「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その6)  −生涯学習とは何か−                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(6)  −What is "Life-Long Learning"?− 1 今回の論文の位置づけ  前回まで、「個の深み」をはぐくむ「知的水平空間」としての生涯学習を、「学生からの教育批判」(その4)、「真実追求の意味」(その5)などの側面から検討してきた。今回は、その議論の到達点の地平から、あらためて「生涯学習とは何か」についての新しい視座を、やや冒険的ではあるが提示したい。  また、今回までの掲載原稿と、掲載しきれなかった原稿については電子形態ではまとめてあるので、希望される人にはMSDOS標準テキストの形態で提供する。 2 生涯学習とは何か=積極的消極のうえでの積極的積極 1994. 9.28. T大U部社会教育計画、女  積極的積極性(以下4パターン)の話はとても面白かったです。このように4パターンに整理した話は初めて聞きました。似たような話としては、一生懸命ボーッとしたいという話を友達としたことがあります。 mito  偶発的学習も生涯学習の一環として考えようというのが、ぼくの主張である。そうしないと、生涯学習実態調査などで、「継続的・計画的学習」をしている人たちだけをとらえて「わが町で生涯学習をしている人は何%、生涯学習していない人は何%」などという忌まわしい言い方が、いつまでもなくなりそうにないからである。  しかし、各市の委員会などの場で、社会教育や生涯学習の関係者の前で、ぼくが「勝手に散歩でもしていて、でもそこで感動して何らかの自己変容があれば、それはその人にとっては大切な生涯学習だ」と発言すると、必ずといっていいほどひんしゅくを買うことになる。関係者から、「それじゃあ、人間のすべての行動が生涯学習だということになってしまうではないですか」といわれるのである。ぼくは人間のすべての行動に生涯学習としての側面があるととらえるのならば、それはそれでもよいと思っている。市の道路行政による散歩道の保守管理が生涯学習支援の側面からもとらえられるようになることこそ、「行政の生涯学習化」といえると思うからである。だが、ひんしゅくを買いっぱなしでいるのもどうかと思い、人間の活動のなかに生涯学習と呼べない活動があるとしたら何なのかを考えた結果が、この「2つの積極と2つの消極」論である。  練馬区の生涯学習推進懇談会の答申の作成に関わって懇談会委員同士で議論を重ねることによって、ぼくは、生涯学習が「どこまでも知りたい・上手になりたい(発達・成長したい)」と「癒されたい・安らぎたい」の2つの欲望から発すると考えると、とても自然な理解ができることに気づかされた。「教育」という名がつく世界にいるうちに、「人間はつねに発達していくべき存在」という考えを知らず知らずのうちに身に付けていたぼくが、日本文学専攻のある委員から「西村さんは、何かにとらわれているのではないか」と指摘されたことから、その議論は始まった。そして、とうとうも、「人間はつねに発達していくべき」すなわち「学習すべき」という姿勢を払拭した画期的なものになった。  この「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに自らの欲望を充足しようとする自己の意思から発した積極性の発現としてとらえることができる。論をつぎに進める前にここでとくに留意しておきたいことは、「癒されたい」という欲望から発する行動も、ここでは「消極」ではなく「積極」としてとらえているということである。なぜなら、人が癒されるためには、他者からのストロークが必要であり、ストロークをうまくもらうためには、相手にうまくストロークを出したり、開きたい心を安心して開いて交流できる水平なネットワークを見つけ出したり創り出したりする積極性が必要になるからである。「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに積極的な行為につながらざるをえないのである。  これを前述の「人間のすべての行動が生涯学習ということになってしまう」という反論への反・反論として活かすならば、次のようになる。「そうではない。どこまでも知りたい、癒されたい、などの欲望から発する積極的な行為だけが生涯学習なのであって、テレビも見ずに自分の部屋でボーッとしているなどの消極的な行為は生涯学習とは呼ばない」。そして、こう付け加えるべきだ。「生涯学習活動や積極的行為だけがすばらしいということをいいたいのではない。ボーッとしている時間(無為)もその人にとっては大切なのだ。それは、つまらない欲望を捨てた潔い消極性というべきであろう」。  今回提示した「2つの積極と2つの消極」論は、以上の議論の経緯のうえに立ち、それを発展させたものである。生涯学習においては自分の欲望や意思に基づく「自己決定」という要素が重要である。結果的、外見的には同じ積極性であっても、それが本来の自己決定でなければ、従来の学校歴偏重社会における受験勉強(これもまた、単純にけなすことはできないが)と生涯学習活動とは、変わりないものということになってしまう。ここで「自己の欲望に基づく本来の自己決定」とは、すなわち、社会や人のせいにしていない、すなわち「自分のため」に、主体的にやっているということである。ちなみに、生涯学習活動だけでなく、ボランティア活動にとっても、この「自己決定」は重要である。そこで、同じ積極性でも、同じ消極性でも、それぞれをはっきり別のものとして考えるために、次の4タイプを整理して提示したのが今回のぼくの議論である。   主体  結果・外見 T 積極的 積極性   自己決定(生涯学習) U 消極的 積極性   仮面・戦術(受験勉強) V 消極的 消極性   敗北主義(被害者意識) W 積極的 消極性   自己決定(無為・潔い撤退)  ぼくは、あとから、この4パターンがぼくが予期した以上になかなか有益な分類であることに気づいた。たとえば、生涯学習活動や地域活動やボランティア活動をしている人のなかにも、その活動をしていない人に対して「けしからん」「〜すべき」といういい方をする人がいる。そういう人は、いわば「過去と他人は変えられない」という厳然たる事実にイライラしているのである。潔くなれないのであろう。じつはこの人たちは、本来の「自己決定」の生涯学習としてのTの状態にあるのではなく、「不幸の手紙」をもらった人のようにUの状態にあるのではないか。もし、Tだったら、「この活動はとても魅力的だよ、素敵だよ」「いつでもおいでよ、歓迎するよ」と言うことはあっても、そういう活動をしない人を見て責任を追及する欲求に駆られてイライラするなどという不幸には陥らないと思われるのである。Tの人は、むしろWの人と連帯しやすいのではないかと思う。どちらも「自己決定」であり、「潔さ」が共通しているからである。  しかし、Uの状態も、ヒエラルキー社会においては、残念ながら、完全には回避することはできないだろう。仮面や戦術を使わなければ、あっという間に世間から干されてしまうからである。Uについては、回避が不利になるのならば、これを無理に避けるのではなく、むしろ、仮面・戦術としてきちんと意識してこれを選び(これもひとつの自己決定である)、仮面・戦術であることをつねに思い出しながら「頑張る」のがよいと思う。