7章 『ネットワークのつくり方』 U 楽しい学習法−生涯学習の基礎づくり−  本章では、人間関係のネットワークのつくり方を考えながら、生涯学習の楽しさに近づいていきたい。 1 奴隷の覚悟をしなくちゃ?    −自発性とは何か−  「もう一つの自分」や「ほんとうの自分」を見つけたい、あるいは「自分らしさを大切にしたい」という現代人の「自分探し」の願望はかなり真剣である。この願望は生涯学習の大きな動機ともなっている。その場合、教育者は本人のもつ無限の可能性を信じて援助するだろうし、社会学者は現代社会において個がいかに疎外されているかを唱えるだろう。しかし、ここではこうした現代人のもつ「個の深み」が葛藤するいくつかの「事件」を通して、その現実にもっと近づいてみることにしよう。 街頭説教事件=大人になってくると、この世が思い通りにはいかないことに気づいてくる。これを「楽園追放」という。ある学生が出席ペーパー(授業中、自由に書くもの)に、つぎのように書いてきた。 S大教育社会学、女 (「自分とはなにかを考え、アイデンティティ=自我同一性を獲得することは青年期の重要な発達課題である」という授業において)人間の短い寿命の中で、「どうすれば自分を見つめたことになるのか」について、私は考える気はありません。「思い切り貪欲でありたい」という欲求に忠実でありたいというのみです。  以前、街頭で心理関係の会社の人に声をかけられ、話をしたとき、「きらいなものはしない」と言い切った私に、彼は勝ち誇ったように「きらいなものはしないというのは子どもです」などとのたまわったのです。こんな話題で悦に入る人のほうがよっぽど子どもではないでしょうか。その方は、「世の中すべて愛ですよ」とおっしゃいました。彼は自分の得たものをかたくなに他に主張して、自分を肯定したがっているだけではないでしょうか。「時間がありません」という私に彼はなおもお説教し、私は待ち合わせに遅れてしまいました。 mito(mitoはそのときのぼくのコメント、以下同じ)  「いやだけれどもやる」という消極的積極性の行為は「きらい」(悪)ではあろうが、現代社会で生きるためには必要(悪)でもある。その説明の前に、この人の「街頭説教事件」に関するコメントをしておきたい。  さわやかな自己主張のコツは「私は今は」である。「私は今はあなたの話を聞きたくありません」ということにでもなろうか。これを自他への信頼に満ちた生産的構えということができる。人によっては、「なんで自分だけがわざわざそんな主張のための努力をしなければならないのか」と感じ、その努力を「きらいなもの」に思ってしまうかもしれない。しかし、他者や社会との関係の中で「きらいなものは(なるべく)しない」という態度を貫くためには、たとえその努力は「きらい」でも、このような生産的構えを自らの内面にはぐくんでいくことが重要になるのだ。  とはいえ、この人の「きらいなものはしない」(積極的消極性)という気持ちの潔さの部分は、現代社会において自我やアイデンティティを守るためにはとても重要なことであり、これからもぜひ大切にしてほしい。しかし、逆に、「きらいだけれどもがんばってやる」という「消極的積極性」は、社会においては「仮面・戦術の必要性」として不可避でもある。ただし、大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、基本的信頼を基調とする仲間、恋人、家族の関係などにまで持ち込まないようにする必要があるということだ。言い換えれば、「消極的積極性」の本質的な問題は、心から自己の仮面と戦術の奴隷になってしまってアイデンティティを見失い、自他に対する信頼感を失う危険に陥ることにあるといえる。だから、「きらいなものはしない」というこの学生の大切な思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すと、いっそう正確でリアルな思考になるとぼくは考える。  「消極的積極性」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極性(仮面・戦術)や消極的消極性(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の覚悟)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」というのは酷だろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定というよりも社会的存在としての人間の宿命なのである。  このことを別の視点から整理・分類すると、次の表のようになろう(●図表1)。主人が「したくないことはしない」立場であるのに対して、奴隷は「したくないこともする」立場である。それは主人−奴隷のヒエラルキー的関係に基づいている。