「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その7)  −癒しの双方向高等教育をめざして−                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(7)  −Healing two-way Higher Education− 400字×50枚=20000字=40字×500行 1 防衛的態度に追い込む家族関係の病理  ぼくが個人に自己防衛を要請する現代社会の要因として出席ペーパーなどから感じているのは端的にいえば次の3つになる。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピア・コンセプト(仲間意識)。@の家族関係については、「子を持って親になる」という状況が崩れ始め、「子を持ってもまだ大人になれない、なりたくない」という親たちが出現しているのである。今回は、まず、このことについて述べてみたい。 S短大教育社会学、女 1週目  家族の中で、いつも私を「おまえはこういう娘になれ」と強制的な言い方をする人がいた。彼が私のことを「人間的に薄っぺらい」と言っているのを立ち聞きしたときは悲しかった。「彼にとってOK」になることはできず、苦しい毎日だった。顔を見れば否定語がとんでくるという恐怖があった。  私はいい子ちゃんできた子です。なので自分を語調も荒く批判してくる人の言葉を受け流すことができず、まに受けて傷つくことしかできません。でも、mito先生の授業中にいくつか気づいた。私は友だちや恋人に目に見える形での「優しさ」や愛情を求めているということを。 2週目  以前、父に私の存在を非難されました。「おまえなんかいなくたっていいんだ」などなど。書いていったらきりがないのですが・・・・。私が自分の考えをもつことに不満を覚えてきているのかどうか、進学についても反対され、受験勉強のできない環境を作られっぱなしでした。  親の不仲+父親の態度、そればかりでなく、母親から聞かされる話。子どもに聞かせるべき内容じゃないものばかり。誰にも言うことのできない話なので、私が聞いてあげなければならないのですが、私は母の話を聞いていると、母に言ってはならないこと、「なぜ私を産んだの? 苦しい思いばかりさせて!」ということを言いそうになるのです。でも、それを言ったら母を壊してしまうことになります。私にはそれよりも自分ががまんすることで母を守っていくことしかできません。  でも父に対してはまったく別になっています。今ではお父さんと呼べなくなっています。以前は言われたことに傷ついていましたが、今は、自分の子どもをそういうふうにしか見れない父をかわいそうな人だと思っています。  次の授業(3週目)で、このペーパーに対しては何とかぼくがコメントできたことは、一つは、「わたしのことが心配で離婚しないのなら、そんなことは心配しなくていいよ」、もう一つは、「わたしはお母さんと違って幸せになるからね」、という二つのことをお母さんに言ってあげたらどうかということであった。その人の娘としての自立と幸福追求を願って、また教育というものの現代社会でのあり方を考えて、多くの学生の前で(匿名だが)コメントできることは、せいぜいそれぐらいだ。だが、結果的にはそれでよかったようだ。 3週目  コメントありがとうございました。今までの私の行動は間違いではないと自信がつきました。  母にはもう「離婚していいよ」と(私の方が強く願っているのですが)言ってあります。しかし私には弟がいます。まだまだ精神年齢が子どもで、離婚家庭になったらかわいそうだと思ってたんです。弟も別れないことを望んでいました。  でも、今ではあんな父親(この前書いたことばかりでなく、もっともっとひどいこと、人間としてはやってはいけないことをしてる人)の姿を見せたくないんです。私の味わったような気持ちを味わわせたくないんです(でも、それがあったからこそ今の自分があるんだと思うと、あんな父でもそういう意味では感謝しているんですけど)。  私は母に「私は幸せになるよ。お母さんが味わえなかった幸せまで手に入れてみせる」と言いました。母は喜びました。私は母から聞きたくない話をされても母を愛しています。母もです。今では姉妹のような友だちのような母子です。私の幸せは、ただ好きな人と結婚して新しい家庭をつくることなのではなく、「母と一緒に二人だけで暮らしたい」というのもあるのです。父のことで悩んでいても、そう未来を考えるだけで幸せです。それに私には両親以上に私を思ってくれている、おじ、おばがいます。友人もいます。自分だけが不幸なんだと思ったことはありませんが(これ、本当なんです)、今あらためて自分は幸せなんだと思いました。  ただ、mitoちゃんが言ったように、トラウマは残るでしょう。でも、プラスにもっていきます。そのために私は教師をめざします。ちゃんとした動機じゃないかもしれません。きれいごとかもしれない。でも・・・・。  私は中学生のころから父のことで悩んでいました。それがいろんなものにどんどん感染して、毎日が余裕のない心でした。今の子どもたちにも、そういう子たちが多いと思うのです。私は話を聞いてあげたいのです。解決できなくても、軽くしてあげたいんです。教師になることに不安があるなんて言っときながら矛盾ですね(笑)。  子を持っても、なお、親である自分自身が家族や他者から愛されているかどうかのほうが不安なために、大人として、あるいは親として、子を愛することができない親が増えているのである。「子どもがかわいく思えない」という追いつめられた状況のなかで、親から子への暴力や、性的虐待などさえ起こりうる。その具体例を一つひとつここで紹介するわけにはいかないが、親の日常的な不機嫌や夫婦間の不和などは、もっと一般的な状況として蔓延している。 