生涯学習社会が大学の授業を変える  −高等教育内容7つの転換− 学内でも生涯学習を  ぼくは昨年の本誌1995年10月号で、「生涯学習時代における大学の役割」と題した拙稿を発表し、「生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を」というまとめとして、つぎの3点の大学の役割を提起した。 @ 生涯学習社会を担う学生を養成する役割 −学内で生涯学習を− A 社会の変化を先取りし、リードする役割 −学内の高等教育を学外に− B 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割 −学外の生涯学習を学内でも−  この高等教育の転換の成否を決める最後の分かれ道になるのは、正規の授業内容自体をも生涯学習的に転換することによって@が実現するかどうかにあるとぼくは思う。そこで今回は、高等教育内容(方法を含む)の7つの転換の方向を提案したい。 転換1−自己決定・自立支援型にする  成人の学習の本質は自己管理型学習である。高等教育もこれに習い、「学びたいことと学びたい手段を自分で決定して学ぶ」という原則をできる限り取り入れる必要がある。  ぼくの授業では、出欠、遅刻、早退、途中入退室、そしてもぐりも、すべて自由ということにしている。個人には個人の事情と個人のレディネス(準備性)があるからである。ぼくの責任は魅力的な授業をすることであり、他の用事をさしおいてもその授業を選ぶかどうかは、ぼくの責任ではなく学生が自分の責任で決めることではないか。  たとえば、私語の問題は、今や陳腐な話題であると思う。授業中の「感動の私語」はむしろ歓迎し、これを積極的に組織化すること、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は学習したい者とおしゃべりをしたい者の双方の自由を保障するために、中途退室と入室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、講義に集中させるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。  先日、50人くらいが受講する授業で、男性二人だけが煮詰まったようすでひそひそしゃべっていて気になってしかたなかったが、しばらく我慢していると、その二人は荷物を置いたまま自発的に退室し、あとで静かに戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。  しかし、そうはうまくいかない場合もある。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば(ちなみに、ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の聴きたくない学生は、その人の学習権を保障するために退席せよ」という考え方であるが)、その授業とは無縁の余計な自分たちの私語がほかの学生に迷惑をかけていることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ。だから、自分の心の中ではなんらかの形でみずからの私語を正当化しているのだろう。退室の自由が認められている条件のもとで、退室しないままの私語を彼らはどのように正当化しているのか。  ここに、「他罰のデリケート」のロジックが適用できる。「ほかの人は、私のような(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな授業をまじめに聴いていられるのよ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、自分を許して他者を罰しているのではないか。つまり、自分が傷つくことに対してばかりデリケートだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向やピア・コンセプト(ピアとは仲良し仲間のこと)の表れにすぎないのだが、それを、「友達を大切にしている自分」として逆に正当化してしまっている。  この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピア意識が介在していて、個人の個の発現を抑圧しているものは社会そのものではなく、じつはピアであり、すなわち、その人自身の内なる認識にあるのである。  このように私語の問題ひとつをとっても、教育が学習者に自己決定をさせてこなかったがゆえの主体喪失状況は背筋が寒くなるほどである。これ以上、学生に「こんなつまんない授業なのに出席ばかり厳しくとるんだから」などと思わせてはならない。それは、結局、他者や社会のせいにして安定しようとする学生を、内面から許し、甘やかせていることになるのだ。教員は授業にいっそう勝負をかけて自己決定して着席する学生を増やし、そのうえで、退室の自由を行使できない学生に、その不行使が本人の自己決定以外のなにものでもないことを知らしめなければならない。  このようにして、保護や管理ではなく自由に恐怖する機会を与え、ときには「潔い撤退」、すなわち「積極的消極」をすることの大切さを伝えることが、本来の学問の「学びたくて学ぶ」という「積極的積極」の姿勢を育てることにつながるのだと思う。人生が自己選択の連続である以上、「積極的積極」のためには「積極的消極」は必須である。 