そうすれば、「頑張らなくちゃいけない」などという不合理な思い込みから自由になることができる。また、ときには、その活動の意義に気づいたり、うまく楽しむ方法を発見したりして、途中でTに切り替わるような幸運も訪れるかもしれない。  Vの状態の人は、本人にとっても社会にとっても最悪であろう。そうはわかっていても、自分の消極性を「過去と他人のせいにして、空しい自己満足と安定を図ろうとする」弱さは誰でももっている。もっているからこそ、こういう4パターン分類法の活用による「客観視」が有益であるということができるだろう。TからWの分類は、さまざまな人間がこの4つに分けられるというよりは、一人の人間のなかに4パターンの状態が混在しており、それを整理して判断基準とするために有益であるととらえてほしい。つまり、「よし、今回はわたしはこれでいこう」という、客観視と主体的納得を伴う自己決定のために活用できると思うのだ。  Wの状態というのは、これはもうすごいとしかいいようがない。広大な時空における自己の小ささを穏やかに受け止め、ときの権力や価値観に惑わされず自己に与えられた人生のひとときを静かに味わう。ぼくはその潔さにあこがれや尊敬さえ感じるのだがどうだろうか。社会にとっては直接的利益にはつながらないかもしれないけれど、「立つ鳥、あとを濁さず」「潔い撤退」などのさわやかさは、今後のネットワーク型社会の創造にとってはむしろ重要な要素のひとつというべきであろう。そういう「潔い撤退」などのWの状態なら、ぼくたちでもそれなりに実現できる状態であろう。  生涯学習は「学びたいことを学びたい手段で学ぶこと」であり、「自己管理型学習」であることから、本質的にはTの状態のものといえよう。Tの状態としての規定は、先に述べた「生涯学習は積極的な行為」という規定よりは的確であり、Uの状態での従来の「させられている学習」などとの違いをより明確に位置づけることのできる規定としても、なかなか有益であるとぼく自身は考えている。 1994.10. 5. T大U部社会教育計画、女  (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定、潔さが持てるのだと思います。 mito  ぼくが言ったのは、Tの人はUの人にではなく、Wの人に連帯感を感じるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは連動関係にあるということなのだろう。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということである。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人が「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がないのであり、それより「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会における自己決定のあり方を探るということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。 3 生涯学習とは何か=空しさに耐える自己管理型体験学習(結果を恐れるな) 1994.10.26. T大U部社会教育計画、男  (奇数日の)ゲ−ムの日に出席しないのは、多分に私のワガママです。性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからないという・・・。グル−プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ−ムをやるときのメンバ−がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ−ムを「こなす」という感じで終わってしまうんですよね。それはけっこうみんなそうじゃないのかなあ? で、そういう「中途半端な」楽しさは、すぐに空しさ(寂しさ)に変わってしまうから、それが嫌なんですよ。そういうわけで、ゲ−ムの日は完全にパスさせてもらっています。 mito  ぼくは、授業自体も、生涯学習の「学びたいから学びたい手段で学ぶ」という「自己管理型」で行なおうとしているから、このような「潔い撤退」に類した例はたくさん経験している。「こ・こ・ろ生涯学習」にも書いたとおり、基本的には「元気になったら出ておいでよ」という対応でいいのだと思っていた。しかし、今回のこのペ−パ−は、体験学習による擬似的時空の空虚さを鋭くついたものであり、そういうペ−パ−に対しては、「無理して出席しなくてもいいんだよ」とぼくが対応することは、教師としての責任逃れにもつながりかねないと思われる。そこで、少し立ち入って考えてみたい。  このペ−パ−は、じつは4枚にわたる長編(?)で、先に引用した部分は、その追記である。本文では、偶数日の「講義型学習」を含めて「あまり得るものがない」、他の学生の出席ペ−パ−も「面白そうだね」というものはあるが、「まあ、時間に余裕があれば」という程度で、それよりは、この授業をパスして他の授業で出された課題などをこなすことが多い、などという自己の状況を述べたうえで、「(そういうふうにパスすることも)美東士先生の方針ではOKになるんだと思いますが、それで一年間終わってしまったら、何のために『社会教育計画』の講義を取ったのか、何も残らないと思いませんか?」と穏やかな口調ながら、ぼくを厳しく突きつめている。  しかし、これだけであれば、ぼくは、「履修要覧やテキストを読んで、ぼくやぼくの授業が自分にとって必要かどうかを判断して、出席するかどうかを自己決定せよ」と答えればよいだけだと考えている。ところが、この学生はどちらも読んでいるという。また、最初の3回目の授業までは、きちんと出席している。「まずはぼくの授業の様子を探ってくれ」というぼくの要請に応じてくれている。彼は次のように書いている。「(高等教育においては)基本的にはどの科目を取るか、それを決めるのは学生側の『権利』として与えられているわけですよね。そして、判断のための情報として、『履修要覧』があり『お試し期間』があり、それでも足りなければ、直接、担当の先生のところへ質問しにいくことだってできるわけです。それだけのものを与えられていながら、あとから文句を言うような選択しかできないというのでは、学生側がなかば選択権を放棄しているようなものだと思うわけです。たしかに、私も選択したあとで、『あっ、これはハズレだったな』と思ったものもありました。でも、そういうときでも、せっかく高いお金を払って買ったんだから、テキストだけは一通り読んでみようとか、講義の『おいしいところ』だけはある程度頂戴しておいて、そこから『独自路線』を展開しようとか考える。そうして、それなりに、この講義を取ってよかったなというものを作ってきました」。ところが、彼は、ぼくの授業だけは、履修要覧や教科書からは「見えない」「読み切れない」というのである。  ぼくは、いつも、授業のシラバスを、大学当局から与えられた字数制限いっぱいに書いて提出している(内容はともかく)。ボリュ−ムばかり多くて「ひんしゅくもの」ではないかと不安を感じるぐらいだ。