S短大教育社会学、女  mitoちゃんの言っていた「親の不機嫌は子どもに対する暴力」についてほんとうに同感です。  私は毎週レッスンに連れていってもらう車の中で、母の機嫌が悪く、いつも私にあたっていました。私はその時間がとても苦痛で気分がすさんでしまって、せっかく練習していっても、先生のところでまったく弾けなくなってしまうのです。  私が帰ってきて、上手に弾けなかったため一人で泣いていると、その姿を見た父が直感的に母が私に何か言ったのだろうと感じ取り、夫婦でけんかが始まるのです。私が一人暮らしをした理由は母から離れるためでした。でも、またいつか家に帰ると同じことになるのではと思っています。 S短大教育社会学、女  (授業で聴いた子育ての歌の歌詞の)「お母さんに聞かせて」というところがいいですね。私の母なんか、いっつも「なんで?」とか「正直に言いなさい」とか問い詰めるようにしか言わない。「言いなさい」と言われると逆に言いたくなくなっちゃって、ついうそついたりしてしまう・・・・。でも、最近は、なんだかどんどん母親が子どもに見えてくる・・・・。でも、わかんない。これ以上はうまく書けないけど、今日はあてはまることだらけで何か良かったです。 S短大社会教育概論、女  朝、起こしに来るときの母さんと父さんの違いに気がつきました。  母さん 「いつまで寝てるのー。毎朝、毎朝、いーかげんにしなさい!(とにかく怒る) なんにもしないで。(関係ないことまでついでに怒る) 本当、起きたためしがない。(一度もしたことないように言う。私はこれに切れます)」  父さん 「おーい。(40すぎの男が娘に、おーい、ですよ) 2回目だぞー。遅れるぞー。大丈夫かぁー。(心配されたらがんばりますよ) 起きれるかぁー。がんばれよー。(ごめんね父ちゃん、と素直に言える) 歯みがきしちゃうと少しはラクだぞー。(思わず笑っちゃいますよ。ありがとってカンジです) 10分後にまた来るから。(これもとてもうれしい。次来たときは起きてようと思う) がんばっとけー!(もうほとんど起きてる。不思議と・・・・)」  どう思います? ちなみに私は父が好きです。母とは風呂に入りたくないけど、父ならいいです。父のならパンツだってたたんであげる。ファザコンじゃないけど。  上の会話は、妹を起こしに来る両親の声を部屋で聞いたものです。そして妹は父の2回目の声がけのあと、起きてきました。でも、下へ降りて母にまた「遅い!」と怒られました。とうとう朝からけんかです。父さんの努力のかいなし。チーン。  子どもとしては、そういう家族関係のなかで、どのように「自己防衛」したらよいのか。先の「おまえなんかいなくたっていいんだ」といわれた娘のペーパーについて、他大学で、次のようなレスポンス(反応)が返ってきた。 T大T部社会教育計画、女  (酒とギャンブルにあけくれ、「おまえなんかどうにでもなれ」と言うサラリーマンの父について述べたうえで)ちなみに、私も自分が不幸な境遇だなんて思わない。むしろラッキーかもしれない。だって、その分、いろんな心の痛みが手に取るようにわかるから。それに底辺を経験しちゃえば、あとは上がるだけだし。私はこんなことで負けてられないと、いつも自分を奮い立たせています。 T大T部社会教育計画、女  (酒びたりで、自分の受験を邪魔していたのに、いざ進学校に受かると、自分の手柄のようにまわりの人に自慢していた離婚前の父について述べたうえで)最近では、両親が仲良くなかったりして悩んで愚痴をいっている友達の苦痛がわかるようになってきた。その子たちが私の苦しみを完全に理解できないように、私も彼女たちの苦しみを完全には理解できない。当たり前ですよね。おたがい違う人間なんですから。だから、少しでもわかってあげようとすることはできるとわかりました。  これらについて、次の2通りのペーパーがさらに返ってきた。 T大T部社会教育計画、男(過去のU部学生のもぐり)  家庭での不和を苦しんだのだろうが、「私は不幸ではない、ラッキーかもしれない」、「苦しみを知っているがゆえに、ひとの苦しみを理解できる」というそんなとらえかたができてとてもすごいと思う。すごいなどという言葉で相手を見るのは軽率かもしれませんね。  私自身はどうなのだろうか。絶望や困難に向き合い、自分の生き方を通して主題を追求していく。そんな人生を歩んでいきたい。そんなことを、片意地はらず、自然に思っていきたい。 T大T部社会教育計画、男  不幸は不幸でしょ。「それでも自分は不幸だとは思わなかった」というセリフが気になる。気に入らない。「○○のために」幸せになるというようなセリフも気に入らない。まず、自分が一番幸せになろうとしてほしい。自己中心的な意味ではなく。  上下競争の現代社会においては、後者のペーパーも悲劇的だが真実である。「ぼくがもし宇宙で一人で生きているのなら、もっと自分らしさを守れるのに」というペーパーも前にあった。あるとき、過労死をテーマにして、現代社会において主体的に自己を主張し、家族関係や夫婦関係を守ることについて考えるという授業を行ったところ、次のようなペーパーが提出された。 T大U部社会教育計画、男  (過労死について)他人事。どうでもいい。俺に関係ない。自分の親父だったらかなり泣けてくると思うが。でも、過労死だとか登校拒否だとか、そういった他人事について大勢の人間で考えるみたいなところが、この授業の嫌いなところです。ある日、ふっと一人で心の中で考えたり感じたりするのが人間だと思う。大勢の前で口にするなら、それらをすべて証明して、すべて背負ってくれ。たのむ。  過労死だって夫が選んだことだ。嫌なら仕事をやめればいいだろう。それなのに死んだのだから、私はそれでいいと思う。笑ってやれよと思われる。子どもはおまえ(「残された妻」のこと)が支えろよ。