奴隷の覚悟とはすなわち、自己の個が抑圧されることがあっても「負け犬」にならずに、頑張っているふりをしたり(消極的積極)、やり過ごしたり(積極的消極)できることである。そのことによって「自分探し」にとって大切な「今、ここで」というときに(たとえ賃労働のなかでも)自ら進んで個を発揮する(積極的積極)ことができる。つまり、奴隷の覚悟をすることによって、逆に、生涯学習、ボランティア、地域という自己決定の場面などでは、「やりたいからやる」という自己の人生の主人の立場(=主人公)にもなろうと思えばなれるのである。「いつでもわけもわからず頑張っていればいつかは報われる(他者の主人になれる?)」という今までのガンバリズムでは、自己決定型の生涯学習はできない。ネットワークの主体になるためには、まず、ここのところが肝心である。  ぼくは狛江プータロー教室(狛プー)という青年教室の講師をしている。狛プーでは「1年に1回来ればメンバーだ」、「来たくないときには来ない方がよい(潔い撤退)」というネットワーク型の運営が行われている。あるメンバーが「狛プーはありのままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」と言った。しかし、同じ彼が「狛プーはぼくにとって安らぎの場ではない。あるときにはつらい鍛練の場だ」とも言う。そのときのつらさは、奴隷のつらさではなく、それとは正反対の自己決定のネットワークのなかでの自由のつらさだ。従来の主人か奴隷かという「たて社会」(ヒエラルキー)の人間関係のなかで奴隷として適応しようと頑張ってきてしまった私たちには、奴隷ではない者同士の「私は私、あなたはあなた」の狛プーのネットワーク型運営が寂しかったり辛かったりするときもある。しかし、狛プーがそのように職場や学校での奴隷たちにとってのオルタナティブ(あるものとは違うもう一つの)な積極的積極の自己決定によるネットワークだからこそ、狛プーは自由を愛するプータローのこころが交流する癒しのサンマ(時間・空間・仲間という3つのマ)になりえているといえるのである。 2 パソコン通信によるネットワークの知    −事実よりも真実に接近しようとする人生−  ぼくは以前、@孤立化、A没主体化、B物神化というパソコン利用の3つの逆機能を指摘し、それを打開するムーブメント(社会的運動)としてのパソコン通信における新しい知のあり方を次のように評価した。@ボランタリズム化、Aアマチュア化、B個別化、C雑多化、D民主化、E非体系化。そして、そこで形成される「電子的仮想空間」を媒体とする新しい(偶発的学習の)集団がどのような意味でトレンディーなネットワークなのかを考察した。  また、パソコン通信でやりとりされる「ミスマッチ、アバウト、ジグザグ、イージー」の情報から、各自は最初、気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している点を指摘した。頭文字を並べると「MAZE」になる。誤解の積み重ね、いい加減、迷走、気楽などの特性をもつパソコン通信には、硬直化した情報内容にはない良さがあるのだ。そういうMAZE(迷路)としての学習手段を、「いま求めている情報を能率良く獲得するためには不都合に見えても、創造的学習にとっては有効なツール(道具)」として評価した(●図表2)。  さて、そういうMAZEのなかで出会える大切なものとして、事実を伝える情報もさることながら、ぼくはそれ以上に「個の深み」を挙げたい。透明(トランスペアレンシー)と表現されるぐらいにマシンが成熟したあとでも大切なものとして残るのは、コミュニケーション内容そのものであり、まだ見ぬ他者の「個の深み」との偶然の出会いである。だから、パソコン通信だけの出会いでは物足りなくなった人はバーンアウト(燃え尽き)して直接の出会い(フェース・ツー・フェース)のネットワーク(オフラインの集会活動)に走っていく。これはコミュニケーションの成熟化としてとらえればよいのである。  それにしても、このような人びとがそこまでして求め続けるものは何なのか。ぼくはそれを「感動」だと考える。感動するからこそ、きのうまでの自分の枠組みが変化するという本来のダイナミックな学習(自己変容)が成立するのであるが、本人にとっては学習になっているかどうかなどはほとんどどうでもよいことである。それよりもワクワクすること(ワンダーランド・・・・これが生涯学習なのだが)と出会いながら人生を過ごしたいという自然な欲求に「貪欲」だというだけのことなのだろう。  もちろん、感動を生み出すのは他者の「個の深み」との出会いばかりではない。ぼくはさきほど、「事実を伝える情報」も大切だと述べたが、気づいて感動するような事実もあろう。その気づきは、自己の「個の深み」への気づきといってよいかもしれない。