東社懇だより 巻頭言 先生という呼称をやめてみよう  −生涯現役宣言だ!− 昭和音楽大学短期大学部助教授  西村美東士(mito)  ぼくは社会教育の仕事を13年やったあと、いまは大学の教員をやっている。どちらもとても楽しくやらせてもらってきたが、ときどき「先生」と呼ばれることがあって、そんなときは、うしろめたくてこそこそと逃げ出したくなる。ぼくにもやましいところがあるからだろうが、先生という言葉が減ったら、社会教育の場はもっともっと居心地のよい場になるのにと思うと残念だ。  ぼくは東社懇のよさは、ちょっとアクが強すぎるけれども、強烈な個性の、でもこれ以上はやばいというときには少しだけ大人になれる、そういう人たちの集まりであるところにあると思っている。つまり、先生という尊敬語で呼ぶに値する立派な思想と経験を、退職した今でも生かしている人たちなのだ。  しかし、現役時代の人のネットワークを生かして童謡のよさを現在の子どもたちに伝えようとしている先輩、高齢のいまでも演劇普及活動にのめり込んだままの先輩など、「いいなあ、この人の生き方!」と思える「生涯現役」の人間に東社懇で実際に出会ったとき、ぼくはその人を「○○先生」という白々しい「尊敬語」(それとも便利語?)では呼びたくなくなってしまうのだ。  経験ではなく、過去の「経歴」にこだわり、「先生」と呼ばれなければ気がすまない人は、こういう社会教育の水平ネットワークを楽しむことができないのだろう。だから、「生涯現役」であるためのコツは、権威ある者とでもこだわらずにタメグチ(対等な口ぶり)をききあう「子ども心」と、さっきいったちょっとした折り合いをつけるための「大人心」なのだと思う。ついでにいうと、若い?ぼくたちの参入を無条件で歓迎してくれる東社懇の先輩たちの「親心」がぼくにはとても温かい。  ぼくはこれからもmitoちゃんとかミトシさんとか呼ばれたいし、年下に対しても年上に対しても「○○さん」と呼びたい。そう呼び合っている方が居心地がよいからだ。  でも、「先生」は便利な言葉でもある。ぼくも、まだ、あまり親しくないときとか、名前を忘れたときは先生と呼ぶ。また、尊敬しすぎてしまって、どうしても依存せざるをえない相手には「○○先生」としか呼べなくなる。  ただし、あたかも人名のように、先生、先生と呼び合うのは、減らしたいものだ。いつもの笑顔で反省して、10回言っていたのを、7、8回にしよう。ぼくたちは(タメグチきいてすみません!)、何といっても、生涯、成熟途中の現役の人間にしかすぎないのだから・・・・。