でなきゃ、やめちまえと思われる。日本のせいにするなよ、自分が頑張れよと思われる。  ぼくは、これに対して、「この学生も、ほかの人も、自分一人で頑張るなんてことはしなくてよい。どんな人もそれぞれの事情があって生きているのだ。自分の今の気持ちを自分自身が本当の意味で認めてあげられるようになると、優しくなれるのでは」とコメントした。しかし、この学生は、そのコメントではきっと満足しなかったと思う。上下競争のなかで、ガンバリズム(「頑張らなくてはいけない」という精神風土)に毒され、しかし、それだけではとうていどうにもならないという客観的事実に直面し、その事実を認識するための自己客観視(ここでは自己の現代社会のなかでの位置づけ)を避けて、またガンバリズムという不幸な思考方法に戻って、自分の悩みに無理に決着をつけようとする。そんなことの繰り返しだから、「他人事だから俺には関係ない」という排他的、閉鎖的な傾向がますます強まっていく。  そこまで悲観と絶望を深めている現代人は、どのようにしたら、癒しと成長の機会を得て、自己と他者への信頼を深め、上下競争の社会で病んでしまった家族関係を回復する家族の一員としての主体になることができるのだろうか。 2 奴隷の覚悟と自己決定  次に、青年が家族から経済的に自立し、賃労働者等になるなど社会に出て行こうとするとき、逆に「自分らしさを大切にしたい」という願望がかえって強く自覚されるようになる。そもそも、「もう一つの自分」や「ほんとうの自分」を見つけたいという現代人の「自分探し」の願望はかなり真剣である。この願望は生涯学習の大きな動機ともなっている。その場合、教育者は本人のもつ無限の可能性を信じて援助するだろうし、社会学者は現代社会において個がいかに疎外されているかを唱えるだろう。しかし、ここではこうした現代人のもつ「個の深み」が葛藤するいくつかの「事件」を通して、その現実にもっと近づいてみることにしよう。  街頭説教事件=大人になってくると、この世が思い通りにはいかないことに気づいてくる。これを「楽園追放」という。ある学生が出席ペーパー(授業中、自由に書くもの)に、つぎのように書いてきた。 S大教育社会学、女  (「自分とはなにかを考え、アイデンティティ=自我同一性を獲得することは青年期の重要な発達課題である」という授業において)人間の短い寿命の中で、「どうすれば自分を見つめたことになるのか」について、私は考える気はありません。「思い切り貪欲でありたい」という欲求に忠実でありたいというのみです。  以前、街頭で心理関係の会社の人に声をかけられ、話をしたとき、「きらいなものはしない」と言い切った私に、彼は勝ち誇ったように「きらいなものはしないというのは子どもです」などとのたまわったのです。こんな話題で悦に入る人のほうがよっぽど子どもではないでしょうか。その方は、「世の中すべて愛ですよ」とおっしゃいました。彼は自分の得たものをかたくなに他に主張して、自分を肯定したがっているだけではないでしょうか。「時間がありません」という私に彼はなおもお説教し、私は待ち合わせに遅れてしまいました。  「いやだけれどもやる」という消極的積極性の行為は「きらい」(悪)ではあろうが、現代社会で生きるためには必要(悪)でもある。その説明の前に、この人の「街頭説教事件」に関するコメントをしておきたい。  さわやかな自己主張のコツは「私は今は」である。「私は今はあなたの話を聞きたくありません」ということにでもなろうか。これを自他への信頼に満ちた生産的構えということができる。人によっては、「なんで自分だけがわざわざそんな主張のための努力をしなければならないのか」と感じ、その努力を「きらいなもの」に思ってしまうかもしれない。しかし、他者や社会との関係の中で「きらいなものは(なるべく)しない」という態度を貫くためには、たとえその努力は「きらい」でも、このような生産的構えを自らの内面にはぐくんでいくことが重要になるのだ。  とはいえ、この人の「きらいなものはしない」(積極的消極性)という気持ちの潔さの部分は、現代社会において自我やアイデンティティを守るためにはとても重要なことであり、これからもぜひ大切にしてほしい。しかし、逆に、「きらいだけれどもがんばってやる」という「消極的積極性」は、社会においては「仮面・戦術の必要性」として不可避でもある。ただし、大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、基本的信頼を基調とする仲間、恋人、家族の関係などにまで持ち込まないようにする必要があるということだ。言い換えれば、「消極的積極性」の本質的な問題は、心から自己の仮面と戦術の奴隷になってしまってアイデンティティを見失い、自他に対する信頼感を失う危険に陥ることにあるといえる。だから、「きらいなものはしない」というこの学生の大切な思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すと、いっそう正確でリアルな思考になるとぼくは考える。  「消極的積極性」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極性(仮面・戦術)や消極的消極性(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の覚悟)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」というのは酷だろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定というよりも社会的存在としての人間の宿命なのである。  ついでに「街頭説教事件」の彼の「世の中すべて愛ですよ」という言葉は、「世の中すべて愛と憎しみ(と無関心)ですよ」というと正確に言い直すことができると思う。