そういう種類の事実や「個の深み」などの、その人の人生にとってほんとうに意味のあることがらを、ぼくは事実と区別して「真実」と呼びたい。  魯迅は差別を受けつつ学んでいた日本で、次のようなフィクションを書いている(小説『藤野先生』)。  ??わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。??  じつは、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年に開設されたのだ。また、当時、仙台医学専門学校と同じ構内にある第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているそうだ。この魯迅のフィクションについて、駒田信二は次のように述べている。  ??事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。(中略)同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。??  つまらない事実(ときには虚偽である)を詰め込むためにぼくたちは生きているのではない。だが、今までの学歴偏重の上下競争社会では、社会から与えられたカギカッコ付きの「権威」(地位、肩書き)や、その権威を代弁するマスメディアが大量放出する「事実」という「権威」にぼくたちの内面はややもすると従おうとしてきた。しかし、他方で古くから人びとが愛してきたこの魯迅の著作などに見られる小説的真実や、パソコン通信のなかでの「善と悪」の入り交じったコミュニケーション内容は、そういう「権威」に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)として、学歴偏重社会の価値観に異議申立てをしている。すなわち、これらは生涯学習社会への転換を進めるためのカウンター・カルチャー(対抗文化)としての役割を果たしているのである。  このように心から感動できる真実と出会うためには、ぼくたち自身が、ヒエラルキーが依拠する制度上の権威に惑わされずに、それを「ケッ」と言って笑い飛ばし、自立的な価値を有するもの同士で水平に交流しようとするネットワーク・マインド(対等な考えや態度)を身につけることが必要である。そういえば、パソコン通信で外側から与えられた地位や肩書きを振り回す人は、江戸時代の馬鹿殿様や、部下を従えてふんぞり返って大蔵省の廊下を歩く幼稚なエリート官僚たちと同様、物笑いのタネだ。これに対して、知的世界に遊ぼうとする人は頭が柔らかく(エッグヘッドという)、権威主義者をからかってジョークを飛ばすネットワーカーのはずである。そもそも、学問だって、世俗の権威を超越した世界になければならない。宴会の席順を争い合うような研究者がいたらお笑いぐさだ。  学生の就職戦線においても、この事実と真実の峻別は重要である。採用試験などは、「人間万事塞翁が馬」の代表格であり、また、事実(合否)と真実(実力)は必ずしも一致しないものだ(●図表3)。そういうとき、みずからの真実を大切にする生き方こそ、客観的にはもっとも幸福を追求する生き方といえるのである。  合格は不幸?事件=この事実と真実の対応表について、授業で「Vは問題ないよね」と軽く流そうとしたところ、ある学生から「個の深み」あふれるレスポンス(反応)が「ちょっと待った方式」(授業中いつでも勝手に反論してよいというシステム)で提示されたことがある。  S大の男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたのだ。Vとは受かる実力もないのに、事実としてはたまたま運良く(?)受かってしまった場合だ。彼がいうには、採用された後、自分の力不足のために仕事の相手や仲間に迷惑をかけ続けることになり、劣等感も刺激され、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、他の学生も、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達に申し訳なくて会うことができなくなるし・・・」という。  このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまった。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決める非主体的な態度(敗北主義)としてぼくは批判していたが、どうもそれだけではなく、現代青年のもつそれなりの繊細な深みもあると思われた。  そこで、Vについてのぼくの意見をまとめておこう。もし採用試験に「はからずも」(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで「正当な劣等感や罪悪感」(真実)をもつことは本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた能力を発揮できるようになるかもしれない。  