生涯学習時代における公運審の役割と課題 〜異質が水平に交流する出会いと気づきの公民館活動・委員活動をめざして〜 西村美東士 (昭和音楽大学短期大学部助教授) 〒243 神奈川県厚木市関口808 TEL 0462(45)1055 1 利用者、委員、職員それぞれの主体性による協働 (1) トップ・ダウン論からの脱却を  公民館運営審議会(公運審)は社会教育法第29条によると「館長の諮問に応じ、公民館における各種の事業の企画実施につき調査審議するもの」とされている。しかし、実際の委員活動においては「調査審議」をするだけというわけにはいかないだろう。「調査審議」を中心としながらもそれをとおして、公民館活動に幅広く関わり、よきリーダーシップを発揮することが求められる。そのときの問題は、何をすることが公運審委員のリーダーシップなのかということである。  いうまでもなく、公民館は学習者の主体的な活動によって成立するところである。万一、公運審の活動がそれを阻害するようなものであるのならば、それはリーダーシップとはいえない。ところが、そういう本末転倒な状況もあながちないとはいえないのである。たとえば、「わが町の住民は学習欲求水準が低いから、公運審委員等の高い見識による啓発が期待される」などというトップ・ダウン(上から下へ)の考え方が会議の席上で堂々と披露されたりしている。学習欲求水準が低いということは、自らが生きるということに関心がないということである。いったい、どこにそんな住民がいるのか。そんなことをいう余裕があるのなら、その前に、住民のリアルな学習欲求に気づかない自分のアンテナのお粗末さを恥じたらどうか。住民の潜在的学習欲求を顕在化できない公民館活動の貧困をどうにかしたいと思ったらどうか。 (2) ワン・オブ・ゼム論からの脱却を  上のトップ・ダウン論の裏返しが「ワン・オブ・ゼム(彼らのうちの一人)論」である。「自分たち委員だって住民の一人でしかない」という言葉は、一見、謙虚で民主的なことのように感じられる。たしかに「私は住民の一人である」というのはごく当たり前のことなのだが、それでは、どんな姿勢で公運審活動に臨むのか。そこには、「自分は住民の一人であるのだから、意識せずとも住民の意見を代表できる」という安易な姿勢や、場合によっては「自分は住民の代表であるのだから、自分に反対する者は住民の敵である」という傲慢な姿勢が隠されていないか。住民は「自らが学びたいことを学びたい手段で学ぶ」という生涯学習主体であるが、「ワン・オブ・ゼム論」はそれとは異質な委員としての自らの立場を忘れている、あるいはそこから逃げ出している(この場合は、「よきリーダーシップなんかありえない」という敗北主義)といわざるをえない。  蛇足になるが、職員にさえそういう人がいるのだから驚いてしまう。そんな人は、さっさと辞表を出して、言葉どおり住民の一員として自主的活動を行えばよいのだ。職員や委員は、住民と水平に、しかし、異質を交流しあうべきであって、「ワン・オブ・ゼム論」で住民と同一化してしまうのでは非民主的である。そもそも、住民にだってただの「ワン・オブ・ゼム」はいない。みんな、個性をもった別個の存在のはずである。「ワン・オブ・ゼム論」は、「みんな同じ考え方と意見をもつ仲間だ」というぼくたちが陥りがちな現実逃避の妄想にすぎないのかもしれない。 (3) 公運審と利用者、職員との協働  トップ・ダウン論とワン・オブ・ゼム論の双方からの脱却のためには、次のヘッドシップとリーダーシップとの違いがヒントになる。--ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」であり、リーダーシップとは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」である。(見田宗介他『社会学事典』弘文堂)--。ゆえにリーダーシップは流動的で柔軟なものであり、トップ・ダウンでもワン・オブ・ゼムでもなく、住民が自発的に支持を寄せることによって成立する、異質どうしが水平に交流するネットワークの関係であるといえる。  このネットワーク型の関係を「協働」と言い換えることができる。神奈川県生涯学習審議会答申「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」(平成6年5月)では、次の2つの視点から、行政と民間とのこれからの望ましい関係を「協働」であるとしている。