中野区地域センター部女性・青少年課『えるぶ』(平成9年3月)特集  「若者文化をのぞいてみれば」 何にムカツいているのか?  −癒されない若者文化たち− 仲間とムカツく  「今の若者はけしからん」、「なってない」などの言葉はよく聞く。おもしろいのは、そういう壮年層や高齢者だって、若いときには同じようにいわれて眉をひそめられていたということだ。  「時代は繰り返す、心配しなくても時代は若者文化を取り入れながら進んでいくよ」。さて、ぼくたち大人はこういうふうにいって安心することができるだろうか。ぼくは、今の子どもや若者たちだけでなく、時代や、社会や、そしてぼくたち大人のあり方自体にも、そんな「悩みのない言葉」などいっていられないほどの不幸な状況を感じる。それは、『えるぶ』前号の子どもの虐待の問題を読んだだけでも明らかだ。  若者は何かというと「ムカツく」という。「ムカツく」とは、吐き気がする、腹が立つという意味である。でも、腹が立つ相手に正々堂々と自己主張するのはおしゃれではないと思い込んでいるから、自分をよくわかってくれている「仲良し友達」に、「ムカツいた」と伝える。友達は、タイミングよく相槌をうってそれにあわせてくれる。このようにして、自分の主観的な怒りがそれなりに「社会的に」承認されたような気になって安心することができる。  このように、同質の仲間関係を大切にし、その集団とあわせて仲良くやっていこうとする志向を「ピアコンセプト」という。ピアとは仲良し仲間、コンセプトとは意識という意味である。学校で教わり続けてきた協調心の大切さが、彼らのピアコンセプトをますます強化、自動化(主体的意識なしに同じ行動パターンを繰り返すこと)させる。『えるぶ』前々号では、いじめも、画一・同一を願う「仲間意識」が前提であると指摘されている。そこまでして、つまり仲間集団に無理にあわせてまで、承認してもらわなければならないムカツきとは何なのだろうか。 怒りにならない?  過去の若者文化などの、「良識ある大人たちに眉をひそめられた文化」は対抗文化としての役割を果たしていた。そこには、支配的文化のもつ矛盾や不合理への怒りがあって、支配的文化を支える文化(下位文化)としてではおさまりきれず、社会や文化の変革のエネルギーに結びついていた。このようにして、権威に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)は、学歴偏重などの社会の画一的価値観に異議申立てをする。この場合は、上下同質競争の価値観に侵された文化に風穴をあけ、生涯学習社会への転換を進めるためのカウンター・カルチャー(対抗文化)としての役割を果たすことになる。ところが、ぼくは、今日の若者文化には、そういう健康な反抗心を感じられないのである。若者たちはムカツいているだけであって、怒りといえるほどの感情レベルにまでは達していないのかもしれない。  最近人気の歌には、「自分を信じる」とか「自分らしく生きる」とかの歌詞が多いことに気づく。しかし、その結論は、だいたいが、「君に会えてよかった」、さらには「君のためにがんばる」といって満足して終わってしまう。つまり、個を抑圧する社会に対しては閉ざされ、ムカツきか絶望のままに自己完結してしまうのである。  「自分らしさ」を大切に育んでいきたいという現代人の願望は、今後のしなやかな個人主義社会を創り出すために非常に重要な要素である。現代社会に生きる切なる願いである。しかし、その願いは、少なくともこの歌のような、彼女が見つかってツーショットになってしまえばそれで十分満たされるという程度のみみっちい願望ではないはずだ。もちろん、恋も大切だが、彼女ができただけで「自分らしさ」が満たされるのなら、「自分らしさを守りたい」などというおおげさな言葉は使わないでほしい。同時代の人びとが、「自分らしさ」を守りながら生きるために必死になっているのだから。  死んだ尾崎豊は、「何のために生きているのかわからなくなる」、「手を差し伸べやしないこの街」だけれど「どんな生き方になるにしても自分を捨てやしない」(17歳の地図)と歌った。また、一部の熱狂的なファンを獲得していたエコーズは、「やれるかこんな仕事」といって職を転々と変え、理屈ばかりいってなぐりあいになってほされた街で、つまづいて転んでも起き上がらずに「大地を抱きしめて」街に根ざそうとする若者の「独立記念日」を歌った(デラシネ)。今の若者たちは、そういう音楽文化を支える気はないのだろうか。セックスする年齢は良くも悪くも低年齢化していて、恋愛や肉体関係だって、形だけなら多くの若者が憧れにとどまらずに現実に体験しているはずなのに、ハタチすぎても「彼氏、彼女ができたら自分らしさを大切にできる」などと本気になって歌い続けるつもりなのだろうか。 もうがんばれない  ぼくたちが、杉並と震災前の神戸の青年の意識調査をしたところ、若者たちは「自分には自分らしさがある」(そう思う+まあそう思う=89.1%、n=1116)と答えており、「どんな場面でも自分らしさを貫くのが大切」とさえ多くの者が(同69.0%)答えた。しかし、一方で、自分を大切にしてくれない社会に対して、「自分の努力によって社会が変わるとは思えない」(同64.7%)とあきらめているのである。ところが、「自分の人生は何が影響しているか」について、@生まれつきのもの(生得)、A自分の努力、B運や偶然、の3つの配分をたずねたところ、「現在まで」の典型的パターンは5:3:2なのだが、「将来」については3:5:2になって、努力が生得に勝つことになる(本調査については高橋勇悦他『都市青年の意識と行動』恒星社厚生閣)。  まとめれば、「自分らしさへの関心は高い。