生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習(リカレント)を社会的活動に入ってから継続できる人なのかどうかのほうが重要になる。思うにこれは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということなのかもしれない。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その「自己への厳しさ」という持ち味(真実)を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうる。 3 ピアコンセプト=仲間意識って何だ?    −協調や仲良しよりも知的水平空間のネットワークを−  みんなも事件=「みんなのために」とか「みんなだって」とかいう認識が、みずからの個の発現を自己抑圧する結果につながっている。ひとつの事例を挙げてみよう。 S短大教育社会学、女 先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読み上げてほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな? mito そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということがあなたにとって重要である。実際、あなたの希望とは逆に、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。もともと匿名であるにも関わらず「みんなの前で読まないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなたがそのように潔くできるのならば、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。  生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピア・コンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識(卑屈な自己疎外!)にもつながりがちなのである。  現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と出席ペーパーでぼくに怒りをぶつけるように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。ちなみに、学生の授業中の私語も、ぼくは仲間意識の悲しい表れであるととらえている。熱心に授業を聞いている他の学生への迷惑よりも、仲良しの友達への同調が優先されるからだ。また、まじめな学生が、他者の私語を「やめてくれ」といえないでいるのも、「主張することによって仲間から浮き上がりたくない」というピア・コンセプトの表れである。これではまさに「みんなぼっちの世界」だ。  このようなピア・コンセプトによる卑屈な自己疎外の事例は、今日の生涯学習の場でも無数に出現する。ピアコンセプトは、ヒエラルキーの支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだろうが、ピアだけでは残念ながら本質的な問題解決にはつながらない。かえって、現在のたての人間関係(ヒエラルキー)を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくるだけの結果になったりしてしまうのだ。ピアコンセプトはネットワークへの情的動機の一つであるとは考えられるが、ネットワーカーたちは、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心とともに、これらのみずからの内なるピア・コンセプトをも意識的・理性的に乗り越えなければならないのである。ヒエラルキー、ピア、ネットワークの相違を表に示すと次のようになろうか(●図表4)。  もちろん、ネットワークは冷たいこころのものではない。むしろ、ほんとうの意味での信頼の関係といえる。それは「防衛的風土」とは反対の「支持的風土」に基づいている。この風土の特徴は次のとおりである。??@仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。A組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。B目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。