授業スケジュ−ルなどは、一字も余らせないなどのノイロ−ゼ的なまでの記述をしている。ただ、T大学の場合は、授業スケジュ−ルの欄の字数が非常に少ないので、この学生がほかで指摘しているように、よくわからない代物になっているとも考えられる。これについては、来年度からは、もっと詳しいシラバスを、初回の授業に別途配ることにしたい。  それにしても、このペ−パ−の主張は、その程度のことでは本質的には解決し得ない深い問題を提起している。この学生のように主体的に自己決定をした場合であっても、「学びたいから学ぶ」という自己管理型学習がうまくいかないことがあるということを示しているのだ。それは、「書き言葉メディア」とは異なる「話し言葉メディア」としての授業(ぼくは、mito的授業がそれをねらったものであることを公言している)の特殊性の表れであるともいえよう。「話し言葉メディア」としての授業は、学習者側としては、「書き言葉メディア」である履修要覧やテキストを読んでも、最初からは自分にとっての授業の意義が「読み切れない」のである。だから、「先生のいうことにはしたがっていればよい」というような教師への無条件的信用(基本的信頼ではない!)をしないこの学生に代表される「正しい学習態度」の主体的学習者にとっては、かえってその学習結果が恐ろしくて、「話し言葉メディア」としての授業には踏み込みずらいということになる。  それが、態度変容を意図した体験学習の「奇数日」になると、その状況はますます決定的である。体験学習の場合は、よく吟味したうえで「よし、参加しよう」と自己決定した場合であっても、「出なければよかった」と後悔することが多々あるだろうからである。この学生のいうような「中途半端な楽しさが、すぐに空しさに変わってしまう」などという事態は、日常茶飯事でさえある。「結果が恐ろしい」どころか、「恐ろしい結果」(空しさの逆襲など)をすでに何回か味わっているのである。  しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。この学生は次のように書いている。「性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからない」、「グル−プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ−ムをやるときのメンバ−がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ−ムを『こなす』という感じで終わってしまう」。その気持ちはよくわかるが、現代社会のヤマアラシジレンマに立ち向かうためには、その空しさはあえて受け入れなければならないのではないか。「祭りのあとの空しさ」というではないか。祭りを楽しんだとしたなら、祭りが終わったあとは、その空しさをじっと受けとめなければならない。それが祭りの定めであり、人間関係の宿命なのだ。そこから逃避しようとして「いつも同じメンバ−」に固執したとしても、そこで感じるだろう空しさは、これと同質、または、それ以上のものかもしれない。  また、社会教育の援助者に求められるコミュニケ−ションや組織化のための資質・能力についても、今後重要になるのは、特定の住民とべったりつきあったり、「教祖様」になったりすることなく、ときには、情報提供や一過性の学習者へのサ−ビスなどの「ちょっと間をおいた」、あるいは間接的な援助をしなやかに行なえることである。そういう仕事の仕方では、従来の社会教育の直接的援助や指導の魅力に固執する援助者の目には、まさに「虚業=空しい仕事」に映り、不満を感じるかもしれない。だが、こういう仕事を「自分(の気づきや出会い)のためにやっています」とさわやかに言える「発想の転換」がこれからの援助職員に求められるのである。そのためには、人間関係のための洗練されたセンスが必要になる。  それゆえ、自己管理型学習、とりわけ自己管理型体験学習には、「空しさへの予感や恐怖に耐える力」が必要とされているといえるのではないか。このペ−パ−の学生のような、かなりの自己管理ができている学習者に限っては、ぼくは「潔い撤退」への肯定的態度を変えてみたい。「いや、だまされたつもりでもいいから、とにかく出てみたらどうだろうか」といおうと思うのである。そういう自己管理型の人にとっては、他の「自己管理ができている」ほかの授業への出席や宿題をさぼってでも、mito的授業のような「自己管理のしずらい」授業に参加することのほうが、自己成長にとって有益だと考えられるからである。そうでないと、せっかくの自己管理型学習であっても、「書き言葉メディア」による自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組みを変化させる本来の意味での学習、または革新型学習につながらなくなる恐れがある。ちょっと「余計なお世話」かもしれないが。(もちろん、単位を出さないなどの強制につながる行為をするつもりはない。学習の自己管理の原則はあくまでも貫かれなければならない)。  そこで、つぎに、同日に提出されたほかの人のペ−パ−を、もうひとつ紹介しておく。ここには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表わされている。 1994.10.26. T大U部社会教育計画、男  (前回のパズルゲ−ム−スクエアゲ−ムについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲ−ムでは、カ−ドを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャ−したりしてはならないということだったけれども、たかがカ−ドの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。  (体験学習を行なうということに定められている)奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲ−ムを始める前、このゲ−ムでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグル−プになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。  7月ぐらいまでは、ゲ−ムに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。  この前のパズルゲ−ムのときと、その前のゲ−ムのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。 mito  エンカウンタ−グル−プは、日常の人間関係とは離れた「文化的孤島」で行なわれなければならない。奇数日の授業も、これに似た意義(「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」)があるのだろう。また、引っ込み思案の克服方法のポイントのひとつは、「結果を恐れるな」(自他への不信から結果を先回りして勝手に決めつけるな)である。この言葉も参考になると思う。 