神奈川県青少年関係調査研究報告書18  「出会いと交流の場 −青年期の新しい地域活動のあり方」 まとめ フツーの大人のフツーの青少年育成地域活動をめざして 1 自然体の育成活動を  自分でも書いているので、ほんとに手前味噌になってしまって恐縮だが、この本は真実に向かうすばらしいテキストになったと思う。それは、ぼくが書いた部分より、他の全体を通して、「教育とはかくあるべし」というほんとはまったく根拠のない思い込みを振り回す通常の行政資料と違って、自然体の人間が生きていくなかで出会う真実のかけらが散りばめられているからである。この本を手にしたあなたはラッキーだ!  これは、とりわけ、編集を担当された神奈川県青少年総合研修センターの原淳二さん自身が、飄々とした自然体の人だからだと思う。こんなところに担当職員の個人名を挙げるのはどうかとも思うが、行政組織の中で個人が「自分が書いたことは自分が責任をもつ(批判を受けて立つということ)」という潔い覚悟のもとに個性をのびのびと発揮していること、そしてそういう個の自由な発揮を許す本センターのネットワーク的経営の双方に対してぼくは支持を表明したいのである。  1章「若者・社会参加活動・地域の理解」のV「若者にとっての地域」では、「自然体で若者とともに暮らす」として、次のような青少年指導者のフツーな発想が紹介されている。  ??私が暮らす地域を考えたときに、そこには大人がいて、子どもがいて、若い人がいてと、いろんな年代の人がいて当たり前なのに、とくに若い人の姿が目に入らなくなってしまいました。そのことをあまりみなさん考えようとしない。学校にお任せ、学校に行っていれば安心というが、学校からはみ出した子どもはどうするか。そう考えたら知らん顔はできません。??  ??機会があれば、どの年代の人ともお付き合いしたいと思います。この年代の人とは付き合わない、付き合いたくないというのは不自然でしょ・・・・。私自身、だんだん歳をとるにつれて人生が面白くなってきたので、若い人たちにも、これから楽しいことがいっぱいあるんだよという気持ちが伝わればいいですね。??  このようなフツー感覚が青少年育成活動に求められているのだ。本節では、「若者を対象とした行政関係の行う事業に人が集まらないのは、集団を強制されかねない匂いを感じさせてしまっているからかもしれない」とあるが、もしそういう危険な事業があるとすれば、そこにはフツーの若者が集まらなくなる現状の方が、若者たちが精神的に健康である証拠といえるのである。  本節の締めくくりの文章は、「フツーの大人」のための青少年育成地域活動の新しいあり方を次のようにさらりと表現しきっている。  ??一人でいたいときは一人でいればいいし、人の温もりがほしくなれば、ふれあいと交流のネットワークのなかに身をおけばいい。地域は学校や職場とは違って、フツーのオジサンやオバサンとフツーの若者とが、自然体で付き合いができうる場所である。保護や管理とは無縁な、個と個の対等な交流が可能な空間であり、そこを舞台にしたさまざまな活動が現に行われている。そんな若者と大人たちに対して、行政や各施設がシステム的に連携・対応し、若者たちにとって「出会い」「交流」「くつろぎ」「癒し」となるような活動を支援できないものだろうか。??  人間は、自己否定の上で自己変容に向かうのではない。それなのに、今までの教育はややもすると、「生涯にわたって一瞬も怠ることなく学ぶべし、成長すべし」という無茶なことをいってきた。学ぶということは、自己変容するということであり、自己の枠組み自体が変化するというダイナミックな営みを指す。そういう学びを可能にする基盤としては、自己嫌悪や自己否定ではなく、むしろ、自分と相手のあるがままを基本的には肯定的に受け入れる自他受容の状態が必要になるのである。これが自己変容につながり、自己決定の生涯学習につながる(●図1)。文中の「フツーのオジサンやオバサンとフツーの若者とが、自然体で付き合いができうる場所」というのは、こういう気持ちのよい自然なサイクルが成立する条件を示しているといえよう。  