(J・R・ギッブ)??。  みせかけの同調をすることが「支持的風土」なのではない。人間は無知であり、非力である。それを自覚(無知と非力の自覚)してもなおかつそれを受容してこそ、自他への信頼と共感が生まれる。自分が、あるいは、特定の人物だけが、真実を完璧に把握しているというはずはないのだ。だから、せっかく思い切って発言したのにネットワークの仲間たちが聞き入れてくれなかったからといって不満をもつのも間違いだと思う。自分の話をほかの仲間が心から聞いてくれたのならば、それをもって良しとしなければならない。  ヒエラルキーがツリー(樹木)であるのに対して、ネットワークはリゾーム(地下茎)になぞらえられる。しかし、ネットワークの全体を幹と考えれば、やはりネットワーカーの一人ひとりは「枝葉」にすぎない。そこでのネットワーカーの「枝葉」としての存在確認とは、どれだけ自分の納得のいく提案の仕方を「自分が」できたかどうかということであり(幹と枝葉)、それが満足できるものならば自分の胸のうちには「さわやかな風」が吹き抜けているはずなのである。これが枝葉同士の「支持的風土」をつくりだすための心構えであるといえよう。 4 枝葉としてのネットワーカーの心構え    −積極的積極と積極的消極の連動と連帯−  ぼくは、ネットワークの特性は自立と依存の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って孤立でもない。一つひとつの大豆が集まって納豆という一つの味になるのだ。それぞれが一つでも十分意味のある大豆同士がかそけき柔らかな糸でつながっている。納豆が嫌いな関西人だったらお好み焼きにたとえてもよい。  ヒエラルキー、ピア、ネットワークのなかでの個人の存在価値を、個人の視点から表してみた(●図表5)。たとえヒエラルキーのなかにあっても、自己の位置を外側から客観的に説明できるようになることを自己客観視、あるいは自己への気づき、自己認知ということができるだろう。自己客観視(人類と自分との、世界と自分との、宇宙と自分との!)は学習や学問の重要な目的のひとつだ。  本図のネットワークにおいて個人が存在価値をもつためには、個人の視点からいうと、その人は他者に対して「さわやかな自己主張」と「さわやかな依存」ができなければならない。「さわやかな自己主張」とは、自分と相手の両方の存在を認めたうえで攻撃的にならずに「私は〜したい」とみずからを主張することである。「さわやかな依存」とは、相手の得意とすることについては、相手が喜んで受けとめられるように、「お願いね」と言って相手に寄り掛かってしまうことであり、なおかつ、双方に生産的な構えがつくられる場合をさす。主張は自他への基本的信頼感に基づくものであり、依存はそういう信頼感によるギブ・アンド・テイクの心地よい双方向交流である。  連帯連動勘違い事件=そして、もうひとつ、ネットワーカーにとって重要な能力が、先に述べた「積極的消極」であり、「潔い撤退」だと思う。これに関して、授業で「積極的積極と積極的消極は連帯できるのではないか」と言ったところ、次のようなすばらしい勘違いのペーパーが提出された。 T大U部社会教育計画、女 (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」と前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。mito先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定、潔さが持てるのだと思います。 mito  ぼくが言ったのは、Tの人はUの人とではなく、Wの人と連帯できるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは自己の内部で連動関係にあるということである。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということなのだ。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人は「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がない。それよりも、「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会において、この学生のいうように撤退の権利をさわやかに行使する根拠になるということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。  この「潔い撤退」については、現実の人間関係においてはさらに複雑な様相を示すことになる。なぜなら、自己決定できるのは自分のことについてであって、他者のことについてまで決定できないからである。