しかし、その期待の強さと過信とはうらはらに、自己確立への主体的意欲や自己と社会の客観的認識にはつながらず、やみくもで主観的な努力至上主義で自分を納得させようとする非生産的傾向に陥っている」ということができよう。この主観的な努力至上主義を、ぼくは「ガンバリズム」(勤勉主義)と呼んで批判している。努力重視は国際比較の上でも日本の青少年の顕著な特徴である。このガンバリズムが、若者の「まともな怒りの感情にはレベルアップしえないただのムカツき」の本質的根源だと思うのだ。  だから、あえて若者たちの本当の怒りのおおもとをあげるのならば、多くは、「がんばらなくちゃ、でも、がんばれない」というにっちもさっちもいかない自己循環的なジレンマに向けられているのではないかと思われる。このことは、多くの若者たちは無自覚か、または承認したくないだろうが・・・・。これは、いわば、競争主義を内面化してしまった「いい子ちゃん」のジレンマだ。デリケートでもろい。頑張ることを迫られている客我(客体としての我)と、頑張れない主我(主体としての我)とが混同されているために、頑張れない自分を受容できないでいるのだ。  もっとひどい「デリケート」もある。たとえば、恋愛問題にしても、相手が自分だけを愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないという。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際する若者までいる。それでも、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。自分自身については甘やかしておきながら、相手は罰しているのだ。これをぼくは「他罰のデリケート」と呼ぶ。  ぼくは「淋しがり屋のタカビー」という言葉もつくった。タカビーとは高飛車な人という意味の語である。自分の都合にあわせて相手を生きさせようとしたり、支配したりすることが多い迷惑な人のことだ。当然、愛されないから淋しくなり、ますますタカビーになる。このようにしてタカビーと淋しがり屋の素質は、悪循環を繰り返して強化、自動化される。 癒しのサンマ  「いい子ちゃん」も「淋しがり屋のタカビー」も、いま、癒されようとして必死の「努力」をしている。ヒーリング(癒し)のための音楽を聴く、オイル、ハーブを買う、イルカと泳ぐ、クジラの鳴き声を聞く・・・・。しかし、根本的にはそれだけで癒されるはずがないことは明らかである。本当は、青少年健全育成活動や生涯学習・ボランティア活動こそ、この癒しの場を提供できるのではないか。  従来の教育は、ややもすると対抗文化の発展を妨げる一方、青少年個人には成長・発達ばかりを期待してきた。学校歴偏重、上下競争主義の弊害がここまできた今日、非効率的に見えようとも、癒しや安らぎを得ることのできる時間・空間・仲間のサンマ(3つのマ)を地域や公的な場に広げていくことに力を入れなければならない。このことについて、自著『癒しの生涯学習ーネットワークのあじわい方とはぐくみ方ー』(学文社)で、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つの自己決定の集団の人間関係がもつ癒しの機能の重要性を訴えている。  ぼくは、数年、東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)に年間を通して講師として関わっている。狛プーでは、プータローの自由な精神をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。中心となる活動内容はとくには定まっていない。マルチ商法から狛プーに移ってきて「早く狛プーに出会えていればよかった」といっている若者が、「狛プーはあるがままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」といったことがある。若者にとって、マルチ商法も、「儲けることができる力のある自分」の確認と、「仲間とのおしゃべり」が期待できる場である。わたしたち大人には、これに対抗し、上下同質競争のみずからの価値観を乗り越えて、異質の他者の存在を対等に認めあう水平異質共生の「癒しのサンマ」を、この世にたくさんつくっていく責務がある。  そういうサンマは、個人の内面的な成長にとってどういう成果をもたらすか。それは「無知と非力の自覚と受容」である。じつはこれが、個人と社会との関係、主我と客我との関係を生産的にとらえていくためのポイントになる。つまり、自己確立に向けた望ましい自己客観視と、成長・発達につながると思われるのである。  社会教育の場に関わってきて感じる、ここ1年ぐらいのごく最近の傾向が、「自分らしさを大切にする」、「安心できる仲間と出会う」などの、これといった活動目的がない学級・講座に若者を含めて多くの人びとが応募する状況である。過去のコミュニティが崩壊し、活動目的のはっきりした機能集団にしか帰属感をもたなくなった人たちが、あらためて他者との出会いや自己への気づきそのものを求めるようになってきたのであろう。これを社会教育より先行して吸収しようとしたのが、営利目的の自己啓発セミナーや新・新宗教などなのだろうが、それにはあわないと考える人たちが地域活動や公的な場に「癒しのサンマ」を求め始めているのだ。  このサンマは、今日の上下同質競争の社会においては、いまだ突出的な存在といわざるをえない。しかし、そういう自他受容と自己変容が両立するサンマにおいてこそ、対抗文化としてのいきいきとした若者文化が育まれるのである。