「世の中すべて愛ですよ」というのは、この学生の指摘するように「自分の得たものをかたくなに他に主張」する子どもっぽい主観にすぎない。真実はもっとアンビバレンツ(両面価値)なものなのである。アンビバレンツを受容せずして真実には接近できない。  さて、「消極的積極性」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極性(仮面・戦術)や消極的消極性(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の自覚)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」ということはできないだろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定ではなく、社会的存在としての人間の宿命なのである。  つまり、賃労働に代表されるような職業的な役割遂行においては、潔く奴隷の覚悟をする消極的積極性が必要になるということになる。これには例外はある。貧乏な芸術家や職業革命家などがそうである。また、過労死の問題を授業で扱ったとき、「プロボクサーになろうとしていたときの自分は充実していた。そのときには死をも賭していた」というペーパーがあったが、これなどは職業であるのに積極的積極性(死んでもいいからやりたい!)であるという好事例であろう。  だが、「貧乏な芸術家」などの例は一般的ではない。たとえば、作品が少しでも売れ出した芸術家などは、バイヤーやユーザーなどの他者からのなんらかの社会的しがらみに縛られ始めてしまうのである。まして、一般的な職業においては、「働き甲斐」(積極的積極性)とともに「働かなければならない」(消極的積極性)が不可避である。だからこそ、一般人(ぼくたち)にとって、そういう職業的役割遂行とは異なる「自己決定」の行為としての生涯学習活動やボランティア活動の独自の存在意義が明らかになるのである。  死をも賭しているプロボクサーが「自分探し」のために別に生涯学習やボランティアをするということは、あまり考えられないだろう。問題は、奴隷の自覚に欠けたサラリーマンが、家族や市民の一員としての「もうひとつの自分」を見失い、職業だけを頑張りすぎてバーンアウトしてしまったり過労死してしまったりする点である。この問題については、現代社会における生きる主体性の喪失として、すなわち、積極的積極性と積極的消極性の喪失の問題としてとらえるべきなのである。  以上に述べた意味から、消極的積極性や消極的消極性については、生涯学習やボランティアなどのような自己決定行動の範疇からは外してとらえるほうが思考の発展のためのメリットが大きいとぼくは考える。  主人が「したくないことはしない」立場であるのに対して、奴隷は「したくないこともする」立場である。それは主人−奴隷のヒエラルキー的関係に基づいている。奴隷の覚悟とはすなわち、自己の個が抑圧されることがあっても「負け犬」にならずに、頑張っているふりをしたり(消極的積極)、やり過ごしたり(積極的消極)できることである。そのことによって「自分探し」にとって大切な「今、ここで」というときに(たとえ賃労働のなかでも)自ら進んで個を発揮する(積極的積極)ことができる。つまり、奴隷の覚悟をすることによって、逆に、生涯学習、ボランティア、地域という自己決定の場面などでは、「やりたいからやる」という自己の人生の主人の立場(=主人公)にもなろうと思えばなれるのである。「いつでもわけもわからず頑張っていればいつかは報われる(他者の主人になれる?)」という今までのガンバリズムでは、自己決定型の生涯学習はできない。ネットワークの主体になるためには、まず、ここのところが肝心である。  ぼくは狛江プータロー教室(狛プー)という青年教室の講師をしている。狛プーでは「1年に1回来ればメンバーだ」、「来たくないときには来ない方がよい(潔い撤退)」というネットワーク型の運営が行われている。あるメンバーが「狛プーはありのままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」と言った。しかし、同じ彼が「狛プーはぼくにとって安らぎの場ではない。あるときにはつらい鍛練の場だ」とも言う。そのときのつらさは、奴隷のつらさではなく、それとは正反対の自己決定のネットワークのなかでの自由のつらさだ。従来の主人か奴隷かという「たて社会」(ヒエラルキー)の人間関係のなかで奴隷として適応しようと頑張ってきてしまった私たちには、奴隷ではない者同士の「私は私、あなたはあなた」の狛プーのネットワーク型運営が寂しかったり辛かったりするときもある。しかし、狛プーがそのように職場や学校での奴隷たちにとってのオルタナティブ(あるものとは違うもう一つの)な積極的積極の自己決定によるネットワークだからこそ、狛プーは自由を愛するプータローのこころが交流する癒しのサンマ(時間・空間・仲間という3つのマ)になりえているといえるのである。 3 「防衛→批判→主体性獲得」の双方向教育  このような自己防衛の現代社会において「心に響く」双方向教育をしようとすると、それは、すなわち、「心に響く」=「触れられたくない話題に触れられる」教育ということにもなる。そこで当然のように生ずる学習者からの「反発」に対しては、どう対応すればよいのか。そこでのもっとも基本的な原則として、前年までにすでに述べてきたように、知的水平空間においては批評が歓迎される。そこでの「歓迎」とは、もちろん、癒しを提供するために、そういう反発に対して迎合し、緊張関係を避けるということを意味するものではない。