また、3章「出会いと交流の実践」のV「友だちとオシャベリしてますか?」(茅ヶ崎市中学生広場)では、「君たち中学生が自由に使える空間(フリースペース)として用意しています」というメッセージのもと、「来たい者だけが来る」というスタンスで中学生の自由な活動が行われている。「せっかく苦労してやっているのだから」というのは大人の立場で、「面白ければ行く、つまらなそうだったら無視する」のがごく当たり前だという。それを支えている青少年指導員は次のように述べている。  ??学校はしばしば生徒を授業と部活で囲い込みたがり、その管理からはみ出した者は学校との接点が希薄になりがちである。そんな子たちとも接点を持ちたい。??  ??子どもたちを理解したい、子どもたちと接点を持ちたいと思っているのは大人たちだけで、普段子どもは別に大人を理解したいとも話したいとも思っていない。それを前提に、子どもたちに何をしてやれるのかを考えている。??  気負いのないこういう「育成活動」のなかからしか、新しい世代間共生の道は開けないと思われる。今回、育成活動がまだ生命力を発揮し続けている少年対象事業ではなく、「青年期の新しい地域活動のあり方」にテーマを絞ったこともかえって幸いしているのかもしれない。  なお、ここで何が「フツー」なのかについて予告しておきたい。学校に行きたくなくなるときもある。人生の無常を感じて自殺したくなるときもある。退屈な日常生活のなかで、つい、はめを外し、それを自己抑圧しようとしてある種の依存症になることさえある。それがフツーなのであって、「頑張らなくてはいけない」、「人並みでなくてはならない」、そして「つねに健全でなくてはならない」という方が、よく考えてみるとフツーではないということに気づくのである。  つまり、ここでいうフツーとは、自然体の人間の姿であり、ときにはエゴイスティックで、そのくせ弱い、危なっかしい状態である。それから、もうひとつ・・・・。「ちょっとヘン」ぐらいがちょうどフツーぐらいである。この現代においてヘンじゃない人、つまり画一化された人間像で生きている人がいるとしたら、気持ち悪い。ぼくは、そんな人はほんとうはいないと思う。いるとしたら、その人は周りに無理して合わせているだけなのであって、内心まで穏やかに過ごしているわけがないと思う。 2 地域と人間の真実に出会う  狛プーにはぼくも毎週木曜日楽しみに関わっているのだが、そこでの話しを一つ。ある青年が、開講して半年ぐらいしてから、半年前のお誘いのチラシを持ってやってきた。そのチラシを見ると、ちょっと大袈裟だがぼろぼろになっている。来ても来なくてもどっちでもよかったから無視していた、というのではないことが一目瞭然だった。あるいは、狛プーに来始めて1年ぐらいたった青年が、「mitoさん、じつはぼくはこういうふうに参加する前、公民館の玄関まで来てやっぱり帰ってしまうということを何回も繰り返していたんですよ」という。  これを「山アラシジレンマ」という。近づきたいけど、近づくと、その棘で相手を傷つけ、自分が傷つけられる恐れがあるのだ。この恐れをぼくは人間関係の深い真実として認めたい。「そんなに臆病なことではだめじゃないか、恐れを知らずにチャレンジしなさい」などという無責任なことをいう気にはなれない。いままで、「だれとでも仲良くなりなさい」、「みんなに心を開きなさい」、しかも「人に迷惑をかけないような人になりなさい」などと、あまりにも無茶なことをセットにして要請され続けてきたものだから、かえって、そのアドバイスとは矛盾する人間関係の真実の方を嗅ぎ取ってしまって、恐れおののいてこじんまりと生きていると思われるのである。大人は、そして地域は、空しい言葉を青少年に繰り返すのではなく、もっと自然体のわれ(我)の内側から発する真実の言葉をぶつけるようにしたらどうか。  健全とは「ものごとに欠陥やかたよりがないこと」だという。そんな馬鹿馬鹿しいことをめざすよりは、山アラシジレンマのなかで生きる現代人の姿などの、人間の真実の姿に出会っていくことの方がよっぽどおもしろいし感動的だ。  