それが「枝葉」としての個人が決定できることの限界である。ネットワークにおいて枝葉は他の枝葉に対してどのようにふるまえばよいのか。次の事例を通して考えてみたい。  狛プー曜日事件=狛プーは木曜日に開かれる。木曜の夜が「狛プー曜日」だ。ところが最近ずっと出れなくなってしまったあるメンバーから、「自分の職場では木曜は恒常的に残業が続くことになってしまった。狛プーの曜日を、社会一般でいわれているノー残業デーの水曜などに変えてほしい」という提案が狛プーにされたのだ。狛プーは「1年に1回来ればメンバーだ」という方針でやっているから、いつでもだれでもふらっと参加できるように、なるべくなら数年間問題なく続いている今までどおりの木曜にやりたいという気持ちがほかのみんなにはある。また、もちろん、残業を恒常化させる賃労働のあり方という社会の問題もあるし、狛プーお得意の「この指とまれ方式」の番外編で自分の都合のいいときに人を集めるという手もある。しかし、彼は本番の狛プーに出たいのだ。さあ、どう考えればよいか。  提案した彼は「自分でメンバー全員に電話アンケートをするので任せてほしい」と言う。これが「枝葉」にできることだ。みんなも賛成した。ただ、「その結果をみて、責任もって自分が曜日を決めるから任せてほしい」とも言った。これはだめである。最終決断をするのは、残念ながら自分一人ではなく、あくまでも狛プー全体の意思という、ネットワーク的であるほどやっかいさの増す正体不明の「幹」なのである。  ところで、彼の提案には2つの動機がある。「自分の職場では」と「社会一般では」だ。ぼくは前者の動機を支持した。後者は、中小・自営などの多くの青年にとっては関係ないことで、「社会一般では」などという言葉は意外に当てにならないのだ。それよりもみんなに電話するなら、「自分は木曜日に出れないのが残念だから曜日を変えてほしい」と率直に言って同意を求めた方がよいだろう。ぼくがそう言ったところ、メンバーからあっさり総すかんを食らってしまった。「一般の青年たちにも都合がいいというならともかく、そんな個人的な事情じゃ、ただのわがままだよ」というのだ。ぼくが「ほかのまだ見ぬ人の心配なんかする必要ないよ。今ここで『来たいのに来れない』と言っている人とみんなとで折り合いをつけられないかなあ」と切り返すと、「だって、1年に1回来てもメンバーなんだから、そういうたまにしか来ない人たちのことも考えなきゃいけないわ」という声。ぼくは「あれっ、へんだぞ。『あの人のために』というのはネットワーク的じゃないぞ」と思ったが、みんなから相手にされず、時間も押していたので、それまでとなった。  ぼくたちは、「わがままであるな」「ひとに迷惑をかけるな」「自分勝手に主張する前に、みんなはどうなのかを考えてみよ」などの「禁止令」を受けすぎていて、主張したり依頼したりする力を去勢されているのではないか。そして、「紳士淑女」になってしまった分、ひとが本来持っていた「折り合いをつける能力」を失いつつあるのではないか。  「枝葉」の人生だって、本人にとってはとってもだいじな人生だ。狛プーは、その人生のなかで出会っただいじなネットワークだ。そのネットワークがいらない人は、撤退すればよい。また、たまたま狛プーと出会えなかった人の心配までする必要はない。そんなことを心配するよりも、今ここで、たまたま出会った者同士がなんとか折り合いをつけようとすることの方が大切だ。その双方が支持しあう温かい努力をしたあとで、よい結果が出なかったときこそ、片方が「しかたない」とあきらめて「潔い撤退」をすべきなのだ。 枝葉としてのネットワーカーの心構えは次の詩に集約されよう。  私は私のことをする。  あなたはあなたのことをする。  私は、あなたの期待に沿うためにこの世に生きているのではない。  あなたも、私の期待に沿うためにこの世に生きているのではない。  あなたはあなた、私は私である。  しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい。  もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである。   (パールズ「ゲシュタルトの祈り」)  これは決して投げやりなコミュニケーション放棄の詩ではない。「あなたはあなた、私は私」という自立の厳しい真実を受けとめたうえで、出会いのために自分が可能な範囲での努力をする者のための詩といえよう。このように、過去や他人のせいにすることなく、「自分のできることをできる範囲でしようとする生産的な姿勢」が枝葉としてのネットワーカーに求められているのだ。 5 気づきと癒しのネットワーク    −不信と孤立の同質上下競争から、信頼と共感の異質水平共生へ−  世間なめてんじゃない?