなる希望の営みといえるのではないか。人間は、みな、無知(宇宙さえわかっていない)と非力(過去と他人は変えられない)である。また、交流することによって、相手を傷つけ、相手に傷つけられる予感の恐怖にたじろぐという意味で「ろくでなし」でもある。しかし、このような無知と非力とろくでなしである自他の状態を自覚し、受容できたときに初めて、自他という人間に対する「基本的信頼」と「共感的理解」に基づく関係がつくられるのである。  自己のろくでなし状態や他者の痛みについては気づかないまま、他者や社会のせいにしてすませている人、それゆえ悩まないでいられる人は、「ただのろくでなし」でしかない。しかし、その反対に、現代社会においても、枠組みの異なる他者となんとか共生しようと模索している「ましなろくでなし」になろうとしている若者たち(いい男、いい女)は現在でも各地に生き残っているのである。未来型の公的生涯学習支援とは、こういう「いい男、いい女」の居場所を地域に創り出すことである。  狛プーのメンバーが「狛プーは、いついっても、あるがままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」と言ったことがある。変容(成長・発達)するためには受容(癒し・安らぎ)が必要だ。若者の「よりましなろくでなし」への変容のためには、地域のあらゆるところにそういう「無条件肯定ストローク」(ストロークとは交流分析の用語で、相手の存在に気づいていることを伝える行為)を安心してやりとりできる「癒しのサンマ」が必要なのだ。そこでの信頼と共感の関係が、若者の自立を育むのである。  従来の青年教育には、娯楽性が重視される一方で、歯を食いしばってでも、頑張って成長・発達し、自己を充実させ、組織や地域に貢献するというガンバリズム(勤勉主義)の傾向も強かった。これには、戦後の後期中等教育の代替えの場としての青年団や青年学級の位置づけの歴史の影響があるのだろう。しかし、今の時代に、「高校や大学に、行けない人のために、それを補完するような青年教育をめざす」などと主張する人は少ないだろう。現に、大学生が、「大学ではない生涯学習の場」として青年教育に参加する時代なのである。地域の青年教育は、過去の青年「補習」教育の思想とはすみやかに決別して未来型生涯学習支援サービスに向けて脱皮しなければならない。 筆者注=拙著『生涯学習か・く・ろ・ん-主体・情報・迷路を遊ぶ』、『こ・こ・ろ生涯学習-いばりたい人いりません』(ともに学文社)を参照していただければ幸いです。 mito 原稿 神研地域.DOC 96/02/09 1