1章「若者・社会参加活動・地域の理解」のT「大人になること」では、「大人になる気構え」自体がこんな世の中でそう簡単には健康的、肯定的に育まれるはずがないということを、調査データも数多く示しながら、次のような例を挙げて訴えている。  ??グループのもつ厳しい閉鎖性を実感している中学生には、グループに分かれてワイワイやって昼食を食べているクラスは「あまり仲がよくない」と見える。??  ??彼らにとって「自分らしく生きる」ためには、意識的に接する世間を狭くして、同質の仲間とぬくぬく暮らすことしかない。??  個が自己抑圧され、管理下におかれる現代社会においては、同僚同士で飲み屋で上司への不満をくどくどと言い合って鬱憤を晴らす大人と同じような習性を、子どものうちから身につけなければならないのだろう。それは、それなりに、組織や社会から個を自己防衛するための、悲しい、一定の側面での真実の姿というべきだ。だから、「グループに分かれてワイワイ昼食を食べる」などの大人好みの「仲良しの子どもたちの姿」については、もしかしたら、「仲がよくない」という彼の見方の方が真実なのかもしれない。  「大人になる気構え」どころか、「加齢したら社会に出なければならない」という「あきらめ」こそを、じつは、これまでの社会は目に見えないところで青少年に要請し続けてきたのではないか。その真実を本能的に敏感に察知しているからこそ、進歩のない同質集団に逃げ込み、「気構え」というより「諦観」というべき、それなりに高尚な人生哲学(彼らがそれを潔く受け入れていればの話だが)を体得してきてしまったのではないか。ヒエラルキー、ピア、ネットワークの三者を比較して図示しておきたい(●図2)。  本節は次のように続く。  ??地域や地域社会という言葉にコミュニティを感じ、それが好ましいとイメージするが、それは必ずしも現実の生活感覚のなかから出てきたものではない。??  ??ことさらに地域生活を必要な者として意識しないでもすむ若者にとっては、今の時点は地域生活を営むための準備期間と考えるべきで、大人にとって日常生活圏たる地域をもって若者の地域概念とすることには無理があろう。??  ぼくは思う。たしかに、「日常生活圏たる地域」という雑多な事実の集合体が生み出すものは、「好ましい」と一面的に評価できるような代物ではない。エゴであったり、助平であったりする。しかし、だからこそ「日常生活圏たる地域」は真実の姿が渦巻く興味深い世界であるとして受容する以外に、大人も若者も、地域に生きようとする生産的な「気構え」をみずからの内側に育めるはずがない。  そして、もう一方で、現実の生活感覚から遊離したところから若者が発想する「コミュニティ」も、また、人間という存在の真実が求めているこれからの地域のあり方を示しているといえよう。しかし、そのための地域変革も、やはり、地域がアンビバレンツ(両面価値)な真実を有することを若者たちが受容するところから始まるのである。  このように、地域と人間の真実に出会うためには、ひとつの大きなコツがある。それは、「完璧であろうとするのではなく、いい加減であれ」である。いい加減はよい加減なのである。 3 対象から主体へ、対策よりも支援を  2章「新しい共同性と地域活動のあり方」のT「都市青年の抱える諸問題」(芳賀学)では、現代青年の「自分らしさ」重視、私生活主義の深まりが指摘された後、「現代において個人が確実に制御できるものは、自己の努力しかない」という努力至上主義、「傷ついた自己を明かしあい癒しあうやさしさ」から「お互いを傷つけあわないようにするやさしさ」への変化、そのために意見を他人事やフィクションのように語る「和」のコミュニケーション・スタイルなどの努力が悲しく積み重ねられていく様子がまざまざと示されている。芳賀は、「自分らしさとは、自由に書き込みができるがゆえに、何物にも確定しがたい空白」として、現代青年の「自分らしさ」重視のライフスタイルが内包するパラドクスを衝いている。  さらに、芳賀は、深いコミュニケーションに付随する「不自由=しがらみ」から解放された、コンサート会場、サッカー場、ディスコ、電話風俗、パソコン通信などの、「親密さと自由を同時に感じさせる場」の現代的意義を説く。