転換2−双方向・水平交流型にする  教員の楽しみは学生一人ひとりの「個の深み」との交流にあると、ぼくは思っている。とくに、学生が自由に書く出席ペーパーのおかげで、授業がかなり刺激的な仕事になっている。過去の一方通行の講義型授業では、教員も学生も手応えに欠ける。  大学の自己点検・自己評価の動きのなかで、学生に教員の授業を評価させる試みがいくつかの大学で生まれている。よいことだとは思うが、それがたんに人気度や教育技術を数字で表すだけのものであるなら「高等な」教育とはいえないだろう。社会教育・生涯学習がアマチュア学習者とプロフェッショナル学習援助者との相互的関与や「共育」をめざしているのと同じく、高等教育でもたがいに触発しあって、現在の研究水準の一歩上をめざす必要がある。大学教員が過去の研究業績という遺産だけで食っていける時代は終わろうとしている。学歴偏重社会から生涯学習社会に移行する段階で、教員の方も自己の文化遺産を急激な社会進展にあわせてリフレッシュしなければいけない時代になっているのだ。  そのためには、自らの教育内容についてまで学生に自由に授業評価させ、大小の批判も含めてすべて受けて立つことが効果的であるし、また、それは刺激的で楽しいことだ。ただし、その場合、教員は授業で学習者のように「学びたいことを学びたい手段で」学んでいるわけではないのだから、教員がワン・オブ・ゼム(学習者集団の一員)であってはならない。第一、それでは学習援助者としての存在意義がなくなる。教育意図をもち、その意図を公にすべきである。受けて立つということは、学生のニーズに追従することではないのだ。専門分野に関する過去の文化遺産や、現在の鋭い問題意識をフルに働かせて当たる必要がある。しかしながら、教員としての権力に頼ってもいけない。教員から学生への双方向教育は、ネットワーク型の「異質間の水平交流」でありたい。  これらは教授者としての社会的役割についていっているのであって、教員の日常の人格にまで期待して論じているのではない。次のような出席ペーパーがあった。  言いたい放題、書きたい放題のこのペーパーを実行しているmitoさんは、それだけでも本当にすごい人です。この強さはどこからくるのですか。この説明をどのように表現したらわかってもらえるのか困っていますが、臆することもなく向かっていけるこのエネルギー(精神)はどこからくるのでしょうか。mitoさんは、私にはしたくてもできない、もっともしたくない方法ばかりとっています。「すべてを受け入れてしまえばOKよ」(注・アンビバレンツまたは1%の批判についてのぼくの私見)というだけの説明では納得できません。言いたい放題、書きたい放題で、皆が先生に甘えているように思えてならないのです。(T大U部社会教育概論、女)  これについてぼくは「社会的役割遂行としての教育の特殊性」と題して次のようにコメントした。  出席ペーパーシステムは、学生の批評精神を支援しようとするものであり、心にもないことや根も葉もない誹謗中傷は別として、思ったことは何を書いてもよい。このシステムによって、ぼくは、批評精神の欠如という現代の主体性の喪失と信頼関係の崩壊の進行に異議申し立てをしようとしているのだ。批判は知的水平空間においては一種のストロークであり、それを受けて立つのは教師としてのぼくの社会的役割である。だから、もし、日常の社会の、ときには仮面をかぶらなければならない人間関係において、ぼくが同じようにあけすけな批判をされたら、「ぼくのことをわかりもしないのに、ほっといてくれよ」と怒りだすかもしれない。 転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする  生涯学習の理想主義的なスローガンとして「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」がある。大学でもこれをめざすことができないだろうか。  日本のある大学が米国に分校を開いたときの日本人学生向けのコピーは「アメリカ全土が君たちのキャンパスだ」というようなものだった。それならば、国内の大学においても「学生が学べる場は日本全土だ」といってよいはずだ。  米国の大学の「履修要覧」には各教員のオフィスアワーが載っているものがある。これは、何曜日の何時ころにはいつもその教員が研究室にいるから、学生が質問や議論をしにきてくださいというシステムである。このような教員のオープンマインド(学習者に対して開かれた心)が求められている。  ぼくは、授業の評価は原則として平常点(出席率)に拠っているが、出席不良学生の救済措置として「自己の偶発的学習への気づき」と題するつぎのレポートを課している。授業の聴講以外での「いつ・どこ・だれ・なに」の学習効果を自己認識させ、客観的に証明させるためである。大学の授業に希望をなくしつつある学生などが、張り切っていいレポートを出してくる。参考までにそのルールを紹介する。 @ 最近の数年間で、学校の授業以外で自分の勉強になったことを列挙する(そのすべてについて時期、場所、関係者・関係機関、方法、内容を思い出せるかぎり列挙する)。 A そのことによって、自分がどう気づき、どう成長したか述べる(どんなにささいなことでもよい。一つひとつのことについて、たくさんの気づきがあると思われる)。 B 以上のことを踏まえて、学校の授業以外のそれらのことがらがなぜ自分に対して影響を与えたのか、自分の考えをまとめる。 C このレポートを書くことによって、自分にとってどのようなことがプラスになったか、感想を述べる(レポートを作成した自分をも振り返ることになる)。 