ぼくは、癒しと自立の統合の観点から双方向教育を進めることによって、学習者の「防衛→批判→主体性獲得」のプロセスを支援したいのである。しかし、これがなかなか難しい。 T大T部社会教育計画、女  今日の授業はこじつけでした。御自身でもそうおっしゃっていたようですが。夫婦や性のVTRが、どう大人の指導につながるのでしょう。まず、(mito注・今回の教育目標の)(3)大人に「幸福を配る」とは何ですか。自分の勝手な思いあがりを見つけるんじゃなかったんですか。先生の授業は社会教育のために私たちに自己発見させようとするものだと解釈していましたが、最近わかりません。今日の夫婦のVTRの「相手」と「自分」を大人という共通点で学習者にあてはめるんでしょうか。大人に「幸福を配る」自分とは、その人たちにとって子どもととらえられてしまう自分なのですか。どこに社会教育としての自分の存在を位置するかわからなくなります。それくらい考えるべきですか。いや、先生がヘタです。学生にわかりやすい材料を使っているつもりかもしれないけど、ただ先生が使いたかっただけ。性のビデオとか、先生は何を使ってもいい権利をもっているわけですから。使ってみてから批判されるまで。少なくとも、社会教育としてのVTRとのとっかかりくらい説明してみなさい。VTRの内容だけやりたいのではと言われたくないのなら。それは個人によって得るものが別、などと逃げるな。  少なくとも私は、社会教育の知識をこの授業で得ることを要求している。方法の自由が、先生には与えられているのですよ。私だって、先生の授業において、余談のような、人生について考えられる話は面白く聞いている。しかし、それは「得した」という程度のものだ。もしかして、VTRと社会教育とは、ひと〜〜つも関りがなかったのかしら。もしそうなら、「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。  ヒハンする前に、先生の答を正答としてしまう人もいる。先生は問題を提起した以上、答える義務はあるのでしょうが、それを選ぶかどうかは、その人次第ですものね。私は先生にも変わってほしい。その押しつけがましさから抜け出したいと感じてしまうときもある。影響を与える人ならば、影響を与えられる人になれ。そのためのペーパーだとも思い、感心もしますが(いや、自分のやりたいこと[意図すること]のためということもあるでしょう)、そのすべてに答えようとする姿勢は、悩んでしまう人と共通するものがあるのでしょうか。先生は悩みそうもない。それで、悩む人にはカリスマならぬ変なカリスマ(妥当な言葉が見つからない)になるおそれだってあると思うよ。気になる所だけふれられ、ふれたくない所はふれない人になれば楽でしょうが、そんな人間は人生の発達・成長において困るし・・・。  まとまらないけれど、わかりますか、伝えたいこと。また書きます。  授業で読み上げてもいいけど、勝手に実物投影機で人の字を出さないでください(「人の字=名前と同じ」という注釈あり)。  先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は。  このペーパーは、毒にも薬にもならない社交的な仮面の会話を捨てて、mito的授業の本質を否定的側面からずばりと突いたものだと思う。それだけに、ぼくはかなり動揺してしまった。このペーパーの出たその日のすぐあとの授業で、ほかの学生からさっそく「早く内部葛藤を解決して、いつもの自信にあふれた授業に戻ってください」と注文を受けたり、あるいは、数日後のS大の授業で話題にしたときも、「今日、出席ペーパーのことを話してるみとちゃん、すごいこわいとか思っちゃった。それじゃあ、受けて立ってるんじゃなくて、ただその女の人に文句を言ってるだけだよ。それじゃあ、みとちゃんのこと、よくわかんないと思うよ」と書かれたりしてしまった。かなり冷静を装おうと努力はしたのだが、ぼくの内部の自信喪失がマイナスに反映してはいけない授業という公的な場面で、実際にはかなり反映してしまったのだ。そのことで、そのときの授業を受けた学生にも不快な感情を与えてしまったと思う。しかし、それより、「教師というのは、劣等感を刺激される職業である」と聞いたことがあるが、「ああ、このことなのかもしれない」という気づきがぼく自身には大きかった。こういう場面では、教師は、学生と対等な立場なのではなく、学生の踏み台として利用されるべき立場なのである。「他人が入り込むべきじゃない所までペーパー書いた人が入り込んじゃっているから、途中から読むのがいやになってしまった」というS大学生のペーパーもあったとおり、たしかに、ふつうの対等な人間関係であったら「あなたとは出会わなかったことにしよう」とぼくはこの人にいってもよいのだろう。そして、自己抑制がきかずにこのようにしてすぐ葛藤してしまうぼくが、「暴力とセックス以外の申し入れはすべて受けて立つ」と宣言していること自体、無謀な話なのかもしれない。  しかし、この学生は「また書きます」といってくれている。これは、ぼくにとっては、細いけれども一本の糸がまだつながっているのだという救いを感じさせてくれる文章であった。知的水平空間における批判は相手への基本的信頼に基づく肯定的ストロークの一種だ、とぼくは前からいっているが、それはぼくの強がりにしかすぎないのかなとも思うときもあるが、やはり知的水平空間における他者批判は、相手の存在の否定とは異なる大きな可能性をもっていると思う。また、批判の刃(やいば)はそれが研ぎ澄まされれば、自然に自己にも向いていくものなのである。ペーパーによるこれらの批判をきちんと受けとめることによって(当然、それは批判に無原則的に同調することではない)、「本人の主体性の獲得を他者が援助できるのか」という教育の本質的難問(アポリア)に挑んでいくのもなかなか意味のあることではないかとも思う。  