そして、商業ベースのそれらの欠陥を乗り越えるものとして、現代青年のアイデンティティを支える地域の役割に期待しつつも、次のようにその課題を述べている。  ??青年たちの結節点を形成しうる、魅力を持ちかつ熱心なリーダーたちがどれだけ地域に存在するのか。もし、存在したとして、行政は、果たして彼/彼女らの活動内容に大きく踏み込むことなく、箱(会場)の提供を中心とする環境整備にどれだけ尽力できるのか。これを考えただけでも、この可能性を実現していくには、多大なマンパワーとそれを支える意欲が必要不可欠なことは間違いないといえる。??  同章のU「青少年の新しい共同性」(藤井東)では、いまの子どもたちの「本質的な意味での自分自身と遊ぶことの怯え」の心情を指摘し、次のように述べている。  ??いま子どもたちのあいだに「みんな一緒に」とか、「みんな仲良く」ということが繰り返し教育され、一種の強迫観念のように浸透しています。一人でいることの不安を形成している背景のひとつに、一人遊びの段階の消滅と物との遊びがあるといえそうです。それゆえに、「自分が自分と対話する」という個の確立の契機が希薄になっているともいえます。さらに、学校教育に象徴される均質的、画一的な集団性優先の思考が強制されますから、集団に「合わせる」身体をいかに形成するかという緊張が子どもたちに負荷されているのではないでしょうか。??  さらに、藤井は、地域社会も「大人と商品設備の介入なしに成立するのは不可能に近い」ものになり、学校と同じような指導や集団性の雰囲気を感じさせるという「地域社会の学校化」の実態を鋭く批判している。こういうなかで、「消費感覚が身体化された現在の子どもたちの個別的な感受性」と、「依然として集団的、均質的、画一的な空間としての学校的な感受性」とのずれが日々生成されているとし、こうした「学校・地域・家庭に張り巡らされた大人の視線や教育的視線」を無化する子どもたちのインターネット的な「群れ遊び」といえるスタイルの新しい共同性を次のように評価している。  ??集団的身体から個別的身体へ、と志向している若い人たちの意志は、共同体(集団性)からの自立、個の確立にある。個として自閉せずに、個の独自性は維持しつつ、未知の他者、共同性へと自己を開いてゆこうとしています。そのため自尊感情が育まれています。このような身体を「遊泳する身体」とぼくはよんでいます。??  このような観点から、藤井は彼らが自由に活動できる場・空間の創設を提唱し、また、コミュニケーション革命下の今日、不確かなスタイルのように見える「やわらかな関係性と個別性を核にした若い人たちの新しい共同性」を、「未知な時代の多様な生き方を肯定する」共生への新たな段階としてとらえている。  ぼくは思う。いま、時代が青少年育成に求めていることは、すでに自分の足で歩き始めている青少年の歩く方向を変えることより、「頑張らなくてはいけない」と思い込みすぎているがゆえに自分の足で歩けていない青少年に対して、初めの一歩を励ますことなのではないか。しかも、「頑張れ」ではなく、「気楽に(Take it easy!)」「ドーンと大きく踏み出すことが勇気ではないんだよ」と言って・・・・。これが支援の方向であろう。  もうひとつは、とくに中学生以降の青年に対しては、ヤングアダルト(若いけど、もう大人)としてとらえることである。図書館のヤングアダルトサービスでは、青年の読書ニーズに対して、保護・管理の対象ではなく、知的権利主体の権利として尊重する。青少年育成活動においても、学歴偏重社会のせいで中学生以降の参加が少ないと嘆いてばかりいるのではなく、権利主体として認めることによって彼らの主体性の獲得を支援する必要があるのではないか。「今の青年にそんな主体性を期待しても裏切られるだけだよ」というあなた、あなたの今の主体性だってどこかで認められる場、発揮できる場に巡り合ったからこそ今のようにまで育まれてきたのである。  青年を育成の対象としてではなく、自己成長の主体としてとらえなおすべきであろう。 