転換4−おもしろ・感動型にする  前述のように、ぼくは授業を勝負の場ととらえている。私たちは、雇用対策で大学当局に雇われているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会においては、テレビ番組や出版などによって、おもしろくてそれなりに役に立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業がそれらの情報より何らかの意味で「勝っていなければ」ならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思に基づくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。  だから、ぼくは初回の授業で「ビートたけしに勝つ」ことを宣言している。これが一部の学生には不快感を与えているようだ。小学校以来、植えつけられてきた「学習はつまらなくても我慢するもの」という敗北主義的だがそれなりに安定した人生の構えに動揺をきたすからであろう。しかし、そういう反応に対して指導者がうまく対応すれば、学習者の主体性獲得に向けた気づきと態度変容のきっかけにもなりうるのだと思う。  蛇足ながら、ぼく自身は、じつは、つねにビートたけしに勝っているという自信をもって授業をしているわけではない。むしろ、「学生の学習ニーズは本当は何なのか」「ぼくの授業は本当におもしろいのか」などという不安にいつもさいなまされているのが現実である。ただ、学生の支持や批判の反応を直接知りながら話を進めることができるという点では、授業はもともとテレビのビートたけしよりも有利な条件にあるといえる。  テレビでは、「おもしろくなければテレビじゃない」というコピーがあった。社会教育では、留意点のひとつとして「娯楽性」が挙げられる。生涯学習では、あえて「楽習」と表現する動きもある。高等教育内容も、生涯学習のようにワンダーランド(遊園地)でありたい。学習の中には、気づきや自己の深い部分の発見など、ドキドキワクワクできることがあふれているはずだ。そのためには、受験勉強のような事実の詰め込みではなく、真実にふれる思いで感動できる迫力のある教育内容を用意する必要がある(事実より真実)。  また、このように高等教育内容を楽しいものにするためには、知的刺激を好む「知識人の風土」が必要である。「知識人」とは、本来、「エッグヘッド」であるという。これは「一般に知的で、柔軟思考ができ、曖昧さに対する許容度が大きいタイプ」で、ユーモア好きで、「抽象的な議論を好み、それに没頭しがちな」人間をさす。その反対が「スクエアヘッド」で、「いわゆる石頭的人物。権威主義的で、物事の白黒をはっきりさせないといらいらするタイプの人間」である(L.ベラック)。高等教育は「スクエアヘッド」ではなく「エッグヘッド」の場でありたい。 転換5−課題提起・解決型にする  学校での学習への導入が科目中心なのに対して、成人の学習は課題中心であるという(M.ノールズ)。初等教育などでも、同様の課題中心の教育がかなり普及しつつある。心と体の病いを治すのを援助してくれるのはお医者さんであっても、実際に治しているのは本人である(自己治癒力)のと同様に、課題を認知してこそ主体的な学習が成り立ち、それが自己教育力の発揮につながるのである。学生の課題意識を呼び起こさないままに教え込むのでは教育効果が薄い。  さらに、そこで呼び起こそうとする課題自体も、日常生活の事実に埋没するなかでは気づきそうもない、真実にふれる感動と気づきを与えるような深みのある課題でなくてはならない。次のような出席ペーパーがあった。  わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。  今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいって言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。  人には、その人に見合った世界があって、その世界の中での上を目指すことはかまわないけど、その上の世界を目指すのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。私は、そんなものなの?、と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。(S大社会教育計画、女)  これについてぼくは「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」とコメントした。これに対し、次のようなレスポンスがあった。これだから出席ペーパーシステムはやめられない。  一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。(T大U部社会教育計画、男)  これに対しては、ぼくは、「ぼくたちはいったい何のために学んでいるのか」と題して次のようにコメントした。  例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる「人類の幸福追求の敵」としての役割を果たすからである。このような客観的には「不当なこと」(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張った」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。  たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」が滑稽であることを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだといえよう。  授業も社会教育でいう集合学習である。そこでは、せっかく時空間を共有するのだから、同時代性のある授業でなければ、集合する意味がないし、学生も教師もおもしろくない。そのためには、上のような問題についても、学生の「偽りのやさしさ」に追従するのではなく、同時代に生きる者が直面している共通の課題を鋭く抉り出して提起する授業が求められている。これは学問や芸術の重要な意義のひとつであろうし、先の生涯学習審議会答申の提唱する「現代的課題の学習」も、そういうことを意味しているのだろう。 転換6−生きがい創出型にする  高齢化にともなってライフプランづくりのための学習が盛んになっている。その学習は、より賢い生き方のためでもあり、より充実した生きがいのためでもある。時代がそういう学習を求めているのだろう。また、学校教育でも、道徳教育はすべての一般教科に共通する課題だといわれる。しかし、自己の人生の内容とは遊離した過去の高等教育に慣れ親しんだ「まじめ」な学生からは、「人生を考えさせる授業」は反発を受けることがある。  「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。(T大T部社会教育計画、女)  ぼくは次のようにコメントした。  ぼくは、今回の映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。  教育学には人文系としての側面があると思う。「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである(無知と非力の自覚)。だとすれば、あとは、mito的授業という知的水平空間などを利用しつつ、学習者が主体的に学習するしかない。 転換7−信頼・共感・癒し型にする  最初に述べた自己管理型学習、とりわけ体験学習には、「空しさへの予感や恐怖に耐える力」が必要とされていると思う。この覚悟がないと、せっかくの自己管理型学習が逃避としての「書き言葉メディア」による自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組みを変化させる本来の意味での学習、または革新型学習につながらなくなる恐れがある。次のペーパーには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表わされている。  (前回のパズルゲーム−スクエアゲームについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲームでは、カードを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャーしたりしてはならないということだったけれども、たかがカードの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。  (体験学習を行なうということに定められている)奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲームを始める前、このゲームでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグループになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。  7月ぐらいまでは、ゲームに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。  この前のパズルゲームのときと、その前のゲームのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。(T大U部社会教育計画、男)  授業の時間・空間・仲間(サンマ)も、やはり、ほんとうの信頼や共感とは何なのかを味わえる「癒しのサンマ」でありたい。ぼくは、そもそも知的水平空間自体が本質的に「支持的風土」であるべきだと考えている。「支持的風土」とは、「仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーへの肯定的な感情をもっている」という集団風土である(J・R・ギッブ)。同調していないのに同調したふりをするのは学問の態度ではないし、自分と相手を信頼している態度でもないのである。  生涯学習時代は「モノからココロへ」という人びとの価値観の転換の反映でもある。また、学問の世界においても、経済学者がボランティア活動の意義を先頭切って論ずる時代になってきた。学歴社会が崩れようとしているいま、大学の授業を受けようとする学生の本音のところでの動機自体も、出世競争から幸福追求へと変化しているようだ。大学の授業をこういう「こころの時代」に対応させる必要がある。そういう授業のなかで生まれる信頼と共感の「サンマ」こそが、ほんとうに自立した学習者を育てるのである。 筆者注・・・文中の唐突なレトリックについては、恐縮ですが、おもに拙著『こ・こ・ろ生涯学習』、つぎには『生涯学習か・く・ろ・ん』(ともに学文社)をご参照ください。