4 生涯学習とは何か=自己受容と自己変容(自己の枠組み自体が変化する生涯学習) mito  ぼくは、今まで、枠組み自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組みを変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。その(認知説に?)偏った考え方には変わりがない。急速に発展・変化する生涯学習社会において、枠組みを変えないまま、固定化した枠組みのなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと思うからだ。  しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、ぼくのこの「学習論」への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。ぼくにとっては、それが逆に不思議だった。そこで、ぼくは「じゃあ、ぼくは自分を変化させたいと思うか」と自問自答してみようとした。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。  もともと、ぼく自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での学習をしたい)というとき、楽しいイメ−ジとして「変化したい」という言葉を使っていた。ぼ−っと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人と出会ったとき、その人の枠組みのよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときは「至福」ともいうべき自己充実感を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「自分をどんどん変えたい」という程度の軽い気持ちなのだ。例の「どこまでも知りたい」(練馬区生涯学習推進構想)という生涯学習の原始的欲望の一種と考えてもよい。  ところが、ちょっとマイナ−な気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみたのだが、とてもみじめな感じになることに気づいた。そりゃあそうだろう。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを権力側(この場合は教師)から「自分を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうが健康的である。  「自分を変えたい」という欲求は、じつは、2つに分類できるのではないか。 T 自己否定としての変身欲求−今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。 U 自己受容による学習欲求 −今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。  ぼくが今まで提唱し続けてきた「枠組み自体を変化させる生涯学習」というのは、当然、Uということになる。最近の臨床心理関係者の話(嗜僻、依存症など)を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラ−が、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ることと自分を大切にすることは重要である」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたはぼくの胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。ぼくの言葉で言い直せば、「客観視」と「自分のために生きる」ことの大切さということになろうか。Tだけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組みのまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍になるような生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容につながるのである。  「自己の枠組み自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。でも、わくわくすること(ワンダ−ランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということであり、その援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「こんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。 5 生涯学習とは何か=自罰のデリケ−ト、他罰のデリケ−ト(加害者の被害者ヅラ、淋しがり屋のタカビ−) 1994.10.26. T大T部社会教育計画、男  このところ、この授業に出るのが嫌になって、あまり出ていませんでした。それは、授業のなかでもふれられていたように、授業のなかで出てきたことに突きつけられて、これまでの自分のまちがっていることを認めるのが嫌だったからだと思います。そこへきて、自分の自罰的傾向(「ちゃんと現実を見すえなくてはいけない」「逃げてはいけない」)や自信のなさ(「自分にはこの授業を受けるだけの包容力や人間性が欠けているのではないか」「他の受講者が自己変容しているあいだに、自分は低いところで堂々めぐりをしているのではないか」)があるものだから、事態は深刻だったといえましょう。  しかし、今日、ある意味ではたまたま、この授業に出て、本当によかったと思います。もともと自分は、社会教育主事資格ほしさとはいえ、好きで(=主体的に?)この授業をとったのでした。ならば、そういう自分を受容して、そして自分を変えていけばよい(どこまで変われるかは別として)わけです。だから、今後は、もっと積極的に出席して、自己変容や自己管理につなげていければと思います。自罰しすぎないように、自分に自信をもてるように(しかし、肩で風を切ったりうぬぼれない程度に)していければと思います。 mito  この学生のようなデリケ−トさ(本人は自罰傾向と分析しているが)は、本人の個の深みのひとつであり、そういうデリケ−トさが欠けていると自覚するぼくは尊敬する。彼は人生を真剣に生きている、あるいは、自己評価の水準のレベルが高いと思うのである。そんなぼくがかれらに何かいえるとしたら、つぎのようなことである。「批判は歓迎せよ、否定は受け流せ」。本来の批判は基本的信頼にもとづくものである。自分にも刃(やいば)を突きつけながら、なおかつ、そんな非力な自分と相手を受け入れているからこそ、批判ができるのである。「非力でない場合だけ(自他を)信頼できる」という人がいるとしたら、その人のいっている「信頼」は本来の信頼ではない。ただの「信用」である。信用に値するような完璧な「先生」や「人格者」など、この世に一人もいないはずだ。「信用される人間」になろうとする態度は、じつは、競争主義の学歴偏重社会に過剰適応しようとしている無茶なガンバリズムであり、不合理な思い込みにすぎないのである。だれかがそんな競争主義にもとづいてあなたを「否定」(批判ではなく)したとしても、そんな否定は受け流すにこしたことはない。