4 不幸せな現代社会と大人たち  1章「若者・社会参加活動・地域の理解」のU「若者にとっての社会参加」では、従来の主要な青少年社会参加施策のポイントも押さえながら、「過去と相手」のせいにすることによってリスクを背負う種類の自発的行動、たとえば、主体的社会参加から逃げようとする若者の敗北主義を、大人のみずからの痛みも交えつつ、次のように指摘している。  ??どんな大人も(引用者注=つまり「フツーの大人」だったら)、経験的に知識の量なんて、長い人生を送っていくうえでさして役に立たないことを知ってはいるが、とりあえず自分の子どもが「みんな」に後れをとってはいけない、頭一歩抜きんでたいという潜在的強迫観がこの流れを生み出す。??  ??若者だけが社会に主体的にコミットする機会に恵まれていないのではなく、子育て真っ最中のヤンママ(引用者注=ここではたんに若い母親のことか)だって、会社勤めのオジサンだって、家や職場を除けば、そのネットワークは意外に乏しい。??  そんな大人である私たちだが、次のように若者に期待するという。  ??日常の淀みに浮かび、責任を取ることを忘れた大人たちが、若者にこんなことを期待するのも、若者にとっては迷惑な話だろう。だけれど、大人は若者とともに生きざるを得ないのである。??  若者にとっての社会参加、地域活動の疎外状況は、現代社会の不幸に通ずるものである。あるいは、むしろ、その状況は、現代社会全体のおもに大人たちの不幸の反映にすぎないととらえるべきであろう。  そういう状況のなかで、育成活動に携わる大人たちなどは、世にもまれな自己実現と社会的承認と幸福追求の恵まれた機会を与えられた(みずから獲得した)人たちだ。  3章「出会いと交流の実践」のW「ねいちゃるど活動報告書」(斎藤裕子)では、「自然を愛し、子どもとのふれあいを大切にする」活動のなかで、メンバーがどのように自己成長してきたかがよく表れている。  ??参加した子どもたちは、私たちに体ごとぶつかってくる。それを受け止められない自分たちにいらだったり、子どもたちの笑顔に安心したり、帰りがけにお父さんやお母さんに「来年も来ますよ」と言われワクワクしたりと、キャンプ中の私たちの心中はクルクルとよく変化していた。??  斎藤は「いろいろな人間が集まった私たちのサークルは、いろいろな方面に長けた人の集まりでもある」と書いているが、まさにその通りなのだろう。保健衛生に関しては現職の看護婦や助産婦、若く活力あるエネルギーは学生たち、たまねぎ染めや鉄砲づくりなどを得意とする人・・・・。斎藤は次のように願っている。  ??みんな、いろんな事情があるのだから、動ける人が動けるときに活動すればいい。来られなかったといって何か後ろめたさを感じさせないアットホームな雰囲気づくりを大切にしていきたい。??  ここでも、フツーの人たちの自然体の育成活動の楽しさと居心地のよさがいかんなく示されている。 6 フツーの大人たちも幸せになれる育成活動  2章「新しい共同性と地域活動のあり方」のW「研究ノート 青年の地域活動とグループワーク」(菊池裕生)では、「同じ境遇に悩む仲間を獲得し、なんらかの癒しを感じると同時に、様々な集団に帰属する自信を深めていく」グループワークの意義を紹介し、青年の地域活動においては、ワーカーは専門的な訓練を受けた者でなくてもよいとして、次のように見解を述べている。  ??もちろん、既述のグループワークやワーカーの条件をめぐる最低限の知識は必要だが、あくまでワーカーは会の援助者であり、メンバーであることが自覚されていればよい。ワーカーもメンバーとともに成長していけばよいのである。??  そして、このようにして進められるグループワークの場は、阪神大震災におけるボランティア活動と同様、「自ら考え、人とふれあえる場」として、「とりわけ現代の青年層にも欠けているがゆえに重要である」としている。  菊地は、グループワークに専門性が必要であることを力説することによって、それがごく限られた場で行われるようになることよりも、地域のフツーの大人たちも「ともに成長していく」という姿勢でフツーに幅広くユースワークやグループワークを味わうよう望んでいるのだとぼくは思う。  