事件=アイデンティティの獲得のためには、自己の可能性を実現するとともに、それを他者が認知してくれている状態が必要になる(自己確立=自己実現+社会的承認)。しかし、学歴偏重社会のこの世の現実は、むしろたがいに競争相手として、すなわち傷つけあう他者同士として、存在しあっているかのようである。次の事例も「傷つける人の悲しさ」を如実に表している。 S大教育社会学、女 高校を卒業して初めて行ったバイト先で、同じバイト先の大学生に、とてもひどいことを言われたんです。「進学するの?」って聞かれたので、「音大に行く」って答えたら、「音大に行って何するの? アイドル歌手にでもなるの?」って言われました。ムッとしたけど「教師になりたいの」と答えました。そうしたら、その人は「あんた世間なめてんじゃない?」って言ったんです。きっとその人は、音大という所は遊んでいても卒業できると思っているんでしょう。それで私が教師になりたいなんていったから、そういうことをいったんでしょうね。でも、私は、小学校からの夢をそんなふうにいわれて、とてもくやしかったし、悲しくて涙が出そうになりました。  この人の他にも、やっぱり、「音大に何しに行くの? アイドル歌手になるの?」って言われます、ちょっとバカにしたみたいに。  一生懸命頑張って入った学校なのに、なんかそういうふうにしか言われないなんて淋しいです。だけど、人は音大がどういう所か知らないから仕方がないですよね。人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば、それでいいと思います。 mito  そのバイト先の大学生のように、相手に言えないはずのことを言う人が、社会にはスパイのように配置されている。さわやかでない、攻撃的な自己主張しかできないタイプの人である。「私は(世間がつらい)」と主張できずに、「あなたは(世間をなめている)」と相手の人格を見抜いたふりのようなことしかできないのである。そういうスパイみたいな人のつらさを共感的に理解して受容できるようなものすごいレベルに到達するまでは、なるべくそういう人の感情には巻き込まれないようにしたほうがよい。  ただ、もう一方で、「人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば」という願望を自分一人で実現することも、人間にとっては残念ながら困難である。人間は自己実現だけでなく社会的承認も得て、初めて自己を確立できるからである。そのためには、音楽を志す自分の生き方を支持してくれる他者を見つける必要がある。  ネットワークにとっては個が重要である。しかし、その個は他者と関わることによってより深まる。上の事例のように傷つけあい、非生産的構えを身につけつつある個人にとっても、同様である。引きこもる若者たちとつきあっているカウンセラーの富田富士也は「人によって傷ついた心は、人によってしか癒されない」といっている。  そこでの癒しのポイントになるのが共感である。共感は同感とは違う。異なる枠組みをもつ他者と心を響かせあうのである。異質が水平に交流するネットワークには、こういう共感のチャンスがみちあふれている。共感は感動に、そして先に述べたような学習につながる。ほんとうの他者と出会いながらも、それと同質化することなく自己の枠組みを変容させる。そのことによって、自他両方への基本的信頼感が高まり、ほんとうの自立が可能になる。このように自立した市民が「共生社会」をつくるのである。これを単純に図式化すると次のようになる(●図表6)。  ぼくは共生=共有+共存と考えている。共に生きること(共生)とは、ひとつには共感などによって何かを共有することであり、もうひとつはたがいに異なる文化や価値観の存在を認め合うことである。ヒエラルキーを中心とした関係においては、ピア・コンセプトとセクショナリズムの関係のように、共有と共存の2つの関係が相互排他的に進められて最後には必ず分裂して破綻することになる。これに対して、ネットワークにおいては、異なりが障害にならず、むしろ歓迎されるわけだから、この共有と共存とは最初から一連のものとして統合的に進められるのである。また「折り合いをつける潜在的能力」ものびのびと発揮されるだろう。  この世のだれも宇宙の全体像を把握していないのだ。しかし、それでも人間は生きている。生きているから真実を知りたいと思う。真実に接近するためには、十人十色、百人百様のたくさんの答が安心して行き交うことのできる支持的風土を必要としている。さらに、その風土のうえでも「私は私、あなたはあなた」というネットワークなりの事実は厳然と存在する。しかし、その事実を肯定的に受け入れたうえでさわやかに必要な依存ができることこそ自立の姿であるし、それが異なる自立した価値どうしの交流を可能にし、共生社会創造の基盤をつくりだす。信頼と共感にもとづく人間のネットワークの本質的なあり方はここにあるといえよう。  