S大の男子学生が、この批判のペーパーやその他のmito的授業への共感や批判のペーパーとぼくのコメントを読んで、「教師との信頼関係も、それが濃密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに拘泥しているどころではない」とし、出席ペーパーシステムに対しても、「出席ペーパーは感想であってもよいことになっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達のために感情を吐き出すためのものではないと考える。感情の吐露に安寧するのは、ストローク(人は信頼しうるものだとする試み)においては有効であろうが、自らが求め学んでいく学生の時期に休息を得てしまって、本当に先々個人という主義を担って生きていかれるのかと危惧の念を抱く」と書いてきた。授業への共感を書くことも、批判を書くことも、ともに感情を表現することにつながっており、それは依存を助長し、主体的な学習をむしろ阻害してしまうのではないか、ということであろう。教育のアポリアとはこのことである。しかし、ぼくは、こう考える。たとえばこの批判のペーパーを書いた学生は、これを書いたことによって今までの彼女の主体性を減ずることになっただろうか。そんなことはないだろう。ゼロかプラスのどちらかであろう。また、批判のペーパーのやりとりを見守っているほかの学生の学習にとっては、「漁夫の利」もあるだろう。それなら教師は教育のアポリアにチャレンジしてもよいのではないか。そして、このアポリアにおいて重要とされる現代社会における個人の主体性の獲得のためにもっとも必要でかつ今は欠けていることとして、ぼくは、他者への関心と、自己と他者への基本的信頼と、他者への共感的理解の3つを考えているのである(これは、他者との同一化や協調とは異なる。むしろ、それらとはまったく逆といっていい)。  それでは、彼女の批判にひとつずつ対応していきたい。  ぼくが自分で「こじつけ」といったのは、むしろ「社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識」についてである。ぼくにとっての本命はあくまでもVTR「教えます、心を伝える会話術」である。上映時間は15分であった。夫に自分の心を伝えられなかった妻や、妻を「おのれの妻」としか認知していなかった夫が、地域活動や社会教育(父親学級)での対等な人間関係のなかで業務連絡ではない「夫婦の会話」ができるようになったという映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。しかし、そういうふうには学ばないという学生がいてもかまわない。「得したという程度のもの」でも、それを意味あるものと受けとめる学生がいたっていいだろう。  この批判のペーパーを読んで、4年越しにぼくの授業に出席しているT大のある女子学生が次のように書いてきた。「mitoちゃんの持ってくるVTRはかならずしもわかりやすいものではないと思う。むしろむずかしいのではないかと思うこともある。(中略)VTRのなかの主体性をなくしてしまっている(そうでない場合もあるけれど)人の状況を見ながら、どんなことが契機になって主体性をとりもどすことができるのかということを考えることも意義があると思っている。VTRのなかの人びとが自分とはまったく考え方が違うとしたら、私はこの人たちの考え方のどの部分は共感ができて、どの部分に反発を感じるのかと考えることによって、いまの自分自身がどんな価値観をもっているのかを知る機会にもなると思う。他人の主体性獲得を援助するためには、援助する側の主体性も大切なのはもちろんのことだと思うし、いろんな人のいろんな事情やちょっとした弱さをそっとわかってあげる(変な言い方)やさしさ(?)も大切ではないかなと思う」。  これに対して、ミニ知識のほうは、このときは「ペダゴジーとアンドラゴジーとの違い」についてであり、これは、ぼくでなくても、他の研究者も注目しているところである。むしろ、これを深く研究している研究者の書いた本を読んだほうがよいだろう。ミニ知識は、学生が教科書を出発点とするなどして書き言葉メディアから学べばよいことであり、ぼくがしゃべらなくてもよいことかもしれない。ただ、彼女に限らず、「社会教育の知識を学びたい」という学生も多いので、折り合いをつける形で、さらっと、ただしぼくの評論をまじえて説明しただけなのである。だから、時間がない場合は、ミニ知識の解説を省略して項目の紹介だけにとどめることもぼくの授業では多い。  「大人に幸福を配る」ためには、「自分の勝手な思いあがりを見つけること」(ぼくの言葉でいうと「援助者側の無知と非力の自覚」)が最低必要条件になる。「大人に幸福を配るとき」も「子どもに幸福を配るとき」も、同様に援助者が「上位の大人でありたい」、「上位の大人でなければならない」という「思いあがり」を捨てることが必要になると思う。それが、社会教育(の援助者)の存在位置である。なお、このペーパーを読んで、ひとつ、ぼくの説明もれに気づいた。「配る」という言葉は、役所や社会教育施設に座り込んでしまって学習者を待っている社会教育職員の受動的な姿勢にたいするぼくなりの批判を表わしている。このあたりは、今までずっと説明を忘れていたぼくのミスである。ぼくがそれに気づいたのは、この批判のペーパーのおかげであり、また、他の学生にとっては「漁夫の利」といったところであろう。  性のビデオなど、ぼくは何を使ってもいい権利(教育権)をもっているわけだが、それを行使するにあたって、ぼく自身が教師としての自分に与えられた役割と自分なりの教育意図を確認するとともに、「批判されるまでは、使ってみる」という姿勢も学生に示している。