さて、このようなフツーの大人たちも幸せになれる育成活動を実現するためには、どうしたらよいのだろうか。  よく「あなたは、なぜ、生涯学習活動をしないのか」「ボランティア活動をしないのか」という調査が行われるが、必ず「関心はあるけれども、時間がない」という答が圧倒的に返ってくる。だから、そんなことを聞いても面白くもなんともない。  ここで大切なのは、育成活動を含むそれらの活動が、ややもすると「暇つぶし」に近い感覚でとらえられていることである。「そりゃあ、暇のある人はやればいいでしょう。でも、わたし(=フツーの人)にはもっと差し迫ったことがあるので・・・・」という奴隷の習性なり、あきらめのようなものなりがあるのではないか。そうすると、そういうフツーの人たちは、たとえ、育成活動の役員などになる機会があっても、「わたしも我慢して役員を1年やってきたんだから、今度はあなたがやる番よ」という「不幸の手紙」(「この手紙を次の人に書かないと、書かない人は不幸になります」といういたずら)の状態に陥ることになる。この育成活動における不幸の手紙状況を打破し、フツーの大人たちが活動のなかで幸せを手にするためのポイントは何なのか。  3章「出会いと交流の実践」のU「児童文化教室」(松本光世)では、「こども心をヒントに、五感をつかって、あそび心を刺激してみませんか? 意外なおもしろさや楽しくオトナする道が見えてくるかも・・・・」というキャッチフレーズで事業が行われている。  この「こども心」が、地域の中で大人も青年も幸せになるためのキーワードであろう。交流分析でいうと、「こども心」には2つあって、1つは、AC(アダプティッド・チャイルド)で目上の者や権威ある者に従う「適応しようとする子ども心」で、いわば「いい子ちゃん」の心である。2つめはFC(フリー・チャイルド)でちょっとわがままだけれど好奇心にあふれた「自由な子ども心」で、いわば「野生児」の心である。もちろん、「児童文化教室」で青年たちが取り戻しつつあるのは後者のFCの心だろう。  本節には、この「FC=自由なこども心」を発揮するコツが満ちあふれている。この本の読者はほんとうに幸運である。いくつか、きらきらぼくに輝きかけてくる言葉を拾ってみよう。  ??こどもの視点とおとなの視点の“それぞれのよさ”をほどよく混ぜ合わせ、あそび心を加えて、こどももおとなも楽しむもの。??  ??参加の若者たちの反応が刺激となって、また次々と新しい遊びのヒントを思いつくことができるので、まだまだ当分の間、ネタが尽きることはなさそうです。??  ??ひとりひとり、テーマも画材も描き方も、金子みす●さんの詞のように、「みんなちがってみんないい」という感じでした。??  ??ここでの私はウソをついていない気がした(メンバーの感想)??  ??実際につきあっているのは数字でなく、ひとりひとりの若者です。ひとりひとりが、いろいろな事情を抱えています。??  ??いろんな事情を乗り越えて、何回に1回でも来るなんて、物好きで、非合理的で、ちょっと変。そこがなかなか魅力的な若者たちです。??  ??ここに来ている一見ちょっと変かもしれない若者たちは、実は、“ホントにいいおとな”になる素質がおおいにあるのではないか、と、密かに楽しみにしています。??  ??(小学生の教室に若者を誘うとき)「ちょっと大きいお兄さん・お姉さんっていう感じで、ふらっと遊びに来てみれば?」というのですが、とても自然ないい感じの関係でつきあっているようです。??  ??(「日曜児童文化講座」は)“若者からおとなまで”というのがねらいで、お互いに、親子・師弟・上司と部下・・・・という関係でない、若者と大人が横並びでつきあう機会。??  現代社会でも自由な子ども心さえ失わなければ、ここまで「人間っていいな」と思えるような癒しのサンマ(時間・空間・仲間)がつくれるものなのだ。さらに、松本は、地域のよさについて次のように表現している。  ??家庭のように、よくもわるくも感情に左右されやすい濃密な関係ではなく、かといって、学校や職場のように、成績や賃金など何らかの数値で評価されるクールな関係でもない、その中間的な関係のもてる場所??  ??必要に応じて、適度な距離をとることができ、快適な温度を保つことができて、その上、ちょっとした刺激と安らぎがあって、望むだけの自由と関わりがある所??  そして、地域で若者とつきあう大人の役割としては、「自分がおもしろいと思ったことや、魅力あると思った人を、若者に紹介し続けること」として、「おとなは、けっして完成してしまったり、完成したふりをせず、失敗したり戸惑ったりしながら、しかも楽しく生き続けること」と述べている。  「こども心」を回復するコツをちょっとおわかりいただけただろうか(ぼく自身は苦手なので松本さんに習いたいのだが・・・・)。  そのほかに、次のように、地域の育成活動のなかに、外からの風として、若者ボランティアの開放的な刺激を吹き込ませるというのもなかなか魅力的な手である。  3章「出会いと交流の実践」のX「いい汗かいてみない?」(横浜市都筑区キッズ・パーティ)は、親たちの「自分さがし」の場でもある。  ??実行委員のお母さんやボランティアは、家では主婦であり、学生、会社員であるので、都合のつく日に無理なく活動している。そこでは、子どもの居場所づくりとともに、親のたまり場としての役割も果たしており、子育ての悩みを話し合ったり、アドバイスを受けたり、元気をもらったりする場所でもあり、教育相談も受けられる。??  ??母親と子どもを中心とした活動に若いボランティアが加わると、小中学生らは「お兄さん・お姉さん」感覚で異年齢の人間と自然体で接することができる。また、若者が子どもを知る機会になるとともに、学校や職場とは異なった人とも交わりを持つことができ、さらに母親にしても普段話をする機会がまれな若者と知り合うことができる。大人・若者・子どもの三者にとって好都合なのである。??  ??若者が加わることで、母親にとっても子どもにとっても活動に広がりが生まれる。親同士の内輪の閉鎖的ムードに陥ることなく、開放された社会性を持つことができる。?? 7 フツーだからこそ、ワガママだからこその、自立の地域活動  1章「若者・社会参加活動・地域の理解」のV「若者にとっての地域」では、地域を「出会いと交流のステージ」にしようと呼びかけている。そこで、一つ、問題として挙げられているのが、若者のワガママにどう対処するかということである。  ??移動性の高い若者にとって、地域とは、居住空間というよりはむしろ出会いと交流を通じた成人への巣立ちの場であり、彼らや彼らの活動を受け入れ、見守るのが、地域に根を生やした大人の役割となる。??  だから、「彼らはここの住人じゃないからオレは知らないと拒むことは、その地域にとってもマイナス」というのである。そして、次のようなある青少年施設職員の言葉を紹介している。  ??昔は冷房があるだけでも若者が魅力を感じた青少年会館でしたが、今では時代遅れになっています・・・・。現在、彼らの活動を保障してやれるような青少年施設ではないことだけは確かです。ロックバンドなんかは、この象徴的なことだと思います。若者の活動領域が広がっているにも関わらず、そのような活動への対応は必要ないと考えていました。若者のわがままかもしれませんが、そのわがままを聞く耳を持たなかったために、若者一般が離れていってしまったのだと思います。??  しかし、論は次のように進められている。  ??わがままといっても、若者の狭い範囲にのみ通用するわがままを、大人が聞く必要はまったくない。世の中を甘く見て、社会をなめきった言動に対しては、それがもたらす結果を周知させることが必要であり、その先の、それから生じる責任は本人に取らせればよいのである。それが「自由と責任」の社会である。だが、若者が自己を表現しようとし、社会に働きかけようとする意識や行動は、身勝手な世間知らずのわがままとして抑圧してはならない。??  揚げ足を取るようだが、ぼくはこういうことだと思う。大人は、若者のわがままだと思うことでも、誠心誠意聞いてやる必要がある。これを共感的理解のための「傾聴」ということができる。