あるいは、そういう「否定」は、その人自らの不安の表明にすぎないのだから、自分を否定しようとする他者の「弱さ」を共感的に理解して処理することができればベストである。学歴偏重のヒエラルキ−的価値観を内面化しているかぎり、その人は他者を否定しかできないのであるから(その弱さは、多かれ少なかれすべての現代人がもっているだろうが)。  さて、ここで、最近ぼくが気になっているもうひとつのデリケ−トの傾向について述べておきたい。それは、自罰傾向のデリケ−トに鮮やかに対比される他罰傾向のデリケ−トである。たとえば、恋愛問題にしても、自分だけを相手が愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないというのである。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際しようとしている。だが、そこまではいいのだ。見方によっては、そういう生き方も本人がそれで納得して生きているならたくましくていいじゃないかとも思う。別に他人であるぼくが気にかける必要はない。ところが、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。デリケ−トなのである。もちろん、真剣に相手のことを怒っている場合もあれば、「悲しいけれど事実として受けとめる」という場合もある。しかし、いずれにせよ、自分自身については甘やかしておきながら、相手を罰していることにはかわりない。現代社会において、幸福追求の援助者として教育が存在しようとするのならば、こういう場合はどうすればよいのか。これは、すなわち、他罰のデリケ−トに対する援助のあり方の問題である。  授業中の私語の問題は、今や当たり前すぎて陳腐な話題だとぼくは思っている。授業中の「感動の私語」はむしろ歓迎し、これを積極的に組織化すること(その端的な表れは「ちょっと待った方式」)、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は双方の自由を保障するために、おしゃべりをするための中途退室と入室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、おしゃべりをやめさせるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。先日、50人くらいが受講する授業で、男性2人だけが小声でひそひそしゃべっていて気になってしかたがないことがあったが、しばらく我慢しているとその人たちは荷物を置いたまま自発的に退室してくれたのだ。もちろん、あとで戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。  しかし、そううまくはいかない場合も多い。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば、その授業とは無縁の「余計な私語」はそういうほかの学生に迷惑をかけていることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ(ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の学生は、その人の学習の自由を保障するために、退室しないままの余計な私語を禁欲せよ」という考え方である。念のため)。人間は何か迷惑行動を起こすときでも、自分の心の中ではなんらかの形でその行為を「正当化」しているはずだ。私語学生はどのように自らの退室しないままの私語を正当化しているのだろうか。  ここに、「他罰のデリケ−ト」のロジック(レトリック?)が適用できるのではないか。「ほかの人は、私みたいな(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな授業をまじめに聴いていられるのよ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、自分を許して他者を罰しているのではないか。つまり、自分が傷つくことばかりに対してデリケ−トだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向やピア・コンセプト(仲間意識)の表れにすぎないのだが、それを、「おしゃべり仲間をちゃんと大切にしている友達を大切にしている自分」として逆に正当化してしまっている。この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピアが介在していて、個人の個の発現を抑圧しているのは社会そのものではなく、じつはピアであり、すなわち、その人自身の内なる認識なのである。  電車の中で迷惑行動をしている人の顔つきを見ても、かれらはけっして楽しそうな顔をしていない。股を大きく開いて3人分ぐらいの席を占有している人も、「3人分の着席の幸せ」を奪っているのにけっして幸せそうではなく、むしろ疲れた辛そうな表情をしている。社会や他者に対して、何か不愉快なことがあるのだろう。これをぼくは「加害者の被害者ヅラ」と呼んでいる。そういう例は、いやというほど周辺で見受けられるだろう。だが、よく考えてみれば、そういう加害者たちが幸せになれるのだったら、本当の被害者たちにとってはたまったものではない。水平なネットワ−ク社会(ぼくはそれを学歴社会に対する生涯学習社会だと考えている)における「してあげる、してもらう」のストロ−ク交流の関係しか、自分自身も幸せになれる方法はないのだという「嬉しい確認」ができたと考えればよいのだ。  ただ、そうはいっても、援助者としての社会的役割の遂行が期待されている人は、そういう「他罰のデリケ−ト」の自己変容に対する援助のあり方を考えなければならないだろう。そこで、デリケ−トの種類を次の2つに分類して整理してみたい(本当はそのどちらでもない個の深みそのものともいうべき「デリケ−ト」を入れて3つだと思う)。 「種類」    「不安の動機」       「関係性の悩みの内容」 T自罰的デリケ−ト − 相手を傷つけたのではないか。 − 自分は他者を愛せない。 U他罰的デリケ−ト − 相手から傷つけられた。    − 他者が自分を愛してくれない。  もちろん、私語程度の「何気ない迷惑行動」と「確信犯的な迷惑行動」を同一に論ずることには危険性がある。ここでは、程度の差はあれ、アンビバレンツな人間存在としては、すべての人が、「自罰・他罰」「デリケ−ト・たくましさ」「大・小」のどちらの要素ももっているという前提で論を進めたい。  ここで問題にしたいのは、Uである。社会的に客観視した場合は論ずるまでもなく「不当な態度」として処理すればよいのだろうが、その人は主観的には「本当に悩んでいる」のである。すなわち「問題があることを自覚している」のである。学習は問題の自己解決の行為(問題解決型学習)の一環だとして、教育はそのための援助だとすると、本人が主観的には問題をかかえているということ自体は、援助の唯一の拠り所として非常に重要なポイントなのである。  ぼくは「淋しがり屋のタカビ−」という言葉をつくった。タカビ−とは高飛車な人のことを指す流行語である。相手の人生を、自分の都合にあわせて影響させたり、支配したりするようなことが多い「迷惑な人」のことである。