--@役割の違いを踏まえた上で、施策や事業の推進を協力しあうという「役割関係」の重視、A県民を客体(対象)としてとらえるのではない、県民の「主体的参加」の重視--。このように、協働とは、双方の主体性がともに発揮される関係である。そして、公運審活動においても、利用者や職員との協働関係をつくりだすことが必要なのである。 2 公民館で、公運審で、すてきな人間関係を (1) 「1%の批判」を歓迎する  以前、ぼくはある公民館の公運審委員の研修会に呼ばれたことがある。いつもの講演のとおり、開口一番、「mitoちゃんといいます。疑問や反論があったらいつでもぼくの講義をさえぎって言ってください」といった。これを「ちょっと待った方式」と呼んでいる。大学の授業もこれでやっているが、実際に「ちょっと待った」がかかるのは幸か不幸か年間に1、2回であり、授業の進行にさしつかえて困ったという経験はない。ところが、その公運審では様子が違っていた。講義の半ばあたりから、元気印の婦人委員たちのあちこちから「ちょっと待った」がかかったのである。ぼくにとっても刺激的でおもしろかったし、ほかの委員もライブ感覚を楽しめたのではないかと思う。ただし、予定した話をする時間がなくなってしまってちょっと困ってしまったが……。  ぼくは「1%の批判」という言葉(レトリック)を使っている。100 人のうちの1人があることに批判をもったとする。たとえば1%の登校拒否児のように。その「1%の批判」の気持ちは、他の99%の支持的な人も各人が1%ぐらいずつもっているはずなのである。だから、「1%の批判」がのびのびと表明されれば、それは必ず他の99%の人からも共感されることになる(共感は同感とは違う!)。学生がなかなかそれをできないのは、本質的にはあとに述べるピア・コンセプトのせいだと思われるのだが、要は、「これは自分だけの考えなのだから、他の学生の学習にとっては迷惑かもしれない」と恐れるからである。学習はそもそも自分のためにするのに……。そのわりには、他者の学習権を侵害する私語等の行為は無意識のうちに蔓延する。これに対して、さまざまな「1%の批判」(異質の個性)が飛び交う学習の場は、おもしろくなるし、アンビバレンツ(両面価値)である真実により一歩近づく結果にもつながるのである。 (2) ピア・コンセプトの悲しみ  生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、なかなかこの公運審委員の研修会のようにはいかない。それは、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならない「防衛的風土」に満ちているからである。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピア・コンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだが、それは個を自己抑圧して仲間と同一化しようとする意識にもつながりがちなのである。  現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と『出席ペーパー』に怒ったように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。ちなみに、学生の授業中の私語も、ぼくはピア・コンセプトの悲しい表れであるととらえている。熱心に授業を聞いている他の学生への迷惑よりも、仲良しの友達への同調が優先される。また、まじめな学生が、他者の私語を「やめてくれ」といえないでいるのも、「仲間から浮き上がりたくない」というピア・コンセプトの表れである。学習権とは、こういうとき、みずからが必死になってみずからのピア・コンセプトを乗り越えて主張すべき権利なのである。 (3) 信頼と共感にもとづくネットワークを 〜異質が水平に交流する支持的風土〜  公民館や公運審の活動は「防衛的風土」と反対の「支持的風土」でありたい。この風土の特徴は次のとおりである。--@仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。A組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。