ただし、若者の気持ちは受け入れてあげても、わがままな要望までそのまま受け入れてやる必要はない。(大人との交渉に慣れている青年活動家の一部を除いて)フツーの若者だったら、しかも自分の意見をよく聞いてもらったうえでだったら、そんなことで文句をいうはずがないと思う。傾聴したうえであるのなら、わがままについてはわがままだとさわやかに批判してもよいのである。  若者のわがままの本質をもっと突き詰めていくと、これは、大人も含めた個人と、他者、組織、社会との真実の関係に行き当たるはずだ。ぼくは、わがままには、いいわがままと悪いわがままの2つがあると考えている。いいわがままとは、「自分は自分の思うように生きたい。相手の期待に沿うために自分を曲げたくない」というものであり、悪いわがままとは、「相手が自分の思うように生きてほしい。自分の期待に沿って相手が自分に合わせてほしい」というものである。自立した人間同士のさわやかな関係とは、いいわがままがぶつかりあって、折り合いをつけていく関係をいうのだと思う。わがままじゃないことがフツーなのではなくて、いいわがままなら認めてほしいというのがフツーなのだ。  3章「出会いと交流の実践」のT「インタビュー ボランティア活動と若者たち」では、木村好親さんが、自分にとってのボランティア活動の魅力についてインタビューに答えたうえで、次のように発言している。  ??ボランティア活動は、自分がやりたいからやっている、楽しいからやっているという感じです。ほかに楽しいことがある人はそれをやればいいでしょう。だけども、ボランティア活動は、仲間ができて楽しいですよ」。??  「自分がやりたいからやっている」というのは、なんとフツーで、なんとさわやかなわがままさであろう。生涯学習やボランティア活動は、自己決定が生命だが、それはこのような潔さ、さわやかさにつながっているのである。  同章のY「スペースPOOH」」(吉浜暢恭)では、狛プー(狛江プータロー教室)のプログラムが、毎週木曜日、参加メンバーで話し合って、数珠つなぎ状態で展開されていることが示されている。二次会、番外編、チラシ、活動記録などのそれぞれが、それぞれのメンバーにとって、それぞれの意味を持っているのだ。  吉浜は、狛プーという「自分を写し出す鏡」のなかで、「自分から話しかけないくせに、相手から話しかけてもらいたい私。猜疑心が強く、すぐヘソを曲げる私」と自己への気づきを深め、「ココロをジャブジャブ」洗っていく。そして、「いまどき青年教室なんて開講したって、若いやつが来るわけないよ」という青年事業担当職員に対して、次のように胸を張るまでに至っている。「そんなことはありません。20代の若者が新・新宗教やマルチ商法に集まってくるのはどうしてなのでしょうか」。 いま、現代社会は、画一的物差しで人が上下に競争する学歴偏重社会を乗り越えて、違いを認め合いつつ水平に交流する支持的風土の生涯学習社会に転換しようとしている。この転換に失敗すれば、あとは日本の将来は暗いであろう。成功すれば、本来人間が潜在的にはもっていると思われる共感、信頼、自立の共生能力をおおいに発揮させ、その好循環を可能にしてくれるはずだ(●図3)。そのような大切な課題(現代的課題とよぶ)を先取りして展望を示しうる場のひとつとして期待できるのが、青年期の地域活動である。この活動が、フツーの大人を巻き込みながら、若者も大人も自然体の地域でともに幸せになれるよう、ごく当たり前に育成活動を進めていきたいものだ。 図1 自他受容、自己変容、自己決定 図2 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ ヒエラルキーの側面図   ピアの平面図 ネットワークの平面図     ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ● ● ● ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   (個の抑圧)   (個の規制)   (個の発揮) 図3 共感→信頼→自立→共生の好循環