最後にネットワークのつくり方をひとことでまとめるとするならば、「いばるな、へつらうな、そして、同質の仲間を求めるのではなく異質の他者を歓迎せよ」ということになるだろうか。 参考文献 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、1991年、237頁。 西村美東士『こ・こ・ろ生涯学習 −いばりたい人、いりません−』学文社、1993年、246頁。 西村美東士「若者にとってのネットワーク形成の困難と可能性」(高橋勇悦編『都市青年の意識と行動−若者たちの東京・神戸90's分析編−』恒星社厚生閣、1995年、155頁〜174頁。 著者のプロフィール  昭和音楽大学短期大学部助教授。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。国や自治体の情報システム関連委員、生涯学習関連委員などを務める。また、狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師など、社会教育現場でも頻繁に活動している。 ●図表1 積極的積極性としての生涯学習 主体・内面 結果・外見 特徴 T 積極的 積極性 自己決定(生涯学習) U 消極的 積極性 仮面・戦術(受験勉強) V 消極的 消極性 敗北主義(被害者意識) W 積極的 消極性 自己決定(無為・潔い撤退) ● 図表2 MAZE ● 図表3 真実は事実とは異なる タイプ 真実 事実 どこが真実か 採用試験の場合 合格する実力 試験結果 評価すべき真実の部分 T ○ ○ 問題なし U ○ × 合否を超えた自己決定の真実 V × ○ ラッキー??? W × × チャレンジした自己決定の真実 図表4 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ 側面 項目 ヒエラルキー ピア ネットワーク 基本的関係 上下 同質 水平 相互関係 支配と服従 仲良し・われわれ意識 自立と連帯 関係性 交流パターン 役割遂行と役割演技 人格的交流と仮面的交流 流動的役割遂行と共生 関係維持の方法 差別的同一化 共同的同一化 異質の交流と受容 経済的関係 従順さへの報奨 見返りを期待しない ギブ&テイク 友達への態度 同調または否定 同調または内面的排除 共感と自己主張の両立 個の扱い 個への外的抑圧 個の自己抑圧 個(個の深み)の発揮 現実への姿勢 勤勉主義 敗北主義 積極と消極の自己管理 個の安定 制度的安定 主観的永続性 変化(可塑性・流動性)の受容 新規参入の条件 競争 排他的 開放的(個々人の自発的意思) 個人的 撤退の状況 敗北 異質化・分派 潔い撤退 意味 依存の心理状態 一方的依存・共依存※3 相互の甘え さわやかな依存 要請される資質 厳しさと従順さ 優しさと協調性 自他に対する基本的信頼感 行動目的 組織と秩序の維持 自己保存 自己実現と社会的認知の獲得 行動原理 現実原則 快感原則 共生欲求に基づく自己管理 学習動機 成長(上昇) 癒し 成長と癒しの統合 自分らしさ 規制と喪失 渇望と挫折 現在の自己の受容と今後の変容 社会的 文化 支配的文化 下位文化 対抗文化 意味 集団風土 防衛的 支持的かつ防衛的 支持的 社会的教育体制 学歴(学校歴)偏重社会 制度としての教育の忌避 生涯学習社会 ※1 この表は、現実の組織や集団の実態よりも、それぞれの概念的な特徴を重視して整理したものである。 ※2 斜体字は筆者がつくったレトリックである。(西村美東士「こ・こ・ろ生涯学習」学文社 参照) ※3 共依存とは、依存する他者を支配することによって充実感をもつ人と、他者を心配させることによってその人を心理的に支配する人との硬直した関係をさす。 ●図表5 個人にとってのヒエラルキー、ピア、ネットワーク ヒエラルキーの側面図   ピアの平面図 ネットワークの平面図     ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ● ● ● ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   (個の抑圧)   (個の規制)   (個の発揮) ●図表6 共感→信頼→自立→共生の好循環 キーワード ネットワーク  網状組織、同じ目的をもった人などの連帯組織。従来からのピラミッド型の組織形態への「対案」としての意味をもつ。ただし、最近の市民の自発的なネットワークなどを「組織」の一形態と解することには異論がありうる。 ピア(ピーア)  同輩、仲間。公式の集団・組織内の正式な関係よりも、「われわれ意識」による非公式な関係を重視する志向に基づく。個人の社会化の促進の場としても機能するが、逆に、個性の獲得や発揮を抑圧する場としても機能する。