B目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。(J・R・ギッブ)--。  みせかけの同調をすることが「支持的風土」なのではない。人間は無知であり、非力である。それを自覚(無知と非力の自覚)してもなおかつそれを受容してこそ、自他への信頼と共感が生まれる。自分が、あるいは、特定の人物だけが、真実を完璧に把握しているというはずはないのだ。だから、せっかく思い切って発言したのに公運審全体としては聞き入れてくれなかったからといって不満をもつのも間違いだと思う。自分の話をすべての委員が心から聞いてくれたのならば、それをもって良しとしなければならない。公運審全体という「幹」に対する一委員の「枝葉」としての存在確認とは、どれだけ自分の納得のいく提案の仕方を「自分が」できたかどうかということであり(幹と枝葉)、それが満足できるものならば自分の胸のうちには「さわやかな風」が吹き抜けているはずなのである。これが枝葉同士の「支持的風土」をつくりだすための心構えであろう。  この世のだれが宇宙の全体像を把握しているというのか。しかし、それでも人間は生きている。生きているから真実を知りたいと思う(どこまでも知りたい)(事実より真実)。真実に接近するためには、十人十色、百人百様のたくさんの答が安心して行き交うことのできる支持的風土を必要としている。さらに、その風土のうえでも「私は私、あなたはあなた」という事実は厳然と存在する。しかし、その事実を肯定的に受け入れたうえでさわやかに必要な依存ができることこそ自立の姿であるし、それが異なる自立した価値どうしの交流を可能にするのである(自立と依存の統一)。これこそが信頼と共感にもとづく人間のネットワークの本質的なあり方といえよう。 3 みずからの生涯学習としての委員活動  生涯学習はみずからが学びたいこと(学習・文化・スポーツ・レクリエーション等)を学びたい手段で学ぶことである。根本的には「自分のため」なのである。公運審活動の根本はそれとは違って、委員としての大切な役割を遂行することになる。しかし、それでも、なおかつ、「あなたはなぜ公運審委員をやっているのですか」と聞かれたときには、「自分のためなんです」と答えてほしい。それが一番さわやかなのではないか。ボランティアの場合も同様だそうである。ボランティアは他者や自分自身と出会う行為である。また、「ボランティアは見返り(ただし、微妙で精神的な)が得られる行為」という言葉もある。さらに、教員研修の場合でさえ、「子どもたちのため」や「よい授業をするため」ではなく、「自分のため」といえる教師こそが「本当に必要な研修」をしている教師なのだという。このことは、学習というものの本質を表わしていると思われる。  それでは、公運審活動はどうして生涯学習なのか。1つには、公運審は、ボランティアと同様に、「出会いと気づき」の格好の場になりうるからである。公運審は、自分自身の存在を確認し、また、他の委員からも自己の存在が認知される「時間・空間・仲間」(癒しのサンマ)でなければならない。そこでの地位や肩書きをはずした水平な交流は、本当の意味での出会いだといえる。そのほか、委員活動のなかでのひとやものごととのさまざまな出会いは、とりわけ自己の無限の可能性の一部に気づかせてくれる(出会いと気づき)。これこそが、きのうの自分より、またひとつ、自我が拡大する、枠組が変化するというダイナミックな学習になりうるのである。「受容があってこそ、変容がある」と言い換えてもよい。2つには、公運審は、教師の仕事と同様に、学習支援活動の一環だからである。そもそも、みずから学ぼうとしない、あるいは、学習者とともに学ぼうとしない学習支援活動などが、自己の存在価値をほかに見つけることなどできるわけがないではないか。  本論の後半で、いかにもあやしいレトリック(カッコ内の傍線ゴチの部分)を急ぎ足で並べ立ててしまったが、より詳しくは以下の拙著を参考にしていただきたい。『生涯学習か・く・ろ・ん〜主体・情報・迷路を遊ぶ』、『こ・こ・ろ生涯学習〜いばりたい人いりません』、ともに学文社。 (注) 本論は、平成8年1月28日「第34回東京都公民館大会」の分科会「公民館と公運審」の助言者として筆者が問題提起をまとめたものである。 mito Lネット原稿 Lネット公運.DOC 95/10/30 1