しかし、そうい人のなかに、じつは「淋しがり屋」が多いのだと思われる。「淋しがり屋」と「タカビ−」の素質は、そういう人のなかでは、悪循環を繰り返しているのだ。愛されないからますます淋しくなり、だからこそ、ますますタカビ−になる。さて、ここまで論じてきて、ひとつ重大なことに気づかないだろうか。すなわち、「そんなことだったら、自分にだってある」「そんなことだったら、わかる」ということである。この「そんなことだったら」が重要である。援助者だって同じ人間なのだから、「淋しがり屋のタカビ−」や「他罰的デリケ−ト」の行為に対して、そんなに苦労しなくても、ごく当たり前に共感ができるのである。これをぼくは「教育的可能性」のひとつととらえる。  つぎに、これと関連して、「援助者としての責任と無責任」について考えてみたい。授業中に登校拒否(不登校)や拒食症(摂食障害)のビデオを共感的に理解することをねらいとして視聴しても、なおかつ、一部の学生から「共感できない」「かれらは甘えている」というペ−パ−が出されるmito的授業の実情について、「援助者としては不適応症状の人を共感的に理解してあげなければいけないのではないか」、それなのに「十分に症状を理解できるだけの情報を与えないまま、VTRで不十分な情報を流して、共感的理解ができない結果を生み出すのは、教師として無責任なのではないか」という、深く鋭く指摘するペ−パ−があったのだ(「非公開希望」なので全文の紹介はできない)。  まず、言明しておかなければならないことは、ぼくの勉強不足におおもとの原因があることは明らかである。ただし、ぼくの学習援助者としてのスタンスは、「ぼくが、いま、与えられた学習課題に関連してもっとも関心をもっていることを伝える」ということである。そこさえ責任をもって役割遂行すれば、あとは学習者がそれをどう受け取って取捨選択するかについてはぼくの援助者としての責任の範疇ではないと考えている。そんなことは学習者の自己責任でないか。たとえ、学習者側のなかに、その問題に関してぼくよりすぐれた知識・見識をもっている人がいても、ぼくは平気でそのテ−マについて「教授」するだろう。あとは、ぼくは、批判を「受けて立つ」、指摘を「受け入れる」という覚悟さえ決めておけばよいのだ。  しかし、それにしても、一部の学生の「かれらは甘えている」という発言は、たしかに他罰的な傾向を秘めていると思われる。そこで、このことについて考えてみることにする。 6 生涯学習とは何か=援助者としての責任と無責任(共感的理解をめぐって) mito  第1に、「(不適応の人たちは)甘えている」という判断は「1%の真実」を表わしている。「甘えている」と書いた学生たちはただ単純に「甘えている」と書いているのではない。かれらがこれまでのみずからの人生を生きていくなかで、@社会やひとに甘えてはいけない、それが自立だ、A家族やまわりのひとが自分にしてくれたことに感謝したい、あるいはそういう人たちの期待に沿いたい、Bいやなことでも頑張ってやっていかなくてはこの世ではうまく生きていけない、などの価値観を身につけ、自分とは異なる不適応の人たちを「甘えている」と判断すること(他罰)を選択することによって、今までそういうふうにがんばってきた自分の生き方を否定しなくてもすんでいるのである。  つまり、不適応を起こして「本当の自分を大切にする」というだれにとっても「それなりに魅力的な生き方」のその魅力に打ち勝つためには、不適応行動を「甘えている」と切り捨てることを選ぶしかないのである。不適応が現代社会における自己保存の「ぎりぎりの選択行為」だとすれば、そういう人たちを「甘えている」と切り捨てることも、現代社会においてはそれなりに「ぎりぎりの選択行為」なのである。その証拠に、かれらは「(不適応に対して)共感『できない』」「共感『したくない』」と書いてくる。無価値的に「共感『しない』」とは書いてこないのである。他者を共感的に理解したいという要求は潜在的にはだれにでもあるのではないか。ただ、それと自己保存本能とが、現代学歴偏重競争社会の疎外状況においては対立してしまうのである。  このように考えると、不適応を「甘えている」といって切り捨てて現代社会で生きていこうとする「戦術」は、だれにとっても、まったく意味のないこととはいえないだろう。同時代の他の99%のそれぞれの人が少なくとも1%ぐらいずつは共感できる「1%の真実」を表わした生き方のひとつなのではないか。問題は、シロかクロかではなく、シロ何%かクロ何%かなのであり、出席ペ−パ−の場合は、もっと根本的には、「どれだけシロの深みを表わしているか」、「どれだけクロの深みを表わしているか」なのである。  第2に言いたいことは、援助者側は、「他者を共感的に理解できるようになることが、どれだけすてきなことなのか」ということを、その方法論とともに提案する責任はあると思うが、自分にできる範囲で一生懸命にそれを提案した結果、学習者側がそれを受け入れなかったとしても、そこには何の問題もないということである。人それぞれなのである。教育目標を学習者に提示し、その目標に沿って授業を進めても、なおかつ、相手が自分の思うように変化してくれなくても、それはそれでよいのだ。援助者側にも学習者側にも問題はない。援助者側が「学習者を変えられない」という問題に固執するとすれば、それは相手の人生をしょいこもうとする「熱血先生」の傲慢さとさえいえるのではないか。ぼくは、共生の要素を@共有(価値や文化の共通点を探ったり創ったりすること)とA共存(価値や文化の異なりを受容しあうこと)の2つだと考えている。「相手の人生をしょいこまない態度」は、この場合のAに当たるのである。  ただし、これは原則論であって、ぼくの場合は、その学生の指摘するとおり、教材研究をもっとしっかりやっておけばさらによかったのではないかとは思う。つまり、それは、ぼくが「自分にできる範囲」にまで到達していなかったということであり、その面では、十分には責任を果たしていなかったというべきである。自分がいま関心をもっていることについては、いっそう深く考えていきたいと思っていることをここで表明しておく。  第3には、「(不適応について)共感的に理解しなければいけない」ということを最優先する立場は、ぼくはとっていないということである。ぼくは「共感的に理解できたらいいね」といっているのである。「共感しなければいけない」といわれたのでは、なんだかそれまでの自分が共感的理解能力に欠けた冷血人間としての烙印を押されたようで消極的ないやな気分しか残らないではないか。ぼくは「人間をよりいっそう共感的に理解できるような自分でありたい」というみずからの動機を自分のなかに探りながら、授業を進めている。だから、学生に対しても、一人ひとりのなかに「他者を共感的に理解したい」という顕在的・潜在的欲求が存在するであろうことを基本的には信頼して、その欲求に訴える授業を組み立てようとしている。もちろん、共感的理解能力の発達は、信頼・共感・自立の人間関係の創出やその援助のためには不可欠な要素だと思っているからである。「〜しなければならない」ではなく、「〜するほうがすてきだ」という提案を行なうことこそ、ネットワ−ク型の水平社会における援助者としての個の発揮の有効な方法なのではないか。  援助者といえども、社会という幹に対する枝葉にすぎない。