「おうち」としての狛プー   −狛プーの公的・現代的意義− 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 (狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」年間講師)  先日、見学者との交流会で、ある狛プーメンバーが「狛プーはおうちだ」と言った。学校や職場も、疲れるときはあるけれど、それなりに楽しい。充実している。しかし、狛プーはそういう「外の世界」のワン・オブ・ゼム(一部)ではなく、それらの外の世界から帰ってきて、また外に出かけていくための足場、つまり「おうち」だと彼はいいたかったのだと思う。  そして、少なくともその交流会では、狛プーのメンバー全員が、「狛プー自体が全体でボランティア活動などによって社会に参加することになるとしたらいやだ」と言っていた。狛プーに関わりはじめてから、多くのメンバーが自信と元気を獲得し、自分にあったそれぞれのかたちでの多様な社会参加を、いつのまにか、ちゃっかりと、したたかに始めている。それにも関わらず、狛プーは「おうち」のままであったほうがいいというのだ。  これは、最初、ぼくには意外だった。人間は元気がでてきたら社会にも主体的に関われるようになる。もうすでにいろいろなところで何回も述べたとおり、「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つのマ)」としての狛プーの、しかも公的社会教育の一環としての意義は、ぼくもつくづく感じていて、狛プーが開かれる毎週木曜日の夜をぼく自身も楽しみにしているぐらいだ。しかし、「狛プー自体は社会参加しないで」というかれらの気持ちに「えっ」と思ってしまったのは、まず癒される、そうしたら次に社会参加(ボランティア、地域活動、市民活動)に発展するというような過去の社会教育指導者にありがちな固定的で図式的な思考がぼく自身のなかにもあったからではないかと思う。  そのこりかたまった抑圧されたぼくの思考が、「狛プーはおうちだ」という言葉によってするすると解き放たれていった。ああ、そうだ、そういえば「おうち」というのは、どんなに大人になったっていつまでも必要だ・・・・。「おうち」も「外の世界への参加」も、どっちもすてきなものになればよいのだ。  以前、ある女子学生メンバーが、自分が受講している大学の社会教育系のゼミで狛プーの良さを発表したら、他の男子学生から「癒しのようなそんな私的なこと、公民館や社会教育主事に頼らずに、自分たちの力でやるべきだ」と言われたといって考え込んでいたことがある。ぼくも、彼女からそれを聞いて、その男子学生の発言が頭に引っかかっていたらしい。そして、狛プーのメンバーの何人かが各様にといういまの到達段階だけではなく、狛プー自体が社会参加して地域や社会に対して公共的役割が果たせるようにならないか、などと勝手なことを思っていたのかもしれない。  しかし、いま考えれば、その男子学生は、社会教育のいう「自主性の尊重」の意味をまだ生半可にしか理解できていなかったから、そして、現代社会に生きる人びとの癒しへの願望の正当性を(「私的である」という理由で!)十分には支持し得ていなかったから、そんな発言をしたのではないかと思う。いまのぼくなら彼にこう言うだろう。「いまの公民館や社会教育、青年教育というのは、しかめつらをしないでもっとのびのびと楽しみ、安らげるところになりつつあるんですよ」。  ひとは「おうち」すなわち癒しのサンマがあるからこそ、「外の世界」すなわち社会に出かけ、また帰ってくることができる。だから、だれにだってそういう「おうち」が必要ではないか。もちろん、もしそういう居心地のよい「おうち」をつくれる環境を、いまの社会が十分に提供できているのなら、その「おうち」づくりは自分たちで勝手にやれと突き放してもいいだろう。だが、不信と孤立の現代社会の状況を考えると、そんなに楽観的なことはとうていいえない。「自分たちでやれ」と言って突き放した人自身だって、現代社会では実際には不十分な「おうち」しかもっていないはずである。「おうち」は緊急に整備が要請されているインフラストラクチャー(社会的基盤)なのである。  逆に、むしろ社会に関わる運動こそ「自主的に」、つまり自分たちで勝手にやるべきではないか。また、行政側が、青年や市民の一人ひとりに対して、ちゃんと社会参加につながったかどうかを気にすることも、考えてみればちょっと余計なお世話だ(その気持ちはよくわかるが)。社会参加をする、しないは、ごく個人的な決断に委ねられるべき事項だからである。そんなことよりも、おのずから社会参加したくなるような元気が出る信頼と共感と自立のサンマづくりこそ、公的社会教育が責任をもって、しかも青年自身が主体となって進めていくことが、いま強く求められているのではないか。このようにして、市民と行政との協働関係を、もっと本気になって現実のものとして取り組くことが必要である。  この世はいまだ生涯学習社会への移行期であり、学校歴偏重社会の上下競争の価値観という遺物が青年の内面に癒しがたい傷として残っている。そういういま、「おうち」としての狛プーの公的・現代的意義は大きい。なぜなら、個人の「発達と癒し」を温かく見守る、信頼と共感と自立の水平的人間交流が行われるきたるべき社会やコミュニティのあり方を、狛プーはこの世において先駆的に実現しているからである。そういう意味から、現在の狛プーが追求しているものは、まさに、公的課題であり、現代的課題であるといえる。 (参考 拙著『こ・こ・ろ生涯学習』学文社)