また、学生から批判されても、ぼく自身がそのVTRを使う自分の教育意図を肯定できるのなら、使い続けることだってあるだろう。しかし、教師が「学生からの批判を受けて立つ」以上に学生(不快を感じている数%の学生)に「配慮」をするとしたら、いったい何を配慮しろというのか。「社会教育としてのVTRとのとっかかり」を説明することの要求はわからなくはないが、彼女はそれに「少なくとも」という言葉をつけているのである。また、「社会教育にどう関りがあるか」ということについても、ぼくが説明したほうがよい範疇もあるし、学生が自分で考えたほうがよい範疇もある。そして、「個人によって得るものが別」というのは、ぼくが逃げのために使う言葉でもあるかもしれないが、事実を表わした言葉でもある。援助者側の価値観とは違う多様な受けとめ方が学習者側に存在してよいではないか。ぼくは「VTRの内容だけやりたいのでは」といわれたっていいのである。なぜなら、そういいたい人は、「出席ペーパー」や「ちょっと待った」や「パフォーマンスタイム」でそういう批判を行う自由をぼくは保障しているからである。今回だって、そういわれたから、このVTRを選択した教育意図を(再度)説明したではないか。学生からの批判や質問にきちんと答えていく双方向性の確保さえ行なえれば、教師はそんなに完璧な計画を立てたり説明をしたりしなくても、あるいは完璧であったかどうか非生産的にくよくよしなくても、高等教育や社会教育ではそれなりに役割が果たせるのだと思う。知的水平空間は、援助者と学習者の協働によってつくりだされるものなのである。  教育学には人文系としての側面があると思う。「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである。だとすれば、mito的授業という知的水平空間などを利用しながら、学習者が主体的に学習するしかない。  ぼくだけが、「大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場」ではない。げんに彼女もこのように問題を提起しているし、そのほか、パフォーマンスタイムを使って(その使用時間についてはぼくと相談のうえだが)、学生は個人の自分なりの問題を提起することだってできるのだ。ぼくの問題選択に不満な人がいるのなら、その人は、ぼくの「立場」に期待するのではなく、自分に与えられた批判の自由をこそ使いこなしてほしい。  mito的授業について「人を崩していくやり方」と書かれているが、崩れるのを恐れなければいけないほどの素晴らしい枠組みをすでに備えてしまっている人などいるのだろうか。また、ぼくは、教育の役割は概念崩しであるとする論にはやや疑問も表明している。どちらかというと、ぼくの表現は、学習者本人の枠組みの変化への「援助」である。  ぼくの授業がつらいという人はたしかにいる。ぼくはそういう人には「無理しないで元気になったらおいでよ」といっている。それ以上のことをいおうとしたら、相手の人生をぼくが背負込んでしまおうとすることと同じになってしまう。学習者が、自分ではなく、ほかの学習者のなかから、「ヒハンができなくて崩れていってしまう人」や「落ちる人」や「教師に信頼度が高くなる人」や「そーだんにきたりする人」や「教師の答を正答としてしまう人」が生まれることを心配することも、同様の「背負込み」の行為だと考える。当の学生にとっては余計なお世話なのではないか。たとえばだれかに相談するという行為は、その人にとっては問題解決に向かう主体的な姿である場合だって多い。「自分のために学ぶ」のであるから、一般化して論じようとせずに、自分の主体的な学習にとってぼくの授業がどう無益であるかを訴えたほうがいいと思う。  「先生にも変わってほしい」とあるが、ぼくがどう変わるかは、ぼくが決めることだ。そして、学習者がどう変わるかは、学習者が決めることだ。たしかにぼくは、「影響を与える人」としての教師の立場にいると思う。しかし、情報化社会において情報に対する主体性としての情報リテラシーが求められるように、マスプロの大衆化した高等教育を受けている学生には、「主体的な授業の受け方」が求められているのである。  出席ペーパーには、「比べられるために書く」ことばかりの被抑圧体験から、「書きたいことを書く」という解放体験への転換という「教育意図」が明確に存在している。しかし、彼女の「自分のやりたいこと、意図することのため」というぼくへの分析には、そのことへの不快感が表明されているのであろう。現代学生には、どうも教師の学生に対する「教育意図」が存在すること自体に抵抗感があるようだ。そういう抵抗感も大切だろうが、それを「教育意図」の内容に対する抵抗感に止揚することが必要なのではないか。また、大学教員には研究という役割もあり、ペーパーを研究成果に結びつけるというほかの「意図」もぼくにはある。しかし、そうだとしても、学生がそれに目くじらをたてることもないだろうと思うのだが、どうだろうか。  彼女がほかの一部の学生を「悩んでしまう人」とレッテルを貼っていることに対しては異議を申し立てておきたい。彼女はそういうレッテルを貼って、「悩んでしまう人」と共感的な出会いをもつことから逃避しようとしているといえるのではないか。「先生は悩みそうもない」という言葉に対しては、「ぼくはそのことについては今は話したくない」という応じ方がぼくにできる最善の対応であると考えたが、どうだろうか。  カリスマ性については、ぼくは、「授業で退屈させる教師」のつぎに悪い教師像として、「学習者の依存的学習を増大させる教師」という規定をしてきただけに、かなり考え込んでしまった。そこで、自信の回復方法として、「信頼している人たちに聞いてまわる」という手段があるのだが、それを実行した。フリースペースで学生にこのことを聞いてみたのだ。すると、「カリスマ性がたしかにある」というのである。