その枝葉が自己実現と社会的承認のために果たすべき責任とは、自分の考え方を押しつけたり、その結果、幹がそのとおりに変わってくれなかったからといって不平に思ったりすることではなく、自分の生きてきた範囲でできることを実際にどれだけ幹(この場合は学習者集団全体)に提言できたかを(たとえば「先週は授業で何回、どのように提言したか」などと)なるべく客観的に自己評価することなのである。 7 生涯学習とは何か=ぼくたちはいったい何のために学んでいるのか(学問とは何か) 1995. 5.22. S大社会教育計画、女  わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。  今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいって言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。  人には、その人に見合った世界があって、その世界の中での上を目指すことはかまわないけど、その上の世界を目指すのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。  私は、そんなものなの?、と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。 mito  そういう過去の遺物のような人間に対してのぼくの基本的なスタンスは、「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」である。だから、ペーパーの書き手に対するアドバイスとしては、ひとことでいえば、「ケッ」と言って笑い飛ばす能力が大切であるということになる。まあ、心配しなくても、その手の「アパルトヘイト」(南アフリカ共和国の1989年以前の人種隔離政策)みたいな、唯々諾々と「頑張ってきた」だけの人たちは、社会ではいずれ挫折するだろう。たまたま出世するかもしれないけれど(本当は管理職には適していないのだけど)、人間としての味が薄いため、他者からの信頼や愛情という人間の生活や仕事にとっての肝心の財産を獲得することができないまま生きていくことになるからである。  学生が一流企業をめざすこと自体は、けっして不合理なことではない。ぼくだって、「生活の安定をめざすならば、可能なら大企業にぶらさがれ」と学生に言っているぐらいだ。しかし、そういう自己保存のための「作戦」の部分だったはずのものが、たまたま「成就」した事実があったからといって、「本気」になって、「自分は上の世界の人だ」と思い込んでしまう人間がいるというのにはびっくりしてしまう。自己の合格・不合格などは、客観的にはちっぽけな事実にすぎないのに・・・。学校歴偏重社会の価値観の個人的な精神世界への侵略は、目に余るものがあるのだなあと思う。  例の友人は、AC(従順な子ども心)とCP(厳格な親心)ばかりで生きてきた人なのだろう。そういう人たちの幸せのためには、なるべく早いうちに挫折を自覚して、「ただのろくでなし」(平気で差別したり迷惑をかけたりする人たち。自称「成功者」たちの差別や、頑張って授業には出てきてしまう自称「被害者」たちの私語など)から「ましなろくでなし」(そのほかの、しかし「不完全」な私たち)として立ち直る機会が訪れるよう祈るばかりである。  ところでこのペーパーについてT大学でも簡単にコメントしたところ、次のようなレスポンスがあった。それによって、このトピックスに関する考察は、もう一段、ぐんと深まることになる。これだから出席ペーパーシステムはやめられない。 1995. 5.24. T大U部社会教育計画、男  一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。「ケッ」と思う気持ちや、(注=彼らに対して)負け犬にならないということは大切ですが、いきなり「ばか」と切り捨ててしまうことの方が、ある意味では「負け犬」なのではないでしょうか。(注=合格・不合格の)つまらない事実であっても、わたしはその事実は事実として認めるべきだと思いますし、その人の努力の結果には敬意を表わしたいとも思います。その上で、自分は自分なりのものを作り上げ、それに自尊心をもてばいいと思うのですが。(あ、時間がない・・・。)  フリースペース、その時間、わたしは授業ですので、ちとキツイです。出たいとは思うのですが・・・。わたしも酒好きですし(笑)。 mito  ぼくは、「馬鹿という言葉は、少し違うなあ」とは感じながらコメントしていたのだ。しいていえば、「あほ」という言葉のほうが適切だったかもしれない。つまり、嗤う(ばかにしてわらう)という感じである。庶民が「ばか殿様」を笑い飛ばす、あの感じである。  さて、このペーパーによって、「その人の努力」に対する評価のあり方が問題として焦点化されてきた。これは、このペーパーの書き手一人にとどまらず、「心優しい」現代青年の普遍的な傾向であると思うのだが、「そんなこと言ったって、その人なりに努力してきたのだから」とか、「がんばってきたのだから」とかいって、客観的にはその「努力」が不当であることを感じながらも、個人の主観的なストーリーとしては容認してやろうとしてしまうのである。ぼくは、声を大にして言いたい。努力してればよいというものじゃないし、頑張っていればえらいというものじゃない。  例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる「人類の幸福追求の敵」としての役割を果たすからである。  このような客観的には「不当なこと」(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張った」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」が滑稽であることを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだといえよう。  それでは、なぜ、学習権がかなり保障されているはずの現代青年までもが、そういう「人類への裏切り者」を許そうとするのかというと、それはおたがいに「頑張らせられてきた」学校歴偏重社会の被害者としての仲間意識が根にあるのだとぼくは思う。これこそ、まさに、ピア・コンセプト(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)の逆機能といえよう。ヒエラルキー(階層制度)の上位にあって下位の自己を抑圧する相手に対してまで、「同じ苦労をしてきた」(ただし、相手は「成功」した!)という思いから、批判することを回避している。これは、自称「上の世界の人間」もそうでない人も、「(受験勉強はいやなのに)頑張らせられてきた」という意識・無意識の被害者意識を、社会変革主体としての「自尊心」に転化するに至らないまま、自身の根っこの問題として引きずっていることの表れといえるのではないか。つまり、端的にいえば、負け犬同士が傷をなめあっている姿ではないか。どちらの側も、学校歴偏重の上下競争の価値観を内面では蹴飛ばしきれていないからである。  さて、ぼく(mito)自身はどうなのか。「やっぱり負け犬の一種でしょうね。そりゃあ、こんな社会に生きていて、あるいは人間存在の空虚さという本質から、まったく敗北主義にならないというほうが、かえって不思議ですよ」。