「いい世界だよ」 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 (狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」年間講師)  非常勤でいっているT大の授業で次のような出席ペーパーが出された。  (障害者の妻に支えられながら、訪問看護の活動をし、「欠点をさらけ出して本音で生きる」という内容の)ビデオを見る前、別に関係ないね。見た後、まったく関係ない。こういう内容のものはとくにきらいです。この用紙を出すのは最初なんですけど、授業は3回目です。最初の授業で自分にとても合わないと思い、そのとおりでした。過去2回もすべてが役立たずで、何も得るところがないです。とにかくあたりまえのところでしかない。今回のことについては、主人公のやりたいようにしているのでいいんじゃないの、と思った。それだけだ。  さらに、その人は翌週に次のように書いてきた。  (企業ぐるみのボランティア活動が自立した個人のボランティア活動の補助器になるというビデオを見て)企業だからできることだと思う。サラリーマンは給料でるから。それは個人的なものではないのである。ボランティアでは食えない。個人でボランティアをやっているのはバカである。ある程度のゆとりがあって、やることである。これから何かをやろうとしている若者等にとっては、とっても無駄な時間である。自分の欲を満たさずしてどうする。  この2つのペーパーは、人間的な真実にあふれている。空虚な「あるべき論」などはいっぺんに色あせてしまって、いきなり「さあ、どうすればいいんだ」という本質論に迫ることができる。このペーパーを他の授業で紹介したところ、「そういう自分を隠さずに書けるなんてすごい。えらい」という賞賛の声の方が多数派であった。  狛プーはどうなんだろうか。狛プーのメンバーはまわりの人から、自分が狛プーに参加していることについて、「やりたいようにしているんだからいいんじゃないの」などといわれているのではないだろうか。あるいは、その言葉の背後に「若者なんだから、もっとほかにやることがあるんじゃないの」などという否定的なニュアンスなどを感じて、いやな気持ちになったこともあるのではないだろうか。  ぼくがあるNPO(民間非営利団体)の研修に講師として行ったとき、この「やりたいようにしているのでいいんじゃないの」というペーパーを読み上げたところ、ほかのメンバーが「共感はできないが、ふつうは隠すことを言えるという点はすごい」などと評価するなか、その団体のタイでの少女買春反対のボランティア活動に参加している女子高校生が、「ペーパーの人はボランティアのいい世界を知らないだけだと思います」という反応をあっさりと返してくれた。  彼女の言葉はぼくには新鮮だった。自分自身については、狛プーといういい世界とたまたま出会ったと思えばいいだけだ。また、こういう世界のよさを知らない人に対しては、その人は知らないというだけの理由なのだから、抗弁したり非難したりすることもない。もし、相手の生き方がいかに利己主義的で問題があるかを述べ立てたとしたら、それは過去の「告発型」のやり方と同じになってしまう。でも、「こんなにいい世界があるんだよ」という「提案型」のメッセージだけは、狛プーからこの競争社会に送っていきたいとぼくは思う。(たとえば熟年の人たちだって、平気で狛プーに遊びに来ている。狛プーが若者向きであることをその人がかまわないのだったら、一年に一回だけでも気軽に参加できる)。  それから、もうひとつ、この上下競争社会のなかで水平異質交流の居心地のよい共生のサンマの内実をつくりだしている主体は、狛プーというシステムでもなければ、担当職員やぼくでもない。たまたま「今、ここで」集まっている人たちが創り出しているのだ。もちろん、だからこそ、こわれるかもしれない危うい存在である。だが、今のところはそれぞれの人なりに関わっているのだから、「自分も、このいい世界の作り手の一人である」と思ったほうがよい。 (参考 自著『癒しの生涯学習−水平異質共生のためのシドウ論』学文社)