「でも、尊敬を感じてしまうのだから、いい意味でのカリスマじゃないですか」という。ちょっと面映かったが、それどころの話ではない。理論的には、教育のアポリアのうちの否定的側面の証明になってしまうではないか。尊敬されているから嬉しいと教師には感じられも、学習者にとっては主体性の獲得の阻害要因になってしまう。しかし、もう一人の学生がこういった。「mitoちゃんにはたしかにカリスマ性を感じるけど、依存させてくれないカリスマだよね」。これを聞いて、「そうだ、大丈夫だ」とぼくは再確認できた。  たとえば、今まででもぼくは、学生が「そーだんにきたり」しても、「ぼくはカウンセラーとしての専門性をもっているわけではないんだから、カウンセリングはできないよ」と「自制」を表明している。そして、「社交的な会話ではない真実の話を聴けることは、ぼくにとっても興味深いから、ぼくのために聴いている」という姿勢を示しているし、学生とは異なるぼくの枠組みを伝えたいとぼく自身が思ったときは、遠慮なくエンカウンターしている。そういうとき、ぼくはとても充実している。ぼくにとっては、学生の相談に乗ることは、水平な出会いの至福が感じられるかなり大きな楽しみなのである。だいたいは、「ああ、この人もこの人なりの理由と事情をもって生きているんだなあ」という実感をしみじみと味わう結果になる。だから、カリスマなのではなく、「相互依存」に近いのかもしれない。一回限りの人生のなかで、人と人とが立場や身分を越えて「同じ人間」という感覚を確かめながら、本当の気持ちが出会うことなど、何回あるのだろうか。また、ぼくは、ほかの学生をシャットアウトして個人の相談にのるということは原則的にはしていない。フリースペースなどで相談を受け、そこにいる人たちで話に加わりたい人がいれば自由に加わるという社会教育的な方式なのである。そして、ぼくが専門性をいかして行なっている相談者に役立つための社会教育的な情報提供としては、「おたがいのあるがままを尊重しあって、開きたい心を安心して開くことができ、いつ行っても自分を両手を広げて歓迎してくれるサンマ」(フリースペースや青年学級)の意義と所在の紹介が多い。  教師は、このようにして、カリスマにならないままで学習者からの信頼を獲得するということができるのではないか。だとすれば、教育のアポリアは肯定的な解決の方向に一歩近づいたと解釈できるのである。  実物投影機で人の字を出すのは、ほかの学生の学習の便宜のためである。「人の字=名前と同じ」というのは、ここでそんなに一般化して断じるほどのことでもないだろう。彼女が「私は自分の名前がほかの学生に知られてしまう危険を感じるので映さないでください」と書いておけばいいだけの話なのである。いや、投影拒否の理由さえもほんとうは書かなくてもよい。堂々と「禁投影」というマークをつけておけばよいのだ。逆に「自分に著作権があるのだから氏名を公表せよ」(著作権の一部としての「氏名表示権」)と要請する人がいてもよいだろう。「非公開」でもかまわない。自分の著作物に限っては、すべて自分の管理下に置いていいのである。なお、投稿などの場合には、「自分の文章の改竄はするな」とはいえるが、「自分の文章を必ず公開(採用)せよ」とはいえない。しかし、mito的授業においては、「公開せよ」と書いてよい。さらに、それに、「禁コメント」とつけ加えてもよい。これらは知的水平空間を実現するためという特殊な事情によるものである。  「○月○日によく考えて読んでください」の期日指定の部分については、ぼくの事情からいえば、授業準備の能率化のためには少し困るところがあるが(即決主義)、このペーパーの場合は、内容が重大であるだけに、ぼくはその要請を受け入れる必要があるだろう。しかし、「よく考えて」という言葉は筆者として読者に直接的にいえる言葉ではないと思う。人との対等な関り合いのなかでは、「余計なお世話」に類する言葉であろう。筆者は自分の説が「よく考えて」受けとめられるように自らが一生懸命書くということ以上のことはできないはずである。実際には、ぼくは、この批判のペーパーを数十回繰り返し読んでいるが、それは、ぼくが何回も読んでよく考えたい内容だったからであり、「よく考えて読んでください」といわれたからではない。何を書くかは彼女の自由だし、それを読んでよく考えるかどうかはぼくの自由だ。  「先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は」というのは、「こんな批判は数多く受けているはずなのに、そういう批判を聞いているのにも関わらず続ける根拠は」という意味だと思う。ぼくは、いまの教育に欠けていることは、学習者に管理や保護を与えることではなく、自由を与えてそれに恐怖する機会を提供することだと考えている。そのことから(批判の)自由を行使する主体性が学習者自身のなかに育つだろう。たとえば、自分が批判したからといって社会がそれにあわせて変わってくれるとは限らないのだ。批判の自由が保障されて、保護され管理されてきた自分にはその自由がなかなかやっかいなものだという現実をまのあたりにして戸惑い、そこから気を取り直して、その自由を使って他者に通じるように自己の思考を表現できるようになることこそ、今後のネットワーク型社会が現代人に求めている主体性なのだと思う。  こういうペーパーに葛藤しながらなんとか対応しようと燃えている自分に気づくとき、ぼくはぼくの自我がなんとかかんとかして拡大しつつあるのを実感することができる(枠組みが変わらないまま関係性をその枠組みのなかに詰め込む自己肥大かもしれないという危険は感じるが)。批判的ペーパーとの出会いは、ぼくにとって意味ある他者との意味ある出会いの重要なひとつなのであろう。そういう意味では、最大の「漁夫の利」を得たのはぼく自身なのかもしれない。