こういって、ぼくは、そういう自分の「ろくでなし」の部分を、「まあ、事情が事情なんだから、今までのことはしかたないよ」という感じで許してやっている。しかし、「せめてこれからは」という気持ちで打ち出しているのが、つぎの3つのテーゼである。  「今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて」(『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人いりません−』p106より)。  ヒエラルキーのなかにあっても個人が意味をもって生きるためには、うえの3つとも必要であろう。しかし、学問とは、問うということを学ぶということでもある。不易の部分、本質の部分を求めて、「ぼくはいったい何のために学んでいるのか」と自問したとき、とくにこの3番目の、いわば「正義の行使の裏付け」ともいえる、自己にも批判の刃(やいば)を向ける真実の追求の重要性に思い当たるのである。  「ばか殿様」からも、それを反面教師とすることによって、学ぶことはできる。しかし、それよりも手っ取り早いのは、さわやかに生きていく力をもっている人、「ああ、この人って、いい生き方してるな」と自分までうきうきしてしまう人との出会いを多くすることである。そのことによって、自分も「さわやかに生きていく力」をもつことができる。「大人になりたくない」なんていう青少年が多いが、それは、たまたま、いいモデルとしての大人にめぐりあったことがないかから、あるいは、本人がそういう出会いから逃げようとしているからかのどちらかであろう。  ぼくがフリースペースを個人的にも楽しみにしているのは、「おお、いいなあ」と心からあこがれてしまうような他者の生き様と出会い、癒され、こちらまで元気が出るからである。相手は学生ではあるが、ぼくなんかよりよっぽどかっこいい潔い自己決定の生き方や、自分に厳しい深い生き方をしていて、教師のぼくが思わず尊敬してしまうような学生もごろごろいるのである。こういう人との出会いを避ける手はない。このペーパーの書き手にも勧めたい。フリースペースは、参入も撤退も自由のネットワークの場である。「1年に1回だけ来てもメンバーだ」。何回も来なくてもいいが、授業が休講のときなど、1回ぐらいは来る価値はあるだろう。  最後に、蛇足になるが、その自称「上の世界の人間」が実際に学生としてぼくに接してきたとしたら、ぼくは教師として「どう受けて立つか」を述べておきたい。教師は学習者の援助者であるから、今まで述べたようなことはそのままの形ではいわない。教育効果(変容)が期待薄だからである。今まで述べたことは、客観的には自分にも迷惑をかけている「ただのろくでなし」をさえ、「頑張っているんだから」といって認めてしまおうとする「心やさしい人びと」への忠告であったのだ。  自称「上の世界の人間」の本人に対しては、ぼくはあざ笑ったりすることなく、その人の過剰で屈折したACとCPの悲しい事実を探り出し、本人の目の前につきつけようとするだろう。そうすれば、遠い先にあった挫折の自覚が早く訪れる結果になってしまうかもしれないが、その場合の「挫折」は現実よりも本人の理性的認識によるシミュレーションに近いものであり、また、それゆえ本人の「自己決定」の要素が比較的大きいと思われるからである。個人の幸福追求への援助のためには、教育は本当はそうあらねばならないのではないだろうか。 1995. 5.20. S大教育社会学、女 (注=自分のことをワガママだと批判していた彼氏が、最近やけに自分にまとわりついたりプレゼントをしたりするので「あやしい」という前置きがあったあと)たぶんわたしの夜遊びのせいだと思う。わたしの夜遊びははんぱじゃなく、男友達5、6人とギャーギャーさわぐ。朝まで激論を交わすことも多い。激論のテーマは人種差別、宗教、音楽などだが、二日酔いをともなうとっても充実した朝を迎える。かれらは愛すべき Friendsである。わたしの友達はブラックが多いので、人種差別についてはすごくきびしく、わたしは日本代表としてせめられている。  それ(注=ほかの男友達との「夜遊び」)が彼には気に入らないらしく(わたしがそのことを楽しそうに話すらしい。だって、ほんとうに楽しいんだもん)、また、わたしがあんまり彼と遊ばなくなったので不安らしい。「おまえが離れていくような気がする」のだそうです。わたしはそうでなくても離れていくのよ、と思ったけどね。プレゼントがなんぼのものじゃい。アパルトヘイトを知らない彼にもっと勉強してもらいたいと思う。彼はマンデラがどこの国の人か知らなかった・・・。 mito  ほら、こんなに「雄々しい」いい女がやっぱりいるんだ。このペーパーには「雑談」という彼女なりのマークが付いていて、それにしてはこういう深い内容であり、そのことだけでも彼女のその「潔さ」にぼくはうれしくなってしまう。だけど、知らないということは仕方のないことだから許してほしい(マンデラはアフリカ民族会議(ANC)議長で、現在、南アフリカ共和国大統領)。問題は、差別やその他の社会の不当性、人間存在、芸術表現などの事実を知っているかどうかよりも、その本質(真実)の追求自体にそもそも関心があるかどうかだ。  ここからは、「彼」本人からの話を聞かないまま論を進めるので、実際の彼の姿を推測するものではないということをお断わりしておきます。  きっとあなたの今までの彼は、そういう関心そのものがまだ育ってないのではないか。世の中には、大人になってもそういう「ガキ」状態にとどまっている男が(女も!)かなりいる。社会や自己の姿をなるべく正確にとらえようとするA(大人心)を使い慣れていないのである。そういう人は、相手に「自分のために生きてほしい」と一方的に依存してくるし、自分勝手に独占的な愛を求めてくる。それは、他者(社会)との関係のなかでの自己を客観視できていないからであり、つまり、自立できていないということなのである。遊んでくれなくなると「離れていくような気がする」と相手に不安だけを訴える姿は、その淋しい気持ちもわからなくはないが、彼がまだ自己を主観だけでしかとらえられず、他者から見た自分の姿を推察する能力が育っていない証拠ともいえる。あなたのような大人の女には、そういう自立できていない男は残念ながら似合わないのだろう。  世の中には、あなたとの「激論」に耐えうる「いい男」がいっぱいいるのだから、いい女になりつつあるあなたが、過去のそんなつまらないつきあいにあまりとらわれすぎるのはもったいないことだと思う。ぼくはそんなに雄々しい男ではないけれど、そんなぼくだって、このペーパーを読んで、「ああ、彼女みたいな人と『激論』するのは楽しいだろうな」と思う。そうは思えずに、「社会や人間のことなんかことさら考えなくたって」と思う男は、同じように思っている女とつきあって満足していれば、それで世の中は安泰だろう。  「わがまま」には2つの種類があると思う。「わたしの人生はわたしが歩きたい」という「いいわがまま」と、「あなたの人生をわたしのために曲げて生きてほしい」という「悪いわがまま」の2つである。自分の力で自分の自立を実現して大人の「いい女」になるためには、前者のわがままであるのなら必要なことである(後者の「悪いわがまま」も愛にとっては不可避だが)。こういう「いい女」と「いい男」が居心地よく交流できるサンマ(時間・空間・仲間)を、ぼくはこの世の中にいっぱいつくりだしていきたい。